2012年6月29日金曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(15)



15.上御殿
カミゴテン、仰々しい名前だが江戸時代初期紀州の殿様より賜った旅籠の屋号である。龍神温泉開祖の歴史ははるかに古く、9世紀に遡ることができるという。その時紀州公が泊まった部屋は“御成りの間”として今も残っている。
ここへ始めて来たのは昭和41年(1966年;前報で42年としたのは誤り)春、和歌山工場の課のレクリエーションの時である。南部(みなべ)から雨模様の泥道を難儀してやってきた。名前が名前だけに大いに期待していたのだが、木造二階建て、龍神街道に面して縁側のあるその建物を見て「エッ!これが御殿?」が第一印象である。この日は我が課(機械技術課)の貸切。泊まったのは道に面した(つまり谷川は見えない)二階の部屋だった。景色が楽しめるのは風呂場だけだったように記憶する。夜の宴会も朝の食事も、縁側に接する板の間だった。当時のこの地の宿泊施設はここの他に比較的まともな旅館は下御殿一軒、あとは長期逗留湯治客の民宿くらいだった。無論温泉場に付きものの歓楽・遊興の類は全く無かった。
唯一の観光スポットは「机竜之助・洗眼の滝」くらい。と言っても我われの世代ですら「そりゃ何じゃ?」と問いたくなるほど、知る人ぞ知る世界である。これは1913年から1941年にかけて新聞(都→毎日→読売)に連載された中里介山の超長編大衆小説「大菩薩峠」の主人公である剣客、机竜之助が目を患いここの滝でそれを癒した所なのだ。つまり架空の世界が作り出した名所、史実に残るのは上御殿と下御殿くらいいしかない。
計画検討段階で、どちらへ泊まるかしばし悩んだ。上御殿が古いことは一つの魅力だが、設備は明らかに下御殿の方が良くなっている。結局夕食メニューのユニークさで上御殿に決めた。
日高川源流の右岸を下ってきた道は温泉の手前で二手に分かれ、直進すればバイパス、左にとって橋を渡ると温泉街(?)に進む。道は当然完全舗装、上御殿の前はかなりの広さのある駐車場になっていた。数台の車を建物の脇に押し付けるように停めた往時とは大違いだ。街の佇まいも温泉場らしく変わっている。しかし上御殿は幸い昔のままだった。玄関・帳場も変わっていない。案内された部屋は谷川に面した新館で、ここはその後増築された部分だから、普通の温泉旅館の部屋と同じである。旧館に泊まることもできたのだが、トイレが部屋に無いことや道路に面しているのでやめにした。案内してくれた中年の仲居さんに50年近く前に一度来たことを話したが「そんな昔のことは・・・」と、会話がつながることは無かった。
少し早いチェックインだったこともあり、木造りの風呂場は貸しきり状態、ガラス窓を通して谷を隔てた崖に張り付く緑を眺めながら、独特のヌメリのある温泉に浸った。
夕食に指定したのは鹿料理、鹿肉タタキとさいころステーキ、とシシ鍋である。野生動物料理としてはヨーロッパのジビエ料理が有名だが、野生は安定供給が難しく、飼育モノが供されているらしい。ここも同じだろうと思い質してみると「鹿は何処にも居ますから」と答えが返ってきた。タタキは歯ごたえや舌触りが明らかに牛とは違い味もさっぱりしていた。メインのステーキは脂分が少なく、旨味が今ひとつ物足りない。シシ鍋も豚に比べると淡白な味わいであった。まあ、珍しいものを食べたと言う印象である。
朝食は部屋ではなく、玄関脇の板の間食堂で摂った。黒光りする床、障子、厚い一枚板の食卓、昔と何も変わっていない。湯豆腐と煮物、それに味噌汁とご飯は温かいが、あとは漬物や金山時味噌など、明らかに板前がいなくても出来るものばかりだった。給仕をするのは昨日の仲居さん一人だけ。前後して現れた同宿者は男の一人旅と二人連れの若い女性二組だった。
出立前付近を散策してみた。少し下流に在った下御殿はコンクリート作りの近代的な旅館に大変貌、彼我の差の大きさが妙に気になった。上御殿の経営は大丈夫なのだろうかと。
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(次回;南部から下津へ)

2012年6月24日日曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神-(14)


