2012年10月31日水曜日

今月の本棚-50(2012年10月分)



<今月読んだ本>
1)不屈の弾道(ジャック・コグリン);早川書房(文庫)
2)ミッドウェー海戦、第一部・第二部(森 史朗);新潮社(選書)
3)工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち(今野 浩);技術評論社
4)戦場でメシを食う(佐藤和孝);新潮社(新書)
5)ネジと人工衛星(塩野米松);文芸春秋社(新書)

<愚評昧説>
1)不屈の弾道
最近はめっきり減ってしまったスナイパー(狙撃手)ものだが、久々に新人登場である。作者は元海兵隊の狙撃手、ジャック・コグリンとストリーテラー、ドナルド・A・ディヴィスの共作。軍事サスペンスは兵器技術の高度化に伴い、このような共作が増えており、トム・クランシーも専らこの方式を採って作品を量産している(オプセンター・シリーズなど)。この方式は確かに新兵器の細部をうかがう面白味がある反面、シリーズ化するとストーリーがマンネリ化して飽きてしまう。本書はその点第一作目だから今までのスナイパーものとは違う緊迫感を持続できるに違いない。購入の動機である。
一昔前のスナイパーはヴェトナム戦士であったが、今はアフガニスタンそれにイラクで戦った経験を持つ兵士である。本書の主人公もアフガニスタンでCIAと協力し隠密狙撃作戦を成功させるが、政治・外交上のトラブルに巻き込まれ、CIA不信に陥った過去を持つ海兵隊の第一級狙撃手。数年後、アメリカ軍が平定したイラクで海兵隊准将の一行が何者かの奇襲に会い、唯一生き残った准将は拉致され、シリアに移送される。テロ集団はこの人質との取引をアメリカ政府に求めてくる。動き出す国家安全保障会議(NSA)を牛耳るのは大統領国家安全保障担当補佐官。休暇中イタリアで高性能狙撃銃の試射を依頼されていた主人公は、特殊部隊の一員として急遽、地中海を航行中の空母に空輸され、その銃を持って救出作戦に参加することになる。しかし、ヘリコプター2機による隠密侵攻作戦は着陸直前接触事故で失敗、主人公一人だけが辛くも助かる。
この事件は一見イスラム過激派の陰謀のように見えるが、後ろで動いているのはアメリカの議会・業界で戦争の民営化(傭兵)政策を推進する一派。こんなことは主人公にはまったく分っていないのだが、与えられた命令「准将の救出に失敗したら彼を射殺せよ」に疑念を持つところから、少しずつ巨悪が露見していく。
何とか准将を救出して味方との会合点に急ぐ二人に、今は傭兵となった海軍特殊部隊(SEAL)出身者と元グルカ兵の追っ手が迫る。そこで高性能銃が威力を発揮するのだが・・・。
さて、読後感である。導入部はアフガン、特殊任務にあたる海兵隊の狙撃兵、高性能銃、政府高官の陰謀、政府内の女性協力者(主人公の恋人はNSAのスタッフ)、皆どこかで読んだ様な気がしてきた。そう、本欄4220122月分)で紹介した、スティーヴン・ハンターの“デッド・ゼロ”と同じなのだ!先月の本欄で「あらゆる小説は模倣である」を紹介したが、当にその通りの本であった。原本の出版はデッド・ゼロが2011年、本書は2007年だからこちらが手本と言うことになる。息抜きに読む本としては面白かったので、既に邦訳されている次作も読むことになるだろう。

2)ミッドウェー海戦
あの運命の海戦があってから今年は丁度70周年になる(日本時間194265日)。それまで向かうところ敵無しだった機動部隊の4隻の空母と練達の兵士が一日で失われ、その後の日本は守勢一方になる。それだけにわが国に限らず、米国においてもこの海戦は太平洋の戦いの転換点としてよく知られているし(ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館の一隅には空母艦橋の一部が再現され、戦闘時の無線や艦内放送が流され、大人も子供もそれに聞き入り、興奮している)、研究もされている。もう書き尽くされたはずのテーマと思っていたところに上下二巻計8百ページの大冊として本書が出版された。まだ何か新しい切り口、情報があるのだろうか?そんな思いで本書を購入した。
この海戦に関する本は随分読んでいるが、一番古いところでは1951年(昭和26年)この作戦に参加した淵田美津雄(真珠湾攻撃総隊長;この作戦でも総隊長を予定されていたが盲腸になり赤城で静養中)と本作戦の陽動(アリューシャン)作戦で空母龍驤に乗り込み、これを側面から観測した奥宮正武(のちに本海戦の戦闘詳報を配布された唯一の航空戦隊主参謀)共著の“ミッドウェー”。この本は父が購入したもので表紙にそのサインがあるものを現在も保有している(写真上左)。中学生になったばかりの頃読んだこの本で「何故ミッドウェー島基地攻撃用の爆弾をそのまま装着して敵空母攻撃に向かわなかったのか?」との疑問と孤軍奮闘する飛龍の姿が今に残っている。当然今回もそこに大きな関心があった(戦記もので記憶に残る最も古い本)。
この本の構成は第一部;知略と驕慢(序章を含めて八章)、第二部;運命の日(終章を含めて九章)の二部から成る。第二部は今までのミッドウェーものと大筋において同じで、米機動部隊の確認が出来ぬままミッドウェー島攻撃隊が離艦するところから始まり、飛龍の沈没までの戦闘場面を詳細に追い、終章;海戦の果てに、で関係者のその後、連合艦隊と海軍の敗戦に対する対応とその敗因分析を行って終わる。私見では、本書が書かれた真の意義は主に第一部(+終章)にあり、第二部はそこで推論した敗北の遠因を、戦術や個人の言動を通じて具体化したものと見る。つまり第一部では帝国海軍、連合艦隊、第一航空艦隊(機動部隊)と言う組織とその意思決定機構の特質、さらにはそれによって作り上げられた作戦計画に焦点を当て、そこに内在した病根(情報軽視と驕り)が明らかにされ、第二部ではその病根から発した問題が、矛盾に満ちた戦闘命令となり、誰もが想像もしなかった大敗につながっていくことを、戦闘員個人レベルまで掘り下げて詳述していく。
負け戦を後から振り返り、あれこれ理由付けすることは易い。しかし本書にはそう一言で片付けられぬ綿密で時間をかけた調査がある。取材活動を開始したのは25年前!今はほとんど故人となっているようだが、聞き取り調査は当時の参謀長(草鹿第一航空艦隊参謀長)やその他の高級幕僚(源田実;艦隊航空甲参謀)・指揮官(淵田美津雄;攻撃総隊長(予定者))に始まり、下士官・兵にまでおよぶ。また、途中で戦史家、秦郁彦氏から膨大な資料提供を受け、氏が米国留学中インタビューした敵将スプールアンス大将の証言なども引用されている。
最も新鮮な情報は、第一航空艦隊航空乙参謀が、著者の執拗な問いかけについ口にした「本日敵出撃の算なし」と言う全軍(連合艦隊司令部を含む)に向けた敵情報告である。このことは海戦直後に書かれた戦闘詳報(現存する唯一の貴重な資料)に一度記載されるのだが、本人によってその後削除されたのだった(著者の「何故?」の問いに「そんなみっともないこと書けますかいな!」;取材に対して“旧海軍の名誉を守るために不都合な事実はすべて隠蔽してしまったと、率直に認めた”)。この状況見通しは航空甲参謀の源田が起案し、首席参謀・参謀長・司令長官の承認を得て吉岡が発するのだが、確たる証拠も無しに、このような楽観的な報を発するほど当時の航空艦隊首脳部が、驕り油断していたことをここから明らかにしていく。これは今までのミッドウェーものにはなかった特ダネである。これによって、その敗因を“運命の5分間(戦後草鹿参謀長が語った言葉;偶々運が悪かった説)とするものがほとんどであったが、“組織としての士気弛緩”が問題視されることになる。
もう一つ私が「やはりそうだったのか」と腑に落ちたのは、著者の山本五十六評価である。この人が理の人ではなく情の人であることが種々の場面で語られ、これが大きな敗因の一つとして浮かび上がってくるのだ(個人的には優れた“平時”のリーダーと見てきた;政治性の高さ;陸軍の方がよかったかもしれない)。敗戦の報告に大和(連合艦隊旗艦)にやってくる南雲長官以下の第一航空艦隊首脳が乗艦する前、連合艦隊参謀たちに向かって「叱ってはいかん!」と抑え、結局責任を不問に付し、第三艦隊の指揮を任せる処置をとる。キング(米作戦部長)やニミッツ(太平洋艦隊司令長官)にこのような甘さは無い。
日本人が仲間内で庇い合ってやっていける時代は既に終わったような気がする。題材は古いが、これからの時代、如何に生きるべきかを深耕する格好の教材として、各界リーダー・管理者候補生に薦めたい。
個人的には、丁寧な調査活動に基づく作風に魅力を感じたので、しばらく著者の作品を追ってみようと思う。

