2010年4月5日月曜日

決断科学ノート-37(迷走する工場管理システム作り-11;コンピュータの選択-1)

 1972年秋に立ち上がり、第一次石油危機を経て凍結事態になった川崎工場の工場管理システム構想は、和歌山計画も巻き込んで、5年間に渡る迷走を続けたことになる。しかし、この5年間は決して“失われた5年”ではなかった。この間、ITによる工場経営革新(その後の全社的な経営革新)推進の抑えどころ、生産管理の在り方、情報技術の進歩と適用限界、当該プロジェクトの経済・経営効果の把握などを当事者もその周辺も学ぶいい機会となった。
 計画のベースとなる経済効果は、製品の収率改善(重質油から少しでも付加価値の高い軽い溜分を回収・増産する;この時一番経済性向上に効いたのは軽油の増産)である。ただし、生産計画の基となる製油所LPによる月次生産計画は工場生産管理機能から外したので、それはスケジューリングと運転実績解析から実現できる分に留まる。和歌山ほど投資するのは難しい。自ずと導入候補のコンピュータは限られてくる。幸いこの時期から半導体技術が急速に進み、小型コンピュータ(いわゆるミニコン)に下位の汎用コンピュータと遜色のない、高性能のものが出始めていた。
 システム開発室発足時、二つのグループ(東芝-山武ハネウェルと富士通-横河電機)との共同研究に着手した時は、東芝、富士通ともにそれぞれの旗艦となる汎用機を担いでいたが、プロジェクトの凍結時この関係も解消され、汎用機に縛られることもなくなっていた。
 こんな時期、ミニコンの雄、DECは産業用コンピュータとして世界を席巻した、PDP-8の後継機PDP-11を発売していた(32ビットのVAXは日本では未発売)。“スカンク・ワーク”なる語を知らしめた、新興のデータゼネラル(DG)はNOVAシリーズが話題を呼び、高周波分析機器から新規分野に挑戦したHPはHP-1000で大成功、より汎用性の高いHP-3000を送り出したところ。どれも魅力的な製品だった。この中でチョッと特異なポジションに在ったのはDGである。
 国産メーカーもこの動きを必死で追っていた。東芝は産業用ミニコンでは先行しており、既にPDP-11を意識したTOSBAC-40シリーズを生産、CモデルがTSKで採用されていたし、富士通もFACOM-Uシリーズを市場に出していた。
 しかし、ITではいつの時代も同じだが、特にこの時代のミニコンはアメリカを追いかけるのが精一杯、通産省はこれに危機感を抱き、その技術をいち早くキャッチアップするため、合弁会社(日本ミニコン)設立に動いた。その相手として選ばれたのがDGである。日本側の企業ではオムロンや構造計画研究所が加わり、工場が熊谷に建設され、構造研の創始者服部さん(現社長の父)が社長を務めていた。
 問題はIBMである。コンピュータ業界の帝王だけに、新機軸のアーキテクチャー(基本構造)の製品は出し難く、辛うじてオフコン分野でS-30シリーズを出していたものの、その用途は事務分野に限られていた。工場での利用は、あくまでも旗艦、S-370を頭に持ち、その手足となるS-7やS-1しかなかった。スタンド・アロンで動く、ミニコン御三家の製品とは比ぶべくも無い。のちに大ヒットする、中型高性能機S-4300がベールを脱ぐ寸前であるのを我々(日本IBMの社員を含む)は知らない。(つづく)

2010年4月2日金曜日

今月の本棚-19(2010年3月)

<今月読んだ本(3月)>1)見えざる隣人(吉田忠則);日本経済新聞出版社
2)フリーエージェント社会の到来(ダニエル・ピンク);ダイヤモンド社
3)北米1万マイルの車の旅(笹目二朗);枻(えい)出版社(文庫)
4)緑の英国・アイルランドの車の旅(笹目二朗);枻出版社(文庫)
5)バルト三国をボルボで走る(笹目二朗);枻出版社(文庫)
6)チンクエチェントで駆け巡るイタリア5000km(笹目二朗);枻出版社(文庫)
7)U-307を雷撃せよ(上、下)(ジェフ・エドワーズ);文芸春秋社(文庫)
8)岩崎弥太郎と三菱四代(河合敦);幻冬舎(新書)

<愚評昧説>
1)見えざる隣人
 2008年、日本経済新聞夕刊に連載された「台頭する新華僑-揺れる日中のはざまで-」を大幅に加筆・修正して単行本にしたものである。いまや韓国・朝鮮人を抜いて最大の在日外国人となった中国人(2008年末で約65万人)、急速にその勢いを増す本国との間において、彼等の生き方・考え方は如何なるものなのかを、芥川賞作家から犯罪者まで、改革開放政策以前のエリート留学生から直近の出稼ぎ人まで、幅広いインタビューに基づいて掘り下げていく。
 世界に名高いニューヨークやサンフランシスコのチャイナタウン、ホンクーバー(香港からの移住者が多い)と称せられるバンクーバーの中国人社会、東南アジアの地場経済をがっちり握っている華僑、研究活動で滞在した英国の田舎町、ランカスター大学における中国人留学生の多さ、諸外国で垣間見た小中国は良くも悪くも、そこに欠かせぬ存在だった。これらに比べると、本邦最大の横浜のチャイナタウンですら、希薄なものに見えてくる。近い国だが最も遠い国と言えるかもしれない。
 維新後の近代化プロセスで醸成された中国蔑視観、一方で満洲事変・支那事変(日中戦争)に対する(わが国左翼知識人・メディアによって刷り込まれた)歪んだ原罪意識。日本人の中国(人)に対する思いは、その歴史を体験した世代が去っても複雑なものがある。そしてその特異な感情が現代の中国(人)に反射する。とりわけここに住む人たちに。そしてそれは意外と我々に伝わっていない。そこを埋めようと試みたのが本書の意図と言える。
 紹介される、池袋駅北口で起こったチャイナタウン騒動、川口芝園団地における中国人世帯の急増などによるトラブルとその収拾、独立行政法人、物質・材料研究機構における中国人研究者の活躍や企業家の出現などを見ていると、前述の諸外国とは形が異なるものの、わが国にも中国人との共棲を避けて通れない時代が来ていることを知らされる。そして彼等の存在が、新しい時代の日中関係構築の重要な礎と期待できるように思えてくる。
 それは、彼等が個人として日本と母国を見つめる複眼を持っていることである。例えば子供の教育である。中国での教育は日本とは比べものにならぬくらい厳しい。もし、初等・中等教育を日本で受けると、中国の競争社会を生き抜けないとさえ感じている。そこで子供だけは帰国させ母国で教育する。しかし、自分の日常生活を振り返ると、日本社会の落着いた環境に心の安らぎを感じると言う。本当はどちらが良いんだろう?と自身に問いかける。このような体験こそ国際社会を自ら理解する原点と言えるだろう。こういう人たちがある程度まとまって居住することは、必ずやわが国が国際社会において正しく理解されることに貢献するに違いない。
 本書を通じて、“見えざる隣人”の存在価値が少し見えてきた。

