2010年6月8日火曜日

今月の本棚-21(2010年5月)

<今月読んだ本(5月)>1)明治37年のインテリジェンス外交(前坂俊之);祥伝社(新書)
2)原潜デルタⅢを撃沈せよ(上、下)(J・エドワーズ);文芸春秋社(文庫)
3)街場のアメリカ論(内田樹);文芸春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1)明治37年のインテリジェンス外交
 日露戦争はわが国にとって勝算を期待できる戦いではなかった。日英同盟は在ったものの、軍事面でも経済面でも衰退する大英帝国がこれに積極的に加担する動きはなかった。独仏は三国干渉に見るようにロシア側についていた。唯一力になってくれそうなのはアメリカのみである。
 時の総理、伊藤博文が送った私設特使は金子堅太郎。彼の米国人脈を頼ろうとの考えである。これが功を奏し、戦時国債の引き受けを初め、世論も味方するようになってくる。
 ギリギリの局地的勝利停戦下での講和交渉、ここでも露全権のウィッテの巧みな外交戦略・戦術にややもすると米国メディアは親露的なトーンになりがちである。対する小村寿太郎(と言うより日本外交)はマスメディア対策が全く稚拙。これを何とか埋め合わせ逆転させるのも金子の力(長い滞米経験、それの基づく人脈、語学力、ルーズヴェルトの信頼)である。賠償金は取れなかったものの、樺太の南半分を獲得でき、“勝利”を手に出来たことは、彼の存在抜きには考えられない。
 この本の内容は二つの資料;金子が昭和になってから各所で行った講演の記録と、ウィッテの自伝、に基づいている。その点では客観性をやや欠く怖れもあるが、当然筆者はその部分を検証し、外交交渉の核心をニュートラルに抽出する努力をしている。歴史はかく表現されるべきである。
 ウィッテの手の内を見ていると、100年以上前の話だが、今に続く日本の外交下手は一向に改善されていない(否あの時より退化している)と感ぜざるを得ない。出でよ!第二、第三の金子堅太郎!

2)原潜デルタⅢを撃沈せよ
 3月の本欄で紹介した「U307を雷撃せよ」の作者、J・エドワードの第二作である。今度の舞台はカムチャッカとオホーツク海である。仕掛けは前回同様潜水艦と対潜イージス艦だが今回はそれに無人深海探査ロボットが加わる。
 ソ連の崩壊は幾多のロシア人の誇りを傷つけた。“あの栄光をいま一度!”と願うロシア人は現実にも多いと言う。カムチャッカ州知事もその一人。カムチャッカ半島ペトロパヴロフスクは原潜の基地である。多弾頭核ミサイルを積んだデルタⅢを武器にロシア・日本・アメリカに対して、独立さらにはソ連邦再興を目論み、ゲームを挑んでくる。
 一隻のデルタⅢはオホーツク海の厚い氷雪の下に隠れ、先ずアメリカを脅す。次いで米ロ日の潜水艦を全て浮上させるよう求めてくる。攻撃型潜水艦による撃破は出来ない。密かに氷海に分け入るイージス艦とそこに積まれた深海探査ロボットだけが頼りだ。
 筆者は前回紹介したように、イージス艦で長年対潜作戦に従事してきた技術兵(下士官)である。従って、海軍に限らず、空軍や陸軍の迎撃ミサイル戦に精通している。多核弾頭(7発あり、それぞれが別の目標を攻撃できる;ただし核軍縮で3発はダミーだがそれは迎撃する側には判別できない)の発射を検知しこれへの迎撃シーンは、精緻に描かれ臨場感に溢れているが、人間的な仕掛けが浅くテクノスリラー(落ち目になってからのトム・クランシー)の域を出ていない。

