2013年4月29日月曜日

今月の本棚-56(2013年4月分)



<今月読んだ本>
1)完全なるチェス(フランク・ブレイディー);文藝春秋社
2)終着駅へ行ってきます(宮脇俊三);河出書房新社(文庫)
3)モサド・ファイル(マイケル・ゾウハー);早川書房
4)無地のネクタイ(丸谷才一);岩波書店
5)インターネットを探して(アンドリュー・ブルーム);早川書房

<愚評昧説>
1)完全なるチェス-天才ボビー・フィッシャーの生涯-
私はゲーム(囲碁、将棋、トランプ、麻雀)や賭け事(競輪、競馬)を全くやらない。かろうじてルールを知っているのは将棋と麻雀だけ。従ってそれをテーマにした書き物などはほとんど持っていない。それが何故本書を読むことになったか?
現在本を買う切っ掛けは現役時代の書店巡りから新聞広告・書評に転じてきている。その広告に“日本にも潜伏したチェス・プレーヤー”とあるのがフッと目を捉えた。「日本では人気のないゲームのプレーヤーが何故“潜伏”などしていたのか?」 広告には“冷戦”の文字もあった。好みのスパイ小説に通じるようなキャッチ・コピーが購入を決断させた。
戦後のチェスは専らソ連の独壇場だった。ソ連はチェスを知的オリンピックのような位置付けにして、子供の時から優れた人材の発見と育成に努め、この世界で強さを示すことで共産主義の優位性を喧伝する国策を採っていた。従って優れたプレーヤーは国が面倒をみたし、英雄視される社会環境だった。対する米国・西欧はあくまでも趣味の世界、プロ(職業)としてここで生きることはほとんど不可能な状況にある(この点ではまだわが国の棋士は恵まれている)。チェス・オリンピアードで対決しても鎧袖一触、金メダルはいつもソ連のものだったし、賞金をかけて行われる個人戦も勝者はロシア人が圧倒的に多かった。そんな中で登場してくるのが、本書の主人公、米国の天才、ボビー・フィッシャーである。
IQ180もあるが学校嫌い。シングルマザー(極貧の中で奮闘するこの母親はなかなかの人物)の子として生まれ、友達作りが不得意な子供は姉(姉には、母と離婚はしたがはっきりした父がいる。しかしボビーの誕生には、母の離婚後もう一人の男がかかわっている可能性がある)が6歳の時買ってくれた1ドルのチェス・セットで遊ぶのが唯一の楽しみだった。最初の師、ニグロ(黒人ではない)の導きで先ずブルックリン・チェス・クラブに特別入会(この時7歳。それまで子供の会員は居ない)、さらにこの師によって名門マンハッタン・チェス・クラブの史上最年少会員(12歳)となり、一流のチェス・プレーヤーとの交流が始まる。第2の師、コリンズの下でのボビーの進歩は著しく、1956年の全米ジュニア選手権で優勝。史上最も若いチェス・マスター(有段者の最下位)になる(134ヶ月)。14歳の時マンハッタン・クラブより格式が高いマーシャル・チェス・クラブの招待トーナメントで、インターナショナル・マスターかつ全米オープン選手権前チャンピオンを相手に打った“クウィーン・サクリファイス(相手にクウィーンを取らせて、キングを取る)”は全世界に知られ、「只者ではない!」と注目される。その後の高段位者との戦いも好成績をおさめ、15歳でチェスの最高位、インターナショナル・グランド・マスターの資格を得る。
ここら辺まで読んできて気になりだすのは、世界連盟はあるものの、世界規模で定期的に行われる、統一された戦いの場が無いことである。4年毎に開かれる“チェス・オリンピアード”は団体戦のみ。あとはスポンサーがついたとき開かれる国や地域のトーナメントやリーグ戦あるいは特別企画の一騎打ちなどである。ボビーがチャンピョンたちと対決したいと思っても容易にチャンスは巡ってこない。世界チャンピョンとタイトルをかけて戦う挑戦者になるのは1971年、28歳まで待つことになる。この挑戦者資格取得は、過去30年以上で初めての非ソ連圏・非ロシア人のプレーヤーだった。
ロシア人の世界チャンピョン、スパスキーとの世紀の対決はアイスランドの首都レイキャヴィクで最長24局戦、勝者の賞金は78,125ドル(敗者は4,6875ドル)で行われることになる(この外にTV・映画放映料や入場料などの一部も取り分)。しかし、この頃から表面的にはカネの問題のように見えるが、彼の奇人変人ぶりが顕著になりだし、主催者・ファン・メディア、それに対決者を悩ませることになる。第一局は会場に現れず不戦敗。キッシンジャー大統領首席補佐官からの「アメリカ合衆国政府はきみの活躍を願っている」の声に押されてレイキャヴィクに向かう。数々の奇行とトラブルを重ねながら21局目でボビーの勝利が決まり、晴れて世界チャンピョンになる。
英語の副題に“Rise and Fall(興隆と転落)”とあるように、これ以降は転落の物語である。あれこれと条件をつけては結局防衛戦を行わない。この間キリスト教の新宗派に傾倒したり反ユダヤ発言を繰り返したりしているうちに貯えは減り、タイトルは剥奪され、ホームレス同様になりながら、1992年まで表舞台に登場することは無かった。「一体全体この男はどう言うことになるんだろう?」サスペンス・シーンの第一幕である。
やっと動き出すのは500万ドル(優勝者335万ドル)がかかったチャンピョン・リーグ。会場はセルビア。ユーゴースラビア崩壊で世界から孤立させられたセルビアが、国際社会の認知を得るために企画した催しである。大会直前ボビーは財務省から一通の手紙を受け取る。紛争当事国での商業活動を禁ずる警告書である。ボビーはこれを無視してセルビアに向かい、2ヶ月以上かけた30局の戦いに勝利し大金を手にする。
ここから始まるのが、国務省・財務省・FBIからの逃避行である。ハンガリー、オーストリア、ドイツ、スイス、イタリア、フィリッピン、中国と流浪の旅は続く。“日本に潜伏”はこの途上で、日本チェス協会の副会長(女性)が身元引受人になっている(後に結婚;法的にはともかく、本当に夫婦だったかどうかは疑問があるようだ;遺産相続問題が生じている)。この逃避行がサスペンス・シーンの第二幕。
そんな生活もやがて終わりが来る。2005年ころから機能障害が出ていた腎臓と肝臓の病で、20081月想い出の地アイスランドで64年の生涯を終える。奇しくもこの64はチェスのマス目の数と同じである。
著者はチェス雑誌の編集者、ボビー・フィッシャーとは若いときから知り合いだった人物。“月とスッポン”とは言いながらチェスの戦いを交わしたこともある。それだけにボビーのことは私生活(例えば母親)まで熟知している。従って、この読後感では紹介できなかったが、特に精神・心理面での描写は優れており、読んでいてその異常な集中力や繊細・過敏な神経の動きが伝わってくる。天才的な勝負師を描くには、この領域に踏み込むことは必須。これを読んで、私がゲームにのめり込めなかったのは、このような能力を著しく欠いていたからだと気付かされた。

蛇足;ボビーがチャンピョン獲得後試合を行わない理由の一つに、“フィッシャー方式”で戦いたいとの願望がある。“フィッシャー方式”とはポーン(歩兵)はルール通りの配置にするが他の駒(キングを含む)は最後列に置くものの、配置は自由と言うものである。チェス(将棋)は戦争をゲーム化したものだからこの発想はなかなか面白い(指揮官の配置も戦略・戦術の内)。将棋愛好家諸兄のコメントをいただければ幸いである。

