2013年5月30日木曜日

今月の本棚-57(2013年5月分)


<今月読んだ本>
1)私の途中下車人生(宮脇俊三);角川学芸出版(文庫)
2)ビブリオバトル(谷口忠大);文芸春秋社(新書)
3)ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト(ポール・アレン);講談社
4)工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行(今野浩);新潮社
5)集合知とは何か(西垣通);中央公論新社(新書)

<愚評昧説>
1)私の途中下車人生
毎度本欄でお馴染み(先月も登場)の鉄道紀行作家宮脇俊三の本である。しかし、本書はこれまでのものとはちょっと異なる。一応著者名は宮脇俊三となっているものの、対談者の問いかけに答える形でまとめられていること、話題は鉄道中心であるが、それ以上に宮脇の人生そのもの紹介であることがその違いである。
7人兄弟の末っ子として生まれ、幼少・少年時代に住んでいたのが市電(後の都電)の青山車庫(試運転場も併設)の近く、山手線も行動範囲という場所柄から鉄道に惹かれていく。因みに父宮脇長吉は元軍人、大佐で退役し代議士に転じている。国家総動員法審議に際し、説明を行う佐藤賢了中佐に強烈な野次を浴びせ、中佐の「黙れ!」の一言が陸軍大臣の謝罪につながる事件をひき起こして、その名を昭和史に留めることになる。彼がまだ小学生時代の出来事である。そんな環境・時勢の中で愛読書は“時刻表”と言うのは、かなり変わった子供だったようだが、一人ぽつんと離れて生れた彼を両親は好きなようにさせてくれる。それどころか父は仕事(翼賛体制からはじかれた長吉は落選、鉱山経営を行っている)で遠隔地に出かけるときに同道さえしてくれる。
宮脇が鉄道紀行作家として知られるのは、長く勤務した中央公論社を退職した後出版した「時刻表2万キロ」に依るから、少年時代好きだったことを続け、第二の人生を趣味に費やす恵まれた人と一見見えるのだが、そうでないところが人生である。その“途中下車”を、鉄道を核にして語り下したのが本書である。
旧制の成蹊高校(中高一貫;数学が得意だったので理系コースを履修)から東大理学部地質学科に進む(ここなら鉄道に乗れる機会が多そうだと)。しかし、家は戦災に会い熱海で暮らすうちに地質学への興味は失せ、戦後文学部西洋史科に転科する(学制が変わりあらためて入学試験を受ける必要があった。卒業論文はモーツァルト研究)。就職はNHK、文芸春秋に落ち、日本交通公社(JTB;本人は旅に関する出版に携わるつもりだが、会社はガイド候補として採用)に受かるのだが、ひょんなことで受けた中央公論に入社する(入社試験は論文だったが“小説”を書く)。しかし、結核に罹り長期療養、休職期限を越えてしまい退社。一転建築家を目指すが、思うように行かない。そんな時中央公論から復職の誘いがかかる。全集もの(中心になって進めた「世界の歴史」は大ヒットし、新社屋建設に寄与する)、婦人公論、中央公論の編集者(いずれも編集長を務めることになる)としての仕事の合間(金曜の夜から月曜の朝まで)の鉄道旅行はいつしか全国規模になり、“国鉄全線乗車”が見えてくる。経営者(常務)となった宮脇は労働争議で組合との交渉役として奮闘、何とかこれを解決するが、出版社経営への情熱は失せてしまう。定年を待たずに自己都合退職、作家としての人生を歩み始める。
専門分野変更、病気、失職、どれ一つをとっても順調な人生とは言えない(加えて、本書では全く触れられていないが、発病前に結婚し失職中に離婚している)。このような苦しい体験と本来の育ちの良さが影響し合い、途中下車や乗換えの多いローカル列車の旅を愛し、作品に共通する、飄々とした感じとユーモラスな雰囲気それに時として現れる優しさや哀歓につながっているに違いない。特に本書が書き下しではなく“語り下し”故にその感が直接伝わってくる。

蛇足;中公新書を起案・発刊したのもこの人です。

2)ビブリオバトル
ビブリオとは“図書”をあらわすラテン語。バトルは“戦い”だから、直訳では“図書戦争”と言うことになるが、「書評合戦」が適訳だろう(“バトル”と言うほど敵対的な性格ではないので、サブタイトルにある「書評ゲーム」がより実態を表しているともいえる)。言葉も、ルールも著者の周辺から発しており、その発案者が書いた本である。一見旧来の読書会・書評会のような印象を受けるが動機や進め方は全く違う。“書評”の文字に惹かれ読むことになったが、読み進むうちに「これは面白い!やってみようかな」と言う気分になっていった。
著者は京大で精密工学を専攻、博士過程ではロボットと人間のコミュニケーションを研究したようだ。博士号取得後得た最初の仕事は同じ大学の大学院情報学研究科ポスドク研究員である。この大学院は工学研究に限らず社会科学や人文科学も研究領域に含む新しい大学院で研究テーマの選定にもかなり自由度がある(それだけにテーマの発見・絞込みに苦労する)。この(コミュニケーション)研究テーマ発見とプレゼンテーション能力(これもコミュニケーション)向上を効果的に行う方法として考え出されたのが“ビブリオバトル”なのだ。
専門家や読書家にとって読んでみようと思う本には傾向があり、興味のないテーマはまず取り上げない。ここで大きな選別フィルターがかかってしまう。思わぬ本に出会い、それがきっかけで新しい分野にヒントを得て、そこから研究活動を展開し新発見・新発明に繋がるような成果があるのではないか。普段自分が手にしない本との出会いの新たな機会を作る。これがこのゲームの目的である。
ルールは;
1)発表参加者が読んで面白いと思った本を持って集まる。
2)順番に一人5分間で本を紹介する。(この時間制限は必須;時間がきたら途中でも終了)
3)それぞれの発表の後に参加者全員でその発表に関するディスカッションを23分行う。
4)全ての発表が終了した後に「どの本が一番読みたくなったか?」を基準とした投票を参加者全員で行い、最多票を集めたものを『チャンプ本』とする。
これだけである。
読書会や書評会が中身を問題にするのに対して、ここではその本の面白さを如何に説明するかが得点獲得のカギとなる。その点では書評としての深みはないが、広告で知る、店頭で手に取る、新聞などの書評を読むなどの方法に比べ、双方向の会話があり、チャンピンを目指した紹介者の意気込みが直に伝わることで、紹介された本に対する関心・理解が高まる利点がある。
一見本の紹介・発見の一手段に過ぎないこのゲームが、実は「人を通じて本を知る」だけではなく「本を通じて人を知る」ことになり、この面での効果が最近注目されてきているようである。本書の後半ではこの効用について具体的な説明をしているが、なかなか説得力のあるものになっている。
このゲームは2007年著者周辺から発し、大阪大学の科学コミュニケーション研究学生グループに伝播、ここを中心に有志が集まり“ビブリオバトル普及委員会”が結成され、試行グループが大型書店(紀伊国屋など)地方自治体(公共図書館など)などに広がり、緩いネットワークを形成して、着々とその場を広げているようである。
細かい運用上の注意事項(例えば、公開・非公開、大人数の大会)など、先行者による助言などあったほうが良いと思うが、著者は「まあ、居ればそれにこしたことはないが、必須ではない」と述べている。本を読む人が少なくなってきているといわれる。こんな試みが読書家を増やす切っ掛けになればと期待している。