歴史街道を行く-吉野・高野・龍神-(14)
14.龍神へ
高野山から南西方向に、和歌山県最高峰の護摩壇山(和歌山県最高峰;1372m)に向かって尾根伝いに走り、紀伊田辺に至る国道371号線は、今では高野龍神スカイラインと名付けられているが、一般国道として整備が終わるのは1975年でそれまでは林道と言ってよかった。そんな林道時代(1967年)課のレクリエーションで龍神温泉一泊旅行の際、南部へバスで戻る皆と別れ、帰路をこの道へ取り高野山・和歌山市経由で有田まで帰ったことがある。今回はその思い出の道を逆走するのだ。
当時の道は、舗装部分は高野山の町とその周辺、それに龍神も集落の中心部に限られていたから、全線未舗装と言ってよかった。龍神の村落の外れに貧相な遮断機が設置されており、そこで幾ばくかの通行料を払って林道に乗り入れる。落石が散らばり、それが半ば埋まって鋭く飛び出しているので、タイヤを傷める恐れがあった。切り立った山際から滝のように水が落ちている道を進むと、その先を蛇が横切る、というような道である。避けきれずに轢いてしまった蛇が、バックミラーの中でのたうち回っていたのが、今でも忘れられない。
奥の院の近くでそのスカイラインに入ると、曲がりくねりだけは昔と変わりないものの、センターラインのある対向2車線の緩いアップダウンの道が続く。「伊豆スカイラインと同じようなものだよ」と息子が言っていたが、その通りだ。雨は上がり空も明るくなってきている。本当は天気ならば、ここは今回唯一のオープン走行区間と考えていたが、大気は冷たくたっぷり水気を含んでいるのでそれは叶わない。
観光以外にほとんど用のない道は極端に空いており、前後は無論、対向車にも滅多にお目にかからない。半世紀近く前には時々民家も見たものだが、それすら現れない。過疎はますます進んでいるようだ。右側は山左側は谷となる道は見通しの悪い左ターンだけが要注意だ。道は箕峠(930m)、白口峰峠(1100m)を過ぎ笹の茶屋峠(1200m)へと1000mの高所を繋いで行く。この辺りは同じ年(1967年)の春、有田川の源流地、清水のお寺に泊まり翌朝そこから護摩壇山に登った時取り付いた地点だ。その時既に茶屋は無かったから、おそらく熊野詣の時代の名残りだろう。
快適な舗装道路は続き15時には“ごまスカイタワー”に着いていた。そこにはそれほど高くはない展望タワーが建っており、下にはお土産物を扱う店とレストランが併設されている。かつてここには無人の廃屋のような山小屋は在ったものの、こんな立派な施設は無かった。展望のきく駐車場に車を停め。かぼちゃチーズケーキとコーヒーでお八つを摂り、サービスしてくれたスタッフに「何処からここへ通ってくるのか?」と問うと「龍神からです」との答え。昔話は全く通じなかった。帰り際に付近の案内図を見ると龍神岳という山が護摩壇山の先にある。聞いたことのない名前なのでお土産品売り場の女の子に問い合わせると、奥の事務所に声をかけ、この施設の責任者を呼び出してくれた。その人の説明によれば、2000年護摩壇山より高い峰ではないかとの話しが出て計測したところ10メートル高いことが分かり2009年公募によりその名が付けられた由。
駐車場にはいつの間にか小型の路線バスが停まっている。乗客はなさそうだが、昔の道とは全く異なるのだ。ここを過ぎると道は下りになり、やがて川と並走していく。3月に川崎工場の同じ職場のOB会の際、このドライブ行の話をしたとき、往時一緒に護摩壇山行きに同行した同僚から「そのルート途上に曼荼羅美術館と言うユニークな美術館があるので是非寄りなさい」とアドヴァイスをうけていた。川に沿う道が平坦になるとそこへの分岐案内が現れ、立派な公共宿泊施設“季楽里龍神”とその広い駐車場の向かいに美術館が在った。これもどうやら村営か何かのようだ。
受付に若い女性がいかにも手持ち無沙汰という風に座っている。料金はタダ。ただし、奥へ向かおうとすると巡回路に従って見るよう注意される。確かに百点を超える曼荼羅の説明や歴史的・地理的違いが分かるように展示されている。奥の広間は曼荼羅では無く、この地に縁のある画家の仏画を特別展示していた。
道の駅“龍神”を過ぎ、“温泉トンネル”を抜けると、もうそこは龍神温泉だ。16時、今日の宿“上御殿”前の駐車場に車を停める。今日の走行距離は52.7km、この車をもっての遠隔地ドライブでは最短だ。こうなったのも上御殿ゆえである。
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(次回;上御殿)

2012年6月20日水曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神-(13)




