2011年8月30日火曜日

道東疾走1300km-13;釧路湿原

 NHK総合TV日曜日朝(7:45)の長寿番組に、日本の自然を紹介するものがある(現在のタイトルは「自然百景」)。現役時代休日の寝起きは遅く、よく床の中でこれを観たものである。場所は圧倒的に北海道が多く、中でも釧路湿原はしばしば登場し、ここに生息する生きものたちが紹介されていた。人里から隔絶した広大な原野ゆえの珍しい種とその生き方が、都会の喧騒の中で暮らす者の心をどれだけ癒してくれたか。いつしか、道東を巡る機会があったら是非訪ねたい場所の筆頭になっていた。出来れば少し歩き回ってみたい。
 道道53号線を走る車は少ないが、それでも時々前を行く車が現れる。ほとんどはこちらが近づくと、余裕のある所で少し脇に避けて道を譲ってくれる。直ぐ前に入るわけにも行かないので、右側の対向車線を一気に追い越す。こんな時の加速と高速安定性は、狭い一般道でも全く不安を感じさせないものがある。さすが本格的スポーツカーと悦に入る。今回のドライブで最も楽しい運転が出来たのがこの道であった。
 道路標識や看板が湿原を告げるが(ビジターセンター、鶴見台など)、指し示す方向、左側は木立が連なりその姿をなかなか見せない。結局“釧路市湿原展望台(写真右)”と言う所まで走ってしまう。到着時刻は1時半だった。北海道がこんなに暑いとは思わぬほどの猛暑で、カンカン照りの駐車場から展望台建屋まで歩くだけで汗が噴き出す。この展望台は売店やトイレは無料で利用できるが、湿原が見渡せる展望場所は2階にありそこは有料である。1階とその周り(海抜84m)は立ち木で視界は塞がれ、走ってきた道路同様湿原は見えない。
 案内所で聞いてみると一周2.5kmの遊歩道コースがあり、所要時間は約1時間、これがお薦めとのこと(左地図参照)。売店で冷たいミネラルウォーターを求め、早速歩き始める。
 今度のドライブ行を、この地に詳しい同じ年のまた従兄弟と話題にした時「あそこへ行くんなら、合羽か傘を持っていくこと」「毛虫が降ってくるんだよ」と忠告してくれたので、ナップザックから折り畳み傘を出しての出発である(結局、数匹はいたがそれほど酷くはなかった)。
 遊歩道は、最初は木立の中を湿原に下りていく。小川が流れる低地に着くとそこには板を渡した歩道や丸太の階段が続く(写真右)。しかし、湿原と言うわりには土地は乾いており、植物も心なしか元気が無い。途中ひだまり広場と言うところで道を間違え、湿原の中に踏み固められた道に迷い込んでしまったが、そこは高い草が茂る草原のようだった(本格的に湿原の中を行く探勝路の一部)。暑さの中往復1.5kmのロスは堪える。
 巡回路へ戻り、しばらくアップ・ダウンを繰り返して丹頂広場(72m)に至る。此処で初めて湿原の広がりが一望できるようになる。さらに進むとサテライト展望台(67m)に着く。いずれの展望台も誰も居ない。高みからの眺望を独り占めである。
 この湿原は元々海だったところ。何本かの川はやがて釧路川に収斂していくのだが、この展望台からそれらは全く見えない。あまりの好天に湿気すら感じない。その点では、“湿原”をうかがう気配を欠いているのが、唯一残念な点であった。しかし、素晴らしい眺めだ。先ずその広さに圧倒される。果てしなく続く平地に、森と草原が織り成す緑の濃淡がいかにも自然の賜物との感を強くし、しばしその景観に引きずり込まれてしまう(写真右上)。雨がそぼ降る情景、一面雪に覆われたシーン、TVで観た場面を頭の中に仮想してみる。
 スタートの展望台に戻ったのは、道を間違えたこともあり3時半。1時間余計にかかったが、来た甲斐があった。
(次回予定;釧路雑感)
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2011年8月27日土曜日