2)フリーエージェント社会の到来
 就職難である。経験の無い新卒が特に酷い。フリーターの発生はリーマンショック以降の現象ではなく随分前から起こっている。派遣社員が増えだしたのもバブルの最中90年代からだ。グローバリゼーションの掛け声の中、一層の企業経営の効率化が求められ、その後右肩上がりの経済成長が止まると、“欠員補充”的な採用が目立つようになってきた。この傾向は、成熟社会到来の早かった欧米社会(アメリカの場、経済成長は続いていたもののウェートがサービス業にシフト)ではもっと早くから始まっている。
 この本は、2001年に原著が出版されたもので、取材時期はそれ以前、1990年代後半と言うことになる。筆者はゴア副大統領のスピーチライタも務めたことのあるジャーナリストである。蒸し暑い夏のある日、冷房が故障した、ホワイトハウスの会議室でスピーチの準備会議中倒れてしまう。原因は、緊張を強いられ、不規則な労働環境に置かれることから来る過労である。その直後から、自ら時間と仕事をコントロールできる、フリーランスのジャーナリストに転じる。そしてわが身を置くことになった“フリーエージェント”の世界を探り始めのだが、以前労働長官のスタッフでもあった彼がそのコネを利用してもなかなか整理された情報が集められない。雇用統計では“非農業従事者”の中に消えてしまっているのだ。就業者なのか失業者なのかさえ定かではない。しかし身近にはこんな人が確実に増えている。そこで家族(妻と幼い娘)とともに全米を調査して歩く(出版社がスポンサー)。これはそのインタビュー結果のまとめである。
 本書の肝は、副題が『「雇われない生き方」は何を変えるか』とあるように、筆者自身獲得した、自由な「雇われない生き方」をポジティヴに捉え、成熟社会では必然であると説くところにある。
 嘗てのような組織(に縛られた)雇用に基づくピラミッド型(縦型)社会は歴史的にはそれほど長いものではなく、“退職”が可能になったのはごく最近のことで、それ以前は自営で、時には場所や顧客を変えながら一生働くのが当たり前だった。ある意味そこへの回帰が始まっている。そこではハリウッド型あるいはプロジェクト型のチームが出来上がり、必要な人材が必要な時に集められ、一仕事終われば散っていく。これは組織に依存する縦型社会とは異なる横型社会の到来であり、個人も社会もこれに適合する生き方が求められるとする(例えば、プロジェクトと人材の組合せを図る仲介企業の存在)。
 私も、現役時代「社内の仲間との比較よりも、①同業他社同職種で働けるか?→②異業種同職種で働けるか?→③異国(言葉のことははひとまずおいて)同職種で働けるか?」を“同職種”をキーに、自問するよう自らにもスタッフにも言い続けてきた。その点では筆者の主張に考え方は近い。
 しかし、現在の人材派遣会社やパートタイマーの暗部をえぐってはいるものの、働く者が自分の意志で仕事を決めることの価値を尊ぶ姿勢で貫かれた論調は、厳しい状況にある現在の労働市場をちょっと楽観的に見ているきらいがある。
 最大の問題点は、未経験者をプロの領域に高めるための仕組みである。この点も筆者は各種の教育・訓練方法などに言及しているのだが、実務を通じた知識・技能獲得にはとても及ばない気がする。
 フリーエージェント社会がフリーター社会に堕さないことを願って止まない。

3)~6)笹目二朗のドライブ紀行  筆者は日産自動車の技術者から、早い時期に自動車ジャーナリストに転じた人である。年齢は、著書から推定すると既に60代半ばと思われ、有名な徳大寺有恒(「間違いだらけのクルマ選び」で一気に売り出した)同様、この分野の“良き時代”を送った世代と言える。
 今は自動車ジャーナリズム冬の時代。若者の自動車離れが言われて久しい。理由の一端は自動車ジャーナリズムそのものにあると言える。あまりにハードウェア製品、技術(運転技術を含む)偏重なのである。クルマに乗ることの“楽しさ”を伝える記事がほとんど無い!1950年代朝日新聞が敢行した、今から思えば貧弱な国産車、トヨペット・クラウンによる“ロンドン→東京5万キロ”のような、若き血を滾らせる書き物にとんとお目にかからない。
 そんな悶々とした気分で月刊誌「ENGINE」を眺めている時、筆者がここ何年かにわたって、海外長距離ドライブを行い、それが出版物になっていることを知った。書店には置いていないし、出版社も聞いたことが無いのでインターネットで調べ、まとめて4冊購入した。
 4冊は場所(北米、英国とアイルランド、バルト三国・スカンジナビア、イタリア)とクルマ(全てメーカーの手配のレンタカー;クライスラーPTクルーザー、プジョー207、ボルボC30、フィアット・チンクエチェント)の違いだけで、内容はほとんど同じ。専ら走行距離、燃費、燃料価格、道路状況、あとは何を食って(これがかなり貧相;スーパーで買って車中食など多い)何処へ泊まったか。おまけにSEVというマイナスイオン効果で燃費や乗り心地まで改善してしまう道具に凝っていて、それがやたら出てくる(技術者であったのにその理屈が全く不明と言う)。文学的な味わいはまるで無く、ドライブ紀行というよりドライブ日誌と言っていい。足取りを辿る地図もほとんど掲載されておらず、写真がかなりあるのだが文庫本ではそれも楽しめない。人に進められるような本ではない。
 しかし、ドライブ好きの私にとってはそれなりに楽しく、好奇心を満たしてくれる小冊子。実現はしないだろうが、“欧州を走ってみたい”気にさせてくれた。

