2024年9月30日月曜日

今月の本棚-194(2024年9月分)

 

<今月読んだ本>

1SIZE(バーツラフ・シュミル);NHK出版

2)グッドフライト・グッドナイト(マーク・ヴァンホーナッカー)早川書房(文庫)

3)知っていそうで知らないノーベル賞の話(北尾利夫);平凡社(新書)

4)パナマの仕立屋(上、下)(ジョン・ル・カレ);早川書房(文庫)

5)アファーマティブ・アクション(南川文里);中央公論新社(新書)

6)ナットとボルト(ロマ・アグラワル);草思社

7Blue Impulse & the Counterparts(瀬尾央編);エアーワークス(写真集)

 

<愚評昧説>

1SIZE

-大が総じて有利な社会、本当にそうなのか?プロポーションは?効率は?人類から超高層ビルまでSIZEの意義を考える-

 


1953年(昭和28年)、伊東絹子と言うファッションモデルが米国で開かれたミス・ユニヴァース・コンテストで3位に入賞した。科学の湯川秀樹、スポーツの古橋廣之進と並び、敗戦に打ちひしがれた日本人に自信を与えくれた一人と言える。そして新しい美の評価基準を知らしめた人物でもある。八頭身、頭部が全体の18となるプロポーション、顔を中心とした我が国古来の美形と異なる視点を知ることになる。

本書のタイトルは“ SIZE”、人間の諸元にとどまらず、旅客機の座席間隔、スーパー・タンカーの限界、宇宙の広がり、半導体の密度まで、思わぬ切り口でSIZEを語っていく。

著者は1943年チェコスロバキア生れ、1969年のソ連軍進駐で米国に亡命、ペンシルベニア州立大学で地理学博士号取得、現在カナダマニトバ大学特別栄誉教授、カナダ王立協会フェロー。専門は、エネルギー、環境変化、人口変動、食糧生産、技術革新、公共政策と広範。実は既刊の「Numbers Don’t Lie(数字は嘘をつかない;原著)」を本書以前に購入し、読み進めているがいまだ読了していない。本書講読動機はこの本の帯に書かれたBill Gatesによる著者賛美の言葉にある。

邦訳の題名に原題の“SIZE”がそのまま使われている(小さく“サイズ”とカタカナ表示があるので、以降それを使用する)。英語タイトル使用は「サイズの認識に言語による違い」があり、大小・高低・長短・軽重など大きさを両極端で代替することが多く(“大きさ”もまさにその一例)、中立な用語が少ないことから来ているようだ。導入部で日本語には“寸法”があり、これは中立的用語と紹介いるが、日本人には“長さ”に近い感覚だろう。

何故このテーマを主題に研究・著作を思い至ったか。種々のサイズが有史来人間社会と深く関わってきたにもかかわらず、その重要性が認識されていないと感じてきたからとある。衣食住に関わる尺度はすべて人間から発する、長さは足裏の長手方向や歩幅、広さは就寝のためのスペース、階段の高さはひざ下の長さ。衣服は言うにおよばない。そして人間は大きい方が生存競争に勝ち残り、「大きいことは良いことだ」が大勢となっていく。一つの身近な例は“ギネス”記録、“大(重、長を含む)”が圧倒的に多く、“小”は速度や半導体に限られる。身長の高いものは昇進到達レベルが高く収入も多い傾向が確かにあるようだ。しかし、これも環境で変化する。栄養状況の改善で、最近はアジア人(特に日本人を含む東アジア人)の身長伸び率が著しい。身体の大小は大きければ良いわけではない。突出した長身者や肥満体は短命に繋がる(NBA選手の身長と寿命)。

サイズがすべて絶対的な測定値で決まるわけではない。錯覚や相対比較によってその評価・価値が変わるケースが多々ある。よく知られたものは同じ長さの直線-を<>で結ぶか><と組み合わせるかで変わって見える。料理を直径が大きい皿と小さい皿に盛り付けることによってボリューム感が変わり、レストラン経営で配慮すべき点なのだ(必ずしもボリューム感大が良いわけではない)。

伊東絹子の例に見るようにプロポーションも重要だ。同じ八頭身でも股下と身長の割合で評価は変わる。黄金比・シンメトリー(左右対称)は美醜に関係するだろうか?こんなこともギリシャ彫刻や名画を基に分析して見せる。

スケーリングの話が面白い。スイフトの「ガリバー旅行記」を取り上げ、小人国でも巨人国においても科学的に著しい矛盾があることを指摘する(例えは食事の量。だからと言って当時の科学知識から見てやむを得ぬとスイフトを援護する)。

巨大タンカーや風力タービンの限界、旅客機の(エコノミークラス)前後座席間隔、半導体開発におけるムーアの法則、パンデミック予想など直近の話題も豊富。思わぬ切り口でサイズの多様性と重要性を気付かせてくれる、ユニークな雑学百科であった。

 

2)グッドフライト・グッドナイト

-エアラインパイロットが描く詩情あふれる空と飛行機のエッセイ。2015NYタイムズ・ベストセラーに納得-

 


対象は自動車→鉄道→航空→自動車と移ったが、幼児から始まった乗り物好きはこの歳まで変わらない。エンジニアになった大きな理由もここにある。最初の自動車への関心は父が自動車会社勤務だったことによる。敗戦で身近な乗物は専ら鉄道、小学生から中学生にかけては鉄道技師を夢見ていた。航空への関心は、占領が終わり空が日本に戻ったことによる。それまで出版物も禁じられていたところへ、航空情報があふれ出し、空が本来そなえる開放感と相俟って、新しい世界が出現した。高校時代は航空技術者志願だったが、大学では自動車に戻ることになる。しかし、航空への興味は模型作りや航空関連書籍購読でその後も持続、そこから得た知識をプラント運転安全追究や新しい経営ツールIT活用に生かしてきた。そんな中で印象に残った本に、リチャード・バック著「かもめのジョナサン」がある。1970年代初期世界的ベストセラーとなったもので、邦訳は五木寛之。それまで読んできた航空関係書籍は基本的に技術物だが、これは詩情あふれる空を飛ぶことを賛美する内容、今までの航空観を一変させるものだった。そして本書はその再現の書と言える一冊である。共通するのは著者二人がパイロットであることだ(バックは米空軍戦闘機乗り、その後作家に転じた。本書著者は現役エアラインパイロット)。

著者は1974年生れ。国籍は米国だが、かなり変わった経歴を持つ。父親はベルギー人、宣教師としてアフリカ・南米を巡り、南米滞在時リトアニア系米国人の女性と結婚。著者は米国で誕生、大学までそこで過ごし、高校時代は日本に短期留学している。子供のころからの航空ファンでその話は随所にあらわれる。大学卒業後さらに勉学を続けるためケンブリッジ大学大学院(アフリカ史専攻)に進むが、空への思い断ち難く、飛行学校進学準備のため中退し、学費を稼ぐため米国の経営コンサルタント会社に就職、この間にも仕事で日本を訪れている。学費が貯まったところで英国のエアラインパイロット養成学校に入学、2003年卒業後英国航空(British AirwaysBA)に入社。本書出版時(2015年)はボーイング747(ジャンボ)の副操縦士になっている。ジャンボ以前に操縦していたのはエアバスの双発機(機種不明)、主に欧州内を担当域にしているが、ジャンボでは日本を含む東アジア、豪州、アフリカ、南北米など地球規模のフライトを担っている。本書は夢を実現したパイロットの空と飛行機を賛美する内容、NYタイムズ・ベストセラーにもなったエッセイである。

全体は九つの章からなり、各章は話題を転じながらも滑らかにつながっていく十前後の節で構成される。第一章はLift(持ち上げる、高くする)で始まる。航空エッセイゆえ先ず離陸といったところだが、そんなシーンと重ねながら、空に魅せられた少年時代の思いやエアラインパイロットへの道を語っていく。言わばパイロット人生の離陸である。最終章はReturn(帰る、戻る)。第一義は着陸だが、ここでも操縦に関するもろもろの作業を語るよりも、着陸地の文化や言語あるいはロンドン帰着後の自宅への足取りに思いをはせる。最終章の前章はNight(夜、闇)。地上で生活する人にとって夜は帰宅の時間である。最終章とのつながりを考えての設定だ。この見事な章構成、飛行・空への思いを日常生活あるいは著者の体験談に重ねながらの、叙事詩のような筆致が本書を一流のエッセイに仕上げている。

こう書いてくると「かもめのジョナサン」やサン・テグジュペリの「夜間飛行」のような文学性に勝る作品を思い浮かべるかもしれないが、パイロットという職業がもたらす、知られざる世界を啓く点でも収穫の多い一冊だった。例えば、国に対する捉え方。国名や国境より通過時間や管制空域名でそれを認識するとある。日本は“日本”ではなく“福岡”が全体を表す管制地域名なのである。逆に米国は九つの管制地域に分裂し、一国ではないのだ。邦訳名(原題はSkyfaring;大空暮らし)「グッド・フライト、グッドナイト」は夜間赤道通過を管制官に報告したところ、そこで次の管制域へ移る時に送られた言葉からきている。飛行計画の決定に空域制限・気象条件・航路の混み具合などが考慮されることは知っていたが、通過する国の管制料金もあることは本書で初めて知った。

高々度飛行でしか味わえぬ絶景、夜間飛行で見る都市の光や星々、極地飛行で遭遇するオーロラ、雲や霧に覆われた中での計器飛行、どんな飛行も著者の手にかかると、楽しく美しいものに変じてしまう。空を行くことの素晴らしさを十二分に堪能した。

