2009年1月16日金曜日

滞英記-15

Letter from Lancaster-15
2007年9月2日

 ついにレポートの発行月も9月になりました。結局短い夏も来ず晩春から、秋に入ってしまった感じです。異常な経験です。異常と言えば、今週一番の異常な出来ことは、29日(水)にイングランド・ウェールズの刑務官(Prisoner Officers Association;POA)が一日ストライキを打ったことです。全国ニュースばかりでなく、Northwest版には何と直ぐ近くにあるLancaster Farm(少年刑務所)までTVに登場です。争点は賃上げです。一番困ったのは中にいる囚人達だったようです。過去の労働党政権時代は労組に依存する傾向が強く、それによって経済ががたついてきた歴史もあるので、ブレアは支持基盤を組合依存から一般中産階級向けに切り替える戦略をとり、まずまずやってきましたが、好調な経済はインフレも伴い、現業公務員は厳しい生活環境にあるというのが、彼らの主張のようです。ブラウン首相も厳しい姿勢を示しています。それにしても刑務官が!と驚きました。
 今回はこの最新ニュースはひとまず置き、最近の世相について、あまり日本には伝わっていないと思われる幾つかの話題を集め、<世相点描>としてお送りします。

 研究の方は;
 Waddington「O.R. in World War 2 -Operational Research against the U-boat-」を調べ終わりました。
 この著書から得たものは;
1)OR活動の具体的な内容で、単に手法ばかりでなく適用推進の諸活動が、如何に科学者の評価を高め、次の展開に繋がるか。
2)組織の中で、専門家に如何に持てる力を存分に発揮させるか。と言うことを具体的に知ることが出来た点です。
 英軍においても、科学者と接触の少なかった軍人は、おおむね“be on Tap, but not be on Top(必要なところだけ上手く使い、決してとトップになどに登用してはいけない)”という姿勢が強かったようです。対Uボート作戦中核だった沿岸防衛軍団でも、軍団長・参謀長とその科学顧問の関係は、人によって微妙に違いっています。軍団が抱える個々の問題ばかりでなく、その背景や問題の深刻さを、率直に専門家に理解させたトップの場合の方が、いい結果が出ています。“専門家は必要な時だけ呼べ”では士気があがりません。供に考える場を与えることが大事です。ただ、専門家の方もそれなりの広い見識を持つことが参画の必要条件であることは言うまでもありません。職人、専門馬鹿ではその資格はありません。
 次のテーマに着手しました。カナダの歴史学者が著した「Britain’s SHIELD(英国の盾)」です。これはOR適用の嚆矢となった、“Battle of Britain(英国の戦い;英独航空戦)”における科学者の活動、特にレーダー開発、その防空システムとしての実現、そこでのORの役割、を技術的な見地ではなく、歴史、政治、国防政策、組織管理、人間関係などの面から論じたユニークな本です。まだ三分の一くらいしか読んでいませんが、いままで調べてきたものとは違う、新たな情報が多々得られています。例えば、“ORの父”と言われるブラケットが属していた、通称“ティザード委員会”を主宰していたティザード博士の姿が見えてきたことです。著者はこの人物を“二流の実験物理学者”と決め付ける一方で、「複雑化・細分化してきた科学を、上手く管理出来た、第二次世界大戦時最高の科学マネージャー、アドミニストレータ」と評価しています。OR普及の鍵はどうやらこの男にありそうです。
 さらに、新たな資料が提供されました。これはMauriceに対する私の質問に発するもので、今まで目を通してきた、著書・文献が主として科学者や政治家等に拠っているので、「軍人が書いたものが無いか?」と問うたことに対する回答です。英空軍の公刊史「The Origins and Development of Operational Research in Royal Air Force」で、彼が国防省でフォト・コピーしてきた貴重なものです。遥々出かけて来た甲斐がありました。残る最大の課題“英爆撃機軍団は、何故OR適用に消極的だったか?”もこれから探れそうです。これも楽しみです。

<世相点描>
1)少年犯罪 犯罪(特に殺人がらみ)は、どこの国でもニュースとして頻繁に取り上げられます。この国に来てTVニュースを観ていると、特に少年が関わる事件が極めて多いことに、気がつきました。英国得意の犯罪小説(本屋の“Crime(犯罪)”と言うコーナーのスペースは一番広く、次いで、歴史、伝記)の世界では大人が主役ですが、現状は少年なのです。これと関連して一月くらい前に、BBCが“少年の飲酒”問題を扱った番組を放映しました。それは日本でも観ることが出来たようで、これに関連したメールをいただきました。飲酒・ドラッグ・銃、少年が絡む犯罪の三大助演者です。ここでは最近起こった二つの事件(いずれもランカスターを含むNorth West地区)を、社会の反応を含めてご紹介し、私なりのコメントを加えてみます。
①11歳のフットボール少年射殺
 先週22日(水)夕方、リバプール郊外に住む11歳の少年が友達とフットボールの練習中何者かに射殺されました。目撃者情報では、犯人は13~15歳の少年と言われ、数日後15歳の被疑者が警察に拘束されましたが(2日現在では、他に4人が取調べをうけているようです)、詳しい情報が全く出てこないので、果たしてこれらの中に犯人がいるのかどうか分かりません。
 これに対する社会や警察の反応は、明らかに大人の殺人事件とは異なります。一週間は完全に全国ニュースのトップでしたし(North Westのローカールニュースでは、今でもトップ)、警察のトップがしばしば登場し、全力を尽くして犯人発見・逮捕に努力しているかを縷々説明すると伴に、情報提供を訴えています。一般市民は被害者宅に、お悔やみの言葉を書いたカード添えた花束を捧げに続々と訪れ、警官が整理に当るほどです。また、少年はプロフットボールチームの下部組織のメンバーだったこともあり、キャプテンがTVに出演し情報提供への協力を訴えました。さらに、週末のゲームには両親が招待されグランドに選手と伴に並び、オナーがこの試合を彼への追悼試合にすることを宣言するとともに、さらなる情報提供を呼びかけました。
 警察の捜査も細微を極め、練習していたフットボール場に、横一列に膝間づいて並んだ、作業服姿の警察官が、当に“芝の目を分けても”の姿勢で匍匐前進しています。近くの草むらでも別のグループが、池にはアクアラングを付けたフログマンが、物的証拠を発見すべくそれぞれの持ち場で頑張っています。これによって、直接犯罪とは関係なかったようですが、2丁の拳銃が発見されています。
 動機不明の、少年による銃器を使った年少者殺人。其処此処で起こる類似の事件の中でも、被害者の年齢、場所(他は、繁華街、逆に人通りの少ない場所、車中など)などからこの種の事件の中でも、何故彼が?健全なスポーツのグランドで?と、格別の社会問題として注目されています。
②中年パパの死
 これよりさらに一週間前になりますが、マンチェスター郊外住宅地で、中年の父親が、深夜自宅付近で騒いでいた少年たちを諌めたことから、事件が起こっています。やはり銃器による射殺です。優しそうなお父さんの写真が、毎日映し出され、犯行情報の提供を呼びかけています。監視カメラ社会の英国ですから、この種の行動は一部映像として捉えられているのですが、犯人特定に結びつくところまでは行っていません。少年たちが住宅に向かって物を投げつけ、窓などに当るシーンが映し出されています。自転車でやってきたり、車を近くに置いてこのような騒ぎを起すので、警察がやってきた時には既に何処かへ消えてしまっている。こんなことが全国で、頻々と起こっているのです。そしてこれには飲酒が深く関わっているのです。

 さて、以上はTVで報じられている事件の概要です。少年、飲酒、銃器、殺人。これらを結びつけて、飲酒が問題、銃器が問題と論じていますが、英国人もこれは表面に表れた結果であり、問題の本質はもっと深い所にあると思っているでしょう。統計によれば、11~15歳の飲酒癖は27%を超えています(別のデータで、Children;年齢帯不明の、一週間の飲酒量5パイント;大体大ジョッキで5杯と言うのもあります)。ドラッグも17%を超えています。何故こんなに荒んだ生活を少年達が送るようになったのでしょう?
 (Maurice)Kirby教授夫人、Barbaraは保護司をしています。最近は頻繁に警察からお呼びがかかるそうです。罪を犯した少年(少女)の親代わりをさせられることが多いそうです。「親はどうしているんだい?」「そこが問題なんだ!片親しかいない子が多くなってきているんだ。特に、シングル・マザーの子がね」「母親は働きに出ているため、警察に来られないんだ。それでBarbaraが代理をするんだよ」 英国経済史が専門のMauriceは、正確な年代を刻みながら、結婚年齢の変化(晩婚化)、正式婚姻関係でないカップルの割合(パートナーと称する)の増加、大学進学率の増加(彼の時代は同年齢層の6%、現在は40数%)、女性の自活割合、離婚率の飛びぬけた高さなど、これらと深く関係する家庭崩壊の歴史を語ってくれます。さらに、この背後にある、各政権の労働政策、教育政策、産業構造の変化に及んでいきます。「製造業の衰退は80年代に始まったというのが通説なんだが、実際は60年代から始まっていたんだ」「英国病イコール製造業の衰退なんだ」 彼の言わんとするところは、労働党と保守党のあまりにもかけ離れた産業政策に翻弄され、長期的視点を欠く企業経営・組合運営が個人の経済基盤を不安定なものにし、供稼ぎ・パートをせざるを得なくなり、家庭を確り維持できなくなって、子供たちが荒れてくる、と言う論理なのです。
 今度の刑務官ストについても、「現業公務員の生活は確実に厳しくなって来ている」「刑務官や警察官にはストは認められない代わり、経済情勢を勘案した一定の賃上げが約束されている。刑務官の場合、今年は2.5%なんだ。既に1.5%は引き上げられており、残り1%は10月に行われる」「しかし、最近の政府発表インフレ率は3.5%で、2.5%では実質賃下げなんだ。彼らはこれに抗議しているんだよ」「保守党時代を含めて、15年続く好況などといわれているが、実態は下にしわ寄せがきているんだ」「これに金利引き上げが加わり、彼らは家も持てなくなってきているんだ」(こんな親を見て育つ子供たち、特に片親の、がまともに育つには難しい時代なんだ!)彼に妙案があるわけではありませんが、ここまで掘り下げれば、飲酒や銃器取締りで事態が改善されるわけではないことが、少し具体的に分かってきました。

2)誤爆戦死者
 ブレアの引退、ブラウンの登場の背景には、イラク戦争およびアフガン紛争があります。経済政策は先ず先ずだし、社会改革(教育、医療など)もまだまだ途上です。しかし、確実に二つの戦争に対する厭戦気分が高まっています。特に、イラク戦争への参戦はブッシュ同様核兵器開発に関する誤情報を基にしており、訪英前から問題になっていました。その意味では、既に退陣のシナリオは出来上がっていたのです。
 イラク戦争について、アメリカは、英国の戦略が専ら守勢にあることに不満を表明していますし、英国は、アメリカの政策は破綻したとまで現役の司令官が英マスメディアに語るところまできています。しかし、日常の報道は、このような国家化戦略に絡むものより、派兵されている個々の兵士の動向、特に戦死者に焦点が当てられたものが圧倒的に多く、同情をもって丁寧に紹介されます。相手がゲリラでは、勇ましい決戦の勝利など全く無いわけですから、長く続けば“何のための戦争か?”と言うことになります。
 そんな中で、3週間前アフガニスタンで、アメリカ軍の攻撃ヘリコプターが英陣地をタリバンと間違え誤爆し、3人の若い英軍兵士が戦死しました。国防当局や軍事専門家は、アフガン戦場の難しさ(敵味方支配域のいりくみ、敵味方識別の難しさ)や攻撃ヘリの運用などの面から解説を試み、暗に“不可抗力”に近い状況であるかのような言い方をしていました。しかし、メディアや一般市民は当然それでは納得しません。連日戦場管理のトップの問題、アメリカとの共同作戦の是非、さらにはアフガン参戦への意義を問う方向に報道がエスカレートしていきました。そしてその先には、イラク戦争も含めた国際紛争に関する国策の見直しまで見えてきたのです。
 問題の重要性(深刻さ)を素早く察知したブラウンは、直ぐアフガニスタンに飛び、現地政府や派遣軍に、アフガン紛争解決の重要性とそれへの英軍の協力を表明、その行動が国内世論に微妙な変化を与え、感情論先行を抑える方向に向かってきています。
 ブラウンは就任後間もないので、性急な評価はできませんが、危機管理能力に優れ、姿を見せるべき時と場所を心得、課題対策について“自分の言葉で語っている(党内の意見集約や官僚に頼らず)”との印象を強くしています。

 参議院選挙での自民党敗北で、テロ対策特別法案の継続是非が大きな問題になっていることは、このレポートをお送りしている先輩から詳しく国内動向に関する情報をいただいています。ブレアからブラウンへの政権交代は、同じ労働党内の出来事ですから、政策は基本的に継続されることで、日本とは事情が異なることは承知しています。しかし、去っていったブレアに責任を全て負わせ、国内世論に迎合し、保守党の攻撃をかわすため別の選択肢を選ぶことも可能だったはずです。総選挙の洗礼を受けていない首相だけに、票を睨んだ言動があってもおかしくない状況下でのアフガン行きは、ブラウンが国際問題にきちんとした見識を持つ指導者と評価できる行動だったと思っています。
 テロ対策特別法案は、アフガン紛争対応で出来上がったものです。イラク戦争とは違い、ここではドイツ・フランスも共同戦線を張っています。“国連のお墨付き”だけを意思決定の判断基準にするような他力本願では、世界をリードする役割を担える国家として認めてもらえません。熾烈なグローバル・パワーゲームを、如何に勝ち抜くか?したたかな発想・行動が鍵です。国際問題を、国内の政争の具にするようなことのないよう願っています。

3)ダイアナ妃10周忌
 今年はダイアナ妃が亡くなって10年目になります。7月には彼女が支援していた、小児病に関する活動を記念するチャリティーショウが開かれ、大勢のエンターテイナーが参加していました。ダイアナ人気は今も衰えず、パリでの事故の日が近づいた昨今TVでも盛んに回顧場面が放映されています。住いの在ったケンジントンパレスや墓地は献花や写真などが溢れるほどです。そんな中で、公式の追悼式が8月31日(金)ロンドンのチャペルで、執り行われました。BBCはこれを11時から1時の2時間にわたって実況中継を行いました。そのあらまし、トピックスをお伝えしましょう。
 場所はロンドン市内の近代的なチャペル(小教会;名前は失念しました。後でわかったことですがこの教会は英陸軍のものだと言うことです)です。元々は歴史のあるもののようですが、第二次世界大戦時のロンドン空襲で爆撃に会い焼け落ち、戦後再興されましたが、昔の姿を留めるのは、正面奥祭壇・説教壇後部にある壁に削り込まれるように彫られた半円柱とドームの部分だけだそうです。全体に白の基調で、清楚で明るい感じが彼女を偲ぶ場所としてピッタリでした。チャペルですから収容人員も小規模で、200人程度が座れる大きさです。祭壇(と言っても別に写真などがあるわけではありません。通常の教会の祭壇です。周りには淡い色のばらが沢山飾られていました)の背後は前出の半円柱とそれに繋がる半球ドームで、その部分だけ金色の彩色が施されています。祭壇から出入り口に向かい、左右にベンチ上の椅子が2列に並んでいます。
 11時から始まった中継は45分頃まではチャペルの内部の紹介、付近の情景や、関係者の思い出話、室内楽団の演奏などに費やされましたが、45分頃にウィリアムズ王子、ヘンリー王子(通称;ハリー)が到着すると彼ら二人は入り口に立ち、到着する人々と挨拶をしたり、頬を寄せ合ったりしています。既にブラウン首相は先に到着しているところを見ると、二人より後から来る人達は、王室関係者、特に近親の人達でしょう。
 やがてチャールス皇太子(プリンスオブウェールズ)の到着です。彼は一人でやってきました。カミラ夫人は同行していません。BBCが行ったアンケート調査によれば、参加すべきでないが50%台、参加すべきは30%台でした(こんなに多いのに驚きましたが)。父子は入口で和やかに話し合っています。皇太子が、今日追悼のスピーチを行うハリーに何か言うと、ハリーはポケットのあちこちを探り、やがて何やら原稿らしきものを取り出し、三人で笑っています。
 55分頃いよいよ女王陛下のご到着です。沿道から拍手が沸きあがります。先ず、女官、ついでフィリップ殿下、最後に降り立ったエリザベス女王は明るい紫尽くめのいでたちです。何故かこの時“ロンドンデリー”の演奏が始まります。皇太子、二人の王子に迎えられ、やがて皇太子を真ん中に左右に二人の王子が先頭、二列目が女王陛下とフィリップ殿下、起立してお迎えする参加者の間を最前列まで進みます。席次は、祭壇から見て右側が女王家、左側はダイアナ妃の出身家、スペンサー伯爵一族です。二人の王子がそれぞれの通路側に着きます。ウィリアムが女王側、ハリーはスペンサー側です。ウィリアムズの隣は女王陛下、ついでフィリップ殿下、最後が皇太子です。
 左側は、ハリーの隣にダイアナ妃の姉、次いで兄が着きます。ブラウン首相は右側の3列目か4列目でした。
参加者の服装はまちまちで、男性はほとんど背広、必ずしも黒一色ではありません。ネクタイも黒タイは皆無です。シャツがカラーのひともいます。二人の王子も濃紺のダブル、ネクタイはエンジと黒のストライプのお揃いです。
女性は帽子が目立ちます。女王は服と同色のつばつき帽子です。若い女性の中にはベレーもいます。彩りは男性に比べはるかに華やかです。これが普通なのかどうかは分かりませんが、上品で華やかだったダイアナ妃に相応しい雰囲気が醸し出されています。
 牧師の開会宣言、合唱隊による賛美歌。声変わりする前の少年合唱隊の美しいボーイソプラノが際立ちます。
ウィリアム王子が演壇に立ち、一礼して聖書の一節を朗読します。再び賛美歌です。次に演壇に立ったのはダイアナ妃の姉です。やはり聖書の一節の朗読です(大変険しい表情でした)。終わると、また賛美歌です。
 ここで真打登場です。ハリーが演台に上がります。女王の方に一礼して、語り出します。母が如何に自分たち家族を愛していたか、人々から愛されたかを簡潔に、しかし心をこめて話していきます。ここで少し気になったのは、“父を愛し・・・”の表現に“Love”ではなく“Like”を使ったことです。離婚の原因が皇太子側にあることは衆知のことであるが故の言葉の選択かどうだったのか?特別な意味など無いことなのか?英語に堪能でもなく、この国の仕来たりも知らない私に真相は不明です。
 この後の僧正(ビショップ)の説教も彼女の徳を称えるものでしたが、極めて分かり易く、アメリカでの彼女の人気などを援用して、坊主の説教らしく無いのが印象的でした。
 皆で賛美歌を歌った後(沿道・公園に集まった人達も唱和)、彼女の好きだった歌(メロディーはよく知っているのですが、題目を知りません。SailingとCountryが入っているのですが)が演奏され、皆で唱和します。最後は国歌で終わりました。女王陛下のご退場です。丁度1時でした。

