2011年1月31日月曜日

黒部・飛騨を駆ける-8(最終回);黒部アルペンルート

 黒部アルペンルートは富山と大町を各種の乗り物を乗り継いでつながる山岳観光コースだ。自家用車で走れるところは限られており、一気に走破することはできない。20年前に一度富山から大町へ抜けたことがあるので、今回は“黒四”に焦点をあて、大町側から立山(雄山)直下の室堂まで往復することにした。前日の宿泊先は大町温泉のプリンスホテルである。この系列(西武)のホテルは前のオーナーが嫌いで今まで宿泊に利用したことはないのだが、それも不祥事件で失脚したし、たまたまインターネットで条件が合うところとして選ばれたのでここに決めた。夕食の時間割り当てなどみていると団体客が主体のようで、翌朝ロビーには大量のダンボ-ル製りんご箱が積み上げてあった。中国人観光客のお土産である。
 今日は帰路を除けば車で走るところはほとんどない。大町側の黒四への基点、扇沢から室堂まで関西電力の系列会社が運営する各種の乗り物を利用するしか術はないからである。前日フロントに聞くと「室堂往復なら9時までには扇沢を出て、3時頃戻るのが適当でしょう。朝は混むので少し時間に余裕をみて早めに。往きは観光せず出来るだけ早く室堂に達し、帰りを楽しまれると良いでしょう」とのこと。雲が低く垂れ込める中を扇沢に向かう。標高が1500m近くあるので周辺の紅葉が美しい。以前来た時に比べ見違えるように立派な駅舎ができている。付帯する駐車場は有料だが、その少し手前にある市営駐車場は平日無料なのでそこに車を止める。
 このルートの楽しみはいろいろな乗り物にある。中でも日本でここでしか乗れないトロリーバスがその代表と言える。ルートは完全にトンネル(6.1km)の中、黒四最大の難工事(工期7年)だったフォッサマグナの破砕帯もここにあるが、今では所要時間わずか15分で抜けてしまう。幸い晴天ではないが、雲はだいぶ高くなり周囲の景観がはっきりしてきている。
 次いで満々と水を湛えるダムの上を歩いてケーブルカーの駅に向かう。このケーブルカーで約400m上ると黒部平に至る。ここから先はロープウェイ(定員80人)になので順番待ちになる(ケーブルを降りると整理券をくれる)ので、雄山(立山連峰の主峰)をバックに記念撮影している人が多い。この辺までくると木々は減り褐色の山肌が目立つようになる。ロープウェイは1.7km(支柱なしで日本最長)ありここでさらに500m上るので終点大観峰からの後ろ立山連峰の山々が間近に見渡せる。ちょっと展望テラスに出てその迫力のある絶景を楽しみ、再びトロリーバスに乗って室堂ターミナルに向かう。このルートも全線トンネル、トンネル内駅の階段を上り表へ出る目の前に標高3003mの雄山が聳え立っている。到着したのは11時だった。
 昼食までの約1時間半、周辺のみどりが池、みくりが池、地獄谷などを散策したが、この高さ(2500m)までくると低木と岩ばかりで紅葉を楽しむ機会はなく、山歩きの雰囲気になる。
 混雑する室堂ターミナルの食堂で昼食を採り、1時過ぎのトロリーバスで来たルートを戻った。難所はロープウェイで、ここではどうしても待ちができる。この時間帯は団体客が多く、われわれは韓国からの観光客と一緒になった。ロープウェイに乗り込む際、我先にと前方の窓際に集中したので、ロープウェイがグーッと前方に傾いだのには驚いた。
 ホテルの助言どおり黒部湖ではたっぷり時間を取り、紅葉を愛で、湖からダム下流まで一望できる展望室でのんびりと過ごした。残念ながら豪快なダムからの放水は10月初旬で終わっていたが、ダムを眺め、あの時代の元気な日本をしばし想い起こしながら、この旅最後の観光を終えた。
 扇沢を2時半に出発、大町から豊科に出て、中央自動車道を経て自宅到着は8時半、全走行距離;1034kmのドライブ。ガソリン消費量は95.4L(燃費;10.8km/L)であった。
(“黒部・飛騨を駆ける”完)
写真はクリックすると拡大します

2011年1月29日土曜日

写真紀行-冬の京都を巡る-(4);嵐山から嵯峨野へ

 桂離宮後発組は1時間後のスタート。合流場所は阪急嵐山線を降り、桂川の渡月橋を渡り、川沿いの茶店と言うことになっていた。出発前に店の名前もMRNさんから指示されていたのだが、先発のSKIさんも私も名前を失念。ぶらぶら歩いているとちょうど開けたばかりの茶店があったので一休みすることにした。川に面して緋毛氈を敷いた縁台が設え、その一角だけうまく風が当たらない。明るい光の中で、豆腐田楽で一杯やりながら、後発組を待つことにした。
 後発組は離宮から直接タクシーでやってきたので、11時半頃に合流。しばし川に沿って歩き保津川(桂川上流)下りの下船地点まで行き、そこから東に開ける嵐山公園の上り道に取り付いた。この辺はシーズン(桜、紅葉)には人で溢れ返るようだが、今日は我々だけである。