それに貢献していることの一つに翻訳がある。翻訳者はこの時点では専業者になっているが、元航空自衛隊女性管制官、管制官として米国研修も体験しているようで、英語のみならず、戦闘機後席搭乗を含め、空の世界を熟知しているのだ。

続編「グッド・フライト、グッドシティ」も購入済み。

 

3)知っていそうで知らないノーベル賞の話

-受賞者中心のあまたノーベル賞物とは一味違う、ノーベル自身とノーベル財団を語るユニークな内容-

 


ノーベル賞候補が話題になるシーズン到来、今年も受賞できればと切に願う。私はこれまでにノーベル賞受賞者三人と少人数で話を聞く機会があった。最初に会った人は1973年物理学賞受賞者の江崎玲於奈博士;1982年当時IBMワトソン研究所フェロー、IBMユーザー研修団の一員として同研究所を訪れ、近くのレストランで博士を交えた昼食会がもたれた。二人目は1951年化学賞受賞者グレン・シーボーグ教授;米国原子力委員会委員長を務めたこともある米国科学界の大物、1983年カリフォルニア州立大学バークレー校のビジネススクールに参加した際、20名ほどのクラスメートとレクチャーを受けた(題目は「化石燃料から核エネルギーへ」)。そして三人目が2019年物理学賞受賞者の吉野彰博士;会ったのは受賞遥か以前1990年代後期、当時の役職は旭化成研究所主席研究員。私も所属する化学工学会経営システム研究部会でリチュウムイオン電池開発に関する発表をしていただいた。

こんな体験もありノーベル賞物には一方ならず惹かれ、既に数冊本欄で取り上げているが、本書を読むに至った経緯は少々変わっている。7月に紹介した「天才の光と影」(23人の受賞者が対象)を読んだジム仲間が「こんな本がありますよ」と貸してくれたのが本書、何と著者も同じジムのメンバーとのこと。実は数年前この本のことを別の水泳仲間から聞いたのだが、すっかり忘れていた。現時点で著者にご挨拶はしていないのだが、以下に著者略歴と本書執筆に至った動機を記す。

著者は1935年生れ、大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)を卒業後住友商事に入社、ロンドンなど勤務ののち、1986年より1991年までスウェーデン駐在、ストックホルム事務所長、在スウェーデン日本商工会会長を務めている。ここでアルフレッド・ノーベルおよびノーベル賞研究をライフワークとするようになる。この経歴を見て思い出したのが、現役時代ある異業種交流会で聞いた話だ。その人も著者同様大手商社員、苦労してロンドン金属取引所(LME)会員資格を得たが、資格だけでは重要情報は入手できず、シャーロック・ホームズ研究を深めることで、ようやく仲間にしてもらえたとのこと、それは英国人シャーロキアンも一目置くほどのものであったようだ。本書の内容も日本人は無論、スウェーデン人も「知っているようで知らない」話があるに違いない。ノーベル賞研究を深めたことで親しい友人をあまた獲得、ビジネスも順調に進んだのではなかろうか。

知らなかったことの第一は、アルフレッド・ノーベル自身のことである。1833年ストックホルムに誕生するものの4歳でロシアのサンクト・ペテルブルクに移住、以後家庭教師が付き、ドイツ、フランス、イタリア、米国などに遊学して専門技術(化学、火薬、機械工学)を習得する。つまり正規の高等教育機関では学んでいないのだ。1865年ダイナマイト発明(ここに至る苦難の道も知らないことだらけ)。ハンブルクを拠点に工場を各地に建設、販路を拡大、1873年住居をパリに移しここに長く留まり、晩年はイタリアのサン・レモで過ごし1896年そこで没する。まさにコスモポリタン、当時では珍しい国際ビジネスマンでもあったのだ。

第二の知らなかったは、死から賞発足までの過程。彼が死去した際残された資産は93ヵ所の会社・事業所、資産価値は現在評価で230~250億円と算出されるが、著者は当時の世界経済規模との比較から、実質ははるかにこれを上回ると推察している。ともかく当時としては巨額遺産。遺言状では親族・世話になった人々へは5%しか遺贈されず、残りは賞金に当てるとなっており、これを納得しない親族・企業管轄国が争うことになる。国・世論が問題にするのは単なるカネだけではなく、愛国心まで問うのだ。「国籍を問わず最も優れた研究」を対象にする“国際賞”という性格が当時の社会通念に馴染まなかったのだ。結局これらの解決に4年を要し、1900年ノーベルの遺志が実現する。この決め手となるのがノーベル財団の設立。遺言状最大の欠陥は、遺産を管理し賞を授ける機関に何も触れていないことにあった(選考機関は明記されていた)。1世紀以上におよぶ賞が現代まで続くのはこの財団無しには考えられない。財団運営形態、資金運用、国や受賞者選考機関との関係、本書はここにかなりの紙数を割く。因みに、この財団は外部からの寄付を一切受け付けない。

第三の知らなかったは、各賞の受賞対象に関するノーベルの遺志である。分かり易いのは自然科学三賞(物理学、化学、生理学・医学;選考機関は、前二者はスウェーデン科学アカデミー、後者はカロリンスカ研究所(医科大学))。しかし、文学賞に関しては遺言状に「理想主義的傾向の最も優れた作品を創作した人に・・・」とあり、選考機関となったスウェーデン・アカデミーはこれを狭義に解釈、自然主義のトルストイなどを排除してしまう(その後この制約は次第に緩められ、チャーチルの「第二次世界大戦史」にまで拡大するが、さすがに批判が多く、純然たる文学作品対象に戻っている)。また、平和賞は文言以上に問題になるのが選考機関を「ノルウェー議会が選ぶ5人の議員にゆだねる」としたこと。なぜこれだけ他国に?の疑問が当然起こるのだ。著者もそれを追究するが推察の域を出ない。本書では経済学賞にも触れるが、強調されるのは「これは厳密な意味でノーベル賞ではない」という点だ。遺言状に記載はなく、スウェーデン銀行創設300周年記念事業として1968年設けられたもので、ノーベル賞に加えて欲しいとの要請を、財団もスウェーデン・アカデミーも拒否している。ただ、授賞式を同時に行うためノーベル賞の一つと思われてしまっているのだ(同時授与だけは認めた)。

授賞式は国王臨席で手ずから授与するので、一連の国家事業と受け取られがちだが、国王臨席は現国王になってからのこと、あくまでも主催者はノーベル財団である。そして、ここに国家権力は一切およんでいない。一方で、この賞がスウェーデン国の品格を特別なものにしていることは間違いない。ノーベル自身と財団紹介に紙数の大半を割いているのも、著者がそこを知ってほしいとの思いがあるからだろう。

ビジネスマンが仕事と一線を画して取り組んだライフワーク、学ぶことが多々あった。今年の授賞を従来とは異なる視点で楽しめそうだ。それにしても、先ず「きちんとご挨拶しなければ」の今日この頃である。

 

4)パナマの仕立屋

-冷戦が終わってもスパイの種は尽きない。米国永久租借が解かれた後の運河経営権はどこが握るのか?日本?-

 


スパイ小説家としての地位を不動のものとした「寒い国から帰ってきたスパイ」(1964年)から始まり、ソ連変化の兆しが見えはじめた時に出た「ロシア ハウス」(1990年)まではほぼ全作品を読んできたが、冷戦崩壊で大国対大国のスパイ戦がテーマでなくなったこと、翻訳者が変わったことなどがあり、それ以降の作品購読を長く中断、2013年「誰よりも狙われた男」の邦訳で久々に著者作品に触れ、複雑ながら精緻な構成と人物描写の細やかさに、かつての読後感がよみがえった。そうなると中抜け作品が気になるのだが、新刊を入手するのは困難だった。それが本年7月より復刻出版されるようになったのである。本書はその第一作品(後続二作まで予告されている)、出版を待って即購入した。

パナマと聞けば日本人の多くは“運河”を連想するだろう。私も全く同じで、運河以外パナマについて何も知らないし国としても関心はない。本書のタイトルを見て「こんなところで英国のスパイが活躍するような場があるのだろうか?」といぶかった。本書の原著出版は1996年、邦訳は1999年。おそらくこのタイトル(パナマ)で当時パスしたに違いない。しかし、読み進めながら史実を調べてみて、うまいところに題材を見つけたものだ、と改めてスパイ小説巨匠を再認識させられた。

パナマ運河計画はスエズ運河を開削したフランス人レセップスによって1880年開始されるが風土病・難工事・資金難で1889年中止され、しばらく放置される。しかし、この開通を切望していた米国によって1905年再開され、1914年完成する。この過程で米国はコロンビア(運河建設反対)国の一部だったこの地域をパナマ共和国として1903年分離独立させるほど強行、開通後日をおかず“パナマ運河条約”を結ぶ。そこには運河地帯を永久に米国が租借するという条文が記されていたのだ。しかし1960年代入り民族運動が活発化、返還運動の動きが高まり、1977年カーター政権時代1999年返還が決まる。上院の23以上の賛成票が必要であったが、わずか1票上回るだけのきわどい決定であった。そのような背景もあり、米国内にはことあればこの決定を覆そうとする勢力が暗躍し続けている。1989年独裁者で麻薬組織と深く関わっていたノリエガ将軍を逮捕した米軍のパナマ侵攻も、直接的に運河返還運動に結びついていないものの、民族主義的外交を牽制する結果になる。