 ダイアナ妃の人気は、王室(除く女王陛下)の不人気と取れないこともありません。お歴々が到着する際の、群集の拍手がそれを確実に表しています。拍手があったのは、二人の王子と女王の到着時しか聞こえませんでした。愛されてはいるが尊敬はされていないのではないか?そんな疑問も浮かぶほどです。
 この国の王たちの歴史を辿ってみれば、女性関係のトラブルだらけです。英国国教会からして、カソリックの法王から再婚を認めらなかった(破門)ヘンリー8世が作り出したものなのです。近いところでは、離婚経験のあるアメリカ女性を妻にし、王位を放棄したウィンザー公の例もあります。人間的には正直な行動ですが、尊敬は無理ですね。
 もう一つ“王室の尊敬”に関わることで気になるのは、“今の王室はドイツ人だ”と言う見方があることです。ヴィクトリア女王の夫君、アルバート公はドイツ人でしたし、フリップ殿下はクーデターで倒れたギリシャ王室の出身ですが、ギリシャ王室そのものがギリシャ人ではなくドイツ系で出来ていたことです。この考え方は当地に来てから知ったことで(アルバート公がドイツ人であることは知っていいましたが)、充分消化できていないのですが、興味深い見方です。
 最後に、もともとこの国は4カ国なら成る連合王国です。本来別々の王家があったものを、現在の王家が代表することになったわけですから、気配りも4倍必要なわけです。自分の感情の趣くままに生きることが、許される環境ではないのです。

以上

2009年1月12日月曜日

篤きイタリア-4

5.ルネサンス発祥の地;フィレンツェ

(写真はダブルクリックすると拡大できます)

 ヴェネツィアのサンタルチア駅を発してフィレンツェに向かう列車は10時43分発のユーロスターにした。フィレンツェ、ローマを経てナポリまで行く、典型的な観光列車である。
 あの「旅情」では、確か電気機関車に引かれる列車からキャサリン・ヘップバーンが窓から身を乗り出しで、ロッサノ・ブラッツィに手を振るシーンがあった。ユーロスターでは窓は開かないし、別れを惜しむ人もいない。
 先にも書いたように、国内移動は全て鉄道としユーロスターかインターシティの一等を手配した。しかし、ヴィチェンツァからヴェネツィアでは、ホームの案内板に描かれた車番順序(最終車両が1号車)と完全に反対になった編成でやって来たため、1号車を待っていた我々の前に来たのは最終番号車(確か10号車)の普通車だった。幸いガラガラに空いていたのでそのままヴェネツィアまでこの車両で行った。
 そんな訳で、ここヴェネツィアから乗る列車がユーロスター初めての一等車である。ユーロスターの一等車は、コンパートメント形式ではなく、通路を挟んで片側が4人のボックスシート、反対側は二人向かいあわせシートになっている。率直に言って、シートやインテリアは新幹線のグリーン車の方が一等車らしい。我々の席は4人掛けボックスシートの通路側だった。
サンタルチア駅を発した時には、二人席は仲間らしい二人の中年男性観光客が占めたが、4人席の窓側は空席だった。やがて内陸側の最初の駅、メストレへ着くと我々と似たような年恰好の白人カップルがやってきた。どうやら夫婦らしい。口数は少なく、それも静かな語り口。今度の乗車時間は3時間弱ある。長時間の同席者として好ましい。
 メストレそしてミラノ方面への分岐点、パドヴァで比較的長い時間停まったので、パドヴァを出た時には既に11時をまわっていた。検札の車掌が行き過ぎると直ぐに、昼食の注文取りがやってきた。食堂車でのきちんとした昼食のようだ。二人組み男性客はそれを注文したが、相席のカップルは何やら話してやめにする。どうやら食事持参のようだ。我々もフィレンツェ到着が1時半なので、予めサンタルチア駅のビュッフェで、ホットサンドウィッチと飲みものを用意しておいたのでパスする。隣が食べ始めたらこちらも始めようと思っていたが、なかなか始まらない。到着時間が気になるので一言「食事をしてもいいですか?」とことわってお先に始める。
 ヴェネツィアからフィレンツェへの路線はイタリアの背骨、アペニン山脈を横切る。ここではさすがのユーロスターもスピードが落ちる。その分周りの景色を堪能できる時間が増えることになる。食事を始める時の挨拶でこちらが英語を話せると分かったこともあり、「紅葉がきれいね」と言うようなことから隣の夫婦と会話が始まった。聞けばアイルランドのダブリンから来た引退者とのこと。「アイルランドには行ったことはありませんが、昨年は半年英国に滞在し大学で勉強していました」 これで先方はもう一歩踏み込んできた。「どんなお仕事だったんですか」「石油会社のエンジニアでした」「あら、主人は鉄道関係のエンジニアだったのよ」「そうでしたか。子供の頃は鉄道技師が夢で大学では機械工学を専攻しました」「私の専攻は電気工学です」 しばし似た者同志の穏やかな会話が続く。
 分水嶺のトンネルを抜けると列車は一気にスピードを増し、トスカーナ平原をフィレンツェへと快走する。ローマ観光のあとフィレンツェに戻ると言う彼らを残しサンタ・マリア・ノヴェッラ駅で別れる。

<ルネサンス遺産> 到着時間は午後1時半。秋の陽光だが眩しいくらい明るい。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェッリ、彼等を支えたメジチ家。闇を光に変えた200年(14世紀~16世紀)がここに詰まっている。
 ホテルはアルノ川に架かる有名なヴェッキオ橋の袂に在るエルミタージュホテル。手ぶらなら歩けるくらいの距離だが荷物があるのでタクシーにした。イタリアに来てはじめて乗るタクシーである。車は荷物の積みやすいフィアットのバンであった。少し回り道をしたようだが、これは旧い町の通りがほとんど一方通行であるため止むを得ない。車を橋の袂のカフェテラスの前で停め、運転手が荷物を降ろしながら「そこの角を曲がった所です。看板があります」とカタコト英語と手ぶりで教えてくれる。車が入れない通りなので、言われたとおりスーツケースを引きずってそれと思しき所まで行くが見つからない。直ぐ先にまた曲がり角があるのでそこまで行ってみるが、ホテルの入口などない。もう一度始めの曲がり角へ戻り建物の銘版をチェックする。直ぐ傍の入口が開いており階段が上に続いている。入口の年代物の灰色の石版の銘版をよく見ると“Hermitage”と読める。入口には何も無くただ階段だけ。重いスーツケースをもって階段を上がると、そこにエレベーター・ホールがあった。1台きりの呼び出しボタンを押すがエレベーターは来ない。押しボタンの横に何故かテン・キーのボタンがある。階段を上った踊り場に“フロント;5F”とあったので“5”を押してみる。何も変わらない。モタモタしていると、やがて上からエレベーターが下りてきてドアマンのような男が降りてきたので「これはホテルのフロントへ行くのか?」と聞くと「そうです。5階です」と言って階段を下りていった。5階にはガラス戸(このガラス戸は受付の居る時間だけ開けられている)で隔てた部屋があり、机に置かれた電話で話をしているおばさんが一人居るだけ。電話が終わるのを待って来意を告げると、部屋と階段下玄関(玄関は10時に閉まるので)のキーをくれ、その際エレベーターの暗証番号を教えてくれた。あのエレベーター・ホールにあったテン・キーは、宿泊客がエレベーターを呼び出すためのものだったのだ。部屋は旧いヨーロッパスタイルで天井が高く家具等も質素だが、明るく清潔で、アルノ川とヴェッキオ橋もチョッと見えるところが良い。
 その日の観光は2時半頃から始めることになった。翌日の半日観光で予定されていない、ホテルから近いウッフィツィ美術館を重点的に見ることにした。美術館の外回廊は長蛇の行列。待ち時間は“1時間”とある。別にやることも無いので行列に並んでいると30分位で入ることが出来た。時間が少し遅いのが幸いしたようだ。展示物については専門の案内書に譲るが、書籍の写真などで目にした作品が多々あり、それらを見ると感動よりもついホッとしてしまう。知識だけの教養(?)を脱しきれないわが身が情けない。それでもボッティチェッリの「春」や「ヴィーナス誕生」などはそれまでの宗教色の強い絵画に比べ明るく自然で、新しい時代の到来を感じさせてくれる。言葉でそして知識として知っていたルネサンスがここでは現実のものとして理解できる。
 さて美術鑑賞はこれで終わり、ウッフィツィ美術館そのものを少し紹介したい。この美術館の名前“ウッフィッツ”はラテン語のオフィスと言うことで、この建物は16世紀半ばに建てられた、当時の行政府用オフィスである。形は長いコの字型で3階建てだが天井の高さが極めて高い。絵画の展示は3階が主体である(2階にもあるがここは最近ギャラリーになった所)。当然エレベーターはないのでこの3階まで石の階段を上るのだが、これが何ともきつい。そのため現在外付けのエレベーターを取り付けるための大掛かりな工事が行われている。コの字型の外側が区切られた展示室(昔はオフィス)内側は広くて長い廊下である。この廊下はヴェッキオ宮(旧宮殿)とアルノ川を隔てたピッティ宮(新宮殿)に至る長い回廊の一部を成しており、ヴェッキオ橋上屋を経て新宮殿に至る。この回廊をあのヒトラーも歩いている。
 この日(10日)はこのあとウッフィッツ美術館やヴェッキオ宮のあるシニョリーア広場のカフェテラスで一休みして、さらにドオーモ、メジチ家が寄進した教会;サン・ロレンツォ教会の周辺を散策、さらにヴェッキオ橋を渡って川向こうへも出かけ、再びシニョリーア広場に戻って、オープンレストランで夕食とした。とにかく何処も大変な人数の内外観光客で、レストランには日本語のメニューがあった。

<老体鞭打つ徒歩ツアー> 翌11日の午前は市内の徒歩ツアーである。鉄道駅に隣接したバスセンターの待合室に集まった日本人は10人足らず、若いカップルがここでも多い。案内してくれるのはUさんという大柄な日本人女性ガイド。コースはメジチ家のライバル、ストロッツィ家の教会;サンタ・マリア・ノヴェッラ教会→ブランドショップが並ぶトルナプオーリ通り→共和国広場→シニョリーア広場に至りウッフィッツィ美術館、ここまでの建物は中に入らず外側から眺め、説明を聞くだけだ。この後嘗てフィレンツェ共和国の政庁であったヴェッキオ宮の中を見学する。市民会議が開かれた大広間にはミケランジェロの彫刻もある。ここは現在も市役所として使われている。13世紀の建物に国宝級の美術品が置かれているような場所が、現役として利用されるなどイタリアならではの感があった。ここを見た後はヴェッキオ橋を見学、そこから中心部に戻ってドオーモの内外を見学した。ドオーモはミラノでも内部を見学しているが、ミラノに比べるとここは装飾的でなく質素な感じがする。ドオーモの前にはフィレンツェ最古の聖堂建造物と言われる洗礼堂がある。
 ここでグループ徒歩ツアーは終わるのだが、ガイドのUさんは昼食の場所やボッタクリ注意のジェラード(アイスクリーム)屋など、それ以降の行動に役立つ情報を与えてくれた。私もお土産に関して有効な情報をもらうことが出来た(後述)。
 昼食までには少し時間があったので、ドオーモの中心クーポラ(ドーム部分)の外側にある回廊に上ることにした。なんせ15世紀の建物である。上るには階段しかない。それも500段近くある。北側の入口から長い行列が延々と続いている。行列に並ぶ時、前の黒人男性に英語で「これが行列の最後か?」と確認した。それがきっかけで彼と会話を始める。彼はカナダ人で、仕事でこの方面に来たついでに休みを利用してここに来たという。彼もイタリア語はダメらしい。そうこうしていると後ろの集まってきた若いアメリカ人と思しきグループの一人が「英語は話せますか?」「ええ少し」「ここは行列の最後ですか?どのくらいかかりますかね?」 あとはカナダ人が引き取ってくれた。やっと中に入ると今度は階段登りが堪える。途中で若い人に先を譲りたいが、なかなか十分なスペースのあるところへ出ない。難行苦行である。最後に表へ出るところは階段ではなくはしご。一方通行である。それでも苦労して上った甲斐はあった。好天の空の下、フィレンツェの町が360度見渡せる。オレンジ色一色の花畑である。
 昼食はUさんが別れ際にいくつか教えてくれた中の、ドオーモ近くのパスタ屋に出かけてみた。何と入口近くの席に、Uさん他何人かの日本人女性ガイドが食事中だった。ここで生活している人が利用する店に不味くて高い料理などあるはずが無い。ビールとピッツァで午後への鋭気を補給した。
 午後先ず出かけたのは、トスカーナに君臨し、法王まで出したメジチ家の礼拝堂とそれに接続するサン・ロレンツォ教会。色の違う各種の大理石で装飾された“君主の礼拝堂”。広々した空間に石造りの棺がいくつも置かれて、往時の権勢が偲ばれる。これに続く“新聖具室”と呼ばれる正方形の霊廟はミケランジェロの作で、部屋ばかりでなく墓碑の彫刻も彼の作品である。王家の廟所は英国のウェストミンスター寺院、クレムリンにあるロシア・ロマノフ家のものを見ているが、棺の大きさ・配置・空間のバランス・内部装飾どれをとってもここには敵わない。ルネサンス発祥の地と周辺国の文化度の違いなのであろうか?
 この後並ぶのを覚悟で、ミケランジェロのダビテ像で有名なアカデミア美術館へ出掛けたが、午後も遅かったせいか15分くらいの待ち時間で中へ入れた。見ものは唯一つ、ダビテ像である。他の見物客も概ね同じで、小さな美術館はここの周りだけ込み合っている。まるでギリシャ彫刻のようなあの若々しく清潔な力強さは、美術に特別な関心がない者にも、自然に「美しい」と感じさせるものがある。これは木彫や金属の彫像に比べ、大理石の明るさ・経年変化の少なさによるのかもしれないが、それ以上に作者の若さ(ミケランジェロ26歳の作品)がもたらしたものと見たい。伝説上のダビテは巨人ゴリアテを倒して王になるのだが、この像は当時共和制だったこの地方を王家の支配に置こうとする動き(メジチ家)に立ち向かう象徴として、共和制支持者だったミケランジェロが作りあげたものであるという。後年メジチ家の霊廟を作ることになったとき彼はどんな思いで仕事をしていたのであろうか?
 これで名所巡りはアルノ川対岸のピッティ宮を除いて終わった。まだまだ見所は多々あるのだが、お土産を求めたり残りのピッティ宮見学の時間を考えるとこれが精一杯だった。
 午前中のツアーの別れ際に、ガイドのUさんにお土産について質問をした。一つは孫のためにピノキオの操り人形を求めるのは何処がいいか?これは前日の夕方ピッティ宮広場まで行った帰りに、沢山ピノキオを揃えた店があったのだが、気に入った一品は糸が切れて結んであり、それ以外に手持ちがないと言うことであきらめた経緯があった。Uさんにそのことを話すと「ピノキオだったら私もあの店が一番と思っていましたが…」との答え。何処でも見かけるお土産なので「無ければローマでも」と思っていたところ、幸いダビテ像を見たあと、ドオーモを経てピッティ宮へ向かう途上、何の変哲も無い雑貨屋の店先に求めたいと思っていたピノキオがぶら下がっており、手に入れることが出来た。

 もう一つは自分のもので、ドライブ用の皮手袋である。イタリアへ来る前はファッションの都、ミラノで求める算段にしていたが、マネルビオ行きが入り買い物の時間が全く無かった。前日街を歩いていると、ある洋品店でそれらしきものを見かけたが、専門店があるのではないかと思い求めずにいた。Uさんに「皮手袋の専門店はないか?」と問うと、「それならいい店があります。ヴェッキオ橋を渡って少し行った左側に“マドバ”と言う製造会社の販売所があります。種類も豊富で、サイズなど丁寧にチェックしてピッタリのものを探しくれます」とのこと。早速出かけてみると、“MADOVA”と言う小さな店だが当に専門店、壁一面の棚はサイズやデザイン別に小分けされ、そこにビッシリ手袋が並べてある。カウンターの上には二本の棒が交差して角度が変えられる、何やら手のサイズを測る物差しのようなものがある。「ドライビング・グラブはありますか?」「ありますよ」指先まであるのが3種類、手先をカットしたものが2種類カウンターに並べられた。「ドライビング・グラブは大・中・小のサイズしかありません」 他のグラブはサイズがもっと小刻みになっているようだ。試着をしてみて、柔らかい子牛の皮で出来た、手の甲の側が明るい茶色・手のひら側がこげ茶の、指先をカットしたものを求めた。
 店にはもう一人英語を話すおばさんが買い物をしていた。私が試着しているのを見て「あの手袋は何なの?」「ドライブする時にはめる手袋です」と他の店員とやり取りしていた。私が自分用のものを決めて、支払いをしていると「あなたのおかげで息子に良いお土産を見つけられたわ」とお礼を言われた。
 このあと最後の観光スポット、ピッティ宮へ出かけた。もう時間は4時過ぎ。見学終了時間は5時までなので、切符売り場で「1時間しかないけれど、いいですか?」と念を押される。ヴェッキオ宮が建物だけで中庭以外庭園が無いのに対して、ここは庭園が売り物。とても全部は廻り切れないのは承知で入園する。入口のおじさんに「駆け足で廻っておいで」と送り出される。庭園の頂上部から西日に照らされた美しいオレンジ色のフィレンツェが一望できた。これだけで入園料を十分取り戻した。
 長い徒歩観光の一日はこうして終わった。老体にはキツイ一日だった。

