2017年7月20日木曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-24


11.美川社長の死-2
美川社長の生年は1933年、入社は昭和31年(1956年)、社長就任は1993年、60歳の時となる。創家出身の横河正三さんを除けばそれほど若いわけではない。三期目の半ばであるから、自身しばらく続けるつもりであったと推察される。実際、数々の新施策は話題になることが多かったものの、未だ緒についたばかりか、道半ばと言うところである。心残りであったであろう。
残された専務は、MZGさん、UCDさん、UEBさんの3人。MZGさんの入社年度は知らないが、おそらく3人の中では最年長ではなかったろうか。しかしこの人は北辰電機出身で総務部門が主務だったから社長候補として取り沙汰されることはなかった。次のUCDさんは昭和35年入社、海外営業畑が長かった人である。私が彼を知ったのも東燃テクノロジー(TTEC)時代、シンガポール・シェルのプロジェクトに協力を求められた1980年代半ばである。つまり国内営業が主流である当時の横河では傍流の感があった。それが存在感を示し出すのは美川社長誕生以降、ETS戦略推進で前面に出てきた頃である(のちに分かってくるのだがETSは海外法人から上がってきた案件だったらしい)。SPIN買収で知り合うとこになったUEBさんは昭和37年入社で一番若く、当時は美川さんの進めるM&A戦略の要だった。こうして年次や担当業務を見るとUCDさんの社長昇格はごく順当なものととらえることができる。
美川さんの経営は積極的な攻めだった。バイタリティと闘争心を露わにする容貌と合わせてそのリーダーシップは見事なものだった。一方で豪放な言動の裏に、下積みの長かったベテラン社員の有効活用など、細心な気配りを怠らないところもあり、それも社員を魅了した。こういうカリスマ性のある社長の後釜はそれなりに大変である。
UCDさんが先ず手掛けたのは“行け行けドンドン”の感無きにしも非ずだった、美川路線の見直し、引き締めだった。横河グループ入りして、ETS戦略の実態(足が地に着いていない)や子会社社長の集まりで見た経営の甘さ、に疑念を感じていただけに、私にはこの施策がもっともなことだと思われた。しかし、多くの美川ファン社員にとって受け入れ難いことだったようである。場所も別なところに在る傍流子会社ゆえにかえってそんな不満が耳に入るようになってきた。
この見直し・引き締め策と合わせてUCDさんが行ったことに役員人事がある。一部の役員・管理職の異動である。1999年秋、国内営業担当常務で美川さんのおぼえめでたかったNKMさんをシンガポール法人の社長に出したほか、何人かのキーパーソンが本社を離れていった。NKMさんはSPIN買収が決まると私との宴席を設けて協力を約してくれた人である。チョッと意外な感があったが、これを左遷とはとらえなかった。何故ならば、シンガポールには早くから工場もあり、中国を除くアジア戦略の要であったからである。しかし、NKMさん本人にとっては予想外のことであったらしい。そのNKMさんから12月初め「年が明けて年始回りが終わったら、SPINビジネス紹介を兼ねてETSセミナーを開催したいのでシンガポールに来てほしい」との依頼があった。こちらも「SPINが海外に出るきっかけになる」と期待してこれを受けた。
日曜に発ち水曜には帰国する短い日程でシンガポールへ飛んだ。NKMさんは昭和39年入社だから同世代と言っていい。明るい性格で何事も前向きに取り組むことから、営業部門では多くの人から慕われていたし、顧客の評判も高かった。シンガポール赴任も海外勤務は初めてと言うことで、張り切っていいたが、同年代・海外と言うこともあったのだろう、ポロポロっとUCDさん批判を口にした。この時二人とも間近に起こる驚愕の人事を想像だにしなかった。


(次回; SPIN会長誕生)