蛇足;事例では、漫画本や写真集まで取り上げられている。

3)ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト
マイクロソフトが発足した時(1975年)社名は「アレン&ゲイツ」になるかも知れなかったのだが、著者(ポール・アレン)が「これではまるで法律事務所だ」と言って「マイクロコンピュータのソフトウェアを開発する会社だからマイクロ-ソフト(Micro-Soft;初めはハイフンが間にあった)にしよう!」とその名が決まったエピソードが出てくる。日本ではマイクロソフトはビル・ゲイツの起こした会社のように思われているが、米国では二人が若い頃からのパートナーであることはよく知られている。そのポールが書いた題名通りのノンフィクション伝記である。ただし原題は“Idea Man”。ビルを“ビジネスマン”とすれば二人の果たしてきた役割分担が明確に伝わる。そう!ポールはビジネスマンではないのだ!
二人が知り合うのはシアトルの私立中高一貫校レイクサイド・スクールだ。ポールは10年生(日本流に言えば高校1年生)、ビルは8年生(中学2年生)、コンピュータ室(とは言っても本体はなく端末だけが設置され、遠隔地にある大型コンピュータをタイムシェアリングで使う)に出入りしているうちに、お互いの優れたプログラム作成能力を認め合い親しくなる。評判は市内に在ったソフトウェア開発会社にも伝わり、そこで一緒に小遣い稼ぎを始める。やがてポールはワシントン州立大学のコンピュータ・サイエンス科に進み(1971年)、2年遅れてビルはハーバード大の数学科に入る。当時ボストンはシリコーンヴァレーと並ぶコンピュータのメッカ、ワシントン大の入門コースに物足りなさを感じていたポールはビルの誘いに応じて、休学してボストンに向かう。これがマイクロコンピュータ(マイコン)の出現と併せて、その後のマイクロソフト誕生の切っ掛けとなる。
コンピュータは人間がプログラム(一連の作動手順)を作って初めて動く。原初この手順指示は01の二つの数字の組み合わせで行われた(いまでも内部は同じ)。これを機械語と言う。しばらくするとこれをアルファベット数文字(3文字が多かった)で意味を持たせてプログラムを作る言語が出てくる(引き算なら“SUB”と言うような)。これがアッセンブラー言語である。これはさらに自然語近い高級言語(フォートランやコボルなど)に置き換わっていく。この高級言語の一つにBASIC(ベーシック)があり、やがてマイコン用に普及していく。このマイコン向けBASICMS-BASICとする)を二人が手がけ事業化に成功するのだ(1975年)。
この時のポールとビルの役割はそれほど明確に分かれていないのだが「マイコン用BASICを作ろう」と言い出したのはポール、MS-BASICプログラムの開発はビルに比重がかかっている。そして抜け目のないビルは「プログラム開発の貢献度は自分のほうが高いから、取り分は五分五分ではなく六分四分にしてくれ」と主張、ポールにも言い分(ミニコン、DECの上で動く開発環境(エミュレータ;一部しか公開されていないマイコン作動ロジックを推理しながら、ミニコン上に再現する)を作り上げたのはポール)はあったもののこれを呑む。
次のチャンスは密かにPCの世界に打って出ようとしていたIBMからやってくる。MS-BASICの実績を評価して、極秘裏にPC用のオペレーティング・システム(OS;コンピュータを動かすための基幹ソフト)を共同開発しようと言う提案である。このころのPCOSはサンディエゴに在るディジタル・リサーチ社(DR)のCP/Mが事実上の標準(デファクト・スタンダード)になっていた。MS-BASICもこの上で動いていたからMS側は三社の共同開発を提案、IBMDRとの接触を勧める。しかし、素性を明かさず機密保持契約を求めるIBMDRの共同経営者(妻;夫は不在)はサインを拒む。やむなく業界ではマイナーながら、ポールが早くから目配りしていたSCP(シアトル・コンピュータ・プロダクト)のOSをベースにIBMPC向け新OSを開発することになる。
このように業界の技術動向については常にポールが状況把握し、ビルがビジネスとしての可能性をタイムリーに判断する経営がしばらく続くのだが、新OSが世に出る前、ビルは自分の存在がより大きいと主張、会社の持分を六分四分から64%対36%にしたいと要求してくる(1977年)。再び不本意ながらポールはこれを受け入れる。
二人の関係に齟齬が生じていく中、新OSの開発は数々の問題にぶつかりながらも1981年完成、MS-DOSとして世に出る。IBMPCは爆発的に売れ、MS-DOSPC/OSとしてデファクトの地位を確立、マイクロソフトの知名度も一気に上がる。当時米国外では最も積極的なPC開発拠点だった日本はIBMに次ぐMSにとっての宝の山、精力的に売り込み・提携をこなしていくのは専らビルの役割。溝はますます深まっていく。19826月ポールはビルに決別の手紙を書く「とても辛いことだが、僕は一つの結論に達した。そろそろ僕は、マイクロソフトを去るべきなのだろう、・・・」と。
退職は直ぐにはしなかったものの、経営に直接関与することはなくなり技術顧問兼取締役(大株主)として部屋を与えられる。そこへ更なる不幸が訪れる。膝の裏側に痒みを感じたがそれが癌の一種ホジキン病だったのだ。結果から言うと、命に別状はなく回復するのだが、死への恐れと治療のために気力・体力とも著しく低下してしまう。「もうエネルギッシュに活動するビルについていけない」19832月ついに自分が作り上げた会社を退職する(29歳)。ただし、ビルからの「株式を引き取りたい」との提案を断わり、19905月の株式公開で大富豪になる。
現在(2013年)のビルの資産総額は700億ドル(7兆円)を超すといわれている。単純に前記の持株比率からポールの資産を概算すると350億ドル(ビルにはCEOとしての報酬もあるし、一方のポールはネットワーク事業への投資では大きな損出も出しているので、この数字は極めて大雑把なものであるが、今でも世界の資産長者番付で50位以内である)。
若くして大金を手にした者が何をするか?それが本書の後半部分である。バスケットボール・チーム(ポートランド・ブレイザーズ)やフットボール・チーム(シアトル・シーホークス)のオーナー、理想を体現したIT研究所、インターネット普及前の通信事業、脳科学研究所、映画製作会社(ドリーム・ワークス;スピルスバーグ、ルーカスの会社)への出資、シアトル出身のロック歌手、ジミ・ヘンドリックス記念館の設立(高校生の一時期、真剣にロック・バンドの演奏者(エレキ・ギター)を夢見たこともある。ミック・ジャガーと自家用船上で共演している写真がある)などなど。ここを読むと、この人は極めてITに関する先見性と好奇心に富むが、夢が先行してビジネスマンとしての脇の甘さが拭えない。自分でもそれを分っていながら何度か投資・事業に失敗している。ビル無かりせばの感を強く持つと同時に、ポールが去った後営利企業としては着実に経営されているものの、OSWindows)以外に魅力的商品が出ていないマイクロソフトが失ったものも大きいように思う。
ここで現役ビジネス・パーソンに伝えておきたい彼の考え方がある。それは“イノヴェーション経営の危うさ”である(特にIT分野ではそれが顕著)。一言で言えば「必ず後から来たものにキャッチアップされ、淘汰される(最初のチャンスをつかんだマイコン販売のMITS社、PC/OSで独走していたDR社、はIBMPCの出現で消滅あるいはリーダーの地位を失う)」と言うことである。閉塞感が漂う経済・経営環境の中で“イノヴェーション経営”が喧しいが、マイクロソフトの発展(マイクロソフトの製品に、真にオリジナルといえるものはない)から彼のもろもろの失敗まで、この警告の持つ重みは、自らの体験に基づくだけに大きい。改良(性能・価格だけではなく、デザイン・売り方・使い方などを含む)にこそカギがあると言うメッセージである。
いまや二人ともマイクロソフトを去り、起業家支援や慈善事業に傾注している。二人の仲も修復されたようだ。若きヒーローたちの波乱に満ちた猛々しい人生が、静かに収斂していく姿は読み終わってホッとした気分にしてくれる。これがアップルの創始者、スティーヴ・ジョブスの伝記(最後は壮絶な戦死)を読んだ後との決定的な違いである。

