2012年5月30日水曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(9)



9.吉野山の桜-2
中千本の公園付近で昼食を摂った後、徒歩で近鉄吉野駅方面へ向かう。とにかく中千本の中心地は旅館・土産物屋・食事どころが軒を連ね、この時間人で身動きも出来ないほどだ。上千本から下ってきたクルマもここで操車場の方に向かわされ、そこからはバス道を行くしかない。中千本・下千本の桜を車中から愛でることはほとんど叶わないのだ。
ここからのルートは、先ず紀伊山地の山岳信仰三大聖地(吉野・大峯、高野山、熊野三山)の一つ金峯山寺(きんぷせんじ)を拝観し、ケーブルカーの山上駅を経由して、下千本の七曲の坂道をくだって、吉野駅に至るものである。
金峯山寺は、国宝の蔵王堂(本堂)の修理が完了し3月半ばから6月初旬にかけて本尊の権現立像(木造三躯;重要文化財)がご開帳されている。近鉄等が新聞やTVでこれを宣伝していたので、この旅のハイライトの一つだった。
雑踏を抜けたところに、山中には珍しくチョッと開けた土地があり、五重塔を含む数棟の大きな建物がある。そこが金峯山寺、本堂前の桜は既に葉が大分出ている。拝観料を払って中に入ると、お坊さんによる講話か祈祷が行われており、ご本尊前の畳席は人でいっぱい。周回路はそれほどでもないが、そこからは三躯の内の左右二躯の一部が見え隠れするだけ。講話が終わったタイミングで畳席の最前列まで行くと、やっとご尊顔を拝見することが出来た。火炎を背負い、大きな口を“グアッ”と開け、怒髪は天に向かい、片足を踏み出すような姿は、どこか仁王と似ているところもあるものの、全身が青色に塗られているので、他にはない独自のもの。確かに一見の価値あるものだった。
南朝の名残に別れを告げ、下千本の中を曲がりくねった道を下って最後の観桜を楽しんだ。ここまで降りてくると大方は葉桜になっているが、それでも種類が違うものが混じり、満開がある一方で、ハラハラと落花して道をピンクに染めているものなど、さすが桜の名所、多様な楽しみ方が出来ることに関しては、ここに勝るところはなかろう。
山間の吉野駅はもう帰りの人達で混雑が始まっていた。
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(次回;高野山への道)

2012年5月27日日曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(8)



8.吉野山の桜-1
吉野の桜は既に秀吉の時代から有名で、文禄3年(1594年)、5千人の家臣を引き連れて、花見をしたと言われる。西北から東南に伸びる吉野山はほぼ8kmの長さ、「一目で千本」見えることから、下千本、中千本、上千本、奥千本と見所が名付けられている。単純に計算すれば四千本になるが、実際には200種三万本が尾根から尾根、谷から谷へ続いているのだ。
当初の予定は吉野山駐車場で車を預け、そこからケーブルカーの吉野山駅まで歩き、奥千本行きのバスに乗って一気に終点まで行って、下りながら桜見物するものだった。しかしこの案は上の駐車場が満車で実現不可能。下の仮駐車場は近鉄吉野駅から400m位離れている。とにかく駅まで歩かないことにはスタートできない。そこからの選択肢は路線バス、ケーブルカーそれに七曲と言う坂を徒歩で登るかであるが、下から徒歩はとても考えられない。幸い吉野駅に着くと中千本操車場行きのバスが次から次と出ており、その列に並ぶと運よく座ることが出来た。曲がりくねった道を登るにしたがい左右に見事な桜が見えてくる。車内は興奮状態だ。
操車場は中央公園付近にあり人でごったがえしている。どうやらこの辺りが吉野山全体の中心地らしい。そこから階段を少し上がると奥千本へのバスが出ているというので行ってみると長蛇の列。奥千本まで行くことは諦めて上千本を上へ歩くことにする。上りは辛いが、見事な桜に励まされながら、休み休み歩みを進めていく。
問題はクルマである。道はかなり規制されているものの(土日は禁止だが、平日は部分的に一方通行で走れる)、混雑する山道にタクシーや自家用車が乗り入れているのだ。地元のタクシーはそれでも要領を熟知しているので何とかなるが、自家用車は止めるところも無く動きもとれなくなってしまう。歩行者の咎めるような目つきに晒され、向こうも観桜どころではないのだ!このあたりは地元ももう少し考えるべきだろう。
操車場近くからスタートして約1時間、展望台を経てようやく上千本の上限、吉野水分神社に着く。この間の桜は、あとで歩いた中千本・下千本も含めて、最高の開花状態だった。フウフウ言いながら来た甲斐があった。
時間はお昼時。近くに桟敷席の有料休憩所があるが、碌な食べ物しか無い。それも値段が高い!桜を愛でながら中央公園まで降れば、食堂や売店もあるので少しはましな物にありつけるだろう。売店兼食堂の一つでこの辺一帯の名物、柿の葉寿司を求め、歩道から山の傾斜地に踏み込み、一本の山桜の下に休憩スポットを探し昼食とした。時刻は1時近かった。
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(次回;吉野山の桜-2