3)工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち
有名大学工学部の内情を種々の角度から、シニカルかつユーモラスに詳らかにする“ヒラノ教授”第3弾である。今回取り上げられるのは大学運営の裏方(否、実力者?)、学科・教授の事務職員・秘書である。事務職員と一口に言っても、文科省からの出向者からアルバイトまで種々あるようで、ここではヒラノ教授に親しく仕えた専任(パート)女性秘書の話が中心である。
私と大学人との関係は、先ず学生時代、その後は社内委託教育、学会研究会、リクルート活動などがあり、しばしば研究室を訪問する機会を持ったが、専属秘書の存在は極めて少なかった。学生時代の早大機械科では学科事務室にプール(おそらく事務員134人の教授・助教授くらいか?)されているだけで、特定の教授専属の秘書はいなかった。専属秘書に初めてお目にかかったのは京大化工のTKM研究室で「やはり旧帝大は違うなー」と思ったが、後を継いだHSM先生の時代になると奥様がお手伝いをされていた。また1990年代初め化学工学会で講演をお願いした東大経済学部のTCY教授も専属秘書は居らず、連絡は学科共通事務担当の女性を介して行った。旧帝大教授だから専属秘書が付くというものでもないようだ。だからチョッとびっくりしたのは2007年英国での研究活動のため東工大社会理工学研究科(大学院;ヒラノ教授が中心で出来た大学院)の研究生として指導いただいたKJM先生のケースである。入口の小部屋に若い秘書が一人、先生の部屋に中年の秘書がもう一人と計二人いたことである。この他にも数多くの大学研究室を訪れているが、専属秘書が居た記憶はない。海外の大学も、短い期間滞在したカリフォルニア大学(バークレー)経営大学院ではガラス越しに研究室が見渡せる共通事務室に秘書がプールされていた。これらの実態から見ると、パートとはいえ専属秘書を抱えられるヒラノ教授は決して平教授ではない。どうも専属を持てるのは、ある程度の学内実績(特に学校運営)がある上に財源を用意できる人、つまり甲斐性の有る無しに依るようだ。
導入部は教授が学んだ東大の応用物理学科の教授と秘書の話から始まる。当時(1960年前後)は1講座(教授、助教授)に国費採用(公務員試験合格者)の秘書が1名ついたようで、要件は、1.口が固い、2.身持ちがいい、3.頭がいい、こと。自ずと名家のお嬢様(やがて院生や助手などと結婚し、奥様となるのだが)専有ポストだったようだ。
次に紹介されるは博士号取得で学んだスタンフォード大学OR学科の運営事務のシステム。学長に指名された学科主任(指導を受けた教授ではない。大先生は、自らの研究、若手研究者の指導、それに研究費獲得活動)の下に4人の秘書がいて雑務を一手に引き受けてくれるので、若い平教授は教育と研究に専念できる体制が整っていた。ヒラノ教授(まだこの時は院生だが)はここで高校生時代タイプ早打ちコンテスト優勝のスーパー・セクレタリーと出会うことになる。因みにアメリカでの秘書要件は、12.は日本と同じだが、3.は(身持ちがいいことではなく)タイプが早いことだそうである。この外国の例ではその後メンバーに加わるウィーンの応用システム分析研究所の秘書との比較が行われるが、そこの秘書を“コンチネンタル・セクレタリー”と揶揄している。つまり“働かない秘書”と言うアメリカ隠語である。
さて、ヒラノ教授の秘書である。帰国後得た最初の筑波大学助教授職は新大学構想で、セールストークでは雑用の無い大学であったにもかかわらず全く支援事務部門が無く、種々の雑用に追いまくられ、それが転学の動機にもなる。やっと秘書が得られるのは東工大に教養担当の教授として迎え入れられ、科研費(3年で8百万円)を手にしたときからである。同僚教授が秘書採用で2人に面接したが、甲乙つけがたいので一人引き取ってくれないかと言う話から名門女子大を出たばかりのお嬢様を週三日(他の日は六本木のブティック勤務)一日5時間勤務の条件で採用することになる。美人で若い秘書。今まで閑散としていた研究室に学生や助手たちが頻繁に訪れるようになる。席の位置を変えたり、衝立を設けたり、気を遣うことしきりである。やがて、それまで規則的に出勤していた彼女がある時から欠勤するようになってくる。国際学会の準備に終われる中での欠勤で教授の仕事は大いに乱される。理由を質すと、最初は学内でのセクハラのようなことを言っていたが、実際は六本木絡みの男の問題であった。この秘書とは結局3年付き合うことになるのだが、総括すると、週平均二日、一日4時間がいいところだった。
二人目の秘書も他大学に移る同僚絡みである。今度は良家出身の成城マダム。ただ家庭環境は恵まれず、現在は夫と離婚裁判中で、子供を抱えて何がしかの収入は必要らしい。この取引?には裏があり転出者のアルバイト・ポスト(つまり収入がある)付きで“ミセスK”がヒラノ教授の二代目秘書となる。結論から言うとミセスKは極めて有能な秘書で、本書の大半はこの人の仕事ぶりや人柄を紹介しながら、大学のあれこれが語られる。
やがてヒラノ教授は60歳の停年(公務員は定年ではない)を迎え、中央大学理工学部に移る。この時の秘書としてミセスKに同道を乞うが既に子供も社会人に成長した今その必要は無く、断わられてしまう。しかし、ミセスKは自分の代わりとして3人目の秘書を用意してくれる。この人もミセスK推薦だけに有能で、同僚から「ヒラノ先生のところは、学生ばかりでなく秘書も優秀でね」と言われるほどのしっかり者であった。ところが義父の介護のためヒラノ教授の下を去っていく。そして4人目は?
学校運営や学会活動のための雑事が、如何に“国際A級”大学教官の本来の仕事である教育・研究活動の妨げになっているかをあらためて本書で実感した。因みに“国際A級”とは定年までに100篇以上のレフリー付き論文を書き(当然大部分は英語)、海外の学会で年23回は発表して初めてそう言える。著者は長年難病の夫人の介護に当たりながら、これを達成した一人である。その夫人も定年退職直前亡くなり、今“工学部の語り部”として一人暮らしをしている著者の次作に期待したい。