蛇足;ビルは結婚し子供もいるが、ポールは独身(ひとり結婚も意識して付き合っていた女性が出てくるが、ボストン時代に別れている)。遺産は主に社会福祉事業に向ける考えのようである。

元東芝青梅工場長(元東芝情報システム社長)を務められた方からのコメントです。
眞殿さま

Seattleにはよくいきますし、今年こそ行きませんが毎年と言っていい位です。
ですからPaul AllenとBill Gatesについて(Billとは青梅でパソコンをやってい
たとき前後10回くらい会っています、Paulには会ったことはありません)の私の
感想は今でも仲がよい富豪だと思います。それぞれの自宅がワシントン湖の湖畔
にあり素晴らしい家なんです。
Bill は技術者として立派な男と思います。自分の部下がやっていることを全て
出来るからです、その上責任感が強くやっかいな問題を自分の知恵と体力で切り
抜けています。Microsoftは大会社になりましたが、私が付き合っていた時代は
小さなsoftware会社でした。Billhaその時29歳と思いました。

岡本 行二

4)工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行
お馴染み“工学部ヒラノ教授”シリーズ第6弾である。今回は舞台をアメリカに移す。装丁も一新、いかにもアメリカンだ。
著者と私との生年の違いは1年、導入部に書かれた“アメリカへの憧れ・思い”は見事に重なる。特にハリウッド映画からの影響はまるで自分のことのようだ。大きな違いは、中学時代映画の観過ぎ(何と400本!)で高校受験に失敗し(編入で結局入るのだが)、高校では映画断ちをするところである。結果東大に見事現役入学している。私の場合、高校時代映画(ほとんど米画)鑑賞に熱中(中学ではとても著者に及ばないが)、3年生の進学指導で父が「ちょっと映画の観すぎです」と注意されたほどで、当然受験に失敗した。この映画を通じて刷り込まれた、眩しいほどに輝いていたアメリカ像が共通基盤としてあり、それをベースに読んでいるので、その後に直面する現実米国社会とのギャップ(人種差別;特に応用数学の世界で圧倒的な力を持つユダヤ人、競争社会;職場・地位の確保・維持、格差問題;身分・大学間格差など)を語る本書がよりよく理解できたのである。つまり根底にある“過度なアメリカ化”への批判に共感するところが多かった。
既刊の“ヒラノ教授シリーズ”や本欄の読者であればで、教授がスタンフォード大学で博士後を取得し、その後各種の国際研究機関や米国の大学で活躍したことはよく承知のことであろう。特に俊秀が集まるスタンフォード大OR学科での熾烈な競争は「世界トップクラスの研究室はこれほどの知的戦いの場なのか!」と認識を新たにしたに違いない。本書でもそのダンチック教授門下としての修行の厳しさは紹介されるが、主たる舞台は既刊ではあまり深く触れられなかったパデュー大学のマネージメント・スクールに移る。
パデュー大学はインディアナ州のラファイエット市に在る州立工科系大学。日本では根岸博士のノーベル化学賞受賞まであまり知られていなかったが、工学部は全米でも5指に入る名門大学。しかし、マネージメント・スクールの評価は今一である。つまり二流以下なのだ。ヒラノ教授はここに、有力教授のサバティカル(長期)休暇の穴埋め役として迎えられる。資格は客員准教授(当初は客員教授の提案、派遣元の筑波大学にも客員教授として申請しOKが出るが、最終的に論文数不足で准教授になる。このいきさつは“事件ファイル(経歴詐称)”に詳しい)。研究者としては既にウィスコンシン大学の研究所にも勤務経験を持ち、それなりに経験を積んでいる(一言で言うと、論文数不足で冷遇・卑下される)が、教えるのは初めての経験である。米国の大学では学生・教員の間も真剣勝負(当然評価の対象)、なめられたらお終い。先ず教科書に確り目を通し、万全の備えで臨まなければならない。客員ゆえ、自前で教科書を用意する必要はなく、休暇中の教授と学部長共著のテキストを使うのだが、スタンフォード辺りの一流と比べこれが丁寧すぎる。二流校ゆえである。
二流校を一流にしたい。どこの二流大学もこれは切なる願いである。スタンフォード大学も創設来戦後しばらくまではただの西部のお坊ちゃん大学だったようだが、カネに物を言わせて一流の学者を一気に多数揃え(ダンチック博士もこの時ランド研究所から引き抜かれる)、大変身した歴史がある。パデュー大のマネージメント・スクールにそれは可能か?ヒラノ教授の答は“否”である。理由は大学が所在する場所が余りに退屈な所からだと言う。大平原の中に大学しかない。一流の評価が固まっている工学部はともかく、これほど刺激のない場所で二流となると、少々報酬が高くても移ってくる人は少ないし、評価が高まれば外へ出てしまう。おまけにマネージメント・スクールは研究機関ではないので研究費で釣ることも出来ない。つまり解はないのである。
ヒラノ教授が次に驚くのはマネージメント・スクールの教育内容である。典型的なOR応用問題に輸送問題がある。複数の生産地と消費地が在る条件の下で、総輸送費が一番安い輸送計画を策定する。供給が需要を上回っている時、解は必ず求まる。しかし、需要が供給を上回ったらどうなるか?単純には解は出ない。ここで使った教科書にその問題と解法が出ていた。需給方向を逆転させるのである。こうすれば数学的には輸送費ミニマムの最適解が求まるのだが、何処かの(遠くて数量の少ない)お客はカットされることになる。「こんな経営でいいのか?!残業してでも増産するのが経営だろう!」ヒラノ教授は唖然とする。この問題からアメリカが誇るMBA教育への疑念が沸々と湧いてくる。「こんな教育を修めただけの学生がいきなり管理職・経営者になっていいのか?」と。
他にも、米国大学の財務体質(極めて金持ち)、学問上の功名争い、応用数学界におけるユダヤ人の見えざる糸、パーティーの重要性とルール(夫婦同伴、借りは必ず返す、お土産)、学問上の用語に関する誤解(Household Economics;を家政学と解釈し、「花嫁修業に役立つ」と応じて大学教授夫人(Household Economicsの博士)の逆鱗に触れ、出入り禁止となる)など興味深い話題満載。そこには彼我の大学そして社会比較が通奏低音として流れ、無批判でアメリカ文化を受け入れてきた我々世代の責任におよんでいく。
この本を読んで、誰に読ませたいかと考えた。中学生・高校生(特に理工系進学希望者)がその答えである。アメリカが世界に誇る大学教育システム(産業)と一流の学者・研究者の実態を知ることの出来るよい教材だからである。身近にそのような潜在読者がある方は是非薦めていただきたい。

