2011年8月30日火曜日

道東疾走1300km-13;釧路湿原

 NHK総合TV日曜日朝(7:45)の長寿番組に、日本の自然を紹介するものがある(現在のタイトルは「自然百景」)。現役時代休日の寝起きは遅く、よく床の中でこれを観たものである。場所は圧倒的に北海道が多く、中でも釧路湿原はしばしば登場し、ここに生息する生きものたちが紹介されていた。人里から隔絶した広大な原野ゆえの珍しい種とその生き方が、都会の喧騒の中で暮らす者の心をどれだけ癒してくれたか。いつしか、道東を巡る機会があったら是非訪ねたい場所の筆頭になっていた。出来れば少し歩き回ってみたい。
 道道53号線を走る車は少ないが、それでも時々前を行く車が現れる。ほとんどはこちらが近づくと、余裕のある所で少し脇に避けて道を譲ってくれる。直ぐ前に入るわけにも行かないので、右側の対向車線を一気に追い越す。こんな時の加速と高速安定性は、狭い一般道でも全く不安を感じさせないものがある。さすが本格的スポーツカーと悦に入る。今回のドライブで最も楽しい運転が出来たのがこの道であった。
 道路標識や看板が湿原を告げるが(ビジターセンター、鶴見台など)、指し示す方向、左側は木立が連なりその姿をなかなか見せない。結局“釧路市湿原展望台(写真右)”と言う所まで走ってしまう。到着時刻は1時半だった。北海道がこんなに暑いとは思わぬほどの猛暑で、カンカン照りの駐車場から展望台建屋まで歩くだけで汗が噴き出す。この展望台は売店やトイレは無料で利用できるが、湿原が見渡せる展望場所は2階にありそこは有料である。1階とその周り(海抜84m)は立ち木で視界は塞がれ、走ってきた道路同様湿原は見えない。
 案内所で聞いてみると一周2.5kmの遊歩道コースがあり、所要時間は約1時間、これがお薦めとのこと(左地図参照)。売店で冷たいミネラルウォーターを求め、早速歩き始める。
 今度のドライブ行を、この地に詳しい同じ年のまた従兄弟と話題にした時「あそこへ行くんなら、合羽か傘を持っていくこと」「毛虫が降ってくるんだよ」と忠告してくれたので、ナップザックから折り畳み傘を出しての出発である(結局、数匹はいたがそれほど酷くはなかった)。
 遊歩道は、最初は木立の中を湿原に下りていく。小川が流れる低地に着くとそこには板を渡した歩道や丸太の階段が続く(写真右)。しかし、湿原と言うわりには土地は乾いており、植物も心なしか元気が無い。途中ひだまり広場と言うところで道を間違え、湿原の中に踏み固められた道に迷い込んでしまったが、そこは高い草が茂る草原のようだった(本格的に湿原の中を行く探勝路の一部)。暑さの中往復1.5kmのロスは堪える。
 巡回路へ戻り、しばらくアップ・ダウンを繰り返して丹頂広場(72m)に至る。此処で初めて湿原の広がりが一望できるようになる。さらに進むとサテライト展望台(67m)に着く。いずれの展望台も誰も居ない。高みからの眺望を独り占めである。
 この湿原は元々海だったところ。何本かの川はやがて釧路川に収斂していくのだが、この展望台からそれらは全く見えない。あまりの好天に湿気すら感じない。その点では、“湿原”をうかがう気配を欠いているのが、唯一残念な点であった。しかし、素晴らしい眺めだ。先ずその広さに圧倒される。果てしなく続く平地に、森と草原が織り成す緑の濃淡がいかにも自然の賜物との感を強くし、しばしその景観に引きずり込まれてしまう(写真右上)。雨がそぼ降る情景、一面雪に覆われたシーン、TVで観た場面を頭の中に仮想してみる。
 スタートの展望台に戻ったのは、道を間違えたこともあり3時半。1時間余計にかかったが、来た甲斐があった。
(次回予定;釧路雑感)
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2011年8月27日土曜日

決断科学ノート-86(大転換TCSプロジェクト-23;派米チームの苦闘-1)

 1980年秋、次世代システムはIBMのACS(Advanced Control System)と横河電機のCENTUM-Ⅳに決まった。一年先、‘81年秋には和歌山工場のBTX(ガソリンに近い石油化学原料)プラントの更新を完了しなければならない。単独システムとしては両システムとも既に稼動していたが、一体システムとしては結合テストすらしたことがない。異なる会社の異なる製品だから当然である。この作業は東燃が主導し、IBMと横河が協力するジョイント・プロジェクトになる。
 ヴェンダーセレクションが大詰めを迎えた頃、中央チームを率いていたMTKさん(本社情報システム室次長)が川崎工場の私のところにやってきた。用件はACSとCENTUMを結ぶ仕事と最初のBTX導入作業のため、プロジェクトチームを構成する件だった。チームは二つ設けること、一つは和歌山の導入チーム、もう一つはその後の置換えプロジェクトを含めて、個々のプロジェクトを支援する中央サポートチームである。そしてこの中央サポートチームには、結合システム(実際は単なる両システムの通信システムに留まらず、実働する一体化システム)開発をERE(ニュージャージ;NJ)でやらせたい。そのために川崎工場から要員を出してくれ(和歌山はBTXプロジェクト準備で余裕が無いため)と言うのだ。具体的な希望は、川崎工場オンサイトSEのリーダーを務めていたYNGさんとIBMシステムのスペシャリストITSさんである。二人ともSE課のキーパーソンだが、統一共通システムの開発とそれによる技術者の生産性改善は、こちらも提言者の一人だったから「No」と言うわけには行かない。石油化学(TSK)も含めてSE部門を主管する副部長のDYMさんは難色を示したが二人を出すことにした。
 この他にも本社情報システム室のKMTさん、TSKからはTJHさんが出て、TKWさんをリーダーに、中央サポートチーム兼一体化システム開発チームが構成された。また、これに合わせて日本IBMでもOSKさんがACS専任SEに、横河電機でも何人かの技術者がこのプロジェクトにアサインされた。
 この時期エクソングループでは、いくつかのACSプロジェクトが立ち上がりつつあったので(カナダのインペリアルオイル・サーニア製油所、ラーゴオイル(エクソンとヴェネズエラ資本の合弁)・ラゴヴェン製油所)、EREに開発専用マシーンを置き、そこで集中的に開発作業が出来る環境を作ることになり、東燃もその計画に加わることになった。こうすることでIBM本社のACS専門家とコミュニケーションが良くなり(IBM内でも、ACSは非常に特異なシステムであったため専門家は限られており、この方法が唯一対応可能な体制であった)、単独開発よりも費用を抑えることが出来るメリットがあった。しかし、日本側(東燃メンバーに限らず)の担当者にとっては長期単身出張・英語と言う不自由は免れなかった。加えてERE本館に充分なコンピューター設置・作業スペースが無いため、敷地内に数個のトレーラーハウスを繋いでこれに対応せざるを得ないような状況だった。
 ヴェンダーセレクションが済むと中央サポートチームメンバーとMTKさん、SGWさん(国内外の調整役)が渡米。MTKさん、SGWさんはEREやIBMとの体制作りや費用負担の方法に目途をつけ帰国、他のメンバーは翌年(’81年)の5月まで米国で開発作業に従事することになった。

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従ってこれ以降数回連続する同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。