4)戦場でメシを食う
戦史や戦記、各種兵器の技術解説や発展史、軍事サスペンス小説、軍事・戦争に関する分野は乗り物と並んで最も好みの読書分野である。また旅と食事への興味はそれらに次ぐだろう。しかし、“戦場の食事”となると記憶に残るようなシーンはほとんど無いし(酒は時々ある;特に英海軍もの)、それを取り上げた本など全く持っていない(飢餓シーンは別にして)。今回取り上げた“ミッドウェー”にしても戦闘中に握飯が出てくる程度で、汁もおかずも全く触れられない(戦闘前の酒とつまみは出てきたが)。そんなわけでこの本を目にした瞬間「オッ!」となり衝動買いした。
近代正規軍の場合、缶詰類を中心にいろいろな戦闘食(戦闘糧食が正式らしい;英語ではRation)があるが、前大戦で記憶に残るのは乾パンや鮭缶・大和煮缶などで終戦直後放出品が学校給食などに供された。それに近いものを食したのは1988年灘潮と遊魚船が衝突した日、観艦式を見物するため護衛艦「ひえい」に乗っており、昼食時に食べた、ご飯といわしの蒲焼が詰まった平べったい小型の弁当箱のような戦闘食である。ご飯にはもち米が混ざっており結構美味しくいただいた。旧陸軍の場合、兵隊さんは飯盒を持っていたから缶詰メシではなく、炊飯できる所ではそれで炊いていたようだ(米があり火が使えればだが)。
ロンメルのアフリカ軍団の車両編成を見てみると、戦車や装甲車に混ざって、パン焼き車や厨房車が含まれている。輜重部隊はトラックに食材を積み、戦場の後方で調理して前線に供給していたのだろう。しかし、あの戦いでのドイツ軍の最大の弱点は補給であった。北アフリカは小麦の生産地故パンはともかく他の食材はどんなものが使われ、どのように調達されていたのか不明である。
シカゴの科学博物館には戦時中鹵獲されたUボートが展示されている。隙間という隙間に食料品(パンやソーセージなど)が詰め込まれ、長期航海における密閉空間での食材との共棲を身近に見ることが出来、「一体どんな臭いがし、食べる時にはどんな状態になっているのだろう?」との疑問がわいてくる。しかし、海軍や空軍の食環境は調理を含めて陸軍に比べれば恵まれている。種類や鮮度はともかく一応量は確保できているし、調理する場所もある。
さて、本書である。結論から言うと“メシ”は全く主題ではなく、圧倒的に“戦場”なのだ。その意味では“羊頭狗肉”以上に看板に偽りありである。だからと言って、読後感に不満があるわけではない。この題名が無ければ、メディアで断片的に垣間見る程度の、縁の無い土地々々の紛争の背景・実態を知ることは出来なかったのだから。
その戦場は、ソ連支配下のアフガニスタン、サラエボ、アルバニア、チェチェン、アチェ、イラク(ここだけは陸上自衛隊が派遣されたので他に比べ身近に感じるが)である。それぞれの戦場での思い出に残る食物が取り上げられているのは確かだし、目次の各章のキーワードにもそれらが含まれているのだが、内容は行軍や戦場あるいは紛争の背景で、“メシ(食い物・飲み物)”は刺身のつま、と言うところである。例えばアフガンの場合、冬の峠越えで食する“雪と凍ったナン”と副題がついているが、反ソゲリラの構成員や対立する親ソ部族との戦いを描く中でわずかに登場する程度である。しかし、この時代(1982年)のアフガン反ソゲリラの中に日本人ジャーナリストが居たことだけでも驚きであり、その体験を語ることは、外信の報ずる短いニュースとは桁違いに中身が濃い。アルバニア(長い独裁・鎖国で人々はバナナがどんな物だか知らなかった)しかり、アチェ(スマトラ北部のインドネシアからの独立運動;ココナツミルクカレー)しかりである。各話に共通するのは、食糧確保・飢餓の話が無いことである。それだけ一般人と近いところで戦闘が行われているのだ。普段関わりのほとんど無い国・地域だけに、新知識がふんだんに得られ(だからどうした?と問われると答えに窮するが)、思わぬ拾い物をした感、しきりである。
著者は、いわばフリーの戦争・紛争ジャーナリスト。TV局(日本テレビが多かったようだが、TV、特に民放をほとんど観ない私にはこの本を読むまで、そんな番組が放映されていたことも知らなかった)などをスポンサーに、いろいろな伝を辿って、現地のゲリラや住民の中に入り込み、時には生命の危険に曝されながら取材、これを携帯と衛星を介してリアルタイムで送り出すような仕事を続けてきた人である。当然外務省や国の出先(例えば、イラク・サマワの自衛隊)などには評判が悪く、それ故に苦労も並大抵ではない。その苦労が本書を通じて臨場感をもって伝わってくる。
取材時期は古く、出版も2006年だがここに取り上げられた国や地域は依然として世情不安定な状況が続いているので、その古さを感じさせない。国際情勢に関心のある人には、“メシ”はともかく、お薦めの書である。