7)U-307を雷撃せよ  久し振りに優れた軍事サスペンスものに行き当たった。それも現代の最新技術とつながる、近未来SFである。荒唐無稽でないところがいい。筆者は米海軍で長年(23年間)駆逐艦に乗り込み対潜作戦に従事してきた技術エキスパート(士官か兵かは不明)である。だからその戦闘シーンには、最新の対潜駆逐艦の心臓部はかくやと思わせる臨場感に満ちている。
 20XY年、ドイツでは環境問題がエスカレートし、発電用原子炉の停止が迫ってくる。エネルギー不足はドイツ経済を大混乱に陥れること必定。ドイツ政府は密かにその最新鋭ディーゼル(燃料電池システムで推進するので静粛性が高い)潜水艦を中東のテロ国家に輸出し、石油の大量長期輸入を目論む。第二次世界大戦でのドイツ降伏記念日、5月8日キールを発った潜水艦4隻は先ずジブラルタルに向かう。英米共同作戦が発動され、それを阻止しようと海峡で待ち構えるが、逆に英艦が返り討ちに合う。東地中海から急行する米機動部隊も巧みに交わされてしまう。エジプトは親米国家ではなく、スエズ運河を封鎖しない。残されたのはイラン沖、ペルシャ湾を哨戒する米海軍の旧式巡洋艦一隻と駆逐艦・フリゲート艦三隻計4隻。4対4の戦がホルムズ海峡を挟んで戦われる。一隻でもテロ国家の手に渡れば、米国の威信は著しく傷がつく。「何としても阻止せよ」大統領(最高司令官)直々の命令が発せられる。
 最後に残った先任艦長の乗る潜水艦と最新鋭駆逐艦との一騎打ちシーンは、最新兵器による丁々発止にもまして、両艦長の心理描写に優れ、嘗ての名画「眼下の敵」を髣髴させる。
 チョッと物足りなかったのは、駆逐艦側の戦闘が克明に描かれるのに比べ、潜水艦側のそれがやや単純なことである。筆者のバックグラウンドから推し量ればやむをえないが、もう少しバランスよく書かれていれば、最後の場面の盛り上がりが違ったであろう。惜しい点である。
 しばし、この筆者の作品を追ってみようと思う。

8)岩崎弥太郎と三菱四代  三井・住友は長く続く商家、三菱(岩崎)は下級武士が維新に乗じて作り上げた海運業・重工業。こんなステレオタイプの認識しかなかった若い頃、理系を目指す人間としては三菱を一段と優れたグループと見る反面、何か堅苦しいイメージで近づき難いものと見てきた。それは社会人になってからも大きくは変わっていない。もう一つ子供の頃から何気なく不思議に思っていたことに、何故岩崎ではなく三菱なんだろうという疑問がある。
 書店でこの本を目にした時、この岩崎と三菱がひとつのタイトルに込められているところに惹かれ読んでみる気になった。
 これを読んで疑問は氷解した。グループの出発点、三菱商会はそれ以前藩の財政を豊かにするため創立された、藩立商社;三つ川商会(川の字がつく三人の役人が差配役)をやがて弥太郎が取り仕切るようになり、そのマークに岩崎家家紋;三階菱と藩主山内家の家紋;三つ柏を融合しものを考案、それに基づいて社名を改めたところから発している。三井・住友とは異なり、家業が発展したのではない。
 それにしても、弥太郎の人生は幕末・維新の時代とはいえ波乱万丈である。赤貧の地下(ぢげ)侍の子として生まれ、やがて長崎で藩の商売を行う出先機関で坂本竜馬と交友を深め、藩立の商社を自らのものとして海運業で成功するも、外国海運会社との激しい戦いが待っている。それに勝利すると、今度は大隈重信に入れ込んでいるととられ、薩長政府に徹底的に締め上げられる。この戦いの最中弥太郎は52才の若さで胃癌による壮絶な最期を遂げる。憤死、悶死と言っていい。
 しかし、この難時を温厚な弟の弥之介が救い、やがて弥太郎の長男、久弥にバトンタッチし重工業への進出に成功、さらに弥之介の長男小弥太へと引き継がれ終戦の財閥解体に至る。岩崎家は必要な時に必要な人材が事に当たる、幸運に恵まれた一族であることを、この本で知った。
 三菱グループの発祥の母体と思われている日本郵船が何故三菱を名乗らないか?薩長政府は、それに対抗する立憲改進党(党首大隈重信)とそれを人材で支える福沢諭吉(慶応義塾から自由民権を唱える人材を輩出していた。未だ早稲田は存在しない)、財力で支援する岩崎弥太郎を潰しにかかる。先ず標的にされたのが三菱商会、政府は渋沢栄一らを担いで共同海運を設立、これを強力にバックアップする。凄惨な戦いの中で弥太郎が死に、共同海運も共倒れの危機に瀕する。ここで弥之介の下両社の合併が行われ日本郵船が発足する。当初は共同海運側がイニシアチヴを握るが、やがてその道の専門家が多い三菱の人材が主導権を握り、完全な三菱合資下の会社になる。その意味で今にその名を留める日本郵船は日本近代政治史の生き証人とも言える。
 在野の史家(高校の歴史の先生か?)が書いたものだが、幕末・維新を独特の角度から描いた秀作である。

以上

2010年3月27日土曜日

決断科学ノート-36(迷走する工場管理システム作り-10;新構想の立ち上げ)

 1975年、当初計画は凍結され、人は去っていった。この年管理職資格になった私は副室長のポストを与えられたが、残されたスタッフは、既存システムのメンテナンス要員と石油ショック後の省エネ活動を担当する僅かな技術者に過ぎなかった。その貴重な人材さえ、一時的に和歌山に応援に出さざるを得ず、組織的な活動は行えていない。
 救いだったのは、石油ショック後の工場運営を革新すべく送り込まれた製油部長のKNIさんの強い支えである。自らを“エコノミック・エンジニア”と称し(これは工場勤務経験の無さを弱みと見せない自衛策でもあったが、上級管理者として最も必要な視点であることを彼から学んだ)、工場生産管理体系の改革に情熱を燃やし、とりわけコンピュータ利用に期待をかけてくれた。‘75年秋シンガポールで開催された、今まで製造系エンジニアしか参加していなかった、Exxonのトレーニングコース“Logistics Economic Course”へ私を送り込んでくれたのも彼である。また、東燃川崎工場の技術部門に残っていた、オンサイト(主要生産設備)担当のシステムズエンジニアの管理を兼務するポジションを与えてくれ、精製工場全体のIT関連業務を統括するようにしてくれた。
 振り返ってみれば、この孤島に一人残されたような期間が、生産管理を最も学んだ時期と言っていい。
 和歌山計画応援は、川崎の新工場管理システム開発を、一時完全停止状態に置くことになるが、それが再出発へのチャンスともなった。和歌山工場システム実用化のスピードが上がり、エンジニアやプログラマーの余裕が出てき始め、川崎工場への配置転換可能性が見えてくる。また、経済性についても一定の目処が立ったため、それを参考に川崎工場計画実現化のシナリオが作りやすくなってきた。
 1977年後半、和歌山から帰ったメンバーを中心に新規巻き直しの計画作りを始める。経営環境の変化や技術進歩、それに和歌山計画からの教訓を踏まえ、新規計画の方針を次のように整理した。
1)石油精製・石油化学一体化最適化は当面見送る;明らかに“工場革新としては”後退であるが、あまりにも政治的課題が多い(工場長も替わっていた)。
2)プラント運転自動化を非定常状態まで拡大する計画は見送る;ITだけでは限界があり、技術的にも未解決の問題が多い。
3)事務部門の合理化もそれぞれの労務環境、規制緩和、技術進歩を見ながら、別プロジェクトとして進める(例えば電話のダイレクトインなど)。
4)工場管理システムは三つのサブシステム(生産管理、保全用資材管理、計装保全管理)にし、それぞれを個別プロジェクト(経済性を別々にとる)として、並行的に進める。
5)精製工場の最適化計画にはLPを使うことになるが、それは本社の大型機で行う。
6)工場での生産管理機能は、スケジューリング支援とプラント運転実績処理に絞る。従って、経済効果もこの二つの機能に依って算出する。
7)スケジューリングシステムは高度な自動を目指さず、比較的単純なシミュレータを使う対話型にする。
8)工場中枢コンピュータは、オンラインでソフト開発が出来る、スーパーミニコンを第一候補とする。
 それぞれの決断にはそれぞれの理由があったが、この整理でプロジェクトは一気に進め易い環境になり、年末決まる翌年(‘78)の年度予算に組み込むことが出来たのである。
(次回;コンピュータの選択)