メール送付先;hmadono@nifty.com

(次回予定;“派米チームの苦闘”つづく)

2011年8月25日木曜日

道東疾走1300km-12;摩周湖

 幾重にも曲がる美幌峠からの下りが終わると、屈斜路湖畔から243号線は“パイロット国道”の愛称を持つようになる。これは、この辺りから根室にかけて1950年代農林省(当時)が酪農のパイロット農場を開発したところから来ている。それもあって摩周の町の周辺に近づくと、人をほとんど見かけない広い歩道、交差点付近のガソリンスタンドや農機具デーラーの低層の建物とその前庭(あるいは駐車場)、まるでアメリカの田舎町を通っているような感じがしてくる。
 摩周の町で道道52号線に入り北へハンドルを切る。しばらくは両側に酪農場・牧場が続くが、やがてから松林が遠望され上りが始まる。走っている車は少ないし、曲がりも勾配も緩やかなので周辺の景色を眺める余裕もある。晴天は続きオープンでは日差しが強すぎるくらいだ。車が少し混んできたな、と感じたらもう第一展望台だった。今までどこも駐車は無料だったが、ここは500円(硫黄岳駐車場も利用可)徴収される。展望台・レストハウス・駐車場(町営)をスペースがあまり無い所に設けたのでこうなっているのであろうか?
 霧で有名な摩周湖だが今日は雲も少なく・高く・遠く、鏡のような湖面に逆さに反転した山が写っている(写真左)。青い空・白い雲・青々した木々・コバルトブルーの湖面・小さなカムイシュ島にしばし心を奪われる。皆狭い展望台で写真撮影に余念が無い(写真右上)。残念ながら湖畔には下りられないので、世界有数の透明度を確かめることは出来ない。
 この後の観光スポットも含めて、ここが一番混みあっていた。風景に加え、アイヌ伝説(神の住む湖)の神秘性と唄にも歌われ、知名度で抜群の人気を集めていることがうかがわれる。それにしても、“霧の摩周湖”は星も見えない霧の夜が舞台だが、星どころか何も見えないのではないか?歌謡曲には時々こんな不思議なシーンがあるなー、と無粋な考えが明るい陽光の下で一瞬頭をよぎる。
 有料駐車券が硫黄岳に利用できなければ、ここから摩周の町へ戻るところだったが、折角だから行くことにした。道を北に向けると、上りとは違い下りはヘアーピン・カーブが続く。平地に出て程なく斜里方面と摩周を結ぶ国道391号線(摩周国道)に合流。T字路で右折し僅かに北へ走るともう硫黄岳の入り口だ。ここの駐車場は広い。目の前に黄色い斜面から水蒸気が立ち上がるのが見える(写真右)。山の裏側は美幌峠から見下ろした屈斜路湖だが、こちらからは見えない。硫黄臭の強くなる所まで少し歩いて写真を撮り早々に引き上げた。次は摩周の町で昼食と給油だ。
 主要道路の交わる交差点にあるモービルで給油したが、何とコーポレートカードが使えなかった(OB割引が効かない)!弟子屈ラーメンの店で食べた、知床わさびの効いた冷やしラーメンは、なかなかの味だった。帰り際に褒めたところ「割引券を差し上げましょうか?」と言われてしまう。
 摩周からは釧路湿原の西側に出る道道53号線をとる。この道は湿原の東側を通る国道391号線に併走するが、そちらがメインなので極端に車が少ない。なだらかな丘陵地帯に広がる牧草地にはヘイ(巻いた干草)がそこここに見られ、パイロット国道以上に風景はアメリカンである。途中にある鶴居村の中心部など、もし星条旗でも翻っていたら、アメリカ農業地帯の小さな町そのものという感じだった。
 午後の日差しは強さを増し、オープンは老女には辛いようだ。不本意ながら、屋根も窓も閉め、クーラーをつけて快適ロードを飛ばす。
(次回予定;釧路湿原)
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2011年8月23日火曜日

道東疾走1300km-11;美幌峠

 北海道三日目(7月9日)は網走から釧路まで行く。ルートはいろいろあるが、訪れたいところとして摩周湖と釧路湿原は必須とした。当初の予定は出来るだけ東へ行きたかった。知床、標津(しべつ)辺りを通り釧路へ南下するルートである。特に世界自然遺産となった知床は自動車で入れる限界、知床横断道路がガイドブックで“(北海道)絶景ロードベスト5”の一つにもなっていることから随分惹かれた。しかし、このルートでは摩周湖はともかく(ここは展望台から一見するだけでもいいが)、釧路湿原をゆっくり楽しむ(湿原におりて散策する)余裕が無い。次に考えたのが、前回触れた、せめて知床探訪の基地となる斜里まで行って、東の果ての匂いだけでも嗅いでくる案である。
 そんな時、勉強会や飲み会で親しく付き合っている友人から「そちらの方へ車で行くなら、美幌峠から屈斜路湖へのルートが必見」とのアドヴァイスをもらった。同じガイドブックを見ると“絶景の峠ベスト5”に載っている。下りは屈斜路湖を見てのワインディング・ロードとある。これで決まりとなった。
 ホテルの部屋は7階で北向き。少し先に網走川が見え、その対岸は東の海から西に向かってなだらかな丘陵になっていく。昨晩もバタンキューで早く床についたこともあり目覚めは早い。早朝の空はまだ昨日からの雲に覆われているものの、明らかに薄く、遥か丘の先には切れ目も見える。天気予報は午後からこの地方も晴れ間があると報じている。どうやらドライブ日和を期待できそうだ。
 8時20分にホテルを出発。今日は土曜日なので、市中の幹線道路を走るがほとんど車を見かけない。昨日来た道を戻り、監獄方面へ39号線(北見街道)を南下、監獄前を通過し、右に網走湖を見ながら美幌へ向かう。この頃には青い空が雲の割合より多くなる。窓を下ろして走ると冷たい空気が心地よい。
 やがて道は美幌市内の手前で街をバイパスする方向に進んで、更に峠方面に向かう国道243号線(美幌国道)に入る。遥か前方には晴れた空の下に山かげが見える。信号も人家も車もほとんど無い。折角のオープンを開けない理由は無い。こちら側からのアプローチは山裾が長く曲がりが少ない。ハンドル捌きを楽しむには今ひとつだが、西に開けた広野にチラッと目をやりながら思い切り飛ばせるのが良い。9時20分には道の駅“ぐるっとパノラマ美幌峠”に着いていた(写真右上)
 駐車場は峠の西側にある。駅の建物は東側の少し高い所にあるのでそこまで上らなければならない。辿りつた駅前から見えた東側の展望に息を呑む。下には横に広がる屈斜路湖とその中島、遥か先には頂が雲に霞む斜里岳、標津岳などの山塊を望む(写真左上。これから下る道が樹林の中に見え隠れする(写真右下)
 駅が在る所が周辺の最高位ではない。そこからさらに南の方へ上る歩道があり、10分ほどいくと、当に“ぐるっと(360度)”見渡せる展望台に至る。途中には美空ひばりがこの峠を歌ったことを記念する碑があり、中国人の若い女の子たちがキャッキャ言いながら記念写真を撮っていた。
 下りは期待のワインディング・ロード、樹林の中の道を、緩急をつけながら快適に走る。光の陰影が素晴らしい。若い男の運転するホンダのワゴン車がしばらくついてきていたが、途中で追従をあきらめた。
 このルートの走りと景観は天候に恵まれたこともあり、生涯忘れられないものになるだろう。推奨者に感謝。

