<今月読んだ本>
1)満鉄特急「あじあ」の誕生(天野博之);原書房
2)消えたヤルタ密約緊急電(岡部 伸);新潮社(選書)
3)日本型リーダーはなぜ失敗するのか(半藤一利);文芸春秋社(新書)
4)日本農業の正しい絶望法(神門善久);新潮社(新書)
5)山手線に新駅ができる本当の理由(市川宏雄);メディアファクトリー(新書)
<愚評昧説>
1)満鉄特急「あじあ」の誕生
誕生来8年を過ごした満州には特別な思い入れがある。また終戦までの昭和史は満州を基底に動いていたと言っていい。それもあって、“満州”と題する本は棚ひとつでは納まらぬほどある。加えて、鉄道も関心が高い分野だから“満鉄”を取り上げた書物は何冊ももっている。しかし、何故か満鉄の車両を中心に技術的な主題で書かれたものは一つも無い。その種の本が出版されていないわけではないが、読者層が限られ、本屋に並ぶ機会が少なかったのだろう。引退後は自宅に篭もることが多くなり、大きな本屋に出かける頻度が著しく減じたことも、この種の本を目にしなくなった理由の一つである。それもあってAmazonで入手することが多くなった私の購読傾向を分析し、知らせてきたのがこの本である。
戦前満州に在留した子供たちにとって特急「あじあ」は特別な存在であった。スーパーカー時代のフェラーリ、ランボルギーニに匹敵しようか。“乗った”は周辺にいなかったが、“見た”だけで英雄である。絵本に描かれたそれを見るだけでしばし興奮状態だった。私もこの口で、絵本や写真で見た記憶しかない。
日露戦争後ロシアから利権を引き継いだ満鉄(1907年経営開始)の路線は、当初大連-新京(現長春)間。その後ソ連時代(満州国建国後)に新京-ハルビン間(東清鉄道)を買収して、それが本線(連京線・京濱線)となっている。ハルビンから西進し満州里でソ満国境を超えるとシベリア鉄道につながり、モスクワ、ベルリン、パリなど欧州の大都会と結ばれる(実際にはソ連は広軌なので線路はつながらないが)。東京から下関までは標準軌の弾丸列車を走らせ(今の新幹線はほぼこの当時の構想)、朝鮮半島を縦断して満鉄に接続、欧亜連絡の特急列車を走らせ、日本の国際的地位を更に高めたい。これが当時の為政者・鉄道人の夢であった。「あじあ」誕生の背景である。
しかし、ことが“夢”だけで進められるわけではない。政治情勢・経営環境・国際情勢・技術環境、これら全体に影響する軍事情勢、それに特異な自然環境などが複雑に絡む。何とか手をつけられたのはこの「あじあ」だけ。それも大変な難産であったことがこの本で、“技術・技術者”を中心に語られる。とは言っても単純な技術オタク向けでなく、特急を走らせることの経営的背景や人材育成(これはかなり詳しい)にも視点を向け、深みのあるものになっている。
例えば、経営環境に関して、長く満鉄の収入源が著しく貨物に偏り(80%)、それも季節変動(農産物主体)と方向差(大連行きは有載、帰りは空荷)が大きく、また(中国)民族資本による並行線の建設もあり、経営は安定せず、旅客輸送強化に具体的に取組めるようになるには満州事変(1931年9月)以降であることを、軍の動きなども含めて「あじあ」前史として解説している。
人材育成では“海外留学制度”と“南満工専・旅順工大”の2章を設けているほか、随所にそれに触れており、非常に人材育成に熱心だったことがわかる。有名な流線型蒸気機関車パシナの設計者(機関車主任)、吉野信太郎が言わばこの本の主役になるのだが、彼は内地の生まれながら南満工専(第一期生)から旅順工大に進み、更に米国の鉄道車両会社へ研修派遣されている。他の多くの技術者も満州育ちで、鉄道省(後の国鉄)とはかなり出身母体が異なる(鉄道省は帝国大学、特に東大が中心)ことをこの本で初めて知った。
さて「あじあ」である。通常編成は7両(機関車、手荷物車、三等車2両、食堂車、二等車、展望一等車)で全長170m、乗車定員270名である。随分贅沢な列車であることがこの編成からわかる。最高速度は110km/hを超す区間もあり当時としては世界的なレベルに達している。特徴的なのは流線型をした機関車と半円形をした展望一等車。機関車は現在米大陸を走るディーゼル機関車のようで、力強さとスピード感を併せ持っている。ただ、流線型の蒸気機関車開発は保守の問題などあり苦労している。機関車開発に次いで技術的に挑戦だったのは空調システムである。満州の気候(塵埃を含む)に耐える高速走行には密閉式の客車にする必要があり、空調が不可欠となるのだが、米国で一部運用例があったものの実用化はその著についたばかり、この開発や運用上のトラブルとその解決にもかなりのページを割いている。こんな特別な列車が、戦争が深まる中で時勢に合うはずはなく、1934年に走り出して9年後、1943年にはダイヤから消えることになる。