3)街場のアメリカ論  すっかりファンとなった内田樹の著書である。彼の視点に立つアメリカ論だが今までの本欄で紹介した「私家版・ユダヤ文化論」や「日本辺境論」より出版は古く、2005年にハードカバーとして発行されている。その時点でのアメリカ社会・国家の問題点を評論・解説しているのだが古さを感じさせないのはさすがだ。
 その理由の一つは「トクヴィルに捧ぐ」とあるように、1830年代アメリカ大陸を旅したフランス人、アレクシス・ド・トクヴィルの著書「アメリカにおけるデモクラシーについて」を下敷きにして現代アメリカを考察すると言う手法をとっているからである。
 トグヴィルが200年近く前に喝破したのは、アメリカが他国とは全く違う“人工的につくられた理想(を目指す)国家”であり、その政治システム(多数決民主主義、完全な三権分立)や社会システムが極めてユニークだと言う点である(マックス・ウェーバーはそれ以前を「身分社会」それ以後を「契約社会」と分けている)。そしてそれは今に続くと言うのが内田のアメリカ論である。
 中でも日米関係はその原点(ペルリ来航来)から異形で、その人口国家を強く意識しながら己(日本・日本人)の存在意義を考えることを重ねてきた。特に戦後の“ねじれ状態(例えば、反米の筈の左派が米国譲りの憲法を墨守したり、本来自主独立を唱える右派が米国との同盟を声高に叫ぶ)は酷く、わが国の対米関係は「発狂ソリューション」(そう言われれば普天間問題などその典型か?)に陥っていると説く。
 そして、「米国はいまや衰退の道をたどりつつある」と認識する内田は、「それに追随するだけで良いのか?」と問いかける。
 歴史を踏まえた、含蓄のある日米関係論に啓発されると大であった。

 晴耕雨読ならぬ晴走雨読の私にとって3月・4月の天候不順は“雨読”の毎日に等しかった。連休からやっと平年並みに戻ったものの、5月中旬から再び雨の多い天気となった。この雨の中、東北地方を1500km走り、晴走雨走で5月が終わった。そんな事情で今月は本棚に並んだのは3冊に過ぎず、それも比較的軽いものだった。その中で「街場のアメリカ論」は奥の深い読み物であった。

以上

2010年6月3日木曜日

遠い国・近い人-5(黒い戦略家-2;パキスタン)

 二度目の来日は2004年11月。SPINは横河グループの他の情報サービス会社と統合され横河情報システム(YIC)に変わり、私は横河本社の海外営業コンサルタントに転じていた。彼も戦略策定担当から東南アジア地区の販売統括という新しいポジションに就いており、今回の来日目的は新しい役割の趣旨説明にあった。米国を発つ前にメールでYIC滞在中是非会いたいと言って来た。こちらも海外情報が欲しかったので、はじめは私の家へ招待する案を試みたが、彼に時間の余裕が無く、新宿のインド料理店で会食した。
 当時私はロシアの製油所に、ITによる近代化提案を行う仕事に従事していたが、そこでは横河の中核商品;計測制御システムに加えて、他社製品の提案やそれらと自社製品の統合サービスが必要だった。いわゆるソリューションビジネスである。しかし、石油・石油化学向けソリューション・ビジネスの実態は各社各様で、業界の全体像がなかなかつかめなかった。彼に会って助言が欲しかったのは、このソリューションビジネス実態調査に関することだった。彼のアドヴァイスは、一つのアイディアとして「短い時間で効率よく集めるのには来春早々フロリダで開かれるARC社セミナーに参加すると良い」 とのことだった。ARCは世界唯一の、製造業における計測・制御・情報ビジネスに関する調査専門会社である。またこの会議に参加するならば、その後彼のオフィスに寄って彼の仕事仲間も含めて更なる情報交換をしようと言ってくれた。
 ARC会議への参加と知人を何人か訪ねる調査旅行は承認され、1月末成田を発った。旅程を調整する過程で、彼のオフィスのあるクリーブランでの宿泊を相談したところ、是非自宅へ泊まってくれという。こうして初めてイスラムの家庭を訪問し、そこに宿泊すると言う得難い経験をすることになったのである。
 暖かいオーランドで開かれたARC会議の後、クリーブランドに向かった。寒さが厳しい午後遅く着くとパシャが待っていてくれた。空港から市内を抜けて1時間弱、針葉樹に囲まれた典型的なアメリカ人の中産階級が住む住宅地の中に彼の家は在った。ここが彼の自宅でありSOHO(Satellite Office Home Office)である。
 家に入ると玄関先で彼が靴を脱いだ。日本と同じ方式である。私も彼に倣った。彼は私にはスリッパを勧めてくれた。やがて現れた夫人と二人のお嬢さん(中学生、小学生)も靴下である。挨拶もそこそこに玄関先でこの靴脱ぎが話題になり、同じ様式を持つアジア人同士として、初対面のぎこちなさが一気に解消した。
 案内された寝室は本来長女の部屋だが、彼女は大学の医学部で学んでおり、下宿生活をしているので今は空き部屋なのだという。若い女性の部屋らしく内装や家具が可愛らしい。バスルームは他の子供部屋と共通だが今日は私専用にしてくれている。
 やがて夕食。広いリヴィングに隣接するダイニングキッチンも広々としている。庭を背にした主賓席に座らされる。料理は当然カレー料理。種類は二種、鶏肉と野菜だ。それにナン、ライス、サラダ、ヨーグルトなどが並ぶ。「済まないが我が家ではアルコールは飲まない。それは後で用意するから」とパシャが言う。「(あとで?どういうことなんだろう?)」「いやいや 水で結構」「カレーはどちらにする?」「ではチキンを」。 深皿にチキンカレーが供され、スプーンで一杯、フォークでよく煮込まれた鶏肉をほぐして一口。その間家族はひたすら私を注視してる。「どうだ?口に合うかな?」「エッ!もちろん!こんな美味しいカレーは初めてだ!(それまで米国食続きだったのでこれはお世辞ではなかった)」この一言で全員笑顔。夫人が「あー良かった!日本人のお客は初めてなので心配だったの」と本音を吐露した。人種・宗教に拘わらず何処の国の主婦も接客の気苦労は同じなのだ。座が和んでくると「こちらも食べてみて」とヴェジタリアン・カレーを勧められる。少しさっぱりした味でチキンの後で味わうとホッとする。アメリカの家庭で何度か食事をしたが、他ではいつも夫婦と私の3人だけだったので(外で子供家族が加わることはあったが)、ことのほか賑やかで楽しい時間を過ごすことが出来た。(つづく)