蛇足;出版社が新潮社に戻った。売れると!と読んだに違いない。
本件に関する著者からのコメント;

新潮社との関係は以下の通りです。新潮社には同一著者のノンフィ
クションは年に一冊という内規があるそうです。若ければともかく、そ
れでは命が尽きてしまうので、あちこち当たって出してもらっています。
今回は年に1回の里帰りです。
秋にはまた青土社から出してもらえそうです。年に3冊、これが当面の
ノルマです。論文の場合は、内容が正しければ読者が少なくても出し
てもらえますが、一般書は読者がいない本(売れない本)は出してくれ
ません。また新潮社の編集者の審査は、OR学会論文誌のレフェリー
と同程度の厳しさです(OR学会のレフェリーは経済学者ほどではあ
りませんが、とても厳しい、もしくは厳しすぎるという評判です)。
というわけで、現役時代と同程度には“苦しみながら“書いています。

5)集合知とは何か
“集合知”という言葉すらこの本を読むまで知らなかった。ただ3月初め“総合知”学会と言うところで講演を求められ、細分化された学問領域を超えた新しい研究活動を進めている人々と交流する機会があり、それとの関係でこの言葉に惹かれ本書を読むことになった。読んでみて総合知研究(この研究自体まだ領域設定を模索している感があるが…)と集合知研究に多くの共通点がある一方、総合知は自然科学(主として工学)から社会科学(政治、経済、国際関係など)に領域拡大を目指しているように見えるのに対し、集合知は自然科学領域(工学、生理学・医学)を中心に人間と機械(主にIT)の役割分担のあるべき姿を追究しているところに違いがあると解釈した(この研究も人文科学;哲学・宗教、心理学などへの研究領域拡大はあるが…)。
先ず集合知の位置付け・意味をざっくりと要約すると、対極にあるものとして専門知がある。専門家の権威ある(と思われてきた)知識のことである。これに対して集合知は言わば“(素人)三人(多数)寄れば文殊の知恵”(となるかもしれない)となる。導入部では3.11における原発事故が取り上げられ、専門家の醜態・権威失墜(事故発生直後よりもその後の対応)がクローズアップされ、専門ムラ社会の問題点・原因が紹介され、一般人の常識を集めて整理すること(集合知)により、よりましな対応策ができた可能性を示唆する。だからと言って、携帯端末でつぶやいてことを決めるような無茶な考えを推奨する意図は全くない。
専門家の知見が尊ばれてきたのは何故か?先ず専門知を掘り下げるところから始まる。専門家の意見は論理的で客観的であることに説得力がある。昨今は論理的・客観的は良いこととされ、経験的・主観的な考え方を排する風潮がある(特に組織における意思決定・合意形成に際して)。しかし、論理に基づく解はその上にある枠組みに左右される(数学問題の解が初期条件・境界条件で変わることと同じ)。枠組みそのものは必ずしもは論理的に出来上がったものではなく、拠りどころは宗教や社会通念・規範にある。そう捉えると専門家の論理性・客観性にも限界があるではないか。専門分化の進み過ぎと併せて専門知の適用限界に迫っていく。
では集合知はどうだろう?広義には、“生命体の群の中に宿る知”と説明した上で、ここで取り上げるのは“より狭く、いわゆる「衆知」、とくにインターネットを介して他人同士が知恵をだしあって構築する知”とする。次いで2004年コラムニスト、ジェームス・スロウィッキーが書いてベストセラーとなった『「みんなの意見」は案外正しい』を引用し、牛の体重推測値を700人を超す仲買人に記入させ、計測したところ、“平均値が正解”だった話で、集合知の正しさについての考察をスタートさせる(無論著者はスロウィッキーの本の内容がそのまま学術研究につながるとは考えていないが…)。
導入部に次ぐ展開は、いきなり集合知に入る前に“個々の人間の知”とは如何なるものかを掘り下げていく。ポイントは個人の心の内(知)は同じ現象に接してもそれまでの体験や環境によって異なると言うことであり、それがどのようなメカニズムに依るかを既存の研究から解説していく。この辺りはいろいろな学説が援用され、それらの相互関係がやや複雑で、理解に手間取る。
次はこのように異なる個人(知)が複数集まり、ある事象に対して情報が与えられた時の挙動を実験観察し、 “望ましい集合知”がどうしたら求められるかを追っていく。結果は、情報開示度が“適度”な時まとめ役に近いリーダーが出現し、妥当と思われる問題解決案に収斂するが、公開し過ぎるとリーダー不在の混乱を生じたり、独裁者が出現したりする。つまり、ネットでほしい情報が誰でも、いつでも入手できることが、健全な集合知をもたらさないことをあきらかにする。
では“適度”な情報開示とは、どんな情報をどのようにオープンにすればいいのか?ここが現時点での集合知研究の最前線である。研究の一例として、限られた業務改善(ソフトウェア開発プロジェクトの混乱とそこからの脱出;チーム・メンバーの人的コンタクトを解析するための特殊な携帯ツールを全員が首から提げて記録し、コミュニケーション環境の改善を図る;単なる接触時間の記録に留まり、会話内容まで踏み込んではいない)が紹介される。
著者は計数工学を専攻した後、第5世代コンピュータ開発プロジェクトにも関わった経験のあるエンジニア(現在は情報学専攻の東大教授)で、コンピュータによる人工知能実現が如何に非現実的な構想(妄想)であったかを反省を込めて本書の中で述べている(700億円投入;コンピュータは一応出来上がったがほとんど使われることは無かった。誰も責任をとる者はいなかった)。そのような経験を踏まえ、ITと人間の望ましい共棲環境を追い求めている。
原発事故のような複雑な問題への集合知適用には程遠い段階だが、メディアが持ち上げる、ネット利用(ツイッターなど)ではしゃいでいる一部のITによる社会革命信奉者、政治家や市民運動家の陰で、このような地道な努力が続けられていることを知り、今後の健全なIT利用社会実現のために頼もしく思った。

蛇足; “集合知”と言う言葉を少し調べてみた。起源は1980年代後半から90年代前半に盛んだった“組織知能”(組織のIQ)研究であることがわかった(これなら知っていた)。2005年のWeb2.0の導入により、検索エンジンやSNS(インターネット利用の多人数参加型対話)環境が充実、知識の自動収集・集約で“新たな知”を生み出すことを期待して研究が新展開していった。これが集合知である。英語ではCollective Intelligence、本書に引用されたスロウィッキーの原著で使われているWisdom of Crowds(群集の叡智)とは本来異なるとするものが多い。

以上
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美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-3


