2014年6月14日土曜日

みちのく山岳ドライブ-3


-八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-

2.今年はどこへ―2
大まかな訪問観光地が決まると次はルートだ。私のドライブ行の最大の目的は“走り”にあるので、この検討は難しくもあり楽しくもある。遠隔地の場合、限られた日程の中で、走りと観光を両立させるには、目的地域と自宅間は当然自動車専用道を利用することになる。今回の場合それは東北道が主体となるが、同じルートの往復は出来るだけ短くしたい。また訪れる場所の多い二日目・三日目は距離を短くし、かつ運転を楽しめる山岳路を多くしたい。三泊の中日は市内観光もあり弘前の町中に宿泊したい。適当なガソリンスタンド(エッソ/モービル/ゼネラル)が途上に在ること(長距離走では従業員・OB割引の特典は極めて重要)。こんな条件で道程を考える。
初日は昨年の実績も勘案し650km前後の距離を設定してみる。すると松尾八幡平IC辺りまで可能だ。給油も仙台の先、鶴巣PAの下りにモービルがある。さらに良いことに八幡平から十和田方面に抜ける八幡平アスピーテラインがあり、ここは黒部と並んで雪の壁が続くことで有名な山道である。また八幡平には温泉もあるので長時間運転の休養にももってこいだ。
次は最終日のルート検討である。ゴールは自宅なのであまり到着時刻を考える必要はないが、最終段階の首都高を抜ける運転は気が抜けないので、走行距離は600km以内に抑えたい。前日白神ラインから日本海へ抜けることを考えると、そこから海岸沿いを南下して秋田・山形県境辺りに宿泊することが適当なようだ。2010年に酒田に泊まり、そこから角館を経て乳頭温泉まで走っているので、これとのダブリは避けたいし、最終日もチョッと山道を走ってみたい。こうして鳥海山が浮かび上がってくる。ここも温泉が在るのが魅力的だ。宿泊場所が決まるとあとは山形道へのアプローチだけ。鳥海山周辺を少し走って東北中央部の幹線道路、国道13号線に出れば100km程度で自動車専用道に達する。手前の天童には幸いエッソもモービルもあるのでここで満タンにすれば無給油で帰れる。こうして鳥海高原宿泊と帰路が決まる。
残る中二日は出来るだけ観光山岳道路を選ぶようにする。二日目のルートは割合すんなりと決められた。八幡平アスピーテラインのあと国道103号線で鹿角を経て十和田湖を南から見下ろす発荷峠へ出て、湖岸から奥入瀬渓谷に沿う国道102号線を走り、途中で十和田ゴールドライン(103号線)に乗り換えて八甲田山に向かう。八甲田山周辺はそのまま103号線を行かず、周回路の394号線で反時計方向に回り“雪中行軍遭難碑”を訪れ、その後弘前に向かうことにする。おおよそ200km
三日目のハイライトは何と言っても白神ライン(県道28号線)である。バイクライダーのユーチューブ投稿で見ると相当な難路であることは明らかだが4輪とも行き交うシーンがあり、抜けられることは間違いない。しかし、開通時期が問題である。連休明けに可能になる年もあれば、6月初旬までかかっている時もある。4月に計画を練っている時もこれだけは明らかになっていなかった。ダメなら途中でルートを日本海側に鯵ヶ沢方面に変え、そこから男鹿半島方面に向かい、どこか適当な所で秋田道に入り、日本海東北道を経て鳥海に向かう暫定案(鯵ヶ沢ルートで約380km;白神直通ルートは300km弱)を作り、あとは当日臨機応変に決めることにした。結果としてこれでよかった。出発直前調べると、白神ライン全通は630日となっていたのだ。

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(次回;今度はどこへ;つづく;スケジュールと宿泊先)