2012年5月24日木曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(7)



7.カーナビ異変
419日、空はすっきり晴れ渡っている。天気予報は午後から曇りと言っているがそれを窺わせる気配は全く無い。朝食前にホテル周辺を巡ってみて風もほとんどない。当に観桜日和である。気がかりは吉野の駐車場確保くらい。前夜フロントで確かめると「平日ですから10時頃までに着けば大丈夫でしょう」とのこと。距離は50キロ足らず、時間にして1時間半みておけば先ず間違いない。8時チェックアウトを目安にした。
地下駐車場を出たのは815分。その前にカーナビをセットした。奈良盆地は南北に長くそこには日本の古代~中世の歴史が随所に刻まれ、飛鳥、斑鳩、畝傍、藤原(宮)、高松塚などなじみの名前が、奈良と吉野を長辺とする一枚の地図の中に納まってしまうほどだ。このような背景もあり、この地域の道は大まかに見て東西南北碁盤目状に走っており、南北の幹線路は国道24号線と169号線ということになる。中でも24号線は古くから和歌山と京都を結んできた道、和歌山工場時代よく利用した道路である。つまり分かりやすい道ゆえカーナビの助けは本来不要と考えていた。唯一期待したのは吉野山周辺の案内である。
目的地を“吉野山”と入れると候補地の中に“吉野山駐車場”がずばり出てきた。“ここへ行く”と押すと道順が示され、プロフィルを確かめると24号線や169号線が示される。頭にあるのは24号線を南下、この道が五条方面に南西に向かうところで169号線に入り真っ直ぐ南へ向かい、吉野川にぶつかるところで東に転じて吉野口に至るルートである(地図上のピンク)。プロファイルをザーッと見た印象もそのようになっている(確り確認していない)。
混乱のスタートは地下駐車場から始まっていた。カーナビには駐車場内での複雑な方向転換は全く理解できない。妙な指示を早くも始める。入口と出口が異なるためこちらも方向感覚が鈍っている。双方の不信感がここから生じたようだ。
地下を出ると「左です」と言う(右に行きたいが・・・)。これは前が4車線の広い道だから納得。案内通り左折し直進。これが南北に走る道であることは太陽の位置からも分かる。しかし24号線に出るにはどこかで右折する必要がある。しばらく行くと三叉路(直角ではない)に出た。カーナビは左を指示して来る。「ウン(右じゃないのか)?」 瞬間、無視して右へ向かった。カーナビは元へ戻るよう道順を示す。運悪くここらの道は碁盤目状ではない。感覚だけでホテル方面と思う方向へ走っているとカーナビ案内は沈黙、地図の動きが止まってしまった。仕方なくコンビニの駐車場に入り、ここでセットをやり直した。出発点こそ異なるものの同じルートが示された。何とかホテル周辺に戻り、先ほどと同じ道を南へ向かう。三叉路で、こんどは指示通り左へ方向を採ると、直ぐに右折の指示が出る。この段階でカーナビの意図が理解できた。それは最初から169号線を南下するルート(地図上青)を選んでいたのである(でも何故24号線が出たのだろう?)。
実はコンビニでセットしたあと進行方向を示す矢印が上向きでなくなっていた。こんなことは初めての経験である。これもカーナビ不信に輪をかけていた。しかし、169号線を直進すればいずれ吉野川に行き当たる。道路標識と感覚で何とかなるだろう。やっと気分も落ち着いてくる。しかしである。15分くらい走ったところでカーナビが右折を指示してきた。「エッ(何故直進でないのか)!?」 先の混乱に懲りたのでここは指示通りに右折。次いでに細い道に左折(おかしいな?)。さらに左折(絶対おかしい!)。また左折!169号線を北上し始めている!来た道を戻っているのだ!カーナビの案内を止めることも考えたが、それはいつでもできるので、しばらく指示通り走ってみることにした。するとたどり着いたのは24号線の一部が自動車専用道になっている郡山南ICであった。169号線をひたすら南下することが頭にあったのでどこかで指示を見落としていたのだろう。この自動車道で一気に橿原北ICまで達し(この間は24号線が二本ある)、ここから169号線に戻ることが出来たのである。最初に確りルート確認を行わず、大昔の経験と勘を信じて走った咎は大きく、30分くらいのロスを生じてしまった(結局走ったのは、地図上の緑のルート)。
トラブルはこれで終わらなかった。169号線は吉野川に突き当たり川の北側を東進する。吉野山に行くにはどこかで川を渡る必要がある。西から、美吉野橋、吉野大橋、上市橋、桜橋とあり、吉野大橋がメインである。しかし、カーナビは一番西にある(近い)美吉野橋を渡るように言ってくる。信号で止まったとき見ると進入禁止とある。よく見ると土日だけとわかり右折。狭い!完全に一車線だ!とにかく向こうから来ないので進入する。山と川に挟まれた狭い土地にへばりつくような集落の中の一段と狭い道を進むと山に分け入るさらに狭い道へ導いていく。木立の山中を「対向車が来たらどうしよう!?」そんな思いだけでソロソロと上っていった。10分くらいすると前が開け広い道路に行き当たった。しかしたどり着いた道の前にオレンジ色のパイロンが並べられ、この道との往来を遮断している!(幸い)通行止めだったのだ!赤い蛍光ランプを持った交通整理のオジサンがこちらを(こんな道は登ってくる奴がいるのか!?と)びっくりしたよう見つめ、飛んでくる。
吉野山駐車場は既に満車、二車線の道だが大型バスが曲がるには片側通行しか出来ないのでそのための交通整理をしているのだという。パイロンを動かしてくれたオジサンの指示に従い、下の近鉄吉野駅に近い臨時駐車場に着いたのは10時を遥かに過ぎていた。カーナビ無しで来ていたら9時半には着いていたに違いない。この日のカーナビとの相性の悪さはこれで終わらなかった。
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(次回;吉野山の桜)

