2013年10月8日火曜日

今月の本棚-61(2013年9月分)


<今月読んだ本>
1)ファイナル・ターゲット(上、下)(トム・ウッド);早川書房(文庫)
2)MI6秘録(上、下)(キース・ジェフリー);筑摩書房
3)住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち(美恵・マーン・川口);講談社(α新書)
4)世界の技術を支配するベル研究所の興亡(ジョン・がートナー);文芸春秋社
5)衆愚の病理(里見清一); 新潮社(新書)

<愚評昧説>
1)ファイナル・ターゲット
本欄-59(7月分)で紹介した「パーフェクト・ハンター」の作者による第2作目である。主人公が同じことから今後シリーズ化されるのであろう。今回もリアルで最後まで緊張感の途切れない、サスペンス物の秀作である。
前作同様、先ず導入部が上手い!ルーマニアの首都ブカレストでロシア・マフィアの大物を狙うスナイパー。しかしこれは主人公ではなく、アペリティフ(食前酒)に過ぎない。
前回のテーマは、演習中に事故で沈没したソ連(時代の)海軍の駆逐艦に搭載された高性能艦対艦ミサイルをめぐるCIA対SVR(KGBの後身)の戦いだった。しかし冷戦後の世界だけに、国家対国家の対立構造よりは、特定の個人やグループの野心や陰謀を絡ませ、かなり複雑なストーリー構成になっていた。主人公ヴィクターへの殺しの依頼者がCIAだったにも拘わらず、彼を狙う一匹狼の殺し屋は、英国秘密諜報組織SISの隊員で、CIAの高位者に雇われて個人的な蓄財を目的に動く男だった。つまりCIAの二つのライン、SVR、SISの殺し屋それに主人公、と言うプロットである。今回もこのような組織・ライン構成の仕組みは踏襲されている。
テーマは武器商人の縄張り争い。一つのグループはロシア・マフィア、もう一つはエジプト、シリアに拠点を持つアラブ兵器ディーラーである。CIAはこの両者を対立させ、双方を戦わせて消耗させようとする。そのためにヴィクターを雇い、そのシナリオを動かしていく。一件単純に見えた滑り出しが、入り組んでくるのは、中東の争いは究極的にイスラエルに向かうと見ているモサド(イスラエル諜報機関)がこれに絡んでくるところにある。ヴィクターはモサドとは関係なかった。モサドもヴィクターを知らなかった。しかし、ある事件がきっかけでヴィクターはモサドの工作部隊ギドラに追われることになる。ルーマニア、ロシア、ベラルーシ、ハンガリー、オーストリア、エジプト、シリア、アフガニスタンそしてアメリカと舞台は転々とする。
これを読んでいて30年位前にペーパーバックのノンフィクションで知った有名な中東の武器商人(サウジアラビア人)、カショギのことが思い起こされた。巨万の財を成した実在の人物で多分まだ生きているであろう。その本が出た後、事件の直後知ったことだが、ダイアナ妃と一緒にパリで事故死した男はカショギの甥である(今回のフランス旅行のパリ滞在中何度かそのトンネルを通過したが、とても運転ミスだけで二人も死亡する事故が起こる場所とは思えなかった)。高齢により一線のビジネスを出来なくなることを見越し、この甥を後継者に育てている途上であった。「あれは謀殺だ」との説が絶えないのも、裏ビジネスとの関わりがあったからと言うのである。とにかく各国王室・政財界に多様な人脈を持ち(のちにイスラエル首相となるシャロンとワイナリーを共有していた!)、平気でライバルと手を握り、対立する双方の国家に巧みに武器を売り付ける才覚と魑魅魍魎の世界に引き込まれた。これもその本の出版後に噂されたことだが、イランコントラ事件に関わり、湾岸・イラク戦争ではブッシュ親子と深い関係にある兵器商社の代理人を務めていると報じられたこともある。それだけに自身の機密保持・身辺警護は厳重でなかなか外部からその姿を伺うことは難しいようである。
本書でも両者が一度は手を握る交渉を始めるのだが、CIAの工作(子供のいないロシア・マフィアの親分は甥を後継者に育てていくが、取引現場で爆殺される。これをあたかもアラブ商人が行ったように見せかける)で対立に転じるところや、厳重にセキュリティ対策をとられた住居説明シーンを読むにつけ、ネタはあの本にあったのではないかとさえ思えるほどだ。
英国では第3作が既に発刊されている。日本語訳の出版が待たれる。