13.高野山名所巡り-2;金剛峰寺ほか
奥の院から小一時間かけて、駐車場や商店の在る中心部へ戻る。この一帯には末寺約4000の真言宗総本山金剛峰寺、空海が開創以来修行の場とした大伽藍・金堂などがある。全て世界遺産である。
金剛峰寺は総本山ではあるが、その名がつくのは明治になってから。それ以前は秀吉が亡き母を弔うために建立した青厳寺であり、それに隣接する興山寺を合併してそのように呼ばれるようになったのである。16世紀末以来何度も火災に遭い、現在の本堂は19世紀半ばに建てられたものである。そこに秀次自害の部屋が在るのは何かおかしいが、あまり深く考えないことにしよう。とにかく大きな寺である。主殿・奥殿・別殿、それに修行僧たちを賄った台所を見るだけでも一見の価値がある。しかし、本当に価値があるのは狩野探幽らによる襖絵と蟠龍庭と呼ばれる雲海を模した石庭だ。雨の平日、拝観客は極めて少ない。静かにそぼ濡れる美しい白い庭を観るのは贅沢の極みといえる。
次に向かったのは根本道場大伽藍と呼ばれているところだ。実際には金堂、十数のお堂の中心にある根本大塔が見所である。大塔は弘法大師の時代(816年)に建立に着手し次の真然の代に完成した高さ50メートルの仏塔である。金堂は各種の年中行事が行われる大講堂。残念ながら二つとも昭和になってから再建されたものである。しかし中に収められている曼荼羅は古いもので、血曼荼羅は平清盛が自らの額を割り、そこから溢れ出た血で描かせたことからこの名が付いたと言う。
当地最後の訪問先徳川家霊台に向かう。金剛峰寺の東側の通りを北に向かって少し歩く。他の観光スポットと離れていることもあり、受付も手持ち無沙汰。階段を上った境内には小母さんの三人連れ以外は誰もいない。ここは三代将軍家光が家康・秀忠の霊を祀るために作ったもので、左右に日光の東照宮を小型にしたような同型の二棟の建屋(家康霊屋、秀忠霊屋)が並んでいる。ただし色はくすんでおり、東照宮のような艶やかさはないが、この方が高野山には相応しい。これは国の重要文化財である。
仏都の歴史探訪はこれで終わり、街中で何か特色のある、とは言っても精進料理でない、食事を摂れるところを探したが、これといった店は見つからなかった。仕方なく何でもありの食堂に入り親子丼を食した。久し振りの動物質はやはり旨かった。
一乗院へ戻り、荷物を引き取り、燃料警告灯の点灯する車で先ず向かったのは、数百メータ先のゼネラルのSSである。自宅からの距離577.1km、給油量は54.8l4年半乗ってきて最大の給油量である。満タンは60lだから残り僅か5.2lであった。とは言ってもこれだけ使い切れるならば30km位は走れる残量だ(実際空になるまで消費することは出来ないが)。
時刻は2時、雨は上がっている。いよいよ40数年前ダートを走った龍神街道だ。
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(次回;龍神へ)

2012年6月15日金曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(12)




12.高野山名所巡り-1;奥の院
420日は朝から雨だった。9時半頃チェックアウトを終え、お坊さんに今日の観光予定を話し、先ず奥の院を訪ねるというと「チョッと距離もあるので、近くの駐車場まで車で行かれたら」と言われたが、雨の中の寺町のたたずまいを見るのも悪くは無いと、荷物や車は宿坊に置き、“一乗院”と黒地に白書きされた傘を借りて歩き出した。まだ団体客がやってくるには時間も早く街は静かだ。途中にもいくつも寺があり、美しい庭が道路に向けて開かれているところもある。雨も小降りで、徒歩で正解であった。
20分程度で参道入口に着く。杉木立に覆われた霊場(墓地)には20万基以上もの墓石や供養等が林立し、2km先の最深奥部には1200年前に高野山を開いた弘法大師の御廟がある。全体が世界遺産だ。格別信心深い人間でなくとも、ここに踏み込んだ途端、俗世と切り離される緊張感を覚える。
弘法大師の霊が参詣人をここまで送り迎えすると言われる一の橋を渡ると、直ぐ右側に新しい石碑がある。高野山開創1200年を記念して司馬遼太郎が書いた“高野山管見(個人の見方) 歴史の舞台 一文明のさまざま”だ。参道に歩みを進めると当にその“さまざま”が目の前に現れてくる。曽我兄弟供養塔、平敦盛墓、武田信玄・勝頼墓、宿敵上杉謙信廟(謙信は法名、天正2年(1574年)ここを訪れたとき贈られたものである)、苔むし、落ち葉に半ば埋もれ、傾き、欠損した塔墓が連なり、故人たちの歴史上のあれこれを思い起させてくれる。
参道は入口から北東の方向に向かって延びており、左側は傾斜が上り、右側は下りで先の方に並走する本街道が木立の間から見え隠れする。雨空もあるが日中でも足下が暗くなるほど杉の大木で覆われている。入口と御廟を結ぶメインの石道は歩き易いが、少しわき道へ入ると落ち葉も積もるにまかせ足下が悪い。恐る恐る踏み入るのだが、それがかえって歴史回帰の舞台廻しに役立っている。
朽ち果てた歴史上の人物たちの墓と対照的なのが、立派な企業墓所である。50年前に見たとき松下電器とあったものが“パナソニック”に変わっていた。
道半ば、戦国時代の武将たちがそこここに佇んでいる。石田三成墓の直ぐ近くには明智光秀墓、仙台の雄伊達政宗の墓は堂々とした五輪塔だ。朝鮮征伐の戦死者を祀る高麗陣敵味方戦死者供養塔などと言うのもある。
やがて御廟橋に近づくと、秀吉そして信長の墓が現れる。秀吉(高野山攻めを行ったが説得され、庇護者に変じた)の墓が母、弟秀長など一族も葬られる広い墓所であるのに対し、信長の墓は注意深く探さねば分からぬほど小さなものだった。
御廟橋から先は脱帽・写真撮影禁止の霊域。ここだけは木々が払われ明るい。正面には半地下形式で多数の献灯を燈す燈明室を備えた大きなお堂がある。ここをお参りして帰りかけたとき、フッと昔ここへ来たときのことが思い起こされた。「御廟はこんなに大きくなかったはずだ」 しばらく参拝者の動きを観察していると裏手に廻る人がいる。付いて行くとお堂(実は燈篭堂)の真後ろに小さな御廟が在った。