2014年6月10日火曜日

みちのく山岳ドライブ-2


-八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-

2.今年はどこへ
例年走り終えると、“次は?”となる。そこには終えたばかりの旅が様々な形で影響してくる。先ず場所、やはり未知の場所と昔訪れて気になっているところが優先される。地方・都道府県単位では、九州が完全に抜けている(個人タクシーで鹿児島から宮崎まで観光旅行しただけ)。しかし所要日数を考えると(家内の希望は3泊まで;春は趣味の園芸でこうなる;今まで例外もあったが…)、当面候補地とはならない。四国は和歌山時代全部廻っているのだが、本四連絡橋が未完の時代だったからそこを走ってみたい。特に一番西に在るしまなみ海道への思いは一入である。だがここも、日数と一昨年(吉野・高野)、昨年(丹後半島・城崎)と関西方面を続けているので優先度は低い。そうなると選択肢は東北・北海道方面と言うことになるが、北海道は3泊では不可能だ。残るは東北である。
東北地方は訪れたい所が多々ある。特に宮城・岩手にまたがるリアス式海岸地帯は震災前から“一度は”と思っていたが、あれで道は寸断、集落も町も消えてしまっている。それに復旧も遅れているところへスポーツカーで乗り込むのは憚られる。思案している時フッと思いついたのが青森県である。この県には国家備蓄のむつ小川原基地がありそこは東燃の関係会社が運営母体となっているので現役時代何度か訪れている。ドライブも友人のレンタカーで十和田湖と弘前(桜のシーズン)を案内してもらっているのだが、自分でハンドルを握ってはいない。無論自分のクルマで出かけたこともない。「そういえば九州・沖縄を除いてマイカーで走っていないのは青森県だけ」 これに気が付いてからは専ら“青森案”に取り憑かれていく。
どこを走るか(見るか)。青森のイメージは何と言っても“津軽海峡”“連絡船”、最初は下北・津軽の二つの半島を巡るコースをあれこれ検討することから始めた。「恐山が面白そうだ」「大間のマグロも良いな~」「出来れば弘前の桜があるうちに」などなど。幸い両半島を結ぶフェリーもあるので、時間的な制約も陸路を行くよりだいぶ楽になる。八戸・弘前をベースに考えれば3泊で実現の可能性は充分ありそうだ。しかし、ガイドブック・Web画像・Youチューブ動画を調べていくと、海岸と荒涼とした風景が浮かぶばかりである。確かに“最果て感”はあるものの、前年の丹後半島周回で味わった失望が脳裏を過ぎる。「チョッと距離的にも辛いしな~」で消えていった。
次に浮かんできた案は、以前この方面を友人とドライブしたときに聞いた、連休明けが盛りと言われている奥入瀬の桜である。この時は奥入瀬そのものも通過しただけだから、そこの散策も取り込む案はどうだろう。こうして奥入瀬がクローズアップしてくる。十和田湖南側の峠から見た俯瞰も素晴らしかったし、その後桜見物をし、昼食を摂った弘前城を中心にとした弘前観光もなかなか魅力的だった。山岳ドライブのつづくルートでは、歴史のある都会も気分転換にはもってこいだ。そして弘前の西にはあの世界自然遺産、白神山地があり白神ライン(県道28号線)が日本海まで達している。こうして、十和田湖・奥入瀬・弘前・白神が観光スポットとして固まってきた。
十和田・奥入瀬へのアプローチは?奥入瀬から弘前に至るルートは?白神を日本海に抜けた後は?計画検討の視点は“どこへ”から“どのように”に変わっていく。

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(次回;今年はどこへ;つづく)