決断科学ノート-86(大転換TCSプロジェクト-23;派米チームの苦闘-1)

 1980年秋、次世代システムはIBMのACS(Advanced Control System)と横河電機のCENTUM-Ⅳに決まった。一年先、‘81年秋には和歌山工場のBTX(ガソリンに近い石油化学原料)プラントの更新を完了しなければならない。単独システムとしては両システムとも既に稼動していたが、一体システムとしては結合テストすらしたことがない。異なる会社の異なる製品だから当然である。この作業は東燃が主導し、IBMと横河が協力するジョイント・プロジェクトになる。
 ヴェンダーセレクションが大詰めを迎えた頃、中央チームを率いていたMTKさん(本社情報システム室次長)が川崎工場の私のところにやってきた。用件はACSとCENTUMを結ぶ仕事と最初のBTX導入作業のため、プロジェクトチームを構成する件だった。チームは二つ設けること、一つは和歌山の導入チーム、もう一つはその後の置換えプロジェクトを含めて、個々のプロジェクトを支援する中央サポートチームである。そしてこの中央サポートチームには、結合システム(実際は単なる両システムの通信システムに留まらず、実働する一体化システム)開発をERE(ニュージャージ;NJ)でやらせたい。そのために川崎工場から要員を出してくれ(和歌山はBTXプロジェクト準備で余裕が無いため)と言うのだ。具体的な希望は、川崎工場オンサイトSEのリーダーを務めていたYNGさんとIBMシステムのスペシャリストITSさんである。二人ともSE課のキーパーソンだが、統一共通システムの開発とそれによる技術者の生産性改善は、こちらも提言者の一人だったから「No」と言うわけには行かない。石油化学(TSK)も含めてSE部門を主管する副部長のDYMさんは難色を示したが二人を出すことにした。
 この他にも本社情報システム室のKMTさん、TSKからはTJHさんが出て、TKWさんをリーダーに、中央サポートチーム兼一体化システム開発チームが構成された。また、これに合わせて日本IBMでもOSKさんがACS専任SEに、横河電機でも何人かの技術者がこのプロジェクトにアサインされた。
 この時期エクソングループでは、いくつかのACSプロジェクトが立ち上がりつつあったので(カナダのインペリアルオイル・サーニア製油所、ラーゴオイル(エクソンとヴェネズエラ資本の合弁)・ラゴヴェン製油所)、EREに開発専用マシーンを置き、そこで集中的に開発作業が出来る環境を作ることになり、東燃もその計画に加わることになった。こうすることでIBM本社のACS専門家とコミュニケーションが良くなり(IBM内でも、ACSは非常に特異なシステムであったため専門家は限られており、この方法が唯一対応可能な体制であった)、単独開発よりも費用を抑えることが出来るメリットがあった。しかし、日本側(東燃メンバーに限らず)の担当者にとっては長期単身出張・英語と言う不自由は免れなかった。加えてERE本館に充分なコンピューター設置・作業スペースが無いため、敷地内に数個のトレーラーハウスを繋いでこれに対応せざるを得ないような状況だった。
 ヴェンダーセレクションが済むと中央サポートチームメンバーとMTKさん、SGWさん(国内外の調整役)が渡米。MTKさん、SGWさんはEREやIBMとの体制作りや費用負担の方法に目途をつけ帰国、他のメンバーは翌年(’81年)の5月まで米国で開発作業に従事することになった。

P.S.;派米チームの活動については直接関係する立場にはなかった。従ってこれ以降数回連続する同チームに関わる話題は、派米メンバーが送ってくれた公私信(手紙)や中間で訪米し現地での課題整理・慰労に当たったMTKさんらの話しに基づいています。年月も経ち、記憶が定かでないこともあって、不正確な点(特に、時期・人名・所属・役職)が多々生ずる恐れがあります。本ブログの読者でこれに気付いた方は下記メールアドレスに修正情報をいただければ幸いです。逐次記事の中でそれを正して行きたいと考えていますので、よろしくご協力をお願いいたします。