2010年3月20日土曜日

決断科学ノート-35(迷走する工場管理システム作り-9;石油化学と和歌山工場を睨んで再出発へ)

 1978年、規模を縮小して、生産管理システムを中心に再出発することになる。ここでは1976年からそれまでの環境変化を記してみたい。
 コンピュータ界では現在につながるダウンサイジングが起こり始めた時期である。ミニコンやオフィスコンピュータが急速に普及し始め、マイコンを用いたシステム開発が話題になっていた。
 TSK(石油化学)は当時主要プラントのプロセス制御用コンピュータやラボラトリー・オートメーションを担うシステムは出来上がっていたものの(全て東芝製)、全体を束ねる管理システムはまだ導入されていなかった。
 川崎の東燃サイドは1970年からの新設プラント建設(実質的に新工場建設に近い)にともない、オンサイト(主要生産設備)、オフサイト(受注出荷、タンク)ともに横河製DDCシステムとIBM1800が導入され、オフサイト・システムで生産実績管理機能も処理されていた。しばしの間、これらシステムを使った省エネルギー管理に重点を置いた活動を続けることとした。
和歌山はLPやスケジューリングシステムの開発・定着化に苦労していたが、一つのネックであるメイン・メモリー容量に関しては“バーチャル・メモリー(仮想記憶)”システムが出現、実メモリーの制約から解放されたかに見えた。しかし、新規技術だけに使いこなすところまでなかなか達していなかった。
 投資回収を早めたいことから、運転実績データ収集機能を生かした、省エネルギー活動強化の声が高まり、スタッフ不足解消と本分野の活動実績を踏まえ、川崎のパワーを一時的に拠出するよう和歌山・本社が懇請してくる。ただでさえ少ないところへ4人を送り出し(ここで彼等は1977年有田市で発生したコレラ騒動に巻き込まれる)、川崎の活動は半年間休眠状態になってしまう。
 本社では、和歌山工場スケジューリングシステム(自動スケジューリングに近い)開発の難渋をみて、簡便なシミュレータとそのモデル開発環境ツール、RSS(Refinery Scheduling System)でスケジューリング担当者の作業を支援し、人と機械で作業を分担するシステムが提言される。これを川崎工場で試用してみると評判がいい。再出発できたらスケジューリング機能はこのアイディアを利用しようと決意する。
 このような環境下で先鞭をつけたのはTSKである。それぞれ独立運用されていた4台のプロコン(全てTOSBAC-7000)を、上位コンピュータを導入して統括し、スケジューリングとプラント運転実績管理を行うものである。採用されたコンピュータはTOSBAC-40C、産業用のミニコンピュータである。コンビナートで直結する、中間在庫の少ないビジネスでは、複雑なスケジューリングもない。スケジューリング・ツールはプラントの収率計算を行う、簡単なカルキュレータタイプだった。投資金額を抑ええるかわりに、処理機能も運転実績データ処理中心としたので、極めて短期間で実用に供せられた。グループ初のミニコン導入でその能力の高さも確かめることもできた。
 この間、和歌山で苦闘していた “生産計画最適化”に対する川崎の取り組みも、決して手を拱いていたわけではない。前開発室長時、石油ショック後本社製造部長から製油部長(のち工場次長)に転任してきたKNIさんの肝いりで、本社のコンピュータを使って、現実の運転結果をLPモデルで事後評価する作業をスタートさせていた。これによれば、生産活動に改善の余地は充分あった(製油管理課員は「株の値段が決まってから、儲かる買い方を言っているようなもの」との批判はあったが)。
 一方で、この作業を通じて、本社に近い川崎の場合「LPを解くためのコンピュータが、工場に独立して必要なのか?」との声が出てきた。費用負担や専門スタッフの必要性を考えれば尤もな意見である。私自身の心の内も同じであった。
(次回;新規構想の立ち上げ)

2010年3月14日日曜日

決断科学ノート-34(迷走する工場管理システム作り-8;凍結された川崎計画-2)