<恨みのTボーンステーキ> 旅行の楽しみの重要な因子に食がある。決してグルメ志向ではないがその土地の名物を味わいたい。イタリアでは各種パスタは当然として、それ以外にミラノにはカツレツ、ヴェネツィアはシーフード、そしてフィレンツェには牛の胃袋の煮込みとフィレンツェ風ステーキ(Tボーンステーキ)があることを事前調査で知った。ミラノ風カツレツはミラノでゆっくりディナーを取るチャンスが無かったものの、マネルビオのディナーで味わうことが出来た。ヴェネツィアのシーフードは例の“めざし”でがっかりさせられた。
 フィレンツェには胃袋、ステーキ以外にも秋はジビエ(野鳥・野獣)料理も名物らしい。そこで離日前先ずジビエの可能性をMHI社に聞いてみたところ、確かに山が近いフィレンツェではジビエを食する所があるが、それは街中ではなく、行き帰り車をチャーターして郊外まで出かけねばならないと言う。これはチョッとそれまでの旅の様子が分からないので止めることにした。胃袋かステーキか?胃袋ではないが牛の煮込み料理はサンドリーゴの昼食で一度体験している。今夜はステーキにしよう。長い一日の市内徒歩観光のあと、一休みし夜の帳が降りる頃そう決めてホテルを出た。こんな時いつもならコンシュルジかフロントに適当な店を教えてもらうのだが、このホテルのフロントは宿泊階の上にあり、しかもガラス戸の向こうにおばちゃんが一人と言うような所なので、行き当たりばったりで探すことにした。昨晩もこの調子でまずまずの夕食を楽しめたから今夜も何とかなるだろう。これがケチの付はじめである。
 昨晩と同じシニョリーア広場は避け、今朝のツアーで出かけた共和国広場に何件か屋外にも席があるレストランが在ったので、そこへ出かけてみることにした。店の前に置かれたメニューや客の入り具合をチェックしながら適当な店を探し、ダークスーツを着たウェーターに案内を求め席に着いた。ここまでは特に問題は無かった。しかしなかなかメニューを持ってこない。案内役と注文取りは別の担当になることが多いのだが、案内してくれたウェーターが一人で動き回っている。こちらが待っているのを横目で見て「チョッと待ってください」と言うような動作をするのだがこちらの席まで来ない。それでも大分待ってやっと英語のニューを持ってきてくれる。メニューは入口で確認してはあるが、眺めるのも楽しみだ。前菜、パスタ、ステーキ、ハーフボトルの赤と決めてオーダー準備完了で待つのだが、一人増えたウェーターも席には来てくれない。客は次々入ってくるがこの対応も間に合わず、入口で帰ってしまう客もいる。
 最初に案内したウェーターはこちらがイライラしているのに気がついている。やがてさらに一人、赤い上着にエプロンをしたウェーターが加わり、彼が笑顔を浮かべながら注文をとりにやってきた。「これでやっとありつける!」 ワインは直ぐに供された。悪くない!しかし、前菜は現れない。どうもピッツァのような定番料理と飲み物は比較的早く持ってこられるが本格料理は遅いようだ。イライラしているのは我々だけではない。隣の席に着いた英語を話す中年女性の二人連れが「これ以上待てない」と言うように口をへの字に曲げて両手を広げて席を立つ。しかし、別の席に着いた、これも観光客らしい老夫婦のところへ例のステーキが運ばれてくるのを見ると如何にも美味しそうだ。「もう少し待てばあれにありつけるんだ!しばしの我慢だ!」 しかし期待は外れ相変わらず何も来ない。とっぷり日の暮れた中でイライラは我慢の限界を超す。赤い上着のウェーターは甲斐甲斐しく動き回っているが、何とか彼の目を捉えて席に呼び「ワインがきてから30分を越すのにあとは何も来ない!もう待てない!ワイン代だけ払うから精算してくれ!」「もう直来ます。待ってください」と言うような態度だが「とにかく伝票もってこい!」 渋々レジに行き伝票を持ってきたウェーターに勘定きっかりの金を渡し席を立った。恨み骨髄のフィレンツェ風ステーキ始末記である。
 この後別のレストランに入ったがここでは魚料理を薦められた。しかしヴェネツィアの魚料理に懲りて、ビールと前菜、パスタだけにした。隣席のご婦人の美味しそうな魚のムニエルを見てヴェネツィアの“めざし”の恨みが重なった。

2009年1月3日土曜日

滞英記-14


Letter from Lancaster-14
2007年8月26日

 今週(20日の週)の当地のトピックスは、大きなものはあありません。ただ、気になるのは、このところ少年犯罪(アルコール絡みの殺人;加害者・被害者)の報道が多いことです。景気は良いし、失業率もヨーロッパでは極めて低いところ(5%台)にあります。しかし、既得権の少ない若い人には住み難い社会なのかもしれません。学部卒だけでは中々希望の職業に就けないのが現実です。このような環境が更に下の年齢層に閉塞感を与えている可能性大です。経済効率優先で、ニート、パートタイマー、派遣社員が急増しているわが国も、他人事では無いと、この地に居て感じています。
 泣き言を連ねてきた天気は、ここのところ良くなって来ました。それでも気温は20度前後です。大学の帰り、自宅に辿りついたら、フラットの前で女性が側に犬を侍らせ、マットに仰向けに横たわり、日光浴をしていました。しかし、天気予報には“Shades of Autumn(秋の兆し)”などと言う表現も使われ出し、短い夏も終わりのようです。夕暮れが早くなったことにそれを強く感じます。7月下旬、「そちらでは蝉は鳴いていますか?」とのご質問がありました。全くいません。蝉だけでなく秋の虫の気配すら感じません。ロンドンで日本人ガイドが言っていた「有るか無きかの春と秋、短い夏、あとは暗い冬。これが英国の四季です」をぼつぼつ実感することになりそうです。
 今回のレポートは、皆さんの質問やアドバイスに沢山あった、英国の食に関することを、外食を中心にまとめた<英食つまみ食い>をお届けします。

 研究の方は、引き続きWaddingtonの沿岸防衛軍団における、対Uボート作戦におけるOR適用の本を深耕しています。前回はメインテナンスまででしたが、その後Navigation(航法、特に洋上)、Weather and Operations(天候と作戦の関係;Uボートの最大の敵は飛行機、しかし悪天候で飛べないと、ここをチャンスと船団を襲ってくる。切れ目なく哨戒するにはどうすればいいか?)、Radar(レーダー;初期のレーダーの信頼性向上など)、Visual Problem(Uボート発見のさまざまな効率改善策;双眼鏡の使い方まで!)、そしてAttack(攻撃方法;爆撃進路や高度のとり方、爆雷の種類、投下間隔や深度設定)まで来ました。残るは最終章の、総合的なAnti-U-boat Operationsだけです。とにかく極めて小さい・現場的な戦術・戦闘段階までOR適用が浸透していたことに感心すると伴に、その執念深さに“英国と戦争することの恐ろしさ”を知らされました(尤も、アメリカのお付き合いで始めた、アフガン、イラクの戦いにはこの英国魂は全く感じませんが)。
 8月22日(水)イングランドとドイツのフットボール試合がありました。こう言う国際試合だけはBBCで確り放映してくれます。ドイツのメルケル首相、英国のブラウン首相も観戦に来ました。ベッカムもロスから帰り参加しました。英国中が盛り上がりました。試合は2-1で残念ながら負けました。素人目に感じたことは“組織力”においてドイツが遥かに勝っていると言うことです。あの第二次世界大戦時(否、フォークランド戦争ですら)の執念と組織力はいずこに?!の感です。
 この試合をMauriceと話題にした時、直接試合とは関係ない場面で、「アメリカのスポーツは引き分けが無いんだ。彼らはどうしても勝負をつけたがる国民性なんだろうな。英国のスポーツは本来引き分けありなんだ。クリケットの試合など、5日間戦って引き分けなんて言うのもあった」と語っていました。“戦い”に関する、別の英国人気質を垣間見ました。
 ここへ来て既に3ヶ月を過ぎ、大分資料・著作にも目を通したので“研究成果のドラフト(何故英国で発したORが、各レベルの意思決定者に受け入れられ、実戦で効果を挙げたか)”をまとめ、Mauriceに説明しました。全体としてOKをくれた上で、一つ付け加えてくれたのは、「科学者が、“効果が実証出来るまで”実戦部隊と一緒になって任務をやり抜いたことに注視するように」と言うことでした。先端科学・技術の開拓者には移り気なところがあります(IT関連は、技術進歩が急でこうなり勝ち)。銘すべき助言です。
 次のリーディング・アサイメントは「Britain’s SHIELD(英国の盾)」;レーダー開発と防空システム構築・運用、その中でのORの貢献に関するものです。ハードカバーで200ページを超えるもので、結構タフでしょうが、拾い読みしたところ、戦闘機軍団長;ダウディングの新技術への関わりが詳しく書かれており、“意思決定者と新規技術適用”と言う研究テーマにピッタリの内容で楽しみです。

<英食つまみ食い>
 「食事はどうしているんですか?料理出来るんですか?」「野菜を沢山摂るよう心がけてください」「英国で一番美味しかったものはなんですか?」「生魚を食べる機会はありますか?」「フィッシュ・アンド・チップスはどんな食べ物なんですか?」「当然毎晩スコッチを楽しんでいるのでしょう?」などなど、海外滞在経験の長い方、単身赴任経験者、主婦、身近な友人・家族まで“食”に関するメールを沢山いただいています。“食”は衣・住に比べて、はるかに個々人レベルで身近に感ずる話題なんですね。
 これらのご質問の中で、“自炊”に関するものは、私の日常をよくご存知(推察を含め)の方から発せられるものです。専ら“私、食べる人”に徹してきたのでご心配はもっともです。そして答えは「何とかやっていいます」でご了解いただきたいと思います。と言うのも、レポートは“滞英記”として残そうとまとめているので、自炊の苦労・失敗話では“英国以前”があまりにも多く、日本でやっても同じことをお伝えする結果になるからです。そこで今回は“外での飲み食いとアルコール”に関する話題を中心に、ご質問に対する回答を含めご報告します。
 英国へ出かけると宣言してから、訪英経験のある先輩・友人諸氏から、「楽しい国だが食い物だけはダメだ!酷い!覚悟して行けよ」とコメントいただくことがしばしばありました。ちょっと英国人には酷な表現ですが、「英国人は一般に、味覚の鈍い国民として通っている。そうでないと言う人もいるだろうが、おおむね世界人類の共通認識だから、やむをえない」ということを書いてある本を目にしたことがあります。一方で、先のブリストル行きのレポートでご紹介したように「英国料理がまずいのは、ホテルや高級レストランのもので、家庭料理は決してそんなことはない!」という英国人の反論もあります。私はどちらかと言うと、短い滞在の中のつまみ食い体験にすぎませんが、後者の意見に近い評価をしています。実は田舎で家を借りて生活していると、ほとんど外食をしません。そんな訳で、今でも大体何をどこで食べたのか記憶しています。それでは朝から晩までの時間の流れに従って、味見をしてみましょう。

1)English Breakfast
 朝食を外で摂るのは、ホテルに泊まった時に限られます。英国では基本的にホテル料金はB&B(Bed & Breakfast;朝食混み)で標準的な朝食が供されます。いずれのホテルでも基本はビュッフェで、格別よその国と変わりありません。安いホテルはいわゆるコンチネンタルで温かい物(トーストとコーヒー、紅茶を除く)や肉類がありません。しかし、これはかなり例外的な気がします。経験したのはロンドンに泊まった時で、ここは昼・夜は食事を提供しないほど簡素化されていました。通常は、ベーコン、ソーセージ、たまご料理もビュッフェに用意されているので、非コンチネンタルと言えます。
 English Breakfastと言うのは、ビュッフェにはコンチネンタル(パン、シリアル、飲み物、乳製品、果物程度)しかありませんが、温かいたまごや肉類を別にオーダーをとって(料金は含まれている)好きなものが選択できる仕組みになっています。代表的なのは、ベーコン・たまご・ポテトでしょうか。英国人は(多分コンチネンタル;大陸と比べて)、朝食だけは豪華なものを食していると考えているようで、「朝食は食べたか?English Breakfastだったか?」と念を押したりします。ここで「いや、今朝はコンチネンタルにした」などと正直に答えると、「何故だ?(調子でも悪いのか?)」と聞き返してきたりします。
 朝食にはこの他に、チーズ、ソーセージ、ハム、ヨーグルト、ミルクなどもあり食肉加工品や乳製品は種類も多く、味も大変美味しく、彼らもここはかなり誇りを持っています。EUの統合が進むと、Maid in UKでなくEUになることに反対する人が「EU産のソーセージなんか信じられるか!」と言っていました。
 果物は、いちご、ブルーベリー、リンゴの一部は国産のようですが、大部分南欧、アフリカなどからの輸入品です。
 最後にパンですが、トーストは温かいのを一人4枚くらい焼いてきてくれます。ブラウンとホワイトを問われることがありますが、黙っていると2枚ずつ持ってきます。朝確り食べて、昼は比較的軽めが習慣なのかな?と思ったりしています。
 と言うようなわけで、朝食に関する限りなかなか質・量ともに高い水準にあると評価できます。ただ、メニューを見ていただいてわかるように、“英国”独特の味が出てはいないので、これだけで結論には至りません。

2)Lunch ここは多種多様です。また、確り摂るか摂らないかも思案どころです。さらに、何処で摂るかです。
 先ずサンドウィッチ伯爵が、トランプを中断したくないために発明したと言われる、サンドウィッチ。いろいろなものが挟まれますが、一番よく食べてきたのは、ランカスターハウスホテルのローストビーフとホースラディッシュです。これはゼミの際殆ど毎回食べてきましたが、何故か今週メニューから消えてしましました。仕方なくスモークサーモンにしました。多分来週からは毎回スモークサーモンになるでしょう。これにサラダと独特の、キャベツのみじん切りを少しドロドロした酸味の強いマヨネーズ状のもので和えたもの(何かきちんとした名前があります)、それにカリカリのポテトチップ。あとはビターのジョン・スミス。両者は良く合います。パンの種類、挟む具もいろいろです。チキン、ハム、チーズ、たまご、サーモンなどなど。
 Gregg’sと言う、全国チェーンのサンドイッチフランチャイズ店(ランカスターの中心にも2件ある)から、街の肉類総菜屋がその場で作ってくれるようなものまで(この方が断然美味しい)、どこでも手に入る気安さ、値段の手ごろさもあり、オフィスの自席や公園のベンチで、ビジネスマン・OLが頬張っています。定番ランチと言っていいでしょう。温かいのが食べたいなと言う時は、ホットサンドウィッチが良いでしょう。丸いパンに、チキンとブルーチーズを挟んだホットサンドウィッチにフライド・ポテト(この量が多い!)なども人気があります。
 次いでジャケット・ポテト。ベークド・ポテトです。違いは種々のトッピングがあることです。私の好みはチーズ・アンド・ビーンズ。他にベーコンやオニオンなどそれぞれの店で独特のトッピングを考案しています。バターだけのもの、素のものももちろんあります。これにサラダ、例のキャベツとポテトチップスが組み合わされます。ソーセージなどが添えてあるのもあります。
ジャガイモは当地では準主食、スーパーに行くと多種多様のジャガイモがあります。ジャケット用はその大きさが桁違い、あれを外から中まで均一に仕上げるにはそれなりのノウハウが要るんでしょうね?
 田舎道をドライブしていて、昼飯時なかなかサービスエリアが見つからないとき、小さなInnなどが見つかると飛び込みます。メニューにジャケット・ポテトが載っているとホッとします。本当はビターを一緒にやりたいところですが、我慢のスパークリングウォーターです。
 次は各種ミートパイ。形・大きさ、中身の肉、これも多種多様。寒い日が続いたのでどうしても温かい食べ物が欲しくなります。特にドライブと外歩きが組み合わされた時、ミートパイとスープの組み合わせは最高です。
 これはランチではありませんが、ロンドン観光中、ジャパンセンターで寿司を買い、これをホテルで食べることにしましたが、ビールの当てがないので帰路途上、ヴィクトリア駅でミートパイを買い増し、寿司とミートパイと言う日英同盟記念料理を摂ったこともあります。考えられない組み合わせですが、美味しくいただきました。珍体験ご紹介まで。
 スープだけと言うこともあります。最近娘とその友人が遥々ランカスターまで訪ねてくれました。翌日湖水地帯案内のドライブに出かけました。観光の中心地、例の国際免許が見つかった、ウィンダミアを案内し昼食時間になりました。さて、どこで昼にしようか?取り敢えず土産物屋や飲食店の集中する方へ向かいましたが、その途上湖水を一望する広々とした庭を持つホテルが見えてきました。湖水に並行する道路に沿ってそのホテルの石積みの塀が続いていいます。塀が一部切れてホテルへの入口になっています。そこに“Light Lunch”と書いた紙が張ってあります。観光客が入っていく気配がありませんでしたが意を決して、芝生の中の遊歩道をホテルへ向かい上っていくと、風格のあるホテルの全容が見えてきました。建物中央の前庭部分に丸テーブルが幾組みか置かれ、一組の家族が昼食を摂っているところでした。小さな入口から中に入ると、そこもカフェテラスのように設えてあります。バーのカウンターがありますが人は居ません。呼びかけると厨房の方から人が出てきて、対応してくれました。「Light Lunchとあるが、どんなものがありますか?」と問うとメニューを出して説明してくれました。そこに“スープ、ロールパンつき”と言うのがありました。彼女たちは“ブルーチーズのホットサンドウィッチ”を注文しましたが、私はこの“パン付きスープ”にしてみました。この後のアフタヌーンティーを考えればこれで充分と考えたからです。昼食時のパン付きスープはここだけでなく他でもありました。
 さて、お待ちかね、“フィッシュ・アンド・チップス”です。
 私がフィッシュ・アンド・チップスと言う食べ物を知ったのは、1982年シドニーで開催された、Esso Eastern(エクソンのアジア地区統括会社)のORワークショップに参加した時です。一日前にシドニー入りしたので、市内の渡し場、サーキュラー・キーから対岸に渡り、タロンガ動物園に出かけた時です。昼食時、園内の立ち食いスタンドで皆が求めているものを見ると、魚を揚げたものとポテトフライでした。何というものか聞くと、“フィッシュ・アンド・チップス”という答えが返ってきました。早速買い求め、食べてみると大変美味しいものでした。その後、これが英国生まれで代表的な軽食であることを知りました。そしてあれ以来四半世紀振りの“フィッシュ・アンド・チップス(F&C)”は、またまたORとセットでした。
 実は、こちらへ来てから2度しかF&Cを食べていません。最初はマンチェスターからランカスターへの移動中、高速道路のサービスエリアで摂った昼食です。二度目はカーライルへ観光に出かけ、そこのレストランで昼食を摂ったときです。他の昼食と比べ著しく少ないのは、それほどこれを提供する店に出会わないからです。来る前の印象では、街のそこここにF&Cの店があると思っていましたが、意外と少ないのです。パブのような所へ入ればあるのかも知れませんが、昼食を摂るためにパブに入ったことがありません。ランカスターにもパブは街中に沢山在りますが、どうも昼間から入る雰囲気ではないのです。
 さて、F&Cはどんなものか?基本的に魚は白身の魚;Cod(たら)、Haddock(少し小振りのたら)が大半と言っていいでしょう。他のものもあるのかも知れませんが、味わう機会がありません。これを衣に包んで揚げるわけですが、揚がった状態は春巻きの皮のような硬くカリカリしています。魚は薄く塩味がします。これにフライド・ポテトが付きますが、この量が相当あります。レストランで食べると、さらにサラダが加わります。これだけです。ビール、ビターとの組み合わせは最高ですが、一回目は運転の途上ですからコーラにしました。これはいまひとつピッタリ来ません。二回目はビターを飲みながら食べたので、当に英国の味を堪能しました。これだけで昼食としては十分です(いや、ポテトは全部食べ切れなかった)。問題は油の多さで、これを頻繁に食べることは、確実にメタボリック体型への道に繋がるでしょう。
 この国には、階級社会の歴史が未だに強く残っていると言われています。後でも触れますが、食物・食材にもその歴史が反映しています。F&Cは典型的な下層労働者階級の食べ物だったようです。古新聞に包んだF&Cを、港や工場が隣接する街頭で立ち食いしているシーンを想像すれば、その説に真実味が出てきます。食べる場所、食べ方を考える必要があるようです。もっとも、日本でもお公家さんや位の高い(町廻りでない)武士が、麺類を食べている場面は映画・TV・小説にはまず出てきません。意外と上流社会の方々も、こっそり庶民の味を楽しんでいるのかも知れませんね。
 以上の英国伝統昼食料理のほか、中華、イタリアン、インド(これは当地ではまだ食べていない)などの料理が気軽に摂れます。大体その国の出身者がやっているので、専門店(ホテルはダメ)で食べれば味は間違えありません。
 と言うようなわけで、昼食に関しては選択肢も多く、美味しい英国料理が手軽に楽しめます。決して“英国料理は酷い”ものではありません。