(次回予定;摩周湖)
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2011年8月21日日曜日

道東疾走1300km-10;小清水原生花園

 網走監獄博物館の見学時間はおよそ1時間。これから直ぐにホテルに行っても夕食までにはまだ3時間近くある。網走の町に見るべきものがあるとも思えない。計画検討段階で、もう一つ気になっていたのが小清水の原生花園である。これは市街ではなく、そこから東へ知床に向かう途上にある。ルート検討当初は、三日目網走を発ち釧路へ向かう途上、小清水を経由し斜里まで行って、そこから南下して摩周湖へ向かうことも考えた。ただ、この案では道東ドライブの推奨コース、美幌峠から屈斜路湖への道は採れなくなる。代わりに小清水まで行ってUターンし美幌へ向かう案をオプションとして残しておいた。しかし、Uターンも面白くない。いっそのことこの3時間をそれに使おう。
 空は依然と曇り空、午後の遅い時間、花を愛でるにはあまり適当な雰囲気ではないが、“最果て感”を味わうには申し分ない。“監獄”から39号線を238号線との合流点まで戻り網走市内に入る。238号線が終わると244号線がオホーツク海に沿って斜里経由、根室方面に向かってスタートする。小清水までは20km足らず、ひとっ走りの距離だ。市街を出ると道は釧網本線と併走する。本線といっても、走っているのは一両だけのディーゼルカーだ。線路も国道も海際を走るが線路の路床が高い位置にあるので海は見えない。人家もほとんど無い、平らで真っ直ぐな道の先に知床の山々が見え隠れする。行き交う車も少なく、寂しい風景だ。雪の舞う真冬にここを走るのはどんな感じだろう?そんな気分で走っていると、やがて右側には濤沸湖(とうふつこ)が現れる。その先には、駐車場、道の駅そして遊園地の建物と見紛うような可愛い鉄道駅(写真右上)が左側にひとつながりになっている。
 着いた時間は5時少し前、広い駐車場には数台の車しかなく、道の駅の売店も店じまいを始めていた。原生花園駅の横の踏切を渡ると、もうそこは砂丘地帯に広がる天然の花園である。木枠で囲われた砂地の散策路を行くと、ハマナス、エゾスカシユリ、エゾキスゲなど黄色、ピンク、紫といった花々が灰色の背景の中に群生している(写真左上。浜に出てみると大きな流木が散見され、その先に黒い知床半島が遥か先まで続いている(写真右)。砂丘の一番高い場所には展望広場があり、海と反対側には濤沸湖、更にその先には頂に雲がかかった斜里岳(1547m)が、黒い姿で荒涼感を際立たせていた。色とりどりの花とのマッチングは今ひとつだが、黒い愛車には似合う風景である(写真左下)
 今夜の宿泊先、網走セントラルホテルへ着いたのは6時。ここは当地の老舗シティホテルだが、部屋の作り・値段はビジネスホテルと変わりない。夕食はフロントでもらった観光地図にあった、「花のれん」という鮨割烹に出かけてみた。セットメニューの簡単な方(それでも年寄りには少々多すぎた)を選んだが、懐石並みでメインは若蟹(毛蟹)が二人で一匹付いた。本当のシーズンは秋なのだが、今も禁漁ではないので提供できるのだと言う。秋との違いはかに味噌が少ないことだけで、味に変わりは無い。思わぬご馳走にありついた。しかし、焼き物として出てきたのがうなぎの蒲焼であったのは意表をつかれた。確かに土用ではあるが、ここで蒲焼を食するとは思わなかった。満腹の腹を抱えて商店街をホテルへ戻ったが、花金にもかかわらず通りは暗くほとんど人に出会わなかった。
 灰色の中に花模様の一日が終わった。本日の走行距離317km。

(次回予定;美幌峠)
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2011年8月19日金曜日

決断科学ノート-85(大転換TCSプロジェクト-22;ヴェンダーセレクション-5)

 中央推進チーム(以下中央チームと略す)によるヴェンダーセレクションは提案内容検討(仕様のみならず、価格や開発スケジュールなど)や社内関係者からのヒアリングを終え、さらにERE(エクソンのエンジニアリング・センター)との共同検討に進んでいった。IBM、ハネウェルからより核心に迫れる情報が得られることもあるし、何といっても従来の選択とは違い、見積もり照会段階からEREと一体となってやってきたので当然である。両グループの提案とも一長一短があり、EREが何か決定的な発言をすることもなく、最終決定は東燃に任された。
 この最終決定は、中央チーム(チームリーダー;MTKさん)が検討結果を整理し、東燃・東燃石油化学両社の技術担当取締役(全体計画推進委員会の委員長・副委員長)に説明して下したものである。結論はIBM・横河グループ提案の採用である。
 この決定に至る節目節目に説明を受けたり、それに対する意見具申をする機会はあったものの、中央チームのメンバーでなかった私には、EREを含めて本件に決定的に影響力のある人たちがどのような考え方を持っていたかは、人づてに洩れ聞こえてくる情報しかなかった。EREはハネウェルとの新システム共同開発にのめり込んでいたことから、不本意な結論だったことは推察できる。しかし、エクソングループではこの当時、エクソンUSA(ベイタウン製油所のユーティリティ・プラントでACSを試験中)とインペリアルオイル(カナダ資本とエクソンの合弁会社;ストラスコーナー製油所にアフィリエイト初の実験段階のACSを導入していた)がACS導入に傾いていたことからも、強く反対する理由は無かったものと思われる。中央チームは無論これら関係会社とも情報交換をしており、‘79年私がTCC(エクソングループ全体のコンピュータ・通信技術会議)で会ったエクソンUSAの推進派中心人物、ボブ・ボルジャーとも接触していた(後年この件がもとと思われることでボブはエクソンを退職、結局USAはハネウェルの新システムを導入することになるのだが、この時点では最も熱心なACS派の一人だった)。
 中央チームが我々に説明してくれた決断要因は;1)機能仕様上、両グループのシステムに大差は無い、2)ハネウェルの新システムの開発スケジュールに不安が残る(実際この時の提案通りのスケジュールでは進まなかった)、3)価格においてIBM・横河グループの方が有利なことからIBM・横河に決めた、と言うことであった。
 結果はグループ内に開示されると伴に、中央チームから山武ハネウェル、横河電機、日本IBMに説明され、EREを通じてハネウェル本社、IBM本社にも伝えられた。グループ内ではこの結論に反対や疑義を投げかける意見は全く聞かれなかった。
 しかし、敗れたハネウェルはそのまま引き下がるわけには行かない。日本で、米国で巻き返しが始まった。しかし、一旦下した結論を逆転するようなものではなかった。最後に来たのが当時のハネウェル会長、S氏のMTKさん宛ての手紙である。そこには「東燃はアンフェアーである」と書かれていた(実物を私は見ていないが、直接本人から聞かされた)。エクソン上層部に写しが行っている可能性もある。断が下されたのは1980年、エズラ・ボーゲルの「Japan as Number 1」が話題になっていた頃である。日本経済は日の出の勢い、日米経済問題が最大の両国間懸案事項であった。これを解決する場として日米賢人会議と言うものが数年前から開催されていた(現在も継続されているが、内容は必ずしも経済問題ばかりではなく、安全保障や環境問題なども論じている)。日本側の代表は大来佐武郎氏(元外相)、米国代表はこのS氏である。こんな大物からの非難の手紙を受け取ったMTKさんの心中やいかばかりであったろう。それでも結論が覆ることはなかった。