2012年5月20日日曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(6)



6.久し振りの奈良観光-2
奈良は吉野・高野・龍神への中継点の役割しか期待していなかった。初日の長距離ドライブの休息地であり、この旅の本命、吉野への前進基地である。それ故宿の選択に特別な要件が在った訳ではない。普通の都市型ホテルで、交通や外食の便がよく、値段がまずまずの所、と言う程度である。チョッと頭にあったのが、一度だけ和歌山工場時代、三重まで来ていた高校時代の友人と会うため国鉄奈良駅で待ち合わせをしたことである。その結果決まったのがホテル日航奈良だった。
場所はJR奈良駅西口。下二階はショッピングアーケードで駅に繋がる回廊があるほど近い複合ビル、三階から上がホテルになっている。ロビーは広く、その点では機能優先のビジネスホテルよりゆったりした雰囲気だ。対応してくれたのは日本語を話せる外人(欧米人)のフロントマンだった。「さすがに国際観光都市だけのことはあるなー」これが第一印象である。「あなたのご予約になった宿泊プランには、奈良市内一日乗り放題のバス券が付きます。今日にしますか、明日にしますか?」 そんなことならチェックインをしてから市内観光をすればよかった!後の祭りである。明日は吉野へ向かうので、仕方なく今日の日付のものをもらう(購入すれば700円/人)。
シャワーを浴び、一休みして食事に出る。繁華街のホテルに泊まるのは宿・食分離のためである。コンシュルジュから情報をもらい、ここよりは賑わう近鉄奈良駅周辺へ行くため東口のバスターミナルに向かう。線路も駅も高架になっており昔の面影は全く無い。西口に比べ東口はかなり開けており、駅からは少し離れた広場の一角にお寺のような妙な建物がぽつんと一棟建っている。「もしやこれがかつての駅舎ではないか?」そんな思いでそこに行ってみると、“奈良市総合観光案内所”の看板がかかっているだけである。何か無いかと建物の外周を探って見ると“通商産業省認定産業遺産”と記された真鍮の銘板が見つかったが“駅”とは書かれていない。釈然としない気分を残しながら、乗り放題券を利用して近鉄奈良駅に向かった。バスストップで三つくらいだが料金は200円だったから、フルに一日使ったら随分お得である。
近鉄側はJRに比べ遥かに賑わっている。丁度サラリーマンの退け時、それに近くにある奈良女子大生の下校が重なって駅周辺は活況を呈していた。ホテルで聞いた“地場の食材を生かした和風”の店はこことJR駅との中間点なので、しばしここら辺を探訪し、面白そうな店が見つかれば入ってみよう。こんな考えでアーケード街をぶらつくことにした。
和洋中華なんでもあり。ひと筋目のアーケードを抜け、その東側を並行する二筋目を歩いているとき、家人がガラス張りの向こうでピッツァを焼いている店先で立ち止まった。「和風の予定じゃなかったのか?」と問うと「これから二晩和風でしょ」と返ってきた。確かに高野は宿坊の精進料理、龍神は温泉旅館である。イタリアンは好物。これで決まりである。
店は一階がカジュアル、二階はコース料理とのこと。少し待つようだったがコースでいくことにする。40人ほどの席がある二階は落ち着いた雰囲気で、ピアノをモチーフにしたモダンな絵がいくつも飾られている。店の名は「Piano」。客は地元の人が多いようだし、馴染みらしい若い外国人のカップル(女性は多分欧州人)もいて、観光客相手の店でないのも好感が持てた。
コース料理は幾種類かあったが、アンティパスト・パスタ(菜の花をあしらったピッツァが土地と季節を感じさせてくれた)・メイン・デザートを選んだ。味は申し分なかったが、料理が運ばれるタイミングにやや難があった(早すぎたり遅すぎたり)。それでもビール、ワインも飲んで(これは一人だが)二人で約8000円はリーズナブル。良い店に行き当たった。
帰りは再び乗り放題券でJR奈良駅まで戻る。バス停からホテルへ向かう道すがら、飲み会帰りのサラリーマンが例のお寺のような建物を「あれが昔の駅なんだよ」と仲間に説明していた。やはりそうだったのだ(後で調べると昭和9年完成の二代目駅舎)。
最後は最上階の大浴場で夜景を見ながら締めくくった。奈良観光は付け足しのつもりだったが、予想外に愉しい時間を過ごせた。
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(次回;カーナビ異変)