2014年6月5日木曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-8

冷めていた分社化の話が復活するのは、明らかに1983年から始めたTCSの外販に起因するが、それだけならば1984年年初に出来たTTECのシステム部のままでよかったはずである。しかしこの年3NKHさんが副社長に就任、社長はMTYさんが引き続き留任したものの、経営陣が一気に若返り、経営形態・方針に新しい動きが胎動し始める。
創設来副社長管轄下にあった情報システム“室”も技術・購買担当のMKN常務の下に移され、情報システム“部”にあらためられたが、部長は前年室長に昇格していたMTKさんがそのまま継続することで、組織的には大きな変化はなかった。
そのMTKさんが新経営体制発足間もなく秘書室に呼ばれ、戻ってくると課長・グループリーダ(5人)を招集して「今NKH副社長に呼ばれて、情報システム室分社化について調査・検討するよう指示された。当分の間他言無用と言われたが、そうもいかないので君たちだけには伝え、このメンバーでことに当たることにする。この点特に留意してほしい」と伝えられた。しばらくの間内々で“Z計画”と呼ばれる分社化プロジェクトのスタートである。
それまで何度か出た分社化検討が比較的オープンに行われていたのに対して、今回は何故“極秘”なのか?今でも真実は分からぬが、いくつか考えられる材料はある。何と言っても大株主(E/M)が新規事業全般に懐疑的であったこと、主管が副社長から常務に移っていたこと(しばらくの間常務にも知らされなかった)ことなどがそれらである。MTKさんとしては難しい環境下での課題だったので、我々メンバーには早目に知らせ、万全の態勢で臨もうとしたのでないかと推察する。
先ず始めたことは、現状の仕事にかこつけてコンピュータ・メーカーにこの辺りの業界事情を聴くことである。IBMとはメインフレームのユーザーとしての長い付き合いがあるし、最近はTCS開発とその中核をなすACS販売でパートナーともなっている。富士通とも前年メインフレームをIBMから置き換えることで急速に関係が深まっており、この世界のリーディングカンパニー2社から得られる情報は実情把握に貴重なものだった。次いで、これも従来から付き合いのあるコンピュータ関連雑誌社にも、適当な話題を提供しながら情報サービス業界の動きや経営状況を教えてもらった。さらには個人的な人脈を頼りに、UNIVAC(のちのUNISYS)のソフト外注部門、伊藤忠から分社化したセンチュリーリサーチ社(CRC)などを訪問調査している。このような対面調査と並行して、公開されている業界情報(主に会計・財務)や関連官庁・業界団体の各種予測データの分析をメンバーが手分けして行った。
TCSの外販主務者で、かつこのZ計画でも部長を除く最年長メンバーであった私は、これらの作業をすすめながら「極秘は難しいなー」と感じ始めていた時、創立記念日(75日)パーティーの場でNKHさんから「終わったら部屋に来るように」と言われた。出かけてみるとZ計画のメンバーの何人かも居る。話はパーティーで話題になっていたTCSビジネスから始まったので私が主に対応していたが、不意に「ところでMTKさんから話を聞いているか?」と問いかけられた。集まっているメンバーからZ計画に関することと推察して「聞いています」と答えたところ、不快な表情で「おしゃべりだなー」と予期せぬ言葉が発せられた。「しまった!」と思ったが取り消せない。MTKさんを副社長命令を破った不信者にしてしまった瞬間である。
このあとMTKさんと二人でお詫びをすべく秘書室を通じて面会を求めるが、長くそれは叶わず、Z計画は3重ボード(課長会→部長会→経営会議)で処理するようにとの指示が伝えられただけであった。構想を初めての課長会に上げたのは10月初め、担当常務への説明もこの直前に行ったが、“副社長の肝いり”と言うこともあり、構想を公式に諮ることに異論は出なかった。


(次回;“新会社創設”つづく)

2014年6月2日月曜日

みちのく山岳ドライブ-1


-八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-

1.恒例の長距離ドライブ
526日から29日にかけて恒例の春ドライブを楽しんだ。ルートは自宅(横浜)を出て、首都高湾岸・外環道を経て東北道をひたすら北上、岩手県の松尾八幡平ICで下車、八幡平温泉で一泊、あとは国道・県道・市道を利用して十和田・奥入瀬・八甲田と走り弘前で二泊目、三日目は世界自然遺産の白神山地に踏み込んだ。そこから日本海側の町、鯵ヶ沢で一旦海沿いに出て、秋田県の能代南ICで秋田道に入り、ここから日本海東北道を南下、本荘ICで再び一般道に戻り、鳥海山の麓で三泊目を過ごし、国道13号線から山形北ICで山形道に乗り、そこから東北道に戻って、往路と同じ道を都心に向かって上っていった。自動車専用道を除けばほとんど山岳路、大好きなアップダウンとワインディングを随所で堪能、天気にも恵まれ、クルマも快調で1800kmを何のトラブルもなく駆け抜けた。
クルマを購入した2007年はそれが11月だったこともあり、遠くへ出かけることはなかった、箱根や三浦半島を走って2000kmまではおとなしく慣らし運転を続けた。
2008年初の長距離ドライブは新潟の豪雪地帯、松之山温泉を7月後半に訪れ、帰路は信州の白樺湖を巡る23日の旅だった。
2009年は嘗てのホームグランド、紀伊半島を45日で走った。志摩半島から海沿いを走り新宮から熊野に入り、これも世界遺産の熊野古道がハイライトだった。
2010年は酒田から角館、乳頭温泉、銀山温泉、山寺を訪ね。今回と同じ道も走っている。この年は海外へ出ない代わりに秋には黒部、飛騨も走り、高山から北アルプスを越えて松本に至る、旧安房峠越えが忘れられない。
2011年は7月初旬大洗からフェリーで苫小牧に渡り、富良野・網走・釧路・新得と花の道東ドライブを満喫した。
2012年は吉野の桜を愛でたのち高野・竜神スカイライン経由で和歌山に至り、紀ノ川沿いの古寺(根来寺・粉河寺)を訪れた。また秋には磐梯吾妻・奥只見から一度新潟県の小出に出て尾瀬の北側を走る酷道352号線を銀山平を経て走破した。今回の難所、白神ライン(途中で通行止め)と同様一瞬も気を抜けない狭隘の道を長時間走る緊張感を体験し、ある意味山岳走行に自信を付けたルートでもある。
そして昨2013年は美濃から越前に抜け、そこから天橋立・丹後半島を経て城崎に最終泊し、そこから一気に640km走って帰宅した。これが一日の最長走行距離、「この程度ならまだ何とかなる」の感を持った。
今回の見どころは岩手県北部から青森県山間部、最後は秋田県南端の鳥海。そこまでの道中は端折りたいがそうもいかない。計画検討の結果、初日640km、最終日600kmとなった。
今年1月からいよいよ後期高齢者、免許更新もあり事前の眼科医のチックでも、「免許は取得出来るが左目は再度検査した方がいい」との診たて。自覚症状もあるので心配していたが、何事もなく帰宅することが出来た。
これからしばらく、この新緑と残雪が印象的だったこのドライブ行を適宜連載していきたい。
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(次回;計画検討)