2017年7月18日火曜日

信長回想ドライブ1200km-7


7.金沢へ
531日(水)飛騨の空は晴れている。早朝の露天風呂、和室食堂での地元食材を使った朝食。すべて満足の朝だった。出発は920分。昨日平湯から新穂高に向けて走った道、国道471号線(越中東街道)へ出て、富山を目指して走り始める。実はこのルートを19693月下旬にブルーバードSSSを駆って一人で走っている。48年前のことだ。あの時は和歌山から高山まで来て、そこで一泊。翌日の予定は安房峠を超えて、松本経由白馬へ向かう予定だった。当時は道路事情など出たとこ勝負で事前情報はなし、高山の旅館を出て平湯まで来ると道の両側は1mを超す残雪、峠越えの開通は連休明けと聞かされ、急遽ルート変更して471号線を北上、富山、糸魚川を経て白馬に向かった。記憶は薄れたとはいえ、あの時と何が違っているか?が今日のドライブの一つの目玉である。
昨日新穂高へ行く際東へ右折した栃尾温泉のT字路を今度は反対の西方面に向かう。割石で高山方面からくる国道41号線と合流し、道路標示は41となる。山間部を北に進むと高原川が左手を並走するようになり、所々河原から続く平地が現れると田畑が広がって、農村地帯であることをうかがわせるが、人も交通量も極めて少ない。さらに北上すると右(東)側にイタイイタイ病で有名になった三井金属鉱山の神岡鉱業所が見えてくる。山が左右から迫る谷間を抜ける道路から見上げるような位置にある工場の景観は当時と大きな変わりを感じなかったが、市街地とはっきり分かるような繁華な通りも見ないまま通り過ぎる。あまり活気を感じない。現在この鉱山跡の一部は小柴博士のノーベル賞で知られることになるカミオカンデ(後継はスーパーカミオカンデ)の実験施設になっているが、特に案内もなかった。
工場地帯の外れで道は高原川を渡り、こんどは右側を流れるようになる。このあと川と道路は何度も交差するが人家も現れない過疎地帯。美濃・尾張方面と越中を結ぶ幹線街道だった歴史を偲ぶよすがはどこにもない。やがて川幅が急に広がり出し、湖のような様相を呈してくると新猪谷ダムが現れ、ダムの下流で高原川と宮川が合流して神通川となる。ここから富山県だ。神通川の川幅は高原川と比べ広く、水量も多い。山並み低くなり平地が広がっていく。道は半世紀前と比べ格段に走り易くなっているが、山川と田畑しかない景色に変わりはない。出発から約1時間、「道の駅細入」で休憩をとる。
旅館を発つときセットした目的地は41富山SS41号線が北陸道と交わる手前に在る。今回はEMGSSが良い位置にあり、ここで給油すれば、あとは名神彦根ICに近接したSSを利用するだけで、自宅までたどり着けるはずである。
道の駅を出てトンネルを抜けると一気に富山平野が広がり、道路も直線で続く片道2車線、どこにでもあるような風景が展開してくる。この道は以前走ったときには無かった。地方都市周辺の道路が整備されると近郊の雰囲気がどこも同じなのがチョッと寂しい。SSは進行方向右側にあるが幸い交通量が少なくそのまま右折でクルマを進められる。到着時刻11時、自宅(満タン)からの距離は390km、給油量は33.4ℓ、燃費は11.7km/ℓ、まずまずだ。
そこから23km北へ進むと北陸道富山IC。金沢に向けて西に走る。小矢部砺波JCTまでは2011年黒部から飛騨方面に向かう際利用しているが、その時は東海北陸道から合掌造りの五箇山を目指したので、ここから先は未体験。小矢部ICを過ぎてさらに西進すると高窪トンネルを抜ける。ここが富山県と石川県の県境だ。ついにこのクルマの未到県に入る。これで全国走破完了!歴史的な?瞬間だ。景観を楽しむドライブコースではまったくないが、胸に迫るものがある。
SSでセットした金沢の目的地は、東茶屋町に近い浅野川河畔の市営駐車場。北陸道を金沢森本ICで下りて国道159号線・359号線とつないで市内中心部を目指すのだが・・。

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(次回;金沢観光)

2017年7月16日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-23


11.美川社長の死
横河電機は工業用計測制御システムの世界で五指に入る(厳密な数字は手元にないが)、知る人ぞ知る、その分野で我が国を代表するグローバル企業である。主たるコンペティターは、ハネウェル(米)、エマーソン(米)、ABB(スイス・スウェーデン)、シーメンス(独)などだが、ABBはボイラーなどユーティリティ、シーメンスも発電を中心に電力に強く、石油精製・石油化学、化学、鉄鋼、紙パルプ、セメント、ガラスなど含むプロセス工業向けオールラウンドプレイヤーとしてはハネウェル、エマーソンと覇を競う位置にある。
横河電機がここまで達した経営上の節目は、1950年代の米フォックスボロー社(かつてはハネウェルと並ぶ、この業界の2大メーカ。デジタル化で後れをとり、英国次いでフランスの会社(シュナイダー)の傘下に入る)との技術・販売提携と1970年代のその解消、次いで1983年国内第2位だった北辰電機との合併であると見る。提携時は私が学生時代だから、その経緯を知る由もないが、解消時は第一次石油危機の前後横河正三社長の時代(1974年~1986年)、独自開発によるデジタル制御システム(YODICCENTUM)のビジネスが軌道に乗り始めた時期である。北辰との合併も横河正三社長の時で、これが認められたのは世界トップのハネウェル資本が入った山武ハネウェルが、北辰以上に石油精製・石油化学の国内市場を押さえていたからだと言われる。美川さん(専務)が我々の前に姿を現したのはこの横河正三社長の後半からと記憶する。東燃トップへの年始挨拶に同道されていたから、後継者として考えられていたのだろう。美川社長登場(1993年就任)の前にYMN社長がその間をつなぐが、特に経営上大きな変化はなかった。
横河電機はもともと技術一筋の地味な会社。それも計測・制御と言う工学部でもマイナーな学科、主要顧客も素材産業が中心、本社も三鷹に構えていたから、メディアで大きな話題になったのは北辰との合併くらいで、認知度は高くない。それが変わり出すのが美川社長時代である。一つは半導体製造装置への進出、もう一つはユニークな人事施策である。特に後者は業界を超える関心事だけに注目度が高かった。(源点ではあるが本流でない)測定器関連ビジネス、海外勤務(ブラジル)、人事部長それにラグビー(全日本代表)などで培ったユニークな経験が随所に生かされた人材活用策はしばしばTVを含むメディアに取り上げられるようになっていく。高齢社員の得意技を生かした子会社が創設される一方、行き詰った会社の一部を機能ごと(例えば財務部門だけ)買い取るなど、今までの日本企業にはなかった、ある種のリストラを積極的に進める。
とにかくエネルギーに満ち溢れた風貌と行動力は、今までの横河文化とはまるで異なっていた。ETSもその流れの中で、中枢戦略と位置付けられSPINもそのいち構成要素になったわけである。ただそのETSは前回触れたように何か上滑りしている感を免れなかった。傘下に入って半年くらい過ぎたある時、経営会議に呼ばれ美川社長から私と担当役員に「シナジー効果は出ているか?」とのご下問があった。私は不十分と思っていたのでその旨応えたが、担当役員のHRSさんは、「時間が短いので顕著な効果は出ていないが、着々と進んでいる」と答え、その場は問題なく収まるようなことがあった。何か闘志満々の美川さんの前では堂々とありのまま言えない雰囲気があった。つまり見かけと実態の齟齬である。
こんな社内環境の中で1999年の春先から美川社長の体調不全が語られるようになってきた。そして入院、6月現役社長のまま他界された。後継は筆頭専務のUCDさんに決まり、6月の株主総会でそれが承認される。