2012年5月16日水曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(5)



5.久し振りの奈良観光
奈良へは中学・高校の修学旅行で来ているほか、和歌山工場時代に何度か訪れている。つまり最も直近でも40数年前と言うことになる。それもほとんど日帰りのドライブ行である。従って街の変わりようを記憶に留めることはなかった。比較の対象は60年近く前の修学旅行だけである。
中学の時は伊勢神宮を参拝してから関西本線(蒸気機関車の牽引だった)で、高校の時は京都から宇治経由でバスだった。観光先で記憶に残るのは二度とも大仏と法隆寺、外から校倉造を見た正倉院、それに若草山くらいである。高校の時は天気が悪く、若草山の周辺はドロドロだったことだけは憶えている。
今回は晴天。午後の陽光は明るく、遅咲きの桜が奈良公園のいたるところに残り、ボツボツ草木は新緑が芽を吹きだしている。高層建築が少なく自然との調和が素晴らしい!京都が歴史的人工物溢れる古都であるのに対して、ここは当に往時の景観をそのまま今にとどめる古き都と言える。京都がパリならば、奈良はフィレンツェと言うところだろうか?奈良がこんなに美しい都市であることを初めて知った。
登大路の駐車場から大仏殿までは徒歩で10分程度。水路や土塀が残る道を辿ってのアプローチも風情がある。中門付近に至るとやはり修学旅行や団体旅行が目に付くが、平日のせいか境内はさほど混雑していない。
広い緑の前庭が大仏殿をひと際クローズアップする。大仏様のご尊顔を拝観し裏へ廻ると、中国人団体客が柱の穴くぐりに興じていた。
次は、緑と桜に覆われた奈良公園内を横切って春日大社に向かう。ここはチョッと距離があり20分くらい。途中、所々で神鹿と行き交うが全く人を恐れない。やがて高い木々に囲まれた参道に入る。開けた一角に在る、朱塗りと白壁の神殿や回廊が西日に映えて眩しいほどだ。
ここから、本来ならばバスを利用するほどの距離だが、陽気も良いので表参道を通らず公園内の小道を下り、鷺池・荒池を経て興福寺に向かう。池の先に五重塔が見えてくるが、風景の中にビルが全く入ってこない。ここら辺が京都と違うところだ。下りとは言え30分強時間がかかり、さすがに興福寺に着いたときは疲れがどっと出てきた。
到着したのは4時過ぎ。もう閉館時間も間近い。興福寺の本堂が修復中であることは事前に知っていたので、五重塔をデジカメに収め、国宝館へ直行した。
暗い回廊形式の小博物館。団体客は居たものの、遅い時刻が幸いし、“人垣の後ろから”というような混雑は無く、国宝の仏像の数々をゆっくり鑑賞できた。何と言ってもここのスーパースターは“阿修羅立像”、眉を顰めて何か苦悩するような少年の表情は、悪魔から転じた心の翳りを表すのだろうか?実はここで本物を見るまで、その顔が三面あることを知らなかった。裏の二面は横顔しか見えないが、少し表情を変えながら、やはりしかめっ面をしていることを写真で知った。
初日と最終日は移動が主体となる。それでも今回は道路事情にも恵まれ、2時半から5時前まで三ヶ所を訪れることが出来た。見所はまだまだ在るし、奈良観光を目的に再訪したいとの思いが沸いてきた。
興福寺の裏門から登大路の駐車場は直ぐだった。ここの駐車場は時間制ではなく1日単位である(千円)。広く、止めやすく、観光スポットへのアクセスも良く、おまけに県警本部が隣接する。長時間駐車で観光するには最適の駐車場だ。
帰宅ラッシュが始まる時間、カーナビの案内で5JR奈良駅西口に在るホテル日航奈良にチェックインした。本日の走行距離、468.2km、計画(476.1)との差は県道80号線の効果だ。
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(次回;久し振りの奈良観光-2