(次回予定;派米チームの苦闘)

2011年8月17日水曜日

道東疾走1300km-9;網走監獄

 道内二泊目の宿泊地に網走を選んだポイントは、オホーツクと距離だった。何度か触れたように、計画上時間的にこの日の行程が一番きつく、観光は富良野周辺だけであとはひたすら走り、暗くなる前にホテルにチェックインし、夕食を海の幸で仕上げられれば良しと思っていた。観光スポットは冬のシーズン流氷が有名だが、夏はこれといった所は無い。気になっていたのは“博物館網走監獄”だが閉館時間が5時なのであきらめていた。
 しかし、花人街道は期待外れだったものの、それ以降の道路事情は本州では考えられぬくらい走り易く、予定経路とは異なるルートを走ることになったにもかかわらず、サロマ湖畔を2時過ぎには発てるほど順調だった。Webのソフト、NAVITIMEが予想した9時間はいったい何だったんだろう?直感的に「こんなにかかるはずは無い」と思っていたが、その直感が正しかったのだ。嬉しい誤算である。サロマ湖畔の小さな駐車場で次の目的地を“監獄”にセットした。
 238号線が西から網走市内に入る手前で北見方面から来る39号線と交わる。その39号線を北見に向かい南下、しばらく行くと“監獄”への分岐路が現れる。広い駐車場に着いたのはほぼ3時、見学の時間は充分だ。
 網走監獄は明治23年(1890年)開設。爾後主として国事(政治)犯を収容し、服役者は北海道開拓(特に道路開削)の先兵を演じてきた。映画「網走番外地」では殺人などの凶悪犯を隔離する場所のイメージが強いが、実態とは異なるようだ。つまりインテリが多かったのだ(肉体労働の経験者は少なく、身体があまり頑強でない)。
 この博物館が在る場所は本来の所在地ではなく、オリジナルの(現在の網走刑務所;所在地は238号線と39号線交差点近く)建替え時(1984年)ここへ移設・復元されたものである。したがって建物の主要なものはそのままだが、プロットは丘陵地の斜面にかなりコンパクトに詰められているので、移動距離が短く見学には便利だが、全体としては“監獄”の凄みを感じさせない。
 しかし、網走川にかかり娑婆と監獄を分けていた橋(鏡橋)、正門(赤レンガ門;写真左上)、明治29年に作られた木造の五翼放射状平屋舎房(中心点から5棟の房が放射状に配置される;一般服役者;雑居房、独房;写真右上)、規則違反者を閉じ込めるレンガ造りの独居房(窓が無く扉を閉めと完全な暗黒になる;写真左下)、庁舎などは往時の姿をそのまま保存してある。また長期の使役に出る場合の仮設宿泊所や風呂場などが再現構築され、オレンジ色の囚人服を着た等身大のリアルな人形が置かれ、臨場感を醸し出している。
 元の監獄の所在地は網走市内の西の外れ、網走湖に近い荒野の中。冬のブリザードが吹き荒れる季節、木造獄舎の寒さは半端ではない。暖房は一棟にストーブ一つ、通路に横長の煙突が走るだけ、徳田球一(元日本共産党書記長)の手記はその耐え難い厳しさを連綿と綴っている。
 五翼放射状平屋舎房の中心には看守が詰めるようになっているが、今はガイドのオジサンがいる。ここを脱走して東京まで逃げた囚人の話をしてくれたが、その囚人は常習犯で、以前服役した府中刑務所の旧知の看守の下を訪れ、如何に網走監獄が酷いところかを訴えたのだと言う。本人はその訴えをして自首、監獄の処遇改善が図られたとのことであった。やはり網走は他の刑務所とは違うのだ。
 開設前の網走の人口は631人、そこへ1200人の囚人と173人の看守が移ってきたのだから、この街が“番外地”として有名になり、今日に至るのは当然と言える。
 予定外で、この地で見るべきものを見ることができた。

(次回予定;小清水原生花園)
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2011年8月14日日曜日

道東疾走1300km-8;オホーツク海を目指して

 この日(7月8日)の行程は計画段階から今ひとつ納得できないところがあった。富良野から網走まで約260km、いずれのルート(自動車道、一般道、旭川市内バイパスなど)を選んでも、おおよそ9時間かかると算出してくる。前日ホテルにチェックインの際、受付係に「明日はどちらまで?」と問われた時、「網走まで」と答えたところ、「それは遠くまでですね」と応対してきた。「やはりそうか」と先への不安が募っていた。
 こんなこともあり当日は8時前にホテルを出発、見物する場所もファーム富田だけとし、あとは“花人街道”に期待し、車窓から楽しむことで済まそうと考えていた。そこでファームからの第一目標はその街道の北の中心、美瑛にセットした。しかし起伏する道の両側に田園風景が垣間見える程度で愛称の“花人”とは程遠い。一ヶ所“かんのファーム”が現れたとき、家人が「こんな風景が続くと思ったのに」とつぶやいた所が、唯一それらしき場所だった。
 美瑛駅の周辺には観光客が集まっていたものの、237号線から入った道も広い道路と低層の建物で成る市街地。特に見所はなかった。先への心配から、ここで不本意ながら次の目的地、網走をカーナビにセットした。
 美瑛駅の北で再び237号線に戻る。もう平坦な道で“花人街道”ではない。旭川の手前で県道に入り空港の北側を北東に進む。いく筋かの地方道や農道を経由し、愛別ICで旭川紋別自動車道に入る。この頃には幸い雨は上がっている。道は苫小牧から日高富川までと同様、対向2車線で無料。ほとんど前後に走る車はいない。カーナビの設定ルートでは大雪山を右に見ながら上川層雲峡ICまで走り、そこから一般道の39線へ出て北見経由で網走に至ることになっていた。
 専用道を快調に飛ばしていると、カーナビが「新しいルートが見つかりました」と言ってくる。そこで“新ルート”にセットする。道路は空いておりどんどん進む。11時を過ぎてもなかなか休憩所も現れない。やっと着いたのが白滝PA。11時15分だった。昼食にはやや早いのでトイレ休憩だけとする。そこで道路案内を見てびっくり!途中層雲峡ICで降りる指示が出ず終点の紋別に向かっていることが分かった。“新ルート”はこのことだったのだ。仕方なく目的地を変更。網走を宿泊地として選んだのは、第一にオホーツク海を見たかったからだ。それでサロマ湖畔の道の駅を目指すことにした。ここまで行けば海を見ながら長時間走れる。
 白滝ICで専用道と離れ、国道333号線を走るがここも空いている。やがて242号線に入り1時半目的地の到着。道の駅“サロマ湖”で昼食のホタテうどんを食し、この周辺の観光スポットを問うが、「展望台しか湖を見渡せるところはない」と言う。駐車場から徒歩でかなり時間がかかりそうだ。「湖の近くで駐車場のあるところは?」と聞いてそこまで走り湖畔に下りてみたが、大きくのっぺりした湖面が広がるだけで、目を楽しませてくれるものは何も無い。稚内からオホーツク海沿いに網走に至る238号線を曇天の中ひた走る。真冬でもない限りこの地方を特徴付けるものは結局何も無かった。ただ時間は計画時疑問を感じたように、9時間もかかるようなことは無く、網走に3時頃には着けそうだ。それならばあそこに行こう!

