<今月読んだ本>
1)鈍行列車のアジア旅(下川裕治);双葉社(文庫)
2)反・幸福論(佐伯啓思):新潮社(新書)
3)人物破壊-誰が小沢一郎を殺すのか?-(カレル・ヴァン・ウォルフレン);角川書店(文庫)
<愚評昧説>
1)鈍行列車のアジア旅
ここのところ紹介が続いている、下川裕治の旅行記の一つである。今までのものが遠方に目的地を定めて、それに向かって旅する道中記であったのに対し、今回はアジア各国の鈍行列車による、短い旅の記録である。その点で冒険旅行的なスリルは減ずるものの、生活との密着度が高まり、この作家の本来の観察眼が生かされている。
取り上げられるのは、マレーシア、タイ、ヴェトナム、台湾、韓国、フィリッピン、中国(二ヶ所;北京→上海、旧満州)。わが国と関係が深い国ばかりなので、国際社会を理解する一助として読むのも面白い。
総じて言えることは“鈍行列車の衰退”である。特に長距離は高速鉄道・空路(スピード)やバス(価格)に取って代わられ、窓口で駅員から「何故鈍行で?直通はないので何度も乗り換えることになるよ?」と問われながら切符を入手するシーンさえ見られる。この“衰退”は鉄道本体ばかりではなく、宿泊場所などにも及び、列車の終着駅(最終目的地ではない)に着いても宿が見つからない事態も生じたりする。
一方で経済発展に伴い、この鈍行列車が通勤・通学の手段に変じ、運行区間や車両をそれに向けて整備してゆく流れもある。この辺の事情を知らずに弁当を持って乗り込み、その処置に困るような話もあり、「こんな旅のヴェテランでも!」と思わず笑ってしまう。
“(鈍行)列車に乗ったら(動き出したら)弁当を食う”は、内田百閒(阿房列車など)、團伊玖磨(パイプのけむり)、宮脇俊三(一連の鉄道物)など、鉄道好きの随筆家によって頻繁に取り上げられる話題だが、この本もその例外ではない。そして、そこにはお国柄が確り残っている。ホーチミン(旧サイゴン)からハノイへ向かう車中(北ベトナムに入ってから)、車内販売で暖かいご飯やホー(ヴェトナム麺)それにおかずがジャーから供される場面が出てくる。読み進むうちに口の中に唾液が満ちてきた。
文庫本にも拘らず、写真(カラーを含む。そして車内食も)が多いことも、この本を楽しくしている。
来月もこの人の本を紹介します。乞御期待!
2)反・幸福論
書店で平積みになっている本書を見て目を惹かれた。幸福論ではなく“反”・幸福論だったからである。
入社した頃(丁度50年前)ある先輩から「幸福って、つまるところ相対的なことだからね」と聞かされた。「なるほど」と思いつつ、物質的に欧米に著しく遅れていた時代、これに感得したわけではなかった。爾来この“幸福相対論”は、賛否はともかく、片時も頭を離れることは無い。
もう一つ、少し視点は違うが若い頃(学生時代)目にした言葉で忘れられないのが、チャーチルの半生記(ボーア戦争終了時までの前半生)に出てくる「戦争が残酷になってきたのは徴兵制(大衆参加)が布かれてからだ」(正確なものではなく主旨として記憶)と言う発言である。いかにもエリート階級出身者らしい発想である。これを見たとき何故か“大衆(あるいは平等)化=競争激化”を連想した。テニスやスキーがエリートの遊びの延長線から開放されると殺伐とした混雑がつきものとなった。教育における競争然り。その後のマイホームブームも狂乱としか言いようが無かった。新興国が興隆するにつれビジネスも国際政治も熾烈な競争が激化する。物質的には豊かになっても幸福とは感じられない。つまり、経済的な豊かさで幸福を実現しようとするときりが無いのである。どうやら“相対論”は正しかったようである。
この本ではこの物質的豊かさ(経済の発展)も無論取り上げられるが、それと併せて重きを置くのが“自由”と“平等”についてである。国家(権力)から、ムラ社会から、イエから解放される(縁を切る)ことが戦後リベラリズム(世論の主流)の目指す社会であり、それこそが幸福の重要な因子であった。結果何が起こったか?孤独死に代表される無縁社会である。いまこの無縁社会が(“自由”を推進してきた)世論によって批判されている。野放図な“自由”が幸福に繋がらないことが自明になったのである。縁(不自由)の在る社会(共同体)だからこそ“自由”も意味を持つ。“平等”も“違いを認めない”方向でやってきたがこれも種々の弊害が現れてきている。「格差是正など大いなる欺瞞」と喝破している。
戦後の日本が目指した幸福社会、“経済的な豊かさと自由・平等”を一度根源から見直してみよう、これが本書の“反”・幸福論の要旨である。
著者は経済学専攻の哲学者(京大教授)。死生観(孤独死こそ本来の死に方)など説く一方で、確り政治経済にも切り込んで(過度な市場開放論への批判など)、精神論ばかりではないこの国の在り方(平和憲法を批判し、国防の重要性を訴えるなど)や生き方を提言しているので、清貧物や武士道物と比べ納得感がある。
3)人物破壊-誰が小沢一郎を殺すのか?-