2)MI6秘録
この本をどう評価するか少し悩んだ。上下2巻で各巻3200円、計6400円もした。「本の価値は値段ではない」とは言っても、これはかなりの額である。購入の意図は当然、歴史を作ったスパイ・諜報工作の裏話が満載と期待してのことである。帯にも“「007」の真相がついに!”とある。“CIA秘録”や“モサド・ファイル”にはその種の面白さがあった。これらの諜報機関の範となった“MI-6(Military Intelligence 第6局)”ならばそれ以上の知られざる世界を垣間見ることが出来るに違いない。しかし、この期待は見事に裏切られた。そのことを著者は書き出しでことわっている。「諜報機関は工作の裏方。材料(情報)集めが仕事で、これを用いて料理(謀略などの工作)をするのは他の政府機関;軍や外務省である」と。
MI-6の存在は既に公知になっており、007を始め多くのスパイ・軍事サスペンスにも登場する。しかし英国政府が“公式に(法律上)”これを認めたのは何と1994年のことである。まして公文書の一部が公開されることなど一度も無かった。漏れ出てくるのは007の作者、イアン・フレミングのようにこの内部で働いていた者が語る、フィクションやノンフィクションを通じてに過ぎない。それが一転して設立から40年間(1909年~1949年)に限って情報公開に踏み切るのは、2009年がSIS(MI-6の現在の通称;Secret Intelligence Service)創設100周年に当たること、この40年が英国と世界にとってインテリジェンス活動の分岐点であること(つまり冷戦下における活動はそれまでとは異なる)、そしてそれ(1950年)以降については、「まだ公開するには危険すぎる」と、SISが考えているからである。
SISはこの情報公開を一人の歴史学者、本書の著者、キース・ジェフリー(クイーンズ大学ベルファスト校英国史教授)に委ねる。
本文に入る前に長い前書きがあり、その中で「SIS公文書館に残されていた資料は、情報そのものよりも、情報を得る過程や処理についての方が多かった」「日常的な情報は(残さず)処分するのが習慣だったようだ」「通信情報は、かなりの量の生の情報が残存していた」などとあり、残された情報からドラマが生ずるような下地が無いことをあらかじめことわっている。また、執筆上の心構えとして「第一の目的は、残っている当時の資料的記録にできるだけ忠実に物語ることだ。もしこの方法によって躍動感を損なう危険があったとしたら、それは歴史的正確さのためにあえてそうしている」とジャーナリステック手法を使わないことを念押ししている。つまり、興味本位に読む本でないことを宣言しているのである。国際謀略の裏やスパイたちの荒唐無稽な活躍を書く考えは始めから無いのだ。
内容の過半を占めるのは、政府の諜報活動関心事、3人の長官の組織運営方針、何度も問われる組織の存在意義、外交・軍事諜報部門との縄張り争い、予算獲得の苦労(秘密機関ゆえに)、情報伝達手段、それに人事である。最後の人事は、この組織の上部管理者(長官を含む)に関することと世界各地に散らばる現地管理者やエージェント(諜報員;現地人を含む)の採用・訓練などで、ここで初めてスパイの世界に踏み込んでいく。
例えば、“情報ニーズ”;設立当初(第一次世界大戦前)は“M”が示すように専ら軍事(Military)情報だった。相手国(特にドイツ)は対英仏戦に踏み切る可能性はあるのか?攻めるとしたらどこから? 戦いが始まれば、砲兵陣地はどこに?艦隊はどこに?部隊編成・戦闘序列はどのようか?戦争末期になると(ドイツとその同盟国に)休戦の意思はあるのか?誰がイニシアティヴをとっているのか?顧客(軍・外務省)の求める情報は、軍事・外交戦術・戦略に重点が置かれる。しかし、ロシア革命が起こると、大英帝国の根本である王政転覆への危機感が高まり、ロシア国内政治情勢や国内のこれに同調する動きに関心が移っていく(国内インテリジェンス活動を主管する、MI-5との棲み分け問題も生ずる)。これだけの幅と奥行きのある情報収集・分析活動を行うには人、物、金にあまりに制約が多く、顧客の期待に応えられない局面がしばしば生じ、少人数組織ゆえ、長官の手腕が問われることになる。それ故に、本書では各長官の日記や関係者の回顧録などを参照しながら“長官の人となり”を語ることにかなりの紙面が割かれている。
007では奇抜な道具がしばしばここぞというところでジェームス・ボンドの危機を救う。道具作りについてもその実態が紹介される。特に重要だったのは無線機と暗号解読である。無線機では、携行し易く、電波探知にかかり難い、信頼性の高いものを開発することの困難とその効果について、また暗号解読ではその方法論や解読器(ある種のコンピュータ)開発、さらにはこれに当る人材発掘などの苦労話が語られる。
サマーセット・モーム、グレアム・グリーン、イアン・フレミング、作家として成功した嘗ての機関員についても本書に取り上げられるが、淡々とした筆致で描かれ、彼らの作品と関連付けられるのは、MI-6存在に関する機密漏洩嫌疑くらいである(モーム『アシェンデン-英国秘密諜報員の手記』1928年刊;ロシア革命が題材)。(この他にジョン・ル・カレもこの組織に所属していたが本書では一顧だにされていない)
ここまで内容紹介してきたように、本書は著者の「第一の目的は、残っている当時の資料的記録にできるだけ忠実に物語ることだ。もしこの方法によって躍動感を損なう危険があったとしたら、それは歴史的正確さのためにあえてそうしている」通りである。
盛り上がりを欠く上・下2巻一千ページを超す大作。それでは価値は無いのか?と問われれば、答は“否!”である。小説・映画になったスパイ組織こそ在り得ないもので、本来はその情報の収集・分析者と使い手は異なる方が、ニュートラルな情報提供が出来る。そしてそれが最古の諜報組織を現代まで存続させたプロセス(組織管理の在り方)であることを本書は教えてくれた。情報システム部門に長く籍を置いた者として、これはきわめて重要なメッセージである。ITそのものの進歩と普及をまるで我がことのようにとらえ、企業経営の戦略部門と錯誤したIT組織が何と多かったことか。これからもIT部門は、刻々変わる技術・社会環境変化に対応できる地味な仕事をキチンとこなせる組織を目指すべきなのだ。