 昼食は天竜寺に近い湯豆腐の「竹むら」で採ることになっているので、嵐山公園のあとは嵯峨野方面へ道をとり、途中「丹下作善」で有名な、大河内伝次郎の別邸(ここの庭も素晴らしいようだが、今回はパス)があるところで折れて天竜寺の外縁をなす竹林を抜けることにする。さすがにここには観光客が出ているが、それでも混雑するほどではない。手入れの行き届いた竹林はただの竹薮とは違い、天を突くほど高く伸びて、見る者を圧倒する。
 「竹むら」は天竜寺へは2,3分、大衆的な感じの店で、熱燗と湯豆腐で午前の疲れを癒し、午後の活力を補給するのに適当な所であった。
 天竜寺は後醍醐天皇の菩提寺として足利尊氏が創建したもの。世界遺産になっているが、何度も大火に遭っているので、建物よりは庭園に価値がある。我々の観光も庭園見学だけにした。なんといっても有名なのは本堂(大方丈)を囲む小石を綺麗に掃いて作られた部分だが、苔や先ほど見た竹林、それに桜と紅葉、ときには木々を覆う雪景色も季節によって堪能できる。ここも今日は静か、出たのはあの竹林につながる北門だった。
 再び竹林をもどり、大河内邸前で東に向かい、山陰本線の “トロッコ嵐山”駅(旧線、新線がここで分かれ、旧線は保津川下りの出発点まで観光路線になっている)を下に見ながら嵯峨野へ向かう。それほど市内から離れていないのだが、まるで山里である。北山杉の産地も近く、並木にもその独特の育成方法を見ることが出来る(根元から数本の枝を垂直方向に分ける)。

 嵯峨野散策のゴールは祇王寺、平清盛に愛された白拍子(祇王)が、やがてその寵を失い剃髪して篭ったのがこの寺。尼寺である。こじんまりしているが、如何にも世捨て人の隠れ住む地に相応しい。寺と言うより庵の雰囲気、さびしい場所・佇まいが往時をそのまま偲ばせる。京都が人々を惹きつけるのは清水や金閣ばかりでないことを、しっかり体験した。
(次回;金閣寺と舞妓)


(写真はクリックすると拡大します

2011年1月27日木曜日

決断科学ノート-56(ドイツ軍と数理-5;電撃戦と兵站-4;三つの電撃戦-3;東部戦線)

 欧州完全制覇を目指した英独航空戦(英国のORが実用化するがこの戦い)が頓挫した後、ヒトラーはその矛先を東に向けることに決する。西側は守りとは言え、これでは国防軍のもっとも恐れる二正面作戦になる。当然ヒトラーと軍部の間で激しい議論が戦わされるが、結局ヒトラーの意志を変えることは出来ず、1941年6月22日ドイツ軍はロシアに侵攻する。これがバルバロッサ(赤ひげ)作戦である。
 この戦いについては数千の書物が書かれ、その兵站に触れていない本は無いと言われるほど勝敗(そして国家の命運さえ)の帰趨を決する最重要因子だった。1812年のナポレオンモスクワ遠征を持ち出すまでもなく、ヒトラーも国防軍もそれを十二分に承知していたはずである。当面の作戦到達点は、北は北極海に面するアリハンゲリスク、南はヴォルガ川がカスピ海の北岸そそぐ地点を結ぶ線まで。ウラル以西のヨーロッパ・ロシア全体と言える。ポーランド分割で東に移動した独ソ国境線から目標線まで1600kmの距離がある(モスクワまでが約800km)。この目標線まで装甲軍を進出させるとなると膨大な武器・弾薬・燃料が必要となることは自明である。作戦策定者・決断者はこれをどう考えていたのであろうか?
 どうやらここにはロシア革命によるボルシェビキ支配に対する反政府感情や西方作戦における電撃戦成功過信が織り込まれているようなのだ。つまり、まともな計算では実現できないので、自らを納得させ得る楽観的な作戦展開を想定して、それに基づく兵站を進めて行くという、論理的思考を著しく欠いた考え方で案を作ることになる。具体的には国境から500km以内で赤軍主力を包囲殲滅し、和平交渉に持ち込むか、政府の瓦解を待つと言うものである。そしてその構想は、少なくとも装甲軍を突進させる作戦は見事に当たり、緒戦では成功するかに見えたが、兵站想定限界が見え始めた頃からソ連の反攻が冬将軍とともにやってくる。
 問題は物資よりもその輸送手段にあった。鉄道と道路の事情である。参謀本部が戦前想定したロシアの道路は第一次世界大戦の経験である。当時ロシア領だったポーランドやバルト三国の道路は西欧並みに整備されていた。しかしこの戦いで踏み込んだロシアはまるでヨーロッパの常識が通じないほど酷い道だった。特に秋の雨季には“ラスプーチッチャ”と呼ばれる泥濘の海に変じる。ドイツ装甲軍育ての親、グーデリアン上級大将の自伝を読んでいると、東部戦線のところでは“泥”“泥濘”“ぬかるみ”で溢れている。また英国の軍学者、リデル・ハートは「ソ連にとり、より大きな利点はロシアの道路である。ソ連に西欧並みの道路網があったら、フランスのように簡単に蹂躙されていただろう」と断じている。
 鉄道がまた問題であった。これだけ縦深で広大な地域の作戦では鉄道輸送力が主力になるべきである。しかし、帝政ロシア時代西方からの侵入を恐れ、ゲージを独特の広軌にしておいたことがここで生きてくる。ドイツの鉄道部隊は標準軌への切り替えに奮闘するがゲリラ活動などもあり、思うように改変が進まない。やっと出来てもドイツ製機関車が走るには路床や線路がそれに耐えられない(ドイツの機関車の方が重い)。またドイツ製機関車の給水システムが外部にむき出しのため冬季には凍結して、役に立たなくなってしまう。
 ナポレオン、そしてヒトラーの敗因を“ロシアの冬”に求めるものは多い。しかし、装甲戦に関する限り、地盤が固まるロシアの冬は戦いやすい。グーデリアンは冬の到来を待ち焦がれていたくらいだ。しかし、キャタピラの滑り止め具が届かずスリップ事故が多発する。
 作戦策定時に兵站面で大まかな数量的検討があったものの、それは現実的なものではなかった(見たくないものは見ない;これは日本軍も同じ)。さらに作戦が進行すると、折角計画通り生産された物資が陸上輸送ネックで最前線に届かなかった。OR的な発想が生まれるにはあまりにも条件が悪い。これが東部戦線の姿だったのだ。海上輸送や空輸作戦へのOR適用で成功した米英とはここに前提条件の違いがある。
(次回;兵器の稼働率)