2014年5月31日土曜日

今月の本棚-69(2014年4月分)


<今月読んだ本>
1) 旅はゲストルーム(Ⅰ、Ⅱ)(浦一也);集英社(知恵の森文庫)
2) 大戦略の哲人たち(石津朋之);日本経済新聞出版社
3) ポーカー・フェース(沢木耕太郎);新潮社(文庫)
4) 国際メディア情報戦((高木徹);講談社(現代新書)
5) 原発ホワイトアウト(若杉冽);講談社

<愚評昧説>
1)旅はゲストルーム(Ⅰ、Ⅱ)
ここのところ好きな読書ジャンルの一つ、旅(特に海外)や乗り物に関する面白い本になかなか行き当たらないことは何度か本欄でぼやいてきた。そんな時Amazonから本書の紹介メールが届いた。開いてみた商品紹介画面を見たとき「これはどこかで見たような表紙デザインだな」と感じた。泊まったホテルの部屋の見取り図(平面図)である。蔵書を探ってみると、それは作家妹尾河童の「河童が覗いたインド」であった。貧乏旅行で滞在したインドの宿泊部屋をいくつも描いて旅を語る興味深い内容に惹かれ、それが記憶に残っていたのだ。「あれと同じなら楽しく読めるに違いない!」と2巻同時に取り寄せた。
結論から言うと、一見同じような形式で書かれたものだが、内容は全く異なる“凄い本”であった。河童の本は中身で読ませる。本書は図面で読ませる。これが決定的な違いである。だからと言って本書が読み物として劣るわけではない。ホテルを取り巻く環境(ビジネス、景観)と歴史を交えながら、建築なかでもインテリアに徹底的に注視し、宿泊した部屋を細かいところまで観察し、平面図(水彩で色付け)を中心(一部スケッチもある)にそれを簡潔に解説したエッセイは、ただの旅行記とは全く異なるユニークなものだ。
取り上げられるは、ビバリーヒルズのセレブ御用達豪華ホテル、上海の超高層近代ホテル、ヨーロッパの格式高いクラシックホテルや修道院・古城改造ホテルからスペイン・バスク地方の雑貨屋二階の旅籠やブータンの簡素なホテルまで2巻で約120室。中には私が宿泊したり(グランドハイアット・ソウル、シャングリラ・シンガポール)食事を楽しんだ所(マークホプキンス・サンフランシスコ)もある。
何が“凄い”か?先ずチェックインすると部屋および家具備品まで徹底的に(平面だけでなく高さを含む)、古くは巻尺で最近は携帯レーザー測定器を使って採寸し、それを備え付けのレターペーパーに1/50の縮尺で記録し彩色する(1枚で描ききれない所が数例;リージェント・シュロスホテル・ベルリンなど)。家具備品や消耗品(ミニバーの中身や化粧品類など)は、デザイナー、メーカー、ブランドまで確認。設備機能(例えば浴槽の排水時間)まで測定する。所要時間は1時間半から2時間。副題の“測って描いたホテルの部屋たち”が内容を端的に表している。
いくら旅や建築が趣味でもここまで素人がやる訳はない。著者は東京芸大で修士までインテリアデザインを学び、我が国を代表する建築設計事務所日建設計に入社、現在はその子会社日建スペースデザイン社の代表取締役と母校の講師を務める人である。
このような習慣は入社時に先輩から教えられ、いまや仕事と趣味が渾然一体になっている。海外出張ばかりでなく夫人との家族旅行で訪れたときにもこう言う所作が許されるのは、夫婦同業であることによるが、時にはその同業者にも呆れられることがあるようだ。祖父は大きなホテルの支配人、油絵を7歳から習う生い立ちも併せてその“凄さ(神は細部に宿る)”が伝わってくる。景観や備品のスケッチも素晴らしく、早く知っていれば、版の大きい単行本を求めるべきだった(絶版)。
建築インテリアが中心とはいえ、料理や酒の話(かなりの酒好きと推察)、あるいはサービスの話題も豊富で海外旅行好きにお薦めの2巻である。唯一の難点は宿泊時期が明確でないものが多いことだ(図面に記入されているのが少ない。本文から類推できるものも限られる。名称・所属チェーンが変わっているものも少なくない)。