本書の著者は私よりも4歳上の大連生まれ。父親が墲順炭鉱に関係していたようで、この「あじあ」に乗車体験をしている。現在は満鉄会常任理事で、長いこと出版社で編集に従事していたこともあり、資料や調査が行き届き、構成や文章もきわめて自然で読みやすい。昭和史と技術史の一片を知る良書である。
2)消えたヤルタ密約緊急電
昭和20年8月9日朝目覚めると、父が「朝食が済んだら(市内(新京;現長春)に点在する)社宅を廻るが一緒に来るか?」と問う。自動車に乗れる!先ず浮かんだことはそれである。この日ソ連軍が満州に侵攻したので、事務管理職だった父は対応策連絡のためその必要があったのだ。夕刻には現地緊急徴集で、父も含め大人の男はほとんどいなくなってしまった。ヤルタ密約が行動に移された日の個人的な思い出である。爾来“ソ連は不意打ちをする汚い国”が長いこと私の対ソ観だった。
しかし、歴史が少しずつ明らかになるにつれ、ヤルタ会談でルーズヴェルトとスターリンの間で事前にソ連の対日参戦が話し合われ、“ドイツ降伏後3ヶ月”がその時と決したことを知り、連合国間ではその約束を忠実に守った満州侵攻であることがわかった。こうなると終戦工作をソ連に頼った、時の日本政府・軍部がまるで道化のように見えてきて、今に続く日本外交の不甲斐無さとオーバーラップし、卑怯なロシア人より間抜けな日本人(為政者)に腹が立つようになってきた。一般人に比べ桁違いに情報を持っていた彼らが、参戦兆候くらいつかんでいなかったのか、と。
もしその情報がポツダム宣言前に昭和天皇に伝わっていたら、その後の言動から推察して時の首相が「黙殺する」と発言するような状況にはならなかったのではないか。広島・長崎への原爆投下、北方領土の喪失、満州の悲劇、シベリア抑留は無かったのではないか。歴史に「もしも」は禁句だが、ソ連参戦が戦後の日本に与えた影響があまりにも大きく、「あれさえなければ」の思いが募ってならない。
本書は、ソ連ウォッチャーとしてヤルタ密約を察知し、参謀本部にそれを報じた駐スウェーデン武官、小野寺陸軍少将(最終)の言動・足跡を追いながら、当時の日本中枢に在った人々が何故あのような(ソ連仲介)終戦工作に乗り出すようになるのか、小野寺が発した密約緊急電はどこに消えたのか、誰かが握り潰したのか、それは何のために行ったのか、を小野寺の残したテープ談話、防衛省・外務省に残された記録、米国公文書館・英国立公文書館に保存されている資料などを丹念に調査し、仮説と論理を構築し検証して、当時の日本中枢の特異な体質を明らかにしていくものである。
構成は、諜報活動が縦糸とすればそれを利用する意思決定の場が横糸となるのだが、この組み合わせが巧妙で、好きな軍事サスペンスを読むような面白さがある。
縦糸の諜報網は最初の任地がラトヴィアであったことから、いずれも対ソ戦略に意を用いる必要のあるバルト三国、ポーランドを中心に構築される。もともとドイツ語専攻であるがシベリア出兵で彼の地に滞在している時にロシア語も学んでいる。言葉の点でも対ソ活動を行う素養は充分だったようだ。ポーランドはドイツに破れ亡命政権がロンドンにできて連合軍側に加わるが、日米開戦後敵味方になったにもかかわらず、情報網は継続される。この辺は如何にもスパイの世界、相手も枢軸側の情報が欲しいのと、個人的な信頼関係はそのまま維持されるのだ。
こうして得られた情報から独ソ戦開戦の警告を参謀本部に送るが、三国同盟に傾斜している日本はこれに耳を傾けることをしない。肝心のヤルタ密約電は重要な意思決定を行う場に全く現れてこないし、戦後も誰も見たことが無いと一様に答える。どこかで止め置かれたに違いない。
参謀本部、その中でも特別なエリート集団である作戦課(陸大の成績5番以内。ここだけは部屋の前に番兵が立っている)は自ら立てる戦略・計画の条件・シナリオを覆すような情報を嫌う風土が強く、ヤルタ情報を握り潰したのも、当時この課の課員であった瀬島龍三、と言うのが本書の推論である(一度は小野寺にそれを白状するのだが、その後は「何かの間違い」ととぼけて認めない)。当時の国家主義とソ連共産主義とは共通する考え方も多く、優れた参謀将校にソ連に好意的な人がいたことは確かなようだ。