2011年1月25日火曜日

写真紀行-冬の京都を巡る-(3);桂離宮

 桂離宮は元宮家の別荘として17世紀に建てられたもの。今でもその管理は宮内庁が行い、事前申し込みをして、許可された者のみ見学が許される。見学希望日と申し込み手続きの間にあまり日がなかったのでどうなるか危惧されたが、その方面に知人がいるSZKさんの努力で12日午前の見学がOKとなった。ただし、ある人数以上のグループは一度にまとめることは出来ず、9時と10時のスタートに分けられた。私はSZKさん、それにこの見学を切願していた建築の専門家、SKIさんと一緒の先発組みだった。

 われわれを含めて朝一番の見学者は15人程度。それだけが参観者休憩所に入ることを許される。ここでビデオ案内を見た後、職員による見学注意事項の説明がある。「残念なことですが、現在池のメンテナンスが行われており、水がかなり抜かれています。ただ、庭園作りの専門家にはむしろこの方が参考になるかもしれません」とのコメントがある。それと思しき人は見当たらなかったが、ここはその種の人々にとって学習・研究の場でもあるのだ。
 素人の浅知恵でこの庭園は小堀遠州の作とばかり思っていたが、渡されたパンフレットには「遠州は直接関与していないが、遠州好みの技法が随所にみられる」とある。どやら複数の弟子たちとオーナー、智仁(としひと)親王(後陽成天皇の弟)の趣味趣向が合わされた成果であるようだ。
 ルートは表門(現在でも皇室関係者専用)の内側にもうひとつ設けられた御幸門から始まり、時計方向に複雑に入り組んだ池を巡る。途中には山や浜を模した風景、休憩所、茶室などがあり、どこにも景色を愛でるための一工夫がされている。例えば遠近感や高低感の強調(錯覚)や、窓で切り取られる景観の違い(同じ部屋に居て、一方の窓からは山、他方の窓から海)、時間と季節による月(枝越しの月、池に映る月)の変化、踏み石の種類・構成による雰囲気の違い(フォーマル、カジュアル、その中間)、ふすまの柄や違い棚の作りにもそれなりの意味付けがあるようだ。石灯籠だけでも何種もあり、 これだけを調査研究の対象にする見学者もいるという。

 最後は住居である、古書院・中書院・新御殿となるが、ここだけは外観だけしか見学できない。付帯する広い芝庭は蹴鞠などを行うところである。
 新緑や紅葉の季節に、満々と水をたたえた池を巡る景観はさぞかし心打つものだろう。案内者は「私は梅雨が一番だと思います。苔の緑が素晴らしいんです」と言う。しかし冬の真盛り、木々の葉が落ちることで、すべてを見渡せるのも一興であった。
 このチャンスを作ってくれたSZKさんは所用で、阪急桂駅で別れ、一人横浜に帰って行った。
(次回;嵐山・嵯峨野)
写真はクリックすると拡大します