(次回予定;網走監獄)
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2011年8月10日水曜日

道東疾走1300km-7;ファーム富田

 スキー・リゾートとしてある程度知られてはいたものの、富良野一帯を有名にしたのは、何と言っても、丘陵地帯に広がるラベンダーを中心とした花畑であろう。今ではこれが最大の観光客誘引の目玉になっている。その嚆矢となったのが“ファーム富田”である。
 この地方のラベンダー畑はもともと観賞用ではなく、専ら化粧品の香料として栽培されていたのだ。食べていくための手段である。しかし、化学工業の発達で人工香料が普及し始め、それに太刀打ちできなくなった畑は次々と他の作物に転換されていった。富田農園も同じ運命にあり、ラベンダーの畑は年々縮小されていった。しかし、最後の一角は愛おしく、何とか残していたところ、1976年ある写真家の目にとまり、旧国鉄の美しいカレンダー写真に仕上がったのだ。これが切っ掛けになり、富良野=ラベンダー畑のイメージが、全国的に知られるようになる。やがて花に限らず、野菜や穀物の畑が穏やかな起伏を成す景観と相まって、日本離れした風景を作り出し、コマーシャルに登場してその知名度を更に高めていったのだ。スカイライン(自動車)の“ケンとメリーの木”、“マイルドセブン(タバコ)の丘”などが代表的なものである。
 その意味で、この“ファーム富田”の踏ん張りが、今日の富良野地方振興に及ぼした力は計り知れないものがある。最後まで踏み留まった畑は“トラディショナル”と名付けられ、その盛衰を今に伝えている(写真上右)。
 ホテルからファームに向かうには、この地と札幌を結ぶ38号線に出て富良野の街の北端で花人街道(237号線)に交わり、旭川方面へ北上する。8時少し前ホテルを出発、小雨の38号線を富良野に戻る方向をとっていると、札幌ナンバーの観光バスが前を行く。大きなバスに前を塞がれるのは鬱陶しい。しかし、バスは237号線には向かわず、少し手前を左折する。やれやれと思い、こちらは237号線との交差点で左折し、街道をファームのある中富良野方面へと進んでいく。しばらく行くと左側200m位を併走する先ほどのバスが見える。こちらは“花人街道”とは言え、左右には自動車販売店やスーパーなどが現れ、広い歩道もあるので“田園の中を行く”感からは程遠い。やがて道路標識に“ファーム”が示され、西へ左折して街道を離れしばらく行くとあのバスが通っていたと思われる道に合流する。プロはどこを走るべきかよく承知している。これはこの日味わうことになる失望感の先触れでもあった。ファームの駐車場には先ほどのバスが既に到着、観光客がツアー会社の傘をさしながらお花畑に向かっている。
 4月下旬から9月にかけては8時オープンの広い花畑はもうかなり人が入っている(入園も駐車場も無料!)。年間で100万人が訪れるというのだが、経営はどうなっているのだろう?
 花畑は、大型バスすれ違いがぎりぎりの道路を挟んで西から東へ下る斜面に展開する(写真左)。西側は小規模で、トラディショナルはこちら側。ここはラベンダーだけだから東側に比べると地味な感じがする。しかし写真家はこれを見事な風景に切り取っているのだ。
 メインは東側、畑を二分するポプラ並木の左右に展開する。北側はラベンダー、南側は赤・白・黄・青と素晴らしい色模様だ。傾斜地ゆえの効果も大きい。季節により、時間により、そして天候によって色合いが変わっていくのだろう。遥かに望む十勝の山々、その山々と花畑との間に展開する広々とした平野、との組み合わせは幾千万に及ぶ。小雨に煙る風情も決して悪くはなかった(写真右、下)。
 道路を通過しながらこんな景色を楽しむ。これが出発前の計画だった。駐車場の管理人にそんな道の有無を尋ねたが、この付近にそんな道はないという答え。“花人街道”へ戻れば何か在るだろうとファームを離れた。
 実はラベンダー畑の規模と言う点では、ここが237号線の東に経営する“ラベンダー・イースト”の方が遥かに大きい(日本最大級;トラクターが牽引する観覧車で見学)。しかし、今日の行程はまだ先が長く、そこへ立ち寄ることは断念せざるを得なかった。
 富良野から美瑛(びえい)に跨る景観や花畑を充分楽しむためには、この地方に最低二泊することが必須であると痛感させられた。

(次回予定;オホーツク海を目指して)

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2011年8月7日日曜日

道東疾走1300km-6;フラノ寶亭留

 富良野でどこへ泊まるか?市中のビジネスホテルは避けたい。リゾートホテルだが団体の来ないところにしたい。出来ればお花畑を見渡せるような。当日・翌日のスケジュールから、メインの花人街道からあまり離れたところでないほうがいい。食事付にしたい。それも評価の高いものを。などなどの条件で探し当てたのが“フラノ寶亭留(ホテル)”である。客室わずかに25室、前庭はラベンダー畑、ディナーはフランス料理とある。Webでの口コミ評判も良い。それだけに人気があるようで、7月で空いているのは7日に一室だけであった。全てのスケジュールはこの日を基点に決められることになる。
 このフラノ寶亭留は、第一寶亭留チェーンと言う道央中心に展開されている地元資本のホテルグループに属するのだが、もともとは札幌郊外定山渓の旅館から発しており、チェーンと言っても定山渓・富良野のほか支笏湖とニセコの四ヶ所だけで、いずれもこじんまりした経営に徹しているようである。事前の情報収集で一度電話したときの感じは、ちょっと垢抜けないが丁寧なものだった(特にルートとよそ者のスーピド違反に対する注意)。高級ホテルにありがちな、慇懃無礼な冷たさが全くなかった。
 所在地は富良野の中心から北東に車で10分くらい。東に向けて傾斜する丘の中腹にある。付近にほとんど建物はなく、宿泊部分は3層、共通部分(レストラン、休憩ロビーなど)は2層、色調は鈍い褐色タイル張りの佇まいが、周りの風景に良くマッチしている(写真右)。西(丘側)を向いた玄関前が広く開けた車寄せ・駐車エリアだが白線などは描かれず、女性の受付係が玄関脇のスペースに誘導してくれる。レセプション・ロビーは玄関と同じ三階に位置し、東面はガラス張りなので十勝連峰が頂を雲に隠しながら遠望できる。それを見渡す位置に置かれた細長い自然木一枚板のテーブルで記帳していると、受付係が「今日は今年一番の暑さです。このシーズン、滅多こんなことはありません」と言う。北海道に到着来「意外と暑いなー」と感じていたが、やはり異常なのだ。
 部屋は全室東向き、広さも充分。なかなか凝った作りで特に浴室・浴槽がユニークだ(浴槽は卵を縦に半分にした形状)。傾斜する広い前庭には一面のラベンダー畑が広がる。上から見下ろすと花の開花状態がちょっと抑えられた感じだが七分咲きというところか(写真左)。大浴場もあるが部屋で一汗流してレストランへ。
 レストランは建屋南側半分の上階部分、宿泊客は全室ツインでフルに居たとしても50人、遅めの食事も可能だから、6人のグループが目立つくらいで落ち着いている。すだれの様な間仕切りで区切られた一角に席が設けられていた。ウェイターは皆若いが、よく訓練されている。メニュー(写真下)は予約段階で決まっていたフレンチだが、詳細は直前に知らされた。完璧なフルコースである。食材は基本的に全て地元産。メインをステーキにしたので赤ワイン(グラス)で始める。料理の質・量(多すぎないことが必要条件)、供されるタイミングも良い。「ステーキはレアーがお勧めです」と言う。初めて試してみたが、その通りだった。
 食事を終え部屋で一休み。酔いが覚めたところで大浴場へ。露天もありここでは上手く和風が生かされている。部屋へ戻ってビールを飲もうと思っていると、タイミングよく夜食(と言っても小さな寿司(鮭)二貫)をもってきてくれる。
 空調を止めて10時過ぎ就寝。さすがにその後はバタン・キューだった。
 翌朝はどんよりした天気。十勝の山々の上を足早に黒い雲が通り過ぎていく。朝食前にラベンダー畑を散策していると、ポツリポツリと落ちてきた。朝食を摂るころになると、雨は激しさを増していく。快適な一夜を過ごしたが、出発はチョッと残念な気分になってしまった。長丁場の行程が気がかりだ。