5)ネジと人工衛星
機械工学を学ぶ中で実習がある。溶接、鋳物吹き、旋盤・平削り盤操作などなど。旋盤実習ではネジを切ることもやったが、まるで上手くいかなかった。実習担当職員の手さばきの見事さに、ただただ見惚れるばかりだった。いっぱし理屈は知っていても自ら作ることは出来ない。これが大方のエンジニアである。特に機械の分野では“考えること”と“作ること”のギャップが大きいように感じる。それに比べると、化学、電気・電子はこの差が小さいし、数理やソフトウェアは考える人=作る人と言ってもいい。しかし、情報技術の進歩、特に自動化技術の普及・拡大によって、機械の分野でも職人技に頼るところが減じ、考えること(開発・設計)さえ出来ればモノが出来る方向に向かっている。日本が長年(半世紀以上)かけて欧米の技術キャッチアップしたのに対し、新興国のスピードが遥かに速いのは、この自動化技術に負うところが大きい。ものづくりが誰にも出来るようになったことがグローバル競争を熾烈にしている。究極は自動化による無人工場なのか?職人技は不要なのか?否!これが本書の訴えようとするところである。
取材場所は東京蒲田と並ぶ中小・零細町工場が集まる東大阪市の高井田地区、最盛時の半分に減ったとは言え、今での6千を超える事業所がある。その中から13社を選び17人の関係者に取材、その聞き語りをまとめたもの(ほとんど話し言葉)が本書である。
表題の“ネジ”と“人工衛星”はこの地区の製品・技術の象徴として使われているので、“ネジ”はともかく、“人工衛星”はほとんど登場しない。しかし、20091月種子島から打ち上げられた雷観測衛星「まいど1号」は、地域活性化を目指して、ここの事業主たちによって設立された、東大阪宇宙開発共同組合が阪大や大阪府大の協力を得て、開発したもので、その高い技術力を証明することになった。人工衛星に限らず、航空機(ボーイングの認定工場がある)、新幹線、新兵器のような先端技術を駆使した工業製品が、ここの技術で支えられているのだ。それもほとんど手作業に近い職人技によってである。
取り上げられるのは、バネ、ネジ、金型(表面処理や金型補修専業を含む)、特殊金属加工、鋳造、球体製造(パチンコ玉から精密機器用まで、金属からプラスティックまで)、リサイクル用破砕・粉砕機など多種多様だが、どこも数人から数十人規模。祖父から父そして息子・娘へと受け継がれていく、家業と言っていい経営規模・形態である。息子や娘の代になると高学歴になるが、大方の人が徒弟制度の下で厳しく鍛えられている。著者の表現を借りれば「(ここで)物を作る人たちは手で考え、それを頭に還元し、疑問を解き、そのなかでひらめきが生まれてくる人種なのだ」という。
共通するのは機械・素材(特に金属)加工が多いこと(電子、ソフトが少ない)、特注品・多種少量(1個まで)生産であること、(コンピュータ内蔵)自動化機器でも個別多種生産のノウハウをプログラム化して使っていること(これは自動化本来の、大量生産とは逆の使い方)など、生き残りのための経営戦略がユニークなことである(競争者の多い、価格競争の場を徹底的に避けている→従って規模拡大を考えない→零細・中小に留まる)。
この経営形態は、3K職場を嫌う社会風潮、大企業の海外移転や新興国(特に、この地の人も意識している中国)台頭の中でどこまで通用するかは大きな課題だが、縮む日本の今後の行く末に大いに参考になるのではなかろうか。狭い製造業の範疇に留まらず、農漁業を含めて日本人の職業民族性に他には少ない(ドイツ、スイス辺りには確実にある)“職人気質”を感じ私としては、商人国家が幅を利かす中で、職人立国の概念を整理するヒントを多々与えてくれた。「わしらおらんかったら、人工衛星も飛ばへんのや」 東大阪のおっちゃんたちの矜持を日本人全体が世界に示せるような存在になりたいものである。

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以上

2012年10月29日月曜日

逆賊三藩山岳ドライブ (4)



-磐梯・吾妻・奥只見を走る-

2.磐梯・吾妻を目指して-2
福島西ICで降りると国道115号線を西に向かう。道は二車線で空いている。前方には磐梯吾妻の山々が迫り気分が高揚してくる。“磐梯吾妻スカイライン”の案内で県道5号線へ右折、しばらく進んで今度は県道70号で左折すると角がナビにセットしたモービルのSS。ここから先は白布までE/M/Gのスタンドは無いからMustの給油場所である。ここまでの距離は348km、給油量は満タンで30Lだから11km/Lは先ず先ずの数字。新しいタイヤで少なくとも燃費が悪くなることは無かった。スタンドはおじさんとおばさんの二人で経営。時刻は12時少し前。昼食場所を問うと、山の上の大駐車場には食堂もあるが、途中は軽食程度。それならスカイラインの取っ掛かりにある蕎麦屋の方が良いとアドヴァイスしてくれる。平地から上りにかかる分れ道の先にそれは在った。店の名は“胡々里庵”、お昼時で既に駐車場は埋まっていたが、運の良いことに一台が丁度出るところで、何とか車を停められる。
店は座敷とカウンターで出来ていて、座敷は既に満席。カウンター席は23空いており、そこに納まる。メニューはいろいろあるが、手打ちの生そばだからやはりせいろが良いだろう。私は海老天せいろ、家人はとろろせいろを頼む。横の席に居る同年代の夫婦はおやじさんが蕎麦でビールを飲んでいる。どうやら奥さんが運転手のようだ。チョッと羨ましい気がする。天せいろでぬる燗は、普段日本酒を嗜まない私の唯一の好みである。残念!
運ばれてきた海老天せいろは、えびはともかく野菜はキノコやぜんまいなどいかにも地元のもの。それ以上に蕎麦は絶品!これは立寄った甲斐があった。この地方に出かける機会のある人には“是非”と薦めたい。因みに、海老天せいろは1380円、とろろせいろは1100円である。
幸福な気分で外へ出ると、駐車スペースを待つ車がいる。千客万来、何とか店の写真を撮ってスカイラインに向かう。日差しは強まり、車は少ない。左右に人家も無い。オープンで走るには持ってこいだ。いつもは嫌がる家人も賛同。緩やかな上りのクルージングは快適この上ない。
高湯温泉までは県70号線だが、ここに料金所があり有料道路に変わるのだが、何故か今日は“開放中”で無料。道は第三セクターのものだから平日はタダなのだろうか?いずれにしても結構なことである。
道はやがてヘアーピンカーブが連続する上りのワインディング・ロードに変わり、高度が高まるにつれ、周りの木々も次第に色付いてくる。いよいよ愛車の本領発揮だ。ただ、運転は楽しいのだが、ユックリ車を停められる場所が見つからないのが難点。すると右側に“つばくろ谷”方面という表示が出てきたので、そちらに進んでみる。これが当りだった。行き止まりのそこには、駐車スペースがあり、素晴らしい景観が広がっていた。
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(次回;紅葉真っ盛り)