2011年1月22日土曜日

写真紀行-冬の京都を巡る-(2);産寧坂から高台寺へ

 京都は、学会・リクルートやビジネスでは比較的よく訪ねている町だ。しかし“観光”と言うことになると、極めて限られた思い出しかない。初めての京都は中学の修学旅行。次は高校の修学旅行である。社会人になってからは和歌山工場時代にドライブで一度、大学の研究室仲間が大阪赴任中比叡山から滋賀県の坂本へ抜けた旅、それに小学生だった息子と梅小路の機関車館を訪れたことくらいである。清水寺、知恩院、金閣寺は京都旅行の定番、観光バスや車を利用して何度か見学し、点としての記憶はよく残っている。それから半世紀以上経た今回の違いは、線と面で京を眺めるところにある。つまり、老体には堪える徒歩観光なのだ!
 清水坂を少し西へ下り、七味屋の角を北へ折れる。そこから始まるのが産寧(さんねい)坂、最初は石段である。スケッチを好くするSZKさんが「この途中から見える五重塔は絵になるんだよね」と言いながら西を向く。残念ながら西日が強く写真にはならない。二年坂へ続くこの一帯は景観保存地区に指定されており、建物にはいろいろ規制があるようだが、現在は左右に土産物屋や茶店などが軒を連ねている。MRNさんが「シーズンはごった返していますよ」と言いながら盛時を解説してくれる。
 二年坂の突き当たりはもう高台寺の境内、ここは秀吉の正室、ねね(北政所)が秀吉の冥福を祈るために建立した寺である。写真の階段と手すりが写っているのが重要文化財の霊屋(おたまや)である。庭も竜安寺のように小石を掃いてきれいに作られている。
 ここを出てさらに北へ進む道が“ねねの道”で、円山公園に至る。公園の一角に坂本竜馬と中岡慎太郎の銅像があった。街中に幕末を残すものはほとんどないので、彼らにとって、良い落ち着き場所なのかもしれない。
 MRNさんが「知恩院への正面の道は階段がきつから」と裏道をとって先ず国宝の大鐘楼に行く。ここも幸い人が少なく、ゆっくり記念撮影ができる。そこから下ると御影堂。確かにこのルートは楽だ。
 このあと八坂神社などへよるグループと別れ、SZKさんと私は一旦駅近くのホテルへ戻り、6時から八坂の京懐石の料亭「坂の上」でひらかれた全員集合の夕食会に出た。ここはSKIさんのご縁で地元の方に紹介してもらったが、場所と言い料理と言い京都を堪能させてくれるものだった。
 ほろ酔い気分で店を出て、四条通りからえびす神社に向かう。ここは十日えびすなので今日(十一日)は“あと”えびすだが屋台と人出が凄い。だいたい東京の酉の市と同じ趣だが、境内に控えている(福笹を手渡す)のは巫女さんではなく、舞妓さん!さすが京都!
(次回;桂離宮)

写真はクリックすると拡大します

2011年1月19日水曜日

写真紀行-冬の京都を巡る-(1);清水寺

 高齢の水泳仲間がいる。私を含めて7人。年齢は78歳~62歳、毎日曜日は泳いだ後ビールを飲みながら昼食を伴にする。メンバーには長州・水戸・京都出身がおり、よく幕末・維新が話題になる。8月の終わり頃だっただろうか、誰言うとなしに「一度皆で京都へ出かけよう」という話になった。こうして実現したのが今回の京都旅行である。
 メンバーの一人、最年長のMRNさんは私がクラブに入る前に郷里の京都へ帰り、横浜の旧宅に住む息子さんを訪ねがてら時々昼食会に参加していた。引退後の生活を充実させるため“京都検定”に挑戦、二級の資格を取得している。もう一人の京都出身者は大学で水球選手だったKWBさん。母上がご健在でその介護で定期的に京都通いをしている。長州藩のYSTさんはガス会社勤めをしながら京大に通い博士号を取ったのでこれも京都に詳しい。水戸藩のSZKさんは航空会社勤務が長かったこともあり、旅に詳しく薩長とは異なる視点で幕末史をみている。製鉄会社で構造物設計研究に長年携わり工学博士号を持つSKIさんは神社仏閣の木造建築にも一家言ある人。この京都行きにもっとも熱心だった、小泉元首相の高校時代の親友(首相を「純ちゃん」と呼べる)ANDさん。それに日本史全体に無知な私が加わっての7名である(いまだ仕事を持っているYSTさんは直前に不参加となり、最終的には6名の旅;写真;清水寺仁王門前ではご母堂見舞いのKWBさんも不参加で5人)。
 時期の決定は、MRNさんの助言で1月となった。桜・新緑(苔の鑑賞は梅雨)・紅葉の季節がベストだが、人出が凄まじく、遠景からの眺めはともかく、神社仏閣は動きがとれぬほどになるらしい。日にちはメンバーのスケジュールと、今回の旅のメイン・イヴェント、“桂離宮”見学許可日(12日午前)から決定。
 11日12時京都駅新幹線八条口集合。その日は清水寺→産寧坂→高台寺→ねねの道→円山公園→知恩院→八坂神社と廻って一旦ホテル(これは各自予約)にチェックイン、6時から八坂の京懐石「坂の上」で会食。そのあとはえびす様(その日は“あとえびす”)をひやかす。
 12日は午前中桂離宮見学→嵐山散策→豆腐料理「竹むら」で昼食、そのあと天竜寺→竹林を通って嵯峨野歩き→金閣寺→木屋町・先斗町をぶらつき→京都の豪商(高瀬川を自費で開削);角倉了以(すみのくらりょうい)の残した庭を売り物にする「がんこ高瀬川二条苑」で京料理と舞妓さんを楽しむ。
 13日は宇治平等院を見学後伏見へ移動し竜馬が襲われた「寺田屋」を見たあと月桂冠が経営する「月の蔵人」で昼食して自由行動となる。
 盛り沢山、京都人ならではの配慮である。 以下写真にコメントを付す形でこの旅を紹介する。
 清水寺は高校の修学旅行以来だから半世紀以上前だ。あの舞台が傾斜していることを今回初めて知った。
 冬の良さは、木々の葉が落ち、建物やその構造がよく見える点である。がっちりした舞台下部の柱の組み合わせが、往時の建築技術を余すことなく顕にしている。
(次回;清水から高台寺へ)
写真はクリックすると拡大します