メール送付先;hmadono@nifty.com

(次回予定;“派米チームの苦闘”つづく)

2011年8月25日木曜日

道東疾走1300km-12;摩周湖

 幾重にも曲がる美幌峠からの下りが終わると、屈斜路湖畔から243号線は“パイロット国道”の愛称を持つようになる。これは、この辺りから根室にかけて1950年代農林省(当時)が酪農のパイロット農場を開発したところから来ている。それもあって摩周の町の周辺に近づくと、人をほとんど見かけない広い歩道、交差点付近のガソリンスタンドや農機具デーラーの低層の建物とその前庭(あるいは駐車場)、まるでアメリカの田舎町を通っているような感じがしてくる。
 摩周の町で道道52号線に入り北へハンドルを切る。しばらくは両側に酪農場・牧場が続くが、やがてから松林が遠望され上りが始まる。走っている車は少ないし、曲がりも勾配も緩やかなので周辺の景色を眺める余裕もある。晴天は続きオープンでは日差しが強すぎるくらいだ。車が少し混んできたな、と感じたらもう第一展望台だった。今までどこも駐車は無料だったが、ここは500円(硫黄岳駐車場も利用可)徴収される。展望台・レストハウス・駐車場(町営)をスペースがあまり無い所に設けたのでこうなっているのであろうか?
 霧で有名な摩周湖だが今日は雲も少なく・高く・遠く、鏡のような湖面に逆さに反転した山が写っている(写真左)。青い空・白い雲・青々した木々・コバルトブルーの湖面・小さなカムイシュ島にしばし心を奪われる。皆狭い展望台で写真撮影に余念が無い(写真右上)。残念ながら湖畔には下りられないので、世界有数の透明度を確かめることは出来ない。
 この後の観光スポットも含めて、ここが一番混みあっていた。風景に加え、アイヌ伝説(神の住む湖)の神秘性と唄にも歌われ、知名度で抜群の人気を集めていることがうかがわれる。それにしても、“霧の摩周湖”は星も見えない霧の夜が舞台だが、星どころか何も見えないのではないか?歌謡曲には時々こんな不思議なシーンがあるなー、と無粋な考えが明るい陽光の下で一瞬頭をよぎる。
 有料駐車券が硫黄岳に利用できなければ、ここから摩周の町へ戻るところだったが、折角だから行くことにした。道を北に向けると、上りとは違い下りはヘアーピン・カーブが続く。平地に出て程なく斜里方面と摩周を結ぶ国道391号線(摩周国道)に合流。T字路で右折し僅かに北へ走るともう硫黄岳の入り口だ。ここの駐車場は広い。目の前に黄色い斜面から水蒸気が立ち上がるのが見える(写真右)。山の裏側は美幌峠から見下ろした屈斜路湖だが、こちらからは見えない。硫黄臭の強くなる所まで少し歩いて写真を撮り早々に引き上げた。次は摩周の町で昼食と給油だ。
 主要道路の交わる交差点にあるモービルで給油したが、何とコーポレートカードが使えなかった(OB割引が効かない)!弟子屈ラーメンの店で食べた、知床わさびの効いた冷やしラーメンは、なかなかの味だった。帰り際に褒めたところ「割引券を差し上げましょうか?」と言われてしまう。
 摩周からは釧路湿原の西側に出る道道53号線をとる。この道は湿原の東側を通る国道391号線に併走するが、そちらがメインなので極端に車が少ない。なだらかな丘陵地帯に広がる牧草地にはヘイ(巻いた干草)がそこここに見られ、パイロット国道以上に風景はアメリカンである。途中にある鶴居村の中心部など、もし星条旗でも翻っていたら、アメリカ農業地帯の小さな町そのものという感じだった。
 午後の日差しは強さを増し、オープンは老女には辛いようだ。不本意ながら、屋根も窓も閉め、クーラーをつけて快適ロードを飛ばす。
(次回予定;釧路湿原)
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2011年8月23日火曜日