P.S.:滅多に無いことだが、このホテルに着替えの下着類を風呂敷包みにまとめたものを、抽斗の中に忘れてきてしまった。気がついたのは網走のホテルへチェックイン後である。直ぐに電話をすると、既に回収されていると言う。こちらは自宅へ回送を頼んだが、「道内と本州では料金が大幅に違います。これからの宿泊先を教えていただければ、そこへお届けしますと」と言ってくれた。結局最後の宿泊地、新得でこれを回収することが出来た。こじんまりしたホテルの良さと言えよう。

(次回予定;ファーム富田)

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2011年8月4日木曜日

今月の本棚-35(2011年7月分)

<今月読んだ本>
1)北方領土交渉秘録(東郷和彦);新潮社(文庫)
2)サービスの裏方たち(野地秩嘉);新潮社(文庫)
3)ユーラシア大陸思索行;中央公論新社(文庫)
4)オベリスク(ハワード・ゴードン);新潮社(文庫)

<愚評昧説>
1)北方領土交渉秘録
 著者は2001年田中真紀子外相に駐オランダ大使任命を凍結され、その後赴任するも2002年罷免(依願免官を強要されるが、それに応じなかったため罷免)されことになる外務官僚。罷免の理由は公費の使途に起因することだが、根底には、政界内の外交を巡る権力闘争や省内の主導権争いがある。不本意な退官に、名誉挽回を期して書かれたのが本書出版の意図と言える(単行本発行は2007年5月)。
 祖父は東郷茂徳(駐独・駐ソ大使、開戦時・終戦時外相)、父は行彦(事務次官、駐米大使)、血統重視で特異な組織体質を持つわが国外務省でも突出したエリートと言える(東郷平八郎とは関係なし)。入省時ドイツ語研修(茂徳の妻;著者の祖母はドイツ人)を希望するが第二志望のロシア語を指定され、爾来ロシア・スクールのメンバーとなり、欧亜局ソ連課長、欧亜局長(後に改組で欧州局長)、条約局長を歴任している。順調に行けば、事務次官、駐ロ大使のコースを歩んだのではなかろうか。
 一連のトラブルの始まりは、外務省に影響力の強い鈴木宗男(守旧派)と田中外相(改革派)の与党内権力抗争に発する。一般に外交問題は票にならないと言われるが、鈴木の選挙区は旧北方四島島民、漁業関係者と言う、身近な外交問題に深く関わる選挙民を抱えており、現実的な実績(墓参、ビザなし訪問、漁業権など)を積み上げることに熱心だった。それを実現するために、鈴木は時間をかけて外務省に影響力を及ぼす仕組みを作り上げて行く。そこへ新外相として乗り込んだ田中は、自らの思いを実現するには、鈴木体制一掃が不可欠と人事に介入する。ロシア・スクールと鈴木は一蓮托生、矛先が著者にも向くことになるのだ。マスコミで騒がれたのは専ら、田中対鈴木、大臣対官僚の構図だが、もっと陰険で根深いのは外務官僚内の主導権争いと個人の出世欲である。些細な公費の使途問題が刑事事件にまで発展するのはむしろこの面が強い。鈴木議員(ムネオハウス事件)→佐藤優専門官(国際学会費)→東郷大使(元上司)と波及していく。しかし、これらのドロドロした話は本書の背景であり主題は四島返還交渉である。
 北方四島問題は、1)四島ともロシア領(現状)、2)四島とも日本へ返還、3)二島(歯舞、色丹)を日本に返還、他の二島はロシア領、4)二島は返還、他の二島(国後、択捉)は懸案事項として交渉継続、の四つになる。返還に伴う場合代償は日本からの経済支援である。1956年の日ソ国交回復以来、この問題は四つのケースを行き来する。そして、現在は日本にとって最悪の1)の状態にある。
 著者が入省するのは1968年、冷戦の真っ只中領土交渉の余地はほとんどない。本書では若き外交官としてソ連に何度か赴任し、各種日ソ外交交渉での裏方として体験したソ連・ロシアの厳しい対応が導入部として語られる。領土問題が具体化するのは’85年ゴルバチョフが登場してからである。副題にある「失われた五度の機会」は、この時期から著者が関わることになる四島返還交渉の内幕である。第一回は1985年ゴルバチョフ書記長(ソ連)、第二回は1990年ロシア大統領としてのゴルバチョフ、第三回は1992年のエリツィン、第四回も1997年エリツィン第二期政権、最後が2001年のプーチンである。いずれもケース4)に近づくが、双方の国内事情(特にトップの指導力・覚悟・支持基盤)や政治家の不用意な発言、あるいはマスコミの扇情的な記事で壊れてしまう。営々と積み上げてきたものが一瞬で崩れる悔しさは、一方の国だけが味わうものでなく両国の事務方に共通するものがある。最後の窓が閉じるのは、2002年5月佐藤と鈴木の逮捕後、川口外相が「二島先行返還はありえない」と述べことによる。実際は日本の内政上の混乱が起因なのだ。
 読んでいて「ここまで書いてしまっていいのか?」と思うくらい、政官界のこの問題に対する実態・手の内が明らかにされている。素人から見ると、交渉当事者として関わった高度に機密性に高いと思われる情報がふんだんに使われ迫力満点だが、これをロシアが熟読玩味し(間違いなくやっているであろう)、今後の外交政策に生かしてきたら益々四島は遠くなっていく。私怨がここまで書かせるのか?と言う気がしないでもない。

2)サービスの裏方たち
 職人、老舗、プロフェッショナルなどと言う言葉が見事にマッチする人々を紹介するエッセイである。しかし、必ずしも伝統工芸や製造業の世界ばかりが語られるのではない。
 学習院初等科の給食のおばさん、ハマトラ(横浜トラディショナル)ファッションの生みの親の経営哲学、英国南西端ランエンドに営々と屋外シェークスピア劇場を築いた女性、美味しい赤飯を作る店(和菓子屋が良い、中でも虎屋が一番)、高層ビルを建てる女性クレーン・オペレータ、サービス精神旺盛なロックバンドなど、比較的身近にありながら意外と知られていない世界を、テーマに合わせて切り口を変えて開陳していく。
 例えば、学習院初等科給食の話では、メニュー作り、食材手配、調理が取り上げられるだけではなく、それを食べる生徒たちの態度(おしゃべりをしない)についても触れられ、それが指導者からの厳しい指導によるものではなく、伝統として受け継がれているのだが、それがいつごろどのように始まったのか(一説には、第十代院長乃木希典の訓示「口ヲ結ベ。口ヲ開イテ居ルヤウナ人間ニハ心ニモ締リガナイ」がある)を探るところなどに現れている。因みに一ヶ月の給食費は公立小学校の2倍、8千円弱とのことである。内容(一切冷凍食品を使わず、当日調理、手作りで温かい状態で提供される;したがって840人分の調理と配膳のスケジューリングはかなりの手際を必要とする)を考えると納得できるレベルと言える。
 気分転換、息抜きには最適の本で、前作「サービスの達人」も読んでみようと思っている。