結局、密約電が国家最高意思決定の場に届かなかったのには、この参謀本部作戦課の体質(電報は情報課の扱いだが、先ず作戦課がチェックし、没にできた)が一番問題なのだが、次いで彼が皇道派と見られ(中枢は統制派がおさえていた)、重用されなかったこと(小野寺が小国の駐在武官にまわされる背景でもある)、さらに外務省と陸軍の間の縄張り争いで、駐スウェーデン公使(今なら大使)が“越権行為の小野寺情報を信用するな”と流していたことも遠因のようである。いずれもいわば官僚の内々の争いで、一般国民は酷い目に会ったわけである。
この本を読むと当時の日本陸軍のインテリジェンス活動がなかなか優れたものであることが分る(それに比べ海軍や外務省はお粗末だし、情報を使う側にそれに見合った力量が無いことを痛感させられる)。大量のユダヤ人にビザを発行して、“日本のシンドラー”と言われるようになる、杉原千畝も外交官であると同時に、裏でポーランド情報機関とつながる(ビザ発給は情報提供の見返り)“隠れ情報士官”だった可能性の高いことを明らかにしている。
本筋とは直接関係ないが、現日本共産党書記長の叔父、志位正二少佐(関東軍情報参謀)がシベリア抑留中徹底的な洗脳を受けて、共産党のシンパになり、ラストボロフ(KGB将校)亡命事件の際、警視庁に自首していることなど、いろいろ秘話もあり、450ページを超す大部を興味津々で読むことができた。
3)日本型リーダーはなぜ失敗するのか
手にする大分前から書店に平積みになっていて気になっていた。しかし、如何にも内容が透けて見えるような題に引っかかり直ぐに購入することは無かった。にも拘らず、結局求めることになったのは、頻度は減ったとはいえ都心への電車内で読む本が、買い置きの中に無くなったからである。文庫本や新書はこんな動機で買うことが結構多い。
大出版社(文芸春秋社;編集長→役員)の名編集者にして、日本近代史・昭和史に詳しい作家が、講演内容を題材に口述筆記し、書物としてまとめたものである。講演目的は、多分企業人向けに“リーダーシップ”研修などを行うためのものであろう。太平洋戦争における帝国陸海軍の将軍・提督の言動を材料にそれを語る。
日本人リーダー理想像(特に軍人)は;参謀の熟慮によって出来上がった案を、細事を質すようなことはせず、まして覆すような意見を言わず、その結果起こることの責任は全て負う;海軍は東郷平八郎、陸軍は大山巌を範として形作られたのだと言う。お神輿に乗って祀り上げられるタイプである。結果として、責任を負わない参謀の力がむやみに高まってしまい、諸作戦に失敗した。だから、あなたたちは、スタッフ任せにせず、情報を自らも集め、それを基に徹底的に考え、判断を下し、その考え方を分かり易く皆に説明しなさい、と言うのが著者が伝えたいことのようである。尤もである。
戦場はノモンハン、真珠湾、ミッドウェイ、ガダルカナル、インパール、レイテ沖;指揮官・参謀は辻正信、山本五十六、南雲忠一、牟田口廉也、小沢冶三郎、などが取り上げられ、それぞれの作戦とリーダーの資質が論じられる。皆おなじみの戦闘と顔ぶれである。話も個別にはもう手垢がつくほど語られ、書かれてきたことである。しかし幅広い層への講演としては聴衆の受けは間違いないのであろう。この人の作品は確りした調査・取材に基づくものが多かっただけに、何か“手練れた”感じが漂うのが個人的には残念に思うところである。
4)日本農業の正しい絶望法
生物(動物・植物)の勉強は中学で終わった。高校での理科は化学、物理しか選択しなかった。従ってその後もこの分野(医学を含む)への関心は総じて低い。だから農業へ目が向くのは大体政治経済問題(例えばTPP)が関わるときに限られる。この本の購入動機も前書同様携行に適した本が無くなり、“絶望法”と言う題名の一部に惹かれて衝動買いした。読んでみて、確かに日本農業が“絶望的”状態にあることがあらためてわかった(随分誤認識していたことも多い)。
著者は中堅の農政学者。当然政治面から日本農業を論ずる部分は多いのだが、一つだけ今までの農政ものと際立って異なるのは“耕作技能”に深く触れている点である。つまり、良質な(美味、高栄養価、低環境負荷、高生産性)農産物を作ることのできる環境と人が急速に失われてきていることへの警告の書なのである。まえがきで「もう遅すぎるかもしれない」と語り、最終章は“日本農業への遺言”で終わる。