2010年5月31日月曜日

決断科学ノート-41(トップの意思決定と情報-1;内部情報と外部情報)

 このノートは「経営における意思決定の場で、IT・数理の利用を更に高めるには如何なる環境醸成が必要か」をまとめるための、素材やヒントを記録するために書いている。前回まで連載した“工場管理情報システム作り”では、課題の意思決定が迷走するプロセスを例示した。これからしばらくはトップ(必ずしも経営者ばかりで無く、政治家や軍事指導者を含む)が課題を“決断するために要する情報”について書いてゆく。
 1981年5月、当時川崎工場勤務だった私に「本社トップ向け経営情報システム開発検討の指示が出たので出てきて欲しい」との連絡があった。この時期和歌山や川崎の工場管理システム、プラント運転のための次世代システム、中央研究所におけるラボラトリー・インフォメーション・システムなど、多くの情報システムが開発あるいは運用をはじめており、関連案件稟議決裁か何かの折に、社長が「ぼつぼつ本社の経営者に資する情報システムも要るんじゃないか?」とつぶやいたことに端を発する話であった。この話はやがてTIGER(Tonen Information GEneration and Retrieveの略、彼が工場時代しばしば大声で咆哮するところからタイガーと綽名されていたことにおもねてつけられた)プロジェクトとなり、9月に本社へ転任するとそれを担当することになる。今回の話はこのプロジェクトそのものの紹介ではなく、初めて体験した経営トップと情報(システム)の関係についてである。
 工場に長く勤務していると工場幹部の日常の意思決定に必要な情報は見当がつく。いや非日常的なこと(運転異常や事故など)でもおおよそどんな情報がカギか想定できる。また、親しく話を聞くことも可能である。その点では実戦部隊は上から下まで一体である。しかし、本社経営陣に関わる情報ついては、担当業務として生産活動に関するLP(線形計画法)モデルによる生産計画の検討などがあるが、これはスタッフが運用し、結果を整理して情報提供している。直接的な数値・情報は稟議などの案件に関する特定情報を個別に準備することと定期的な情報提供(工場の生産実績や一般的な経営指標、新聞記事など;これらも実態はそれぞれの主管部門スタッフが解説する)くらいしか思い浮かばない。これは本社勤務経験がそれまで無かったこととはあまり関係なく、本社のベテランでも明快にトップの必要情報を提示するのは容易ではなかった。それは工場と違い、本社役員の扱う懸案事項が外部(取引先を含む)の環境変化に影響される部分が大きいことに因るからなのだ。
 つまり工場管理では内部情報(特にプラント運転情報)が主体になるのに対して、本社の経営管理では外部情報(例えば原油価格、為替レート、金利、タンカー運航状況、短期エネルギー政策、他社プラントの操業状況(事故など)、調達予定機器の価格)がより大きなウェートを占めるわけである。そしてこの外部情報は、定型的・自動的に収集できるものは少なく(標準的な原油価格や為替レートくらいは集められるが)、役員の性格やバックグラウンドによってその任に当たるスタッフが種類・質・量を慮り、提供方法を工夫して、その用に資するものである。
 それでも役員と頻繁に接触のある本社部課長にヒアリングし、“群盲象を撫でる”ようにして第一段階(内部データ、定例一般報告)の役員用情報システムを作り上げた。導入当初は物珍しさもあってまずまずのアクセス数だったが2,3ヶ月もすると全く使われなくなってしまった。