本書の時代設定は数字で明示されてはいないものの、返還の2000年直前であることは確かだ。大統領は軍出身者、ノリエガのような独裁者ではないがしたたかな男、返還後の運河運営をすんなり米国にゆだねる考えはない。英国は前面に出る気はないが米国主導での運営継続を期待している。天秤の反対側には日本そして中国がいる。大統領の本心はどこにあるのか。これを探り、あわよくば反体制派を動かし、ひと騒動起こしたい。ここまでが英スパイに課せられた任務。そうなれば米軍が出動し親米政権が取って代わる可能性が高いと見ているのだ。


史実に戻れば、運河管轄権は200011日パナマに返還され、2006年運河拡張計画が国民投票で決定、単独財務アドバイザーをみずほコーポレート銀行が担い2016年完成する(計画予算6000億円)。既にバブル経済は崩壊していたものの、著者が作品を完成させるのに通常3年程度要していることを考慮すると、着想は1990年代初期。うわべの日本経済はまだ活力に満ちているように見えただろう。また中国も改革開放経済の歩みが着実に進みつつあり、それを加えることで米英対抗勢力としての重みが増してくると想定したことも小説を面白くしている(日中が世界戦略で協調する可能性があると本気で思っていたのであろうか?)。

さて、仕立屋である。ロンドンの老舗で修業しこの地に早く進出していた英国人の仕立屋。腕は確かでパナマの要人を多数顧客として抱えている。そこには大統領、運河委員会委員長、米軍司令官、銀行家、麻薬組織のボスなどが含まれる。生地の選択・採寸・仮縫い・納品と有力者本人と二人だけになる機会も多い。加えて妻はこの地で育った米人運河技術者の娘、現在は運河委員会委員長の秘書でもある。英諜報部員の最初の仕事はこの仕立屋をエージェントとして取り込み、そこから妻や友人を利用したネットワークを作り上げることにある。若い諜報部員(初の海外勤務)が仕立屋経由で入手した情報は諜報機関のトップにも評価される内容、企みは着々と結実していくのだが・・・。

本作の主役は諜報員ではなく仕立屋。誰にも知られていない暗い過去、銀行家に握られている弱み、プラトニック関係の愛人(黒人;パナマ侵攻の際、爆撃で顔に傷をうけて以降反米派となっている)、旧知の反体制派リーダーとの友情、妻の運河委員長に対する絶対的信頼、子供二人を含む家族関係。それらが彼のスパイ活動に影響を与える。人間描写に傾注するのは他著作と同様、明らかにただのサスペンス物ではない。

ところで影の悪役とも言える日本、個人名も組織名も出てこない。代わりに“ジャップ”が会話の中に何度か出現する。我々の知らないところで英米人は日常的にこれを使っているのではなかろうか。その申し訳でもあろうか、本書の見開きに“日本のみなさんへ”の一文が記されており、そこには戦時中のパナマ運河遮断攻撃計画に触れたあと「私は、国家の流儀と人間のはかなさに関するこのささやかで悲しい喜劇を、日本のみなさんが英知をもって愉快に読まれんことを確信するものである。ジョン・ル・カレ」とある。愉快には読んだが、小説とはいえ“ジャップ”呼ばわりの不快感は拭えなかった。

 

5)アファーマティブ・アクション

-人種差別から発した積極的差別是正法、大学入試を中心に逆差別問題の法廷闘争とその変遷をたどる-

 


1988年以降、情報サービス会社の経営に参画するようになると米国出張の機会が増えた。特に(San FranciscoBay Areaに有力な提携先が在ったため、往復のいずれかでサンフランシスコに滞在、時間が許すと短期間学んだカリフォルニア州立大学バークレー校(UCB)に立ち寄り、当時の教職員と歓談する機会をもった。そんな折、教授の一人が昼食に招いてくれ、UCBの近況に話がおよんだ際「最近はAffirmative Action(積極的(差別是正)処置;人種・民族・ジェンダー・階級・障害などで不利な扱いを受けている人々を支援する法律;以下 AAと略す)でアジア系の優秀な学生が入学しにくくなった」と聞かされ、初めてこの法律の大学への適用実態を知った。サンフランシスコと言えば米国人でも先ずチャイナタウンを思い浮かべるくらい中国系が多いところだが、日系も多く、私の在校時(1983年)には韓国系もかなり増え、米国の他大学と比べ東アジア人の存在が目立つところだった。一世・二世が頑張り、子・孫に高等教育を受けさせ中産階級(特に専門職)入りする。米国における東アジア人とユダヤ人に共通する生き方である。Bay Areaには西の雄スタンフォード大学(私立)もあるがUCBは歴史のある名門州立校、学費も安いことから移民子弟の秀才が集まってくるのだ。一方で州立ゆえに州政府の干渉を受けやすいことから教授の話のような状況も生ずる。

有史以来奴隷はどこにも居たし、人種差別は現在も世界各地に見られる。しかし、米国の黒人差別問題はハリエット・ストウの「アンクルトムの小屋」に代表されるように、世界中老若男女の知るところだ。それもあり20世紀に入り米国ではAAに相当する法律がいくつも制定されている。例えば、大恐慌対策として打ち出されたニューディール政策の中にもそれがあり、公共事業で黒人の働く場が増加している。しかし、実態は黒人以上に白人失業者救済の色が濃かったようだ。また、大学入学者問題では1920年代前半ハーバード大学のユダヤ人新入生が25%を超え、1926年以降15%以下に抑えることが決している。本書はこのようなAA前史から始まり、その難しさに関する諸事を導入部で学ぶことになる。

本書で対象となるAAは、1960年代から活発化した公民権運動、そこから発した公民権法(1964年)とそれを具体化したAA法(1965年)である。これは人種・民族・ジェンダー・階級・障害者に対する差別を禁じ、改善を図ることを目的としている。従って、入試以外にも雇用・昇進、女性問題などに触れるが、全体としては大学進学問題が主題となっている。

公民権法で制度としての差別はなくなっても現実の差別は残る。高等教育こそ人種・階級差別解消のカギ、実績が見えるよう数値でそれを改善しようとするクォータ(割当)制導入の動きが徐々に高まっていく。しかし、高校段階で既に差がある者を無理に救い上げる策は“逆差別”につながる、と白人の側からいくつもの訴訟が提起され、違法との判決も出てくる。これに対し、一旦AA法を受け入れた大学は、クォータ実現が本意ではなく、これからの教育には“多様性”が重要、一定数のマイノリティ入学者は必須と論を張る。混乱に輪を加えるのはマイノリティ内の異なる主張だ。カリフォルニア大学システム(UCBUCLAなど多数の州立大学から成る統合体の呼称)の有力黒人理事がAAに反対したり、東部アイビーリーグに属する大学(ハーバード、プリンストンなど)への入学者割合が不公平(対白人ではなく黒人・ヒスパニック系)だとアジア系(主に中国系)が訴えたりする。ついに20236月連邦最高裁(トランプ政権下で保守系が多数派になっている)は「大学入試におけるAAは違憲」との判断を下し、長きにわたる戦いに終止符が打たれる。

読み応えのある本だったが、疑問が残らなかったわけではない。優遇処置で入学したマイノリティ学生のその後が、入学に比べ詳しく語られていないのだ。例えば、在学中の成績は如何様だったか?学校当局や教官との関係は?卒業後就職状況はどうなのか?AA法は大学入学だけに適用されるわけではなく、就職、昇進なども対象であることから、バランスを欠くと感じた。

本書を読んでいて頭に浮かんだのは、最近の我が国大学入試に関する二つの話題。東京医科大学が女子合格者数に制約を設けていたことが違法とされ、賠償を命じられたこと。東京工業大学(本年10月東京医科歯科大学と合併し東京科学大学となる)が女子合格者枠を設けると発表したことである。あまり知られていないがアイビーリーグ所属大学は1950年代初期まで女性の入学許していなかった。 AA導入で最も恩恵(入学のみならず、雇用・昇進を含め)を受けたのは白人女性との説もある。果たして我が国ではどうなるか?興味津々である。

著者は1973年生れ、一橋大学大学院博士課程単位取得(社会学博士)、現同志社大学大学院教授。「未完の多文化主義-アメリカにおける人種、国家、多様性」で第3回アメリカ学会中原伸之賞を受賞している。中原氏は私が長く勤務した東燃社長(故人)。

 

6)ナットとボルト

-機械や建造物の構成要素7種;釘・車輪・バネ・磁石・レンズ・ひも・ポンプ、の来歴・効用を語り、リサイクルによる環境問題解決の道を探る-

 


現役最終時期から、同期入社有志が最寄り駅近くの居酒屋に集まる飲み会がある。会の名は「ネジの会」。妙な名前の由縁は、機械屋の一人がネジの研究に傾注していており、その蘊蓄を聞き「たかがネジ、されどネジ」の感を強くした結果である。本書の広告を見たとき、先ず思い浮かんだのがそのこと、ナットとボルトはネジそのもの、会の話題にでもと読んでみることにした。しかし、ナット・ボルトは出てくるものの章立てには現れず、“NAIL(釘)”の章の一部でしかなかった。原題が「NUTS AND BOLTS」であるにもかかわらず、である。貧弱な英語力ゆえの誤解だった。これはCats & Dogsが「土砂降り」を意味するように、「基本的な仕組み」を意味する熟語だったのだ。つまり原題を日本語訳すれば「機械の基本的仕組み」が本来の意味となる。と言うようなわけで、本書の内容は広義の機械や建造物の構成要素・部品をテーマにしたものである。