2011年1月17日月曜日

黒部・飛騨を駆ける-7(安房峠)

 1969年3月雪に阻まれて以来、いつかこの峠を自分の車を運転して超えたいと思い続けていた。この日と同じように高山を出発してしばらく走ると平湯峠にとりつく辺りで道路の両側は雪の壁になり、しばらくするとブルドーザが雪かきをしていた。作業員に聞くと、連休明けの開通になるという。当時は今のように道路事情を簡単に調べることができなかったので、予期せぬ出来事だった。その日のゴールは今回とほぼ同じ白馬だった(今回は大町だが)。仕方なく神通川を下り、富山から糸魚川を経て何とか着くことができた。
 その後この方面を走る機会は無かった。この峠にトンネルが穿たれたことを知っていたが、もしこの地方を走るならもう一度あのルートにチャレンジするつもりであった。そしてついにその時がやってきたのである。
 11時過ぎに高山を出発、158号線は直ぐに上りになる。雨は止んでいるが雲は低い。標高が上がり、道の両側の人家が途絶える頃から霧が出始める。カーブの続く道をフォグランプを点灯し、慎重に走っていく。平湯峠は今では安房峠同様トンネルで抜けられるので、楽しみは後に残し、こちらを走ることにする。トンネルの標高は1445m、国内最高の高さである。トンネルを出てしばらく上ると珍しくこんな山の中に信号機がある。旧道、安房道路(トンネル)と奥飛騨温泉へ向かう国道471号線が交わる地点なのだ。晴れていれば展望がききそうな場所だが低い雲に覆われてそれは叶わない。そこに広い駐車場があるドライブインがあったので、ここで昼食とした。間もなく県境を超えて長野県に入るのだがここはまだ岐阜県、飛騨牛の焼肉定食を食べる。
 小一時間休憩した後ここから旧道を峠を目指して出発する。幸いこの休憩の間少し天候が回復、雲や霧が走行を妨げることは無くなった。しかし旧道はほとんと走る車が無いのであろう落ち葉が狭い道を埋めている。スリップが恐い。おまけに曲がりは急で、カーブでの行き違いは不可能だ。昔はこの道が飛騨と信濃を結ぶ唯一の幹線道路、大型トラック・バスは何度か切り返ししなければカーブを抜けられなかったという。そんな大型車が走ることを想像することすら容易ではない。上も下も紅葉に覆われた道を走っていて、この道の中間点中ノ湯まで行き交ったのは軽自動車と小型のライトバン二台だった。中ノ湯は焼岳の登山口にもなっているので、ここまでは松本側からバスが来ているようだが、そのバスとも一度も出会わなかった。さらに下ると安房トンネル道路と交わりやがて上高地への分岐点に至り、道路は一般の国道並みの仕様に戻る。梓川の上流にはダムもありそこからの紅葉もなかなかのものであった。あとはだらだらと野麦街道(158号線)を梓川に沿って下り、安曇野に達した後は、初日とほぼ同じルートで再び糸魚川街道を走って、4時過ぎ大町プリンスホテルに到着した。
 今回の旅は、紅葉を楽しむことがひとつの目的であった。その点でこの峠越えは正解であった。もしトンネルを抜けていたら、これを楽しむことは出来なかったに相違ない。
(次回;黒部アルペンルート)
写真はクリックすると拡大します

2011年1月10日月曜日

決断科学ノート-55(ドイツ軍と数理-4;電撃戦と兵站-3;西方作戦)