 1960年代末期、企業にコンピュータが導入され、ルーチン・ワーク(販売実績処理や経理処理など)への適用が軌道に乗ると、MIS(Management Information System)という三つ文字が賑々しく登場した。これからは経営者がコンピュータを使うのだと。これは当時の技術や経済性の観点で、一定期間(日、週、月)を対象とするバッチベースの“実績情報分析”の一部に留まった。その後も類似のシステムが一時話題になっては消えていった。それは技術的問題よりは、経営者が意思決定に必要な情報を絞り込むことの難しさと必要な外部情報入手がITの及ぶ範囲を超えたところに在ることに因るからである。真に経営判断に資する有効な情報システム構築は、インターネットが普及し、かなりの外部情報が収集し易くなった現在でも、まだまだゴールは遠い。
(次回予定;トップの情報リテラシー)

2010年5月28日金曜日

奥の細道ドライブ紀行-1(計画立案-1)


 芭蕉が深川の庵を発ち、東北・北陸の旅に出たのは元禄2年3月27日、新暦では1689年5月16日である。ほぼそれと重なる5月12日早朝家を出て、3泊4日で山形・秋田方面を駆け抜けた。東北地方だけで3ヶ月もかけた往時の旅とは比ぶべくもないが、大きな都会をほとんど含まないルートは、随所にあの紀行を偲ぶ情景が残されていた。総走行距離1500kmのドライブ行をしばし振り返ってみたい。
 久し振りの長距離ドライブに出かけようと思い立った時“おくのほそ道”は念頭になかった。あったのは「秋田へ行こう!武家屋敷の残る角館は是非行きたい」である。全国都道府県の内、未だに足を踏み入れたことの無い所は本州では秋田県を残すのみである(その他に九州の長崎・佐賀・熊本の三県を訪れたことがない)。自らハンドルを握って走ったことの無い県は、青森・秋田・山形。秋田へ行けば山形も通る。青森県はむつ小川原備蓄基地にに駐在していた友人のクルマで周っているので、それほど執着するところがない。
 私にとって、旅の楽しみの過半は計画立案にある。だから、海外でも国内でもツアーにそのまま参加することは論外である。その点自分の車での長距離ドライブは完全にテーラーメイド、あらゆる希望を盛り込むことが可能だ。しかし、実際には制約や条件・希望があり、自ずと実行案は絞られてくる。先ず日程である。時期を連休明けにできることは引退者の特権だ。出来れば未知の地を走るのだから、昨年の紀伊半島ドライブ同様4泊5日にしたい。これに対して家内の希望は3泊4日だと言う。理由を質したわけではないが、高齢の両親への気遣い、乗り物にあまり強くない体質がその背景にあるようだ。
 4泊をベースに考えている時は、関越か磐越自動車道で新潟に出て、そこからひたすら日本海を左手に見ながら北上し、一日の仕上げは美しい夕日を楽しむ案だった。しかし、この地方に詳しい自動車ディーラーのセールスマンは「新潟から秋田まで海岸風景はほとんど変わらないのでお勧めではありません。山形・秋田を走るなら内陸部のほうが面白いですよ」と言う。宿泊数が3泊になったことを考慮すると、山形の日本海側で1泊、秋田で是非訪れたいと思っている角館周辺で1泊、帰りは宮城か山形の山間部で1泊と、おおよその宿泊地の見当を付ける。
 初日は出来るだけ走りたい。そのためには自動車専用道路が延びているところが好ましい。東北道と山形道で到達できる酒田がこうして決まる。後の二ヶ所は温泉にしたい。角館の近くでは乳頭温泉が最も秘湯感覚のようだ。最終日は山寺(立石寺)を観光した後蔵王エコーラインを走って帰宅する。その条件から3泊目は銀山温泉が最有力になる。この段階では、銀山温泉が“おしん”や“千と千尋の神隠し”に登場する場所とは全く知らなかった。
 ルートは、長距離ドライブとなる初日と最終日は自動車専用道路、他の日は一般道路(県道か二桁・三桁の国道)にして、運転を楽しむことと地方の生活に身近に触れることを主眼に置くことにする。 計画の骨子はこうして決まった。見ると、首都高湾岸線は深川を通り、東北道では那須のサービスエリア(SA)や白河ICがある。山形道では月山の麓を通り最上川の河口酒田に至る。秋田から奥州中央部戻る道筋では鳴子に寄って大石田をかすめるし、最終日は立石寺にも寄る。宮城・岩手を除けば奇しくも“おくのほそ道”の舞台が随所に出現する結果になった。(つづく)