構造物の構成要素として取り上げられたのは、釘・車輪・バネ・磁石・レンズ・ひも・ポンプの七つ。最後のポンプは要素ではなく構造物そのもの、違和感を覚えた。しかし、その章を読んでみれば、著者のポンプに関する思い入れがひとしおで、なるほどと納得した。

各章は、タイトル通りの要素・部品から入り、類似のものを並べ、それを使った製品とその効用を述べていく。それを歴史や人物(特に発明者)、画期的な出来事を交えて書き進める構成になっている。ここに読み物としての面白さがある。

1NAIL(釘)では接合と言う機能をロープや革までさかのぼり、釘の段では木釘が金属釘に置き換わるプロセスを鍛造技術や防錆技術にまで言及して解説する。そこには日本刀の特質・製法も引用される。また効用の点では、英国における木造家屋普及段階で、釘製造者であることは貴族に近い尊称であったとある。類似製品としてあげられるものは、ネジ釘が当然出てくる他、リベット、そして原題の“ナットとボルト”もカーバーされる。2WHEEL(車輪)の発明はいきなり狭義の車輪に取りかからず、発想は陶器を製作するロクロにあったとし、車輪・スポーク・車軸・リムを備えた現代の車輪に至る歴史をたどる。同種のものとして機械部品の基礎とも言える歯車から航空機やロケット・宇宙船の制御に欠かせないジャイロスコープ(3次元コマ)まで、多様な車輪と利用分野を紹介する。3SPRING(バネ)も応用範囲は弓から洗濯バサミ、音楽ホールの防振構造まで幅広い。4MAGNET(磁石)は方位磁石に軽く触れ、あとは動力から通信に至る電気機械を網羅する。5LENS(レンズ)の書き出しは他の章と異なり、いきなり具体的な要素解説から入らず、「親愛なるザリア」で始まる長い導入部が存在する。後述するが著者は女性、苦労・苦痛の人口受精で授かった娘の名がザリアなのだ。顕微鏡や内視鏡あっての愛児誕生。この章には望遠鏡やカメラ、レーザー技術も取り上げらえるが、専ら医療中心となる。6STRING(ひも)は糸から布、弦楽器(動物の腱)、医療手術用の糸、橋梁用鋼製ケーブル、ケプラー製防弾チョッキまで幅広い。そして違和感のある7PUMP(ポンプ)。水をくみ上げる必要性は有史以来のこと。その歴史を語ったあとに紙数を割くのは人体との関係だ。代表は心臓、人工心臓開発(手術用から組込型まで)の現在に至る進展を、具体例を上げて丁寧に説明していく。機械構造物ではないが人間必須の構成要素に違いない。この章ではレンズに加えもう一つ著者の体験談が語られる。苦労して得た我が子だが著者が専業主婦でないために、授乳タイミングがむつかしい。母乳をため置きするためには母乳搾乳器が欲しいが、牛乳搾乳器の原理応用では上手くいなないのだ。ポンプを取り上げたのはこんな背景からきていたのだ。

著者は1983年生まれのインド系英国系アメリカ人女性技術者(ムンバイ生れ)。オックスフォード大学物理学学士、インペリアル・カレッジ・オブ・ロンドン構造工学修士。現在ロンドンを拠点に建造物の構造設計を主務としている。邦訳に「世界を変えた建築構造の物語」がある。

あとがきに本書執筆の動機が記されている。環境問題解決のために、設計段階から分解する方法を検討し、修理やアップグレードによって製品を長もちさせ、最終的にリサイクルできるようにすることが肝要との考えがあった、とある。環境原理主義者と一線を画する、真っ当で現実的な考え方に共感を覚えた。

 

7Blue Impulse & the Counterparts

-航空自衛隊曲技飛行チームの全演技と海外22チームを見事な写真で解説する-

 


学生時代から断続的ではあるが、「航空情報」「航空ファン」「航空ジャーナル」などの航空月刊誌を購読してきた。この内「航空ジャーナル」は創刊の19741月号から休刊の19887月号まで全冊いまだに保有している。この雑誌は元航空自衛官で前「航空情報」編集長だった人が創刊したもので、それまで模型から最新鋭機までてんこ盛りだった航空誌の内容を一新、専門性の高い最新情報を主体とした本格的な航空月刊誌だった。ここで惹かれたのが本書編集人瀬尾央氏撮影の米空海軍機写真である。中でも戦闘機搭乗の空撮など「一体どうやったらこんな写真が撮れるんだ?!」と、写真ばかりでなくその機会作りにまで興味がおよんだ。そんなある時同じ工場に勤務する後輩から「彼は高校の同級生ですよ」と告げられ、急に近しい存在になった。数年前その後輩を介して瀬尾氏のフェースブック友達に加えてもらい、毎年9月に開催される日本航空写真家協会の写真展に出かけるようになった。本書はそこで入手したものである。

ブルーインパルスは航空自衛隊の曲技飛行チーム、コロナ対応医療関係者感謝飛行、東京オリンピックでの五輪マーク描写など首都圏上空飛行でニュースにもなるが、多彩な演技が披露されるのは航空基地祭。本書ではチーム発足時(1960年)からの機体(F-86T-2)や演目も簡単に紹介されているものの、大部分は現用機T-4(練習機)による最新展示飛行。この展示飛行には何種かのメニューがあるようだが、ここで披歴されるのは第一区分と称されるフルコース。パイロットが機に乗り込む前の整列・行進(ウォーク・ダウン)から始まり、30を超える演目、着陸後の解散(タクシー・バック)までを約60頁わたる写真と解説で紹介する。この解説は一演目ごとに二段構えで、最初に演目に関する説明があり、続いて撮影技術(機材は無論、撮影場所や光の具合など)の留意点が語られる。つまり、美しい写真を眺めながら、演目の見所・勘所が理解できる仕組みになっているのだ。

本書を楽しくユニークなものにしているはブルーインパルスのCounterparts。この部は、米空軍サンダーバード、同海軍ブルーエンジェルス、英空軍レッドアロー、仏空軍パトルイユ・ド・フランス、イタリア空軍フィレッチェ・トリコロールから、ロシア、カナダ、ポーランド、クロアチア、フィンランド、スペイン、スイス、中国、インド、パキスタン、韓国、インドネシア、ブラジル、チリ、カタール、UAE、サウジまで21ヵ国22チームの曲技飛行隊写真と解説からなる。これはおそらく我が国初の曲技飛行隊全集ともいえるのではなかろうか。

編者が記す「「あとがき」にかえて」に米海軍チームブルーエンジェルス同乗に至る苦心談が書かれており、積年の疑問が解明した。特別な伝手があったわけではなく、熱意と長い時間をかけての努力の結果であり、決め手は当然のことながら写真にあったのだ。

 

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2024年8月31日土曜日

今月の本棚-193(2024年8月分)

 

<今月読んだ本>

1)ソコレの最終便(野上大樹);集英社

2)ロシアから見た日露戦争(岡田和裕)光人社(文庫)

3)民間軍事会社(菅原出);平凡社(新書)

4)発想の航空史(佐貫亦男);朝日新聞社

5)決断の太平洋戦史(大木毅);新潮社(選書)

6)日ソ戦争(麻田雅文)中央公論新社(新書)

 

<愚評昧説>

1)ソコレの最終便

-実在した巨大列車砲・装甲列車をモデルとする、ソ連満洲侵攻下の鉄道戦。巨砲は辺境要塞から大連に無事送り届けられるか?異色兵器の異色の戦いを描く異色小説-

 


私の戦争体験は194589日ソ連満洲侵攻の日から始まる。日本が米英支と戦っていることは知っていたが、首都新京(現長春)にその気配は全く感じられなかった。突然のソ連軍侵攻で、父を含む成人男子は即日召集、社宅の女子供は保安要員として残った男性社員に引率され、トラックを連ね南に疎開した。場所は公主嶺、ここに大きな工場があったからだ。終戦の報も疎開先で知ることになる。新京は戦場になっておらず平穏との情報がもたらされ列車で帰京、召集解除となった父とも再会できた。成長するにつれ公主嶺から新京へ向かう列車内の光景が不可解に思えるようになる。車内に大勢の民間人が既に乗車しており、彼等は満鉄関係者で内地へ引揚げる途上にあるとのことを、下車後大人たちの話で知る。しかし、列車は南下するソ連軍に向かって北上しているのである。何故南の大連に向かわなかったのだろう?後年満洲からの引揚を調べていて分かってきたことは、大連は満洲と日本を結ぶ要衝(満鉄本社の所在地でもある)、ソ連軍はここを目指して進撃中、避難民の思いも同じで街も集中する路線も大混乱、たどり着いても帰国の船がつかまる保証はない。鉄道と大連事情を熟知する彼等は、陸路朝鮮半島経由で帰国する道を選んだのだ。本書は、ソ連軍侵攻の日に始まる、ソ満国境東北端虎頭要塞に配備されている九十式24センチ列車加農砲を大連まで移送する物語である。大連を守るのではなく、本土決戦のためだ。

“ソコレ”とは装甲列車の略称。軍事技術に関心のある者にとって、装甲列車や列車砲もその対象ではあったがピークは第一次世界大戦、ドイツのパリ砲は射程が120kmもある怪物だった。しかし、鉄路と言う制約で、爆撃機や自走兵器(戦車、自走砲)が出現すると用済みとなり、第二次世界大戦まで実戦運用し続けたのは独・ソの二ヵ国のみ、それも限定的な戦場に補助兵器として投入されたにとどまっていた、と思い込んでいた。夕刊の短評で本書を知ったとき「日本にそんな兵器があったのか!」「作り話ではないのか?」の驚きの念が生じ、即入手となった。