3)Afternoon Tea
 “アフタヌーンティー”、優雅でゆとりを感じさせる良い言葉ですね。“3時のおやつ”とほぼ同目的(やや広い)のものですが、日本語・英語の違いを除いても、浮かんでくる情景が違います。マナー(大邸宅)、シンガポール、香港などにピッタリの雰囲気です。
 この言葉を初に知ったのは、1975年のシンガポールです。このとき会社に入って二度目(最初は、1970年のアメリカ、フランス)の海外出張をしました。目的は、先に出てきたEsso Eastern主催の“Logistics Economic Course”と称する石油精製・販売に関するビジネス・ゲームに参加するためでした。当時私は川崎工場で生産管理情報システムの開発に従事していたので選ばれたのです。Eastern傘下の各国から参加者があり、チームを組んで石油会社を経営して競い合うのです。2週間、トレーニングセンターの在ったシャングリラ・ホテルに缶詰になってしごかれるのです。とは言っても息抜きの時間はあります。そんなある午後、ロビーの喫茶コーナーで何気なくメニューを見ていると“アフタヌーンティー”とあったのです。飲み物、ケーキ、サンドウィッチなどがセットになっています。それらしき午後を過ごしている人達が居ます。言葉や内容から、英国の植民地時代を窺がわせるものです。“なるほど ゆとりだなー” その時の第一印象です。
 まだ近代化途上だったシンガポールには古い植民市時代の雰囲気が残っていました。目をつぶりまぶたの裏に写るのは、強い日差し、気だるい午後、バルコニーのある白い建物、広い緑の芝生が広がる庭、白いテーブルと椅子、これも白服の紳士・淑女が集う、お茶を給仕する現地人。インドで、マレーで、シンガポールで、香港で、ヴィクトリア時代の大英帝国です。現代の英国人もこんなよき時代の情景を思い起こしながら、アフタヌーンティーの時間を過ごしているような気がします。
 アフタヌーンティーは、紅茶とお菓子;スコーンが代表的ですが、クッキーやケーキも好まれます。甘いものが欲しくない時には、小型サンドウィッチもあります。具はきゅうりやチーズ、ハムなどあまりかさ張らないものが用意されます。もうチョッと重い食事を、遅いランチにすることもあるようです。また、場所によっては果物を組み合わせることも可能です。紅茶はもちろんポットで用意されます。むろんコーヒーでもかまいません。
 当地で過ごしたアフタヌーンティーでは、ブリストル訪問でジェフの周到な準備で訪れた、ヴィクトリアン・タウンハウスに住む、ジーニーのバックヤード(主庭)で過ごした時間がいつまでも記憶に残りそうです。レモンケーキと紅茶、話題が何故か「長男と母親;甘えん坊」になりました。「私も母にとって初めての子供ですから、その話はよく理解できますよ」 話が弾んだのは言うまでもありません。
 先日娘がやってきたことをお話しました。帰国した彼女から、訪英印象のダイジェス・メールが来ました。一番印象に残ったのは、湖水地帯観光に組み込んだ、マナー(大邸宅)訪問だったと。このマナーは、フッカー・ホール(Holker Hall)といい、赤い石(砂岩)で出来たお城のような邸宅で、メアリー王妃やグレース・ケリー王妃も宿泊した、由緒あるマナーです。現在も利用されており、その一部が公開されているのです。門を入ってしばらくは建物が見えないほどの敷地の中にあり、素晴らしい庭も見ものです。観光客用に別棟のカフェもあります。ここでアフタヌーンティーを味わっていると、英国在住の人気小説家、カズオ・イシグロの「日の名残り」の背景がよく理解できた、と言うコメントが加えられていました。執事や女中頭が登場する、日本では想像できない世界です。案内した甲斐がありました。
 アフタヌーンティーは、英国の文化と歴史が詰まった特別な飲食習慣で、これだけは他と比べることはできません。英国訪問のチャンスには、是非この時間を楽しむことをお勧めします。

4)Dinner
 料理の美味い・不味いは詰まるところディナーに尽きます。最初の2週間のホテル暮らし、ロンドン、エジンバラ、ブリストル、ヨーク、ランカスター市内で外食ディナーを食べています。ホテルでのディナーによく、POSHと書かれた看板が出ています。   POSHは何かの略語(P.O.S.H.)らしいのですが、まだ調べていません。その下に2種類でいくら、3種類でいくらと書いてありますから、メニュー選択と値段のことであることは間違えありません。最初に夕食を摂ったランカスターハウスホテル(LHH)で、POSHとは書いていないもの、それと同じ説明を受けました。つまり、①前菜、②メインA、③メインB、デザートは別料金、と言う説明で、メインをA,B2種にするか、AかBかいずれかにすするか、という選択を先ずします。前菜を含む3種の中から2種を選べば値段は2種の値段、全部を取れば3種の値段になります。私は一度もメイン2種にしたことはありません。①~③の中身はさらに3~4種ありここからひとつを選びます。例えば、前菜:サラダ、スープ、スモークサーモン、シュリンプ、メニューA:ラム、ポーク、ビーフ、メニューB:鱒、サーモン、チキン、パスタのようになっています。もちろん“何とか風”と言うような料理用語や、和え物・ソースの名前などが加わり、メニューを眺めたり、一度聞いただけではどんなものが出てくるのか分からないのはどこのレストラン、ホテルとも同じです。早口の英語で説明されても、混乱は増すばかりです。結局、素材とせいぜい調理法(焼くのか、煮るのかなど)で選ぶことになります。
 LHHとそれに続いて宿泊したホリデーインはそれぞれ1週間泊まりましたが、世評通り酷い料理でした。いろいろ変えてみましたがどれもダメです。手は込んで、努力はしていることは認めますが、味付けに全くコクがありません。素材も、ビーフはパサパサして肉汁の美味しさが全く染みでて来ません。早々と外から買ってくるもので夕食を済ませるようになりました。
 田舎のランカスターだから仕方が無いのか?ロンドンに出かけた時友人夫妻が泊まる、四つ星ホテルを訪れました。ハイドパークの北東角、マーブルアーチに近い落ち着いた雰囲気の良いホテルです。ロビーに隣接するバーで軽く一杯やりました。「良いホテルだね!」と話し出すと、夫人が「でもね、レストランは全くダメ。食べる気がしないの。昨晩は外から買ってきたもので済ませたの」とおっしゃる。数え切れないくらい英国へ来ているという二人の評価です。その晩のディナーは、オックスフォー通りから少し入った、英国風中華レストランでご馳走になりました。「中華は間違いないからね」と言うのが友の総括でした。同感です。
 ヨークに出かけた時、ディナーをどうするか随分悩みました。カジュアルで来ているので、簡単なもので済ませようかとも思ったのですが、英国に来て一度もディナーとしてローストビーフを味わっていないことが気になっていました。一度きちんとした所でローストビーフを食べたい。これには昔食べた、極上のローストビーフへの思いが未だに強烈に残っているからなのです(サンドウィッチに挟むものとは全く別物)。
 1960年代の終わり頃、当時パレスホテルの地下にあった(現在は無い)「シンプソン」にお招きを受け、おそらく生まれて初めて、ローストビーフなるものをご馳走になりました。口の中でとろける様な柔らかさ、肉汁とソースが作る深みのある味わい。“シンプソンのローストビーフ”はそれ以来あこがれの味になっているのです。シンプソンは、ロンドンを本拠とする有名レストランですから、「英国の高級レストランの料理は高くて不味い」の評価は少なくともローストビーフに関してはないはずです。
 トップクラスが優れていれば平均値も高いだろう。こう考え、ヨークでのディナーにローストビーフの可能性を当りました。日本から持参のガイドブック、ホテルでもらった観光案内、これらを調べているとロースト料理の専門レストランが見つかりました。両者に載っている店です。売りものは、ローストラム、ロ-ストポーク、ローストチキンそしてローストビーフです。身なりが心配で、フロントに聞きに行きました。「カジュアルで全く問題ありません。予約しましょうか?何時にします?」こうして出かけたのが、ヨーク(観光)を代表するレストランです。店の外から、シェフがローストした肉を切り分けているのがガラス越しに見えるような店です。入って予約を告げると、直ぐ席に案内してくれました。ここで(失敗かな?)と思いました。お客が皆観光客のような感じの人ばかりなのです。しかも空席があります。席に着き赤のグラスワインを注文し、メニューを眺め、定番のローストミート(3枚好きなものを選べる。混合可)をメインに選び、前菜はシュリンプカクテルにしました。前菜はまずまずでした。いよいよメインです。ビュッフェスタイルの調理台に向かい皿を取ると、シェフが「何にしますか?」(一瞬、三種類一枚ずつにしようかな?と思いましたが)「ビーフ」と言ってしまいました。三枚のローストビーフが皿に盛られました。(ウーン?何かサンドウィッチのローストビーフと同じ感じだな;脂身がまるでない)ソースや和え物は自分で好きなものを選びます。席に戻り、一切れ口に入れると、ガツーン!“何だこれは!(肉はパサパサ、ソースは淡白でまるでコクがありません)。“英国料理は不味い”を確り確認しました。
 英国料理の名誉のために付け加えれば、家庭や地元の人が出かけるようなレストラン、田舎の旅籠では美味しいディナーをいただきました。どれも素材がビーフでなかったこと、ソースによく手が加えられていることが共通です。
 簡単な料理を自分で作る。来る前に想定したのはビフテキです。きっと肉は安くて美味いだろう。スーパーで買い求めたステーキ用牛肉でビフテキをやりました。ガツーン!でした。肉汁がまるで無いのです。健康のために脂身の全くない牛を作り出したのでしょうか?とにかくこの国の牛は全くダメです。和牛は別にして、アメリカやオーストラリアでこんな酷い牛肉に出会ったことはありません。牛は酪農用に飼い、御用済みになったら食肉にするんでしょうかね?シンプソンの肉は何処から来るんでしょう?おそらく帰国するまでビフテキを口にすることはないでしょう。
 ではポークはどうなんだ?結論から言えば、スーパーで買い求めるのは豚肉が一番多いのが実情です。先ずベーコン、スモークしたものを買います。そのまま焼くのも良し、刻んで他のものと混ぜるのも良し、美味しくて重宝な食材です。ポークソテー用の豚肉もなかなかいけます。塩・胡椒しただけで美味しいソテーが出来上がります。カレーライス、野菜スープにもこれを使っています。ビーフとは格段に差がある味です。
 ただ、短期滞在者の外国人である私にとっては関係のない話ですが、歴史的に見ると豚肉を食べることは、この国ではまともな人と思われない時代が長く続き、ベーコンなどは最下層民の食べ物であったようです。隣の国、アイルランドでは逆に、豚は一番身近な家畜として古くから愛されています。これは彼等がケルトで、ローマの血を引くからだと言われています。ローマ帝国では、豚は豊かさの象徴として崇められてきた歴史があります。英国・フランス・ドイツ、いずれもローマから見れば野蛮人の国(アングリア、ゲルマニア、ガリア)でした。いずれの国もローマ(そしてギリシャ)に如何に近いかを強調する傾向があります。とりわけ英国はローマ・イタリアコンプレックスの強い国です(貴族の子弟は、教養を深めるためこれらの国々を旅行することが流行った時代があるくらいです)。そんな歴史から見れば、豚肉蔑視は合点がいきません。アイランド蔑視の結果なのでしょうか?

5)Whiskey、Whisky、Scotch
 ビジネスを通じて親しくなった友人が、出発前に横浜上大岡駅に近いバーへ、壮行会を兼ねて誘ってくれました。知る人ぞ知るウィスキーに関する日本を代表するバーです。種類、仕入れ元との関係、マスターの知識(本を書いています)いずれをとっても超一流、“楽しむ”領域に達しています。「向こうへ行ったら大いにウィスキーを楽しんで来てください」マスターが送り出してくれました。
 しかし、Scotch(スコットランド)もWhiskey(アイルランド)もWhisky(イングランド)も残念ながら一度も飲む機会がありません。夜、誰かと飲む機会が無いのと、ビンを買ってきて一人で飲むのは生活のペースを守れなくなる恐れがあるからです。食事も済んで自室に篭もり、ウィスキーをチビリチビリやりながら、ミリタリーサスペンスを、CDでも聴きながら読む。これを、ビジネスを退いた後の夜のパターンにすることを、40代後半くらいから目論んでいました。しかし、数年前かかりつけの医師から深夜の飲酒を禁じられました。Mauriceの貸してくれる本は、サスペンスではないもの、私にとってはそれ以上に興味深いものです。禁断の園は直ぐそばにあるのです。
 こちらへきてすっかり習慣になってしまったのが、ビター(黒ビール)です。晩酌はジョン・スミス(JS)のエキストラスムーズ、500mlの缶です。最初のきっかけはMauriceとの昼食ゼミあります。「ギネスよりスムーズだよ」と言うアドバイスで始め、すっかり気に入っています。最初に缶を開けてビンに注ぐと、泡だけが入っているように見えますが、その中に液体分が確り含まれています。“クリーミー”と言う表現がピッタリの口当たりは、ラガービールにありません。味も癖が無く(これが短所であるかもしれませんが)大変飲みやすいビターです。外で食事をする際、先ずビターがあるかどうか?次いでJSがあるかどうか問い、あれば必ずJSです。帰国してから、これを味わえないのを今から心配しています。
 ワインもよく飲みます。殆ど安い欧州産、オーストラリア産、南アフリカ産の赤です。自宅ではスーパーで買ったもの、外では店のハウスワインをグラスに一杯。英国人もワインが好きなようでピンからキリまで、スーパーでもレストランでも揃っています。実は、日本の自宅では滅多にやらなかったランチワインをやるようになってしまい、トータルの飲酒量が増えているのではないかと、反省しつつ飲んでいます。

 飲酒は、今や英国社会を蝕む最大の社会問題になってきています。特に少年の飲酒が、さまざまな犯罪と直結しています。警察も必死ですが、対処療法だけでは治まらない、何かがあります。若者に夢を与え、それを実現する環境が著しく狭まってきているのではないかと、短い滞在期間ですが強く感じています。若者だけではありません。今や、6千万人の内5百50万人が海外に居住しているのです。Mauriceによれば生活費高騰に対する逃避だそうです。人気のある外国ベストスリーは;オーストラリア、スペイン、アメリカです。特に年金生活者には、フランス、スペインを始めとした近隣南欧諸国が多いようです。何と言っても、天気は良いし、美味しいものが食べられる国々ですからね。年金生活しながら英国へ来るなんて、余ほどで変人なんでしょうか?

                                                                       以上
 

2008年12月30日火曜日

今月の本棚-5(12月)

On my book shelf-5

<今月読んだ本>1)日本と中国(王 敏);中公新書
2)鉄道地図の謎から歴史を読む方法(野村正樹);KAWADE夢新書
3)旅する力(沢木耕太郎);新潮社
4)機密指定解除(トーマス・B・アレン);日経ナショナルジオグラフィック
5)<満洲>の歴史(小林幸夫);講談社現代新書



<愚評昧説>
1)日本と中国-相互誤解の構造 もう“中国”はいいよと言いたいくらい中国モノの本が書店に溢れている。経済発展とその歪および国際政治におけるプレーヤー、特にわが国にとって厄介な隣人としての視点が圧倒的に多い。しかしこの本は決して時流におもねる類のものではなく、文化の根底の違い(副題にある、-相互誤解の構造-)を探り、その先に相互理解の道を探そうと言う建設的な内容のものである。
 中国側には日本文化は中国文化の亜流と言う見方が強いこと、日本側には「同文同種」で描く理想、相手を知っているつもり、と言う誤解があることを30年におよぶ日本文化研究から両国文化の違い(独自性)に踏み込んでゆく。
 先ず同文の漢字について、日本が漢字到来以前の言語体系の中で使ってきた言葉を漢字に置き換える苦労、さらには国字(日本製漢字)の考案に踏み込み、日本文化の独自性を説明している。例えば“働”や“躾”は国字でこれなど中国人が見ても理解でき、傑作と言う感想を持つらしい。一方同じ字が違った物・事を示す例として“椿”が挙げられている。日本の椿と中国の椿では花でも品種が違うとのことだ。
 字に関わる文化の違いはさらに文学に及び、もし仮名が発明されていなかったら「源氏物語」や「枕草子」に使われる繊細な表現は出来なかったと、“小さい”ことを表す漢字が“小”あるいは“極小”しかない例で説明する。
 この言語の違いの問題は議論を交わす場になると、気配りを重んじ敬語や丁寧語の多用する日本語は論理的展開に向いていないと感じている日本通の中国人が多い。凶悪犯説得にまで丁寧語で呼びかける日本の警察のやり方は、善悪をハッキリさせる中国や西欧の文化とは決定的に違うことを指摘している。この辺りは日本文化が仏教の影響を強く受けているのに対し中国は歴史的に儒教思想に長く支配されたことから生じているのではないかとしている。
 職場で何か重大な過ちを犯したとき中国なら「懲戒免職」となるような事件でも、日本では「辞職願」を出させ自ら辞める形を採らせ、周辺の人間は事情を知っているものの、公にはその内容が知らされない。このような対処は中国人(ばかりで無く西欧人も)から見れば寛容すぎると受け止められる。
 そして“誤解”の今日的な話題として「謝罪」が挙げられる。“何をわびるのか?” 日本では犯した“罪”そのものでなく、先ず“世間を騒がせたこと”をわびる傾向が強いと指摘する。その後で“罪”そのものは無罪だと主張する偽装事件のような例をしばしば見かけるが、謝罪したから「禊は済んだ」と言う考え方は中国人には通用しない。逆に言えば「原因がハッキリしなければ(その場を繕うだけの)謝罪などしない」と言うのが中国のみならず世界の常識だということである(こんな態度をとれば日本では袋叩きに会うことを筆者はよく承知している)。
 日本の土下座や禊は一回限りでその罪を謝罪したことになるが、中国では、謝罪する際には、何をどう反省したかを論理的に語ることが大事で、その内容を言葉で表現しない限り謝罪とは受け取られない。そしてその内容に一貫性が求められる。
 宮沢賢治の研究家でもある筆者は、日本人の「感性が基本」と言う考え方をよく理解している。その上で、中国人(否日本人以外の人々)の論理性を重視する考え方とどう折り合いを付けていくか? これを“未完の課題”としつつも両国における“日中異文化認識”を深めることがその改善のカギとしている。
 “リーダーの決断と数理”を研究する評者にとって、常日頃感じるのは決断に際しての“論理性の欠如(あるいは軽視)”である。“不満ミニマム”が最適とする考え方は小集団(鎖国した日本を含む)では通用しても、価値観の違う世界(異文化)では受け入れられない。両国の異文化理解を一般の日本人に理解しやすい形でまとめられた本書から学ぶところ大であった。