道東疾走1300km-11;美幌峠

 北海道三日目(7月9日)は網走から釧路まで行く。ルートはいろいろあるが、訪れたいところとして摩周湖と釧路湿原は必須とした。当初の予定は出来るだけ東へ行きたかった。知床、標津(しべつ)辺りを通り釧路へ南下するルートである。特に世界自然遺産となった知床は自動車で入れる限界、知床横断道路がガイドブックで“(北海道)絶景ロードベスト5”の一つにもなっていることから随分惹かれた。しかし、このルートでは摩周湖はともかく(ここは展望台から一見するだけでもいいが)、釧路湿原をゆっくり楽しむ(湿原におりて散策する)余裕が無い。次に考えたのが、前回触れた、せめて知床探訪の基地となる斜里まで行って、東の果ての匂いだけでも嗅いでくる案である。
 そんな時、勉強会や飲み会で親しく付き合っている友人から「そちらの方へ車で行くなら、美幌峠から屈斜路湖へのルートが必見」とのアドヴァイスをもらった。同じガイドブックを見ると“絶景の峠ベスト5”に載っている。下りは屈斜路湖を見てのワインディング・ロードとある。これで決まりとなった。
 ホテルの部屋は7階で北向き。少し先に網走川が見え、その対岸は東の海から西に向かってなだらかな丘陵になっていく。昨晩もバタンキューで早く床についたこともあり目覚めは早い。早朝の空はまだ昨日からの雲に覆われているものの、明らかに薄く、遥か丘の先には切れ目も見える。天気予報は午後からこの地方も晴れ間があると報じている。どうやらドライブ日和を期待できそうだ。
 8時20分にホテルを出発。今日は土曜日なので、市中の幹線道路を走るがほとんど車を見かけない。昨日来た道を戻り、監獄方面へ39号線(北見街道)を南下、監獄前を通過し、右に網走湖を見ながら美幌へ向かう。この頃には青い空が雲の割合より多くなる。窓を下ろして走ると冷たい空気が心地よい。
 やがて道は美幌市内の手前で街をバイパスする方向に進んで、更に峠方面に向かう国道243号線(美幌国道)に入る。遥か前方には晴れた空の下に山かげが見える。信号も人家も車もほとんど無い。折角のオープンを開けない理由は無い。こちら側からのアプローチは山裾が長く曲がりが少ない。ハンドル捌きを楽しむには今ひとつだが、西に開けた広野にチラッと目をやりながら思い切り飛ばせるのが良い。9時20分には道の駅“ぐるっとパノラマ美幌峠”に着いていた(写真右上)。
 駐車場は峠の西側にある。駅の建物は東側の少し高い所にあるのでそこまで上らなければならない。辿りつた駅前から見えた東側の展望に息を呑む。下には横に広がる屈斜路湖とその中島、遥か先には頂が雲に霞む斜里岳、標津岳などの山塊を望む(写真左上)。これから下る道が樹林の中に見え隠れする(写真右下)。
 駅が在る所が周辺の最高位ではない。そこからさらに南の方へ上る歩道があり、10分ほどいくと、当に“ぐるっと(360度)”見渡せる展望台に至る。途中には美空ひばりがこの峠を歌ったことを記念する碑があり、中国人の若い女の子たちがキャッキャ言いながら記念写真を撮っていた。
 下りは期待のワインディング・ロード、樹林の中の道を、緩急をつけながら快適に走る。光の陰影が素晴らしい。若い男の運転するホンダのワゴン車がしばらくついてきていたが、途中で追従をあきらめた。
 このルートの走りと景観は天候に恵まれたこともあり、生涯忘れられないものになるだろう。推奨者に感謝。