2012年10月27日土曜日

逆賊三藩山岳ドライブ (3)



-磐梯・吾妻・奥只見を走る-

2.磐梯・吾妻を目指して
車検が13日(土)に終わり車調は万全だ。5年間で25千キロ走ったタイヤをコンチネンタル(独)からミシュラン(仏)に交換したのでこの影響がどうか?走りの変化が気になるところだ。数日前から東北・新潟地方の紅葉情報と天気予報をチェック。磐梯吾妻スカイラインは“見ごろ”とのことだが、中日18日は雨模様になりそうで、紅葉狩りよりオプションの喜多方観光の方がいいかもしれない。
出発予定時刻は7時なので、起床はいつもより30分早めて6時に起きた。天気は薄曇、先ず先ずのコンディションと言っていい。何やかやあって実際の出発は720分になった。
自宅近くの湾岸線幸浦から首都高速に乗る。丁度通勤時間なのでベイブリッジからは三車線いっぱいにつながっているが、流れは悪くない。東北道・常磐道へ出るには大黒JCTで横羽線に入り、浜崎橋・箱崎を経て堀切JCTで中央環状に出る方が距離は短いが、古い高速は道幅が狭く合流も短いので、そのルートは採らず、湾岸を葛西JCTまで行きそこから中央環状に入ることにする。ナビにセットした第一ゴールは安達太良SAだが勝手の分かっている道はナビを無視して走る。
川口JCTから東北道に入ると道は三車線になり走りやすくなるが、しばらくスピードに注意が必要だ。今回のドライブでは一つ心掛けることがある。車密度が高い市街地自動車道では追い越し車線走行を極力抑え、走行車線(三車線の場合は中央、二車線の場合は左側)を走ることだ。“耐える運転”に慣れるためである。
まだ自動車道が出来る前からそうなのだが、埼玉県の国道は秩父方面を除けば全く走る楽しみが無い。まっ平らで景観に変化の乏しい道をタダひたすら走るだけだ。自動車道になってからもこれは変わらず、さらに悪いことに防音シェルターで囲まれている。救いは、東名に比べ大型トラックが少ないことだ。
利根川を渡り栃木県に入るとやっと山並みも遠望できるようになりホッとする。佐野SAに着いたのは9時過ぎ。ここまで約145km1時間40分で走っているので、予定(昼食を安達太良SAで摂ることを想定)よりはかなり早いペースだ。サービスエリアは平日のわりに混んでおり、アジア人の団体客も見かける。多分日光を目指しているのだろう。ここでトイレ休憩し熱いコーヒーを飲んで20分ばかり休すむ。空は相変わらず薄曇だ(右上)。
9時半佐野SAを出発。遠方に日光や那須の山塊が見えているが宇都宮までは平坦な道が続く。ここを過ぎると車線は二車線に絞られるが交通量も少なくなるので、走行状態は変わらない。西那須野塩原IC辺りから風景や高低に変化が現れる。この頃になると空が晴れてきて、自動車道走行で窓を閉め切っていると暑さを感じるほどだ。郡山が近づくと、その郊外から住宅地が現れ急に都会らしい風景になっていく。
郡山JCTで磐越道に乗り換えれば、猪苗代を経て今日の宿泊地、白布へのショートカットとなるが、磐梯吾妻スカイラインを走るためにはこの先の福島西ICまで行く必要がある。
このJCTを過ぎると同道する車が一気に減り、走行車線でも前を走る車は希だ。そんなクルマに追いつき、一気に追い越し車線で追い抜きに掛かる。回転数は3000回転を若干上回る程度、速度計を見ると「エーッ!!!」となる(因みにレッドゾーンは7000から)。前車も相当なスピードで走っているのだ。
安達太良SAへ着いたのは11時過ぎ。これでは昼食は早すぎる時間だ。それでもここで休憩をとる人が多く、駐車場は観光バスや自家用車・商用車で6割方埋まっている(左中)。我々はスカイラインへの道で昼食を採ることにして、ここではトイレ休憩とSAにある小公園から安達太良山を眺め、この地に所縁のある高村光太郎と智恵子の碑を見るだけで済ませ、次のナビの設定を福島西IC近くのモービルのガソリンスタンドに定めて1120分出発した(右下)。
(写真はクリックすると拡大します)

(次回;磐梯・吾妻を目指して;つづく)

2012年10月25日木曜日

決断科学ノート-120(メインフレームを替える-14;私とIとF-3)