3.宿泊先を決める
宿泊地は郡上八幡、三方五湖それに城崎温泉と決まった。ではどこへ泊まるか?クルマの旅は自由度が大きい。これらの宿泊先がいまどきの平日どこも満室など考えられない。現地へ行って観光案内所を探して決めればいい。こう言う考え方も無いことはない。もしもう少し若い一人旅ならこうするかもしれない。現に昔はそうしてきた。食事が出来て風呂が使え寝られればそれで充分だったからだ。しかし、70歳を過ぎ家内同道となるとこうはいかない。宿・食を楽しむのも重要な旅の目的である。
条件がいろいろある;先ずその地方で評価の高いこと(旅館の場合は歴史、ホテルの場合は設備)。場所(環境・セキュリティ・景観・他の見所との位置関係など)。部屋にトイレがあること(温泉でないところは朝シャワーが利用できる設備もほしい)。クルマの旅ゆえ駐車場は必須だ。旅館の場合はあまり部屋数が多くないこと。ホテルの場合はツインの部屋があること。食事の選択が可能なこと(特に旅館の場合種類・量が多すぎないこと)。それに当然値段が適正であること(支払いはクレジット・カードで出来ることが望ましい)などである。このほかに景勝地であれば部屋からの眺めも大切だ。これらの条件に合うところを当日の夕刻現地で探すことはほとんど不可能、電話やファックスでも細部を詰めることはできない。インターネットの普及はこの条件チェックの点で、利用者に大いに助けになる。
グーグル検索に地名を入れて検索をかける。必ず旅行案内サイト(楽天トラベル、じゃらんなど)が複数出てくるが、直ぐにそこには入らず、観光協会など町全体の観光情報が得られるサイトに入る。見所や名物(特に食べ物・みやげ物)をチェックしてから“宿泊”のサイトに入ると、宿泊先候補一覧が出てくるので見所との位置関係などをつかむ。さらにホームページ(HP)の有無を調べ、そこから個別調査を行い(HPが無いところは基本的に対象としない;格式の高いところや一見さんお断りの宿を見落とす恐れがあるが、そんなところはこちらもお断りである)、上の条件を満たすところをピックアップする。次に旅行案内サイトに移り、同じ都市・地区の宿泊先を一覧表示させ、口コミや提供プランと条件を突合せ、それぞれの宿泊先HPの内容と矛盾がないか調べる(特に値段)。ここで注意は、自前のHPはあるが旅行案内サイトに現れない(委託していない)ところがあることである。この場合は検索キーを変えて情報収集する必要がある。今回郡上八幡と三方五湖はそれに相当したので、別のサイトから情報を集めた。
郡上八幡はこの一帯の中核都市、盆踊りで有名だが温泉は無いので、ただの観光都市ではないだろう。市の案内からも高山を小規模にしたような印象を受けた。ならはビジネス・ホテルの一つもあるのではないか。そんな考えで調べると、市内中心部にある“シティホテル吉田屋”が見つかった。ツインの部屋もある。もう一つ郡上八幡ホテルがあるがチョッと繁華街から離れているので食・泊分離は難しそうだ。一方のシティホテルは同名の旅館と隣接していることが分ってきた。さらに調べると元々鰻料理で歴史のある料理屋が割烹旅館となり、さらに都市化に合わせてホテルも経営するようになったのだ。料亭併設の便宜も考慮し、ここに泊まることを決めた。
次は三方五湖である。町の観光案内サイトを見ると五つの湖にそれぞれ何件かの宿泊施設がある。五湖の内大きい湖は三方湖と水月湖の二つ、温泉マークがついているのは水月湖畔の虹岳島(こがしま)だけだった。ガイドブックを見るとここに虹岳島荘と言う“秘湯を守る会”のメンバー旅館がある。さらにネットで調べると、古民家を移築し増改築したユニークな旅館とあり、口コミもまずまずなのでここに決めた。
最後の城崎温泉は歴史のある温泉町。伝統重視で候補を絞り込み、口コミで評価の高く、安政年間創業の老舗西村屋本館を選んだ。
この三軒はいずれも自前のHPを開設しており、条件チェックが出来る詳細情報を得られたが、城崎の西村屋以外は旅行案内サイトには出てこない。虹岳島荘は“秘湯の会”の会員登録をしてからネット予約する方式である。結局後2軒は電話予約をしたが、夕食の内容確認など出来て、これはこれで無味乾燥なネットでのやり取りと比べ双方“意が通じた”感があって良かった。
泊まってみた感想はおいおい紹介していきます。
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(次回;休憩・立寄り地とSS

2013年5月26日日曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-2


2.訪問地とルート
どこへ行くか?ドライブに限らずどんな旅でもこれが最大の課題である。前々から本四連絡の島なみ街道を利用した四国一周ドライブを考えているのだが、これには一昨年の北海道ドライブ同様の日程(約1週間)が必要で、事前準備が大変(特に留守中の庭の手入れ)なので、今回は早い段階で外した。次に取り上げたのが能登半島である。この地には19694月和歌山工場勤務時代新設プラントのスタートに苦闘したあと、休養のため一人で出かけている。しかし当初の予定であった半島一周は、そこまでの悪路走行(高山から富山に出て糸魚川を遡行、白馬に至り、再び同じ道を富山に戻り、そこから氷見・和倉へと走った)で前輪のショックアブゾーバーに異常をきたし、途中の能登町で修理をせざるを得なかった。そのため2時間近く時間を取られ、先端の珠洲は廻れず、輪島へのショートカットで済ませた経緯がある。あの時果たせなかった珠洲岬を廻る道を走ってみたい。これに加賀百万石の古都金沢を組み合わせれば面白いツーリングが出来るのではないか。昨年末から本年1月にかけてこの案の検討に入った。
しかし、検討を進めるうちにいろいろと問題点が出てきた。先ず金沢は家内も私も複数回訪れていること、能登半島には目ぼしい歴史的な見所がないこと(平時国が蟄居した時国家があるが既に訪れている)、そこへ至るまでのルートのかなりの部分は2010年秋の黒部・飛騨ドライブと重なることなどである。この辺りで訪ねてみたい所は他にないか?越前・若狭がクローズアップされてきたのはこんな事情からである。この地方も和歌山工場時代初めて手に入れた日野コンテッサSを駆って、連休に寮生仲間と走り、天橋立から丹後半島のつけ根の部分を横切って、鳥取方面に抜けたことがあるのだが、過疎の地、半島の先端、経が岬は廻っていない。また、天橋立と並ぶ若狭湾の景勝地、三方五湖は以前から気になっていた所である。加えて今話題の原発銀座にも興味がある。家内の関心はいずれも写真やTVでしか知らない永平寺と天橋立に向いた(両方とも私は一度訪れている)。これで観光スポットはほぼ固まってきた。東から永平寺・三方五湖・天橋立・経が岬である。
次はこれらを巡るルートと宿泊地である。宿泊数は3泊と決めているので、これを制約条件として候補地とルートを検討する。初日の走行距離はあとへの影響も考慮すると400km前後に留めたい。自宅と永平寺の間で浮かび上がってきたのが郡上八幡、いにしえを残すなかなか魅力的な小都市である。400km強あるがほとんど高速だけでいけるのが良い。二日目は永平寺を観た後、是非三方五湖に泊まりたい。この間は山岳道路もあり、人口湖の九頭竜湖も見所がありそうだ。この時点では越前大野の観光は考えていなかったが、福井・若狭のガイドブックで“山あいの小京都”を知り、少し時間をかけて歩いてみることにした。そのためには時間を捻出する必要がある。オリジナル案では永平寺のあとは一般道を走り、武生・鯖江などこの地方の古い町を抜け、場合によっては小休止して佇まいや生活ぶりを観察するつもりでいたが、これは諦め福井北ICで北陸道に入り一気に敦賀ICまで走ることにした。三日目も天橋立観光にユックリ時間を取れるよう、小浜ICで高速に乗り、遠回りになるが綾部JCTまで舞鶴若狭道路を使い、そこから北京都縦貫道で一気に天橋立達するルートにした。最終宿泊地は兵庫県西端の温泉地を何ヶ所か調べた後、最終日帰路を考慮して一番高速に近い城崎温泉に決めた。
観光地を全て観た後は出来るだけ自動車専用道に早く取っつく道を選び、兵庫県中心部の和田山で北近畿豊岡道路に乗ることにした。
このルートをWeb上で詳細(距離・時間・高速代など)にチェックできるNaviTimeを利用して確認し、食事・休憩やガソリン補給の候補地点を決めていった。
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(次回;宿泊先を決める)