2)終着駅へ行ってきます
宮脇俊三の鉄道紀行は読み尽くしたと思っていたが、Amazonに蓄積された私の情報は抜け落ちをしっかりフォローしている。ときどき「こんな本は如何でしょう?」と御用聞きメールが送られてくる。そんな本のひとつが本書である。
“終着駅”で先ず思い浮かべるのは、古いハリウッド映画、ジェニファー・ジョーンズとモンゴメリー・クリフト演じるローマ・テルミニ駅を舞台にしたメロドラマである(日本語に“終着駅”と言う言葉が出来たのはこの映画からとの説がある)。鉄道の終点と言う意味ではそのテルミニ駅も東京駅も上野駅も終着駅だが、ここで取り上げられる終着駅は無論そんな華やかで喧騒な駅ではない。ほとんどがローカル線の終点、本書のオリジナル単行本が出版(1984年)されて間もなく消えていった所も少なくない。
紹介される駅は25。当然僻地の赤字路線が多いのだが、中には鶴見線の海芝浦や大阪片町線の片町など、都会の一隅に在る目立たぬ駅、私鉄の大井川鉄道や名鉄谷汲線の駅あるいは小さな駅ばかりではなく、かつては九州の玄関口でもあった門司港駅の往時を偲ぶ日々にも及んで、バランスよく過去と現在という時間軸と北海道から九州まで全国を巡る空間軸で終着駅を辿る。この辺りの選択は“さすが宮脇俊三!”と一声かけたくなる。
終着駅に至るまでの車窓の情景、乗客像(これがなかなか観察が細やかで良い)、少ない(無人駅もある)駅員との会話、駅周辺の佇まい、駅や路線の歴史、宿泊先の料理(終着駅は漁港に近い所が多いので、専ら魚料理)などを、鉄道に対する愛情を込め独特のユーモアと哀歓で描いていく。その筆さばきに魅せられながら、楽しみを少しでも長く味わうために、一気に読まず一日数話で我慢しつつ、しばし昭和の香りのする紙上旅行に浸ることができた。

3)モサド・ファイル
モサド;イスラエルの諜報機関である。スパイの世界は好みの読書分野である。第二次世界大戦における英国諜報機関MI-5MI-6、日本の中野学校、冷戦時のCIAKGB、小説もノンフィクションも随分読んできたし本欄でも取り上げている。しかし、モサドは比較的出版物も多いわりに読んでいない。どうもイスラエルとアラブを巡る争いは非対称的なイメージ(特にアラブによるテロ活動)と後ろにある大国(古くは英仏、近くは米ソ)の思惑なども絡んで、独自の諜報活動のスケールが小さいと言う先入観があったことがその理由である。そんな背景がありながら本書を読むことになったのは、著者が軍事サスペンスの大家バー・ゾウハーだったからである。ブルガリア生まれのユダヤ人、建国間もなくイスラエルに移住、いくたびかの中東戦争にも従軍し、国会議員も務めている。本欄で紹介したものに「エニグマ奇襲指令」「ベルリン・コンスピラシー」がある。
原題はMOSSADであるが日本訳の題名はモサド・ファイル。実体をより正確に伝えているのは後者で、“ファイル”が生きている。つまり“モサドが扱った数々の重要事件”が本書の内容である。その点でモサドそのものを全体として把握するには適していない(これは私の期待としては大きかったのだが)。
事件簿は終章を含めて22、かなりの部分は中東諸国(イランを含む)における諜報・工作活動、それも反イスラエル組織(国、政党、テロ集団)のキーパーソン殺害(銃、爆弾、毒物などによる)だが、ナチスによるユダヤ人大量虐殺の首謀者の一人、アイヒマン逮捕(アルゼンチン)、ミュンヘン・オリンピックにおけるテロ制圧(これは当時の西ドイツ政府がイスラエルの介入を拒否するためモサドは手が出せない。西ドイツ特殊部隊の稚拙な行動を強く批判している)、ハイジャックされた飛行機の人質解放のためのエンテベ空港強襲作戦(ウガンダ)、エチオピアに何世代も前から差別されながら居住するユダヤ人の全体移住(モーゼの脱エジプトの現代版)など、微妙な国家主権・外交問題に関わる活動も取り上げられ、モサドが国家を支える重要な機関のひとつであることを“事件”を通じて教えてくれる。
全体を通して感じたことは、モサドの作戦が完全に政府トップの合意(首相の決断)の下で行われていること。従って、失敗した場合の責任が下位の者だけに押し付けられるようなケースが極めて少ないことである。米国ではしばしばCIA、それも工作従事者の単独行為と処せられるケースが多いのとは対照的である(イラン・コントラ事件のように、レーガン政権はノース海兵隊中佐に全責任を押し付けた)。
奇異に感じたことは、長官人事に伴う組織内部の確執の激しさである。長官人事は首相専管事項だが、前任者や上級スタッフがしばしばこれに反対し、辞職する者が出たり、公然と批判行動を起こす者がいることである。大方は時間と工作の成功が事態を収めるのだが他国の官僚組織では滅多に表沙汰にはならないことである。先の“責任所在”も含めてイスラエル社会の特質なのであろうか。
民族・国家として、日本とは対極を成す生い立ちを持つ国だけに、安全保障に関する考え方はまるで異なるので直にこれに倣うことは出来ないが、競争激化の国際社会における生き残り策として学ぶところが多いように感じた(組織、対外人脈、人材育成、情報収集・発信など)。
バー・ゾウハーの手法は、事件の内容・背景(政治的、歴史的)、時の国家上層部(首相、モサド長官;何人も登場するがかなり詳細に経歴・人柄・対人関係を説明する)、工作実施者(特にリーダー;これも長官同様人物描写が詳しい)を巧みに絡ませ、工作実行場面を山場にして緊張感を高めていくやり方で、ノンフィクションを得意のサスペンス小説調で描いていく。この点では期待通りの読み物であった。