富士通(F)との最初の出会いは1968年(昭和43年)春になる。しかしこれは直取引ではなく横河電機を介したものだ。当時東燃和歌山工場はOG-2(大崖地区第2期;重質油脱硫関連装置)と呼ばれるプロジェクトが立ち上がっており、ここで精製部門としては始めてのプロセスコンピュータ導入が進められていたのだ(グループとしては石油化学のSPC;高度プロセス制御;が最初)。このコンピュータ制御システムはSPCDDC(直接ディジタル制御)の二段構成で、下位のDDCは横河電機製のYODIC-500が使われ、大規模なDDC適用としては本邦初のものであった。その上位システム、SPCはこれも横河電機が作り上げたCCS3000(だったと思う)がDDCとセットで導入され、プラント運転データの収集や高度制御に供されるようになっていた。ただこのCCSシリーズ(20008000もあった)に使われるコンピュータは横河製ではなく、3000には富士通製のF270がプラットフォームとして使われ、その上にプロセスデータを処理する横河が開発したパッケージソフトが載ってDDCと一体化され動くようになっていた(2000は沖電気製、8000DECPDP8がプラットフォーム)。
F270IBM1800から多くを学び、当時のわが国の代表的な科学・技術用コンピュータだったことと横河電機がプラットフォームとして採用していたので、大きな議論を呼ぶことも無く導入が決まった。OG2コンピュータ導入のプロジェクト・エンジニアの立場でこの機械に関わったものの、アプリケーション開発はPSE(プロセス・システム・エンジニア)のSZKさんがチーフで進められていたので、試運転稼動確認に留まり、F関係者との接触もCEレベルまでだった。
本格的な富士通とのつながりができるのは、1972年秋川崎工場に石油精製・石油化学一体化経営改革組織のシステム開発室(工場長直轄の石油化学の組織)が設立されそのメンバーになってからである。この組織の活動は、Fとの関係も含めて、本ノート“迷走する工場管理システム作り”に詳しく書いているが、メーカー側に東芝・山武ハネウェル連合、富士通・横河連合の二つのチームを作ってもらい、それぞれに最先端情報技術を駆使した工場経営の将来図を我々と一緒に描いてもらうものだった。この“メーカーと組んでの調査・研究推進”には多くの批判があったし、IBMを落としていることにも疑問が投げかけられたが、室長のISDさんは闘魂の塊のような人、断固反対を退けたし、工場長も彼を強力にサポートした。
ISDさんはグループ初のコンピュータ制御システム(石油化学のエチレンプラント効率改善)のプロジェクト・リーダーだった人。その成功はエクソングループの中でも高い評価を得ていた。このプロジェクトのコンピュータ選択に関しては当初IBMも声を掛けられていたのだが、例によって“自社の請負・責任範囲”に拘り彼の心証を著しく害した。一方東芝はGEが提供するプロセスモデルや最適化手法に関する情報提供、求めるカスタマイゼーション要求をほとんど受け入れたので、採用が決まった経緯がある。
次世代の工場運営構想デザインに東芝が選ばれGEを通じて縁のあるハネウェルの子会社山武がそれと組むのは自然な流れだった(数年後ハネウェルはGEのコンピュータ部門を買い取る)。それと比べると、富士通・横河連合は横河のSPCプラットフォームにFの製品が使われているとはいえ、当事者たちの間にも「何故?」の感がある組み合わせ。外野の声は“東芝本命”“富士通当て馬”を流していた。しかし、私の当時の感覚は「(汎用機に関し)富士通はともかく、何故IBMを落として東芝なのか?」と言うところであった。
この調査研究プロジェクトにおける私の役割は“基盤技術グループ”のリーダー。つまりメーカー4社の現状と将来技術を調べ、工場業務改善グループが具体的な改善案を起草出来るようにすることである。Fの汎用機技術に触れる機会がこうして始まった。

(次回;私とIF;つづく)

2012年10月24日水曜日

逆賊三藩山岳ドライブ (2)



-磐梯・吾妻・奥只見を走る-

1.計画を練る-2
案を考えているときは、仕事再開を始めて、週二日出勤していた。出勤日は火曜日と木曜日。二泊三日を火・水・木とするわけにはいかない。しかし、金・土・日や土・日・月では休日の混雑の中に飛び込むことになる。半引退者の身では避けたいスケジュールだ。月曜日出発も休日明けで道が混むことが予想される。水・木・金が無難だ。紅葉が始まるのは10月半ばから、今回の訪問地は北で海抜も高いから、先ず無いとはいえ11月初めには高所に雪や霙が降ることもある。中旬出発がいいだろう。丁度5年目の車検時期になるのでこれを済ませてから出かけよう。こうして1017日スタートが決まった。
宿泊先をどこにするか?白布温泉をWebで調べると、西屋・中屋・東屋というのが古い旅館であることが分ってきた。口コミを見ると茅葺き屋根の西屋に人気がある。しかし、ここは既に17日は空室無し。中屋を調べると空室がある上に、二人合計百歳以上の割引プランがある。ここで将棋の王将戦が戦われたとあり、評判も悪くない。東屋は三軒の内では一番大きいようで、ここも口コミ評価は悪くない。中屋、東屋を候補にして、仕事の按配など考え9月になってから決めることにする。
銀山平はチョッと普通の温泉地と違いようだ。どこの宿泊先も“素泊まり”、“日帰り温泉”や“持込”が可能なのだ。また、離れのような別棟のロッジがあるところも数軒ある。尾瀬辺りを散策する人達がそんな利用をするのだろうか。それでも各室にトイレもあるようで、山小屋ではないようだ。初日の白布が典型的な温泉旅館なのでこれも面白いかもしれない。この地の観光案内で一番目に出てきた奥只見山荘を候補としてマークした。インターネット予約が出来ないので、9月になったら電話で予約し道路事情も併せ聞こう。と言うのも道路を調べていて分ったのだが、352号線、それに只見線も昨年(!)の夏の集中豪雨でこの時点でも不通の所があるのだ(252号線は7月に開通したが、時間帯で通行止めや片側交通が残る。352号線の全通は10月予定。只見線は一部区間バス代行)。
次はガソリン給油点。全行程1000kmなら途中一回の給油で済む距離だが、何しろ燃費の落ちる山岳ドライブである。タイムリーな給油が求められる。どこのブランドでもよければそれほど問題はないのだが、やはりエッソ・モービル・ゼネラルにしたい。ところがこの三ブランドは経営効率を重視して、都会地、主要道路に集中して地方は極端に少ない。特に“酷道”と揶揄される252号線、352号線は会津若松の郊外を出るとまるでない。最初の給油は東北道福島西ICと磐梯吾妻スカイラインの間にあるモービル、次は白布にエッソが在るのでそこでの給油も考えられるが、もう少し走れそうなので、会津阪下のゼネラルでいいだろう。問題はこの先である。352号線には湯之谷の大湯を最後に、道路地図で見る限り、日光街道に近い舘岩(会津)まで全く無い。この間狭隘な山間部でガス欠でも起したら大変だ。大湯のSSはシェルだがそこで給油しよう。この後は今市まで行けば三ブランドともある。
ガソリン補給に比べれば、休憩点はやや楽だ。最近は道の駅が増えており、ここに立寄ればトイレと食事は何とかなるし、お土産は旅館などより種類が多く、鮮度も高そうだ。これが252号線に三ヶ所、352号線にも一ヶ所ある。また只見線に沿う252号は(多くは無人)駅の利用が可能だし、352号線には桧枝岐(ひのえまた)村役場があり、周辺に商業施設などもありそうだ。
私の楽しみはクルマの運転そのものだが家人は、紅葉はともかく、走りだけでは満足できない。時間と天候に相談しながら、観光立寄り点の候補地も用意する必要がある。見所が多いのは会津若松だがここは一度来ているし時間をとりそうだ。今回は蔵とラーメンで有名な喜多方と田子倉ダムを選んだ。
9月中旬、白布温泉の中屋をインターネットで予約し、次いで銀山平の奥只見荘に電話を入れた。「352号線が全通していれば18日予約したいのですが」と言う問いに「それがはっきりしないんです。10月には通ると言っているのですが・・・。9月末にもう一度電話ください」 101日夜電話すると「今日開通式やりました」との返事。やっと計画が固まった。