2)大戦略の哲人たち
“戦略”と言う言葉を知ったのはいつごろだろう?多分月遅れの航空雑誌を見るようになった頃だろう(中学末期~高校)。“戦略爆撃”や“戦略空軍”から“戦略”の意味を類推していたように思う。当時の理解は、まだその残滓が身近(小学校から高校まで台東区なので戦災体験者の学友が居た)に残る“大規模都市爆撃”と密接に関わる軍事用語としてである。戦略と言う言葉を話し、書くことを始めたのはいつ頃からだろう?40歳を過ぎ経営計画立案などに携わるようになってからの様な気がする。曰く「我が社の情報システム戦略は・・・」などと言うようにである。それに対して「それは戦略ではなく戦術あるいは計画ではないか?」などと先輩に揶揄され、この言葉を使うことに随分気を遣うようになった。書物などでも軍事用語としては比較的理解しやすいが、経営やスポーツに使われるとき依然として「著者は分かっているのだろうか?」と感じることが今でも絶えない。
本書の“はじめに”でも著者は「戦略とは極めて多義的で曖昧な概念である」と“戦略”の用語定義の難しさから説き起こしていく。そこでは敵の政治経済の心臓部を直撃する戦略爆撃や物資の供給路を海軍力で絶つ海上封鎖戦略などを純然たる(軍事)戦略と位置付け、その上に在る概念「国家目的遂行に際しての政策」を大戦略(グランド・ストラテジー)とする、英国の戦略思想家リデル・ハートの考え方(さらにそれに大きな影響を与えた19世紀プロシャの軍事思想家クラウゼヴィッツの戦争論)を援用して、本書で取り上げる戦略論の枠組み・骨格を定義する。つまりこの本の内容は狭義の軍事戦略(大規模作戦)を解説するのではなく、国家の在り方に深く関わる考え方とその提唱者たちを紹介するものである。
時あたかも集団的自衛権論議が喧しい今日この頃、安全保障と国際関係を根源的なところから学んでみよう、これが本書を手に取った動機である。
ここで取り上げられる戦略思想家は6人;
・ハルフォード・マッキンダー(英);地政学の祖;地理学を基盤にした、欧州中心の戦略論(大英帝国対ロシア、ドイツ)。1947年に死去したので“現代”とは言い難いが、“地政学”(彼自身は“学”と意識していない)に基づく国家戦略は現代でも盛んに論じられている。
・マイケル・ハワード(英);国際戦略研究所創設者、クラウゼヴィッツ研究家;戦争研究を一つの学問領域として確立した最も重要な学者。
・バーバード・ブロディ(米);ランド研究所研究員、原爆を“絶対兵器(単なる大きな兵器ではなく)”ととらえた核抑止力戦略の先駆者(核時代のクラウゼヴィッツ)、1978年死去。
・ヘンリー・キッシンジャー(米);制限戦争理論(通常兵器と核の段階的運用)とデタント、この分野で理論と実務(国家安全保障担当首席補佐官、国務長官)を担った唯一の人物。
・エドワード・ルトワック(米);戦略国際問題研究所研究員、イラク戦争に反対、著書「戦争論」は欧米大学学習者の現代戦争学・戦略学の基本文献;ポストヒロイックウォー(死傷者の無い戦争)・パラドキシカル・ロジック(平和のためには戦争を!)など挑発的な論理を展開。
・マーチン・ファン・クレフェルト(イスラエル);ヘブライ大学歴史学部教授、非三位(政治・軍事・国民)一体(あるいは非対称;テロ・ゲリラ、国の枠を超えた宗教戦争など)戦争論→クラウゼヴィッツ批判;戦争は“政治”といった狭義で合理的な枠組みでとらえるべきでなく、広義の“文化”という文脈の上でとらえることで初めて理解できると主張。
いずれも当該分野で国際情勢と技術の変化に対応した新たな国家戦略の在り方を提言してきた戦略思想家である。著者はこれにリデル・ハートを含めて7人を“哲人”としているが、リデル・ハートに関しては別に著わしているので本書から省いている。これらの人々がベスト6なのかどうか判断する力は私にはないが、選ばれたメンバーに軍人がいないこと、マッキンダーを除けばすべてユダヤ系であることが特に印象に残った。
本書の書き方は、先ずそれぞれの理論を著作(一部インタビューもある)に基づいて解説し、それらと先駆者(特にクラウゼヴィッツ、リデル・ハート)や影響者の論との比較を行い、時間的変遷を含めて考察し、現代への適応性を評価する形をとっている。記述方式を統一しているので、相互の違いが分かりやすく、安全保障政策、戦争・戦略理解の入門書的な読み方に適した書と言える。
著者は防衛省防衛研究所戦史研究センター国際紛争史研究室長。“大戦略”研究および適用が大国中心進められている内実を本書で示しつつ、我が国独自の大戦略の必要性と可能性を本書末尾で主張している。
本書を読んで、我が国の安全保障論議があまりにも表層的・場当たり的であると痛感させられた。大学の国際関係論の授業などで、堂々とこのようなことが教えられ、学会活動などが広く活発に行われることが、厚みのあり現実的な自国を取り巻く戦略論醸成に不可欠との感を深くした。