3)ユーラシア大陸思索行
 1976年に単行本として発行されたものの復刻文庫版である。著者の色川大吉氏は大衆(草の根)レベルの活動をもとに歴史を見てゆくユニークな歴史研究家(主に日本史)である(東京経済大学名誉教授)。名前は知っていたが、著書を読んだことはない。この本を手に取ったのは帯にあった“40,000kmを走り通した見聞記”に惹きつけられたからである。この類のドライブ紀行本は若い頃から随分読んでいるが、本書は見落としていた。
 1969年、著者の独特の歴史観に注目したプリンストン大学から客員教授としての招聘状が送られてくる。1970年7月渡米、約一年間彼の地で日本史を講じた後、フィールドワークを兼ねて、ユーラシア大陸ドライブ行を決行する。費用は研究に色が着かないよう全て自前である。参加者は場所によって増減するが、コアーメンバーは3人(著者、自動車整備士、写真家)、車はフォルクスワーゲンのヴァン(新車をドイツで受領)。
 ルートはリスボンが出発点、スペイン、フランス、ベルギー、オランダ、デンマークと北上しスウェーデンを経由しノールウェーに至る、そこから南下してドイツ、オーストリア、ユーゴースラビア、ギリシャ、ブルガリア、トルコと走りアジアに入る。トルコからイラン、アフガニスタン、パキスタン(西)の歴史的ランドマークを訪ねインドのカルカッタで車の旅を終える。この間一気に東進するのではなく、著者の研究に必要な寄り道をするので走行距離約40000kmになる。1971年7月から11月にかけて4ヶ月を要している。
 当然のことだが、この本の主題は自動車冒険旅行記ではなく(この面からも面白い話、感心させられる話題に満ちているが)、場所場所、国々の歴史・文化に関する著者の研究・思索が取り上げられ、思いが語られる。例えば、スペインでは市民戦争が、オーストリアでは明治憲法制定準備のために伊藤博文が訪ねた法学者の子孫との邂逅が、イランでは古都遺跡ぺリセポリスで行われる“ペルシャ帝国建国2500年祭”に備えての煌びやかな舞台仕掛けと大衆の生活のギャップが、同じ民族(単一民族ではないが)が宗教ゆえに分離したインドとパキスタンの不自然な姿が、現地の庶民の目線で捉えられている。さすが歴史家と感心させられたのは、イランの現状を危惧している件で、「この体制(王制)がこのまま続くのだろうか?(続くはずはない)」としていることである。‘78年シャー・パーレビーはホメイニ師に取って代わられた。これほどではないが、ユーゴ、ギリシャ、トルコ、アフガニスタン、パキスタンなどの記述にも、これらの国々の今日につながる問題点が多々指摘されている。40年前の思索が如何に本質に迫っていたかと言うことである。
 とにかく象牙の塔にこもる学者でない著者の行動力に脱帽させられた一冊であった。

4)オベリスク
 オベリスクは東南アジア小国沖にある巨大海上原油生産プラットフォームの名前である。石油資源を独占する王族とそれを覆そうとするイスラム過激派テロリスト。王族を含めた体制派を支えているのは米国。
 主人公は米国大統領の特使とて、たびたび国際紛争を話し合いで解決してきた。晴れやかな国連記章授与式の場に緊急呼び出しがかかる。オベリスクを過激派が襲い、爆破する計画がキャッチされたからだ。その指導者は、もとはCIAの潜入工作員だったが、ミイラ取りがミイラになった、彼の兄だと言うのだ。早くに両親をなくした兄弟ゆえに、兄を説得できるのは主人公しか居ない。安全保障担当補佐官と伴にこのプラットフォームに急派される彼を待ち受ける危機。
 オベリスクは波動による異常振動の兆候が出ている。おりしも台風がそこへ接近中だ。極秘だった大統領特使派遣情報は何故かテロリスト側に漏れている。
 著者は日本でも放映され人気のTV番組「24」のプロデューサーだという(私はTVも視ていないし、名前も知らなかった)。この作品は処女作だが、やや複雑な仕組みを飽きさせず最後まで引っ張っていくテクニックは、一作毎に山場を作るTVサスペンスシリーズ物の技法と共通する。読み出すと止められない点で佳作ではあるが深みはない。
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2011年8月3日水曜日

道東疾走1300km-5;富良野へ

 北海道へ出かけると決めたとき、訪問地として先ず浮かんだのは富良野である。TVでは全く視ていないのだが、“北の国から”の舞台としての評判は知らぬ間に、そんな私にも確り刷り込まれていた。オーバーラップするのは、広々とした丘陵に広がる美しいお花畑の光景である。庭いじりが趣味の家人が、あまり好きではないドライブ行に腰を上げたのもこのイメージに尽きるようだ。
 計画立案段階で苫小牧港からのルートと時間を調べると、苫小牧東ICで道央自動車道に入り北上して、札幌JCTを経て旭川の少し手前滝川ICで高速を離れ芦別街道を南下するルートを選ぶ。距離は約200km、所要時間は4時間である。しかし、ホテルの案内を見ると“苫小牧港から3時間”とある。この時刻1時間の違いは大きい。有料ガーデンの閉園時間がぎりぎりなのだ。ホテルにルート確認すると、ルート探索ソフト、NAVITIMEとは異なり、苫小牧から海沿いを走る日高自動車道を行き、終点の日高富川で国道237号線を北上するのだと言う。地元の人のアドバイスに従うことにした。
 港から沼の端ICへは市街地をほとんど通過しないので走りやすい。直ぐに自動車専用道路に入る。遥か海側に工場が遠望できるが、あとは木々の緑いっぱいに平原が広がる。「北海道だなー」と、出だしから感激する。沼の端から富川までは、ありがたいことに無料である。道は対向二車線なので遅い車が居るとしばし追従運転を強いられるが、所々に“ゆずりあい”レーンがあり、そこで一気に追い越せる。道は空いているのでスピード違反だけが心配だ。約1時間で日高富川IC前のローソンに着いた。
 富川から富良野への道は国道237号線を走る。旭川まで南北に走る幹線道路だ。幸い交通量はそれほど多くない。富川から沙流(さる)川に沿って20kmほど行くとほとんど人家は無くなり、緩やかな曲がりとアップダウンが続いて日高山脈に近づいていく。途上日高峠があるが本州のようなきつい峠道ではない。たまに前を行く車に追いついても、追い越しは簡単だ。こんな人里離れた地には速度自動取締器もない。運転の醍醐味を充分堪能しながら快走する。途中占冠(しむかっぷ;写真上)と言うところがやや町(実際は村)らしい佇まいで、珍しく歩道や信号(一ヶ所)がある。ここを過ぎ金山峠を超えると、夕張山地と日高山脈に挟まれた、南富良野から旭川に至る平地が広がる。237号線はここから“花人街道”と呼ばれるのだが、それらしい風景にはならず、畑ばかりである。チョッと期待はずれだ。
 この日ホテルへのチェックイン前に訪ねたいのはTVドラマで有名になった“風のガーデン”である(写真左)。富川のローソンでそこの電話番号をカーナビに入力し案内にしたがって、237号を外れ、農道を走っていく。何か直感とは合わない。着いたのは富良野ゴルフコース。どうやらここも“ガーデン”を管理する新富良野プリンスホテルの系列にあることから生じた誤りのようだ。閉園時間は6時、再度設定をし直しやっとたどり着いたときは6時少し前だったが何とか入園できた。
 この庭は倉本聡のTVドラマ(緒方拳、中井貴一などが出演;緒方の遺作)のセットとして作られたもので、造園は旭川のイングリッシュ・ガーデンで有名な上野ファームの女性庭師が作り上げたものである。そのセット(建物やキャンピングカー(遠望しか出来ないが)も含めて)がそのまま残っているところに人気があるようだ。一見雑然とした(人工的でない)イングリッシュ・ガーデンの雰囲気をよく作り上げている。
 庭園見学を終え、駐車場を出たのは6時半過ぎ。モービルのSSで給油し、フラノ寶亭留にチェックインしたのは7時前だった。本日の走行距離は210km。出発前に予想したより暑い北海道の半日だった。