4)無地のネクタイ
昨年10月に87歳で亡くなった文学者丸谷才一追悼エッセイ集である。本をよく読むわりに日本文学(小説などを含む)にはほとんど無縁の私だが、週刊誌などを眺める機会があったとき(買うことは無い)、この人の書いたものがあるとつい読んでしまう。そして何がしかの影響を受ける。英語の書物を読むとき、最近は専ら電子辞書やPC辞書を利用しているが、英和辞典は長く(1981年以来)岩波新英和辞典を愛用してきた。この辞書を選んだのは彼がどこかに書いた書評で高い評価を与えていたからである。それ以前芥川賞受賞(1972年)後英語に極めて造詣が深いことを知ったこと、時々目にした評論などで日本語の言葉遣いに厳しかったこともこの辞書の選択につながっている。そして最近は専らこの人の書評および書評論に惹かれていた。
もう一つ妙に興味を持ったのが“旧仮名遣い”を使い続けた独特の文体である。小学校(当時は国民学校)に入学(1945年)する前からひらがな・カタカナは読めたし本(絵本やマンガ)は好きだった。当然当時は旧仮名遣いである。小学生の高学年になると母が実家から持ってきた、戦前に改造社から出ていた“近代日本文学全集”を読むようになるのだが、これも無論旧仮名遣いで書かれている。発音と表記の違いに違和感を覚えつつもいつのまにか馴染んでしまった。丸谷の書いたものを読むとき、遊び道具など何も無い時代、意味もよく理解できぬまま、それでも大人の世界をこっそりのぞき見たような記憶が蘇るのである。
この本は読書家向けの小冊子「図書」(岩波書店)に連載してきたエッセイ(20037月号~044月号および20102月号~20115月号)をまとめたもので、最後に池澤夏樹が短い追悼のことばを寄せている。これによると丸谷のエッセイは「オール読物」系(文春)とこの「図書」系の二つがあり、「オール読物」の方は「ユーモアがあって、ある程度まで時事的で、ちょっと色っぽい」 対して「図書」のものは「理論武装がしっかりしていて、世間ないし社会に対してもの言う口調が武張っている」となる。読み終えたとき「辛口の評論が主体。納得感がある」との読後感を持ったが。“辛口”が“武張った”、“納得感”が“理論武装”に相当するのだろう。
内容は冊子の性格から書籍・文章・言葉などに関するものが多いが、景観・文化(美術・音楽)・世相など多岐にわたり、普段自分では気のつかなかった題材も多く、触発されるところ大であった。例えば「六本木ヒルズの感想」は完成直後のヒルズの景観を愛でつつ、周辺の電信柱と電線がいかにそれを殺いでいるかを専門家のデータ(パリ、ロンドンなどの電線埋設率)を援用しながら、厳しく批判している。当に“武張った”“理論武装”の典型、「なるほど」と腑に落ちた。
この本を読んで早速影響を受けてしまった。「ほしい辞書」と題する一項に「『日本語シソーラス』(大修館)が出て、愛用してゐる。正確に言ふと『角川類語新辞典』と併用してゐる」とあった。日頃文章表現に細やかな気遣いを見せるのはこう言う辞典の助けを借りているのだと知って、この本を購入することを思い立った。同じ用語の繰り返しを避け、前後の表現との関係で適切な言葉をさがすためである。しかしAmazonで調べると、価格15,750円、厚さ7.5cm、重さ2kg、索引ページが全体の40%とある。物書きを生業とする人ならばともかく、図書館に置くような本であることがわかた。代わりに角川の『類語国語辞典』(著者;大野晋/浜西正人;題名が少し変わっているが、中身はオリジナルの増補版;3200円)を取り寄せた。
池澤の追悼文に「ある時、丸谷さんがこう言われた- 『ぼくたちジャーナリストはいつだって一夜漬けで勉強するんだよ。』 そう聞いてどれほど安心したことか。」との一文がある。(電線埋設率のような)知識は一晩で得られても、楽しく読める文章にするためにどれだけ推敲を重ねてきたか、この本を読んで深く考えさせられたことである。  合掌

5)インターネットを探して
現役時代の仕事柄、この種の本をかなり読んできた。技術も製品も利用環境も、その社会への影響の仕方もどんどん変わっていくので、次々と出版され玉石混交、随分“外れ”も買っている。しかし、この本は個人的には“当り”であった。だからと言って万人向けではない。
インターネット関連の出版物を大別すると、利用者向けのプラットフォーム(例えば、インターネット・ブラウザー(入口)、各種メール、グーグル、フェースブック、You Tubeなど)の機能紹介、これらの社会的な影響・問題点(セキュリティなど)、企業・システム・起業者/発案者に関する沿革・歴史、経営や研究活動への利用事例など、圧倒的に広義のソフトウェア関連のものが多い。それに対し、ハードウェアものはインターネットではなく“通信”ネットワークの話になり、技術解説書に近い性格を帯びてくる。「そこは専門技術者の世界。しっかりトラブル無く動くようにしておいてね!」と、実際読者も限られるので仕方が無いのだが、片隅に追いやられている。
「でも現実にインターネットを動かしているのは決して“クラウド(雲)”のようなぼんやりしたものではなく、PC/携帯端末、ケーブル、ルーター(信号分岐器)そして巨大なデーターセンターに収められた膨大なサーバー(コンピュータ)、全てハードウェアなんだ。少しはそこのところも分ってくれよ!」 こんなネットワーク社会を縁の下で支える基盤IT技術者の声を代弁して書かれたのが本書である。ポイントは技術的なことがほとんど分らなくても、興味を持続させ理解できるように書かれているところにある。
自宅のPC上のインターネット・アプリケーションの動きがおかしい。つながったり切れたりするうちに遂に止まってしまう。加入しているネットワーク・ケーブル会社の作業員がやってきて調べると確かに一本のケーブルがどこかで切れている。中継器のある電柱を見ているときにその中にリスが駆け込む。そこで線が噛み切られていたのだ。ここから著者は2年をかけるインターネットの物理インフラを探る旅に出る。ケーブルはどこに通じているんだ?そこはどんな場所なんだ?どんな人たちと出会えるんだ?その人たちはなんでそこにいるんだ?
先ず手がけたことは、電気通信業界に流通する毎年更新される、大陸・島嶼間の通信流通量(推測値)を示す『グローバル・インターネット・ジオグラフィー』、通称GIGと呼ばれる特殊な世界地図の入手だ(5495ドル)。無論ローカルな細かいケーブルが記載されているわけではないが、世界規模で行き交う通信量が俯瞰できる。
次いで小規模なネットワークの集積点(ハブ)を訪れ、更に多数のルーターが集まるインターネット・エキスチェンジ・センター(IX)へと現地調査を進めていく。その過程でIXの特別な状況に気がつく。類は友(競争相手を含めて)呼ぶのだ。つまり巨大ネットワーク同志が同じ場所にいれば接続の時間と費用が節約できるのでどんどん集中化する。シリコーンヴァレーで、ワシントンDCに近いヴァージニアの片田舎でこれらの内部を探っていく。さらにGIG世界地図から明らかになったヨーロッパの巨大IXセンター(フランクフルト、アムステルダム、ロンドン)の存在を知りそこを訪れ、米国を含む巨大IXセンターの特質を分析調査する。
大陸間を結ぶ通信は事実上海底電線に依存している(非常時や特殊なケースでは衛星通信もあるが)ので、ニュージャージ、マイアミ、英国の南西端ランズエンドやポルトガルのケーブル陸揚げ地点で海底ケーブル・フィールド・エンジニアと話し合い、時には陸揚げ作業を見学する。
そして仕上げはアプリケーション・ソフトやデータ処理ザーバーが設置されている、グーグルやマイクロソフト、フェースブック(FB)など各社のデーターセンター。立地条件の決め手は冷却環境(気温、電力)とセキュリティ(自然災害、人的破壊)である。バックアップも考え、一ヶ所だけと言うことは無いが、いまそれらが集まってきているの、オレゴン州の東部である(西部は火山、地震などの恐れもあるが、東部のコロンビア川沿いは条件がいい)。グーグルのガードは固く、広報が案内してくれたのはそのごく一部。グーグルマップ上でもこの部分は意図的に消されていると言う。一方FBは「何でも見てください」スタイルで著者を喜ばせる。
この他にもインターネットの歴史(1970年代初期の軍のリスク分散プロジェクト;ARPAnetに発する)、ビジネスセンターが集中するマンハッタンでのケーブル敷設工事(1世紀前の地下ケーブル路)、IXセンターの場所貸しビジネスの実態(米国内、ヨーロッパ3拠点の主導権争い)、ネットワーク企業間の接続交渉、海底電線事業・システムの現状(東日本大震災時の状況を含む)、地方の企業誘致・再開発(ロンドン港湾地区再開発に真っ先に手を上げたのはKDDI)など、インターネットの世界を形作る物理的存在に関する話題が分かり易く解説される。
著者がITオタクや技術者ではなく、高校生の時からジャーナリストをこころざし大学では文学、大学院では人文地理学を学び、ジャーナリストになってからもIT以外に建築、デザイン、芸術、都市生活、旅行など広い分野で著作活動をしてきたので、自らも学びながら書いているところがある。そのアマチュア的なところが、本書を読みやすくしている気がする。
もう一つの良さはその翻訳に在る。テーマが新しいだけでなく著者も若い(高校生の時父親と自宅に初期のインターネット導入を行う場面があるから30代半ばと推察する)。その若さが翻訳によく現れている。訳者が50代半ば(1958年生れ)であることを考える時、その力量・努力に高い評価を与えたい。
一つだけ残念なのは、写真は数葉あるものの、図表が全く無いことである。インターネットが深さのあるネットワークのネットワークなだけに黙示的にその理解を助ける工夫が欲しかった。