2012年5月13日日曜日

歴史街道を行く-吉野・高野山・龍神を走る-(4)



4.予期せぬ奈良への道
新東名から東名へ戻るのは新設の三ケ日IC。一段とトラックが増え、2時間近い快適な運転がここで絶たれる。しかし、しばらく道そのものは単調なので、このルートで一番複雑な豊田JCT手前まではナビの力は不要だ。直前の美合PAまで頑張ることにする。実は自宅を出たときから、地図と音声案内を適宜活用するために、カーナビに目的地設定はしないものの、電源だけは生かしておいた。地図の更新がされていないので新東名は対応できず、既存の一般道路といたるところで案内ロジックが混乱を起こしていた。
美合PAでセットしたのは東名阪道終点、亀山PAである。一気に奈良としなかったのは、自宅のPCでナビタイムを用いてルート探索を行うと、名神あるいは新名神を選び、瀬田東JCTで京滋BPに分かれ、京奈和道を経て奈良に北の方から入る道を選んでくるからである。このルートは時間的には早いのだが、東名・名神は東西を結ぶ最も交通量の多い幹線路、気持ちの安まるところが無い。大都会の無い名阪道に比べ運転の楽しみは激減する。亀山PAのセットはこの名神・新名神を避けるルート選択の要件なのだ。
美合PA出発は11時丁度。スパゲティ状の豊田JCTを間違いなくパスし、この地方の産業道路として車両の出入りが多い伊勢湾岸道路をタイムリーな車線変更で通り抜け、東名阪に出るのに、カーナビが期待通り大いに役立った。亀山PA到着は1210分。さほど大きくないレストランは昼食時で大賑わい、何とか席を見つけて天婦羅うどんにありついた。
ここから奈良への道程は、自分の案としても、ナビタイムのルート選択としても、天理ICか郡山ICで下りて一般道(169号線か24号線)を北上するものだった。奈良市内の目的地を東大寺周辺にすると天理ICから169号線を選んでくるので、予め通知してあるチェックイン時刻(5時)には充分余裕があることから、大仏殿駐車場を目的地としてルート探索を行った。結果は予期せぬものだった。
その道筋は、和歌山工場勤務時代から何度も通った名阪自動車道だが、名前を全く覚えていない山添ICで下り、奈良県道80号線をひたすら西へ向かうものだった。この道を採ると天理や郡山のような大きな町を経ずに、東から直接奈良の中心部に入り込んでいく。無論距離は最短距離、奈良盆地は南北に長いが、東側は直ぐ近くまで山地が迫っている。盆地内の平坦で代わり映えしない幹線道路を走らなくて済むのが良い。
亀山からの名阪道は早くに無料の自動車専用道路として建設されたものだが、未だに産業道路的な性格は希薄で、過疎で山がちな地形の中の運転を楽しめる。
山添ICで下りると県80号線は期待以上の道だった。交通量は極めて少なく、下りたとき前を走っていた奈良ナンバーの大型ベンツ(Sクラス)に適度に距離を置きながら、奈良市内まで追従できたほどである。アップ・ダウン、曲がりも楽しめる山道。ときどき村落が現れ、遅咲きの桜並木からハラハラと花吹雪が舞う。長閑な午後のドライブを、名阪道と合わせて2時間ほど続けて、220分県庁前の登大路駐車場にたどり着いた(大仏殿駐車場は満車)。
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(次回;久し振りの奈良観光)