2)鉄道地図の謎から歴史を読む方法
 筆者の野村さんは親しい友人である。もとはサントリーのサラリーマンだったがミステリー小説で二足草鞋の作家デヴュー。その後早期退職してビジネス書を中心に作家活動をしてきた。長い付き合いの氏が鉄チャン(鉄道マニア)であることを知ったのは意外と最近で、昨年暮れの忘年会で鉄道エッセイ集「嫌なことがあったら鉄道に乗ろう」(日経新聞社刊)を手にしてからである。その際話術の巧みな氏から、鉄道ものの出版にまつわる苦労話を聞かされた。一言で言えばこの世界は“他分野からの参入に排他的”な空気が強いらしい。
 そんなこともあり今回の著書は鉄道をテーマにしながら“歴史”を学ぶところに主眼が置かれた“歴史モノ”だと言うのが本人の弁であった。しかし、マニアまで行かない“鉄道ファン”としては十分鉄道モノとして楽しむことが出来た。
 構成は明治維新後スタートした新橋・横浜間の汽笛一声から今日建設計画を進めている各新幹線までの鉄道にまつわる話題と日本の近・現代史上の出来事を巧みに組み合わせたユニークなもので、確かに歴史を通史として学ぶことにも役に立つ(中学生くらいか?)。ファンとして興味深かったのは地方鉄道や私鉄に関する部分で、会社の成り立ちや路線決定の経緯など初めて知ることも多く、そこそこ好奇心も満たされ、各駅停車の気分転換にもってこいだった。

3)旅する力-深夜特急ノート 副題にある“深夜特急”は筆者をノンフィクション作家として世に知らしめたものとして有名なデリー・ロンドン間を乗合バスで旅する旅行記である。今では多くの若者の旅行バイブルともなっている。評者も1986年5月、この本が出版された時にその第一巻と第二巻を購入している。
 この本で作者は旅に対する考え方、少年時代の旅体験、ノンフィクション作家としての修行時代を紹介し、やがて“深夜特急”の舞台裏を覗かせ、旅が終わったあとの自身の変化と“深夜特急”を書いてゆくプロセスを語っている。中でも第一巻・第二巻の出版(同時出版)が終わり、第三巻が出るまでに6年を要したことについて当時の心境を語るところは、評者も今か今かと待っていただけにこの著書でなるほどと納得させられた。つまりデリーから西南アジアを経てトルコに至るまでは“行けるかどうか分からない”状況に挑戦せざるを得ない状態の中での旅であったのに対し、トルコ以西はどのルートをとるかの問題であって、それまでとは異次元の旅になり一旦筆を下ろしてしまうとなかなか書けなかったということらしい。一般人の旅にたとえれば、自身で計画し実行する旅とパック旅行の違いのようなものかもしれない。前者は書く材料が向こうからやってくるが、後者ではガイドブックと違う、書く価値を持つ材料をどこまで見つけられるか難しいところがある。
 ノンフィクション作家として、筆者は無論旅以外のテーマも沢山書いている。特にスポーツ物や壇一雄なども評価が高いが、私としてはその後に読んだ「バーボン・ストリート」なども含めて紀行文が面白さにおいて郡を抜いているように感じる。それは多分自分の体験に基づいた作品だからであろう。その点で本書は旅への考え方とものを書くこと対する心構えを学ぶ格好の教科書であった。

4)機密指定解除  英米の機密解除文書、冷戦後の旧ソ連文書など軍事・外交に関わる極秘文書を丹念に調べ、50通を選び出し、そこに記載された機密内容と案件のその後の成り行き・結果をまとめたもの。古いものでは米国の独立戦争や南北戦争から、第一次・第二次世界大戦、新しいところではヴェトナム戦争やウォーターゲートスキャンダル、さらには9・11を予測したかに見えるに事例などが取り上げられている。
 スパイ、二重スパイ、暗号解読などその道の専門家が関わる例が多くを占めるが、意外と国家指導者の発した平叙文の手紙などもあり臨場感が味わえる。真珠湾攻撃やヤルタ会談におけるルーズヴェルトの発したものやアインシュタインが原爆開発を予見して大統領に宛てた文書など日本人に身近な話題も多々あり巷間伝えられてきた歴史観をチェックする面白さがある。
 ただ、50の事例に繋がりがあるわけではないので“この一冊から何を学ぶか?”は今ひとつまとまらない(推薦文を書いている外務省のロシア専門官だった佐藤優氏はその道の専門家育成用教材としての価値を書いている)。それに内容からくるのかあるいは翻訳技術からくるのか、日本語の文章として理解しにくいところもある。

5)<満洲>の歴史 生まれ故郷である満洲には特別な思い入れがある。従って個人の記録、写真集、専門調査・研究書のようなものを除く一般図書として“満洲”をタイトルに含む本が出るとつい手を出してしまう。その数は20冊を超える。これらの主題内容は種々雑多だが、概ね満州事変と関東軍、満州国成立と溥儀の復辟、満鉄(調査部だけに焦点を当てたものを含む)、満蒙開拓団、ノモンハン、ソ連侵攻、引揚げなどで、軍事・外交面から書かれたものが多く、意外と農業・工業を掘り下げたものが少ない(専門報告書を除く)。
 本書は大東亜戦争をアジア、特に中国・満洲に重きを置いて研究している学者が、日本人の視点と当時の現地既成勢力の立場の複眼で、この地方(現中国東北部)の通史を満洲成立の前史から消滅までを書いたものである。政治経済、外交、軍事はもとより農業、工業、さらには文化に至るまでカバーしている。
 評者が本書を高く評価するのは、開拓移民による現地での農業推進の実態、特に経済の面から簡潔に分かりやすくまとめていること。日本の戦時経済に先駆けた統制経済計画の理想と現実のギャップをこれも分かりやすくまとめている点である。農業でいえば北海道に似た自然環境の中で大規模農業を目指したものの、農業機械などほとんど揃えられずその土地を熟知した漢人・満人の従来農業を真似ることから脱せなかったことを失敗(人件費の違いから競争出来ない)の要因としている。工業では長期の平和を前提とした計画が日中戦争で滅茶苦茶にされていく。
 私事だが、国策会社、満洲自動車製造に勤務していた父が、生前当時の日本のトラックがフォード製に比べ如何に酷いものだったかをよく語っていたが、その論拠はアメリカから輸入した車を同社でテストしていたことにあることが本書を読んでいて分かった。
 新書版サイズで満洲全体を理解するには最良の書といえる。

2008年12月27日土曜日

篤きイタリア-3

注:今までの記事も含め、写真はダブルクリックすると拡大できます
4.運河が巡る町;ヴェネツィア
 二人の友との楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。ヴィチェンツァのホームでシルバーノが「もう自分は日本に出かけることはないだろう。でもいつでもこちらに来てくれることは歓迎だ」とポツリと言った。一瞬お互いの歳を考え胸が詰まった。「有難う。こちらも娘さんたちをいつでも歓迎するよ」 気休めのような答えを返すのがやっとだった。
 今回のイタリア行きを計画した段階から、二人の友と過ごす旅とその後の旅は別の旅であることを重々承知していた。後半はただの観光旅行、パックで旅するのと大きな違いはないと。それでも少しでも受身にならない旅をしたくそれぞれの訪問地に夢を託した。ヴェネツィアは学生時代(高校生だったような気もする)に見た映画「旅情」と「大運河」、フィレンツェには“ルネサンス文化”、ローマはあの“ローマ帝国”である。しかし、ヴェネツィアに関してはシルバーノと会ってから“ヴェネツィア共和国”がもう一つのテーマとしてクローズアップしてきた。一時はアドリア海、エーゲ海そして遥か黒海沿岸まで勢力を持った海洋大国の中心地に何か往時の面影は残っているのか?
 ヴィチェンツァから今回初めてのユーロスターに乗る。しかし時間はたった50分。ほぼ中間点のヴェネト州を代表するパドヴァに停車、本土側最後の停車駅メストレを過ぎると鉄路と高速道路だけが海の上を走る。水の都へのそれらしいアプローチに期待は高まる。十数分の海上走行の後ヴェネツィア唯一の鉄道駅、サンタルチア(光の女神)駅に到着。あの有名な民謡はナポリのもので夜景だが、午後の陽光に輝く海の上を走ってきてもこの名前はうれしい。


<水上バスに乗って>
 ホテルはリアルトホテル。代表的な観光名所、言わばヴェネツィアの銀座四丁目、リアルト橋の袂に在る。タクシーが全く存在しない街でどうホテルへ行くか?計画段階で調べると、水上バスが一般的だがモーターボートのタクシーがあるとなっていた。世界に冠たる観光地、水上バスで何とかなるだろう。それに「旅情」のキャサリン・ヘップバーンが演じるアメリカのOLも英語しか話さなかった。サンタルチア駅前広場の前はあのカナル・グランデ(大運河)、そこには水上バス(ヴァポレット)の船着場があり、切符売り場には各国からの観光客が並んでいる。頻繁に利用する人や長期滞在者には各種の割引切符があるが、ホテルと主要観光地を巡るだけなら徒歩で十分。切符は一回券と決めていた。暗記したとおり「コルサ・センブリーチェ!」と大声で言うと、切符を渡しながら「そちらの船着場だよ」と言うようなことを言って指を差す。航路2がリアルトへ行く船と予め調べておいたので“2”へ行くとやや込み合っている。乗船係が“1”へ行けと隣の乗船場を指示する。「リアルトへ行くんだが」「どちらもリアルトへ行きますよ」 どうやら二つの船着場を使って乗船人員の調整をしているようだ。
 ヴァポレットは真ん中が乗降と立ち席、前後が椅子席になっている。勝手が分からないので乗降口近くの立ち席の手すり寄りに位置をとる。フェローヴィア(サンタルチア駅前の船着場)はカナル・グランデの逆S字(あるいは2)の書き出し点に在りリアルトはその中間点に在る。船着場を出ると直ぐに、さまざまな石造りの建物が連なって水に浮かぶあの光景が現れる。ホテルあり、カジノあり、アパートあり。建物によって運河側が正面あり、裏口あり。一体どうやって作ったんだろう?先ず浮かんだ疑問はこれだった。あとでガイドに聞いたところでは、干潟に木材の杭を沢山打ち込んでその上に建てたと言うのだが、それにしては何世紀もの間よくもったものだ!異様な景観に目を奪われる。大運河にはヴァポレットや水上タクシーばかりではなく雑多な船が行き交い、運河が道路代わりであることがよく分かる。何箇所かの船着場に寄ってリアルト橋をくぐるとリアルトの船着場だ。長いこと大運河に架かる唯一の橋だったことでその周辺は広場になっており、カフェテラスや土産物屋が密集し、観光客が橋も含めてその一帯にわんさと居る。
 ホテルはその名の通り橋の袂で船着場から1分。至極便利は良い。しかし、外壁の色を見て驚いた!窓枠部分が白であとは全部けばけばしいピンクである。日本ではラブホテル以外こんな外装はない。これが本当に四つ星ホテル(日本のガイドブックでは三ツ星)なのか?!と一瞬不安になる。木枠に素通しガラスのドアーを開けて中に入ると雰囲気が外とは全く変わる。こじんまりしたロビーは静かでその前にこれもこじんまりしたフロントがある。外はごった返しているのにロビーで一休みと言うような観光客は全く居ない。ホッとする。チェックインも英語で問題なく済み、ボーイにスーツケースを託し部屋へ案内してもらう。ここでまた不安な気分が再度頭を持ち上げる。ホテルの前面からはそれほど広い感じがしないが、内部はアップアンドダウンのある迷路のようになっている。はたして案内無しでロビーまで辿り着けるだろうか?火事にでもなったら?と。
部屋に入ってさらにびっくり!壁紙は幅の異なる緑と白のストライプに赤い花があしらってある。家具も緑。陽の注ぐ部屋ならともかく、路地に面した窓しかないこの部屋には妙に派手派手しく落ち着かない気分だ。しかし、これはある種の文化の違いかもしれないと思ったりもする。かつてワシントン郊外に住むアメリカ人の家に泊まったことがある。この時泊まった部屋はすでに独立して家を出た娘さんの部屋であった。その内装はやはりこの部屋のようなカラフルな壁紙やパステルカラーの家具に囲まれていた。郷に入れば郷に従おう!

<深い霧とタバコの口臭>
 9日はガイド付の観光を午前と夕方ゴンドラによる運河巡りをMHI社に頼んであった。午前のガイドと会う場所はサンマルコ広場の一角にある土産物屋の前。朝ホテルを出てびっくりしたのは大運河の対岸が霞んで見えるほどの深い霧であった。行き交う船も心なしか速度を緩めている。広場までの道は迷路のようだが昨日明るい内に確かめてあるので少々の霧くらいで道に迷う恐れはない。しかし、この調子では午前の観光の楽しみが殺がれる恐れがある。案の定広場に着くと南側の海に面した辺りは先が全く見えない。そんな霧の中で観光客のグループが少しずつ集団を作っていく。多様な人種、東アジア系もそこここに見られる。
 ガイドが付く観光はミラノ以来である。前回は英語グループに日本人がガイド付きで加わる形式だった。今回も同じ形かあるいは日本人だけのグループにイタリア人と日本人のガイドが付くのではないかと予想し、日本人らしい人達の動きを追っていたがさっぱりそれらしい人が現れない。すると薄紫色のやや厚手のコートをまといメガネをかけた、イタリア人の30代後半と思しき女性が日本語で私の名前を問いかけてきた。これが今日のガイド、シンシアさんである。この地の大学で日本語を学び日本へは数ヶ月の短期留学だったようだが、モレシャンさん風の欧米人独特のイントネーションを除けば、きちんとした会話が出来る。今日のお客は我々二人とのこと。濃い霧はこの時間毎日発生ししばらくすると晴れると言う。有り難い!
観光コースは、サンマルコ寺院→ドゥカーレ宮殿→ヴェネツィアングラスの工房である。それぞれの説明は観光案内書に譲り、個人的な関心事を略記してみたい。
 サンマルコ寺院:ミラノや後に見るフィレンツェのドーモ(中心寺院)、ヴァチカンのサンピエトロ寺院と比べ明らかに東洋風(球面・円弧の多用、装飾が細かいなど)である。イランの古都イスハファンのモスクやイスタンブールのアヤソフィア寺院等との共通性を感じさせる。つまりヴァチカンよりも東ローマ(ビザンチン)帝国側の影響が強かったということだろう。ヴェネツィア共和国の最盛期、その富も技術も東からもたらされたことを示している。
 ドゥカーレ宮殿:元首(ドージェ)の居城であり、行政府であり裁判所であった。古代ギリシャ都市国家は共和制であったがローマに飲み込まれていく。ローマは共和制から出発して帝政になった。その後このヨーロッパ・地中海域で共和制を維持したのはフランス革命以前ではここヴェネツィアしかない。7世紀から18世紀まで、1100年にわたる歴史上最長の共和国である。どんな共和制だったか?トップの元首は有力貴族から選ばれ、終身。貴族の男子は成年に達すれば国会議員になれる。国会議員の中から元老院議員が選ばれる。この元老院の中からさらに10人の委員が選ばれ、ドージェとその補佐官6名を加えた通称十人委員会が最高意思決定機関を構成する。ドージェ以外は2~3年で交代する。これをみると、ローマの元首に当る執政官は終身ではなかったが、共和政時代のローマと似たような形態とも言える。この各々の機能を果たす部屋が何度か火災に会いながらも改修・改築されて残っており、シンシアの説明も丁寧で往時の隆盛を偲ぶことが出来た。
 沢山のグループがそれぞれの言語で説明を受けるので何処も話しが聞き取り難い。その点こちらは少人数、シンシアの口元に耳を近づけて聞くことが出来る。参ったのは強烈なタバコの口臭であった。

<イタリア風?焼き魚> 夕方からはヴェネツィア観光の目玉、ゴンドラでの運河めぐりである。これも予めMHI社を通じて、夕食とセットで手配しておいた。乗船場所はサンマルコ広場の南側に開けるサンマルコ運河の一隅にあった。既に二組4人の日本人が集合場所に来ている。どうやら二組とも新婚さんのようだ。日焼けした中年女性の日本人ガイドが乗船の要領など説明してくれる。一組のゴンドラは特別仕立てで新婚さん一組の他にアコーデオン奏者ともう一人小太りで髭を生やしたオジサンが同乗する。我々4人は次のゴンドラに乗る。ゴンドラ乗り場はサンマルコ運河につながる小運河にあるが、ここを出るとしばらく外海につながり大型船も通るサンマルコ運河に出る。波が高いのでゴンドラは海浜遊歩道沿いに用心しながら次の内陸小運河の一つを目指す。ドゥカーレ宮の裁判所で有罪を言い渡された罪人が牢獄へ送られるとき通る“溜息の橋”が架かる運河がその出発点となる。この“溜息の橋”周辺は現在補修工事中で、広告の絵が描かれた化粧版で覆われておりがっかりさせられる。それでもそこを過ぎるとそれなりの風景になるのだが、今度は一緒に出発した二艘のゴンドラの船頭同士がまるで喧嘩でもしているように大声で何やら怒鳴りあっている。気分を殺がれることおびただしい。ガイドは同乗しないのでさっぱり要領を得ないが終始こんな調子であった。しかし、アコーデオンが奏でられ、髭のオジサンが立ち上がって美声でイタリア民謡を歌いだすと、さすがに静かになった。新婚さんへの特別サービスのおこぼれは我々だけでなく、運河沿いの道を散策する人や橋を渡る人々にも行き渡り、しばしの野外演奏を楽しみ、彼らに感謝し祝福する。
 船着場に戻ると件の日本人ガイドが待っている。ゴンドラ観光が夕刻だったこともあり、今回の現地ツアーで唯一ここだけ食事付きにしたのでレストランまで案内してくれることになっている。これに参加したのは同じゴンドラに乗った新婚さんと我々の二組であった。レストランは船着場から5分くらいの路地にある比較的カジュアルな感じの店で、地元の人も利用しているようである。店に入ると、ガイドが「料理はシーフードの前菜、プライムはリゾット、セコンドは焼いた魚料理、最後はデザートとコーヒーかティーです。飲み物は別料金です」と説明し、ここで案内を終えて去っていった。
 ハーフボトルを頼み、前菜・リゾットと進む。悪くない。自分でアレンジするより手間がかからず良かったなと思う。イタリア風の“焼き魚料理”に期待が膨らむ。やがて供された皿を見て一瞬「これがイタリア料理?」 その皿の上には真ん中に小ぶりのいか、その外側に小さないわしのような魚、これも中サイズの車えび、やや大きな赤いサーモン。いずれも焦げ目はついているがソースの類はかけられていない。いわし風のものを試すとまるでめざしである。他もサーモンがバターかオイルを使っているほかは、塩コショウだけの味付けである。「イタリアまで来て何でこんないい加減な焼き魚を食わなきゃいけないんだ!」私はワインの勢いもあり一応全部平らげたが、家内は途中でギブアップだった。
 思うに、これは決してイタリアあるいはヴェネツィアの料理ではなく、昼夜パスタ料理で過ごした日本人の中にこんな料理を所望する者が居て、日本人向け地元観光業者が指示したものではなかろうか?多分厨房で調理しているシェフ達は「日本人はこんなものが旨いんだろうか?」と思っているに違いない。
 後日フィレンツェのレストランで一夕魚料理を薦められた。ここも日本人観光客が多い町である。「また例の焼き魚か?」と思い遠慮した。隣のテーブルにあとから来たイタリア人カップルの女性がそのお薦め料理を注文した。鯛のような魚を焼いたものにとろみのスープがかかったもので、おいしそうに食していた。

