<今月読んだ本>
1)北方領土交渉秘録(東郷和彦);新潮社(文庫)
2)サービスの裏方たち(野地秩嘉);新潮社(文庫)
3)ユーラシア大陸思索行;中央公論新社(文庫)
4)オベリスク(ハワード・ゴードン);新潮社(文庫)
<愚評昧説>
1)北方領土交渉秘録
著者は2001年田中真紀子外相に駐オランダ大使任命を凍結され、その後赴任するも2002年罷免(依願免官を強要されるが、それに応じなかったため罷免)されことになる外務官僚。罷免の理由は公費の使途に起因することだが、根底には、政界内の外交を巡る権力闘争や省内の主導権争いがある。不本意な退官に、名誉挽回を期して書かれたのが本書出版の意図と言える(単行本発行は2007年5月)。
祖父は東郷茂徳(駐独・駐ソ大使、開戦時・終戦時外相)、父は行彦(事務次官、駐米大使)、血統重視で特異な組織体質を持つわが国外務省でも突出したエリートと言える(東郷平八郎とは関係なし)。入省時ドイツ語研修(茂徳の妻;著者の祖母はドイツ人)を希望するが第二志望のロシア語を指定され、爾来ロシア・スクールのメンバーとなり、欧亜局ソ連課長、欧亜局長(後に改組で欧州局長)、条約局長を歴任している。順調に行けば、事務次官、駐ロ大使のコースを歩んだのではなかろうか。
一連のトラブルの始まりは、外務省に影響力の強い鈴木宗男(守旧派)と田中外相(改革派)の与党内権力抗争に発する。一般に外交問題は票にならないと言われるが、鈴木の選挙区は旧北方四島島民、漁業関係者と言う、身近な外交問題に深く関わる選挙民を抱えており、現実的な実績(墓参、ビザなし訪問、漁業権など)を積み上げることに熱心だった。それを実現するために、鈴木は時間をかけて外務省に影響力を及ぼす仕組みを作り上げて行く。そこへ新外相として乗り込んだ田中は、自らの思いを実現するには、鈴木体制一掃が不可欠と人事に介入する。ロシア・スクールと鈴木は一蓮托生、矛先が著者にも向くことになるのだ。マスコミで騒がれたのは専ら、田中対鈴木、大臣対官僚の構図だが、もっと陰険で根深いのは外務官僚内の主導権争いと個人の出世欲である。些細な公費の使途問題が刑事事件にまで発展するのはむしろこの面が強い。鈴木議員(ムネオハウス事件)→佐藤優専門官(国際学会費)→東郷大使(元上司)と波及していく。しかし、これらのドロドロした話は本書の背景であり主題は四島返還交渉である。
北方四島問題は、1)四島ともロシア領(現状)、2)四島とも日本へ返還、3)二島(歯舞、色丹)を日本に返還、他の二島はロシア領、4)二島は返還、他の二島(国後、択捉)は懸案事項として交渉継続、の四つになる。返還に伴う場合代償は日本からの経済支援である。1956年の日ソ国交回復以来、この問題は四つのケースを行き来する。そして、現在は日本にとって最悪の1)の状態にある。
著者が入省するのは1968年、冷戦の真っ只中領土交渉の余地はほとんどない。本書では若き外交官としてソ連に何度か赴任し、各種日ソ外交交渉での裏方として体験したソ連・ロシアの厳しい対応が導入部として語られる。領土問題が具体化するのは’85年ゴルバチョフが登場してからである。副題にある「失われた五度の機会」は、この時期から著者が関わることになる四島返還交渉の内幕である。第一回は1985年ゴルバチョフ書記長(ソ連)、第二回は1990年ロシア大統領としてのゴルバチョフ、第三回は1992年のエリツィン、第四回も1997年エリツィン第二期政権、最後が2001年のプーチンである。いずれもケース4)に近づくが、双方の国内事情(特にトップの指導力・覚悟・支持基盤)や政治家の不用意な発言、あるいはマスコミの扇情的な記事で壊れてしまう。営々と積み上げてきたものが一瞬で崩れる悔しさは、一方の国だけが味わうものでなく両国の事務方に共通するものがある。最後の窓が閉じるのは、2002年5月佐藤と鈴木の逮捕後、川口外相が「二島先行返還はありえない」と述べことによる。実際は日本の内政上の混乱が起因なのだ。
読んでいて「ここまで書いてしまっていいのか?」と思うくらい、政官界のこの問題に対する実態・手の内が明らかにされている。素人から見ると、交渉当事者として関わった高度に機密性に高いと思われる情報がふんだんに使われ迫力満点だが、これをロシアが熟読玩味し(間違いなくやっているであろう)、今後の外交政策に生かしてきたら益々四島は遠くなっていく。私怨がここまで書かせるのか?と言う気がしないでもない。
2)サービスの裏方たち
職人、老舗、プロフェッショナルなどと言う言葉が見事にマッチする人々を紹介するエッセイである。しかし、必ずしも伝統工芸や製造業の世界ばかりが語られるのではない。
学習院初等科の給食のおばさん、ハマトラ(横浜トラディショナル)ファッションの生みの親の経営哲学、英国南西端ランエンドに営々と屋外シェークスピア劇場を築いた女性、美味しい赤飯を作る店(和菓子屋が良い、中でも虎屋が一番)、高層ビルを建てる女性クレーン・オペレータ、サービス精神旺盛なロックバンドなど、比較的身近にありながら意外と知られていない世界を、テーマに合わせて切り口を変えて開陳していく。