3)ポーカー・フェース
著者の名前は1970年代からノンフィクション・ライターとして知ってはいたが、当時著者が得意としていたスポーツ物に興味のない私にとって、読みたくなる本は無かった。作品に初めて触れたのは1986年に刊行された「深夜特急」(全3巻)である。これは香港からロンドンまで乗合バスを利用して旅する話しで、時代は1970年代前半著者が267歳の頃である。のちに若いバックパッカーのバイブルとなるほどこの分野の名作となる代表作だ。若い人の旅の姿や感性に溢れ内容は「もうこんな旅は出来ないなー」と感じつつ、次作の発刊が待ち遠しかった(特に第12巻と第3巻の間は6年空く)。この待ちの間に読んだのがエッセイ集「バーボン・ストリート」である。
旅に並んでエッセイも好きなジャンルの一つだ。短い文章の中に著者の思いを込めるために、ややもすると味が強くて読み手の嗜好に評価が分かれるが、そこがエッセイの面白いところでもある。それまで好んで読んできた作家(内田百閒、山口瞳など)・優れたエッセイスト(団伊玖磨)の作品には教訓を得たり、“寸鉄くぎを刺す”ピリッとした批判を含むものが多かったが(ある種の緊張感が漂う)、「バーボン・ストリート」はそれらとは一味違い、何か和らいだ雰囲気の中で“清々しい”気分を味わえるものだった。この頃には著者は既に40歳代半ばに差しかかっていたにも拘わらず、である。その作風に惹かれて「チェーン・スモーキング」「彼らの流儀」「シネマと書店とスタジアム」と読みつないで本書となったわけである。
酒場での有名作家(吉行淳之介)とのやりとり、“なりすまし”と言う言葉からの思わぬ連想、高峰秀子の思い出、バカラとばく必勝法、ブラディメリーのメリーはメアリーではないか?など今回も嫌みのない文章で面白い話題が13編。久しぶりに読んでみて(既刊のものも同じだったのかもしれないが)発見した魅力は、当然起承転結は踏んでいるものの、“転”が何度も現れることである。一例は、都心の公園で見た青大将が低所恐怖症(幼児から高層マンションに住んでいた人)になり高山病の話に転じて、さらにやくざの世界入り込む“恐怖の報酬”、読む前には同名のフランス映画でも取り上げるのかと予想していただけに、想定外の展開にすっかり惹き込まれてしまった。
エッセイとしては少し長い(月刊小説新潮に連載)ので夕食後アルコールでも嗜みながら、ゆったりした時間を過ごすのに好適の書である。