3)住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち
訪れたことも無いし、全く知人の居ないドイツに対する個人的な関心は、専ら第2次世界大戦までの軍事(兵器)技術と自動車・鉄道を主とする交通技術である。工業技術に関しては高い評価をしているが(所有するクルマはドイツ車)、国家・民族としてはあまり好きな国ではない。勤勉で規律正しいことは確かだが、独善的で人を見下す姿勢が強く(これが黄禍論やユダヤ人迫害につながる;日本の工業技術を腹の底では軽蔑している)、何か重く暗く息苦しい感じがする。独断と偏見で欧州主要国を格付けすると、伊;大好き、英;好き、仏;普通、独;嫌い、となる。
とは言え世界におけるドイツの存在感は高いし、気になる国であることは確かである。いつかはこの国を鉄道で旅し、人々に触れ、偏見を糺したいと思っている。そこで手にしたのが本書である。あの堅苦しい感じの国を、こんな軽薄なタイトルで表現しているところに惹かれた。
著者は音楽を学ぶためドイツに留学、そこでドイツ人と結婚した日本人女性である。生活の拠点はドイツにあるようだが、娘二人(と言っても成人女性)ともども滞日の機会も多いようだ。冒頭のシーンは「尖閣諸島で魚を釣ろう!」と言う催しに小さな漁船に乗って参加し、ここから領土問題・歴史問題を語る。ドイツ版ウィキペディアは1373年、明王朝時代に中国領となっているそうだ。これを放置しておいていいのか!なかなかの気骨のある人である。
アルザス・ロレーヌ地方の主権は仏・独に何度も変わっている。主権国家はその歴史教育をどのように行ってきたかを、日本の教科書に一時期(1920年代のようだ)載っていた「最後の授業」(普仏戦争に敗れこの地がドイツ領となり、フランス語による最後の授業が行われる)を例に紹介する。実は、この地方では当時フランス語は使われておらずアルザス語が日常的に使われていた。当然学校の授業もアルザス語で行われていたのだ。この話はフランスによる、かなり政治的な意味の込められた作品であったにもかかわらず、極東の地、日本の教科書にまで取り上げられ、そこが歴史的にフランス領であったかのように印象付けられたことをから、領土問題と歴史問題に関する日独の違いに言及していく。戦後のドイツはブラント首相の時代(1970年代)までポーランドとの国境を認めず、新旧国境間地帯を「ポーランド治下にあるドイツ領」と地図(学校教育用を含む)などに記していた。しかし、実効支配された土地にいつまでも拘っていては、東方との和解が進まないとの政治判断で、現状を認めることになったのだという。
この例で著者が言いたいことは「日本人の広報活動の稚拙さ」である。「日本をアピールするための短期作戦もなければ、どこに種を蒔けば、それがどのように実を付けて、いつごろ日本の役に立ってくれるかというような長期作戦もない」と批判する。しかし、一方で「世界の多くの国が、イメージのほうが実態より良いなかで、日本は、実態のほうがイメージよりも良い唯一の国といえる。ドイツにいたときは日本に批判的だったドイツ人が、日本に住むと皆、日本ファンになる」と、以下8勝2敗の各論で、この日本の良さ(ドイツの問題点)を語っていく。
最初に出るのは“フクシマと脱原発”。菅元首相もホイホイ乗ったこの主張は、ドイツ緑の党の要求を連立政権が受け入れられたことに発する。しかし、実際には問題だらけで、実現の見通しは全く見えていない。
次いで、休暇がかえってストレスを生む有給休暇制度、小学校5年で将来が決まってしまう学校教育制度、“サービス”の価値を認めない社会、EUにおけるドイツの負担増・移民問題(TPPは熟慮せよ!)などを身近な体験(ここが特に説得力がある)で紹介していく。
この本を読んで最も堪えたのは、“サービス”欠如から来るドイツ鉄道運行の杜撰さである。これは先月初め(あるいは8月下旬)日経新聞夕刊にも記事になっていた。ドイツへ出かける最大の関心事がこの体たらくでは、この国を理解する機会が失われてしまったことになる。
全体としては軽い本だが、鋭い分析・指摘もあり、ドイツの最新事情を知るための良書と言える。