 約1年にわたった川崎工場管理システムのSS(スコーピング・スタディ;全体像を描く)が仕上げにかかろうとした1973年10月、第4次中東戦争が勃発した。OPECはそれまで3ドル台だった原油価格を5ドル台に上げ、さらに12月これを12ドルに上げた。一気に約4倍なった原油価格は諸物価を押し上げ、消費者物価指数も大幅アップ、翌年の春闘でベースアップは30%にもなった。
 計画の経済性はこれをベースに再計算され、原料・エネルギーコスト4倍、人件費1.3倍は、その点では計画実現の追い風のように見えた。しかし、問題はエネルギー消費の伸びが従来のベースを辿るとは思えない環境になってきた。身近にこのインパクトを感じたのは、和歌山・有田工場建設の中止である。この和歌山の状況も影響して、計画の推進に種々の疑問や抵抗が呈される中で、年央突然この計画のレビューをExxonのチームが行うと言うお達しが伝えられる。東燃グループの設備投資をExxon直々にチェックするなど今まで無かったことだ。今でも、このレビューがどのようにしてアレンジされたのか不明である。川崎計画をこのまま推進することに疑念を感じていた、相当レベルの高い管理職(あるいは役員)が複数絡んでいたことは間違いない。
 8月になると3人のアメリカ人が川崎工場にやってきた。ERE(Exxon Research & Engineering)の計装・制御課長;ウォルファング氏、Exxon Chemicalのプロセス制御スペシャリスト;モズラー氏、EMCS(Exxon Mathematics, Computers and Systems)のシニアー・アナリスト;ダニルチック氏である。レビューされる側から見ても見事な布陣といえる。
 約2週間、我々の用意したSSレポートの英語版チェック、担当者へのインタビュー、工場幹部との質疑応答などを行い、去る前の日、その時点までの現地調査に基づくとりまとめを担当者向けに話してくれた。最終レポートはアメリカに帰ってから発行されるとのことだった。
 要点は、ほぼこちらの予想通りだった。つまり、「実行予算ベースにするにはさらなるスタディが必要だ」ということである。当然である。我々がやったのはFS(フィージビリティ・スタディ;経済的・技術的実現性の確認)ではなくSSなのだから。
 彼等がどんな報告をトップにしたか、最終レポートは提出されたのか、誰にそれを提出したのかを私が知ることはなかった。
 このことがあってしばらくすると、同じ立場にあったアプリケーション(主として生産管理)担当のリーダーが本社に転勤していった。私は彼の仕事を兼務することになり、やがて和歌山工場との“統一基本仕様書”作りに関わることになる。これが1975年晩春。秋にはこの計画のキーパーソン、開発室長が本社に転勤になってしまう。TSKの技術部長が室長を兼務し私は副室長として、実質的にはこの組織運営全体を任されることになったが、メンバーは石油ショック後の省エネ活動や和歌山計画応援などに抜かれ、ガタガタの状態。計画のスコープを変えて再出発するしかない状態に置かれてしまう。
 室長はTSKのシステム技術課長を兼務していたので、そのポストはNZKさんという1年若いTSKプロパーの人が引き継ぐことになった。彼は“一体化”には批判的で、TSK独自の生産管理システムを作りたいという。私もその頃になると一体化実現に困難を感じ始めていた。
 幸い東燃川崎工場はコンピュータ化が進んでおり、既存のシステムを利用した生産管理面での省エネ活動のネタがいたるところにあった。一先ず石油精製・石油化学一体管理と大規模投資は凍結して、精製側の活動に注力することになる。事実上オリジナル計画の幕引きである。
(次回;石油化学と和歌山工場を睨んで再出発)

2010年3月7日日曜日

決断科学ノート-33(迷走する工場管理システム作り-7;凍結された川崎計画-1)

 和歌山工場計画のつまずき、石油ショックもあったが、川崎工場計画自身にも推進障害の芽はあった。この話の冒頭にも述べたように、川崎計画は“生産管理だけ”を目的としたわけではない。今までに無い革新的な工場運営の実現を目指していた。そこには大掛かりな自動化の徹底や省力化、保全資材の在庫削減なども含んでいた。
 プラント運転の要員は平常時の運転を基準に算出するものではなく、運転開始時(SU)・停止時(SD)や異常時に対する対応などを勘案してはじかれる。丁度旅客機のコックピットクルーが離着陸の繁忙時の作業を基に決められるのに似ている。巡航飛行時の操縦がオートパイロットで行われるように、プラントも平常時は自動運転である。
 しかし、SU・SD時にはその時だけの特殊な作業が発生する。チョッとしたビルほどの大きさがある加熱炉の運転も最初は小さな元火を用いて人間が行う。これが定常燃焼状態に達するまで、小まめな現場調整作業を行う。その間加熱炉を走る加熱管の中の原油が蒸発を開始するまでは、平常時とは異なる循環回路をつくってやる。このためには現場での複雑なバルブ開閉作業が必要となる。非常事態に対しては、緊急遮断装置や安全装置が自動的に利くようになっているが、それで現場作業がなくなるわけではない。限られた時間に多くの平時とは異なる作業を行わなくてはならない。要員はこのような事態を想定して決められる。
 プラントの運転期間は当時1年~2年だった(今はもっと長期)。この間連続運転するためには運転チームを3チーム用意し交代勤務を行うことになる(現在は労働時間短縮でチーム編成は複雑になり、交代係数3より大きくなっている)。もし、自動化で運転要員を一人減らせれば、3人の人員減になる。省力効果は大きい。ベテランのプラント運転員も開発室のメンバーに入れて、全プラントを対象にその可能性を検討する。
 日勤職場の要員削減も検討した。保安要員(特に朝夕の協力会社員の入出門チェックに人手を要していた。今のように簡便なIDカードなど無かった)や電話交換手(まだダイヤルインはほとんど普及していなかった)まで対象にしたし。受注出荷業務合理化のためにはTSK本社の販売管理部門と工場業務部門の業務処理プロセスの見直しまで行った。
 これらの作業は石油ショックの遥か前から着手されていたが、形が少しずつ見えてきたのはその前後である。最初は工場長の息がかかった計画と言うこともあり“総論賛成”できていた各組織が、内容を知ると陰に陽に抵抗を始める。特に要員削減は労使問題に直結する。この段階では計画の概要を作るスコーピング・スタディ(SS)なので労使会議検討項目ではないものの、対象組織の長たちはピリピリしてくる。室長は闘将タイプで相手はなかなか思うように自分の意志を通せない。その分我々のような実務リーダークラスに向いてくる。「まだSSの段階ですよ。FS(フィージビリティ・スタディ;詳細な技術・経済性検討)の時確り詰めましょう」とかわしてきた。しかし、このようなやり取りの中で、この計画が次のステップに移ることが容易ではないことをこちらも感じ始めていた。技術的な詰めや経済性の検討にもう少し時間が欲しい、と言うのが率直なところだった。
 そこにやってきたのがあの石油ショックである。

2010年3月5日金曜日

今月の本棚-18(2010年2月)

<今月読んだ本(2月)>1)パリの日本人(鹿島茂);新潮社(選書)
2)ロゼッタストーン解読(R&Lアドキンズ);新潮社(文庫)
3)フランス敗れたり(アンドレ・モーロア);ウェッジ社
4)それでも日本人は「戦争」を選んだ(加藤陽子);朝日出版社
5)日本人はなぜ日本を愛せないのか(鈴木孝夫);新潮社(選書)
6)鉄道ひとつばなし-2(原武史);講談社(新書)
7)ウェブを炎上させるイタい人たち(中川淳一郎);宝島社(新書)
8)ネット帝国主義と日本の敗北(岸博幸);幻冬舎(新書)
9)Tizard(Ronald W. Clark);The MIT Press