2012年5月7日月曜日

歴史街道を行く-3-吉野・高野・龍神を走る-



3.新東名を走る
4月になると気温は寒い春を脱し、一気に平年並みからそれ以上に上がった。第一週、近隣のどこの桜も満開になった。出発の週吉野を調べると、下千本は散り始め、中千本が満開、上千本も数日後には満開と予想していた。計画通りだ。
18日(火)幸い天気は晴れ、720分頃自宅を出た。今日の行程は約480km7時間弱の予定である。自宅近くの横々道路堀口能見台で自動車道路に入ると名阪天理ICまで一般道は走らないルートを想定している。何度も利用し、全体にトラック街道で、海に突き出た由比付近と浜名湖北の三ケ日サーヴィスエリア(SA)辺りを除けば、あまり面白味のない道筋である。しかし、今回はこのルートに初めて走る道が選択できることになった。新東名自動車道である。開通は4日前の414日、出来立てほやほやの道だ。新聞記事、TVのニュースそれに日本道路交通センター(JARTIC)の道路状況表示をチェックしながらこの新道の交通状態を調べていると、かなり走り易そうだ。往きは平日でもあるから物見遊山でこの道を走るクルマも少ないだろう。カーナビの地図はこの新しい道に対応していないので、旧道と交わった後でセットすることにして走り出した。
保土ヶ谷バイパス(BP)はいつものように東名横浜町田ICに出るまで三車線びっしりで渋滞が続くが、東名に入ると交通量は多いものの流れは速い。秦野中井と大井松田の間にある自動取締器を意識しなければならないほどのスピードで皆飛ばしている。当初の予定では、最初の休憩は新道の駿河湾沼津SAを想定していたが、順調に走ってきたこともあり、時間の余裕があるので足柄SAでとることにした。8時半到着である。富士山が美しい。
ここを発つと間もなく新東名に分かれる御殿場ジャンクション(JCT)になる。左車線をとるように案内が出てくるので、それに従って進めば自然に新しい道に入っていく。いよいよ未知の世界だ。こちらの方が混むと思っていたが、トラックはほとんど旧道を行く。駒門SAのところで、旧道が海側へ新道が山側へと位置を変える。高さも新道が高くなるので、東南の方向遥か先に沼津近辺の平地が望める。間もなく当初休憩予定の駿河湾沼津SAだ。
しかし、導入路には“満車”のサイン!走行していた車の少なさと平日の午前からは信じ難い。とにかく入ってみると、確かに駐車場はいっぱい!警備員のオジサンが交通整理をしている。出て行く車はほとんど無い。眼下に駿河湾や伊豆半島を見渡せる絶好の観光場所、これが目的で来ている人が多いようだ。大型車の駐車場を見ると大分隙間があるが上手く入り込めない。足柄で「もしや」と思い、用足しはしておいたので、仕方なく本線に戻る。
次のSAは新静岡。ここは四方を山に囲まれ景色は全く優れない。それもあって回転が速く、直ぐにスペースを確保できた。施設内はまるで最新のショッピングセンターのようにきれいだし、商品の陳列もなかなかセンスがある。ここで息子宅へのお土産として二種類のわさびドレッシングを購入した。
新東名は100km/hを超すスピードを前提に設計・建設(道幅・曲率・照明など)されている。前後の車と調子を合わせていると直ぐにオーバーしてしまう。それも気付かぬうちにである。しかし、当面静岡県警は重点的に取締りを行うことを宣言していた。始めは自動取締器もあるかと思っていたが(これは事前警告があるはず)それはなかった。パトカーが走っていたが覆面ではなく、バックミラーで遠方からも確認できる、白黒で塗り分け天井にパトライトを着けている(とは言っても最初は駐車違反取締りの軽パトのように見える)ので良心的(?)である。
やがて三ケ日JCTで旧道と合流、一気にトラック街道に変じてしまう。そこから先の豊田JCTまでの工事はあと4,5年かかるようだし、御殿場・海老名間の完成予定は2020年、私は81歳になっているから、一気通貫でこの快適なドライブを楽しむチャンスは味わえないだろう。
東名に戻り最初の休憩を美合(みあい)PAでとり。ここで初めてカーナビを生かすことにした。目的地は亀山SAである。昼食もここで摂ろう。
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(次回;予期せぬ奈良への道)

2012年5月2日水曜日

今月の本棚-44(2012年4月分)



<今月読んだ本>
1)鈍行列車のアジア旅(下川裕治);双葉社(文庫)
2)反・幸福論(佐伯啓思):新潮社(新書)
3)人物破壊-誰が小沢一郎を殺すのか?-(カレル・ヴァン・ウォルフレン);角川書店(文庫)