2013年5月25日土曜日

遠い国・近い人-28(友朋自遠方来 不亦楽乎-9;シンガポール)



横浜駅での再会は10時半、インターコンチネンタルのランチは11時半からなので、少し時間がある。先ず出かけたのは横浜高島屋である。若い女性には興味があるだろうとのとの読みからである。確かにJiayingは高島屋だけではなくそごうが在ることも知っていた。しかし、ここで彼女の関心事に付き合うと時間のコントロールが大幅に狂う恐れがある。「買い物は帰りにね」と言うことにして、予め計画していた雛人形の特設展示場に直行する。女児のお祝いであることと併せて、種類・大きさ・値段その違いに質問続出、全員で話が出来る良い交流の場が直ぐに出来上がった。
次いで地下鉄でみなとみらい駅に向かう。駅からホテルまでは長い回廊がありそこには日揮の本社も在る。アルジェリアでのテロ事件は石油関係者には身近な話題だ。彼らもこの事件をよく承知しており、これも共通に語れる材料だった。
ホテルは回廊の先が海に接する所にある。予約をしておいたので席も港が望める窓際に用意されていた。Jiayingのアレルギー体質を慮って決めたビュッフェスタイルのランチは、料理の種類も豊富で、あれこれお気に入りを運んできては食べていたが、ことのほか気に入ったのはカボチャである。自分の分だけでなくIt Chengの分まで取ってきて、二人で「甘くて美味しい」と感激している様子。聞けばシンガポールにも最近は日本の食材(特に野菜)が出回っているようだが、質の高さが評価される一方、値段も高く気軽に口に出来ものではないらしい。意外な発見であった。
ランチが終わったところで次女は仕事のために皆と別れければならない。話は専ら次女の仕事・生活に転じていく。若い女性が中心に会話が行われると席が華やぐのが良い。
やがてランチはお開きとなり、JiayingIt Cheng、家内と私の4人で中華街に向けて散策することにした(路線観光バス;赤い靴号があることも説明したが)。先ず旧貨物線を遊歩道化した道を辿って赤レンガ倉庫地区へ向かう。広場では高知の物産展が開催されており、そこに坂本竜馬像が置かれている。It Chengは漢字がかなり分るので、説明文から日本近代化のヒーローの一人であることを理解しJiayingに説明している。
ここからさらに大桟橋に向かう。幸い風もなく午後から日差しも強くなり、2月初旬としては暖かい。見るとコートを既に脱いでいるにもかかわらず二人とも薄っすら汗をかいている。Jaiyingが少し参った感じなので「大丈夫か?」と問うと「暑いのでどこかで衣服を整えたい」と言う。大桟橋の化粧室近くのベンチで着替えをするのを見ていると、寒さへの備えが我々とかなり違うのだ。厚手のウールのシャツ(下着?)を直に着ているので、汗が吸収されないだけではなくチクチクしているらしい。とにかく下に着ているものを減らし、大桟橋のユニークなデッキを巡り微風に当ると元気回復。さかんに親子で写真を撮っている。
最後は山下公園を抜けてニュー・グランドホテルに至る。ここの喫茶室はホテルが増改設された後も昔のままで、クラシック・ホテルの趣を今に残す。時刻は3時、アフタヌーン・ティを楽しむのに相応しい。英国伝統のこの習慣を私が初めて知ったのは1975年のシンガポールだった。その話をここでするのも今日の計画の内。話はそこから横浜訪問の印象、日本の観光地におよんだ。「次回日本に来るときは是非初めのプラン通り大阪に泊まり、京都・奈良を」と助言したところ、Jiayingから返ってきた言葉は「今度は北海道へ行きたい!」だった。理由は、乳製品やジャガイモが美味しいとシンガポールでは評判だからだと言う。It Chengはこんな娘の応対をニコニコ眺めるばかり、どうやら海外旅行に関しては娘唱父随のようであった。中華街見物は地下鉄に乗る前朝陽門の写真を撮るだけで済ませ、横浜駅へ戻り高島屋に再度立寄った。ここでも主役は当然Jiaying、買い物はお菓子に集中。どうやら職場の同僚や友人たちへのお土産らしい。It Chengも私も彼女に付いて廻るだけだった。
ささやかな国際交流が確実に子供たちの時代に移っていくのを見るのは、ちょっと寂しい気もするが、Jiayingの日本を見る目に触発されることも多く、この世代代わりをこれからも継続していきたいと切に思った13年目の再会であった。
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(完)