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2010年5月22日土曜日

遠い国・近い人-4(黒い戦略家-1;-パキスタン)

 艶のある黒い肌、中背で痩せぎす、大きな目が印象的だ。雰囲気がアフリカ系アメリカ人とは異なる。姓はAhmadだが皆パシャ(Pasha)と呼んでいる。名刺にもメールIDにもPashaが使われている。しかし、どうもこれは本名ではなくニックネームではないかと今でも思っている。それは彼が一時期トルコで働いていたことがあるからだ。かの地では、近代化の父、ケマル・パシャのように高位・高官の尊称としてパシャが使われる(パシャの本来の位置は姓の後だが、彼はミドルネームとしている)。訳せば“閣下”と言うところであろう。彼の立ち振る舞いがそれを髣髴させるので、そんな愛称が付けられ、本人も気に入って今に至っているに違いない。
 パシャと初めて会ったのは2002年サンフランシスコで開催されたOSIソフトウェアのユーザー会である。この時、ユーザー会とは別に販売パートナーを対象としたDistributors Meetingがメンバーを限って開かれ、彼がこれからの販売戦略についてプレゼンテーションを行った。いつもはシステム寄りの戦略を聞かされることが多いのだが、この初対面の男はユーザー智見に基づいた販売戦略を披瀝した。ユーザー出身である私にとって大変印象深い話にすっかり魅了された。休憩時間、少人数の会議ゆえ直ぐに彼と話す機会がやってきた。どうやら事前に参加メンバーの情報を集めていたようで、こちらが自己紹介すると「SPINのMadonoさん?日本でのパイのビジネスの話はパットから聞いているよ。上手くいっているようだね」とレスポンスが返ってきた。気分の良い出会いであった。
 彼はパキスタンの出身。高校卒業後アメリカに渡りMITで制御工学を専攻、スタンダード石油インディアナの流れを汲むAMOCOに就職。そこが英系のBPに吸収され、OSIに参加するまでAMOCOの技術センターや英国、トルコでの勤務も経験した国際人だった。その時の経験を生かして、これからOSIの産業別戦略策定・推進を担うのだという。会議で話を聞いていてピントが合ったのはこう言う背景が在ったからなのだ。
 このユーザー会議期間中、彼とは何度も話す機会を持った。そんなある時、SPINが今は横河資本の下にあることを知ると「AMOCO時代横河が訪ねてきて何人か知り合い出来たよ」と役員経験者のOKDさんやTMTさんの名前が出てきた。ご両人とも私も懇意にしている方々である。親しい共通の友人・知人ほど強い接着剤はない。これでパシャとは一気に旧知の友人のようになってしまった。
 その年8月日本のユーザーを対象にしたOSI技術セミナーを開催するに当たり、彼にプレゼンテーションを依頼したところ快く受けてくれ、セミナー成功の決め手となった。これを機会にOSI起業者でCEOのパット以外に気脈を通じる心強い仲間が出来たことを喜んだ。(つづく)