(次回予定;フラノ寶亭留)
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2011年8月1日月曜日

決断科学ノート-84(大転換TCSプロジェクト-21;ヴェンダーセレクション-4)

 ここでヴェンダーセレクションの全体動向を一先ず置いて、当時のこれへの私の考え・心境を振り返ってみたい。
 プロコンを見る視点に三つ(計測・制御、高度プロセス制御、情報処理技術)あることは前回述べた。私はもともと計測・制御畑出身である。しかし、このプロジェクトに関わる前に川崎工場全体(石油精製・石油化学)の工場管理システム構築(本ノート「迷走する工場管理システム作り」)に関わり、情報系(特に生産管理)の仕事にその職域を広げていた。ここでの対象機種はプロコンではなく汎用機になる。第一次石油危機でコンピュータの利用が急拡大したとき痛感したことは、プロコンの拡張性の狭さと、そこで開発したアプリケーションソフトの移行性(別のコンピュータへの移植)の著しい制約である。人もアプリケーションもほとんど特定コンピュータに貼り付けになってしまう。一方で、汎用機で動かす事務計算や技術計算ソフトは古く開発されたものが最新の技術環境の下で動いている。プロコンの特殊性(スピート、信頼性、割り込み処理など)を知らない人からは「何で使い込まれたソフトを、新型機で使えないんだ?」と言うような素朴な質問を受けることもあった。‘70年代後半“次世代”が話題になり始めたときから、この質問が頭から離れなかった。
 Exxon技術情報、そして日本IBMのSE、SGUさんからもたらされたACSに関する知見は明らかにこの疑問に答えるものだったが、まだ実用試験段階のものだったし、国内で汎用機を現場で使っていたのは製鉄所くらいだった。そこでの利用もリアルタイムのプラント制御ではなく、運転データの収集・解析を主にするものだった。本当にACSは使えるのか(経済性も含めて)?
 この疑問を自ら確かめる機会がやってきたのは‘79年開催されたTCC(Exxon Technical Computing Conference)への出席である。アントワープ製油所やExxon USAのベイタウン製油所による発表を聞いて「これはいけそうだ」との感触をもって帰国した。問題はコストだが、折よく中型汎用機の4300シリーズが発売される。これはIBMの旗艦、370と同じO/Sで動くので拡張性、移行性にも問題が無い。
 一方のハネウェルは、このレヴェルのプロコン、PMX(SPC)を既に稼動させているものの、新型DCS(分散型ディジタル制御システム)、TDC-3000と組み合わされるものについては開発中で全容がよく見えてこない(特に拡張性、移行性)。DCSレヴェルの選択はともかく、SPCレヴェルでは気持ちはACSに傾いていっていた。
 しかし、問題が無いわけではない。EREも心配し、日本の多くのユーザー(東燃石油化学;TSKを含む)もIBM批判をしていたのが、今で言うシステム・インテグレーション・サービスに対する同社の取り組み姿勢である(IBM製品を提供し、使い方の教育をするまでが限界)。これに対する自らの回答は、つまるところ使用実績から生まれてくる。
 石油精製の川崎工場では‘69年からIBM-1800を二台導入している。それらは横河の集中型DDC(YODIC-600)やオムロン製のタンクローリー出荷制御装置などと結合して運用するシステムである。契約段階は確かにIBMの責任限界は上述の通りなのだが、設計・構築・運用段階では担当営業・SEがよく協力し頑張ってくれ、大きな問題も無くスタートアップにこぎつけ、その後の問題対応も適切で順調に運用していた。契約を盾に逃げるようなことは全く無かった。
 加えて、感銘を受けたのはCE(カスタマー・エンジニア;主に保守担当)のトラブル時の献身的なサービスである。
 第一次石油危機(1973年10月)はプロコン利用の神風。‘75年にはアプリケーションが満杯になりSPCもDDCも拡張の必要が生ずるが、その余地は限られている。かと言って、新型に置き換える時期でもない。苦肉の対応策を本社の協力も得ながら実施することになった(‘76年)。DDCは集中型最新のYODIC-1000(-600より小規模プラント用)を既存の-600に付加して、運転データ処理や操作卓機能をここに移設、空いた部分に追加の制御アプリケーションを入れる。SPC、IBM-1800はメインメモリーの拡張(32K→64K)、それに伴うO/Sの入れ替え(TSX→MPX)や外部記憶装置の増強(専用外部記憶1810→汎用外部記憶2311)である。この大改修・増強をプラント定期修理(SD)中に終わらせなければならない。
 種々のトラブルに見舞われる中でも、最大の問題はSPCデータ処理の不安定性である。ときどきおかしな挙動をするが、なかなか原因が究明できない。日常補修担当のCEだけでは解決できないと見ると、地区CE責任者、MYZさんが常駐し、専門分野スペシャリストのCEを呼んで解決策に当たる。部品が無いと見ると空輸までする。それをこちらの担当者、ITSさんを始めとするメンバーと、いく晩も徹夜続きで一体になって進めてくれ、何とかプラントスタートアップに間に合わせてくれたのだ。
 この時のSDは他にも大掛かりな省エネ工事もあり、多くのメーカーや工事業者が絡んでいた。順調に稼動後工場次長から特に顕著な功績のあった会社を表彰したいと言う話があったので、IBMを推薦したところ問題なくパスした。IBMの営業とCEに伝えたところ、大いに喜んでもらえた。しかし、しばらくして辞退したいとの返事が来たのである。
 理由は「社内で、表彰をうけた仕事の内容を問われると、業務違反になりかねない」と言うのだ!つまり、それくらいの過剰サービスを担当者・部門ベースではやってくれていたと言うことである。日本IBMは日本そして日本人のIBMであることをこの時ほど痛感させられたことは無い。中央推進チームに「どちらにしますか?」と問われとき「ACS」と答えた心情のかなりの部分は、この時のCEサービスに起因する。

(次回;ヴェンダーセレクション-5;競札結果-4)
(注:略号;TCS、DDC、ACS等は最初に出たとき意味の説明やフルワードを記載しいています。しかし、時々記事の中でも解説していきます)