 ポーランド侵攻の三日後、9月3日、英国とその連邦国がドイツに宣戦布告、フランスもそれに続く。ドイツがもっとも恐れる東西二正面での戦争が現実のものになる。この通告を総統官邸で聞いたヒトラーは「さて、どうなる?」と外相のリベントロップを睨みつけ、しばし無言であった。ドイツ帝国が第一次大戦で失った領土を回復する行動にはこれまでも抗議はあっても、西側(英仏)が軍事行動を起こすことは無かったからである。ポーランド作戦の予想外の成功に、ヒトラーは9月末、返す刀で西方作戦を行うと宣言するが、国防軍の強い反対で延期になる。英爆撃機による軍事施設爆撃、同海軍による海上封鎖、独海軍の通商破壊は行われるものの、予期した英仏陸軍のドイツ本土への進撃は始まらない。
 結局戦端が開かれたのは翌1940年5月10日、この間の8ヶ月はのちに“まやかしの戦争(Phony War)”と揶揄されるように、両軍ただ睨み合うだけの状態が続いたのである。ドイツにとってはまたとない時間稼ぎが出来、兵器生産、資材備蓄、人材育成の充実は目覚しいものがあった。ポーランド戦で主力だったⅠ号、Ⅱ号戦車はいわば軽戦車であったが、それ等は中戦車のⅢ号、Ⅳ号戦車に置き換わり、支援車両も多数揃い、装甲軍が単独で作戦出来るような部隊編成も出来上がっている。しかし、それでも連合国側の兵力・装備(特にフランスの機甲力)はドイツを上回るものがあった。
 ドイツの戦略・戦術が最終的に決まるまでには紆余曲折がある。第一次世界大戦前からドイツがフランス攻略のために考え出したシュリーフェン計画(大鎌で刈るように、ベルギー・オランダ・フランス北部を席巻し、パリを西側から包囲する)採用の可否、従来の歩兵中心に装甲軍はそれを支援する戦術にするか、装甲軍を槍のように突進させるかなどが激しく議論される。結局、A軍集団(この他にB、Cがあった)の参謀長マインシュタイン中将と装甲軍生みの親、グーデリアン大将の意見をヒトラーが容れて、シュリーフェン計画を装甲軍先頭に実行することになる。加えてベルギーの要塞地帯には空挺作戦、フランスの北の守り、セダン攻略には急降下爆撃機による空陸直協作戦が加わる。第一次世界大戦にはなかった兵器と戦術を駆使した新しい戦術、これが電撃戦である。英仏海峡ダンケルクでの停止命令は5月24日、6月10日パリ無防備都市宣言、6月22日休戦。1ヵ月半で大西洋に至る全ヨーロッパはドイツが支配する所となった。
 それではこの新しい戦い方の兵站はどうだったか?結論から言えば大成功であった。作戦計画に合わせて綿密な兵站計画を作り、装甲集団の兵站面での独立性と作戦面での自由裁量権を実現すべく、装甲集団が重要資材全てを携行する「リュックサックの原則」を採ったのである。装甲軍に随伴する輸送用トラックの大量生産、鉄道輸送計画、補給施設・貯蔵所の設置、給油方針・スケジュール、ポータブルな携行具の開発(その後各国で採用される燃料用携行タンク;ジェリ缶もこの時の発明;トラックにこの小型タンクを満載し、併走しながらそれを戦車に渡していく)など、細部までよく整備されているのに感心する。フランス軍戦車が多数燃料切れで動けなくなったのと対照的である(タンクローリー給油方式)。
 進撃速度が速かったので弾薬の消費量は極めて少なく、兵棋演習(ある種の数理)で求められた数値を大幅に下回っている。
 ただ見込み違いは道路であった。中央を突破するクライスト装甲集団は戦車1200両を含む41000台の車両より成っていたが、これに割り当てられた幹線道路はたったの4本である。分列移動するその長さは400kmに達する。これでは敵の攻撃の好餌となってしまう。クライストは「せめてもう一本」と懇請するが受け入れられない。歩兵部隊が既得権を離さないのである。これは数理以前のいかにも人間臭い決定であった。
(つづく;三つの電撃戦;東部戦線)

2011年1月5日水曜日

黒部・飛騨を駆ける-6(高山-2)

 この日のドライブは高山から大町まで。北アルプス横断になるが、半日あれば充分な距離なので、午前中は高山観光に費やすことにしていた。ここでお土産も買いたい。予定の見所は、町中を流れる宮川の東に沿って開かれる朝市、その一筋東側に残された古い町並み、“さんまち(三之町)”、幕府直轄地の要、高山陣屋などだ。
 朝起きると天気は曇りだったが、朝食を摂り9時過ぎチェックアウトするため駐車場へ出ると小糠雨になっていた。町歩きにはちょっと残念な天候だが、幸い酷い降りにはなりそうにない。ホテルは観光スポットと少し離れているので、フロントの勧めてくれた、宮川の西側を走る商店街に近い、コイン駐車場に入れることにした。この時間、町の人たちが日常的に用を足す商店街はまだオープンしていないので駐車場に車は無かった。
 しかし、橋を渡って東側へ出ると、もう朝市には観光客や地元の人で賑わっている。川を背にして屋台や露店が連なり野菜・果物・漬物、土地の菓子などが並べられ、狭い道の反対側は土産物や食品などを商う商店が並んでいる。日本人に混じって西欧人やアジア人(多分中国人)も沢山見かける。前回紹介のレストラン「ル・ミディ」のシェフが野菜などを求めていたのを見かけたように、この朝市は観光客相手の見世物では決してない。地元の生活に密着したものなのが嬉しい。
 霧雨程度なので傘を畳んで、東西にこの町を貫く国道158号線でクランク型に宮川に沿って南へ延びる“さんまち”へ移動する。年季の入った材木の黒々した二階建てが並ぶこの通りは、昔のメインストリート。今では土産物屋や飲食店が目立つが、それでも産婦人科医院や工芸品の工房などもあって、ここにも生活のにおいがある。こんな雰囲気がヨーロッパの古い町並みと共通する歴史観を感じさせ、ゆっくり見て周りたい気分にさせてくれる。大勢の外国人を見かけるのは、この保存状態の良い町並みだからだろう。
 高山は匠の里、工芸品や和紙なども有名である。そんなこともあり、版画に関する店があるとガイドブックにあった。下手な横好きではあるが自分でも嗜み、美術で唯一少し解かる分野なので、そこを訪れることにしていた。しかし、なかなか見つからない。ボランティアの案内人に聞いたが、彼女も店の名前を知らなかった。それでも控えておいた住所のあるところまで同行してくれたが、既に閉鎖され看板も取り払われていた。残念至極である。
 この通りの南詰めまで歩き再び宮川を渡って西岸に出ると、そこに高山陣屋がある。一般に陣屋とは藩の役所だが、特に幕府直轄地代官の住居を兼ねたオフィスもこう呼ばれる。高山の陣屋は後者で、役所・郡代役宅・御蔵が敷地いっぱいに建てられている。特に年貢米を納める御蔵は400年の歴史を持ち、現存するこの種の蔵としてはわが国最古・最大とのことであった。大きな城と違い、ここにも往時の生活が偲ばれるのが良い。
 その後国道沿いにある、客はあまり入っていないが由緒がありそうな自家製の漬物を商う店に入った。名物“赤かぶ漬け”を求めるためだが、それがいく種類もあることをここで知らされた。やや酸っぱいのも、塩辛いもの、鰹の出汁で旨味をだしたもの、日持ちさせるため防腐剤の入ったもの、それが無いものなどである。種々味見をして鰹味の防腐剤なしを求めた。
 雨も上がった11時過ぎこの地を発ったが、文化の奥深さと幅(古いものばかりでなく)を感じさせる、そんな町に強く心惹かれるものがあった。
(次回;安房峠)
写真はクリックすると拡大します