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(次回;高野山名所巡り-2

2012年6月10日日曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神-(11)



11.宿坊 一乗院
前回書いたように高野山を初めて訪ねたのは1962年の4月末、新入社員教育の一環としてである。工場採用の高校卒の人たちも一緒だったから7080人おり、バス2台で出かけ、全員が泊まれる寺に一泊した。その後も高野山には何度か出かけているが、宿坊に泊まったのはその時だけである。従って今度が丁度半世紀振りと言うことになる。
当時の記憶は全く薄れ、どこに泊まるべきか見当もつかないので、Webで調べるといくらでも出てくる。総本山の金剛峰寺を除けば、ほとんどの寺が宿坊を営んでいる。部屋の大きさ、トイレのある無し、食事をする場所と内容、風呂、暖房、駐車場、俗化の程度、観光スポットとの位置関係、早朝勤行参加可否それに宿泊費(これはどうやら統一価格)などなど、口コミも含めて情報を集め4,5ヶ所に絞込み、和歌山在の息子に問い合わせ、会社厚生施設として登録されている一乗院に決めた。
門前の駐車スペースに車を停め寺務所に向かいかけると、作務衣を着た若いお坊さんが出てきた。私の車を見て「これなら境内にとめられますから、バックで入ってください」と言う。狭い石道をバックして本堂前の石灯籠と植え込みの間に駐車する。向かい側の空き地には軽を含めて3台のクルマが既に置かれていて、こちらを含めて4台で駐車スペースは満車になってしまった。「意外と小規模な宿坊なんだな」が第一印象である。
我々の部屋は道路を見下ろす2階の10畳ほどの部屋、トイレ洗面はあるが風呂は無い。液晶TVが備わっている。2週間前には雪もちらついた寒さがまだ残るが、有難いことに暖房が入り、電気コタツもある。まずまずの旅館と何ら変わらない。違うのは全く女っ気が無いことくらいである。全て若い修行僧が行うのだ。
誰も居ない大浴場(と言っても10人くらいが限度)で今日一日の疲れを癒し、しばらく暖かい部屋で休んでいると食事が始まる。精進料理なので動物質は無いが、豆腐や野菜の天ぷらなどが供されるので、たんぱく質は充分摂取できる。味付けもよく考えられ、煮物・焼き物・酢の物と調理方法も多様で、量も適量。これが三つのお膳に並ぶので見た目も豪華。さらにアルコールはビール、日本酒が求められる。特色のない、食べきれぬほどの料理をこれでもかともってくる旅館の夕食より余ほど好感が持てる。
腹もくち、吉野の山歩きで疲れた身体を横たえてTVを観ていると、間もなく食事の後片付けと布団敷き。10時前には寝付いていた。
朝の勤行は6時から本堂で。前日「本堂は暖房も充分でなく寒いので暖かくしてご参加ください」との注意があった。15分くらい早めに行くと、暗く黒光りのする板の間の最後列の椅子席と座布団を並べた最前列中央部は先客で埋まっている。幸い椅子席に空きを見つけそこに座っていると、どこにこんなに泊り客が居たのかと思うほど、次から次とお勤めの参加者がやってくる。若い外人のカップルも居る。おそらく全部で50人くらい居ただろう。読経が始まり般若経の部分になると唱和する人が大勢居たことや特別祈願のお札が手渡されていたことから、信徒の人たちがかなり参加していたようだ。お勤めは7時前に終わった。
この寺の建物の配置は東西に狭く、南北に長い。我々の部屋は南東の角に近いこじんまりしたブロックに在るが、本堂の入口から真っ直ぐ北へ延びる長い廊下があり、大部分の参加者はそちらへ戻っていった。大勢の宿泊者がいることを今朝まで気付かなかったのはこのためである。後で判ることだが駐車場は西裏手にもう一ヶ所あり、そこは正門境内に比べかなり広く、入口には信徒駐車場とあった。
清清しい気分で部屋へ戻ると、布団が片付けられ、朝食の準備が整えられていた。むろんこれも精進料理である。
高野山での宿坊泊まりは、ここを訪れる機会のある方々に是非お薦めしたい体験であった。
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(次回;高野山名所巡り-1

2012年6月5日火曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(10)