本書は軍事サスペンス小説である。つまり作り話だ。しかし、登場する九四式装甲列車、九十式24センチ列車加農砲、鉄路・道路両用の九一式広軌牽引車は実在し、満洲を中心に中国戦線に投入されていたことは事実である。小説の中でこれらを運用する部隊は鉄道第四連隊(牡丹江駐屯;主力は中国戦線で作戦中)所属の一〇一装甲列車隊(マルヒト・ソコレ)となっているが、この列車隊存否は確認できなかった。隊長は故あって昇進の遅れた陸士出身の大尉(29歳)、隊員数は90人、虎頭要塞で列車砲を受け取ると砲輸送隊員(輸送班長は少尉)がこれに加わるので、中隊規模になる。指揮系統は命令を受けた時点で関東軍直轄(作戦課→列車隊長)。

事実関係を補足すると;虎頭要塞は東部ソ満国境最強の要塞、この列車砲以外にも日本陸軍最大口径の試製41センチ榴弾砲を備え、松花江の鉄橋を射ち落している。九十式24センチ列車加農砲は、1920年代後半東京湾防衛のためフランス(シュナイダー社)から砲本体を輸入、付帯システムは独自開発して富津岬に設置されていたものだ。1930年代半ば列車砲に改造、虎頭に送られている。射程は大和主砲より長く50km。列車砲は1両ではなく弾薬車・動力車(砲操作電源用2両)・観測車・通信車・予備品車などから成り、これを装甲機関車で動かすことになる。実際には要塞配備後この砲は移動しておらず、陥落後ソ連に持ち去られたようだ。

九十四式装甲列車は1933年に満鉄で開発開始、1934年完成。編成は先頭から、警戒車・火砲車3両(甲・乙・丙;搭載砲が異なる)・指揮車・機関車・炭水車・電源車となる。炭水補給なしでの行動距離は150km、時速は平地で60km/時。数編成あったが正確な数は不明。本書の中に、マルヒト・ソレコ運用の“老ソコレ”なる年式不明装甲列車が登場するが、試作を含めこれに該当するものは見つからなかった。著者の創作と思われる。

一〇一列車隊基地はハルビンとウラジオストクを結ぶ旧東清鉄道(シベリヤ鉄道の短絡線、満鉄買収)の中間点、牡丹江に在る。虎頭はその北東、松花江を挟んでソ連領イマンと対峙する位置だ。当初の回収・移送計画は牡丹江→虎頭(列車砲接続)→牡丹江→ハルビン→新京→大連のルートを想定、816日に大連を出港する船に24センチ列車砲を積み込むことになっている。しかし、侵攻は急激に状況を変え、路線も列車も計画通りに運行することなど出来ない。迂回路を探したり、老ソコレで牽いてきた列車砲をハルビン東北の綏化(すいか)で九十四式装甲列車に繋ぎ変えたり、寝返った満洲国軍に襲われたり、虎頭で便乗してきた軍医を731部隊(細菌戦部隊)の根拠地平房(ビンファン)に送り届けたり、と予期せぬ出来事が次々に起こる。クライマックスは大連を前にそこに直行せず手前の大石橋で中国本土に向かう営口線に乗り入れてソ連の装甲列車と一戦を交えるところだ。

兵器と鉄道、二つの趣味を同時に味わえる作品だった。著者が意図したか否かは不明だが、最強兵器を本土決戦のために満洲から持ち去ることは、他の兵器・兵員も同じ。満洲は本土の捨て石だったことを象徴しているととるのは下衆の勘繰りであろうか?

著者名は初めて目にするものだったが、著者紹介から霧島兵庫名で既刊があることを知った。本欄でも以前「二人のクラウゼヴィッツ」(新潮文庫)を取り上げている。前作も含め、小説としての面白味は今一つだが、軍事に関する新知識を得られるし、戦闘場面はそれなりに臨場感がある。それもそのはず、1975年生れ、防衛大学校卒、軍事専門家である。本書は名義変更後初の刊行作。

 

2)ロシアから見た日露戦争

-ロマノフ王朝批判のはけ口、軍事同盟国フランスの後押、けしかけるドイツ皇帝ヴィルヘルム二世、日露の疲弊を密かに期待し中立建て前の英米。日露戦争の背後にある複雑な国内事情・国際関係を暴く-

 


日露戦争を描いた著作といえば、何と言っても司馬遼太郎の「坂の上の雲」だろう。私の書架にも全6巻が収まっている。評論、対談・鼎談、歴史エッセイ、紀行文などノンフィクション作品は多数読んできたものの、小説は「坂の上の雲」が最初にして最後である。作者の思い入れがひとしおで面白さは抜群だが、それ故に史実を誤る恐れありと感じたからである。この本に出合う遥か以前、古参課長が戦記物ファンである若造に「この本、君向きだぞ」と貸してくれたのが日本海海戦にバルチック艦隊の一水兵として乗組んでいたノビコフ・プリボイの「ツシマ(原題)」(1941年スターリン賞受賞)である。風説によれば司馬も日本海海戦を著す際にこの本を参照したということだが、その違いは大きい。大海戦どころかウラジオストクへ逃げこむことすら難しい状況下にあったのだ。先月「新・幕末史」を読み、幕末・維新に対する諸外国の国家戦略・外交政策を知り、内側から見る歴史との違いを痛感した。本書を読む動機もそれと同趣旨である。「向こう側から見るとどういう戦争だったのか」

著者は1937年満洲生れ。スポーツ紙、出版社勤務を経て文筆業に転じた人。満洲物が多く、市井の歴史研究家といったところか。

日清戦争に勝利した日本は遼東半島を得るが、三国(露・独・仏)干渉で返還を余儀なくされる。にもかかわらずロシアはそこを租借、満洲の鉄道敷設権を獲得するばかりか、要塞・軍港を築き軍隊まで常駐、さらに朝鮮半島への進出をうかがう。これに対する日本の抗議にも真剣に取り組まず、外交交渉は行き詰まる。日本側の開戦理由はおよそこんなところである。

ロシアではニコライ二世を含め、当初は戦争まで考えていない。のちにポーツマス講和会議の首席となる当時の蔵相ウィッテも満州経営を優先すべきとの考えである。しかし、ロマノフ王朝に対する批判は日ごとに高まっており、国民の不満を外に向け、朝鮮開発や満洲利権を農民・大衆に与えことで、それをかわそうという意見が強くなっていく。さらに、狡猾な独皇帝ヴィルヘルム二世がこれを煽る。統一成ったドイツ帝国の次なる野心は東欧・バルカン。その懸念材料は仏露同盟、露の軍事力が極東に向かえば独の東方進出の負担が軽くなるとの考えだ。加えて、革命勢力も戦争による国内混乱をチャンスと見ている。慎重だったニコライ二世も日本の宣戦布告を待って、戦うことを決する。列強に侵略者の烙印を押されぬための配慮だ。そしてその列強では、シベリア・満洲開発に資本投入している仏が露を押し、米英は満洲利権を独占する露を快く思わず、日露が戦うことで両者が疲弊することを期待している。セオドア・ルーズベルトに依る講和仲介は、決して善意からではなく、国益(「機会均等」「門戸開放」の真意)のためだったのである。

本書では会戦・戦闘場面の記述は抑えられ、背景となる露国内外の政治・社会情勢を深耕するので、皇帝を始め側近侍従・高級官僚・軍司令官などこの戦争に関わった人物の人となりや言動が、手記や回想録をもとにクローズアップされ、そこに面白さがある。

ニコライ二世の世評は「人の意見はよく聞くが、自分の意見もよく変えた」つまり人の意見に左右されやすい人物。この人の妃は英ヴィクトリア女王の孫、独皇帝ヴィルヘルム二世はヴィクトリア女王の初孫だから、血はつながらないものの、両皇帝は従弟と言うことになる。独皇帝が年長(9歳)だからその影響は強かっただろう。ポーツマス講和の後帰国途上にあったウィッテは独皇帝に拝謁しているが、その日のことを「皇帝の助言が我がロシアの敗北となり、ドイツは大成功を収めている」と姦計をしっかり見抜いている。

そのウィッテは下級官吏の子だが、才覚を早くから認められ鉄道局長、大蔵大臣と出世し、1892年から開戦前年の1903年まで10年もその地位にある。しかし、吝嗇で個人の蓄財に励み反ウィッテ派によってその地位を奪われる。それでも、能吏ゆえに講和代表に選ばれ、賠償を認めず講和に達したことが評価され、帰国後閣議議長の地位に就くが南樺太を日本に割譲したことが不興を買い、やがて失脚する。

満洲軍総司令官クロパトキンの前職は陸軍大臣、この時は開戦派であったが、1903年国賓として訪日、そこで日本軍の認識を改め慎重派に転じている。にもかかわらず総司令官を命じられるが、奉天会戦に敗北、反撃の人員・物資の補給を待つためハルビンまで撤退、これを敗走と受け取られ総司令官を解任される。彼の回想録は言い訳・泣き言に満ち満ちている。旅順要塞敗軍の将ステッセルは我が国では名将だが、ロシアでは要塞を統率する能力などない愚将の評価、乃木希典を名将にするための日本神話に過ぎないようだ。

日露戦争に関する歴史教育では早い段階から「あれはロマノフ家の敗北であり、ロシアが負けたわけではない」となっており、共産党独裁下でさらにそれは徹底され、今日に至っている。