<愚評昧説>
1)パリの日本人
 “遊学”、もう死語に近いが、欧米(旧植民地やアジアにはまず使わない)に出かけたり暮らしたりすることをこんな言葉で表現した時代がある。表向きは、勉学であり仕事なのだが“実態”を表す面白い言葉だ。多分明治以降日本人が作ったものであろう。
 戦前の日本人にとって、欧米に出かけることは極めて特別なことだった。政府関係者(軍を含む)、国際規模の貿易会社社員くらいしか、彼の地で暮らすことなど考えられなかった。それでも人々はきらびやかな文明の地に憧れた。特にヨーロッパ、それもフランスへ。詩人、萩原朔太郎の「フランスへ行きたしとおもえども、フランスはあまりにもとおし」は当時の文化人たちの、こんな気持ちを表す代表的なフレーズである。
 中学生・高校生時代、この“遊学”を目にすると何か羨ましさを感じると同時に、一体その渡航・滞在資金はどうやって得たのだろうかと、現実的な疑問も湧いてきた。また、後年仕事で海外へ出かけるようになると、明治・大正の先人たちは、経済的にはともかく、現地社会で、適当な人に会い、適当な情報を得ることを、自らの力で出来たのだろうか?それは如何にして?と言うわが身と対比する場面が生じてきた。
 この本は、明治初期から戦中(一部戦後まで存命)までフランスに渡り、パリで暮らした11人を取り上げ、その渡仏の動機や暮らしぶりの一端を紹介していく。登場人物は、獅子文六を除いて数多この地に居た画家・作家は全く出てこない。妖婦として語られる女性一人を除けば、いわばみな遊学者である。ここがこの本の特色と言える。
 西園寺公望や原敬などの政治家、戦後初の首相となる東久邇宮など後ろ盾の確りした、のちに位階を極める人もいれば、貧しい中から選ばれた真面目で有能な官費留学生(この人は“遊学”ではない)、片道切符でやってきて現地で何とか収入の道を編み出しそれがのちの人生の糧となる人などを、パリの社交界、日本人社会や当時の世相から焙りだす。
 各人各様のフランス、パリだが、そこには異邦人を惹きつけ活力を与える“何か”があるように感じ、もう少しフランスについて知りたくなってきた。

2)ロゼッタストーン解読(原題は“ヒエログリフ解読競争”)
 四大文明発祥の地、エジプトのモニュメントやパピルスに記された、一見象形文字ともみえる古代絵文字、ヒエログリフ。その解読競争が激化するのは、ナポレオンのエジプト遠征によって数々の記念物が持ち帰られてからである。特に、ロゼッタストーンには三種の文字が刻まれ、これが解読のカギと見做される。18世紀末から19世紀初頭にかけて、英国で、ドイツで、そしてフランスで熾烈な研究者の戦いが繰り広げられる。
 本書の主人公は、その解読者と言われる、言語学の天才、フランス人のジャン・フランソワ・シャンポリオンとそれを支えた兄のジャック・ジョセフ。重要な脇役は、最大のライバル英国人のトーマス・ヤング。フランス山岳地帯の田舎町の零細な本屋(行商)の倅として誕生したシャンポリオンが、その才能を見込まれ上級学校へ進み、さらには研究者として活躍する場面では、数学者として有名なフーリエが当時の知事として黒子役を果たす。時代はフランス革命後の政情不安の中でナポレオンが力を握り、英仏がアフリカ・アジアへの覇権争いに興じている時である。場所はアレクサンドリア・カイロ、グルノーブル、パリそして再びナイルへと転じていく。上質の英国軍事サスペンス小説もどきの舞台仕掛けにすっかり引き込まれてしまった。
 ヒエログリフそのものは早くからその存在を知られており、先駆的な研究(推論に近い)も行われ、象形文字と言う観点から漢字との関係を取り沙汰されたりもしている。この説では中華文明はエジプト文明の亜流と見做される!
 シャンポールに幸運だったのはナポレオンが遠征に当たり、多くの学者を同道し遺跡から大量のパピルス、石版、碑を持ち帰ったことである。これらの資料によって一気に研究が進む環境が整ったのである。ただ残念だったことは、その中にフランスに移送予定のロゼッタストーンは含まれておらず、国内の政変に部隊を置き去りにして帰国したナポレオンに怒り、現地司令官が英国に和を乞うたため、戦利品として英国の手に渡ったことがある(現在も大英博物館に収められている)。それ故シャンポリオンは不正確なコピーで研究を進めざるを得ず、良いところまで達していながら、回り道を余儀なくされることになってしまう。
 ラテン語、ギリシャ語、アラビア語、ヘブライ語や古代のコプト語などにも通じた彼が、持ち帰られた資料を基にヒエログリフ解読に一歩一歩近づいていくところが本書の核になるのだが、山場はこれが単なるアルファベット的な表音文字ではなく一部は表意文字も兼ねていることを発見するところにある。ただ、この道には先駆者ヤングが居り、現在でもフランスでは国民的英雄となった彼だが、必ずしも学問の世界ではその業績が正当に評価かされていなようだ。
 これを正すべく、この本を書いたアトキンズ夫妻が、英国ブリストル大学の考古学者であることが何とも素晴らしい。

3)フランス敗れたり 1940年5月10日、ドイツ軍はそれまで7ヶ月対峙を続けていた西部戦線で電撃戦を開始した。陸軍大国フランスはあっけなく敗れ、6月22日独仏休戦条約が調印された。この本の原著はフランスの有名な文化人、アンドレ・モーロア、出版(亡命先のカナダで英語版として)されたのはその年の10月、日本語訳が出たのは同じ年の12月である。歴史的瞬間をその直後に記したものだけに臨場感溢れる記録文学と言える。当時の日本は中国戦線の拡大、ドイツの快進撃に「バスに乗り遅れるな」の掛け声が流行った時期でもある。それもあってこの訳本は出版2ヵ月後の2月には200版に達した大ベストセラーである(最終的には500版!)。その復刻版として2005年本書が出版された。小泉政権末期すでにわが国の衰亡は始まっていた。
 第一次世界大戦で英仏間の連絡将校を務めた筆者は、第二次世界大戦勃発一ヵ月後再度英仏連絡の現役に復帰する。既に作家・評論家として名のあった彼は、チェンバレン、チャーチルやフランス首脳、ダラディエやレノーとも知己である(全て首相)。当時の英仏政治・軍事情勢にこれほど通じていた人はいない。その彼がフランスの敗因を振り返るのである。
 その第一因は、第一次大戦による膨大な人的損出からくる過度の厭戦思想とロシア革命がもたらした国内政治(与党、人民戦線は寄り合い所帯)の混乱に発し、それが国防政策や兵器開発に影響して、勃興するナチスに対する融和的外交政策におよび、守り守りへと追いやられていくところにある。その象徴は、機動力の無い独仏国境沿いに敷かれたマジノ要塞線である。
 第二は、当時唯一の盟友である英国との安全保障に関する齟齬である。フランスは英国の陸・空軍力を当てにするが、英国も余力は少ない。チャーチルは何とか助けようと努力するが、自国防衛を犠牲には出来ない。
 第三の問題は、ダラディエとレノー間にある個人的な角逐、それに絡む愛人たちである。国家の危急時に際してさえ両者の争いは治まらない。意思決定は遅れに遅れ、最高司令官人事さえ影響を受ける。
 このような経緯で、フランスはほとんど主戦力の戦闘を経ずに敗戦に至る。
 筆者は終章に“救済策”を列記しているが、その中で一番印象付けられたのは「世論を指導すること-指導者は民に行うべきを示すもので、民に従うものではない」と言う一言である。文化人が述べたことだけに、その重みは大きい。 復刻版の巻末には、欧州衰亡史しに詳しい歴史学者、中西輝政京大教授の長い解説が加えられている。出版社の意図は、この本の内容を現在の国内政治情勢に反映することであろう。普天間くらいで右往左往する、日本の政治家に一読してもらいたいものである。