2010年5月17日月曜日

遠い国・近い人-3(大粒の涙-2;インド-2)

 そのバーは僅かなソファー席と長いカウンターで出来ており、既に30人くらいの客でいっぱいだった。もちろん全て男。どうやらここはメンバー制らしく 、客の中にはナラヤンさんの知人も居る。外国人は日本人二人だけ(YMT部長と私)。遠来の客のために皆で詰めあい、何とかカウンターに3人分の隙間を作ってくれた。他の客同様飲み物と乾き物(ナッツなど)で、技術会議や先ほど観たインド舞踊を材料に歓談を始めた。やがてソファー席の客が立ち上がると、皆は我々に気を遣い席を勧めてくれた。
 席に落着くと、ナラヤンさんからインド初訪問の感想を聞かれた。紙幣を見せながら「一つのお札にこれだけ多種の言語で、その価値を表さなければならないなんて、大変ですね」と言ったところ、「インドの広さを解かっているかな?」「普通の地図では、赤道付近に比べ南北極地へ近づくほど地面は実際よりも広く描かれる。一見小さく見えるインドの広さは、北欧と西欧を加えた広さに匹敵するんだよ」「そのヨーロッパにどれだけの言語と通貨があるか考えてごらん」「決してインドは複雑で特別な国ではないんだよ」 インドに対する認識を根底から覆された一瞬であった。
 話題はやがて私の生まれ育ちに転じ、満洲(Manchuria)で生まれ、彼の地で小学校に進み、夏休みにソ連侵攻があり、その後中共軍の統治を経験して、翌年日本へ引揚げたことを語った。話が進むにつれナラヤンさんの表情が次第に変わり、話に強く惹かれている様子がうかがえた。一区切りついたところで「全財産を失ったのか?」と聞いてきた。「一人一個宛て許されたリュックサックに詰められる範囲だった」「帰国直後、短期には親戚の援助もあったが、それからしばらく両親の苦労は大変だった」 彼の顔に「そうだろうな」という気持ちが表れていた。
 私の答えを引き取るように彼が話し始めた。「インドのパーティションを知っているね?」 一瞬何のことか解からなかった。“パーティション”で知っているのは、コンピュータ記憶装置の境界域管理かオフィスの間仕切りくらいである。しかし、続けて語る彼の話から、それが1947年のインド独立時における、パキスタンとの“分離”を意味する言葉であることが解かった。
 彼の家系は古くから、現在のパキスタン領に住んでいた。宗教はヒンズー教、家は豊かでその地方の名家、恵まれた環境で育った。この分離の年、彼はボンベイ(現ムンバイ)の技術専門学校(カレッジ)へ進み、故郷を離れ一人で下宿生活をしていた。当初はただの国境線制定、住民の生活に急な変化は無いようにみえたが、やがて宗教の違いからくる諍いが各地で起こり、ついにカシミールを巡る戦争にまでエスカレートしてしまう。イスラムの国となったパキスタンではヒンズー教徒への圧迫が一段と厳しくなり(当然インドのイスラムも同様)、ついに彼の両親・弟妹は着の身着のままで父祖の地を追われ、狭い彼の下宿に逃げ込んできた。その時から始まる家族の悲惨な生活、全てを失った無念の思いが、私との会話を契機にほとばしり出てきた。「それまで皆仲良く暮らしていたんだ。それが人工的な分離策によって一気に崩れてしまったんだ」 話し終わった時、彼の大きな目から大粒の涙が溢れ、黒い肌を滴り落ちていった。
 民族分断・難民体験は終戦後の引揚げを除けば、日本人に経験の無いことである。一方でアメリカ合衆国(言わば難民が作り上げた国)を始め、世界の国家・民族はこれが当たり前の歴史とも言える。
 あれから四半世紀、国際紛争で何か事が起こるたびに、あの一粒の涙が思い起こされる。
(大粒の涙完)