4)世界の技術を支配するベル研究所の興亡
ニューヨークタイムズに定期的(5~7日毎)に書評を書いているカクタニ・ミチコ(角谷美智子)と言う人がいる。初めてこの名前を見たとき「もしや?」と思い、グーグル検索してみた。「やはり思った通り」だった。数学者角谷静夫の娘である。本欄-59(2013年7月分)で取り上げた“チューリングの大聖堂”(フォン・ノイマンとプリンストン大学高等研究所がテーマ)の中で所長のオッペンハイマーが国家機密漏洩疑惑でその地位を追われるとき、後任として推薦した一人が、不動点定理(応用数学、経済学への展開)で有名な角谷静夫である。
カクタニ・ミチコは彼の地で生まれ育っているので日系米国人、その書評は辛らつで時に物議を醸すこともあるが評価は高く、評論部門でピューリッツァ賞を受賞したこともある。その一流批評家が好意的な紹介をしたのが本書である。
電話の発明者ベルが創業したベル電話会社は創生期の小規模な電信・電話会社を吸収して、事実上の通信独占企業、AT&T(American Telephone and Telegram)社へと発展、通信システム・機器の製造会社はウエスタン・エレクトリック社(WE)、研究・開発部門はベル研究所を設立して、それぞれの役割を担うことになる。製品開発に近いところはWEにも研究開発部門があるので、ベル研は基礎研究や新技術の探査的な商品開発に特化する。
通信事業は、システムや製品規格の標準化がカギとなる。また国家安全保障とも深く関わることから、どこの国でも国営会社(日本では電電公社;今のNTT)が経営を行ってきた。州の独立性を尊び、企業の独占を嫌う米国でもこの分野だけはATTの独占が広い範囲で認められていた。ここから得られる収益は政府の厳しい監視下にあるものの、ベル研の潤沢な財源となり、最高の人材を多数集め、長期的な研究開発投資を可能にして、世界に比肩するものの無い産業技術研究所になっていく。
トランジスターの発明者でノーベル物理学賞受賞者のショックレー(3人同時受賞で全てベル研究所員だが、彼がまとめ役だったので知名度が突出)、現在のIT利用の基礎理論、情報理論の確立者シャノンなど錚々たるメンバーを擁し、優れた先端技術・理論を輩出してきた。しかし、この研究所が高い評価を受け、赫々たる実績を挙げ得たのは、研究マネージメントの質の高さにある。つまり所長や研究部門長(ディレクター)の力量である。優秀な人材の発掘、彼らの仕事のさせ方、(数十年先を見通す)研究テーマの取捨選択、ATTや政府・議会との折衝、これらこそ“世界の技術を支配する”カギであったのだ。
従って、本書ではこのマネージメント陣(歴代所長・副所長・代行者、ディレクター)の一人ひとりにかなり紙面を割いて、その生い立ち、教育過程、人柄、管理手法、経営理念を、エピソードを交えながら紹介していく。基本的には皆、技術者ではなく科学者であり天才研究者ほどではないものの、若い一時期それなりの研究実績を上げている人達である(管理だけのマネージャーではない)。それでなければ、一匹狼や侍だらけのこの組織をまとめていけない。
とは言えこの一匹狼や侍の話もなかなか興味深い。中でもショックレーのトランジスター発明者としての名声が、部下の研究成果の盗用にあることをうかがわせるくだりなど「ショックレー おまえもか!」との思いにかられる。この人は皆が認める天才なのだが、どうも心根がどこかで曲がってしまったようだ。ベル研の処遇に不満を持ち、自らの会社(半導体)を起こすものの、優れたメンバー(その中には後年インテルを起こしたゴードン・ムーアも含まれる)に次々去られ、晩年は優生学(劣性学;人類の長期的な繁栄は、最下層に属する人々の生殖活動によって脅かされる)を声高に唱え、誰からも相手にされず寂しく死んでいく。これに比べシャノンは人生をマイペースで楽しく過ごしたようだ。MITの教授に転じ、そこで情報理論を講じながら、大学のジャグリング(お手玉)クラブに属し、お手玉の数を増やすことによる手や眼の動きを解析(ジャグリングの物理学)したりしている。結果は5個のお手玉を扱えるかどうかが凡人と天才の境界だそうである。
1984年ATTの分割が始まると、ベル研でも大規模はリストラがつづき、経営は財務的な制約から近視眼的になっていく。貧すれば鈍す。WEはルーセント・テクノロジーズ社に買収され、ベル研もその下に入る。そのルーセントも事業縮小を余儀なくされ、フランスの通信会社アルカティアに株式の一部を売却、アルカティア・ルーセントとなり、嘗てのベル研はその一部となってしまう。ここには科学や学術的研究主体の往時のベル研の影も無い。英国科学誌「ネイチャー」は基礎物理研究者が4人になったことを知って『落ちるところまで落ちたベル研究所』と題した記事を掲載する。
それではマイクロソフトやグーグルがこれに代わることは出来るのだろうか?著者の見方は悲観的である。
著者はベル研の在ったニュージャージー州マレーヒル近郊(エクソンのエンジニアリング・センターも近くにあったので、クルマで前を通ったことが何回かある)で育ったジャーナリスト、ニューヨークタイムズ・マガジン誌の記者として、科学技術、ビジネス、経済などを担当、この作品を書き上げるのに10年を要している。ハードカバーで500ページ近い大冊だが、理系でなくても先端技術研究開発の難しさ・面白さを充分堪能できる本である。