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以上

2013年4月25日木曜日

遠い国・近い人-24(友朋自遠方来 不亦楽乎-5;シンガポール)



我が家のシンガポール訪問から2年後、1996年今度は彼らが家族で日本を訪れる機会がやってきた。丁度Jiayingが中学に進学する時で、その休みを利用して東京ディズニーランドを楽しむための旅だった。彼らにとって初めての日本訪問、こちらも先年のホスピタリティに応える準備を整えて迎える必要がある。国内PC通信は自宅から出来る環境にあったものの、いまだインターネットは普及していなかったから、スケジュール調整は双方とも会社のファックスを介して行った。その結果分ったことは、今回の来日はシンガポールの旅行社が企画したツアーのメンバーとして参加するので、自由行動がかなり制約されることだった。結局最終日(日曜日)の自由行動日を我が家訪問と決めた。
当時我が家は横須賀市の久里浜に在った。時間はかかるが、都心からは東京駅で横須賀線に乗れば乗り換え無しで来られるし、外国人案内に適した横浜や鎌倉に寄るとしても同じことである。It Chengは「ホテルで乗り物とルートを確認して、自分たちだけでそこまで出向く」と言ってきたが、彼らの宿泊場所が池袋のホリデーインと知って「チョッと無理かな?」と感じたので当日の朝ホテルまで迎えに行くことにした。
ホテルのロビーで久し振りに再会した時驚いたのはJiayingの背丈が伸びたことである。母親のRubyと変わらない。しかし、既に訪れたディズニーランドの話になると以前の甘えん坊の子供に戻って幼さは変わらない。「今日の立ち寄り場所は鎌倉だが楽しんでもらえるかな?」と不安が過ぎる。池袋から山手線で品川に出てそこから横須賀線に乗るのだが、帰りは彼らだけになるので、乗り換え要領を確認する。日曜日午前の横須賀線下りは横浜・鎌倉方面へ向かう行楽客で混んでいてすぐには座れない。何とか横浜で座れ、保土ヶ谷・戸塚間では東燃の社宅がこの辺に在り我々家族もそこに長く住んでいたことを説明する。
やがて北鎌倉に到着。観光客で溢れる小さな改札を出て直ぐに円覚寺に入り、次いで建長寺に向かう。さすがに大人は二人とも、他国の仏寺(中国寺はシンガポールにも在る)にはない幽玄な雰囲気に感じ入っている様子だが、予想通りJiayingは今ひとつ。しかし、そんな彼女も八幡宮まで来ると生き生きしてくる。境内には沢山の屋台が出ているし、社務所にはお守りや絵馬、破魔矢などが並んでいる。矢継ぎ早の質問に答えるのも大変だ。クライマックスは鎌倉駅に向かう、お土産物と食べ物屋が狭い通りに軒を連ねる小町通りを抜けるときにやってきた。後の予定(我が家で遅めのランチパーティ)のために彼女の好奇心を殺ぐのが大変だった。
鎌倉から逗子を経て久里浜に向かう横須賀線はそれまでとは様変わりでがら空きである。終着のJR久里浜駅前は商店も皆無だ(京急側が中心)。多分彼らの心の内は「こんな遠くの田舎に住んでいるのか!」であったろう。しかし、そんな日本のサラリーマン事情を知ってもらうのも外国人との家族交流には意味のあることだと思っている。
我が家では既に家を出ていた長男も加わり、Cheah一家3人を含め8人で食事をしながら歓談した。このときの料理の内容は、南方の人は生ものに弱い人もいることを考慮し、揚げ物・煮物・焼き物を主体にした日本食を用意した。両親、特にRubyはさすがに主婦でもあるから大いなる関心を持ってこれを楽しんでくれたのだが、Jiayingだけがどうも食が進まない。「何か食べたいものはあるか?」と聞くと「カップラーメン」という答えが返ってきて、我が家全員を唖然とさせた。この答えに深い意味があることを知るのは、それから17年を経た本年の来日まで待つことになる。

(つづく)

2013年4月19日金曜日

遠い国・近い人ー23(友朋自遠方来 不亦楽乎ー4;シンガポール)



インドネシア行きの後も、1991年オーストラリアのアデレードで開かれた富士通の世界ユ-ザー会参加の際、途上シンガポールを訪問している。目的は情報サービス・ビジネスの情報収集を兼ねて当時出来たばかりの東燃シンガポール事務所を訪れることだったが、一夕It Chengとも会食した。この時の雑談で私の将来について夢を語った。それは60歳前後で独立し、シンガポールにオフィスを開いて、石油精製・石油化学のITコンサルタントをやりたいと言うものだった。この話を聞いた彼の反応は「いつから始める予定だ?出来るだけ早くできるといいが・・・」と言うものだった。どうやらエッソ・シンガポールの仕事・処遇に満足していないようにとれた。
今でも十数人の海外の友人たちに近況を伝える手製の年賀状を送っている。It Chengからは旧正月頃に必ず返事が来て、家族や仕事のことが手短に書いてある。1993年の手紙に「エッソを退職し東レデュポン(シンガポール)に移った。ここのところ米国への出張が多いが、日本に行く可能性もありそうだ」と伝えてきた。しかしなかなか来日のチャンスは来なかった。
19943月、次女の高校入試が終わり、長女は大学生、長男は4月から社会人。私自身は頻繁に海外に出ているものの、家族全員揃って海外旅行などしたこともない。この春休みが唯一のチャンスかも知れない。幸いSPINの経営は順調。株主総会前に出かけよう!こう思い立ってマレーシア・シンガポールの旅に出かけることにした。It Chengに連絡したことは言うまでも無い。「家族で交流するなんてエキサイティングだ!」と喜んでくれた。
日本の3月はまだ寒い日もある。コート類は成田で預けて南国へ向かった(今年2月来日した彼らは、逆だから自国では必要の無い冬着でやってきた)。
旅程は帰りの夜行便1泊を含め67日;先ずクアラルンプールへ飛ぶ。夜現地に着いてみて分ったことは、ツアーメンバーは我々家族だけだったことだ。ガイドを含め6名、移動はマイクロバスで充分。クアラルンプール観光一日(2泊)、次の日は高速道路を利用してマラッカまで(1泊)、そこから鉄道でジョホールに向かう。ジョホールからは徒歩でシンガポールに入国。するとそこにまたマイクロバスが待っている。シンガポールのホテルは“リージェント”、オーチャード通りの北に在るが、シャングリラがやや東にあるのに対してここはやや西にある。最初の晩は他の日本人ツアー一緒にマンダリンで夕食だったが、次の夜はCheah一家とのディナーなのでツアーの食事はパスした。
夕方家族と伴にクルマでホテルにやってきたのは、It Cheng、夫人のRuby、一人娘のJiaying(小学生)の3人。夫人はシンガポール大学出の才媛で国立図書館の司書(因みにIt Chengはインペリアル・カレッジ(ロンドン)で化学工学を専攻)。一台のクルマに全員は乗れないのでタクシーにも分乗して向かったのは、チャンギー空港から市内に向かう海岸道路沿いにあるシーフードレストラン。中華スタイルの海鮮しゃぶしゃぶのような料理を皆で楽しんだ(It Chengは酒を飲まないので飲んだのは私一人)。双方の子供を交えた外国人との交流は今まで経験したことがなかったが、歳の差はあるものの何とかコミュニケーション出来ており、楽しい時間を過ごすことができた。
翌日は夜行便なので遅いチェックアウト。ツアーの夕食は空港のレストランに用意してあった。風邪気味だった次女は体調不良で夕食はいらないと言う。送りに来てくれたIt Chengが彼女の相手をしてくれた。彼女のアジア人好きはこの時のIt Chengの気遣いが影響しているのではないかと思う。