4)国際メディア情報戦
国家運営もここまで来たか!!第1章でいきなりこんな思いを抱かされる。話は1990年代のボスニア紛争である。ユーゴースラヴィア連邦が崩壊していく中で、セルビア人(主にキリスト教徒;少数派)とボスニア人(主にイスラム教徒;多数派)との主導権争いが分離独立宣言したボスニアヘルツェゴビナで始まる。政府主流は多数派のボスニア人だが、セルビアの支援を受けた少数派が武力で巻き返しを図る。「国際世論を味方につけるしか生き残り策はない」こう感じたボスニア政府は外相を米国に送りその支持を取り付けよとする。しかし米国務省の動きは鈍い。そこへ登場するのがルーダー・フィンと言うPR会社(ここでは広告代理店ではなく、“広告をカネで買う以外のこと”はなんでもやる会社;時間や紙面を買うのではなく、報道番組の中に顧客の意思を反映させる)のエキスパート、ジム・ハーフだ。記者会見の設定、話し方、用語(民族浄化をethnic cleansingと表現するがcleansing(洗浄)は英語国民に強烈な印象を与え、一語でボスニアで何が起きているか理解できる)、利用する写真や動画、総てを準備し外相に対メディア対策を指南する。結果世論はボスニア支持に傾き、それが議会を動かし、ついには大統領府もボスニア支持を打ち出して、セルビア首相ミロシェビッチを極悪非道の悪人にしてしまう。独裁国家では程度の差こそあれこのようなメディア・コンサルタントを利用しているとのこと。
著者はこれをNHKスペシャル「民族浄化~ユーゴ・情報戦の内幕~」としてまとめ上げたディレクターである。この他にも同じスペシャル番組「バーミヤン大仏はなぜ破壊されたのか」「情報聖戦~アルカイダ謎のメディア戦略~」なども担当、本書にもこれらに関する取材(当然ジム・ハーフへのインタヴューもある)結果がふんだんに利用されている。
戦場がTVで実況中継され、それによって国際世論が動く時代、自国・自分に有利な状況を、一見中立と見えるメディアを巧みに利用して作り上げていく。一方でメディアの側にも視聴者に受けるような画面や言葉を求める傾向が強まっていることに注視、その倫理価値観の在り方を問題視もしている(残酷映像合戦)。
本書では、ケースとしてアメリカ大統領選挙、ビン・ラディンとアルカイダ教育宣伝活動、米国の対テロ対策、2020年東京オリンピック誘致などを取り上げ、その具体的な手法(主としてTV)から結果まで、知られざる世界を見せてくれる。
読んでいて気になることがあった。それは、先の“倫理問題”にも関わることだが、このようなメディア利用が上手くいく前提には“開かれた社会”の存在が必須とし、インタビューなどで制約を設けるべきでないと主張していることである。特に、事前に質問に枠をはめるのはけしからんとしている(何でもあり。意表を突かれたときの変化こそカメラチャンス)。これを見て“メディアの驕り(独りよがり)”を感じないわけには行かない。視聴者は本当にそこまで求めているだろうか?(昼のワイドショーの視聴者が標準か?)
興味深い本ではあるが、衆愚化の著しい内外の政治環境を見るとき、決して後味の良い本ではなかった。

5)原発ホワイトアウト
本書は、原発再稼働に向けた政官財の動きをテーマにした官僚小説である。著者は覆面作家であるが、帯の紹介には東大法学部卒の現役キャリア官僚であると記されている。折しも読了直後に大飯原発再稼働を認めない判決が福井地裁で下された。
こういう本(国内政治の内幕もの)はまず自分では購入しないし興味もない。読むことになった経緯は、2ヶ月に一回開かれる東燃同期の飲み会で毎度原発が話題になることから、仲間の一人が読み終えた本を回覧するよう提供してくれたことによる。
読後感は、小説としての完成度は今一つだが、政・官・財(企業)・メディアの見えざる糸の絡みをリアルに描くところはさすがにキャリア官僚でなければ書けない!の内容である。覆面で書いたことも、その覆面を剥ぎとろうとする動きがあることも、四者の関係をここまで暴かれると困る組織や人が居ることの証左だろう。
登場人物は、経済産業政策を牛耳る保守政党の実力者、資源エネルギー庁次長、同期の原子力規制庁審議官(技官)、電力会社総務部長から業界団体に出向中の常務理事の4人が主役級。これに脇役としてTVアナウンサー・記者出身の魅力的な女性フリー・ジャーナリスト、彼女にハニートラップを仕掛けられ極秘情報を流す原子力規制庁の若手官僚、原発再稼働に慎重な県知事などが絡む。
大震災による原発事故を契機に高まる電力政策の大胆な見直しを形骸化し、早期原発再稼働を図ろうとする経産省トップ、容易に再稼働を容認しない地方自治体、電力業界から流れる巨額の政治資金、反対者を懐柔するための便宜供与あるいは潰すための国策捜査など、モデルとなる複数の有名事件を下敷きにしながら話を組み立てているが、直ぐにそのモデルが分かってしまい、現実の事件が一連のつながりを持つものでないだけに、如何にも作り話の印象がぬぐえない。むしろ読みどころは、官僚・政治家・産業人のやり取りの細部表現にある。例えば、どういう手順で新しい政策が起案され、その見かけと実効を如何に使い分けられるようにするか、そのために官僚はどんな政治家にどのようにアプローチするか、これは現実に難しい政策立案に携わった者でなければ書けないし、こういうところは極めて臨場感に富んでいる。
表題はいかにも反原発の本のようにみえるが、本来原発稼働問題は舞台回しの材料に過ぎない。従って真剣に原発問題を考えようとする人には期待外れになるだろう。
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2014年5月25日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-7