(写真はクリックすると拡大します)

(次回;磐梯・吾妻を目指して)

2012年10月23日火曜日

逆賊三藩山岳ドライブ(1)



-磐梯・吾妻・奥只見を走る-

1.計画を練る
1017日から19日にかけて、二泊三日、紅葉を求めて、維新政府に最後まで抵抗した、旧米沢藩・会津藩・長岡藩の山岳路を駆け巡った。昨年の道東ドライブも楽しかったが、それとはまるで異なるグランドツアーは「こんな車の旅がしかったんだ!」と言う潜在願望を目覚めさせるものだった。その記憶と感動が褪めぬうちにそれを綴ってみたい。
春のドライブ(吉野・高野・龍神)が終わると直ぐに、「秋はどんな所へ出かけるか?」と早くも考え始めていた。第一候補は当初能登半島だった。ここは和歌山工場勤務時代の1969年春一人で廻っているのだが、半島の先端、珠洲(すず)まで行かず、能都町から北上し輪島に出たので、完全に一周していないことが引っかかっていたからだ。今度はどう言う旅をするか?風景、歴史そして道を調べているうちに、だんだん興味が失せてきた。珠洲にはほとんど何も無く、半島に歴史を留めるのは平時国が蟄居した時国家くらい、風景も清張の小説で有名になった能登金剛、温泉は和倉。これらは前回全て訪れているし、それほど惹かれるものは無かった。最も不満だったのは能都町から珠洲を廻って輪島に至るルートに変化(高低)が乏しいことである。加えて半島に至る最短ルートは一昨年の宇奈月・高山・黒部行と重なり、新鮮味が無い。
そんな時フッと浮かんできたのが豪雪地帯を走る只見線に並行する国道252号線である。只見川の大規模な電源開発と只見線の全線開通は1960年代から70年代初期の代表的な土木工事、以前からチラチラと“走りたい道”として浮かんでは消えていた。鉄道作家、宮脇俊三の本で“鉄道からみる紅葉の美しさ”で最高点を獲ったと書かれていたのも記憶に残っている。7月初旬、今度の旅の計画は“先ず252号線ありき”でスタートした。
只見線の終端は、新潟県の小出と福島県の会津若松。252号線(柏崎-会津若松)もこれに沿っており、関越道と磐越道にそれぞれICがあるから、首都圏をもう一つの頂点とすると三角形の2辺は自動車道となる。これで一応252号線の山岳ドライブと紅葉を楽しめそうだが、幹線自動車道の占める割合が多く面白くない。ここからオプション検討が始まる。先ずこの路線につながる面白そうな道を探す。直ぐに思い至ったのは“磐梯吾妻スカイライン”。ここは子供たちがまだ小さい頃、夏休みに走っている。典型的な山岳ワインディング・ロード、運転を楽しむには持ってこいだ。高度も高いから10月中旬でも紅葉は間違いないだろう。次いで磐梯レークライン、西吾妻スカイヴァレーなどが周辺ルートとして浮上してくる。これで会津若松側は骨格が出来上がる。一方の小出側はどうか?地図を仔細に調べると、252号線の南側に352号線(柏崎-栃木県河内郡上三川)と言うのがある。小出から奥只見を経て、尾瀬の北側をかすめ、会津と日光を結ぶ道、会津西街道(国道121号線)につながっている。名付けて“樹海ライン”。121号線は川治・鬼怒川から今市に至るのだが、途中で塩原方面に向かうと“日塩もみじライン”を経て今市に行くことも出来る。この選択は当日の状況で決めよう。これで宇都宮を基点・終点とする環状ルートが出来上がった。初日いきなり未知の山岳路(352号線)で夕刻を迎えるのは辛いから、走行方向は反時計廻りとしよう。
次は宿泊場所である。当初三泊を前提にしていたが、大雑把な走行距離が1000km程度と読めたので二泊で考えることにした。初日は自動車道が多いことから裏磐梯から米沢方面まで明るい内に充分行き着ける。三日目の352号線はかなり厳しい道と予想されるので、二日目に出来るだけ走っておきたい。出来れば温泉地が望ましい。こんな条件で候補地を拾った。裏磐梯周辺には多数の温泉があるが、吾妻まで行くと天元台下の白布温泉くらいしかない。もう山形県だ。取り敢えずここを一泊目とする。二日目は走りのメインエヴェント252号線。白布から40km位で252号線に取っつけるので、そこから小出までは150km未満。時速30kmとして6時間位で行けるだろう。チェックインは5時(山間部の日暮れ前)を想定しているので、途中寄り道をしてももう少し走れそうだ。352号線の温泉地は湯之谷、その一番奥にあるのが銀山平。ここまで入っておけば翌日が楽だ。この日の全走行距離は凡そ200km。最終日は日光宇都宮自動車道、東北道とよく整備された自動車道を入れても380km位だから無理が無い。二泊目の宿泊地が決まる。
私の旅の楽しみの大部分は“計画作り”にある。ここまでのプランは8月中旬までかかり、ほぼ固まった。日にちの決定、252号と352号の最新情報入手、主要道を結ぶサブルートの選択、宿泊先決定、昼食場所、ガソリン補給場所、道の駅などの休憩施設、それに観光立寄り候補地点(時間、天候を考慮して)の洗い出しなどが次の調査・検討項目だ。まだまだ楽しい時間はたっぷりある。

(次回;“計画を練る”つづく)

2012年10月21日日曜日

決断科学ノートー119(メインフレームを替える-13;私とIとF-2)