この本の読後感を書く前に、私の小沢一郎観を書いておくことが必要だろう。それがこの本を買う動機だったのだから。
小沢一郎を好きなのかと問われれば、「好きではない(特に政治スタイル)」と答えるだろう(また政策にもかなり同意できない;国家安全保障に関する“国連中心主義”など)。しかし、それでも“現在の日本を変えることの出来る唯一の現役政治リーダ”だと思っている。それだけの実力があるだけに、何とか彼を排除しようとする反作用力も強く、その結果が今日の小沢の評価・立場につながってきているのだ。これについては多くの異論・反論があるだろうが、それは一先ず置いて欲しい。
著者のウォルフレンはオランダの政治ジャーナリスト。1990年に出版した「The Enigma of Japan Power(邦訳 日本/権力構造の謎)」で一躍日本研究者として有名になった人。私は邦訳が出る遥か以前に原著を読み「これは凄い本だ!」との印象を持った。当時バブルの末期、まだ“Japan as No.1”の余韻が残る時代。日本の強さの遠因は「何処に国家戦略や国策の決定的因子が在るのか分からないこと」とした結論がユニークだった。その内容は;決して主権在民でない(つまり国会や内閣に力が無い)。どうやら独特の官僚機構が最も強い決定力を持っているようだが、何処で、誰が決めているのかはっきりしないし、責任も明確でない。いずれのメディアも内容は大同小異で変わり映えしないが、影響力は大きい。日本の権力構造は何処に芯があるのか謎で、まるで暗号解読器(Enigmaは第二次世界大戦でドイツが使った暗号作成・解読器)を扱うようだ;との要旨だった。
今回も基本的にこの研究結果を援用する格好で、一連の小沢訴訟の異常性を取り上げる。先ず訴訟の対象となった西松建設事件や不動産売買記帳ミスが、小沢本人があれほど叩かれる内容ではないことを、欧州政治や自民党政権時代の事例から説明。それをメディアが執拗に取り上げることの背景を分析。さらにその裏に守旧勢力、特に官僚機構、中でも検察の保守的な隠密・無謬体質があることを明らかにしていく(こんな(大)事件に今まで検察審議会など持ち出すことが無かったのに今回突然出てきた)。しかし、検察が強気に出るのは検察だけの見解ではなく、広く日本(そして一部アメリカ;日本を保護国扱いのレベルに留めたい)の権力機構に“秩序維持”の風土が出来上がっており、これが検察を後押ししているとの見方である。つまり、小沢だけが現状の秩序維持体制を変革する勘所(官僚を使いこなす)を熟知しているので恐ろしい。だから何としても排除しようとしているのだと。
だからと言って官僚たちが談合してこの“人物破壊(Character
Assassination)”を進めているわけではなく、言わばウィルス侵入対して免疫系が働くように、自然にそれが起こっているところに日本社会の特殊性があるとの見解である(画策無き陰謀)。ここら辺の見方は、私には妙に説得力があった。ビジネスマンの世界でも、アクの強い実力者より不満ミニマム型リーダが比較的良いポジション占める傾向を多々見てきたからだ。ムラ社会ではこの方が長(オサ)として納まりがいい。
外国人が他国の特定テーマを論ずるとき、歴史やデータをニュートラルな目で追う手法をとることがある。ここでもそれが随所に見られ、勉強になった。
例えば、“明治維新は革命ではなくクーデター(権力の入れ替え)であった”とする見方を採っている。それ故にもともと主権在民と言う考え方は無く、為政者(権力)と帝国議会(国民)の在り方更には官僚との関係が市民革命を経てきた国家とは違っているというのである。第三代総理山縣有朋の時、議会・議員の力が官僚に及ばぬよう人事権を議会から取り上げ、枢密院に移して「勅令」とするように改めている。その方式が実質的に今に引き継がれているのだという。また、検察が起訴した場合の有罪率が99.9%という他国では信じられないような高い割合である。これは実質上検察が裁判官の役割も果たしているに等しいと断じている。
この本の末尾には対談と解説が付いている。対談(ハードカバー版が2011年3月に出ており、小沢はこれを読んでいる。それを踏まえた対談である)は著者と小沢が自由報道協会(記者クラブに属さないジャーナリストがメンバー)主催で行ったもの。通常のメディアは知らされていないこと(例えば検察審査会の誕生と歴史;占領下のアメリカが提言、検察はこれに反対するが押し切られる)が種々紹介され、なかなか興味深い。
解説は旧大蔵省で財務官を務めた榊原英資、言わば官僚中の官僚、が検察の異常を語る件や野田政権を批判するところがありこれも面白い。
無罪判決が出た今、依然メディアや野党(そして与党の一部も)は小沢の人物破壊を執拗に続けている。それほど“恐い人物”なのだ。
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