10.高野山への道
近鉄吉野駅に近い臨時駐車場を出たのは3時過ぎ。ここから高野山までおよそ60km1時間半位の距離だ。吉野川(和歌山に入ると紀ノ川)沿いの道から高野山に上るルートは三本ある。大型バスが通るのは笠田(かせだ)から大門口橋を渡り480号線をひたすら走る道だ(青)。このルートは新入社員研修(丁度50年前の同じ頃)以来何度か通っている。交通量が比較的多く“走りを楽しむ運転”は期待できない。計画段階で第一候補としたのは橋本から入る371号線であった(ピンク)。この道は高野山から龍神に抜ける道につながり、翌日はこの後半部分を行くことになるので、全体を通して走ってみたいと思ったからである。駐車場を出る前にカーナビに“一乗院”を入力してルートを調べると、これが第一案として出てきた。最短距離なのだ。
吉野駅から近鉄に沿って道は緩く北に下りながら吉野川に向かっていく。天気は予報通り曇り空に変わってきている。高野山は雨かもしれない。1kmほど行った吉野神宮駅のT字路は左へ進むのがメインである。そこから吉野大橋を渡って今朝来た169号線を西に戻るのだ。しかしカーナビはここで“右です”と言う。朝のトラブルが頭から離れない。おまけに地図上の矢印は上向きではなく、妙な方向を向いたままなので、ここはナビの指示通り右折する。やがて道は細くなりすれ違いも出来ないほどになっていく。次の指示は“左斜め手前方向です”ときたが、道は鋭角で左折するのでとても曲がれない。Uターンできるところまでしばらく進み、折り返してこの左折路に入った。先には貯木場が見え工場内に入っていくように思えたが、中を抜ける道がありその先に橋が架かっている。上市橋という吉野大橋の一本上流の橋だった。これを渡るとやっと169号線に出ることが出来た。吉野大橋は長蛇の列、カーナビは渋滞をバイパスしてくれたのだが、とても普通に走れる道ではなかった。
169号線は途中で奈良方面に向きを変えるので、川沿いに西進するには370号線に乗り換え、五条で和歌山に向かう24号線へと道を採る必要がある。この少し手前でナビが“新しいルートが見つかりました”と言ってくる。吉野を出たときのオリジナル・ルートが一旦この辺で自動車専用道(京奈和道)へ北西に廻り道を採る五条迂回路だったので、ルートを確認せずに直進を期待して“新ルート”を選択した。紀ノ川を橋本橋で渡るところまでは予定通りだった。そのままナビの言う通り進んでいくと24号には入らず依然370号線を進んで行く。本来はどこかで371号線へ入る予定だが、時々 “高野山”の標識が出てくるのでそのまま道を採っていると、九度山で“祝 370号線国道昇格”と言う看板が出てきた。確かに国道にしては幅が急変したり、変な曲がり方をする所がいくつもあったが、そんな事情だったのだ。371号線への分岐点は既に遥か後方、前進あるのみ。この道が高野への第三の道であることを知らされる(緑)。
山へ入る頃には雲も厚くなり、鬱蒼と茂る木々に覆われた道は薄暗く、加えて昇格した新米国道は路面や道幅が未整備で待避所以外ではすれ違いも出来ない。明るければともかく、いくら山岳道路が好きでも敬遠したくなるような走行条件である。せめてもの救いは交通量が極めて少ないことである。それでも一度だけ材木運搬のトレーラーと行き違い、バックを余儀なくされる。とうとう雨も降り出してきた。すると突然ピッと音がして中央の計器に小さな赤ランプが点灯した。燃料補給を警告するものだ。
長距離ドライブ行の計画を検討する際、ガソリン補給地点についてはかなり綿密にチェックする。満タンで500kmは先ず問題ないので、今回の場合亀山・天理IC周辺と奈良南方(24号線、169号線)のエッソ/モービル/ゼネラルSSはすべて確認しておいた。しかし、高速道路の走りが順調で、奈良のホテルへチェックインした時、車載コンピュータはまだ250km近く走れることを示していた。奈良から吉野経由で高野まで行っても、その半分以下の距離である。後の行程を考えれば高野山のゼネラルが最適。すっかり油断していたのだ!赤ランプがついてもまだ20km程度は大丈夫だと思うが曲折する山道の上りゆえ絶対安心とはいえない。こんなところでガス欠になったらどうすればいいんだろう?不安が募る。やっと平坦な道になったら今度は霧や雲が現れる。高野山を象徴する大門が見えた時どんなにホッとしたことか。街の中心にある駐車場を廻って総本山、金剛峰寺の角を左折して今夜の宿泊所、一乗院に無事たどり着いた。やれやれ。時刻は5時丁度だった。
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(次回;一乗院)

2012年6月3日日曜日

今月の本棚-45(2012年5月分)



<今月読んだ本>
1)格安エアラインで世界一周(下川裕治);新潮社(文庫)
2)イギリス-矛盾の力-(岐部秀光):日本経済新聞出版社
3)「すみません」の国(榎本博明);日本経済新聞出版社(新書)
4)報道の脳死(烏賀陽弘道);新潮社(新書)
5)ゲーテの警告(適菜収);講談社(新書)