<愚評昧説>
1)鈍行列車のアジア旅
ここのところ紹介が続いている、下川裕治の旅行記の一つである。今までのものが遠方に目的地を定めて、それに向かって旅する道中記であったのに対し、今回はアジア各国の鈍行列車による、短い旅の記録である。その点で冒険旅行的なスリルは減ずるものの、生活との密着度が高まり、この作家の本来の観察眼が生かされている。
取り上げられるのは、マレーシア、タイ、ヴェトナム、台湾、韓国、フィリッピン、中国(二ヶ所;北京→上海、旧満州)。わが国と関係が深い国ばかりなので、国際社会を理解する一助として読むのも面白い。
総じて言えることは“鈍行列車の衰退”である。特に長距離は高速鉄道・空路(スピード)やバス(価格)に取って代わられ、窓口で駅員から「何故鈍行で?直通はないので何度も乗り換えることになるよ?」と問われながら切符を入手するシーンさえ見られる。この“衰退”は鉄道本体ばかりではなく、宿泊場所などにも及び、列車の終着駅(最終目的地ではない)に着いても宿が見つからない事態も生じたりする。
一方で経済発展に伴い、この鈍行列車が通勤・通学の手段に変じ、運行区間や車両をそれに向けて整備してゆく流れもある。この辺の事情を知らずに弁当を持って乗り込み、その処置に困るような話もあり、「こんな旅のヴェテランでも!」と思わず笑ってしまう。
“(鈍行)列車に乗ったら(動き出したら)弁当を食う”は、内田百閒(阿房列車など)、團伊玖磨(パイプのけむり)、宮脇俊三(一連の鉄道物)など、鉄道好きの随筆家によって頻繁に取り上げられる話題だが、この本もその例外ではない。そして、そこにはお国柄が確り残っている。ホーチミン(旧サイゴン)からハノイへ向かう車中(北ベトナムに入ってから)、車内販売で暖かいご飯やホー(ヴェトナム麺)それにおかずがジャーから供される場面が出てくる。読み進むうちに口の中に唾液が満ちてきた。
文庫本にも拘らず、写真(カラーを含む。そして車内食も)が多いことも、この本を楽しくしている。
来月もこの人の本を紹介します。乞御期待!

2)反・幸福論
書店で平積みになっている本書を見て目を惹かれた。幸福論ではなく“反”・幸福論だったからである。
入社した頃(丁度50年前)ある先輩から「幸福って、つまるところ相対的なことだからね」と聞かされた。「なるほど」と思いつつ、物質的に欧米に著しく遅れていた時代、これに感得したわけではなかった。爾来この“幸福相対論”は、賛否はともかく、片時も頭を離れることは無い。
もう一つ、少し視点は違うが若い頃(学生時代)目にした言葉で忘れられないのが、チャーチルの半生記(ボーア戦争終了時までの前半生)に出てくる「戦争が残酷になってきたのは徴兵制(大衆参加)が布かれてからだ」(正確なものではなく主旨として記憶)と言う発言である。いかにもエリート階級出身者らしい発想である。これを見たとき何故か“大衆(あるいは平等)化=競争激化”を連想した。テニスやスキーがエリートの遊びの延長線から開放されると殺伐とした混雑がつきものとなった。教育における競争然り。その後のマイホームブームも狂乱としか言いようが無かった。新興国が興隆するにつれビジネスも国際政治も熾烈な競争が激化する。物質的には豊かになっても幸福とは感じられない。つまり、経済的な豊かさで幸福を実現しようとするときりが無いのである。どうやら“相対論”は正しかったようである。
この本ではこの物質的豊かさ(経済の発展)も無論取り上げられるが、それと併せて重きを置くのが“自由”と“平等”についてである。国家(権力)から、ムラ社会から、イエから解放される(縁を切る)ことが戦後リベラリズム(世論の主流)の目指す社会であり、それこそが幸福の重要な因子であった。結果何が起こったか?孤独死に代表される無縁社会である。いまこの無縁社会が(“自由”を推進してきた)世論によって批判されている。野放図な“自由”が幸福に繋がらないことが自明になったのである。縁(不自由)の在る社会(共同体)だからこそ“自由”も意味を持つ。“平等”も“違いを認めない”方向でやってきたがこれも種々の弊害が現れてきている。「格差是正など大いなる欺瞞」と喝破している。
戦後の日本が目指した幸福社会、“経済的な豊かさと自由・平等”を一度根源から見直してみよう、これが本書の“反”・幸福論の要旨である。
著者は経済学専攻の哲学者(京大教授)。死生観(孤独死こそ本来の死に方)など説く一方で、確り政治経済にも切り込んで(過度な市場開放論への批判など)、精神論ばかりではないこの国の在り方(平和憲法を批判し、国防の重要性を訴えるなど)や生き方を提言しているので、清貧物や武士道物と比べ納得感がある。