このシリーズ2回目に書いたように、コンピュータ業界で突出したIBMI)に批判的な考え方はある。そんな中で私が親IBM的な心情を強めていくには幾つかの背景が在るし、一方でIに拠らない意思決定をしたこともある。
Iに対する批判の一つに、プロジェクトをターンキー(ユーザーの望む形に、アプリケーションソフトの開発や他社製品と組み合わせて、直ぐ使える形で納品する)で提供しないことがある。しかし、IBM1800のユーザーになってみて、確かに契約上はメーカーとユーザーの境界をはっきり分けているものの、実際面ではSECECustomer Engineer ;メンテナンス担当技術者)は顧客の要望に応えるべく、有形無形の問題解決サービスを行ってくれるのだ。
そのことは1969年から70年にかけて、オフサイト(受入れ・出荷・貯蔵・ブレンド装置)・システムを作り上げる際最初に体験している。自社製品でない物(タンクゲージ、出荷制御装置、DDCと呼ばれプラント運転制御用コンピュータ)が沢山つながるシステムには、インターフェースとそれを制御するソフトが必要だが、その設計や適切な業者選びに情報提供をしてくれ、滞りなくスタートアップすることが出来た。
もっと感銘を受けたのは、第一次石油危機(1972年)によって原油価格が高騰、省エネや収率改善が強く求められ、オンサイト(主要生産設備)システムの拡張・強化が不可避となった時である。主記憶容量の倍増、それに伴うO/Sの変更、外部記憶装置の入れ替え(プロコン専用から汎用機用へ)などを約2ヶ月の定期修理期間に行う作業は煩雑を極めるものだった。この時のCEの体制は、専任担当者、地域管理者、機種専門技術者が動員され、献身的なサービスを行ってくれ、大きくプラント運転の効率化推進に寄与した。そこでのCEの働き振りが、その後次期プロセス制御コンピュータシステムとしてIMFの上で動くACSAdvanced Control System)システム選択の一因になったことは、本ノート“TCS”に詳しく述べた。
しかし、何とかして解を見つけようと努力はするものの、Iが「(自社の製品とサービスで)出来ないことは出来ない」と言うのも確かである。この例は1978年に行った川崎工場の生産管理システムの選定の時に起こっている。この計画は1972年に立ち上げられた、石油精製と石油化学を一体的に工場管理するシステム検討に端を発する。そこでは生産管理ばかりでなくプラント運転の効率化、保全や技術さらには人事・経理など事務部門も含めた人員合理化を図る大掛かりな工場運営の革新を目指すことが目論まれていた。当然当初からメインフレーム(MF)の導入が前提となるのだが、第一次石油危機の到来でそれまでの計画検討は凍結、再スタートは76年に始まる。見直し計画は石油化学、石油精製それぞれが生産管理に絞ってシステム構築を行う構想である。この時期になるとミニコンが能力を上げてきており、MFの下位機種を凌ぐコストパフォーマンスを示すようになっていた。唯一ミニコンに欠けていたのは工場線形モデル(LP)の最適化を解く機能だったが、川崎工場の場合は本社へ出かけてそれを処理することが容易に出来たから、MFであることが必要条件とはならなかった。一方でIは中型汎用機IBM4300が発表される少し前、一番辛い時期で競札には応じたものの、要求仕様は満たすことが出来ず、導入機種はHP3000に決まった(このいきさつは“迷走する工場管理システム”に詳述)。
本社転勤前のIBMとの関係は以上のようなことだったから、次期MF検討の話を聞いたとき「IBMで良いじゃないですか」と発言した次第である。このことはMTKさんを通じて情報システム室の一部メンバーに通じていたようで、それが富士通にも伝わり、本人が知らぬ間に“IBMシンパ”のレッテルが貼られていたのである(このことを知るのは数年後であるが)。

(次回;私とIF;つづく)

2012年10月16日火曜日

決断科学ノート-118(メインフレームを替える-12;私とIとF)



次期メインフレーム(MF)の候補はそれまで使い続けてきたIBMI)が本命、国産第一人者、富士通(F)が対抗馬、穴馬が日立(H)という位置づけなる。ただHにはFの日本語処理システム(JEF)のような切り札が無かったから、Fを別の角度(国産機)から評価するという面が強かったし、私は本社勤務になるまでHのコンピュータ部門とは全く無縁だった(プロセスコンピュータの情報収集はやっていたが、それは汎用機とは異なる計測制御担当の事業部が主管)。
ここでは次期システム検討が始まるまでの、私の本命(I)・対抗馬(F)の関係を振り返り、最終決定までのプロセス背景理解の一助として紹介したい。
IBMとの初めての接触は1966年(昭和41年)頃、まだ和歌山工場勤務時代である。それまでにプロセス制御用コンピュータ(プロコン)について他社(主に横河電機)の製品について学ぶ機会は何度かあったが、フォートラン言語を学ぶためIBMの研修センター(確か日本橋に在った)に工場の先輩・同僚と出向いた時である。このプログラムは、初の自社専用汎用機(S/360)導入を控え、本社情報システム室が主宰する全社規模の教育プログラムの一環であった。従って、我々研修生がIBMの担当営業やSEと直接接することは無かった。
私がIの営業やSEと本格的に付き合い出すのは、19695月建設部勤務になり川崎工場の建設準備が始まった時からである。それまでの川崎工場は石油化学主体のプラント構成だったが、この時は重質油分解装置を含む本格的な精製工場(オンサイト)とそれにマッチするタンクや出荷設備(オフサイト)を建設するもので、言わばグラスルート(更地)に一大製油所を作り上げる大プロジェクトであった。この新工場にはオンサイト、オフサイトにそれぞれIBM1800(プロコン)を導入することが決し、導入準備(教育を含む)、システム設計、プログラミング、試運転とあらゆる面でIの担当者(営業;NKWさん、SEKZWさん・SGUさん→KITさん)と一体となって働いた(私の役割はオフサイトシステムのプロジェクト・エンジニア)。
これらの作業が進められている19706月半ばから約3週間の海外出張では、1800の生産拠点であったサンホセ工場を訪問する機会もあり、IBMの圧倒的な力を実感もした(1800生産はここからフロリダのボカラトン工場に移設中だったが、顧客受け入れ・研修施設や周辺にあるプロセス関連技術(ガスクロマトグラフ)の研究施設などの設備や人材に触れた印象)。
ただ、この時の日本IBMの営業組織(SEを含む)はMFとは別で、DACSData  Acquisition & Control System)営業所が主管していたのでMFの関係者と交流することはなかった。
Iの機械はプロコンといえどもリースベースで導入した。MFS/360S/370と発展したように、1800もシリーズ化された次期システムを予測し「いずれは高性能新機種で新たなアプリーションの開発を」と考えての策である。特に第一次石油危機(1973年)以降はその期待が高まるのだが、これといったプラント現場レベルのシステムが出てこない(S/7と言うシステムが発表されるがプロセス用には不適)。この前後1800の需要も先が見え始め、DACS営業所は解消。Iの営業体制は大型機と小型機(主にオフィスコンピュータ;S/3Xシリーズ)に再編され東燃への営業活動はMFの石油担当に一本化される。私がMFと関わりを持つのは1972年からだが(この時は東芝と富士通;本ノート“迷走する工場管理システム”参照)、IBMMF担当者(YMDさん)と親しく付き合うようになるのはこの再編成以降である。

(次回;私とIF;つづく)