<愚評昧説>
1)格安エアラインで世界一周
年初から続いて、これで4回目になる同じ著者の作品だが、私としては初めて読む飛行機旅行物である。それに最近わが国でも話題を集めつつあるLCCLow Cost Carrier;格安航空)がテーマなので読んでみたくなった。ただし実施時期は2009年だから、国内では全く実績が無い時である。
Amazonから届いた本書にパラパラと目を通し航路図(運賃記入)を見たとき、「オヤッ?」と思った。ロスアンジェルスから成田への運賃が、格安ではあるが他に比べ目立って高いのだ(6万円弱)。結論から言うと、太平洋横断航路にはLCCが飛んでおらず、それは今も変わらぬらしい。この料金は格安チケットではあるがLCCによるものではないのだ(既存のエアライン格安チケットとLCCは全く別物)。従って“世界一周”は厳密には正しくは無い。しかし、多様な世界のLCCを紹介する本書の内容の深さから、許されていい“羊頭狗肉”であろう。
最初のフライトはLCCとしてスターとしたばかりのセブ航空(フィリッピン)による関空→マニラ・アキノ国際空港から始まる。機内サービス、座席ピッチなど通常便との違いが具体的に語られるが、この辺りのところは米国サウスウエスト航空が開発したビジネスモデルから想像できる範囲で、それほど驚くほどではない。しかし、翌日のマニラ→クアラルンプールを前に厳しい現実に直面する。マニラの出発空港は何とアキノ空港から80km北に在る元米軍基地(現フィリッピン軍基地)だったクラーク空港、出発時間は9時過ぎ、市内泊では朝の交通渋滞をかわせない。やむなく基地周辺のいかがわしいホテルに泊まる羽目になる。そこまでの移動(夜間)も治安が悪く、高い空港タクシーを雇わざるを得ない。朝空港に向かえば、ロビーは格納庫前のテントである。南国の強い日差しに辟易とさせられる。
LCC利用の問題点の一つが空港およびその施設にあることはこれ以降の行程で毎度語られることになる。利用頻度の低い不便な空港からの発着や大空港でも特別離れた場所に安手の施設が設けられ(例えば、シンガポール・チャンギー空港では一旦メインのターミナルを出て路線バスで移動;つまり出入国が伴う)、差別される。これは空港利用料が安いこともあるが、既存の航空会社の圧力もあるようだ。
第二の問題点は搭乗券の入手である。低価格実現のカギのひとつに旅行代理店を中抜きにする独自の販売方法を採っていることがあるからだ。これだと空港の発券カウンターかインターネットの利用しかないので、インターネットの利用できる環境が整っていないと、現地でぶっつけ本番ということになってしまう。著者らは、発券の基本はプリントアウトだが、プリンターを利用できず、画面を見せるだけで搭乗し、入国に際し出国の航空券をPC上で提示するようなことまで体験させられる。
この他にも、航路の制約(基本的に比較的短距離で乗客数が多いところを飛んでいる)や過疎空港での入出国管理(時間外閉鎖など)、乗り継ぎ(他社便との接続保証がない)など、LCCならではの障害が次々と現れ、何とかそれを克服していく。
LCCを具体的に理解するには“世界一周”も意義があるが、基本的に短・中距離の二点間移動に特化したサービスであることを、あらためて学ばせてくれた。上述の条件を満たし障害の少ないEUで急速に発展し、いまやこちらがメインになったことは当然である。東アジアそしてわが国ではどうなるか?

2)イギリス-矛盾の力-
20075月から10月、約半年英国で生活をした。大学での研究・調査は一週一日だから家に居ることが多く、日本ではほとんど観ないTVをよく観た。英語をきちんと理解できたわけではないが、面白かったのは国会中継である。与野党が演台を挟んで戦わす論戦、党首対党首、担当大臣対影の担当大臣が、あるときは激しくあるときはユーモアを交えて、議場の関心を自分に惹き付けようとする。たまにニュースで散見したNHKの国会TV中継とはまるで雰囲気が違い、お互いの呼吸が合って血の通った議論が行われていることが伝わってくる。それに比べこちらのやり方は議論ではなくその場しのぎの答弁に過ぎない。こんな感想をある時指導教授(察するに労働党支持者)に話すと、ニヤニヤしながら「選挙は相手の欠陥をあげつらい、スキャンダルを暴きだす低次元の戦い。政策も方針がころころ変わる」と嘆いて見せた。
秋になると保守党大会、続いて労働党の大会が行われ、労働党大会でブレアの退任とブラウンの後継が決まる。帰国直前ブラウン内閣が発足して、その政策が発表されて驚いた。少し前に保守党が示した政策案と見紛うばかりである(例えばNHSNational Health Service;医療保険機構とそのサービス)の改革;“ゆりかごから墓場まで”で有名な高福祉政策はもはやなり行かず、国家財政再建の最大の課題となっている)。本来の支持層である医療・警察・郵便などの従事者が批判の声を上げ、保守党も(保守系)新聞もこの“パクリ”を激しく非難していた。いったいこの国の政治はどうなっているんだろう!?教授の話に納得すると伴に日本でも参議院選挙で自民党が敗北し、“ねじれ”の生じた時期、本格的な二大政党による政治が始まろうとしている時だけに、この融通無碍・変幻自在(ある意味いい加減)な振る舞いに、何か惹かれるものがあった。
これに遡ること14年、19931月、まだ若きブレアとブラウンは就任直後のクリントン大統領を訪れ、長く続いた共和党政権からの政権奪取について学んでいる。結論は「何でも反対!反対!ではないこと」であった。下って2009年の総選挙前、世論の動向を先読みした小沢や菅も政権交代後を予見し、学ぶため訪英し二人に会っている。しかし、学んだのはシステム(入れ物)だけで運用(中身)の重要性には気がつかず、関心も示すことも無かったようだ。
2010年久し振りで保守党が第一党になるが、過半数は獲れず自民党との連立内閣が成立する。それまでの長い二大政党制が崩れて新しい統治体制がスタートできるのは、小党の存在を考慮しない選挙制度に不満の多かった自民党の改革案にキャメロンが賛成し、キャスティング・ボードを握った自民党党首、グレッグが連立に際して「われわれは異なっている。もし同じだったら同じ政党に所属していただろうが、それが連立の現実なのだ。われわれは時には同意しないことに同意するだろうし、反発を恐れずに言えば、自分たちの考えを変えるかもしれない」と覚悟を示して、現実的な対応を受け入れたところにある。もともと実現不可能だったマニフェストに自縄自縛になって身動きの取れない民主党指導部には思いも及ばぬ柔軟性(変節)である。
この様に、時として周辺を驚愕させる大胆な方針転換や法律運用の妙は国内政治に限らず、国際関係でもしばしば見られ(米英は兄弟と言われるが、日米安保条約のように、二国の同盟を定めた条約は全く存在せず、アフガン派兵も暗黙のルールの下で行われた)、EUへの参加にしてもイデオロギーや理念はひと先ず置いて、経済政策重視の対応に留まっている。
この“矛盾”は文化においても同じで、古き伝統を大切にする反面、ビートルズやミニスカート発祥の地となるような新規なものを生み出す素地となっている。
大英帝国は遠くなったが、したたかにその影響力を残すこの国から、日本が学ぶことは多い。
著者は英国滞在が長い国際政治記者、文化・経済・社会にもよく通じ、読み応えのある本だった。