(つづく)

2013年4月11日木曜日

遠い国・近い人ー22(友朋自遠方来 不亦楽乎ー3;シンガポール)



1984年のシンガポール行きは1975年以来9年ぶりだったからその変容は顕著だった。前回は港湾地区とオーチャード通りを除けばそれほど高層建築は無く、古いチャイナタウンやマレー人居住区がまだそここに残っていた。今回はさすがに駐車場に屋台が並ぶ“カーパークレストラン”は消え失せ、僅かに面影を残すのはニュートンサーカスの屋外レストランくらいだった。そんな所を楽しむのは専ら外国人ばかり。ある一夜池田さんも含め食べかすを地べたに蹴散らかしながら異国情緒を楽しんだのもRCAの想い出である。どうもシンガポール人はそんな場所を恥部と見ているふしがあった。
RCAの公式ディナーは高級インド料理店で開かれた。夕刻三々五々集まったメンバーにはインド系の人も居る。何やら彼らが落ち着かない。It Chengに「何かあったのか?」と問うと号外のような新聞を見せてくれた。そこに書かれていたことは印度首相“インディラ・ガンジー”の暗殺である。本来は賑やかなパーティもお通夜のようだった。
19855IBMの依頼でジャカルタのセミナーでACSAdvanced Control SystemIBMExxonが開発し東燃が日本で始めて導入した、高度プラント制御システム)に関する講演を行った。翌年の年賀状でそれをIt Chengに伝えたところ「何故シンガポールに寄ってくれないのか?次回は是非!」との頼り。残念ながら直ぐにそのチャンスはやってこなかった。
19857月に東燃情報システム部がシステムプラザとして分社化し、東燃グループ外部へのビジネスを手がけ始めていた。その中にはシンガポール製油所へのACS導入支援もあり何名かの技術者が長期出張していた。1987年横河電機からインドネシアの国営石油会社プルタミナの製油所診断の仕事が舞い込み、私がそれに当ることになった。長期出張者の状況把握・慰労や顧客である製油所への表敬も兼ねて、ジャカルタへの途上シンガポールに数日滞在し、It Chengと再会することにした。
淡路島ほどの島国、工業用地は限られ、エクソンもシェルも製油所は本島周辺の小島に在った。エクソンの製油所が在るのはチャワン島、専用通勤フェリーで渡るのだ(現在は全て橋で結ばれている)。先ずIt Chengのオフィスを訪問、製油課長だが広い専用オフィスに専任の女性秘書も居る(この辺りの処遇はこの後訪れたインドネシアや、後年訪問したロシアなども同じであった)。日本の課長職とは大違いだ(韓国は日本スタイル;課長は一般従業員と同じ大部屋)。
この時はIt Cheng表敬訪問の他、長期出張者との懇談、工場見学、夜はIt ChengEREからの派遣者を含めた懇親会などで過ごした。It Chengの話で印象に残るのは、私がこれからインドネシアに行くと言うと、チョッと眉を顰めて「ジャカルタは汚い!食事には特に気をつけるように!」とコメントしてくれたことである。直後にジャカルタを訪れた時、クリーンな都市国家に変貌し、海外にもそれが知られるようになったシンガポールから見る彼のコメントに納得した。しかし、饐えた臭いのする裏通りは西欧人を含む外国人で賑わっており、その光景は1975年のシンガポールのチャイナタウンやインド人街を髣髴させるものだった。
横河の仕事は11月にもあり、この時は帰路シンガポールに寄ってIt Chengと会食「確かにジャカルタとシンガポールは清潔さでは段違いだね」などと語り合った。

(つづく)

2013年4月5日金曜日

原子力空母と護衛艦

本日(4月5日)は11時前から米海軍と海上自衛隊の横須賀基地見学会でした。昼は米軍将校クラブでの昼食会、夜は海上自衛隊元幹部(幕僚長を含む)との懇親会でした。
原子力空母“ジョージ・ワシント”は大掛かりな保守作業中で、まるで製油所の定期修理のようでしたが、格納庫、飛行甲板、航海艦橋に入れ、航海長席にも座りました。
海上自衛隊では最新鋭(3月初旬就役)護衛艦“てるづき”を見学しましたが、護衛艦隊幕僚長と艦長にご案内いただきました。
写真を一部ご紹介します。お楽しみください。









2013年3月31日日曜日

今月の本棚ー55(2013年3月分)



<今月読んだ本>
1)ケンブリッジ・シックス(チャールズ・カミング);早川書房(文庫)
2)日本の宿命(佐伯啓思);新潮社(新書)
3)ドイツの町から町へ(池内紀);中央公論新社(新書)
4)Engines of WarChristian Wolmar);Atlantic Books
5)工学部ヒラノ教授と七人の天才(今野浩);青土社

<愚評昧説>
1)ケンブリッジ・シックス
ソ連崩壊後のどさくさの中で国営企業民営化に上手く立ち回り、巨万の富を手にした男たちがいる。オリガルヒと呼ばれる大富豪、英国のサッカーチーム、チェルシーのオーナーになったロマン・アブラモヴィッチなどがその代表例である。彼がそれを出来た切っ掛けは、いち早くあの混乱に乗じて自動車産業(フィアットとの合弁)やアエロフロートを手にし、さらに金融やメディア関連事業にも進出した、ボリス・ベレゾフスキーと組んだことによる。そのベレゾフスキーが先々週ロンドンで死んだ。関係者の説明は心臓発作と言うことだが、多額の負債が原因の自殺説他殺説もあり、英国当局が捜査にのりだす可能性が高いという。一貫して反プーチンであったことがその背景にあることは間違いない。
これに先立つこと7年、2006年にはチェチェン報道で反プーチンの論陣を張っていた女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤが射殺、またこの事件を追っていた元KGB中佐で英国亡命後ライターとなっていた、アレクサンドル・リトヴィネンコが何者かに毒殺されている。
題名の“ケンブリッジ・シックス”を見て「ハハーン」と思った人もいるかも知れない。そう!本書はあの“ケンブリッジ・ファイブ”を題材としたスパイ小説である。ロシア革命が成功すると、多くの若い知識人がそれに同調する動きを活発化する。当時の資本主義の最先端国である英国では、マルクスがそこで資本論をもににしたこともあり、その影響は極めて大きかった。オックスフォード、ケンブリッジもその例外ではなく、1920年代半ばから1930年代にかけてそこで学んだもの中に、共産党の秘密党員となり、政府機関に就職した者も多く居た。キム・フィルビー(英国秘密情報部(SISMI-6;主に国外活動)、アンソニー・ブラント(同MI-5;主に国内活動)、ガイ・バージェス(BBC、外務省)、ドナルド・マクリーン(外務省;駐米一等書記官)、ジョン・ケアンクロス(暗号解読機関分析官)はいずれもケンブリッジ大学トリニティカレッジに所属しているときソ連NKDV(内務省人民委員会)にリクルートされたスパイであり、戦後摘発されたりソ連に亡命したりしている(キム・フィルビーはソ連で国葬)。これが“ケンブリッジ・ファイブ”である。
「この5人だけではない!まだまだ、ケンブリッジやオックスフォード出のスパイは居たはずだ!」 英国では今でもこの一連のスパイ事件が話題になる。以上はロシア人の事件を含め全て事実である。そして本書の影の主人公“シックス(6番目の男)”が登場する。もう一つの影はプーチンをモデルとした人物。
表の主人公はロシア・東欧現代史を専門にする40代前半の大学教授。最近妻と離婚し、幼い娘の養育費のための金策に苦労している。専門書の発刊記念講演会に現れた売れない女優が、母が残したソ連関係の資料を引き取ってほしいという。資料には魅力は無いが、女優には惹かれるものがある。時を同じくして、若いときのガールフレンドに自宅ディナーに招待される。夫と伴に豊かに暮らす彼女は現役のジャーナリスト、ロシア関係の面白いネタがあるので、共著で大衆向けの本を書こうと持ちかけられる。金を得るためには願ってもない提案。もしかすると女優の母の資料も使えるかもしれない。しかしジャーナリストの元彼女は、共著の核心材料を明らかにしないまま心臓発作で急逝する。夫は残された資料の整理を主人公に依頼する。何としても彼女の特種、取材源をつきとめるべく、受送信メールを探っていくと、高級介護施設に隠棲する老人に行き当たる。
病死者の偽装検死の後忽然と姿を消した検死医。見事に消された一人の外交官の経歴。そしてモニターされている主人公のメールと携帯電話。周辺で起こる殺人事件。身分を隠して彼に近づくSISの秘密女性捜査官。舞台はロンドンからベルリン、マドリッド、ウィーン、ブダペストへと移り、冷戦終了前後に発する驚天動地の謎に一歩一歩近づく主人公の周りに危機が迫る。殺しのシーンがいくつかあるものの、物理的なことは最小限に抑え心理的な読みを深めた知的ゲームの色彩が強い。当に伝統的な英国スパイ小説である。ワシントン・ポストの「二人の巨匠、ジョン・ル・カレとグレアム・グリーンに比肩する作家だ」は当を得た寸評である(女性に弱いところはジェームス・ボンドといい勝負)。次作が待ち遠しい。