4)それでも日本人は「戦争」を選んだ  出版直後(2009年7月末;戦争物の出版が多い時期)本屋で手にとってみた。高校生向けの歴史解説書、筆者は東大文学部教授、出版社は朝日出版(朝日新聞の関係会社と誤解)。「ハハーン また左翼知識人の洗脳自虐史か!」と購入を思いとどまった。12月の本欄を見た友人SGW君からメールが来て、彼の最近読んだ本の一つとして本書が記されていた(薦めてきたわけではない)。彼は思想的には私よりやや右、国を愛する心も熱い。読んでみる気になった。
 東大を始めとする偏差値の高い大学進学者が多い、中高一貫教育校栄光学園歴史部の生徒を対象に冬休み、近代日本史を戦争に焦点を当てて行った集中講義の記録である。日清、日露、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争の5章建で、各章に一日を費やしたようである。我々の中学・高校時代(高校では日本史は採らなかったが)、これら戦争については、それらがあったことくらいしか教えられていないので、当時と単純比較することは出来ないが、5日間フルに費やしたので中身の濃い講義になっている。
 危惧していた“洗脳自虐史観”もなく、ニュートラルな内容だと感じたし、日清戦争や第一次世界大戦に関しては、いくつかの新知識も得ることもできた(特に、第一次世界大戦の講和会議における松岡洋右の言動;中国におけるドイツ権益を拡大要求するなと言う本省への具申;満州事変に関して国際連盟を退席する勇ましい姿とはまるで異なる人物にみえる)。ただ、日清・日露では、日本の両国に対する過剰防衛反応を説く臭いが無きにしも非ずの感はあった。
 この読後感をSGW君に話したところ、実は巧妙なオブラートに包まれ口当たりを良くしてあるものの、根底に東大歴史学伝統のマルクス・唯物史観(つまり自虐史観)が確り埋め込まれていると、具体的に批判している書評のあることを知らされた。確かに参考文献には岩波始め左翼知識人が依ってきた出版社のものが多い。気になっているのはタイトルの“それでも”である。「戦争まで踏み込む必要も無かったのに“それでも”」と「勝ち目が無いのは分かっていたのに“それでも”」では全く違ってくる。もう一度注意深く読んでみようと思っている。

5)日本人はなぜ日本を愛せないのか 私にもチョッと“日本を愛せない”ところがある。それで読む気になった。筆者は慶大名誉教授の言語社会学者である。言語社会学とは、言語と民族・国家の関係を研究する学問である。
 筆者の問題意識は、グローバル競争の中で日本の生きる道は?そのために日本語をこのままの状態に置いて良いのか!?と言うことである。
 日本文化は中華(遣隋・遣唐使)、ヨーロッパ(明治維新)、アメリカ(戦後)と言う外国文化を取り入れながら独自のものを作り上げてきた。このプロセスで、「外国のものは優れている」というマインドが出来上がっていった。しかし、これらの受け入れは言わば“半透膜”(地理;海、目的;先進文明導入、人;エリート)を透して良い情報しか流れ込まない仕組みの中で醸成されたもので、悪いことも知った上で判断することが大切だ。特に、昨今のように人の行き来や情報交換が便利で大量になった時代は、こちらが阻止しようとしても日本文化に適さない考え方や手法が蔓延していく恐れがある。
 例を種々挙げながら上記のようなことを説明していくわけだが、そこになかなか面白いことが取り上げられている。例えば、英国の動物愛護である。英国では犬の躾はきちんとしており、無闇に吼えたりしないという。しかし、ここには躾の悪い犬は生かしておかない仕組みが出来上がっている。悪い種子は早目に摘んでしまうのである。真の動物愛護とは何か?と筆者は問いかけてくる。
 さらに、これは筆者の作り上げた仮説であるが、ユーラシア大陸に暮らす人々(朝鮮から英国まで)は家畜を生活の中心に置く生活をしてきた。ここでは大量の家畜をどう統御するかが管理者の能力になる。このこととキリスト教の考え方(神を頂点に下等動物まで階層が作られている)が結びついて、ユーラシア人は階層とその管理手法に長けている。それに対して魚介を主蛋白源としてきた日本人はその意識(階層管理)が薄い。欧米中心のこれからの国際社会を生き抜くには、よほどの覚悟とそれに対する対応策が必要だと主張する。
 その中で日本における外来語(特に、カタカナ英語)の氾濫に警鐘を発し(言語社会学の視点から見て、日本ほど安易に外国語を公用語の中に取り込む民族・国家はないと述べている)、ある種の鎖国政策(外国と折衝に当たる少数の超エリート(現在の上級公務員や外交官僚など全く異種の)を養成しこれに当たらせ、現代版出島(地理的にでは無く、組織的に)を作る)を提唱する。
 新鎖国政策については未だ良く消化できていなが、“エリートによる対外国家運営”については、衆愚化する民主主義の対極として、個人的には大いに興味がある。