2013年5月23日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500kmー1



1.旅のダイジェスト
英国貴族の子弟がその文化的基盤の起源を求めて欧州大陸(特にイタリア訪問がハイライト)を、案内役(家庭教師)と伴に馬車で長期研修旅行をすることを“グランド・ツアー”と呼んでいた。今スポーツカー名に残るGTはその名残である。私のクルマは二人乗りのソフトトップ(幌屋根)、クローズにすると室内空間は極めて密閉感が強く、室内や荷室スペースがゆったりした、セダンやクーペスタイルの、いわゆるGTとはちょっと違うのだが、高速道路でも山岳道路でも緩急自在に操れる点では、本格GTに遜色ない。長距離ドライブをしてこそ真価を発揮できるクルマなのだ。北海道から紀伊半島まであちこち走り回ったドライブ行も6年目に入り、今回はこのクルマの行動域をさらに西へ延ばし、兵庫県の西端、城崎温泉を目指すことにした。
桜はとうに過ぎ、催し物が多い連休も終わった。日本海側の旅行プランの目玉は何と言ってもカニ、しかしそれも4月で終い。2月が旅行のオフシーズンとはよく言われるが、本州では5月中旬から梅雨明けの間も旅人の動きが少ない。平日の観光地は連休の反動でどこも閑古鳥が鳴いている。だからプラン検討の自由度は高く、準備時間もギリギリまで許される。これが時期を決めた理由である。
今まで出かけた、熊野古道や吉野・高野のドライブも、万葉を始め数々の歴史的遺産に触れることが出来たし、距離も1000kmを超す長丁場で、まさにグランド・ツアーであった。今度の旅の訪問地とルートを決めるにあたり候補は種々あったものの、西の方へ行くならやはり自然の景観と歴史・文化のバランスに配慮したい(北や東も独特の文化はあるが、歴史に関しては、圧倒的に関西は厚みがあると思っている)。景観では日本三景の一つ、天橋立が先ず選ばれ、次いで美しく五色に輝くと言われる三方五湖(みかたごこ;泊)、歴史・文化では疎水と盆踊りで有名な郡上八幡(ぐじょうはちまん;泊)、信長の浅井・朝倉攻めにも名を残す、古い城下町越前大野、その西北に位置する禅寺、永平寺を組み合わせ、最後は古い温泉町の街並みと風情を今に留める城崎温泉で疲れを癒すことにした。
旅の楽しみはこれらに加えて、食と道路にもある。カニ・シーズンを外した食はともかく、道路の選択・組み合わせは私にとって最も重要な旅程決定因子。時間重視で選べば自動車専用道路(以後“高速”とする)を最大限利用すればいいのだが、これでは運転の楽しみは大幅に減ずる。山岳道路や海岸道路を組み合わせ、ハンドルさばきや加速減速の緊張感を味わいたい。美濃から越前へは九頭竜川沿いの道をとることにしたし、海岸道路は丹後半島周回を盛り込んだ。
一日目は自宅から郡上八幡まで、ほとんど東名・東海北陸の高速だけで行ける。郡上八幡の市内散策にも充分な時間を取れた。二日目は郡上八幡から三方五湖まで、この日は山岳路を走るわりに見所が多く(九頭竜湖、越前大野、永平寺、三方五湖レインボーライン)、タイトなスケジュールで過ごしたが、距離を抑えていたので(200km弱)、ほぼ予定時刻(5時)に宿にチェックインできた。三日目は今回のハイライト、天橋立と丹後半島、前日とはうって変わって気温が下がり冷える一日だったが、三泊の内本格的な温泉宿泊はここだけ、外湯も含めて冷えた身体を芯まで暖められたのは幸いだった。最終日は城崎から兵庫県を日本海側から瀬戸内にかけて縦断、中国道・山陽道・名神・新名神・東名とつないで、11時間かけて一気に自宅まで戻った。走行距離はほぼ600km、このクルマを持ってから一日の運転距離としては最長であった。
旅全体を振り返れば、いろいろと“想定外”はあったものの(地方高速道の部分開通、ガソリンスタンド(SS)の激減など)、計画した観光スポットは皆訪れることが出来たし、天候も三日目が曇り勝ちで少し寒かったことを除けばまずまず、期待通りの楽しいドライブ行であった。
1500kmにおよんだこのグランド・ツアーの顛末を、計画立案から帰還まで写真を交えながら連載で綴っていくので、ご愛読いただければ幸いである。
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(次回;訪問地とルート)

2013年5月19日日曜日

遠い国・近い人-27(友朋自遠方来 不亦楽乎-8;シンガポール)



29日(土)に会うことは決まったが、何処で何をするかについてはその後もメールのやり取りが続いた。どうやら今回はツアー参加ではなく単独行らしい。宿泊先は“ホテル・グランドフレッサ赤坂”、聞いたことも無い名前。調べてみると相模鉄道系のビジネス・ホテルであることが分る。何処を案内するか?何時何処でどんな食事にするか?特に食事に関しては、前回の来日でJiayingがほとんど我が家で用意した食事に手を付けず「カップラーメンがいい」などと言い出して、皆を唖然とさせたことが思い起こされ、くどくこの点を質した。折り返しのIt Chengのメールではっきりしたことは、「Jiayingはアレルギー体質で食事には自宅でも気を遣っている。肉類は白身;例えばチキンはOK。魚は銀鱈、マグロ、カンパチ、ハマチ、鯖なども問題ない。アレルギーが出るのは貝類・えび・蟹・烏賊」と言うことであった。家内ともども「そうだったのか!」とあの時の言動に納得した次第である。夜にするか昼にするかは我が家の次女のスケジュールでランチに決まった。
東京・横浜の交通事情に慣れていない彼らを慮って「ホテルに迎えに行くよ」と伝えたが「調べて行くから大丈夫」との返事。それでも心配なので手書きの地図と待ち合わせに適当な電車の時刻表を添付して、横浜駅での再会を約した。到着した6日夜無事着いたこと、指示に従った電車で出かけるとのメールが入った。あとは当日異変が起こらぬことを願うばかりである。
異変が起こるのはこちらの方であった。9日昼は充分時間があると言っていた次女が「当日取材が入り平塚に1時半までに行かなければならない」と言ってくる。手際よく彼らと昼食を済ませるには横浜駅周辺が好ましい。またJiayingの体質を考慮すればビュッフェ・スタイルが無難である。早速西口駅前の横浜ベイシェラトンのランチを予約しよとしたが、既に満席との返事。やむなくみなとみらいのインターコンチネンタルホテルに空きを見つけ、観光ルートの調整も行う。
当日寒さは厳しかったが幸い晴れだった。待ち合わせ時間(10時半)前に横浜駅に着き、観光案内所で英文のガイドマップを入手して、彼らと次女を待っていた。最後にIt Chengとシンガポールで会ってから14年を経ている。お互いの変化を考えると、直ぐには見つけられないのではないかとの不安もあり、私の相貌については「白いあごひげを伸ばした髪の毛の薄い老人」としておいた。この助言はどうやら適切だったようで、こちらより先に先方が私を見つけてくれた。It Chengは髪に白いものが混じってはいるがそれほど変化はない。しかしJiayingは背も高く完全にレディに変じており、一人なら見つけられなかったろう。とは言っても直ぐにあの甘えん坊でマイペースの幼い日々のJiayingが戻ってくるのだが。
駅での立ち話では「昨日は日光に行ってきた」とのこと。ホテルあたりで用意する現地参加ツアーかと思いきや、何と自分たちだけで出かけたのだと言う。「陽明門も素晴らしいが、雪山を見たのははじめて!」と興奮気味に話し出した。どうやら冬の日本を堪能するのが東南アジアの人達(特に若い人)の間でブームになっているようである(確かにTVでそんなニュースを見たような気もするが)。この話は横浜観光最後の休憩場所、ニューグランドホテルのティールームで再び話題になる。

(つづく)

2013年5月11日土曜日

遠い国・近い人-26(友朋自遠方来 不亦楽乎-7;シンガポール)