“模索”の話をもう少し続けてみたい。と言っても東燃グループのそれではなく、当時の情報サービス産業を取り巻く環境である。“コンピュータ、ソフト無ければ、ただの箱”などとソフトウェアの重要性を訴える川柳が巷間語られるようになるのは1960年代後半だったように記憶する。いまやコンピュータ利用の核心を突く古典的名格言だ。こんな詩がうたわれたのは、実態はむしろその逆で、“ソフトはハードのおまけ”と言うような風潮とビジネス・モデルがあったからだ。
これが本格的に見直されるのは、IBMが独占禁止法に絡んで、1969年アンバンドリング(Unbundling;ハードウェアとソフトウェアの価格分離)策を打ち出してからである。それまでのIBMビジネスは、ハードウェアの他に自社製品の基幹ソフトウェア(O/S、プログラミング言語など)やそれらをユーザーが使いこなすための教育・保守を含む技術サービスなどを一括りにしたやりかたで、価格構成がはっきりしていなかった。また、個々のユーザーアプリケーション(例えば販売会計)ソフトはこれらIBM提供のサービスの下でユーザーの責任と費用で開発する形を採り、IBMがそこまで含めてターンキー(アプリケーションが設計通り動くことを保証する)受注することは通常なかった(国家プロジェクトの様なものを除いて;東京オリンピックやNHK番組編成など)。これはある意味IBMの弱点でもあり、国産各社はターンキー受注策でそれに対抗しある程度成功していたが、そこに“おまけ”的な施策・意識も醸成されていったのである。
このハード/ソフ分離策が行われてもIBMがシステム開発全体を請け負うことはなかったが、やっとアプリケーション・ソフト開発が独立したものとして認知されだしたことは、この業界の知名度と地位を高める上で大きな意味を持った。この流れに乗って、70年代後半に入ると、本業と職場環境の大きく異なる、金融業から情報システム部門の分社化が始まり、他社の仕事を手掛けるところも出てくるようになる。ただ、製造業では各種計算は本業そのものだったから自社内に抱えておくのが一般的だった。従って外販も行っていたとはいえ、1981年石川島播磨重工のSE80人が、コスモ・エイティとして独立した時には大きな話題を呼ぶほどだった。
しかしこの前後、製造業でも多くのグループ会社を抱える企業や膨大な小口金融を扱う業種では、主にグループ内情報サービス提供効率化を目的に一部分社化を進める動きが出てきていた。例えば、石油や化学関連では、前者に三菱化成(現三菱化学)グループへのITサービスを目的に設立された菱化システム、後者では旧日本鉱業が傘下のガソリンスタンド精算業務を請け負うセントラル・コンピュータ・システムを1970年にスタートさせ、1980年頃からグループ外ビジネスを積極的に展開し始めることになる。
こんな時期、まだ私が川崎工場在籍だった時(~1981)、一度情報システム室分社化の話を聞かされたことがある。この出所は新事業担当のNKHさんからではなく、情報システム室も主管であったTAI副社長からだった。どうも業界か財界の集まりで誰かから吹き込まれたようで、どこまで本気であったか不明だが、当時の情報システム室長にご下問があり、本社の管理職中心に検討が進められていた話が洩れてきたのだ。
東燃の情報サービス機能は大別すると4分野になる。一つは事務系全般を取り扱うもので、もともと経理部機械計算課として発足したもの。第2は、線形計画法を生産計画や設備計画に適用するところから発し製造部数理計画課としての歴史をもつもの。第3は各種技術計算、そして第4はプラント運転制御分野である。一体どこをどう分社化するのか?OTB室長は第2分野の出身者、SMZ次長は経理バックグラウンド、技術部制御システム課長兼務で室長付のMTKさんは計測制御が長い。室長の意向は当然数理技術を中心に考えていたが、結局話はまとまらぬうち熱も冷めていった。ここでの室長案、数理技術を差別化因子にする発想はこの業界の常識であった“量でこなす(薄利多売)”ビジネス・モデルとは一線を画すもので、のちの分社化検討にそれなりに影響力を与えることになる。


(次回;“新会社創設”つづく)