例えば、学習院初等科給食の話では、メニュー作り、食材手配、調理が取り上げられるだけではなく、それを食べる生徒たちの態度(おしゃべりをしない)についても触れられ、それが指導者からの厳しい指導によるものではなく、伝統として受け継がれているのだが、それがいつごろどのように始まったのか(一説には、第十代院長乃木希典の訓示「口ヲ結ベ。口ヲ開イテ居ルヤウナ人間ニハ心ニモ締リガナイ」がある)を探るところなどに現れている。因みに一ヶ月の給食費は公立小学校の2倍、8千円弱とのことである。内容(一切冷凍食品を使わず、当日調理、手作りで温かい状態で提供される;したがって840人分の調理と配膳のスケジューリングはかなりの手際を必要とする)を考えると納得できるレベルと言える。
気分転換、息抜きには最適の本で、前作「サービスの達人」も読んでみようと思っている。
3)ユーラシア大陸思索行
1976年に単行本として発行されたものの復刻文庫版である。著者の色川大吉氏は大衆(草の根)レベルの活動をもとに歴史を見てゆくユニークな歴史研究家(主に日本史)である(東京経済大学名誉教授)。名前は知っていたが、著書を読んだことはない。この本を手に取ったのは帯にあった“40,000kmを走り通した見聞記”に惹きつけられたからである。この類のドライブ紀行本は若い頃から随分読んでいるが、本書は見落としていた。
1969年、著者の独特の歴史観に注目したプリンストン大学から客員教授としての招聘状が送られてくる。1970年7月渡米、約一年間彼の地で日本史を講じた後、フィールドワークを兼ねて、ユーラシア大陸ドライブ行を決行する。費用は研究に色が着かないよう全て自前である。参加者は場所によって増減するが、コアーメンバーは3人(著者、自動車整備士、写真家)、車はフォルクスワーゲンのヴァン(新車をドイツで受領)。
ルートはリスボンが出発点、スペイン、フランス、ベルギー、オランダ、デンマークと北上しスウェーデンを経由しノールウェーに至る、そこから南下してドイツ、オーストリア、ユーゴースラビア、ギリシャ、ブルガリア、トルコと走りアジアに入る。トルコからイラン、アフガニスタン、パキスタン(西)の歴史的ランドマークを訪ねインドのカルカッタで車の旅を終える。この間一気に東進するのではなく、著者の研究に必要な寄り道をするので走行距離約40000kmになる。1971年7月から11月にかけて4ヶ月を要している。
当然のことだが、この本の主題は自動車冒険旅行記ではなく(この面からも面白い話、感心させられる話題に満ちているが)、場所場所、国々の歴史・文化に関する著者の研究・思索が取り上げられ、思いが語られる。例えば、スペインでは市民戦争が、オーストリアでは明治憲法制定準備のために伊藤博文が訪ねた法学者の子孫との邂逅が、イランでは古都遺跡ぺリセポリスで行われる“ペルシャ帝国建国2500年祭”に備えての煌びやかな舞台仕掛けと大衆の生活のギャップが、同じ民族(単一民族ではないが)が宗教ゆえに分離したインドとパキスタンの不自然な姿が、現地の庶民の目線で捉えられている。さすが歴史家と感心させられたのは、イランの現状を危惧している件で、「この体制(王制)がこのまま続くのだろうか?(続くはずはない)」としていることである。‘78年シャー・パーレビーはホメイニ師に取って代わられた。これほどではないが、ユーゴ、ギリシャ、トルコ、アフガニスタン、パキスタンなどの記述にも、これらの国々の今日につながる問題点が多々指摘されている。40年前の思索が如何に本質に迫っていたかと言うことである。
とにかく象牙の塔にこもる学者でない著者の行動力に脱帽させられた一冊であった。
4)オベリスク
オベリスクは東南アジア小国沖にある巨大海上原油生産プラットフォームの名前である。石油資源を独占する王族とそれを覆そうとするイスラム過激派テロリスト。王族を含めた体制派を支えているのは米国。
主人公は米国大統領の特使とて、たびたび国際紛争を話し合いで解決してきた。晴れやかな国連記章授与式の場に緊急呼び出しがかかる。オベリスクを過激派が襲い、爆破する計画がキャッチされたからだ。その指導者は、もとはCIAの潜入工作員だったが、ミイラ取りがミイラになった、彼の兄だと言うのだ。早くに両親をなくした兄弟ゆえに、兄を説得できるのは主人公しか居ない。安全保障担当補佐官と伴にこのプラットフォームに急派される彼を待ち受ける危機。
オベリスクは波動による異常振動の兆候が出ている。おりしも台風がそこへ接近中だ。極秘だった大統領特使派遣情報は何故かテロリスト側に漏れている。
著者は日本でも放映され人気のTV番組「24」のプロデューサーだという(私はTVも視ていないし、名前も知らなかった)。この作品は処女作だが、やや複雑な仕組みを飽きさせず最後まで引っ張っていくテクニックは、一作毎に山場を作るTVサスペンスシリーズ物の技法と共通する。読み出すと止められない点で佳作ではあるが深みはない。
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