(次回予定;摩周湖)
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2011年8月21日日曜日

道東疾走1300km-10;小清水原生花園

 網走監獄博物館の見学時間はおよそ1時間。これから直ぐにホテルに行っても夕食までにはまだ3時間近くある。網走の町に見るべきものがあるとも思えない。計画検討段階で、もう一つ気になっていたのが小清水の原生花園である。これは市街ではなく、そこから東へ知床に向かう途上にある。ルート検討当初は、三日目網走を発ち釧路へ向かう途上、小清水を経由し斜里まで行って、そこから南下して摩周湖へ向かうことも考えた。ただ、この案では道東ドライブの推奨コース、美幌峠から屈斜路湖への道は採れなくなる。代わりに小清水まで行ってUターンし美幌へ向かう案をオプションとして残しておいた。しかし、Uターンも面白くない。いっそのことこの3時間をそれに使おう。
 空は依然と曇り空、午後の遅い時間、花を愛でるにはあまり適当な雰囲気ではないが、“最果て感”を味わうには申し分ない。“監獄”から39号線を238号線との合流点まで戻り網走市内に入る。238号線が終わると244号線がオホーツク海に沿って斜里経由、根室方面に向かってスタートする。小清水までは20km足らず、ひとっ走りの距離だ。市街を出ると道は釧網本線と併走する。本線といっても、走っているのは一両だけのディーゼルカーだ。線路も国道も海際を走るが線路の路床が高い位置にあるので海は見えない。人家もほとんど無い、平らで真っ直ぐな道の先に知床の山々が見え隠れする。行き交う車も少なく、寂しい風景だ。雪の舞う真冬にここを走るのはどんな感じだろう?そんな気分で走っていると、やがて右側には濤沸湖(とうふつこ)が現れる。その先には、駐車場、道の駅そして遊園地の建物と見紛うような可愛い鉄道駅(写真右上)が左側にひとつながりになっている。
 着いた時間は5時少し前、広い駐車場には数台の車しかなく、道の駅の売店も店じまいを始めていた。原生花園駅の横の踏切を渡ると、もうそこは砂丘地帯に広がる天然の花園である。木枠で囲われた砂地の散策路を行くと、ハマナス、エゾスカシユリ、エゾキスゲなど黄色、ピンク、紫といった花々が灰色の背景の中に群生している(写真左上)。浜に出てみると大きな流木が散見され、その先に黒い知床半島が遥か先まで続いている(写真右)。砂丘の一番高い場所には展望広場があり、海と反対側には濤沸湖、更にその先には頂に雲がかかった斜里岳(1547m)が、黒い姿で荒涼感を際立たせていた。色とりどりの花とのマッチングは今ひとつだが、黒い愛車には似合う風景である(写真左下)。
 今夜の宿泊先、網走セントラルホテルへ着いたのは6時。ここは当地の老舗シティホテルだが、部屋の作り・値段はビジネスホテルと変わりない。夕食はフロントでもらった観光地図にあった、「花のれん」という鮨割烹に出かけてみた。セットメニューの簡単な方(それでも年寄りには少々多すぎた)を選んだが、懐石並みでメインは若蟹(毛蟹)が二人で一匹付いた。本当のシーズンは秋なのだが、今も禁漁ではないので提供できるのだと言う。秋との違いはかに味噌が少ないことだけで、味に変わりは無い。思わぬご馳走にありついた。しかし、焼き物として出てきたのがうなぎの蒲焼であったのは意表をつかれた。確かに土用ではあるが、ここで蒲焼を食するとは思わなかった。満腹の腹を抱えて商店街をホテルへ戻ったが、花金にもかかわらず通りは暗くほとんど人に出会わなかった。
 灰色の中に花模様の一日が終わった。本日の走行距離317km。