著者はロシアの特質についてウィッテ回想録から引いている。「武力以外は何もないロシアの後進性」と。これはロシア観に欠かせぬ箴言だ。回想録は当時のロシア統治体制批判が生々しく記されており、生前他者の眼に触れることを恐れ仏銀行に預けられ、死後最初は仏で出版、革命後の1920年代露語版が母国で発刊された。

本書が書かれたのは2011年、ウクライナ戦争遥か以前だが、ウィッテの指摘はその後も変わらず、プーチンまで脈々と続いている。

 

3)民間軍事会社

-輸送・医療等後方サービスから始まった軍の民営化、テロ対応警備・警護を経て今や最前線の戦闘請負まで発展。その歴史的変遷と専業企業の実態を明かす-

 


ロシアの石油市場開拓を進めていた2004年、二度大規模なテロ事件に遭遇した。2月のモスクワ地下鉄爆破事件、9月の北オセチア共和国における中学校人質事件がそれらで、いずれもチェチェン共和国独立派の犯行であった。このとき日本大使館はロシア滞在者にテロ警告情報を発し、危険個所として真っ先に挙げられたのが石油関連施設。それまでにかなりの数の製油所を訪れていた者にとって、いささか違和感を覚えるものだった。製油所のガードは極めて堅く、迷彩色の軍服をまとい、自動小銃を持った男たちが入口を固め、厳しいチェックを受けるのがつね。近接した別棟に彼らの本部があり、非常時即応体制もしっかりしており、街中よりはるかに安全な感がしたからである。ソ連時代製油所は軍の管理下にあり、軍民一体の製油所管理が行われ、ソ連崩壊後セキュリティ部門は分割民営化されたものの、組織・人材はソ連時代と変わらぬと聞かされた。そしてこの民営化された組織は、外部のものから見れば、日本の警備会社とは大違い、当に軍隊である。ウクライナ戦争で一躍名を挙げたワグネルもロシア企業、それも取り上げられていることを知り読んでみることにした。時節に便乗したジャーナリスティックなものではないかと危惧したが、予想に反ししっかりした内容だった。

著者は1969年生れ。国際政治アナリスト・危機管理コンサルタント。中央大学法学部を卒業後アムステルダム大学大学院で国際関係学修士号を取得している。この大学院時代、研究の一環として海外民間軍事会社と関わるようになり、卒業後英国のこの種の会社に在籍、日本法人の役員も務めており、本書の中でその体験も具体的に紹介される。

戦場は、戦闘が行われている「最前線」、一応平定されているが敗残兵やゲリラの活動が残る「前線」、最前線・前線を支える「後方」から成るとする。この内「後方」は武器を含む軍需品・兵員輸送から始まり、基地建設、給食・清掃・洗濯、医療などがあり、早くから民営化が進んでいた。これが今では、基地警備、要人や輸送警護、兵員訓練など「前線」の領域からさらに「最前線」で戦闘を請け負うところまで業容が拡大している。変化の萌芽はヴェトナム戦争、徴兵制が志願制に変わったところにあったとする。この流れが一気に加速したのが冷戦崩壊後、各国とも安全保障に対する関心が低下、予算削減に走ったからである。しかし、超大国の戦略が核を離れると通常兵器による民族紛争や国境紛争、テロが多発、脅威の質が変わったこともあり、軍隊の役割自体が多様化し「最前線」まで民営化が進んだのだ。

軍の民営化以前に需要があったのが政情不安な地域でビジネスを行う企業へのセキュリティサービス提供。このような地域に早くから進出していた英系メジャー(石油、鉱物資源)が英特殊部隊(Special Air ServiceSAS。第二次世界大戦中落下傘降下に依る後方かく乱を担当)の退役者から成る民間軍事会社(Private Military CompaniesPMC)と結びつく。やがてこのような企業に、反政府活動鎮圧に苦慮するアフリカ諸国が訓練から戦闘まで依存するようになり、「最前線」から「後方」まで丸ごと請け負う会社が出現してくる。英国のDSLDefense Systems Limited)社、米国のブラックウォーター社、トリプル・カノピー社、ヴィネル社、南アのEOExecutive Outcome)社、そしてロシアのワグネルなどが、アフリカ内戦のみならず、アフガン戦争、イラク戦争、シリア内戦などで存在感を示すことになる。そして紛争当事国や企業所属国で存在感が増すに連れ、政府の“汚れ仕事”を請け負うことで利権を手にしていく。プーチン大統領に弓をひき暗殺(?)されたブリゴジンの莫大なアフリカ利権は大統領の手に帰したと著者は見ている。

本書は中国のそれにも紙数を割くが、他の国とは大違い。一帯一路を進める過程で中国人外交官、ビジネスマン、労務者が誘拐・襲撃されるケースが増えている(特にアフリカ)。中国にも民間警備会社は存在するが専ら自国民保護が目的、武器携行は小火器に限られ、本格的な武装民間軍事会社など反乱を恐れ存立し得ないのが実状らしい。ワグネル事件でそれはさらに強まった、と著者は見る。

ここまで、武器を直接取って戦う戦場を対象にするPMCを紹介してきたが、新たな戦場が浮上してきている。宇宙やサイバー空間だ。ここは高度技術を要するため、民間技術者の協力が欠かせず、この面に特化したPMCの出現についても本書の中に触れられている。

さて日本である。無論ここで取り上げられるような民間軍事会社など存在しない。しかし、出先機関や自国民保護のため、セキュリティに関しこのような世界とつながりを持つっておくことは重要だ。問題は友好国の政府関係者もPMCのメンバーも特殊部隊出身者(英SAS、米陸軍デルタフォース、米海軍シールズなど)中心で仲間意識が強く、当該組織(海外での特殊軍事活動)を欠く我が国は、この種のセキュリティ・コミュニティとは疎遠(警察は外事警察でつながっているが)、関係強化に務める必要ありと提言する。

PMCの歴史的変遷、個々のPMC創設背景と具体的活動、特定国家の政情・軍事事情、ワグネルのような最新話題、参考文献も確りしており、PMCの何たるかを理解する入門書としてお薦めできる。

 

4)発想の航空史

-第二次世界大戦中ドイツに滞在した航空技術者による、航空史を飾った名機たな卸し。ライトフライヤーから零戦・B-29、ジャンボ・コンコルドまで-

 


父が自動車会社勤務ということもあり、幼児の時から自動車は身近な存在、免許は返納したもののクルマへの関心は今につづく。所有したクルマは9台に過ぎないがこの内3台はドイツ車、米国出張で借りたレンタカーはすべて米車だった。英国に滞在した時は既に英国製大衆車は無く、専らプジョー(仏)やフィアット(伊)を利用した。国産車はトヨタ、日産、ホンダ、日野など多様、軽自動車から2座のスポーツカーまで多種の車を乗り継いだ。このささやかな自動車体験からも、それなりに国民性を感じたものである。アメ車のパワーといかつさ、個性の強いフランス車(例えば、シトロエン社2CVやルノー・カングー)、イタリア車の華麗あるいは可愛いデザイン、堅実性がときに傲慢と映るドイツ車、個性を抑えた高信頼性の日本車、などが私の各国自動車観だ。対象を航空機に転じその発展史にお国柄を浮かびあがらせるのが本書の内容である。

著者は既に故人(1908年~1998年)となった航空技術者・学者(1931年東大航空学科卒、東大名誉教授)。飛行機以外に山歩きやカメラなどの著作も多く、1969年には「引力とのたたかい-とぶ-」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。本書の出版は1995年、航空関係の著作としては最末期のものである。

つぎつぎと興味深いエッセイをものにしてきた背景に、ユニークな経歴があり、それが本書にも反映されている。戦前の我が国航空機開発は事実上東大航空学科卒業者が担ってきた。学科は大別すると機体とエンジンに分かれていたが著者はプロペラを専攻、航空機メーカーや陸海軍でなく日本楽器(ヤマハ)に就職する。ここで、プロペラの可変ピッチ(飛行中プロペラ角度を変える)機構の開発を担当、1941年ユンカース社の技術を導入するためドイツに派遣される。6月独ソ戦開戦、12月太平洋戦争開戦となり帰国が叶わず、1943年末までドイツに滞在、トルコ・ソ連(日本とは中立関係)経由で帰国する。滞独中刻々変わる戦況の下、ドイツは無論、英・米、ソ連、イタリア等の航空技術に触れ、戦後その体験を数々の単行本や航空誌に著している。本書もその一冊、第二次世界大戦機にとどまらず、ライトフライヤーから1990年代の旅客機まで300機近い航空機を、独断と偏見(ドイツ贔屓であることを明言)で分析・寸評する。

“発想”の着眼点は、技術、用途・用法、機体デザインなど機によって異なり、背景は国情ばかりではなく、創業者や経営者、設計者にも言及、飛行機を論ずることもあれば個人を主役とする話もあり、ワンパターンではない。むしろその違いが読みどころとも言える。特に日本機の設計者は著者の知人・友人が多く、人柄と機の関係記述は興味深い。

ライト兄弟により人類初の飛行を成功させたにもかかわらず、米国は第一次世界大戦後1920年代まで航空後進国、その最大の理由はライト兄弟(特に兄ウィルバー)にある。米国特許を取得し、ライバルたちの航空界進出をことごとく封じたからだ。特許のポイントは旋回に際し両翼後端をひねるところにある。現在でも重要な役割を担う補助翼につながる発想である。著者によれば、これは鳥の飛翔と同じで自然界の原理、本来特許の対象にならないものだと言う。第一次世界大戦中飛行士訓練用に英国製練習機を国産化したものが戦後民間に放出され、リンドバーグのような冒険飛行家が利用、やがて自国機開発につながり、ニューヨーク・パリ間無着陸飛行を成功させ航空機開発の最前線に出てくる。