3)「すみません」の国
われわれは日常、こんにちは!ありがとう!より“すみません”をより多く使っているのではなかろうか?中でも「チョッと失礼します(本当は発言者に失礼がなくても)」の意で頻繁に用いている。日本人社会に欠かせぬ潤滑剤なのだ。一方で最近目にするのが「済みませんでした」と会社の役員や地方自治体の役職者がTVカメラの前で頭を一斉に下げるシーンである(中央官庁の官僚や政治家がこのように謝る場面は滅多に無い)。こちらの方は何か胡散臭さがつきまとう。同じ言葉でも使い方や場面によって意味が大きく違ってくる。
前者の例(失礼しました)は相手を慮るために直ぐ(軽く)謝るのだが、この習慣があるのは、日本人の他にはイヌイット(エスキモー)とモニ族(ニューギニア)だけだと言う。異民族の侵犯を頻繁に受けたところほど、簡単に謝罪の言葉を発しないらしい。彼らは原理原則やタテマエで自己主張しないと生き残れない環境下にいつも置かれていたので、この様な(簡単には謝らない)体質を醸成していったのではないか。これを一つの仮説(本人の説ではないが)として、日本人のコミュニケーションの特徴、さらには日本社会の特質へと進んでいく(コミュニケーションに基づく日本社会の分析が著者の研究分野;(自己)心理学)。
日本人のコミュニケーションは、相手を“察する”ところに重点を置く特色がある(これを著者は“状況依存社会”と名付けている)。そこにはタテマエや正論・自論をいきなり開陳するのではなく、相手の出方に応じてその場の雰囲気を、衝突が起こらぬよう、作り上げていくスタイルをとる。反対を表明する際にも、一見賛成するような発言をしてから、懸案事項を並べ棚上げにして行く。従って結論を下すまで時間がかかるし、誰が決めたのだか分からないようなことになっていく。これに対して欧米のコミュニケーションは“自分の意見や思いを正確に相手に伝えること”にあり、その役割が全く違うのだ。国際政治やビジネスの世界で「日本人は相手の出方ばかり窺っている」と批判されるのはここに因がある。私もかねがねそう感じてきたし、それを革めないことにはこれからの国際競争に生き残れないとの危機感を感じてきた。
しかし著者はさらにこの特質追究を深め「(改善しなければならない点は多々あるが)本当に、ボーダーレス化する国際社会においてこの特質はマイナスなのか?」と問い質していく。そのプラスの例として、大震災時の被災者たちの秩序ある行動が海外メディアの驚きと賞賛をよんだことをあげ、「日本的な曖昧さや緩さは、自他の共存、異質な文化・価値観の共存にとって、非常に都合のよい性質とも言える」としている。自らの資質をプラス評価しながら、新しい生き方を模索する姿勢に共感をおぼえる。
“おわりに”で「日本的コミュニケーションの深層構造について自ら理解し、説明できるようにならないかぎり、海外の人々から疑問符を突きつけられるばかりだろう」と結んでいるが、至言である。