<二つの映画>
 高校生、大学生の頃は映画を観るのが最大の楽しみであった。場末の映画館で二本立ての洋画をよく観たものである。海外へ旅立つ時いつもその時代に見た映画に思いが至る。今度のイタリア行きでは、このヴェネツィアで「旅情」と「大運河」、ローマには「ローマの休日」「終着駅」「自転車泥棒」などが思い起こされた。いずれも1950年代の半ばから後半に観たもので、まだ日本が貧しく、海外へ出ることなど夢のまた夢の時代だった。半世紀経った今と昔の映画の記憶がどこまで残っているか?こんな興味で街を徘徊するのも旅の楽しみの一つである。
 「旅情」は、キャサリーン・ヘップバーン演じるアメリカ人のハイミスが念願の欧州旅行を実現する中で味わう中年の淡い恋物語であるが、アメリカ人向け(監督は英国人の名匠、デヴィット・リーンだが)観光映画という趣もあり、容易にその軌跡を追うことが出来た。ヴァポレットに乗るシーン、サンマルコ広場のオープンカフェ、広場に面する観光客相手の骨董屋、ここのオヤジを演じるのが恋の相方ロッサノ・ブラッツィ、ゴンドラに乗り立ち上がって写真を撮ろうとして運河に落ちるシーン、別れのサンタルチア駅(駅舎はまるで違うが)。映画のシーンと現物が頭の中で一致すると何かホッとする。しかし、こういう“名所を確認すること”に重きを置く観光は果たして健全なのかとも思ったりする。不思議なのは、既にあの時代ハリウッド映画はカラーで撮られているはずなのに、何故か頭に浮かんでくるシーンに色が付いていないことであった。
 「大運河」は、フランス映画だけにアメリカ映画に比べストーリーが複雑でメンタルな要素が深い。若い女性(フランソワーズ・アルヌール)を巡る3人(一人は老人)の男と昔の老人のナチの贋金作りが絡む話で、当時観た時も理解し辛かったので今では筋もよく思い出せない。ただ、複雑に張りめぐらされた運河が、犯罪の実行や捜査に重要な役割を演じていたことで妙に記憶に残っている。現在と全く異なるのは人の数である。あの映画にもサンマルコ広場が出てきたような気がするが、どのシーンも静かで寂しい風景の中を靴音だけが響くような画面だった。例の“焼き魚”の夜、レストランからホテルへの帰り道を間違えどんどん辺鄙な場所に迷い込んでしまった。明かりは見えても人影はほとんど無い。ふとあの映画の中に取り込まれるような感じがした。
 頭に浮かぶ情景は、「旅情」が太陽きらめく“陽の世界”なら、「大運河」は重い雲に覆われた“陰の世界”であった。それでも何故かこちらにはくすんだ色が付いている。映画と現実の違い、50年の歳月、そして自らの老いがこの不可思議な現象を引き起こしているのであろうか?
 この奇妙な思いを今に残してヴェネツィアの旅はおわった。

2008年12月14日日曜日

滞英記-13

注:今までの記事も含め、写真はダブルクリックすると拡大できます
Lettrr from Lancaste-13
2007年8月19日

 8月15日、日本では終戦記念日、こちらではJ-Day(対日戦勝記念日)です。フォークランド戦争25周年の仰々しい報道ぶりから、どんな行事があるのか興味津々でBBCを観ていましたが、一切これに関する報道はありません。区切りが悪いからでしょうか(62年)?このところのニュースは、インド・パキスタン独立60周年、十代の若者のアルコール問題、特に殺人、ヒースロー空港拡張計画に対する環境活動家の実力行使などで大きなニュースはありません。
 日本ではこの時期暑さの最盛期でしょうが、こちらは天気になれば、先ず先ずの日差しがあるものの、気温は上がらず20度前後で、家の中でも肌寒いほどです。これもマクロな環境破壊の兆しなのでしょうか?
 牧草地では干草(Hay)用牧草の刈り取りが真っ最中で、後に撒く肥料の臭いが強烈です。臭い・匂いは文化、英国の田園文化を楽しむためには堪えなければなりません。きれいなところだけつまみ食いしていてはダメなのです。
 今回は、7月23日、24日に掛けて出かけた、イングランド北東部の代表都市、ヨークに関するものを<敵陣、ヨークへ>と題してご報告します。

 研究活動は前回も触れました、Waddingtonと言う生物遺伝学者が、沿岸防衛軍団でOR適用に当った経験をベースに書かれた著書を読んでいます。この本の内容は、課題そのもの、課題解決プロセス、適用手法などを詳しく記述したもので、米国戦時OR活動を紹介した、Morse・Kimballの「Methods of Operation Research」に近い性格のものですが、組織内(空軍省、空軍参謀本部、沿岸防衛軍団、軍団各司令部とORグループ)の問題解決対応(意思決定)が具体的に書かれており、研究目的により合致しています。
 現段階は主として、Uボート哨戒・攻撃に当たる現地部隊の航空機稼働率・任務遂行率向上策についてのOR適用で、特にメンテナンスの問題がその鍵を握ることを突き止め、そこから参謀本部や軍団司令部に提言をする場面です。1940年代初期に“ここまでやっていたのか!”とプラント・メンテナンスの現状と比較し、感嘆しています。それもメンテナンスには素人の生物学者が!

<敵陣、ヨークへ>
 ヨーク訪問は渡英前から考えていました。他の都市にはない幾つかの見ものがあるからです。先ず城郭、次いで上階に行くほど道路にせり出す異形家屋、そのままの姿が保存されているギルドホールなどがそれです。
 第一に英都ロンドン、次いでスコットランドの首都エジンバラ、ジェフの住むブリストル、とランカスターを離れて幾つかの都会を訪ねた後は是非ヨークに行ってみたい。
 ヨークの位置はほぼランカスターと同緯度、真東に当ります。残念ながら両都市を直結する鉄道路線はありません。鉄道を使うと四角形の三辺を廻るような具合になります。そこでレンタカーで出かけることにしました。車で出かける場合、ルートと宿泊をどうするかが一番問題です。Mナンバーの高速道路は鉄道と同じようにかなり遠回りになります。しかし、途中の休憩やガソリン補給は問題ありません。ただ、今回は片道150マイル弱なのでAの幹線道路(二桁)を使えば何とかなると読み、一般道路で行くことにしました。次はホテルをどうするかです。エジンバラ旅行でご紹介したように、古い都市の中心部に在るホテルは駐車場が問題です。特に今回のように城郭都市となるとさらに条件が悪くなると予想されます。ガイドブック、トーマスクックのホテルガイド(契約ホテルのみ)などを調べると、パーキング付きは何処も鉄道駅から1マイル以上あります。しかし、よく説明を見てみると、駅からの距離が全く記載されておらずただ“Adjacent(隣接した)”とあり、庭園のような景色の中に車が止まっている写真が目に付きました。ランドマークや駅からの距離を記載していない場合、普通は都市周辺の郊外ですが、これはそうでもなさそうです。そこでトーマスクックへ出かけ確認したところ、確かに駅の隣なのです!「車が駐車している写真があるが、長時間大丈夫ですかね?」 直ぐ電話でホテルに確認してくれ「大丈夫だそうです。ただし一日10ポンド加算されます。予約は不要で、着いたときフロントでその旨話せばいいそうです」 直ちに予約したのは言うまでもありません。因みに、ランカスター周辺での長期駐車料金は一日5~7ポンドですから、ヨークのような大都市で駅隣接となれば極めてリーズナブルな値段です。
 当日は晴れ。気持ちの良いドライブが出来そうな天気です。本来ならば19日(土)に受け取ることになっていたホテルのバウチャー(利用券)も借り出す予定レンタカーも、あの洪水トラブルで、この日の朝受け取りになりましたが、比較的近くへ出かける気安さもありそのことは全く気になりませんでした。気になるのはあの“市民税督促状”だけです。
 レンタカー屋(Avis)は中心街の北辺を通るA683沿いにあるので、今日のドライブには好都合です。ヨークへのルートはこの道を東北東に向かい、イングランド北部を西北から東南に横切る幹線道路A65へ出てそこをしばらく南東に走り、東西に横断するA59を東に向かえばヨークに達します。このA65からA59の道路は、ヨークシャー・デイルズ国立公園内を通るので、A65と並行して走っている観光鉄道として人気のあるセトル・カーライル線と交わったり、見慣れた牧草地帯を離れ一帯に鍾乳洞が数多く点在する、石灰岩がむき出す丘陵地帯を走ったりするドライブを楽しむことが出来ます。今回は立寄りませんが、この観光鉄道には19世紀に出来た、荒涼とした大地を貫く長大な石造りのリブルヘッド陸橋があり、その辺は我が家から片道1時間位のドライブ圏です。
 A59は西側からヨーク中心部に達しており、南北に走る鉄道を陸橋で横切り、線路に沿って北へしばらく走ると駅へ出ます。この駅の北側に、駅舎と隣接して建っている石造りの建物が今夜の宿舎“The Royal York Hotel”です。通りを隔てた向かいには城壁が続いています。道路から左折するホテルへの道は遮断機がありそこから中はホテルの敷地です。広い庭園があり、緑と花々が見事です。あの写真の通り、庭園の周辺が専用駐車場になっているのです。“こんな立派なホテルだったんだ!”これが第一印象です。気楽な一泊旅行を考えていたので、カジュアルの着たきりすずめです。チョッと気後れがしました。石段を数段上がって中へ入ると天井が高く、床には絨毯。駅に隣接しているにも拘らず、人の出入りも殆どない静かなロビー、上階へ通じる幅広い階段にも絨毯が敷かれています。古き良き時代の、映画に出てくるような雰囲気です。そのロビーに半円形に突き出したフロントでバウチャーを示すと、チェックインの時間(2時)にはかなり早い到着にも関わらず全て準備が出来ており、「お部屋はファーストフロアーです。お荷物お持ちしましょうか?」とキーを渡してくれました。「いや荷物は自分で運びます。(でもファーストフロアー?いくら身なりがこんなだからと言って一階はないだろう!;よく英国でやる間違えを、一瞬雰囲気に飲まれてしてしまいました。皆さんご承知のようにこれは2階のことですね)」
 部屋は残念ながら庭園側ではありませんでした。これは身なりではなく、料金の一番安い部屋を頼んだのでそうなったのでしょう。室内は外見と同じで、中々今どきの新しいホテルにはない天井の高い、広さも十分、静かな部屋で、バスルームの広さなど通常の3倍くらいスペースがあります。今まで私が英国で泊まったホテルの中で一番素晴らしいホテルと言っていいでしょう。値段も他の四つ星ホテルと変わりません。このホテルは日本の観光ガイドブックに出ていませんが、場所・つくり・サービス・値段いずれの面からもお勧めです。


2)城郭都市 城郭都市、それは日本には存在しない、しかし大陸には至るところに存在する都市です。そして英国にもこのような都市があります。確かに日本にも城郭はありますが、それは“城を守る”ためのものです。町全体を、市民を守るものではありません。この違いは、多分我われが同民族としか争わずにやってこられたからだと思います。異民族による、皆殺しの恐怖に無縁だった民族と言うのは世界でもそんなに存在しないでしょう。我われの安全保障感は、このような稀有な歴史によって出来上がっているのです。万里の長城は巨大土木工事ではなく、異民族支配の恐怖感を集積・具現化したものと言っていいでしょう。
 「The history of York is the history of England」は、ヨークを紹介するガイドブックにしばしば引用される、ジョージ6世の言葉です。ローマから始まり、ヴァイキング(ノルマン、ディーン)、サクソンの侵入をうけ、混血・同化していった歴史、スコットランドとの戦い、スペイン王位継承問題に発するフランスを舞台とする100年戦争、それと跨るランカスター家とヨーク家同族相争うばら戦争(30年戦争)、オランダから乗り込んできたウィリアムズ公。ヨークはこれら全てと深く関わってきた都市であることを、この言葉が物語っています。英国の城郭都市はここ以外にもありましたが、現在も町を囲む形で残っているのはこことチェスターくらいでしょう。カーライルは城砦(城郭の主として角の部分;Citadel)だけは立派なものが残っていますが、壁の部分はありません。戦いの歴史を刻んだ壁を歩いて、その城郭から来し方を偲んでみたい。これがヨーク訪問の大きな動機のひとつです。
 トロイの馬を引き合いに出すまでも無く、城郭都市の防衛力は相当なものです。オスマントルコが東ローマ帝国の首都、コンスタンチノープル(現イスタンブール)を陥すのにどれだけエネルギーを使ったか、攻城槌、大砲、地下道これだけで一つの小説が書けるほどです(塩野七生:コンスタンチノープル陥落)。近代ではナチスドイツ軍は、その眼前に迫りながら、ついにレニングラード(現サンクトペテルブルク)を陥とせませんでした。城郭が市民を守ったのです。
 壁の内と外には隔絶した別世界があります。微かな記憶は、出生地満州の新京(現長春)で母に連れられて行った“城内”です。日本人が造った新京は高粱畑を切り開いて出来た近代都市でしたが、城内はそれ以前からの中国人の町です。灰色の石(レンガ?)を積み上げた城門や城壁があり、中国語が飛び交う喧騒で猥雑で活気のある別世界でした。
 城郭と関連して内と外を分ける言葉に“ブルジョワ”があります。欧州大陸の都市によくある、ブール、ブルク、ブルジュなどの付く都市は“城郭都市”を表わしています。そして城郭内に住む人をフランス語でブルジョワと言うのです。城内に住めない農民や貧しい人々が起し“ブルジョワを倒せ”と叫んだのがフランス革命です。
 ヨークの城郭はかなり残ってはいるものの、主要な道路はこの城郭で遮断されることも無く、一見内外は一体化した町のように見えます。北東の切れ目から城郭の一角に取り付きその上を反時計方向に歩いてみることにしました。城だけを囲む城壁は何ヶ所かで歩いていますが、町全体は初めてです。通常城だけを囲むものは、通路幅がかなりあり外に向かった壁は凹型を連ねた形状で、隙間から矢を放ち、石を落とすようになっています。内側にも胸の高さくらいの壁があり所々に内部に下りる階段があります。しかしこのヨークでは外側は同じ形態ですが、通路幅は狭く、内側には本来壁や柵はありません。この上を歩く人の安全を考え鉄製の柵が後世(それもかなり最近)設けられているだけです。場所によっては行き交う場合、どちらかが立ち止まる必要があるくらいです。幅が広い所では今でも内側の柵が無い所もあります。一朝有事の際あまり機動的な防御策を講じられない感じがします。壁の要所には城砦があるので、守りもここを中心に行われるのかもしれません。城門(Barと言います)の部分には階段があり一旦地上に降りる必要のあるところや、上にも通路のあるものなどがあります。高さは概ね10m位、周辺は緑地になっていますがややV字を成している所もあり、堀が在ったのではないかと推察します。町なかをウーズ川とフォス川が流れていることから、これらを利用できたのではないでしょうか?現在は3ヶ所で壁が途切れていますが全長は4.5kmあります。
 ほぼ◇型の城郭を東北辺の真ん中辺りから取り付き北西に向かい、北の角から南西に歩いて西の角を曲がり南西辺の途中までを、二度に分けて歩いてみました。およそ全体の半分くらいでしょう。内と外の違いは一見はっきりしませんが、よく見ると分かってきます。外側には近代的な建物の多いこと、家並みが整然としている一帯が散見されること、また地上を歩くと外は建物のつくりがヴィクトリアン・ジョージアン以降の形式で、城内に多数見られた、一階は石積み二階以上木組みのような建物が無いことなどです。ただ、古いものが城外に全く無かったわけではなく、古い教会の廃墟が壁のすぐ外側に在るところをみると、かなり古い時代から壁の外にも人々の暮らしがあったことが予想されます。敵が攻めてきた時は城内に逃げ込んだに違いありません。西角(ランカスター方向)の城砦に立ったのは夕方でした。この城壁の上をジョギングしている人がいます。600年前リチャード2世(ヨーク家)に反旗を翻したランカスター軍の襲来を告げる伝令も、彼のように城壁を駆け抜けたのでしょうか?