2011年1月3日月曜日

今月の本棚-28(2011年1月)

<先月読んだ本(12月)>1)運命の決断(米陸軍欧州地区歴史編纂官編);原書房
2)甘粕正彦-乱心の曠野-(佐野眞一);新潮社(文庫)
3)スターリンの対日情報工作(三宅正樹);平凡社(新書)

<愚評昧説>
1)運命の決断
 日ごろの私の研究活動(?)に関心を持ち、本欄をご覧いただいているUさんから貸していただいた本である。前回ご紹介したリデル・ハートの「The German Generals Talk」の米国版とも言うべきもので、ドイツの命運を決めた六つの戦い(英独航空戦、モスクワ攻略、エル・アラメイン、スターリングラード、ノルマンジー作戦、アルデンヌ反攻)について、ドイツ軍首脳から聴き取り調査した結果をまとめたものである。
 リデル・ハートの著書との相違点は、前著がリデル・ハート個人の問題意識をぶつける対話形式であったのに対し、今回は米陸軍の組織としての事情聴取であること、前著はリデル自身でまとめ記しているのに対し、後者はドイツ軍の将軍たちにそれを行わせているところである。このまとめ方は米軍内でも賛否両論あったようだが、ドイツ軍部内の内実を赤裸々に語る点において臨場感がある。また、各章はそれぞれの戦闘で重要な位置を占めた将軍たちが書いているのだが、それに対する解説が付記されており、それは最後の西方軍総参謀長ジークフリート・ヴェストファール大将一人によって書かれている。縦糸と横糸が交差するようなその編集の仕方が、戦いを複眼的に見る効果を与えて面白い。
 いずれの戦いも既に議論尽くされているが、この調査の実施時点(1946年~48年)を考慮するとむしろこの本がその後の出版物の原資料となっている可能性は、リデルの著書同様高い。
 将軍たちの心情吐露とも言える本書で特に印象に残ったのは、一つは戦線膠着・負け戦におけるヒトラーの「寸土の後退も許さず」と言う命令(決断)である。これが戦闘の自由度を奪い、無用な将兵の損失と取り返しのつかない敗北につながったことにあらためて驚かされ、結果的に「運命の決断」(それほど熟慮の結果とは思えないが)になっていることである。もう一つは、特に東部戦線におけるロシア兵の強さである。将軍の一人は「西欧社会では信じられないくらいの悪環境の中で戦い・生きていけるその生命力(人間ばかりか馬まで)は想定外のことであった」と述べている。“敵を知り”が出来ていなかったことが敗因につながったと。
 終章(フィナーレ)でヴェストファール大将は「米ソを敵に回して、それに勝てるとは軍人ですら思わなかった。しかしカサブランカ宣言の『無条件降伏』を突きつけられ後は、最後まで戦い続けるしか道は無かった」としている。それはわが国も同じである。それまでの歴史には無かったこの過酷な条件は戦争を必要以上に残酷なものにした。これを言い出したのはルーズヴェルト大統領だが、この批判をそのまま公式の戦史として残すところに当時の米国と言う国の余裕を感ぜずにはいられない。これは今の米国とは明らかにスケールが違う。