第一次世界大戦時のトップランナーはフランス、それをドイツが追う形だ。大戦前両国はライトの翼端ひねり特許を無効とし、フランス機は英仏海峡横断を成功させ、優れた開発者がつぎつぎと現れる。英国も大戦初期には仏機のライセンス生産から始めているほど仏は先進的だった。大戦末期には高性能の英戦闘機も戦線投入されるが、仏機とくらべデザインに面白味皆無と著者は酷評する。

戦間期仏は左傾化した人民戦線内閣の下でマジノ線構築を除けば軍事費は抑えられ、一部民間機(レース、冒険)を除き仏航空界は低調をきたす。一方ヴェルサイユ条約で厳しい制約の下に在ったドイツ航空界は、民間航空やスポーツ航空を隠れ蓑にして着々と軍事航空復興の方策を講じていく。開戦時独仏空軍力の差は決定的で1940年西方作戦ではなすところなく仏空軍は壊滅する。一方、英国は第一次世界大戦中のロンドン爆撃から、島国であることの安全性が航空機によって脅かされることを学び、ナチス政権誕生後、防空と長距離爆撃を基本戦略とする空軍構築に邁進する。スピットファイアー戦闘機とランカスター4発爆撃機はその象徴と言える。対するドイツ空軍は陸軍国の発想が大勢を制する。ナチスNo.2のゲーリング航空相、技術部長のウーデット、いずれも第一次世界大戦の戦闘機乗り、空戦と対地支援を重視した空軍作りに励み、戦闘機の主力はメッサーシュミットMe-109、爆撃機は双発のハインケルHe-111やユンカースJu-88など、いずれも渡洋空戦には航続距離が充分でなく英独航空戦に敗れる。もう一つの島国である米国の陸軍航空軍は英トレンチャード元帥が提唱する戦略空軍を目指し4発重爆撃機開発に力を注ぐ。その成果物がドイツの息の根を止めたボーイングB-17であり、東京以下の大中都市を破壊し尽くし、原爆を投下したB-29である。

太平洋戦争を代表する我が国軍用機は零戦、戦争前半では華々しい活躍をしたものの、後半は息切れしてくる。Me-109やスピットファイアーが強化発展して終戦まで一線にあったことと対比して問題点を探る。空戦性能と海洋国ゆえの長大な航続距離要求が余裕のある機体開発を阻害し強化発展の余地が無かったとする。後続機として期待された艦上戦闘機烈風の設計主任も零戦と同じ堀越二郎、何と同時に局地戦闘機雷電の開発も担当させられていたのだ。著者は、雷電は中止し烈風に専念させるべきだったとする。

日本機でやりきれない思いをさせられるのは陸軍の三式戦闘機飛燕の話。エンジンはダイムラーベンツ社が開発しMe-109を始め多くの名機に採用されていたDB601液冷V12気筒をライセンス生産し搭載する。このクランクシャフト生産が国内で軌道に乗らず、独駐在の著者に生産工程を調査することが命じられる。材料(ニッケルを多用)、工作機械(鍛造プレス機、研磨機)が国内で使われているものと段違いの高性能、図面だけ買っても同じものを作ることができないと痛感させられる。エンジンを欠いた機体に空冷エンジンを換装、五式戦闘機として活用せざるを得ないことになる。当時の日本の技術とはこの程度のものだったのだ。

独ソ戦開戦当初の独空軍は向かうところ敵なしの状態。しかし、戦局が進むにつれ戦車戦同様ソ連が巻き返していく。その中心となるのがイリューシンIℓ-2シュトルモビク地上攻撃機、37m機関砲を備え装甲が総重量の15%を占める、空飛ぶ戦車とも言える攻撃機、クルスク大戦車戦では独パンター戦車、タイガー戦車も抵抗できなかったと言う。こんな機をソ連は35千機(全軍用機生産の約13!)も戦場に送り出しているのだ。ソ連の発想侮るべからず、が著者の警句だ。

第二次世界大戦機を中心に内容紹介をしたが、朝鮮戦争のMIG-15(ソ)、F-86(米)、ヴェトナム戦争のF-4ファントム、湾岸戦争のステルス戦闘機F-117など戦後の軍用機ばかりか、ジェット旅客機の嚆矢コメット、B-747ジャンボ、超音速旅客機コンコルドまで多機済々、独特の筆致で俎上にのせる。久し振りに佐貫節を楽しんだ。

 

5)決断の太平洋戦史

-知将・勇将・猛将・愚将、評価が定まっていた日・米・英12人の指揮官・司令官を最新情報で見直す-

 


多くの日本人にとり8月はあの戦争を振り返る特別な月。小中学校の同級生には310日の東京大空襲で身内を失った者もいた。また、後年南方方面で父親が戦死した友人にも出会っている。父を含め父母の兄弟は徴兵年齢になると応召し、外地に遠征した者もいるが、皆無事に帰還・除隊し、天寿をまっとうした。そんな周辺環境から、私のあの戦争に対する思いは、自ら体験したソ連侵攻に極端に偏っている。それもあり今月はソ連・ロシア関係が3冊にもなってしまった。少し、太平洋戦線全域に眼を向けてみよう。そんな思いで本書を手にした。

著者は1961年生まれの戦史研究家・作家、既に何冊も本欄で紹介、直近では6月に掲載した「勝敗の構造」(真珠湾攻撃を含む11の作戦)がある。多くの著者作品を読んできた理由は、年々第二次世界大戦に関する戦史出版が少なくなる中で、新しい情報に基づく著作を出していることにある。その情報源は、ドイツ留学の経歴もあり、英米だけでなく独ソを含み、必ずしも抜本的とは言えないものの、先の大戦に関する固定観念を改める機会を与えてくれるのだ。例えば、初めて読んだ「独ソ戦」(岩波新書;20198月紹介)では、開戦や作戦展開をヒトラーの独断とする史観が大勢を占めるのに対し、「ヒトラーの“東方生存圏”から発したものではなく、国防軍も積極加担した絶滅戦争だった」と国防軍善玉説に異をとなえる。

本書の対象は太平洋戦争(中国を含む)、日米英計12人の指揮官・司令官を取り上げ、愚将・勇将・知将と既に定まっている彼らの再評価を試みる。評価の着眼点は二つ、一つは戦争の階層;戦略・作戦・戦術レベル、もう一つはそれぞれの国・軍の指揮統帥文化(コマンド・カルチャー)である。

取り上げられる人物は;アーサー・パーシバル陸軍名誉中将(英)、三川軍一海軍中将、神重徳海軍少将、アリグザンダー・ヴァンデグリフト海兵隊大将(米)、北條了軍医大佐、クレア・シェンノート空軍名誉中将(米)、小沢治三郎海軍中将、ウィリアム・ハルゼー海軍元帥(米)、酒井鎬次陸軍中将、山下奉文陸軍大将、オード・ウィンゲート陸軍少将(英)、カーティス・ルメイ空軍大将(米)。

この内軍事作戦に直接関わっていないのは、北條了軍医大佐と酒井鎬次陸軍中将。前者は細菌研究者で731部隊所属、細菌戦確信犯、渡独した際絶滅収容所での適用を示唆した可能性がある。後者は近衛文麿のブレーン、陸士で恩賜の銀時計、陸大で恩賜の軍刀拝受のエリート、総力戦の信奉者(非戦論者)、戦車部隊集中運用をとなえ東條(分散歩兵支援)と対立、のちに東條内閣倒閣を画策し予備役に追い込まれた人物。

残り10人をすべて紹介するわけにはいかないので、対峙した敗軍の将と勝者二人に絞り、著者がどこに着目し従来の世評を改めようとしたかを記してみる。

敗軍の将はシンガポール陥落の責を負わされ、愚将と蔑まれてきたパーシバル。オックスフォード大出とは言え一兵卒から方面軍司令官まで登りつめた人物、降伏するまでの道は見事なものだ。英国官界(軍人、外交官、高級官僚)の限られたエリートが学ぶ帝国国防学院も卒業。陸大卒後は参謀畑が長く、1936年にはのちに司令官となるマレー方面軍参謀長も務めている。この時対日戦研究を命じられ、「タイとマレー半島北岸に上陸、空軍基地を抑え南下し、シンガポールを裏から攻略する」と報告している。当に5年後の日本軍作戦通りである。英大陸遠征軍でドイツと戦ったのち1941年マレー方面軍司令官に就任。彼の対日戦略は従前の研究通りで半島方面の強化を望むが、本国は欧州優先でアジアは二の次、シンガポールの防衛は海を固めれば良しとの考え。陸軍主力のインド軍は錬成中で半島配置のインド軍では反英活動も活発化、ついにシンガポールは陥落する。著者のパーシバル弁護論はこの本国の戦略に向けられ、チャーチル始め英国トップを難じることになる。これは最近の英国における戦史研究も同様らしい。