1)ヨーク観光
 “敵陣”を語る前にザーッとヨーク観光をしましょう。チェックインしたのが12時過ぎ、ランカスターからは3時間弱です。これから5時過ぎまでの時間、昼食を含めて徒歩で主要な観光スポットは廻れます。ただし、博物館の類は入れていません。
 城壁をくぐり城内を貫くウーズ川の畔にイタリアンがあったので、そこでピッツァとビールで昼食。真っ先に出かけたのは上階に行くほど軒がせり出した建物が並ぶ、シャンブル通りです。第一印象は、写真で見るより家も通りも小振りだなと感じたことです。せり出し方もそれほど頭でっかちではなく、正直期待外れでした。一方で、工学的に見てこの位が妥当なところと納得もしました。途中に一軒改築中の建物があり、足場が組んであるのも、あの独特の景観を殺しています。通りの両側は土産物屋でこれには元々関心がありません。早々と通り過ぎて終わりです。
 次いで、ギルドホール(マーチャント・アドベンチャー・ホール)へ行きました。ここのギルドホール訪問のきっかけは、7月上旬、ランカスターから列車で1時間北に行った国境の町、カーライルのギルドホール訪問にあります。その際、説明員がホールを支える木組み構造を説明しながら、「ヨークのギルドホールはここの何倍もあり、見事なものです。この木組み構造と同じですが規模が違います。是非ご覧になることをお勧めします」と教えてくれたからです。実際出かけてみると、まるで大きさが違います。一階は言わばホールを支える部分と言ってよく、二階がホールとそれを囲むように幾つかの小部屋(理事長室など)から構成されています。ホールの広さは25m×15m位あります。このホール内には柱はなく、床は分厚い黒光りする木製です。これを一階で支えているのがカーライルと同じ構造の木製の柱です。ホール床を構成するスパンの長い分厚い板を支えるために、これも分厚い角材を、丁度傘の柄と骨の関係で骨が上部で東西南北に張り出しています。板や角材が交差する部分に丁寧な嵌め合い加工が施され600年も上の床、否、建物全体を支えてきたのです。一階部分も決して単なる床下ではなく、チャペルや貧民の施療施設が設けられ、その跡が保存されています。二階ホールはやや水平を欠いていますが、現在でも結婚式などに使われるそうです。
 カーライルとの共通点は、一階部分は石造り、二階から上は木と塗り壁から出来ています。石造りの多い英国の建造物ですが、この形式は時として集中的に特定の町・地域に見られます。木組み構造が表へ出て、塗り壁とコントラストをつくり、独特の模様を建物に与えるところに人気があります。実はシャンブル通りの頭でっかちも、この構造で出来上がっています。
 カーライルと大きな違いがあるのは建物の大きさばかりでなく、部屋の構造と用途です。カーライルには広いホールは無く、職種別(鍛冶屋、織物屋、皮なめし屋、肉屋、洋服屋など)に専用の部屋があり、その大きさは区々で、会議を行う時だけパーティションで区切るような職種もあります。これに対してヨークは、大ホール以外は理事たちの部屋や会議室だけで、職種別の部屋はありません。そこでこの点を説明員に質してみました。答えは明快で「ここはマーチャント(商人)・ギルドのためのものです。他の職人たちは別にそれぞれ集会場を持っていました」と言うことです。答えは明快でしたが、私にはむしろギルドが分からなくなってきました。中学の社会科や高校の世界史でギルドについて学んだ時、ギルドは職種組合で自分たちの職権を守るために活動したこと、またギルドが町や市の政治・行政に大きな影響力を持っていたこと等を教えられました(ロンドンのギルドホールでは現在でも市議会が開かれる)。しかし、ヨークのギルドホールを見ると(現物ばかりでなく、活動の歴史)、商人ギルドが市政を牛耳っていた様子が窺がえます。カーライルのような職人ギルドとの関係はどうなっていたのか?もしこの時代に生きていたら、多分職人ギルドの一員になっていたのでないかと想像する私にとって、何か釈然としない、課題の残る(ギルドは奥が深そうだ! OR研究のために目を通した文献の中に、戦闘機乗りと科学者の間に“Guild to Guildの戦いがあった”などと言う表現もある。面白い!もっと調べてみたい!)ギルドホール訪問でした。
 次いでイギリス最大のゴシック建築、250年の歳月をかけ1472年に完成したと言われるヨーク・ミンスター教会へ出かけました。とにかくその壮大さに圧倒されます。また、そこにある素晴らしいステンドグラスに目を奪われます。しかし、数多教会を見てきた後では仏(?)の顔も三度まで、特別関心を引くものはありませんでした。あとは観光ガイドブックに譲ります。


3)ばら戦争
 ランカスター、いやランカシャー地方に居ると至るところで赤いばらのマークを目にします。“Lancashire”と筆記体で書かれた文字の後に赤いばらが一輪描かれています。ランカシャーの公的あるいは公共的な建物や場所(主として看板の類)、車などに描かれているので自然と目に入るのです。
 Mauriceにヨーク行きを告げると、ニヤッとして「ランカスター家の奴が赤いばらを一輪ちぎってヨーク家の奴に投げつけた。するとヨークは白いばらを手折りランカスターに投げ返した。こうして始まったのが、ばら戦争だと言われている(無論冗談だけどね、と言う風に)」 Mauriceはヨークシャー出身ですが、この地に長いせいかランカスターへの思い入れが強いように感じます。こんな話もしていました「両軍和解が成って、ランカスターの教会に代表者が集まり祭事を行うことになり、そこにヨークの僧正(Bishop)が参加していた。祭事の最中天候が急変、激しい雷雨になり雷が僧正を直撃した。無論即死さ。あれは天罰だったとランカスターでは言うんだよ」と嬉しそうに語っていました。紅白対抗は日本にもある。しばし源平盛衰記を掻い摘んで説明したが、何処まで通じたことやら分かりません。
 源平合戦とばら戦争の違いは、源平が頼朝・義仲・義経間の争いが有ったとはいえ、平家と源氏と言う家系を異にする氏族間の闘争であったのに対し、ばら戦争は同族相食む戦いだったことです。きっかけは、イングランド王リチャード2世がフランスとの100年戦争を戦っている時、日頃うるさい叔父のランカスター公が亡くなり、その嫡子(つまり従兄弟)の領地を取り上げようとしたことから始まります。これから二転、三転、この間フランスとの戦いも入ってきます。30年戦争と言うのはこれからしばらくして、ヘンリー6世(ランカスター家)とヨーク公リチャードが戦端を開く1455年のセント・オールバーンズ(ロンドン北西郊外)の戦いから、1485年のランカスター派のヘンリー・テューダ(ヘンリー7世)が天下をとり、チューダ王朝を開くまでを言いますが、とにかく骨肉相争い血みどろの戦いが続いた時代で、シェークスピアはこれを基に「リチャード3世」を書いています。
 そんな訳で、“俄かランカスター派”の私としては、ヨーク訪問は敵陣初見参と言うことになります。行ってみて分かったことは“格が違う!”と言うことです。人口は4万4千対18万で約4倍ですが、町の賑わいや建物の風情にはそれ以上の格差を感じます。教会や鉄道は比較になりません。むろんホテル・観光名所もです。残念ながらヨークの圧勝です。ロンドン、エジンバラやブリストルのような大都会よりも落ち着き、“ここなら一人で長く暮らしても良いな”と思わせる町でした。この寝返りは正真正銘のランカスター派、Mauriceには内緒です。

5)国立鉄道博物館 長らく万世橋に在った交通博物館は閉鎖されましたが、元国鉄大宮工場跡に建設中の“鉄道”博物館が、いよいよ今秋10月開館します。京都の梅小路機関車館同様、ターンテーブル(転車台)を中に何台もの機関車が並ぶようです。今から楽しみです。
 子供は誰でも乗り物が好きです。小学生時代は鉄道技師が夢でした。父方も母方も全く理系がいない家系ですが、母方の遠縁に鉄道省(後の運輸省+国鉄)の技師が居たようで(その人は早世し、話が出ている時には既に故人だった)、母や叔父・叔母が、別世界の人間を語るように、その人の現役時代の話をしてくれたのが大きな理由のような気がします。もう一つは、終戦直後の乗り物で、唯一まともなものは鉄道しかありませんでした。飛行機は製造も運用も全面禁止。自動車は木炭で動かすバスやタクシーくらいで、アメリカ軍の軍用トラック(子供達は“十輪車”と呼んでいた;前輪が2、後輪は2軸でそれぞれダブルタイヤなので8)の前では情けないくらい非力でした。そんな中で、戦争の影響で排煙板の一部が木製のものまでありましたが、ダイナミックな蒸気機関車に、敗戦のどん底状態から我われの未来を切り開いてくれる力強い救世主を見たのです。鉄道技師になろう!
 小学校5年の時、豊かな友人がOゲージ(線路幅:32mm、3線レール;本物の電車のように架線から電気を取れないので)の模型を買ってもらいました。電気機関車を、0~20ボルトの変圧器を切り替えて動かすこの模型に心を奪われました。自分の模型が欲しい!電気機関車は金属製でとても高価で買えません。むろん自作など無理です。
 “鉄道模型趣味”と言う雑誌があります。ある時、そこに当時の標準電車モハ63型の手作り記事を見つけました。床と屋根は木の板で、側面はボール紙で作ります。金属部品(モーター、台車、パンタグラフ、連結器)は出来合いのものを購入せざるを得ません。本を買い、図面を引き、板を削って床や屋根を作り、ボール紙をかみそりで切り分け、小遣いを貯めて金属部品を買い、当時デヴューし立ての湘南電車カラー(オレンジとグリーン)に塗って完成させたのは6年生の夏休みでした。それを友人宅のレールの上で走らせたときの感動は今でも忘れられません。休み明け、この話が受け持ちの先生に伝わり、学校にその電車を持ってくるように言われました。都美術館で開かれた、東京都夏休み作品展に学校代表として出品されたことは、小学校時代の誇らしい思い出です。交通博物館通いはこの時代から始まったのです。
 中学時代に講和条約が諸国と結ばれ、日本の空が帰ってきました。鉄道技師の夢は航空技師に変わります。大学入学までこの志は変わりません。大学に入ると取り敢えずまた模型復帰です。ただし今度は飛行機のソリッドモデル(木製で50分の1の細密模型)です。当時関東地区で最もレベルの高かった、東京ソリッドモデルクラブのメンバーになりました。このクラブの月例会は交通博物館の会議室で行われ、お互いの作品を持ち寄って講評を行います。メンバーは中学生、板前、造船工学の教授まで種々雑多で、落語の小金馬師匠もメンバーでした(彼は当時まだ珍しかった外国製のプラモデルが中心でした)。博物館の何周年目かの区切りに、我われのクラブでソリッドモデルによる“日本航空発達史”をやることになり“白戸35型”と言う複葉機を出品したのも、この博物館に関わる懐かしい思い出です。
 秋霜五十余年、この博物館が発展的に閉館され、新しい“鉄道”博物館として鉄道技術のメッカとも言える大宮工場跡に建設されると聞いた時、この敷地の選定の他にもう一つ快哉を叫びたかったのは“交通”でなく“鉄道”とした点です。私もこの種の博物館が好きで、機会があれば仕事の合間に訪れてきました。しかし、あれもこれもはどうも好きになれません。その代表的なのが“科学博物館”です。基礎・応用、物理・化学・生物・地学・考古学、なんでも在りは何も印象に残りません。技術の体系や発展を理解するには、焦点を絞ることが鍵です。敗戦という大きなハンディキャップを負い、目ぼしい展示物のない日本で“航空博物館”をつくっても遊園地と大差ありません。ワシントン・ダレス空港に隣接して(と言っても空港からは徒歩ではとてもいけません)新設された航空博物館は大型格納庫2棟にコンコルドを含む実機が何十機も系統的に展示されています。こうなれば別です。自動車博物館は日本に限らず、“収集館”で体系的な理解はできません。船はドン柄が大きく、数も限られます。しばらく人気があってもやがて氷川丸の運命です。
 日本の鉄道技術は英国から多くを学び、独自の発展を遂げ、世界のトップランナーの位置にあります。系統的に理解できる現物も数多く残っています。また、鉄道はもっとも身近に感じるダイナミックな道具です。数多く・多種のファンが居るのも、鉄道に比肩するものは無いでしょう。模型あり、実物あり、乗車体験あり、時刻表あり、全線乗りつぶしあり、運転経験あり、収集あり、写真あり、何でもありです。
 世界最大の鉄道博物館(The World’s Largest Railway Museum)に行ってみたい。実は、これがヨーク訪問の最大の動機だったのです。

 さて、ヨークにある国立鉄道博物館(National Railway Museum:NRM)です。通常英国ではこの種の博物館は王立(Royal)が多いのですが、ここはNationalです。理由はわかりませんが、何か新しさ、意気込みを感じます。“我等が鉄道”と。場所がロンドンでないのも気に入りました。ヨークは古くから、北部イングランドにおける鉄道の要衝で、最盛期はここを中心に網の目のように路線が走っていました。現在はかなり整理されていますが、依然として東北部の要であることは変わりません。博物館の位置はヨーク駅の西側、私が泊まったホテルと駅を挟んで反対側になります。駅から歩いて5分、便利な場所に在ります。80年の歴史がありますが、当初はLondon & North Eastern Railwayの、引退した機関車の保存から始まりその時は別の場所にありました。1970年代に現在の場所に移り、1990年に大幅な拡張をしています。現在の博物館はレールが実用線と繋がっており、そこへ一部の機関車を引き出し、走らせることも出来ます。入口はモダンなガラス作りの最新部分にあり、嬉しいことに入口上の各国語で書かれた“Welcome”の中に“ようこそ”とひらがなの表記があります。日本の“鉄ちゃん(鉄道ファン)”が数多くやってきていることを物語っています。入場料は無料ですが、寄付や維持会員を募っています。
 館内は大別して四ヶ所になります。グレートホール、ステーションホール、ワークスそして屋外です。屋外は遊園地的なもの(特別な日に、ロケット号などを走らせることもあるようですが通常は遊園地です)ですから私の関心外です。
 先ず、グレートホールへ。いきなり世界初の蒸気機関車、スチーブンソンの“ロケット号”と世界最速蒸気機関車記録を持つ“マラード号”です。ロケット号はレプリカですが、動かすことが出来ます。マラード号は本物で、1938年(まだ私が生まれる前)時速126マイル(202km)を出した流線型の機関車です。ライトブルーに塗られた車体に蒸気機関車のイメ-ジはありません。そしてこの2台のスターの左側に、何と開業時の新幹線“ひかり”の先頭車両がありました!晴やかな場所です。この博物館の基本コンセプト(勝手な想像ですが)は“英国の蒸気機関車が世界を変えた”です。蒸気機関車こそ近代文明の原点、古き物を尊ぶ英国人の国民性をこの博物館も確り受け継いでいます。そこに“電車”が置かれているのです。もちろん鉄道博物館ですから電気機関車やディーゼル機関車も展示されています。しかし、これだけ目立つ所には置かれていません。主要な展示物には専任の説明員が居て、適当な人数が集まると説明をしてくれます(個人の質問も大歓迎、質問を待ち構えている感じです)。新幹線にはその専任者も居ます。中まで入れる車両が少ない中で(機関車が多いので必然的にそうなる)、“ひかり”はその点でも人気があるようです。公式ガイドブックの“グレートホール”のページは、見開きを“ひかり”が占め、若い女性がそれを見上げています。教え子がここまで成長したのか!
 奥へ移動すると、蒸気機関車の実物カットモデル(内部が分かるように一部をカットする)がありました。炭水車の石炭・水から始まりやがて蒸気が生成され、それがシリンダーに導かれ、動輪を動かすまでをナンバリングして解説しています。父親が幼い子供にそれを説明しています。非常に上手く出来ているので子供も納得顔です。別の機関車は下へ潜り込む通路があり、普段見えない下側の構造を知ることが出来ます。
 更に奥へ進むと、ターンテーブル(転車台;蒸気機関車の頭の向きを変える装置。時間によって実際に動かされる)があり、これを囲んで迫力のある機関車が多数顔をこちらに向けています。その迫って来るような感じは大人でも圧倒されます。お互い邪魔にならぬよう、おじさん達が気を配りながらシャッターを押しています。
 グレートホールだけで3,40両の車両(主として機関車、それも蒸気)が展示されています。丁寧に説明を読みながら、場合によって説明員(グレートホールだけで6,7人居る)に更に詳しく説明を求めれば、ここだけで最低半日は必要でしょう。
先を急いで、第2会場のワークスに行きます。“ワークス”とは工場のことです。これは今まで他の乗り物博物館を含めて見た事もない、ユニークで素晴らしい展示場です。何とあの“フライング・スコッツマン(空飛ぶスコットランド人;F-1ドライバーのジム・クラークもこう呼ばれましたが、本家はこちらの機関車です)”の解体整備を行っている場面を、回廊から見下ろすのです。バラバラになった機関車を見る機会など先ずありません。クレーンや工作機械が動き、一部の作業は実際に行われます。大人も子供もありません。皆“職人のそばにアホ三人”の体です。私もその中の一人になりました。
 ワークスは巨大な倉庫に繋がっています。車両部品、信号機や転轍機、保線工具、車両や船舶の模型、鉄道員の各種制服、そのボタンや記章、雑然といろいろな物が置かれています。見せるための工夫は欠くものの、倉庫らしさがそれなりに臨場感を与えてくれます。“3百万個のコレクション”の大部分はここにあるに相違ありません。
 最後はステーションホールです。ホームが三つあり、真ん中のホームは一段と広く造られています、その他にも引き込み線があります。そこに数量編成の客車が停まっています。これをホームから見学するのです。むろんただの客車ではありません。引込み線を除けば、全て王室専用車です。実際に使われたものが展示されているのです。ヴィクトリア女王、ジョージ6世などの専用車です。窓越しに見るだけですが、鉄道移動中の過ごし方が垣間見られなかなか面白い企画と感心しました。
真ん中の広いホームはカフェテリア形式のレストランです。ここでスープとロールパンの軽食を摂ったのが1時近くです。10時の開館と同時に入館しましたから3時間の見学です。本来なら一日かけても良い場所ですが、翌日はあの“市民税督促状”でしたから、後ろ髪を引かれる思いで帰路につきました。

 白ばらのヨークは、源氏の白と好一対です。義経号、弁慶号、静号は、嘗ての交通博物館のシンボルでした。多分これらは新しい博物館でも中心的存在になるでしょう。西のヨーク、東の大宮といきたいところです。
 新しい鉄道博物館も、ターンテーブルが設けられ、それを囲む形で車両が展示されるようです。大宮工場の在ったところですから実用線への接続も可能なはずですし、工場を再現するにも最適の場所です。何も真似をする必要はありませんが、単なる展示場ではない、子供から専門家まで楽しめる、日本を代表する博物館になり、海外からも見学者が多数訪れ、日本の鉄道技術とその高度な利用状況を知ってもらえる場所になるよう願っています。

 ヨークを訪れて良かった!敵陣は笛陣となりました。

後日談
 ヨークから帰り、Mauriceの部屋を訪れると、「ヨークはどうだった?」「いろいろ面白い所があったが鉄道博物館が一番だね。あのマラード号の実物には感激した」「(壁に飾った古いポスター(額入り)を指差しながら)この機関車はマラードと同じ物さ。あの博物館で買ったんだ」「鉄道も好きなんだね!」 彼は経済史が専門ですが、一時期英国の鉄道経営史を研究しており、著書も書いていました。マニアではなく本物でした。恐れ入りました。