5)衆愚の病理
臨床医(内科;肺癌にくわしい)による医療を主題にした社会時評。新潮45(月刊誌)に連載されたものの一部(東日本大震災以降)。前作は「偽善の医療」 今回伝えたいメッセージは、「(今の日本が陥っている)プロフェッショナリズムを軽視する社会(つまり衆愚)は、碌なものではない」ということ。大いに共感。
大震災を第3の敗戦(堺屋太一)ととらえ「これからは復興だ!」との声が高い。しかし、著者は「チョッと待ってくれ!復興の前に“敗戦処理(例えば福島原発の後始末)”があるだろう」と待ったをかける。それを承けてロッテから大リーグに転じ、再びロッテに戻って敗戦処理専門投手になった小宮山悟選手が契約更改に際して「敗戦処理投手の評価が低いのはおかしい」と発言した話を紹介し「失礼な言い方になるが、野球選手の中では桁違いの知性の持ち主とお見受けする」と結ぶ。
この話は、次いで福島原発事故におよび、懸命に“敗戦処理”に当っている東電社員(吉田所長(この時点では生存)を始めとするプロ)を十羽一からげで批判する世論を、「それで状況が良くなるわけではない!」さらに進んで「批判する資格はあるのか?」と返す。
主題は、不治と診断され余命幾ばくも無い患者を、医師として、病院として、どう扱うかである。誰も(死に至る)敗戦処理をやりたがらず、悪くすると患者はたらい回しにされて最後を迎えることになる。医学的には回復はありえなくてもそれなりのケアーは確実にあるし、それを行う医師や看護師の努力が認められるべきだ。それに依って敗戦処理に長けた人材と環境が醸成されていく。しかし、医療・病院さらには社会システムがそのようにはなっていない。
著者は東大医学部を卒業後癌研に内科医として長く勤務している。そこでは外科がエース。エースに敗戦処理はない。外科病棟から内科病棟に回されると治癒不能と断じられたのと同じことになる。担当の内科医さえ回診を避け、研修医に押し付けたりするらしい。
手段が尽きた患者に対する治験薬適用、セカンドオピニオン、皆敗戦処理を逃げる手段になっている。
これが第一章;「敗戦処理」はエースの仕事である、の要旨である。
この他、情報開示(過度の情報開示の害)、最新医療(次々と最新医療を施すよりも従来のやり方(惰性)が良いときもある)、偏倚(へんい)と疾患(明確は病気;疾患とそれ以前の状態;偏倚;この境界が際限なく不明確になると、罪を犯しても“遺伝子の問題”におよんで無罪となる可能性も出てくる)などを例に、医療の世界を紹介しつつ、それを社会問題に敷衍して、持論を強烈に主張する特異な社会時評を供している。
医療・医学に関心の薄い私にとってその面で大変勉強になるとともに、著者の論に共感するところが多かった。ただ“諸悪の根源、民主主義” (私も基本的にこれは理解できるが、チャーチルが言ったように「民主主義は最悪の政治システムである。今までの政治システムを除けばね;つまり民主主義しかないだろう」の見解である)で天皇親政(これを自衛隊が支える)を提言しているのは本心なのか冗談なのか、あまりに突飛な話で唖然とした。

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2013年10月6日日曜日

フランス旅行記(予告)

9月26日から10月5日(昨日)までフランス旅行に出かけていました。そのため「今月の本棚(9月分)」を含めブログの記事掲載できておらず、アクセスいただいた方々には失礼しております。4葉の写真を掲載し、旅行記の予告とさせていただきます。
ニース