2)日本の宿命
安倍総理がTV番組で「今のままでは北朝鮮は滅亡だ」と発言をしたら、翌日北朝鮮のメディアが「アメリカの言いなりになってきた日本こそ滅亡する」と反論したという主旨の報がインターネットニュースに数週間前載っていた。本書を読んだ直後だったので“滅亡”はともかく、この反論は妙に腑に落ちた。
だからと言って著者は決して左派ではない。むしろ新日本主義と取れる論調が考え方に貫かれている(やや悲観的ではあるが)。この本は、本欄-4420124月分)でも紹介した同じ著者の「反・幸福論」の続編であり、新潮45に連載されている社会時評の20119月号~20125月号に発表されたものを、それ以降出版までの期間に生じた変化(特に昨年末の総選挙)を勘案し、加筆・改編したものである。従って書き出しは“「橋下現象」のイヤな感じ(ここでの“橋下”は橋下徹大阪市長個人というよりは大衆人気の“改革者”であり、小泉純一郎なども同種と捉えている)“と言うテーマで、近年最も政治的な関心を惹きつける“改革”の浅薄さとそれを反映する現代政治における大衆主義の危うさ・胡散臭さを指摘するところから、わが国社会思想の特質を論じていく。
閉塞状態にある現状から脱却するためには第3の開国が必要だ!とはほとんどの改革論者が標榜することである。明治維新、大東亜戦争(著者は太平洋戦争と呼ぶことに“宿命”を感じている)敗戦とそれからの復興に次ぐ、現在叫ばれている社会変革と言う順番である。そしてこの改革ブームと定見の定まらぬ政治状況を、1910年代のスペイン社会を分析したオルテガ(同国の哲学者)が「無脊椎のスペイン」の中で明らかにした“分立主義(各集団が自己を部分として感じなくなり、その結果、他の者と感情を共有しなくなること)に擬え「無脊椎のニッポン」としてその社会構造・思想に切り込んでいく。
直近の話題、TPP・安全保障問題から戦後憲法の制定、講和条約と日米安保、そして明治維新後の国家諸施策でさえ、専ら欧米(戦後は圧倒的に米)を範としそれに追従してきただけではないのか?これは避けられないことだったのだろうか?日本の宿命なのだろうか?先人は国家作りをどのように考え、その理想と現実にどのような違いがあったのだろうか?これが本書で論じられる。
革新を唱えるものが、「欧米では・・・・」と基準をそこに求めることは、明治以来の定形パターンで、小泉内閣のブレーン・閣僚であった竹中平蔵がグローバル・スタンダードを旗印に構造改革を進める姿を“笑止”と切り捨て、「真の世界標準など存在しない(在るのはある種のパワーポリティックス)」と断ずる(その意味で著者はTPPに反対である)。
このように、自らの背骨を欠いた近代化・革新の風潮が今に続く遠因を、明治の思想家、福沢諭吉の考え方を分析することで明らかにしていくところが、本書の肝と言える部分である。福沢は“脱亜論”は著したものの、巷間言われているように“脱亜入欧”を自ら唱えたことは無く、彼の文明開花の前提には“攘夷(外なる敵に打ち勝つ)”が在ったと言うのである。具体的には「西洋流の国家になる」ことではなく「西洋並みの国家になる」ことを目指していたのだ。ただ、文明の進んだ夷狄(欧米)と対等な地位を獲得するには、順序として彼らの文明に学ぶ“文明開化(西欧化に依る富国・強兵)”を先行させざるを得ない、と説いていたとする。
福沢の国家観の目指すものは「一国独立」だがその根底には「一身独立」がある。“学問のすすめ”を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と書き出しながら、「・・・人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり」と続けて、生まれではなく、能力による貴族主義(選民主義)を是認、さらに「学問をするには分限を知ること肝要なり」として、決して無限の自由や平等を肯定しないところに“一身独立”が存在することを主張をしている。
残念ながらこの考え方は薩長藩閥政府の容れる(理解する)ところではなく、専ら“文明開化”だけが一人歩きして、わが国の“近代化”は矛盾(攘夷;自立基盤を欠く)を孕んだまま、「利」や「便」を優先させ「義」を捨て去り、今日に至ったと著者は見ている。
それでは、あの時代の「西洋文明」の前で「一身独立、一国独立」を見失わずに近代化する「精神」とは何だったのか。福沢の「独立の気風」と「瘠我慢」に思いをはせながら「これは未だにわれわれに突き付けられている課題ではないか」と結ぶ。
著者は戦後社会を「アメリカによるマインドコントロールの自発的受容社会」や「アメリカへの“自発的従属”」と表現しているが(決して米国を覇者として位置付けるのではなく、日本(人)の思想形成上の特質と見做している)、当に至言である。これらは必ずしもオリジナルではないが、その起源が明治維新にあるという説は新鮮な見方である。特に日本近代史における福沢諭吉の存在意義について大いに学ぶところがあった。

蛇足;
19519月講和条約(19524月発効)が締結され、日本は独立主権国家として承認される。しかし、これに引き続き調印された日米安全保障条約は著しく“主権”を侵害するものだった(例えば、一旦占領軍の基地は日本に返還され、あらためて定めるのが筋だが、米国はこれを認めず、止むを得ず行政協定で継続使用を定型化した)。吉田茂はこれ(安保条約)が独立主権に関わることをよく理解しており、他の代表団メンバーには「政治家がこれに署名するのはためにならん、私一人が署名する」と言って、一人で署名したことが、本書第4章「日本は本当に独立国か」で紹介されている。