2010年5月11日火曜日

遠い国・近い人-2(大粒の涙-1;インド)

 1986年9月横河電機から、インド科学技術省が主催する、DCS(Distributed Control System;分散型ディジタル制御システム)に関する国際会議で、東燃における利用例を発表して欲しいとの要請があった。この頃、インドでは国産技術利用の縛りが外されつつあり、石油や石油化学で先端技術の導入が始まっていた。現在の経済成長が始まる夜明け前である。この会議のスピーカーはユーザーに限られており、横河独自で発表は出来ないのだが、何とかこの機会を利用して存在感を示したいと協力を求めてきたのである。
 東燃システムプラザ(SPIN)創設の翌年、国内ではIBM、横河電機をパートナーとして外部ビジネス展開をしていたこともあり、そのセールス活動で利用している情報開示の範囲であるならとの条件で、この申し出を受けることになった。
 当時この地域を担当していた横河のYMT部長とシンガポール経由でニューデリーに着いたのは深夜、ムッとする暑さが身体にまとわりつく。数十年前英国から導入し、国産化したモーリス(国産名は確か、アンバサダー)のタクシーに冷房は無く、窓を開けて暗夜を走る。チェックインしたのはハイアット、さすがに館内のつくりはアメリカンスタイルで、一見近代的だが客室の細部はそれなりの造作である。
 翌朝指定された時間にロビーに降りると、当地独特の半袖・開襟のスーツを着た年配のインド人が迎えに来ていた。大きな目玉、黒い肌、がっちりした厳つい身体つき、代理店ブルースター社のオートメーション部門責任者、ナラヤンさんである。初めて言葉を交わしたインド人は、風貌とは異なり穏やかな語り口の人であった。その時から一週間、帰国まで何かとお世話になることになった。
 会議はショーケースも併設されるので、見本市会場のような所で行われる。初日午前は大臣の開会挨拶から始まり、立食の昼食会が参加者交流の場であった。ハネウェル、フォックスボロなどのオートメーションシステム製造者やプロセス分野のコンサルタントなど、この世界を代表するメンバーが多数参加している。夜はホテルに横河の顧客(インドの石油・石油化学会社)を招いて、私の講演と晩餐パーティが開かれた。食材(野菜、鶏、羊、魚介)も色(赤、黄)・香辛料も多彩なカレー料理がテーブルに溢れ、その美味さにつられ、つい食べ過ぎてしまう。就寝してしばらくすると腹の異常が始まった。朝まで何度もトイレに駆け込む。
 朝ロービーでナラヤンさんに「おはよう。調子はどうかな?」と挨拶が始まったので、正直に昨夜からの体調不良を説明した。「会議に出られるか?ホテルでやすんでいるかい(幸いこの日の発表ではなかった)?」と問われたので、「腹の中は空っぽなので、静かにしていれば会議に出られる」と答えて会場に向かった。脱水症状にならぬよう水の補給だけは続けながら、何とか午前の部を耐えることが出来た。昼はこの会議場のレストランではなく、日本文化センター(正式名称は不明)で摂ることになり、そこでナラヤンさんは“ヴェジタリアン”メニューを薦めてくれた。初めはサラダや温野菜などが出てきたが、メインディッシュは薄緑色のポタージュのようなもので、チョッと口にしてみると、味は全く野菜味ではなく、肉類のような味付けになっていた。舌が、身体が“これなら大丈夫!”と言い出し、すっかり平らげてしまった。ナラヤンさんはそれを見てニコニコしている。午後の会議が終わると体調は完全に回復していた。
 その夜は再びナラヤンさんの案内で、ここで食事をし、地方によって異なる何種類かのインド舞踊を鑑賞した。腹の調子は完全に回復していた。恐れていた疫病ではなく、強い香辛料に胃腸が耐えられなかったらしい。踊りが終わるとナラヤンさんは「チョッとバーに行こう」とセンターにあるバーに誘ってくれた。どうやら彼はここのメンバーらしい。(つづく)