6)鉄道ひとつばなし-2 前回ご紹介した鉄道文化エッセイの続編である。マンネリ化傾向あり。

7)ウェブを炎上させるイタい人たち
 私のブログは専ら知人・友人向けである。近況お知らせ・お伺いを主旨に書いているので、コメントもメールでいただくことがほとんどである。少々過激と思われることを書いてもそれがエスカレートすることもない。見方を変えれば、広く世の中に影響力のあるものではないということである。しかし、政治家、有名人のブログあるいはツイッターはそうはいかない。内容の誤り、考え方の違い、嫌がらせ、コメントすることによる売名行為などがどんどん書き込まれ、それがまた反論・同情を呼ぶ。企業のホームページにはさらにしつこいクレーマーや販売妨害も加わる。こうして本来の情報伝達が出来なくなるほど混乱した状態を“炎上”という。
 インターネットを最新・最善の社会活動の手段・場所と考える人々(筆者はこれを“ネット原理主義者”と呼ぶ)にとって、ここで存在感を示すことが唯一の自己実現の場である。有名人や大会社ほど相手にしたい。夜も寝ずにPCに向かい、そんなチャンスを虎視眈々と狙っている人間が沢山いるのである。実はただの暇人に過ぎないのに(私も一線を退いて暇が増えたのでブログを始めた)。
 筆者は、このようなネット原理主義者に噛み付かれた時のかわし方をこの本で書いているのだが、それを体験する切っ掛けはこれに先行する著書「ウェブはバカと暇人のもの」(未読)のようだ。原理主義者にとってこれは物申さずにおかれないタイトルだろう。この餌に食いつた原理主義者をクールに分析して、新たな著作を書く辺り、この世界を知り尽くした新人類の趣がある。
 しかし、筆者が本当に言いたかったことは、ウェブを材料に、筆者の世代(団塊ジュニア)がその上のオヤジ世代(団塊世代以上)に感じているやりきれない思いを伝えることである。高度成長を謳歌し、天文学的借金を残し、自分たちだけは退職金・年金を確保して勝ち逃げする(した)世代への怒りの声。「インターネットは彼等が若い世代の不平不満のガス抜き装置として与えたものに過ぎない!こんなものを過度に期待・依存してはならない!インターネットなんかで社会改革は出来ない!そんな狭い世界から脱して、そのエネルギーを自分たちの新しい世界作りに向けよう!」と。

8)ネット帝国主義と日本の敗北  グーグルは後発の検索エンジンだが、いまやマイクロソフトとソフト業界の覇を競うまでになった。私も何かあればグーグルで調べる。百科事典や人名事典は不要である。ブログはグーグル・ブロッガーを利用して作っているし、文書作成機能もグーグルの“ドキュメント”を利用し始めている。PCにワープロソフトが無くてもいいし、PCトラブルで消え失せることもない。何処にいても、ネットにつながったPCさえ在れば自分のアプリケーション(書きかけの原稿から古い文書まで)にアクセスできる。クラウド・コンピューティングの個人版である。
 新聞も日経を除けばインターネットで充分である。NHK、CNN、ワシントンポスト、人民日報(日本語版)、朝鮮日報(日本語版)で最新・海外情報が簡単に閲覧できる。
 孫が来て自室で遊ぶ時はユーチューブで“おかあさんといっしょ”などを動画で楽しむ。書籍の購入も都心へ出ることが少なくなったので、専らアマゾンを利用している。洋書の古本などこれ以外考えられない。
 友人・知人たちとの情報交換はメールだし、旅や食事の予約もほとんどインターネットだ。そこでは楽天やヤフーを利用する。
 すべて無料(フリー)である。
 ただ、音楽のダウンロードはやっていない。その必要をいまのところ感じていないからである。
こんな訳でインターネットなしの生活は考えられないようになっている。しかし、これを動かしているネット関連基本ソフトはほとんど米国製、サーバーと呼ばれる中核処理システムも米国本土に在ることが多い。この仕組みはどうなっているか?無料サービスの費用負担はどうなっているか(誰がその裏で儲けているか)?一朝有事の際どうなるか?これが本書の主題である。
 既存マスメディア(新聞、雑誌、放送)の広告収入激減、音楽や映像、著述作品の不法ダンウンロード(CD販売の激減)など、ネット普及の陰の部分を、データを用いてクローズアップし、グーグルを始めとするプラットフォーム提供業者(アクセス件数で広告収入が違うのでここが圧倒的な取り分を持つ;アマゾンや楽天も同じ範疇)の一人勝ちを説明する。
 筆者は元経済産業省でIT政策などを担当した官僚。文中何度も“既得権益を守るものではない”と主張するが、利権構造の激変に大いに不満なようだ。ただ、音楽・映像の著作権に関わる問題(不法ダウンロード)は同意できるものの、既存メディア(新聞、TV)については必ずしも納得できない。新聞は最強の権力者として、わが国の世論を偏向思想で滅茶苦茶引きずりまわしてきた経緯があるし、TVは昭和30年代大宅壮一に“一億総白痴化”と言わしめたほど低俗なメディアである。これらがそのまま残るような規制が敷かれるならそれは断じて許せない。
 同意できるのは、国家安全保障の見地から、アメリカ一極支配から脱する必要性を訴えている点である。アメリカ政府自身サーバーは本土に設置されていなければならないとしている。この点ではこの本の主張のように、ヨーロッパや中国、韓国(両国でグーグルのシェアーはヨーロッパやわが国ほど高くない)などに見る動きをわが国も探るべきであろう。
 内容とは関係ないが、“……ではないでしょうか”と言う表現があまりにも多い。断言せず、何かあった時には責任を回避できるこの言い回しは、官僚だからだろうか?政治家の“いかがなものか?”同様不愉快である。

9)Tizard  400ページを超える英書。OR起源研究に欠かせぬ書物だったのでノートをとりながら読んだ。従って読了まで半年近くかかってしまった。
 ティザードは第二次世界大戦における英国軍事科学者かつオーガナイザー。彼なくしてレーダー開発とそれを用いた防空システムはなかったし、バトル・オブ・ブリテンの勝利もなかった。それは英国の敗北さえ意味する。
 海軍測量士官の子として誕生。当初は父同様海軍士官を目指すが、目の怪我で断念。奨学金を得てパブリックスクール(ウェストミンスター)からオックスフォードへ進む。第一次世界大戦では志願して空軍の実験航空隊士官(パイロット資格者)。科学者でありながら軍務経験のあるところがのちの活躍につながる。
 紙数の大半は、オックスフォードの研究職を辞し、航空(空軍)省防空科学委員会委員長(通称ティザード委員会)就任から第二次世界大戦終了までに割かれている。なかでもチャーチルとその科学技術顧問、リンデマンとの葛藤が、多くの手紙や議事録などを基に詳述される。他の書物では対立ばかりが目立っていた両者の関係の中にも、ここでは共感する部分があったり、この対立を外に出さぬ努力が両者の間で行われることもあったことを知った。
 チャーチルが首相となると婉曲に要職から遠ざけられるのだが、それでも彼の助けを求める声はあちこちで起きる。インペリアル・カレッジの学長を務めながら、それ等の激務をこなしていく。本当に軍事科学が好きなのだ。
 文献に基づく研究の常だが、この本を書くための膨大な参考文献(16章から成り、一章に15~20引用・参考文献がある)にも当たってみたいものが多々ある。
 次なる出発点となる書と言ってもいい。

以上