モナコ

ニーム

パリ

2013年9月22日日曜日

ブログ雑談-3;地方文化と交響楽団


今日(22日)は午後から東京フィルハーモニーの定期演奏会に出かけた。場所は渋谷のオーチャード・ホール、演目は、ロッシーニ;歌劇「セミラーミデ」序曲、ストラヴィンスキー;バレイ組曲「プルチネルラ」それにメンデルスゾーン;交響曲第3番「スコットランド」である(指揮;園田隆一郎)。
もともとクラシックファンでないものの、歳とともにラジオで聞き流すなら耳慣れた古典が落ち着くようになり、生にも関心が向くようになっていった。そして4月からおよそ隔月で開かれる東フィル定期演奏会の会員になった次第である。今までの3回はベートーヴェンの第5を始めよく知った曲が多かったのでそれなりに集中できたのだが、今回はいずれも馴染みが無い。つい変な方向へ気が向いてしまう。「来年もこの交響楽団の会員を続けるか否か?もしここでなければどうするか?」。N響にしようという気は全く無い(巨人同様いくらでも希望者はいるのだから)。気になっていたのは(実は東フィルに決まるまでにも)神奈川交響楽団である。
数年前から債務超過が話題になり、財団法人資格(新たな公益法人化条件)を維持できるかどうかが問題になっている。このハードルはかなり高いようで、他の交響楽団も同じような悩みを抱えているところが多いようだ。しかしである。横浜市は大都市として東京に次ぐ人口(東京都;1300万人、横浜市;370万人、大阪市;270万人)でありながら、交響楽団一つも支える力が無いとは信じがたいことである(神奈川には横浜のほか川崎;150万人、相模原;70万人の政令指定都市がある)。これは横浜市民として恥ではないか!どうしてこんなことになるのだろう?“東京”フィルを聴きながら、つい妙な考えに取り付かれてしまった。
この考えはさらに突飛もない方向に向かう。これも数年前、横浜ベイスターズが住生活グループ(現LIXIL)に身売りする話が出たことである。ファン(当然私もそうである)は横浜にフランチャイズが残るならオーナーはどこでも良いと思ったが、住生活は新潟・富山方面を考えていることが分かり破談になってしまった。広島・札幌・仙台は無論、東京周辺の埼玉(ライオンズ)・千葉(ロッテ)も、地場の存在感では決して東京(巨人、ヤクルト)に負けていない。「何だ!日本第2の都市が、プロ野球球団一つ抱えられないのか!」
交響楽団とプロ野球チーム、随分性格の異なる世界だが、どちらにも共通するのは、熱狂的な地元ファンが少ないこと(巨人ファンばかり)と強い個性が感じられないことである(野球でいえば広島や中日、交響楽団では「ここに泉あり」の映画で有名になった群馬交響楽団;ここは既に公益法人化している)。もともとはいずれも欧米から来たもの。明治になる前に開港してハイカラ文化に真っ先に馴染み、歴史をたどればこの地が発信地とも言えるのに、何故このていたらくなのだろう?
住んでいても“じゃんじゃん”言葉を除けば“横浜文化(?)”を感じるようなものは無い。もともと独自(都市)文化など無かった地方なのだろうか(この点では、大阪、京都、名古屋には“都市”としての歴史がある。神奈川県でそれらに比肩できるのは鎌倉だが、こことて八幡宮や寺院(つまりハードウェア)に微かな面影程度しか残っていない。作家や画家など“文化人”は多数居住するが土着の匂いは全くしない)?どうやらこの辺り(都市としての長い歴史が無い土地)がその遠因であるような気がしてきた。