3)人物破壊-誰が小沢一郎を殺すのか?-
この本の読後感を書く前に、私の小沢一郎観を書いておくことが必要だろう。それがこの本を買う動機だったのだから。
小沢一郎を好きなのかと問われれば、「好きではない(特に政治スタイル)」と答えるだろう(また政策にもかなり同意できない;国家安全保障に関する“国連中心主義”など)。しかし、それでも“現在の日本を変えることの出来る唯一の現役政治リーダ”だと思っている。それだけの実力があるだけに、何とか彼を排除しようとする反作用力も強く、その結果が今日の小沢の評価・立場につながってきているのだ。これについては多くの異論・反論があるだろうが、それは一先ず置いて欲しい。
著者のウォルフレンはオランダの政治ジャーナリスト。1990年に出版した「The Enigma of Japan Power(邦訳 日本/権力構造の謎)」で一躍日本研究者として有名になった人。私は邦訳が出る遥か以前に原著を読み「これは凄い本だ!」との印象を持った。当時バブルの末期、まだ“Japan as No.1”の余韻が残る時代。日本の強さの遠因は「何処に国家戦略や国策の決定的因子が在るのか分からないこと」とした結論がユニークだった。その内容は;決して主権在民でない(つまり国会や内閣に力が無い)。どうやら独特の官僚機構が最も強い決定力を持っているようだが、何処で、誰が決めているのかはっきりしないし、責任も明確でない。いずれのメディアも内容は大同小異で変わり映えしないが、影響力は大きい。日本の権力構造は何処に芯があるのか謎で、まるで暗号解読器(Enigmaは第二次世界大戦でドイツが使った暗号作成・解読器)を扱うようだ;との要旨だった。
今回も基本的にこの研究結果を援用する格好で、一連の小沢訴訟の異常性を取り上げる。先ず訴訟の対象となった西松建設事件や不動産売買記帳ミスが、小沢本人があれほど叩かれる内容ではないことを、欧州政治や自民党政権時代の事例から説明。それをメディアが執拗に取り上げることの背景を分析。さらにその裏に守旧勢力、特に官僚機構、中でも検察の保守的な隠密・無謬体質があることを明らかにしていく(こんな(大)事件に今まで検察審議会など持ち出すことが無かったのに今回突然出てきた)。しかし、検察が強気に出るのは検察だけの見解ではなく、広く日本(そして一部アメリカ;日本を保護国扱いのレベルに留めたい)の権力機構に“秩序維持”の風土が出来上がっており、これが検察を後押ししているとの見方である。つまり、小沢だけが現状の秩序維持体制を変革する勘所(官僚を使いこなす)を熟知しているので恐ろしい。だから何としても排除しようとしているのだと。
だからと言って官僚たちが談合してこの“人物破壊(Character Assassination)”を進めているわけではなく、言わばウィルス侵入対して免疫系が働くように、自然にそれが起こっているところに日本社会の特殊性があるとの見解である(画策無き陰謀)。ここら辺の見方は、私には妙に説得力があった。ビジネスマンの世界でも、アクの強い実力者より不満ミニマム型リーダが比較的良いポジション占める傾向を多々見てきたからだ。ムラ社会ではこの方が長(オサ)として納まりがいい。
外国人が他国の特定テーマを論ずるとき、歴史やデータをニュートラルな目で追う手法をとることがある。ここでもそれが随所に見られ、勉強になった。
例えば、“明治維新は革命ではなくクーデター(権力の入れ替え)であった”とする見方を採っている。それ故にもともと主権在民と言う考え方は無く、為政者(権力)と帝国議会(国民)の在り方更には官僚との関係が市民革命を経てきた国家とは違っているというのである。第三代総理山縣有朋の時、議会・議員の力が官僚に及ばぬよう人事権を議会から取り上げ、枢密院に移して「勅令」とするように改めている。その方式が実質的に今に引き継がれているのだという。また、検察が起訴した場合の有罪率が99.9%という他国では信じられないような高い割合である。これは実質上検察が裁判官の役割も果たしているに等しいと断じている。
この本の末尾には対談と解説が付いている。対談(ハードカバー版が20113月に出ており、小沢はこれを読んでいる。それを踏まえた対談である)は著者と小沢が自由報道協会(記者クラブに属さないジャーナリストがメンバー)主催で行ったもの。通常のメディアは知らされていないこと(例えば検察審査会の誕生と歴史;占領下のアメリカが提言、検察はこれに反対するが押し切られる)が種々紹介され、なかなか興味深い。
解説は旧大蔵省で財務官を務めた榊原英資、言わば官僚中の官僚、が検察の異常を語る件や野田政権を批判するところがありこれも面白い。
無罪判決が出た今、依然メディアや野党(そして与党の一部も)は小沢の人物破壊を執拗に続けている。それほど“恐い人物”なのだ。

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