反収13俵・食味値95点と言う稲作名人が最近相次いで亡くなった。反収10俵で多収・食味値85点で高品質と評価される世界でこれは神業に近い。このような好成績をあげるには、不断の自然現象の観察・分析、土作り、堆肥作り、水の管理などもろもろに気を配ることが不可欠なのだ。しかし、今やこれら名人を引き継ぐ環境(単に人だけの問題ではなく)は年々厳しくなってきている。これは稲作ばかりでなく野菜栽培も同じで、耕作技能低下によって確実に栄養価が低下している。一つの例はホウレン草に含まれるヴィタミンCの含有量、ここ20年で半減しているのだという。
一方で営農環境を改善すると称する政策が種々進められるのだが、実効を伴わず“ハリボテ農業”が横行している。ハリボテ農業とは“名ばかり有機農産物(堆肥作りや施肥がずさんで味や栄養価が低い)”、“ファッション農業(インターネット販売や顔写真つき)”や“地産地消を謳う直販所”など話題先行農業のことだ。直販所など所によっては“ゴミ捨て場”に等しいものもあると断じる。
何故こうなってしまうか?ひとつは“川上問題”つまり農政とそれに基づく自治体や地域、個別農家の行動。もうひとつは“川下問題”つまり消費者の農産物に対する評価(特に賞味力)にあるとし、これをさらに深く課題ごとに分析・解説し、早急に適切な対策をとらぬと日本農業の将来は無いと訴える。
農業の付加価値(GDP)は3兆円、補助金は4.5兆円、農業を止めてしまうほうがGDPは上がるのだ!それでいいのだろうか?“絶望法”と言いながら著者は何とか多くの人にこの問いを否定できる改善策を考えるよう願っているに違いない。その証拠は、この人の研究が政治・行政面ばかりでなく、全国規模で農家を訪ねながら現場にじっくり入り込んだ調査に基づいていることから窺うことができる。
奥付を見ると9月20日発行、11月10日6刷となっている。短期間に増刷されていることは、私のように普段農業などに関心の薄い者も読んでいると言うことだろう。嬉しいことである。
5)山手線に新駅ができる本当の理由
京浜急行の沿線に住んで30年を超す。品川がターミナル駅となるだが、この間の品川駅周辺の変化は著しいものがある。特に港南口の開発は大規模で、その景観を一変させ、オフィスセンターとして見違えるように変貌した。それに新幹線が停まるようになり、羽田空港拡張・国際化もあって益々活気を帯びてきている。そこへ本年1月、山手線品川-田町間に新駅ができるとの記事が出た。これはその計画を明らかにすると伴に、都市工学者としての著者の提言(夢・期待)をまとめたものである。
年初にこの計画が明らかにされたときは、山手線・京浜東北線が東側に移動し、東海道線・横須賀線と接近・並走させ、品川-田町間に新駅が設けられると言うものだったが、本書によると計画の全容や背景が詳しく理解できる。ここに書かれていることは種々の関係者のそれぞれの計画や希望を全て調整した最終結果ではないが、かなり野心的な都市改造計画になる可能性がある。
先ずJR東日本が実施・計画しているのは;
①東京-上野間に東北縦貫線を開通させる(既に工事中)
②高崎線・宇都宮線・常磐線を東京駅まで延長して東海道線との相互乗り入れを行う
③この縦貫線を利用することにより品川車両基地を廃止し、田端・尾久基地に集約する
④山手線・京浜東北線を東に移動する
⑤ここで空いた車両基地用地と山手線・京浜東北線部分を再開発する
このJR東日本の計画に加えて、国・東京都・JR東海など以下のようなことを目論んでいる;
⑥この地区を国際特区に指定して各種事業を行い易くする(羽田の国際空港化との相乗効果など)
⑦東西を結ぶ道路整備する(環状4号線の伸延)
⑧品川にリニアー新幹線のターミナル駅を設置する
⑨現在成田と羽田を結ぶ都営浅草線の新線を丸の内経由で開通させ、成田-東京(丸の内)-品川-羽田を結ぶ、空港直結運転を可能にし、大幅な時間短縮を図る
さらに著者が、期待するのは品川駅東部にある倉庫地帯を再開発で、ウォーターフロントとして新しい街づくり行うこと提唱している。
確かにこのアイディアは、港南口が変貌したとはいえ、依然オフィス街と“交通の要衝”としての変化までで、新宿、渋谷などに匹敵する“ダウンタウン(繁華街)”としての機能・魅力を欠いているのが実情であることから、是非実現してもらいたいものである。
ただ新駅ができるのは2020年、新しい街づくりが完成するのがそれから10年(2030年)とすると、生きていてももう一人で出かけることはできない可能性は高い。軽い本だが“歳と夢”の関係を現実の問題として、不意に突きつけられた本だった。
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