3)ドイツの町から町へ
いつ実現するかは定かではないが、ドイツ旅行に備えて情報収集している。本書を読むことになる動機もその一環で、先々月から3回連続でドイツ紀行に関する書物が続くことになった。
著者はドイツ文学者で随筆家、多くのドイツを中心とした紀行文をモノにしている。日曜日の1215分から2時まで放送されるNHK FMラジオトーク番組「日曜喫茶室」の常連で、独特の語り口に魅力を感じていたし、昔TVの海外旅行番組に出演し、案内役として得意のドイツ語を駆使して、深みのある歴史・文学紹介を行っていることも強く印象に残っていた。また歳も私の1年下、同世代と言うことにも惹かれた。
内容は、読売新聞の日曜版に19986月から20004月まで連載された「ドイツ 宝さがし」がベースで、そこから三分の一を捨て、新しく15都市を加えて、200210月この新書としてまとめられたものである。既に10年余を過ぎているので、物理的な景観では鮮度と言う点ではいささか落ちるかもしれないが、歴史・文化の視点ではほとんど問題にならぬ時間と見ていいだろう。
全体を北ドイツ・中部ドイツ・南ドイツの三部構成にし、全部で80弱の都市(一部地方)を取り上げているので、ベルリン・ブランクフルト・ミュンヒェン・ドレスデンなど有名大都市ばかりではなく、観光とはほとんど関係ないが、ドイツ史や文学に深く関わる小都市や町も多々取り上げられ、観光案内よりは人文地誌(あるいは地史)的な面で楽しむことが出来る。そして、それら個々の町をこれだけの数眺めると、今のドイツ全体が見えてくるところに本書の価値を見出した。
例えば、自治と言うことに関して、上から与えられるのではなく、自ら環境や景観を律していく背景に、統一国家成立前の小領邦国家や自由都市の長い歴史があることが分ってくる。また商工業者が領主や教会に対して対等の力(主に経済力で)を持っていたことが、町の発展や地方独特の文化を育んでいるさまが簡明に解説される。
一方で、観光名所やグルメやお土産、それに個人的な興味の対象である乗り物に関する事柄はほとんど取り上げられていない。その点では観光案内書としては物足りないものの、もともとそのような目的で書かれたものではなく、町とそれにまつわる歴史(人を含む)・文化を淡々と紹介するところに特色があるので、それらは他の観光案内書に求めるべきだろう。
日本同様激しい空爆に曝され完全に破壊された都市とその復元、東独支配下で経済発展に取り残された町、爆撃も占領も免れ昔の街並みを今に留める都市、宗教・文学・音楽に深く関わる町、どの都市も町も著者が自らの足で歩き廻り目撃し聞き集めた情報が手際よくまとめられ、ドイツとその町々の理解を助ける必携のガイドブックに仕上がっている。

4)Engines of War
題目にある“Engines”は狭義には“機関車”を意味するが、ここではそれが重要な一部を成す“鉄道”と訳すのが適当である。邦書を含め“戦争と鉄道”に関する書物は、汗牛充棟の観があるほど数多出版されているし、自身かなり持っている。
その中で“戦争と鉄道”に関して開眼させられたのが、渡部昇一の「ドイツ参謀本部」(中公新書;初版;197412月発行)である。この本の一章“モルトケの時代”にモルトケが参謀本部に転ずる前(40歳代後半)多くの鉄道に関する論文を書いていること、この経験を基に鉄道輸送重視の戦略を練り上げていったこと、鉄道部隊を編成し有事の際の時刻表の研究を進めたこと、これによって普墺戦争さらには普仏戦争に勝利したこと、などを知った。この他にも日露戦争におけるシベリア鉄道、第一次世界大戦時の各戦線における鉄道利用、あるいは大東亜戦争におけるタイ・ビルマを結ぶ泰緬鉄道(“戦場に架ける橋”の舞台)建設、あるいは補給戦を歴史的に取り上げたものなど、戦争と鉄道に関する書物が身近にある。それらに共通するのは、補給戦(Supplying WarMartin Van Creveld)を除き、特定の戦争と鉄道の関係を書いたものであることである。
では本書はいかなる意味を持つ本なのであろうか?それはクリミア戦争からヴェトナム戦争に至る、鉄道出現以降の戦争と鉄道の関係を通史として俯瞰し、鉄道の果たした役割を普遍化するところにある。内容は国家・軍における鉄道理解(人・組織を含む)、兵員輸送(作戦推進)、軍事物資輸送(兵站)、武装列車・列車砲、病院列車・傷病兵輸送、鉄道破壊、戦時鉄道運用管理、施設・車両の建設・製造・保守(改軌を含む)管理など広範にわたり、モルトケに代表される戦略上の目覚しい効果や兵站における重要性ばかりでなく、組織管理のような地味な話題も取り上げられ、戦争と鉄道の関係を広くかつ深く(特に歴史的に)理解できるものになっている。
例えば、鉄道敷設・経営が国家主導か民間主導かによって非常時の際の利用方法・利用効率が変わってくる。民中心で建設が進んだ米英、官の構想に従って整備された独仏露。同じ米国の鉄道でも南北戦争における南部と北部の違い(南部の鉄道会社は小規模多社)。あるいは欧州の拮抗勢力でありながら、ドイツは東西連絡重視(二面作戦を強いられる可能性が高いことから)で南北も縦断線を整備する碁盤の目のような路線整備に対して、フランスはパリ中心の放射線と環状線の組み合わせ。こんなことが戦争の展開に大きく影響してくる。
もっと大きいのは、非常時の鉄道運用管理体系である。軍と鉄道の協力関係が不可欠であるが、鉄道以上に命令で動く軍の性格をどこまで鉄道運用の実情に合わせることが出来るかによって、その効用に大きな違いが出てくる。本書に依れば、それが最も上手く機能したのは南北戦争における北軍で、鉄道監(大佐)に強大な権限を与え、それを徹底したことが北軍勝利に大きく貢献したと評価している。それに比べるとその後の普仏戦争は無論、第一次世界大戦すら、これに学ぶことが少なかったようである。高位の司令官が勝手な運行を命じ、輸送計画を著しく混乱させることがしばしば生じていたのである。
本書は、鉄道実用化以前(ナポレオン戦争など)の兵員・物資輸送概説の1章を含め10章の構成になっているが、その内の3章を第一次世界大戦に割いている。つまり三分の一をこれに充てているのだが、その理由は終章で「鉄道が最も戦争推進に貢献したのはこの戦争であった」ことによる。第二次世界大戦における兵站輸送は戦域の広域化と兵器のエネルギー消費量・破壊力増大もあり、第一次世界大戦に比べ鉄道輸送量は遥かに大きいものの、自動車や航空機の果たした役割もそれに劣らず顕著で、絶対数量ではともかく、柔軟性やスピードではこれらに一歩譲ることから、単独主役の座を降りることになるのだ。しかし、輸送量と空爆抗耐性の積は高い(つまり空からの鉄道車両・路線・橋梁破壊はかなり難しく、復旧時間は早い)ので、朝鮮戦争では北側(北朝鮮軍・中共軍)補給をよく支え、まだまだ兵站輸送現役として活躍したことを詳しく紹介して、戦時における鉄道利用の将来に可能性を残している。
日本が本書に登場するのは、先ず日露戦争。ここでは鉄道以前にこの戦争が有史以来最大の兵力で戦われたこと(最終;露軍1,300,000人、日本軍;900,000万人)、シベリア鉄道敷設が開戦の大きな理由だったこと、鉄道利用では日本軍が優れていたことが書かれている。次に紹介されるのは泰緬鉄道の建設で、英軍(豪州、ニュージランド軍を含む)の捕虜が大量に投入され、死亡率が極めて高かったことが紹介される程度で、著者が英国人の割にはあっさりと書かれている(英国の反日運動はいまだに、本件に関することが中心)。
独ソ間の戦いはゲージの違いが双方の戦い振りに大きく影響する。交戦域は何度も改軌が行われ、最終的にはソ連の広軌がポツダムまで通じ、ポツダム会談に臨んだスターリンははるばるモスクワからポツダムまで専用列車で旅をしている。
著者は本欄-4820128月分)でも紹介した「世界鉄道史(英文タイトルBlood, Iron & Gold)」を書いたChristian Wolmar、交通・運輸に精通した英国のジャーナリスト、本書はその最新作である。前作は多くの鉄道ファンに興味ある内容だけに邦訳されたが、本書は読者が限定されるので訳本は期待出来ぬと考え、原書で読むことにした。その予想通り、わが国の戦争と鉄道を記したものでは知ることの出来ない内容に溢れ、どの章も新しい発見の連続で、最後まで戦争の姿を変えていった鉄道の役割を追うことに飽きることは無かった。