やはり来年は神奈川交響楽団を応援しようか。生演奏を聴きながら、妙な考えに取りつかれた午後だった。

2013年9月19日木曜日

ブログ雑談-2;旅先の大雨


16日の台風18号は昼日中だったのでTVでその凄さを実況体験した。特に、びっくりしたのは京都嵐山・桂川の渡月橋を洗う濁流である。一昨年1月桂離宮を見た後、嵐山口駅からあの中州を歩き、橋を渡ったところの茶店で休んだだけに、“まさか!”の思いでTVに釘付けになった。
3連休の最終日、観光客にとっても、夏休みの外国人も含めて、大変な一日であったろう。別のシーンで新幹線運転再開を待つ人々が、その知らせを見て「ウォーッ」と一斉に声を上げるところで、2007年7月半ば英国での体験が思い起こされた。
その年は今年の日本同様、英国もしばしば異常豪雨に見舞われ、ウィンブルドンは中断、名物のアスコット競馬では正装した紳士・淑女がずぶ濡れになっているのをTVで目にした。
渡英2ヶ月、スコットランドとの西部国境に近いランカスターの町(湖水地帯に近い)に滞在していた私は、旧友を訪ねてイングランド南西部の工業都市ブリストルを訪れ、その後コッツウォルズの村々を巡る旅に出た。
ブリストルで2泊しで四半世紀ぶりの再会を楽しみ、そこでレンタカーを借りて、コッツウォルズに向かった。初日は天候にも恵まれ、チッピングカムデン、モートン・イン・マーシュ、バイブリーなどの美しい村々を廻った後、バフォードの旅籠に投宿した。
 翌日は雨、チャーチルの生家、ブレナム宮殿訪問がこの日の主目的。宮殿内の見学が中心だから雨でもあまり差し障りは無かった。しかし、昼食後バフォード経由でブリストルへ戻る道は想像を絶する状態になっていた。雨で冠水した道路、その中で立ち往生する車、こちらも道を間違え、雨の中を右往左往したが、何とかブリストルのクルマ返還場所に帰り着いた。あとは駅に行き、予約した列車はとうに時間が過ぎているが、まだ帰る列車はある。駅で切符の変更を求めると「今日は大雨で英国中の列車は全て止まっています!」「英国中!?」。それほどの広域豪雨だった。
何とかブリストルで泊まったホテルに一部屋とることが出来、そこで観たTVは当に16日の日本と同じ。鉄道は止まり、道路は寸断、空港も閉鎖。
翌朝は晴れていたがTVの伝える交通情報は悲観的なことばかり。それでも駅に向かった。駅は当然混乱状態、案内に問い合わせると「ランカスター方面の直行線は冠水で使えない。可能性のあるのは、先ずロンドン(ブリストルからは東になる。2時間弱)へ出てそこから島の東側を走る線で北のヨークまで行き、そこから西へ向かう線を利用するのが唯一の解決策」「Long Wayになるね」とのこと。
ロンドンにはいくつかのターミナル駅がある。ブリストルからの到着はパディントン駅。ブリストルでの案内は、そこで地下鉄に乗りキングズ・クロス駅に行きヨーク方面へ向かう列車に乗れと言うものだった。しかし、前回ロンドンを訪れた時、ランカスターからの列車はユーストン駅が終着だった。もしかするとこの線が動いているかもしれない。パディントン駅の緊急対応案内者にこのことを確かめたが、「ユーストン発の北行きは動いていない」との答え。それでも迂回線はあまりにも遠回りだ。ダメもとで取りあえずユーストンで下りてみた。やはり列車は動いていなかったが、大勢の人が出発表示板を見つめている。しばらくすると「ワォーッ」と言う声が上がった。プレストン・グラスゴー方面の列車が表示されたのだ!ランカスターはその途上にある。何とか明るい内にアパートに帰りつくことが出来た。
前回ドイツ鉄道のいい加減さを書いたが、英国の鉄道に関する限り、大規模なトラブル時の利用客対応はそれほど日本と違いが無かった。それにしても、英語がほとんど通じない日本で、16日の台風に遭遇した外国人観光客は、私の苦労どころではなかったろう。
(本件については、本欄「滞英記-号外編:9と10の間」に詳述しています。


2013年9月16日月曜日

敬老の日

5歳の孫から届いたはがきです。

2013年9月14日土曜日

ブログ雑談-1;ドイツの鉄道


7月初め長く勤務した川崎工場のOB会があった。その会場でかつての同僚で本ブログの閲覧者の一人から「一言伝えておきたいことがある」と切り出された。聞けば私がこのブログで連載している「今月の本棚」に関することである。“いつかドイツを鉄道で旅してみたい”そんな思いもあり今年に入って「ペーターのドイツ鉄道案内」「ドイツものしり旅行」「ドイツ町から町へ」などを取り上げ、鉄道旅行の素晴らしさを紹介してきた。いずれの本もドイツの鉄道は正確で、快適であるように強く印象付けられた。ドイツ旅行なら鉄道が一番!が文意である。
しかし友人の語ったことはそれとは真逆であった。「イヤー、酷い目にあったよ!スケジュールは滅茶苦茶、情報も全く得られず、右往左往させられた」と言うのだ。特に特急は他国と跨るのでそちらの方の影響もあったらしいが、代替輸送などの手立てが打たれる気配も無かったと言うのだ。メンバーは皆昔の同僚、海外滞在や出張も多く、英語のコミュニケーションには困らない連中にしてである。その場で書物からだけの知識で、ドイツ鉄道事情を礼賛したことを詫びたことは言うまでも無い。
原因の一つは、「ものしり旅行」と「町から町へ」の内容が、EU成立以前の情報がもとになっていることにあったようだが、「ペーター」は昨年の出版、しかも著者はドイツ人である。確かに“あとがき”に「状況は刻々変わるので、出かける前に確認を」とあるが、「マア、結びとしての常套句」ととっていた。
ところが、9月初め(8月終わり?)の日経新聞夕刊に“ドイツの交通サービス混乱”と言うような記事の中に鉄道が出た。それによると、経営者側の合理化策が厳しすぎで、運行や駅管理の人員、保守要員などがタイトになり、頻繁に遅延や運休が起こっているのだと言う(経営側は労働組合側に問題ありと反論しているが)。