(次回予定;美幌峠)
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2011年8月19日金曜日

決断科学ノート-85(大転換TCSプロジェクト-22;ヴェンダーセレクション-5)

 中央推進チーム(以下中央チームと略す)によるヴェンダーセレクションは提案内容検討(仕様のみならず、価格や開発スケジュールなど)や社内関係者からのヒアリングを終え、さらにERE(エクソンのエンジニアリング・センター)との共同検討に進んでいった。IBM、ハネウェルからより核心に迫れる情報が得られることもあるし、何といっても従来の選択とは違い、見積もり照会段階からEREと一体となってやってきたので当然である。両グループの提案とも一長一短があり、EREが何か決定的な発言をすることもなく、最終決定は東燃に任された。
 この最終決定は、中央チーム(チームリーダー;MTKさん)が検討結果を整理し、東燃・東燃石油化学両社の技術担当取締役(全体計画推進委員会の委員長・副委員長)に説明して下したものである。結論はIBM・横河グループ提案の採用である。
 この決定に至る節目節目に説明を受けたり、それに対する意見具申をする機会はあったものの、中央チームのメンバーでなかった私には、EREを含めて本件に決定的に影響力のある人たちがどのような考え方を持っていたかは、人づてに洩れ聞こえてくる情報しかなかった。EREはハネウェルとの新システム共同開発にのめり込んでいたことから、不本意な結論だったことは推察できる。しかし、エクソングループではこの当時、エクソンUSA(ベイタウン製油所のユーティリティ・プラントでACSを試験中)とインペリアルオイル(カナダ資本とエクソンの合弁会社;ストラスコーナー製油所にアフィリエイト初の実験段階のACSを導入していた)がACS導入に傾いていたことからも、強く反対する理由は無かったものと思われる。中央チームは無論これら関係会社とも情報交換をしており、‘79年私がTCC(エクソングループ全体のコンピュータ・通信技術会議)で会ったエクソンUSAの推進派中心人物、ボブ・ボルジャーとも接触していた(後年この件がもとと思われることでボブはエクソンを退職、結局USAはハネウェルの新システムを導入することになるのだが、この時点では最も熱心なACS派の一人だった)。
 中央チームが我々に説明してくれた決断要因は;1)機能仕様上、両グループのシステムに大差は無い、2)ハネウェルの新システムの開発スケジュールに不安が残る(実際この時の提案通りのスケジュールでは進まなかった)、3)価格においてIBM・横河グループの方が有利なことからIBM・横河に決めた、と言うことであった。
 結果はグループ内に開示されると伴に、中央チームから山武ハネウェル、横河電機、日本IBMに説明され、EREを通じてハネウェル本社、IBM本社にも伝えられた。グループ内ではこの結論に反対や疑義を投げかける意見は全く聞かれなかった。
 しかし、敗れたハネウェルはそのまま引き下がるわけには行かない。日本で、米国で巻き返しが始まった。しかし、一旦下した結論を逆転するようなものではなかった。最後に来たのが当時のハネウェル会長、S氏のMTKさん宛ての手紙である。そこには「東燃はアンフェアーである」と書かれていた(実物を私は見ていないが、直接本人から聞かされた)。エクソン上層部に写しが行っている可能性もある。断が下されたのは1980年、エズラ・ボーゲルの「Japan as Number 1」が話題になっていた頃である。日本経済は日の出の勢い、日米経済問題が最大の両国間懸案事項であった。これを解決する場として日米賢人会議と言うものが数年前から開催されていた(現在も継続されているが、内容は必ずしも経済問題ばかりではなく、安全保障や環境問題なども論じている)。日本側の代表は大来佐武郎氏(元外相)、米国代表はこのS氏である。こんな大物からの非難の手紙を受け取ったMTKさんの心中やいかばかりであったろう。それでも結論が覆ることはなかった。

(次回予定;派米チームの苦闘)