4)報道の脳死
全国紙・TV・(既存)出版などのメディアの危機が叫ばれて久しい。中でも新聞界の内部からの声が高いような気がする。この本の著者も朝日の報道記者からフリーランサーに転じた人である。辞めた理由の最も大きな理由として、じっくり掘り下げた記事が書けない環境に新聞社全体がなってきていることを挙げている(これ以外にも歳を経て内勤とよばれる管理職になる年齢に達したこともあるようだが)。
書き出しは、大震災時の報道における全国紙の内容にいかに独自性が無いかを例示するところから始まる。例の「陸前高田の一本松」である。そしてしばらく類似記事(写真を含む)の紹介が続く。どの新聞社の誰が書いてもよく似ているのだ。
この様なことが何故起こるのか?パターン化される記事、社内の縦割り組織とニュースソースの断片化、記者クラブの閉鎖性、発行部数低下と経営状況それにインターネットの普及などによる複合的な要因でこれがもたらされることを具体的な身近な例で説明して行く。
例えば、パターン記事の分類として(1)パクリ記事;文字通りどこかで発したオリジナル記事を使い廻しする、(2)セレモニー記事;企業や官庁などが設定した「式典」「儀式」を流すもの、一種の“やらせ”である、(2)カレンダー記事;終戦記念日や御巣鷹山墜落事故のように毎年その時期が来ると繰り返すもの、(4)えくぼ記事;チョッとした良い話(暗い出来事の中の心温まる話のように、事態に直面している人たちの気持ちと矛盾していることを取材している記者も自覚していないことが多い)、(5)観光客記事;地元の実情とはかけ離れた表層的な記事、を主として大震災にスポットを当てて、解説して行く。確かに最近こんな記事が紙面に溢れていることに、あらためて気付かされるのである。
また組織の断片化(複数本社制、本社と支局)が取材活動の柔軟性を如何に制約し、記事に深みやつながりを欠く結果になる(記事の断片化)かも、大震災を含む事例で理解させてくれる。
より根本的な問題は、既存メディアの強みが、コンテンツ(中身)、コンテナ(新聞などメディア媒体そのもの)、コンベア(それを配送するシステム、電波を含む)を全て保有するところにあったが、インターネットの出現でこの3セット独占が崩れてきているところにある。ブログや動画(ユーチューブなど)を通じてフリーランス記者や素人が容易に記事を流せるようになり、パターン化・陳腐化した記事に飽き足らない人々の関心を集め出していることである。結果として「既存メディアは、企業としては存在するが、報道としては限りなく存在しないに等しい」状態になってきていると断じる。
だからと言って著者は安易にインターネットが既存メディアに置き換わるとも思っていない。コンテンツの質・信頼性の維持(ジャーナリズムの存在意義)、良質なコンテンツを提供するための経済的な仕組みなどは未だモデルが出来上がっておらず、次の主流メディアが何であるか、しばらく模索が続くと見ている。
権力の監視役としてのジャーナリズムが不可欠なことは言を待たない。脳死の後の新鮮な報道媒体の早い誕生を期待したい。

5)ゲーテの警告
友人のブログで紹介されているのを見て購入した。“B層(マスコミ報道に流されやすい「比較的」IQの低い人たち)”と言う言葉に興味をもったからである。そしてこの層が“日本を滅ぼす”と本のタイトル下に書かれているのだ!
このB層のオリジナルは、20059月小泉政権下で戦われた総選挙に際し、内閣府が「郵政民営化を進めるための企画書」を民間のマーケティング会社に発注し、その中で使われていることが本書で分かった。つまり選挙活動のターゲットを絞り込むための対象層なのだ。縦軸はIQEQITQ)軸、上が高く下が低い。横軸は構造改革軸で、左がNegative、右がPositiveである。B層は右下に位置づけられている(構造改革に積極的でIQが比較的低い)。ここに属するグループは主婦層&若年層が中心、それにシルバー層が加わる。そしてA層(右上;財界勝ち組企業、大学教授、マスメディア(TV)、都市部ホワイトカラー)の影響を受け易い層で、ここからB層に向けて情報発信を行うことで、小泉支持に向けて世論を操作・誘導できるとしている。因みにA層も道路公団の民営化結果に満足しておらず、その印象を払拭することが大切と指南している。
主目標であるB層については、さらに「具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層」「内閣閣僚を支持する層」が付加されている。この企画書に基づく選挙作戦が効を奏したのか自民党(特に小泉支持派)は圧勝する。
著者はこの層こそ衆愚政治の元凶であり、民主党政権を誕生させ、おそらく次の選挙ではそれを見限り(私の周辺で多い)、政治そして社会の混乱を増長させると断じ、この傾向は政治の世界ばかりでなく文化の面にもおよんでいることを音楽やグルメの世界にも触れて、近代大衆社会の末路を予見してみせる。
このB層を浮き立たせ、批判する規範がゲーテの残した言葉である。当時の優れた教養人であったゲーテは大胆な改革・革命には反対で歴史や伝統を重んじる保守的な人だったようだ(ゲーテの作品を読んだことはない)。大衆参加が政治を主導する民主主義にも懐疑的でこれを批判する数々の考えを示している。こうして比較されると私も典型的なB層であることが明らかになる。
問題は、それならどうすべきなのか?本書ではそれがはっきり示されない。全体主義や共産主義はノーで、(ゲーテのような)エリートによる指導を期待する意見もあるが、明解にそうだと言い切ってもいない。
結局「世も末だ!」と言うこと以外何も言っていないような本だ。生年から推算すると35歳前後、自らを哲学者と称するには「20年は早い!」と言ってやりたい。
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