以上

2008年12月6日土曜日

滞英記ー12

Letter from Lancaster-12
2007年8月11日

 当地もやっと明るい日差しと気温が、夏らしさを感じさせるようになってきました。機会が無かった半そでのポロシャツを着て本報告を書いています。現在の最大のニュースは口蹄疫です。人口が6千万人に対し、羊2千3百万頭、牛1千万頭、豚5百万頭、主食が肉の国ですから大変なことです。それも動物保健衛生研究所が発生源と言うことで政府も対応に大わらわです。ブラウン首相は就任以来、テロ、洪水そして本件と対応に休まる間もありません。英国人の評価は、知識人とほとんど交わる機会が無い私に今ひとつ分かりまりませんが、TVで観る限り、先頭に立ち問題に取組んでいるように見受けられます。派閥のお神輿に乗っているだけの、日本のトップとは大違いの印象です。このリーダシップもあるのかスーパーの食肉売り場はそれ以前と何ら変わりません。
 本レポートは時々お断りしているように、自分の滞英記録を兼ね、何とか単なる週報でなく“英国”を理解するテーマを選びながら書いています。その点では、“旅”はいくらでも材料を提供してくれます。しかし、研究テーマは<ORの起源>、<指導者の意思決定>、更に<この二つの関係>にあるので、単なる紀行文にならぬよう心がけています。
 今回はこのところ続いた旅の報告から離れ、異変続きの旅から自宅に帰着し開いた郵便受けから話を始めます。<市民税督促状来たる>です。これと関連して、この国における社会人としての<身分と信用、そして仲間>の2編で今回の報告をまとめました。

 研究の方は、先週Mauriceから薦められ、彼が大学図書館から借り出してくれた「O.R. in World War 2-Operational Research against the U-boat-」と言う本を読み始めました。当時沿岸防衛軍団(Coastal Command)でブラッケットと伴に対Uボート作戦へのOR適用に従事した、Waddingtonと言う生物遺伝学者(CBE;Commander of British Empire;Knightに次ぐ勲爵士)がまとめたものです。オリジナルは終戦直後に書かれましたが、冷戦で出版を禁じられ、1973年ようやく日の目を見たものです。今まで目を通してきた本に比べ、数式なども多くそれが機密に関わることは確かでしょう。相当歯ごたえがありそうですが、書き出しから引き込まれています。防空システム(主役は戦闘機軍団)から始め、その実績を踏まえた横展開の第一段階がこの対Uボート作戦です。私の研究もここから第2段階に入ります。

<市民税督促状来たる>
 歴史的洪水の中を一日遅れでやっと戻った夕方、家に入る前にフラット入口に在る郵便受けを見てみました。ジャンクメールが投入口まで溢れています。その中に茶封筒が混ざっていました。“やっと何か来たな”と思い部屋に落ち着くと直ぐ開いてみました。それは予想に反し、市役所からの市民税督促状でした。
 “やっと”の背景は以下のようなことです。5月に不動産屋と契約した際、担当の女性が「契約が出来たので、直ぐ入居通知を電力会社、ガス会社とCity Councilに送っておきます」と言うので「支払い方法はどうなりますか?(この時はCity Council(市役所)よりは電力・ガス代が頭にあった)」と聞くと、「四半期ごとに支払うことになります」との返事がありました。3月末、6月末、9月末、12月末と言うことです(水道代も同じですがこの時はその話は出ませんでした。また電話代は一ヶ月単位です)。“やっと来たか”と待っていたのはこれらの支払い請求書と市民税の“納税領収書”でした。
1)市民税
 6月初め市役所から封書が来ました。6月から来年3月までの市民税(州を含む地方税)の支払い税額通知です。税額は各月と総額が示されています。裏には支払い方法が各種記載されていますが、銀行振り込みを勧めており、その部分だけは少し詳細な説明があります。月額納税額は121ポンドです。短期滞在者でもごみの収集を始め、見えないサービス(道路のメンテナンスのような)でお世話になっているわけですから税金を払うことは納得です。
 二つの点で疑義があったので、タウンホールへ出かけました(行政機関としての市役所は;City Council、建物としての市役所は;タウンホール)。二つの疑義とは、第一は;ビザ無し入国なので滞在は6ヶ月限度、10月中旬に帰国するため何月分まで納めなければならないかと言う点、第二は;短期滞在者扱いで銀行口座が開けないのでどのような支払い方法が適当か、です。
 タウンホールは以前ご説明した、川中島型市街中心の直ぐ外側、東側にあり実用に供されている建物では市内で一番重厚な雰囲気を持ったものです(これ以外にはお城と修道院がありますが)。ファサード(正面玄関)は英国人の好きなパルテノン風、階段を上がった入り口左右には戦闘斧が一対に立てかけられています。これは9時に出され、3時に終われます。諸事務の受付はこの時間までです。
 日本での経験から、入口に受付があり、そこで指示され税務課のような所へ行くことを予想しましましたが、玄関ホールに入ると左側にカウンターがありその中に数人の黒いスーツを着た女性がいました。ホールの右側にはコの字型に椅子が並べてあり真ん中にテーブルが置かれています。順番待ちや書類照合などに使われているようです。よく見るとカウンターは単なる受付ではなく、頻繁に相談者が来ると思しき用件の対応場所でもあるのです。“Council Tax”は確りここにありました。比較的空いており、直ぐに中年の女性が対応してくれました。来訪の趣旨、身分などを説明し、第一の疑義について質したところ、即座に「分かりました。では9月分の支払いまでしてください。それが納税されたら再度ここへ来てください」と明快に答えてくれました。第二の点については、郵便局で支払う方法、インターネットで支払う方法を簡単に教えてくれました。インターネットの市役所ホームページ(HP)は支払い請求の書類に記載されており、そこへアクセスし、納税者番号とクレジットカード番号を入力するだけでよいとのことでした。「簡単ですよ!」「9月分まで纏めて払ってもいいですか?」「もちろんです」と言うような按配で市役所訪問を終えました。
 数日後(6月初旬)HPにアクセスすると、簡単に納税のページまで達しました。そこへ税額(初めてなので一括は止めて、6月分のみ)を入れ、クレジットカード番号を入れて先に進むと“Accept”と出てきたので、この画面をコピーしてMSワードに貼り付けました。これはプリンターを持っていないため、何かあったときの証拠として保存したわけです。これで完了。実際の支払期限は7月1日ですが早々と納税したわけです。
 7月中旬からこの納税に対する何らかの通知が、電子メールか郵便で来るはず、と待っていたところへ来たのが督促状だったわけです。「何だ?これは!」
 督促状には、「貴殿は未だに6月分の市民税121ポンドを納税していない。ついては7月28日までに納税すること。もし納税せず、さらに一週間が過ぎると、年額相当を一括払うことになるのでご承知おきを。もし、一括納入が不能の場合…。本件に不服のある場合は…」とあります。再度「何だ?これは!」です。
 ブリストルから帰ったのが21日(土)、22日は日曜日。23日(月)から24日(火)にかけヨークへの旅行を入れてあったので、出かけられるのは25日(水)しかありません。

当日朝直ぐにタウンホールへ出かけました。残された日にちは僅かです。玄関入口に立てかけられた戦闘斧が、今にもガツンと頭の上へ振り下ろされるような、悲壮な気分です。朝一番なので黒いスーツの女性職員たちはPCを立ち上げるなど準備に追われています。それでも間もなく市民サービスが始まり、私よりも先に来ていた2,3人が相談に入りましたが簡単に済み、10分もしない内に私の番が来ました。今回は若い女性です。「おはようございます。ご用件は?」「実はこれが届いたもんで」と督促状を示すと、ニッコリしながら(あなたもこの件で来たのね?)と言う感じで対応してくれました。「HPにアクセスし、6月上旬に払ったつもりですが、初めてなので何か不都合があったかも知れません。そちらのコンピューターに何か残っていないでしょうか?」「(画面をチェックしながら)何も記録はありませんね」「こちらは証拠を残しておいたんです。納税の最後の画面を。ここでPCを立ち上げさせてもらってもいいですか?ハードコピーのシステムが無いもんで」「どうぞ」 カウンターは水平で無くこちらに向けて傾斜しており、傾斜面には案内などが書かれています。他の荷物を持っているとPCの操作も覚束ない。彼女が他の荷物を預かってくれる。やっと画面が出たのでPCを渡すと「ウォ!」とビックリ。無理も無い。画面はHPの最終ページをコピーし、これをMSワードに貼り付け、そこに日本語で私がいろいろコメントを書き込んだものだったからである。「すみません。納税画面のほかに私がコメントを書いたものです。このHPの画面をみてください」「アーァ これね!あなたこの後4桁のコード入れましたか?」「エッ!?何ですかその4桁のコード?」「暗証番号よ。こちらから通知するの。それを入れて納税が完了するのよ」 “ガツーン”戦闘斧が振り下ろされた瞬間です。「(チョッと嘲笑気味に)簡単だから家に帰って直ぐやってみて」「いや これから郵便局へ行って払ってきます。郵便局での支払いはどうすればいいんですか?指定の用紙か何か必要ですか?」「何にも要らないわ。最初にお届けした納税請求通知書があるでしょう(持参していたのでそれを見せる)?このバーコードのところを“ピッ”とやるだけ。簡単よ!グッドラック!バイバイ!」 
2か月分(7月分も合せて払うため)の現金をATMで引出し、郵便局で現金と通知書を出すと“ピッ!”。1000ポンドを超える追徴税、戦闘斧の一撃を辛うじてかわした一瞬です。
2)英国の個人税 不動産に関わる税や相続税のように、私には関係ない税金は別にして、この市民税を始め所得税や消費税はどうなっているのでしょうか?当初の渡英計画では、1年滞在のビザを取得し本格的にこちらで市民生活を送ることになるので、一通り税金に関する情報収集をしました。当地へ来てからも折を見てこの問題を聞いてみたりしています。正確な実態把握が出来ているわけではありませんが、大よそ理解していることを整理してみます(このメールをお送りしている方には、英国在住経験者もいらっしゃいますので、間違えがありましたらご指摘ください)。
①市民税(住民税)
 私の税額はどう決まったんだろう?適正なのだろうか?日本では住民税は所得の確定申告に基づいて算出され、5月の終わり頃通知が来ます。このルールだと、私の場合英国では所得が無いので算出ベースがありません。色々調べてみると、どうやらここの住民税の算出基準は、居住地域によって決まるようです。日本の固定資産税の算出法と類似しています。
 額については、自分でもここに住んでそれなりの見返りを期待するならこれくらいは仕方が無いのかな?と思っています。しかし、その見返りについては十分それを享受できていないのではないか?とも思っています。たとえば市内を走るバスのみならず、鉄道もシニア割引(市内のバスは高齢者は無料)あるようで、その資格取得がよく分からないため、一般の料金を払ってこれらを利用しています。これはブリストルを訪ねた際、ジェフから「一つ言うのを忘れていたことがある。鉄道は往復買ってしまったか?シニア割引が適用できるはずだったんだ」と言う具合です。市内バスの方はどうやら一定期間以上居住している人に与えられる証明書のようなものが必要で、皆さんそれを提示し、乗車券を発券してもらっています。Mauriceに始めて会った時「昨秋65歳になったのでバスの無料パスを持っているんだ」と嬉しそうに語っていました。バス会社はこの発券に基づいて、しかるべき収入を得ているのでしょう。
 具体的税額(月額約3万円)について最近Mauriceに話したところ、「リーズナブルだ」と言っていました。
②消費税(付加価値税;VAT)
 17.5%です!とんでもなく高いです!ただし、食料品は無税です!VAT導入時には、食料品の他に、燃料代、電気料金、子供の衣服も無税(VAT適用外)だったそうですが、電気料金は環境問題対応から8%、17.5%と引き上げられ、現在は他の物と変わりません。燃料代はガソリンに関する限りVATはありません。しかし1リッター約1ポンド(250円!ただしこれは為替レートのマジックで、生活感覚に基づけば180円位の感覚です。それでもガソリン代はかなり高いですが)もするところから、日本のガソリン税に相当するものが高い割合を占めていると考えられます。二重課税をしないと言うことでしょう。子供の衣服は無税のままのようです。
 “ゆりかごから墓場まで”福祉政策に優れた国だからこんなにVATが高いのかと思うと、これは英国だけが突出しているわけではなく、欧州の主要国家は概ねこのようなレベルにあるようです。
③所得税 VATでお金の流れの出口を確り抑えて税金を取る。日本の入口主義(所得ベース)とは全く逆に見えます。それでは英国では所得税はあるんでしょうか?もちろんあります。低所得の非課税限界がどれくらいか分かりせんが、40%と23%(多分)の2段階です。この境界値も掴んでいません。
 このようなシンプルな2段階方式になったのはサッチャー政権からで、それ以前は日本同様累進的にもっと多くの区分に分かれていたようです。サッチャー首相は、経済の活性化の鍵を富裕層の消費・投資意欲にあると考え、税金の“フラット化”を掛け声に2段階にしたそうです。制定当初は40%と25%でしたが、25%側は何度かの修正で現在は23%のようです。支出側(経費)をどこまで認めているのかも全く不明ですが、この税率は決して低いものではありません。
 よく調べてみると、この所得税と言うのはわが国で、いわゆる所得税の他に厚生年金、失業保険、健康保険を含むものであることが分かりました。また、通常の勤労者は概ね40%が適用されているようで大変な負担である推察できます。

 出口だけでなく入口も確り抑える。これが英国の個人税制です。これで福祉国家が支えられているのです。この傾向はここ英国に留まらず、欧州先進各国に共通するもので、たくさん税金をとって“国家が個人の面倒をみる”社会を、理想と考える人達が多く存在し、しばしば社会主義を標榜する政党が政権の座につくわけです。現に英国の労働党は幅広く・根強い支持層に支えられ何度も国家運営の責務を担ってきました。英国人一人当たりのGDPが日本を超えるほど経済が活況を呈しているのは一人サッチャー女史の功績だけとも考えられません。ブレア労働党政権もこれに寄与しています。“主義だけ”が先行する日本の社会主義政党とは全く違う、地に足が着いた独自の政治理念がそれを可能にしているのです。“税金で賄えないならスーパーカジノご開帳だ!” これがブラウン労働党新政策です。自民党も民主党ももっと“税金の根本を問う”政策論争をして欲しいものです。そしてマスコミは、これを分かり易く国民に伝えてください。

<身分と信用、そして仲間> 初めてパスポートをもらった時(1970年)、葵の御紋の入った印籠でももった気分でした。“これさえあれば諸国漫遊自由自在だ”と。考えてみるまでも無いことですが、あれはただ“日本人”であることを証明しているだけで、それ以上のものではありません。“日本人だから良い人だ”とか“日本人だから信用できる”とはならないわけです。入出国管理やホテルなどではそれなりに身分を示す機能を持っていますが、外国社会で生活する上では殆ど効力はありません。随分昔のことですが、アメリカ滞在中の先輩が何かの折り「Identification(身分照明)は?」と問われたので、パスポートを見せたところそれではダメで「他のものはないか?」と再度問われたので、「これでどうですか?」と所属していたアメリカ化学工学会の会員証を見せたところ、「これで良いのよ」と言われ事なきを得たと言う話を聞いたことがあります。
 こちらへ来て一番痛切に感じていることは、自分(の身分)を相手(企業・人)に信用してもらうことです。企業に所属していた時はそれが信用になります。しかし自由人になり外国で生活しようとすると、自由であることが一番信用を欠くことなのです。自由がもっとも不自由と言う皮肉な自家撞着になってしまうのです。
 長期滞在可のビザ(例えば研究者ビザ)があれば、少なくとも日本のパスポートとは桁違いの信用が得られます。そして大学の客員研究員になっていたら、更に数等高い信用力になるでしょう。ひょっとするとそこらの英国人以上の信用力かもしれません。
 企業の一員と言うような信用力を含めて、公的・半公的な身分による信用の他に唯一ある他の信用力は“この国に銀行口座を持っている”ことです。しかし、開設のためには公的・半公的身分の証明が求められます。堂々巡りです。
 現金は信用には繋がりません(しかし、短期の問題解決には役立ちます。ただ、足下を見られるので“不平等条約”を飲まざるを得ません)。犯罪者と間違われるかもしれません。銀行口座開設審査が厳しくなった背景は、テロや麻薬ビジネス関連のカネの流れを絶つためだともいわれています。
 クレジットカードも限りなく現金に近い性格です。郵便局で税金を払う際、試しに「クレジットカードで払えますか?」と訪ねると、「クレジットカードは受け付けません。デビット・カード(銀行のキャッシュカード)はOKです」と返事が返ってきました。これも銀行口座がないと持てません。
 そんな訳で未だに、私には銀行口座はありません。曲がりなりにもここで生活出来ているのは、幸運に恵まれたとしか思えません。先ず、Maurice Kirby教授の紹介状が不動産屋では効力を発揮してくれました。電話加入では不動産屋の助けで何とかそれが実現しました。いずれも交渉初期に必ず“銀行口座はありますか?”と聞いてきました。このプロセスを辿ると、結局Mauriceの私に対する“信用”がその出発点になります。
 ビザがあり、銀行口座を持ち、税金を納めていても、この社会で生き抜いていくことの要件が揃ったわけではありません。“仲間”として認められる必要があります。
 ある会社の広報誌に対談者として呼ばれた人々を中心にしたサークルがあります。10年近く前、このサークルの勉強会が開催され、そこに講師として招かれた方の話です。当時大手商社の役員で、英国駐在中ご苦労された経験を題材に講演されました。この方のご専門は希金属(rare metal)取引で、日本人で初めてロンドン希金属取引市場正会員の資格を取得され、勇躍この修羅場に乗り込みました。しかし、ここでの取引を期待通りに行うためには、公開されている市場情報だけでは充分でなく、市場外で直接ビジネスとは関係なく仲間内で交わされる、何気ない話の中にこそ重要な情報が潜んでいることに気づきました。仲間として認められ、胸襟を開いた付き合いをしてもらうためにどうしたらいいか?考え抜いた末辿りついた結論は“シャーロックホームズの研究”です。もともと好きだったこともあり、やがて英国シャーロキアン協会の幹部もビックリするような研究成果を次々とあげ、それが取引所関係者に伝わっていきました。公的な資格だけではとても得られないような情報が、これによってもたらされ、やっと全うなメンバーとして活躍できるようになったと言うことです。
 “戦争と道楽だけは真面目にやる英国人” 本職を超えたところ・異なる分野に“のめり込むものを持つこと”は英国知識人の好む生き方です。ORもそのようなプロセスを経てモノになったと言っても過言ではありません。(因みに、彼の車で出かけたカントリーサイドのレストランで彼が打ち明けてくれた、次の研究テーマは“ウォーゲーム(兵棋演習)の歴史”だそうです。これがどう本業の経済史と関係してくるのか現時点では想像できません)
 “OR歴史研究”に対する関心が、Mauriceによって仲間として認めてもらえた主因ではあることに間違いありません。お互いに、ORそのものが専門ではありません。しかし、二人とも、私の好きな論語の一説(雍也7)「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」の境地にあるのです。
 異なる分野で生きてきた人間が、共通する関心事で時空を越えた同志となり、その中で信用が生ずるのです。法制度や組織に依存する信用に比べ、遥かに高いレベルの個人対個人の信頼関係こそ“葵のご紋章”と言えます。


以上