蛇足;
クリミア戦争(1853年~1856年)は最初に鉄道が使われた戦争だが、日本人にはナイチンゲールの活躍した戦場として知られている。彼女を有名にしたのは敵味方に拘わらず傷病兵の治療・看護にあたったことだが、この時回送列車(藁を敷いた貨車)で傷病兵を運んだことが、それ以前(悪路を荷馬車に横たえて運ぶ)と比して生還率を著しく高めることになる。このことは一部の関係者の関心を惹いたものの、本格的な病院車の出現は第一次世界大戦時(1914年~1918年)まで待たれることになる。

5)工学部ヒラノ教授と七人の天才
本欄おなじみの“工学部ヒラノ教授”シリーズ第5弾である。東大工学部応用物理学科を卒業後さらに修士課程で応用数学を学び、就職先のシンクタンクからスタンフォード大学OROperation Research;応用数学の一分野)学科博士課程に派遣されたヒラノ青年は、博士号取得・帰国後、先ず筑波大学の計算機科学(ソフト)担当助教授になり、次いで東工大の一般教養(統計学)の教授に転ずるが、間もなく学部経営工学科との兼務となり、さらに新設大学院課程(社会理工学科)教授へと変身していく。ここで停年まで過ごした後、最後は中央大学経営工学科教授として70歳の定年まで勤め、昨年目出度く工学部人生を卒業された。この間海外のシンクタンクや大学で研究員や客員教授として過ごす機会もあり、内外の工学部事情に通じたベテラン中のベテラン教授である。熱心な研究教育活動(と雑務)を終え、引退後のあり余る時間を本シリーズの創作に当てている(第一巻は在職中)今日この頃である。
今までに取り上げられた材料は、文部行政、学内パワーストラクチャー、人事・利権抗争、学内・学会不祥事・不正行為、秘書・事務方との関係など多岐にわたるが、今回は特にヒラノ教授が奇人変人(題名は“天才”だが)として選び出した東工大7人衆である。一般の人にも知られているのは江藤淳くらいだが、夭折する金融工学の天才、日本国公務員として採用されながら全く日本語を学習しないヴェトナムからの研究者、ヒラノ筑波大助教授に東工大への道を開いてくれた哲学者、40過ぎても助手として過ごしながら三階級特進で私大学長になり積年の怨念を晴らす人など、教官・研究者個人に焦点を当てているところが、従来のシリーズと異なる点である。それだけに人物の特質が浮き彫りされて、同じような話題を別の角度から眺められるのが、本書の面白いところである。加えて軽妙な語り口ながら、アイロニーやブラックユーモアをも含む独特の言い回しに惹かれるのは私ばかりではない。
その証拠に、第一巻の「工学部ヒラノ教授」はいよいよ新潮文庫になるようだし、外国をテーマにした第6弾も具体化している。もの造りに国家の命運がかかることを考えると(不賛成の人も居ようが)、工学部の実情を真剣に、しかし肩に力を入れず理解できる本シリーズは貴重なジャンルを開拓していること必定、是非本ブログの読者(エンジニアが多い)に一読をお薦めする。

(写真はクリックすると拡大します)


  

2013年3月22日金曜日

遠い国・近い人-21(有朋自遠方来 不亦楽乎ー2;シンガポール)



当時(1984年秋)東燃はTCSTonen Control System;プラント運転制御システム;IBMExxonが共同開発したACS、高度制御システムと横河電機製DCSCENTUMの組合せ)プロジェクトが和歌山工場で一区切りし、国内で日本IBM とその販売ビジネスを推進していた。IBMはこれを世界に広げたかったし、東燃としてもExxonグループの中でACSの普及を願っていた。このRCARefinery Computing Activity)ミーティングはそれをPRする絶好のチャンスだった。いくつかの適用事例紹介の内でも、特にここは力を入れて発表するよう準備してこれに参加した。
ところが、東燃の発表に先立って、ゼネラル石油のIKDさん(プロセス技術課長)がHoneywellExxonERE)が共同開発したPMXの堺工場への導入状況について発表を行い、制御アプリケーションばかりでなくシステムやHoneywellのサービスについても、極めて優れたものであることを、参加メンバーに訴えたのである。EREから参加していたプロセス制御技術課長のオランド氏もそれを強くサポートするコメントを加えたので、PMXへの関心が一気に高まった。
実は、Exxonグループの中で“ACSPMXか”は極めてデリケートな状況にあったし、TCS選択に関して東燃グループ内でも結論を出すまで、多くの議論を交わしたテーマであった(本ノート-64106“大転換TCSプロジェクト”に詳述)から、質問をはさみ挟みながらPMXの問題点を縷々参加者に説明した。これに対してIKDさんは当然それら(特に、新DCSTDCS3000の開発が大幅に遅れ、一世代古いTDCS2000で動かさざるを得なかった)が実用上問題ないと反論してきた。逆にこの後の私の東燃の発表ではACSの問題点(汎用機を用いるための技術的な難点など)を指摘して、プラント制御に特化したシステムであることと、プロジェクトを一括して請けることの出来るHoneywellの利点を強調して、PMXの優位性を主張する。これに私が反論する。
ミーティングの参加者は、必ずしもプラント運転制御の専門家ばかりではないし、東燃とゼネラルを除く他の国の製油所はほとんどコンピュータの導入実績も無いので、両者の議論に割って入ることが出来るのはEREくらいで、あとは日本人同士のバトルを興味深く見守るばかり。見かねたIt Chengが「面白くて有用な議論だが、時間も来たので」と過熱気味の両者を分けてくれた。
休会に入るとIt Chengが私のところにやってきて、「正直言って私も議論の内容に不明確なところが多々ある。今日の二つの発表の議事録をまとめ欲しい」と言う。「私の見解でまとめていいのか?」と問うと「一番分っているのはMDNさんだからかまわない」と答えるので、私の独断と偏見で議事を総括した。書いた内容は後日訂正もされず配布されたことから、彼が私を信頼してくれていたと信じている。これが彼と今日まで付き合ってこられた最大の要因である。
このことは余ほど彼の記憶に残ったようで、その後会うたびに話題にしては「あれは面白かった!」と笑っていた。

後日談;10数年後、私はシステムプラザ(SPIN)の役員と成りゼネラル石油に保全管理システムや品質管理システムを買っていただいた。IKDさんはこの時堺工場長で、一夜あのバトルを懐かしみながら一献傾けた。二人の間に何も蟠りは無かった。そのことを2000年にシンガポールでIt Chengと食事を伴にしたとき伝えた。

(つづく)