勝者は山下奉文。パーシバルを前に「イエスかノーか」と迫るシーンから猛将のイメージが強い。しかし、著者は「治世(平時)の能吏」が本質と見る。陸大を6番で卒業、恩賜の軍刀を拝受、陸軍省勤務(軍政)が主体で情報畑(ドイツ班)が長い、この間欧州に長期滞在、オーストリア兼ハンガリー駐在武官も務めている。ただ、陸軍省情報部長時代二・二六事件が起こり、首謀者たちの裏に居た皇道派の一人と見做され天皇の不興を買う。軍中央が統制派だったこともあり、日中戦争の渦中に投じられ、ここで初めて戦場体験(旅団長)するが、見事な作戦指揮が評価され、再び陸軍省に航空総監兼航空本部長として返り咲く。1941年には第二次世界大戦中の欧州(独伊)派遣視察団団長、陸軍近代化の要を痛感「対ソ・対米戦は隠忍自重して、軍の近代化を図るべし」との報告書をまとめている。194111月第25軍司令官としてシンガポール攻略を任され、作戦次元でも優れた力量を示す。「本来は戦略の人だったが、その次元の能力は活用されずに終わった人」が著者の結びである。つまり、“猛将”だけで語りつくせない軍人だったのだ。

個々の人物紹介にたびたび触れられる“指揮統帥文化”について、事例を二つ紹介しておきたい。指揮命令;指揮や戦闘に関する教義(ドクトリン)はどの国も備えているが、上から下まで教義墨守の軍から、それぞれのレベルで相当自由度がある国まで様々だ。第二次世界大戦で兵士が戦闘で最も強かったのは独軍と言われている。その因は状況に応じた指揮命令・戦闘の自由度にあったようで、戦後米軍はこれを徹底研究、臨機応変を旨とするよう教義に改定してきている。人材登用;米には一般大学に予備将校訓練団(ROTCReserve Officers’ Training Corps)があり、軍学校卒業者だけが将官・司令官を務めたわけではない。戦後空軍参謀長まで昇進したカーティス・ルメイ大将はROTC出身。英軍では敗者復活や異端児・一匹オオカミを生かす道が出来ている。典型例はビルマ援蒋ルート開削・維持で活躍したウィンゲート少将。中東在任中イスラエル建国を目指すシオニスト・グループを支援して左遷されるが、ゲリラ戦の知見が評価され、インド・ビルマ・中国国境域で戦う挺身隊指揮官として活躍する(戦死)。米英とも、士官学校・兵学校の成績が終生ついて回った日本軍とは大違いだ。

初出は新潮社読書誌「波」に連載されていたもの。中心テーマは“人”にあり、一人一話で構成されているので、短編小説を読むような面白味が味わえた。

 

6)日ソ戦争

-開戦から終戦までわずか数週間の戦争、太平洋戦争とは異なる戦争と位置付け、その裏面を外交面・戦線両面から探り、ソ連(ロシア)の戦争文化をつきつめる-

 


満洲で刷り込まれた悪印象か因で、根っからのロスフォビア(Russophobia;ロシア嫌い)である。一時期ロシアビジネスに従事していた時には随分改善され、当時付き合ったロシア人に悪意は全く持っていないが、その後のプーチン治世で全体としてのロシア・ロシア人観は原点に戻った。だからこそソ連物・ロシア物には惹かれるものがある。本書もそんな動機で購読した。

広告で題名を見た際「ウン?」となった。“日ソ戦争”が見慣れぬ言葉だったからである。一瞬幕末から始まる日露(ソ)紛争・戦争通史かと疑ったが、やはり89日に始まる一方的侵攻がテーマだった。題名理由が書き出しに記されている。日本ではこの戦争に特別な名前を付けていないがソ連(ロシア)は“ソ日戦争”と正式に名付けていること、戦争の形態が太平洋や中国の戦いとは全く異なることからそうしたと。

著者は1980年生れ、岩手大学人文社会科学部准教授。専攻は近現代日中露関係史、既刊の著書はすべてロシア(ソ連)、満洲、中国に関わるものである。

ソ連の対日参戦は19452月のヤルタ首脳会談で決まったことは明らかだし、ソ連もそれを正式参戦理由としている(火事場泥棒でないことの言い訳)。また、同年7月のポツダム会談はそのダメ押しの場になったこともよく知られている。本書にもこの二つの会談が取り上げられているが、結論よりは会談前後の米英ソ外交戦に多々教訓が秘められており、本書がそこに着目し詳述・解説するところに、読み甲斐を感じた。

ヤルタでローズヴェルトがスターリンに対日参戦決断を迫ったことはよく知られるが、彼が駐米ソ連大使に日本爆撃の可能性を問うたのは、何と真珠湾攻撃の遥か以前19417月のことである。ソ連を利用して日本を叩くことを、早くから構想していたのだ。この構想具体化検討は米国内でその後継続され、19438月には統合参謀本部が以下のようにまとめている。「ソ連はいずれ対日戦に介入する可能性は高いが、ドイツの脅威が取り除かれるまではそうしない。その後は、己の利益を考えて決断し、わずかな犠牲で日本が負けると思ったときだけ介入する」と言うもので、見事に2年後を予見している。

194311月のテヘラン会談でローズヴェルトは参戦を打診するが、スターリンは「ドイツが崩壊した時だろう」と確答しない。前向きの発言は194410月チャーチルがモスクワを訪問した時初めて発せられ、見返りを要求する。戦いのための兵站支援と日露戦争で失った満洲の利権(旅順・大連、鉄道)、南樺太返還、千島列島の獲得、がそれらである。チャーチルからこれを伝えられたローズヴェルトは「どんなことでもしなければならない」と答える。結局これがヤルタ会談で正式合意となる。

ヤルタ会談の2か月後ローズヴェルト死去、大統領はトルーマンに変わる。対日戦勝利が見えていること、原爆開発が進んでいること、東欧・バルカンでの勢力圏線引きで冷戦がはじまっていること、を理由にトルーマンはソ連参戦不要をとなえる。これに強く抵抗するのが陸軍参謀総長のマーシャル大将、本土決戦の被害を恐れてのことである。やむなくトルーマンも陸軍の意を受け入れる。

1945717日~82日対日戦を論ずるために首脳がポツダムに集まる。ドイツ降伏は58日、ヤルタの約束ではそれから3か月後ソ連参戦が決まっていた。89日がその日だ。しかし、スターリンは準備不足を理由に815日に延期することをトルーマンに告げる。では、なぜこれが原案の89日に戻ったのか?ポツダム宣言にソ連は署名していない。トルーマンはソ連が日本と中立条約下にあることを逆手にとり、ソ連を考慮せず宣言してしまったのだ(モロトフが抗議するが後の祭り)。日本はソ連が宣言に加わっていないことを都合よく解釈、ソ連に終戦仲介を懇請する。ソ連にすれば敗戦を認めているも同然、「ぼやぼやしていると参戦前に日本は降伏してしまう。それでは見返りが反故になる。一日も早く戦い連合国の一員となって獲物にありつこう」こうして89日満洲・南樺太・千島列島への侵攻がはじまる。

軍事作戦については全体で4章の内2章を割く。一つは満洲(朝鮮半島を含む;この部分も一読の価値あり)、もう一つは南樺太・千島列島。ソ連侵攻を対象とする著作の多くが満洲を中心に書かれているのに対し、南樺太・千島列島の戦いを詳述しているところが他書との違いだ。特に、千島列島は他の戦場と異なり、米ソの間で明確な線引きが出来ておらず、今日まで北方領土問題を引きずる結果になる。満洲全土と朝鮮半島38度線以北はソ連の支配域、南樺太はソ連に返還(return)と明記されているが、千島列島は引き渡す(hand over)となっており、どこまでとは記されていないのだ。千島列島に関する米国の認識が曖昧だったことが背景にある。もう一つの問題は“戦争の終わり方”の難しさだ。政治的な決着と最前線の戦闘停止は簡単に同期しない。中央から離れた僻地で注目もされない戦場では情報遅れや内容解釈に差が生じ、歯舞・色丹まで攻め込まれてしまったのだ。ソ連は北海道も狙っていたが、米軍が一歩早く乗り込み、分割占領の口実を与えなかった。

この千島の章で、私としては初めて知った、驚くべき数字がある。米国からのソ連支援物資輸送ルートは、北極海経由の北方ルート、ペルシャ湾からの南方ルート、それに北太平洋を横断する東方ルートの3ルートがあるが、何と東方ルートが47%を占め、千島列島横断・宗谷海峡通過で178隻の輸送船が日本海軍によって拘留(中立国船籍か?)され、9隻(連合国籍だろう)が撃沈されたとある。

スターリンは日本の復讐を恐れ、北海道占領による米ソ分割統治、東京をベルリン同様共同管理、占領軍最高司令官は二人としマッカーサーと同格のポストを極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキーにも与えることを求めるが、トルーマンは一蹴する(これ以前米側(統合戦争計画委員会)にも米英中ソ4カ国による分割統治案があり、北海道・東北地方をソ連占領下に置く計画があったが、これもトルーマンがボツにしている)。原爆投下決断者として評判の悪いトルーマンだが、対ソ戦略視点において、ローズヴェルトより遥かにましな大統領だったのである。

総括として、自軍将兵の命すら尊重せず、軍紀が緩いことから発した避難民への蛮行・虐殺、不法(国際法・条約・憲章無視)な領土奪取やシベリア抑留、はロシア“戦争文化”の象徴と断じ、現代への教訓とすべしとする。これは2)ロシアから見た日露戦争の中で紹介したウィッテ回想録の「武力以外は何もないロシアの後進性」と重なる。旧ソ連復活を目論むプーチンの言動もまさにこの通り。時が経ち政治体制が変わっても脈々と続くロシアの本性なのだ。8月のトリに相応しい論旨、読めば私の“ロスフォビア”観が理解いただける気がする。

 

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