2011年8月17日水曜日

道東疾走1300km-9;網走監獄

 道内二泊目の宿泊地に網走を選んだポイントは、オホーツクと距離だった。何度か触れたように、計画上時間的にこの日の行程が一番きつく、観光は富良野周辺だけであとはひたすら走り、暗くなる前にホテルにチェックインし、夕食を海の幸で仕上げられれば良しと思っていた。観光スポットは冬のシーズン流氷が有名だが、夏はこれといった所は無い。気になっていたのは“博物館網走監獄”だが閉館時間が5時なのであきらめていた。
 しかし、花人街道は期待外れだったものの、それ以降の道路事情は本州では考えられぬくらい走り易く、予定経路とは異なるルートを走ることになったにもかかわらず、サロマ湖畔を2時過ぎには発てるほど順調だった。Webのソフト、NAVITIMEが予想した9時間はいったい何だったんだろう?直感的に「こんなにかかるはずは無い」と思っていたが、その直感が正しかったのだ。嬉しい誤算である。サロマ湖畔の小さな駐車場で次の目的地を“監獄”にセットした。
 238号線が西から網走市内に入る手前で北見方面から来る39号線と交わる。その39号線を北見に向かい南下、しばらく行くと“監獄”への分岐路が現れる。広い駐車場に着いたのはほぼ3時、見学の時間は充分だ。
 網走監獄は明治23年(1890年)開設。爾後主として国事(政治)犯を収容し、服役者は北海道開拓(特に道路開削)の先兵を演じてきた。映画「網走番外地」では殺人などの凶悪犯を隔離する場所のイメージが強いが、実態とは異なるようだ。つまりインテリが多かったのだ(肉体労働の経験者は少なく、身体があまり頑強でない)。
 この博物館が在る場所は本来の所在地ではなく、オリジナルの(現在の網走刑務所;所在地は238号線と39号線交差点近く)建替え時(1984年)ここへ移設・復元されたものである。したがって建物の主要なものはそのままだが、プロットは丘陵地の斜面にかなりコンパクトに詰められているので、移動距離が短く見学には便利だが、全体としては“監獄”の凄みを感じさせない。
 しかし、網走川にかかり娑婆と監獄を分けていた橋(鏡橋)、正門(赤レンガ門;写真左上)、明治29年に作られた木造の五翼放射状平屋舎房(中心点から5棟の房が放射状に配置される;一般服役者;雑居房、独房;写真右上)、規則違反者を閉じ込めるレンガ造りの独居房(窓が無く扉を閉めと完全な暗黒になる;写真左下)、庁舎などは往時の姿をそのまま保存してある。また長期の使役に出る場合の仮設宿泊所や風呂場などが再現構築され、オレンジ色の囚人服を着た等身大のリアルな人形が置かれ、臨場感を醸し出している。
 元の監獄の所在地は網走市内の西の外れ、網走湖に近い荒野の中。冬のブリザードが吹き荒れる季節、木造獄舎の寒さは半端ではない。暖房は一棟にストーブ一つ、通路に横長の煙突が走るだけ、徳田球一(元日本共産党書記長)の手記はその耐え難い厳しさを連綿と綴っている。
 五翼放射状平屋舎房の中心には看守が詰めるようになっているが、今はガイドのオジサンがいる。ここを脱走して東京まで逃げた囚人の話をしてくれたが、その囚人は常習犯で、以前服役した府中刑務所の旧知の看守の下を訪れ、如何に網走監獄が酷いところかを訴えたのだと言う。本人はその訴えをして自首、監獄の処遇改善が図られたとのことであった。やはり網走は他の刑務所とは違うのだ。
 開設前の網走の人口は631人、そこへ1200人の囚人と173人の看守が移ってきたのだから、この街が“番外地”として有名になり、今日に至るのは当然と言える。
 予定外で、この地で見るべきものを見ることができた。

(次回予定;小清水原生花園)
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