1999年以降も年賀状やメールの交換は続いた。Cheah家の方も我が家もいろいろな変化があった。2003年私は9年務めたSPIN社長を退いた。横河グループにいくつもあった情報サービス会社の整理統合で、SPINは他の3社と合併、横河情報システムが誕生したからである。この後横河本社の海外営業部顧問となり、主にロシアの市場開拓に当たっていた。私が東燃時代と全く縁のないロシアに出かけたように、彼も東レデュポン・シンガポールの事業が合成繊維だったから、そのユーザーが多い印度やパキスタンに出かけていた。
家族の方も状況は刻々変わっていた。夫人のRubyが国立図書館を定年退職していた(彼より随分早いのは姉さん女房か?;未確認)。しかし、彼女の経験は貴重なもので引き続きパート職員として以前と変わらぬ勤務を継続していた。両家とも子供たちは大学進学、更には就職、結婚と両親以上に大変革を遂げていたのである。
2007年、私は45年にわたるビジネスマン人生に別れを告げ、念願だった英国での“OR歴史研究”にあたることを決意、その年の賀状でそれをIt Chengに伝えた。折り返し来た便りには「Jiayingがインペリアル・カレッジを卒業し、エッソ・シンガポールに就職した」というものだった。彼女は父親と全く同じコースを歩むことになったのだ。そして、それは我が家も同じだった。大学・専攻は違うものの長男は東燃に就職しやはり川崎工場で、彼女より一足先にオイルマン人生をスタートさせていた。これでCheah家と我が家の関係は2代続くことになった。残念ながら若い二人が、グループ内での教育訓練や技術会議で一緒になることはなかったが奇縁である(昨年エクソン・モービルは東燃株を大量に売却、それに伴い技術提携も解消されたので、もうそのチャンスはない)。
2008年、賀状で英国生活を伝えると、「もう直ぐ自分も引退する。そうしたら唯一の肉親である姉を訪ねたい」とあった。これは今回の来日で詳しいことが分ったのだが、姉さんは結婚後早くに、両親(既に故人)と彼をシンガポールに残し英国に渡り、彼が留学中は彼の地で大いに頼りになる存在だったらしい。現在は英国籍でケント州に在住、既に80代だが元気に暮らしているとのこと。
その後も賀状の交換は続くが「もう直ぐ引退」と言っていたわりには、それは直ぐには実現しなかった。11年の大震災の直後には「被害はないか?」とお見舞いメールも送られてきた(これは彼以外にも随分あり、原発事故を含めた少し詳しい説明文を作り、返事として送った)。
昨年は家族の不幸(義母と妹の死去)があったので、今年の近況報告はメールのみにした(クリスマスカードが送られる前と考え12月初旬に発信)。これに対して、元旦It Chengから返事が来た。そこには「昨年4月に引退した」とあり、これからは時間が自由になるので、日本を含め各地を旅行したいとあった。「まあ、挨拶代わりだろう」くらいに受け取っていたところ、1月中旬「Jiayingが日本旅行を一緒にしようと言ってきた。彼女は大阪を中心にした計画を考えているようだが、折角の機会だから東京訪問にし、横浜も訪れたい。2月初旬の都合はいかが?」との内容。「一番寒さが厳しく、観光には適さぬ時期に何故?(多分旧正月の休み)」と思いながらこちらの都合を急ぎ返信すると、「26日~11日で訪問する」と折り返し返事が来た。今回はRubyは同行せず、父娘の二人旅、ツアーではなくこちらに来てから適宜観光先を決めるとのこと。結局29日(土)に横浜で会うことになった。

(つづく)

2013年5月7日火曜日

遠い国・近い人-25(友朋自遠方来 不亦楽乎-6;シンガポール)



1997年に入ると、東燃経営へのエッソ・モービル(合併前;EMと略す)の考え方がはっきり変わってくる。新規事業や子会社を整理し、本業回帰の石油精製・石油化学に注力すべきだと言うのである。
私が経営責任を負っていた東燃システムプラザ(SPIN)は順調に業容を伸ばしていたし、グループ内依存の割合は着実に減ってきていた。大株主であるEMはそれまで“グループだけに依存しない”、“グループ向けサービス価格は市場ベースであること”を求めており、この要求はクリアーしていた。経営計画で2000年を目標とした(店頭)株式公開もトンネルの先に明かりが見えてきていた。しかし、この“株式公開目標”が“本業には不要”と解釈され、SPINの整理が密かに検討され始める。結局翌19985月横河電機に株式が譲渡され、100%横河電機の子会社となった。
1999年の年賀状でそのことをCheah(謝)家に伝えると、旧正月に二つの話題が記された賀状が届いた。一つは夫人のRubyが癌にかかり手術をし、経過は良好であること。二つ目は、東レデュポンに移ってから業界の規格委員会のメンバーになり、今年は東京でその関係の会議・セミナーが開催されるので出かける計画がある、と言うものだった。
今回It Chengは夜も会議参加者などとの付き合いがあり、ユックリ食事を伴に出来ないようだったので、6月初旬来日すると、昼の休憩時間に会議会場(機械振興会館;東京タワー下)に彼を訪ね、大学生になっていた次女も同席して東京プリンスホテルでランチを摂りながら家族や仕事の近況を話し合った。かつてエクソン・グループの仲間として知り合った二人は、15年経て共通の企業基盤は無くなったものの、話の材料はいくらでもあった。
横河グループ入りしたSPINの役割は、そのユーザー・バックグランドを生かして、1997年横河がぶち上げた新経営戦略;ETSEnterprise Technology Solutions)と呼ばれる、IT利用による顧客(主に装置産業;石油・化学・食品・薬品・紙・鉄鋼など)への問題解決サービスの提供であった。国内市場で始めたこのサービスを、次は東南アジアでも展開したい。横河のその地域の拠点はシンガポールに在るので、20001月そこで社内向けにSPINとそのサービスを紹介するセミナーを開催することになり、私が出かけることになった。It Chengに連絡したことは言うまでもない。
地元シンガポールのほか、タイ、マレーシアから十数名のスタッフが集まり、全体セミナー、個別案件相談など三日間を彼の地で過ごした。夜の会食もメンバーと伴にしたが。最終日の夜だけはこちらの願いを聞いてもらい自由行動を許してもらった。
今回ホテルに車で迎えに来てくれたのはIt Cheng一人、Rubyは別の予定があると言う。案内してくれたのは1994年両方の家族で会食した島の南岸を走る高速道路沿いのシーフード・レストラン。彼もそのことは承知していて「同じだが、自分たちが一番好きな食事処だから」と説明してくれた。仕事に追われた毎日のあとにはカジュアルな感じで、地元の家族が集う、こんな場所がこちらにとっても有り難かった。残念なのは彼が酒を飲まないことである。
話はいつも仕事と家族。特に今回は一人娘のJiayingがテーマ。「Jiayingはどうしている?」 例年なら年賀状が近況を知らせてくるはずだが、この時は旧正月前なので彼女の不在が気がかりだった。私の質問を待っていたように「Jiayingはインペリアル・カレッジ(ロンドン)に進学したんだ。それも化学工学だよ!僕と大学も専攻も同じなんだ」受験生を抱えた親の気持ちはどこも同じ、この時ほどそう思ったことはない。
帰途「ちょっと家に寄っていこう」と今まで行ったことのない地域に向かう。シンガポールの一般的なビジネスマンは高層のアパート団地に住んでいる人が多いのだが、彼の住まいは、静かな環境で家も二階造りのコンドミニアムである。Rubyは帰っていないようだがが、どうも人の気配がする、お茶を持って来てくれたのは住み込みのメイド、フィリッピン人だと言う。エリート階級なのである。
その後、賀状やメールのやり取りは続いた。一昨年の大震災後も直ぐに見舞いのメールがきた。そして今年2月、13年ぶりに会うことになる。

(つづく)