そしてこれは今月(9月分)の「本棚」で紹介する予定の「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」に“サービスが皆無のドイツの鉄道で”と言う項があり、鉄道の混乱は日常茶飯事、トラブルの原因や代替処置説明など全く無く、この不便をじっと耐えるドイツ人の姿が活写されている。どうも鉄道に限らず、社会活動全般にドイツには日本のような“サービス精神”は無いようだ。何か“ドイツの本質”を見た思いがする。

2013年9月5日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-25(最終回)


20.グランド・ツーリング総括
たった3泊4日のドライブ行を3ヶ月以上かけて書き連ねてきた報告もこれで終わる。
この間訪問地では数々の出来事があり、その都度、初めて訪れた土地々々が身近なものになってきた。8月半ばには、最初に泊まった郡上八幡で名物の郡上おどりが舞われ、「ア!あれは職人町の通りだ」と声を上げてしまう。7月下旬の福井地方の集中豪雨では越前大野がTVに登場「あの品のある町が大事にならぬよう」願うばかりであった。7月半ばには二泊目をした三方五湖の一つ水月湖がNHKで紹介される。2006年この湖の湖底の土が73メータ(7万年分)にわたり採取され、日英の学者による分析結果が、歴史の年縞の「標準時」に決まったのだ。厳密には縞状に堆積した土の中の放射性炭素(炭素14)の含有量を考古学や歴史学で年代推定の原器として使うのである。文中にも書いたように、あまり知られぬ湖だけに嬉しかった。
報告を読んだ閲覧者の皆さんからの訪問地に関する想い出コメントも楽しかった。神戸での癌の大手術のあと、しばらく城崎温泉で療養した友人は、コウノトリの想い出話を寄せてくれた。旅の楽しみの過半は計画作りにあると常々書いているが、このように後の楽しみも決し少なくない。
今回の旅では越前大野と城崎が特に印象深かった。越前大野は町全体が伝統保存と時代変化をほど良くバランスさせており、観光と日常生活が密着している感じが強く、「全ての日本の地方都市がこうだったらな~」と思わせるところがあった。
三泊目をした城崎温泉も自制の効いた良い町であった。とにかく温泉地にありがちな歓楽の雰囲気がないのが嬉しかった。だからと言って鄙びていたり、辛気臭いわけでもない。チョッと自宅からは遠いが今度は寒い時に鉄道で出かけてみたい。
食べ物は季節的にあまり適当な時期ではない。鮎は解禁になっていなかったし、蟹はシーズンが終わっていた。しかし、あまご、鯉、鮑などそれに代わる美味を味わえたのでそれほど不満はない。むしろサービスの仕方で差が出るのを密かに観察するのも楽しみのうちであった。その点で城崎温泉の西村屋本館はベストの評価が出来る。
さて、私の最大の関心は道である。今回山岳道路は郡上八幡から越前大野へ抜ける国道158号線(越前街道)のみ。美濃白鳥から旧道を走った部分は全くの独走、ヒルクライムの醍醐味を堪能した、つづく九頭竜湖に沿う道筋も、新緑が芽生え始め快適なドライブを楽しめた。このほかでは、短い距離だが三方五湖レインボーラインも明るい西日の中の運転と景観が期待通りで、変化のある二日目のドライブを好感触で締めくくることが出来た。
それに反し期待はずれは丹後半島周回で、部分的にはともかく、それほど面白い道ではなかった。特に、半島先端の経ヶ岬の先に小山があり、海を一望できない失望感は計り知れないほどだ。グーグルアースなどでもっとよく地形を調べるべきだったと反省しきりである。
城崎からの帰路640kmは現役時代も含め、外国を除けは(フェニックスからグランドキャニオン往復800kmを行った)、一日の最長走行距離であるが、城崎から40km位で自動車専用道に入れたので、道そのものの心配はなく、その点では苦労の少ないルートだった。さすがに疲労感は随所に及び、数日抜けなかった。この辺りが限界と悟った次第である。
総走行距離;1500km、総燃料消費量;132L、総合燃費;11.34km/Lであった。

長い間ご愛読いただき、有難うございました。

追記;家を出た日、しばらく後方でドーンと言う音がしていた(これより以前から出ていた)。しばらく走ると出なくなり、二日目以降は収まっていたが、帰宅後再発した。再現するタイミングが微妙なので、ポルシェにしばらく預けて調べてもらうことにした。分かったことは、エンジンへの空気取り込みダクトの固定部分にあった。ゴムのブッシュを挟んで車体に固定されているが、このゴムが経年劣化して、寒い時には硬く固まり、締め付け部が緩む。暖かかくなると柔らかさが戻るので、衝撃が起きない。ゴムブッシュの交換はせず、増し締めで現在はおとなしくなっている。

(写真はクリックすると拡大します)


-完-