2)甘粕正彦-乱心の曠野-
 生まれ故郷、満洲を語るとき欠かせぬ人物である。本書のハードカバーが出たときから読みたいと思っていたが、積み置きが多く直ぐに購入しなかった。それが幸いした。文庫本ではハードカバー版で確かでなかった点などに読者からのコメント等が寄せられ、それを補完する加筆修正が行われたのである。
 甘粕は関東大震災(1923)の混乱時、東京憲兵隊の大尉であった。物理的・社会的大混乱の中で社会不安を煽り政府転覆につながる恐れのある社会主義者、その中心人物であった大杉栄と内縁の妻、甥(7歳)を拘束し惨殺した首謀者として断ぜられた(とは言っても懲役10年、昭和天皇即位の恩赦でこれも短縮、1926年保釈)、昭和史に名を残す男である。
 多くの甘粕物がこの事件を中心に書かれているのに対して、本書は、この部分はもちろん、特赦後の甘粕の人生、なかんずく満洲におけるその活動と終末(自死)にも力点が置かれており、その点で私の興味を最後まで持続させてくれた。
 この事件は、形式的には甘粕の独断専行として軍法会議で手早く処理されるのだが、当時でもこれがもっと大きな組織(つまり陸軍や警察)が絡む犯罪であるのとの認識は強かった。本書ではこの点を、綿密な調査で追及し、宇垣陸軍次官や正力(松太郎)警務部長(警視庁)も関わりがあったことを明らかにしていく。“単細胞の鬼憲兵”を演じ、一人で罪を被り、組織を守った甘粕に対して陸軍は、保釈後その借りを返すように、彼の希望を適えていく(厄介払いの面もあるが)。それがフランス渡航であり、それにつづく満洲である。
 清朝廃帝溥儀の満洲への移送(拉致?)、満州国建国、満洲における産業政策支援(日産コンツェルンの誘致、満洲映画経営)、関東軍協力(機密資金、特務機関)などあらゆる面に、彼と彼の人脈が関わっていく。新任の関東軍司令官は大連に在った彼の家を表敬訪問するほどの実力者であったのだ。やがて敗戦、最後は満映理事長室で青酸カリをあおって自殺する。
 今やわが国ノンフィクション作家の第一人者と言って良い著者の作品は、とにかく調査の精緻で裏づけの確りしていることで定評がある。本書もその例に漏れない。満洲を読む時その細部に、私の記憶を残す“何か”が無いかを探すのが楽しみの一つである。
 ・世田谷に一人住まいする甘粕の母:彼女の家の隣は私の父方の伯母宅。確か小学生時分、年始で訪れた時、伯母が父と話しながら「あまかっさん(関西弁)のおばあさんがのー・・・」とやっていた。その時父が簡単に“事件”の話をしてくれた。
 ・父は一時期満洲国政府に勤めていた:当時産業部次長(わが国の経産省次官)は岸信介。二日酔いの朝、彼に承認印をもらったことをよく話していた。その岸が作り上げた5カ年計画実現のために、甘粕は日産コンツェルンの鮎川義介を担ぎ出す。こうして作られたのが満洲重工業。その傘下に満洲自動車があり、父は引揚げまでここに席を置いていた。
 ・満州国政府のトップ(大臣)は満人であった:この国を承認してくれた独・伊・スペインなどへ返礼の使節団が出る。ここに甘粕も同行する。その時の団長は経済部大臣韓雲階。彼の広大な屋敷は社宅(アパート)の裏に在った。我が家(2階)からその広い庭(真ん中はテニスコート)が見渡せた。彼はその後どうなったのだろうか?
 ・システムプラザのビジネスで、岡山地場に密着したユニークな経営で知られる林原(株)とお付き合いする機会を持った:現社長林原健氏の父、林原一郎は大阪高商卒業後渡満し、満州国民生部警務司(わが国の内務省警保局に相当)に入る。この組織の初代司長が甘粕だった(時期は若干ずれる)。
と言うような具合で、ノンフィクションの醍醐味を堪能した。

3)スターリンの対日情報工作  新書と言うのは専門分野の入門書・解説書的な性格がある。一方で軽い読み物で、今日的な話題をつまみ食いするような安直なものも多い。本書は前者に属するもので、思ったよりも歯応えがあった(言い換えればやや読むのに疲れた)。
 主に語られるのはソ連のスパイ、ゾルゲであるが彼に関する組織以外にも第二次世界大戦におけるソ連の対日諜報活動に関わった個人や組織が取り上げられ、種々の情報源から上がってきた日ソ関係を左右する情報が、外交・軍事の情況判断に使われた様子を総覧することが出来る。
 ゾルゲは、同盟国ドイツの新聞特派員と言う立場を利用し、日(新聞記者、政治家、官僚など)・独(駐日ドイツ大使館)の外交・軍事情報を収集分析し、独ソ戦開始に際し「日本の北進論なし」をソ連に伝える。来日以前を含め、1941年10月治安維持法違反で逮捕され、1944年11月7日(ソ連革命記念日)処刑されるまでの、彼を取り上げた著書は多いが、“ソ連の対日工作”と言う視点よりは専ら彼の情報集活動そのものに力点を置いている。
 それらに対して、この本は“必ずしもゾルゲ情報はスターリンの決断に決定的ではなかった”ことを客観的に示そうとしている。
 その最大の理由としてゾルゲが赤軍参謀本部第4本部(諜報担当部門)に属していたことをあげ、赤軍そのものに不信感を持っていたスターリン(独ソ戦開始少し前赤軍の大粛清が行われている)によって忌避されていたのだという。この帰属組織という視点は今までのゾルゲ物では曖昧であった。多くはコミンテルン(COMmunist INTERNtional;国際共産主義活動)の指示で動いていたとしているし、日本の協力者たち(尾崎秀実ら)もそれ故に彼に情報を提供していたと証言している(ソ連一国のためではなく)。
 ゾルゲ以外の情報源として、来日したこともなく、1941年亡命先の米国で不審死(多分暗殺)したクリヴィツキーという工作員が日独防共協定の中身を正確に把握していたことや、冷戦後の開示情報を新に掘り起こし当時の日本政府高官あるいは政治家でエコノミストと称せられた工作員がいた話が出てくる(これが誰かは不明)。また有名なトルストイにつながる同族のトルストイが率いる暗号解読機関が米国よりは遅れたものの、日本の外交暗号を解読していたことなども詳しく紹介されており、当時のソ蓮の対日諜報活動を見直すきっかけを作る格好の入門書といえる。



明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
写真はクリックすると拡大します