(次回;美川社長の死;つづく)

2017年7月12日水曜日

信長回想ドライブ1200km-6


6.隠庵ひだ路
今回のドライブ行で唯一の温泉場かつ日本旅館。この地には南から、平湯・福地・栃尾と三つの温泉が在る。平湯は高山と松本を結ぶ要路にあるのと新穂高から一番遠いので選択肢から外し、栃尾と福地で部屋数の少ない所を当たっているうちに“美味しいものを少しずつ”プランに惹かれてここに決めた。予約は無論インターネット、“JTB・るるぶ”を初めて利用してみた(カード会員なのでポイントがたまる)。詳細情報をチェックしている時にチョッと気になるところがあった。“カード支払い不可”である。「いまどき?!」と思い電話で確認すると「現金でお願いします」との返事。この10年間のドライブ行で2回目である。最初のところは北海道新得のペンションを予約した時で、ここは宿泊前に振込だった。家族経営のペンションでは資金繰りが厳しいことも予想されたから、まあ納得したが、今回はJTB推薦のわりとグレードの高そうな旅館である。理由は最後まで分からなかった。直前キャンセルなどかえって回収不能で困るのではなかろうか?
ロープウェイから平湯方面へ戻り、分岐路で国道471号線の西側を並走する道をとる。この温泉専用と思われる道はほとんど交通がなく、左右にポツンポツンと現れる旅館も極めて地味な作りが多く、商店は皆無だ。人を見かけることもまれで、どこの旅館の看板も、パッと遠くから認知できるものはない。カーナビが「目的地周辺です。これで案内をおわります」と言われてもそれらしき所が見つからず、やむなく携帯で尋ね、温泉街を貫く一本道の行き止まりを国道方面へ戻る一角にそれは在った。黒板塀で囲まれた平長屋が続く造りは確かに“隠れ庵”に相応しい。内部も黒やこげ茶基調で統一され一見古いお屋敷風だが、何か落ち着かない。床が何度も塗り替えられそれがピカピカ光っているからだ。
チェックイン手続きの際この温泉の見所など説明してくれたが、夜は他の旅館の温泉を利用できる共通券があるので、特色のある温泉を巡ってみることと朝市で新鮮な野菜が求められるくらいだった。つまり静かな湯治場なのである。これには大いに満足。
部屋は玄関上がりの間、次に10畳ほどの居間兼寝室、その先に6畳の部屋があり炬燵が置かれている。この部屋の左にはトイレ・洗面があり洗面所は内湯につながっている。6畳の正面にはガラス戸(ブラインド付き)越しに部屋専用の露天風呂が見え、内湯からそこへ出入りするようになっている。ここの売りはこの専用露天風呂である。例によって木部は黒・こげ茶、壁や襖は白や薄い色、何となく古民家風ではあるが、伝統的な和風とは違和感がある。草津の老舗旅館でも味わった妙な和洋折衷に共通するところがある。外国人にはこのくらいコントラストが強い方が良いのだろうか?
疲れた身体を先ずこの露天風呂で癒す。これはなかなか良い!風呂上がりの缶ビールを一本やって、夕食までひと眠り。
夕食は食堂で摂る。この食堂も真ん中に囲炉裏が据えられた畳敷の大広間。各テーブルも中央は囲炉裏式でイワナや五平餅をここで炙るようになっている。料理は期待通りだった。何といっても食材がすべて地元産なのが良い。造りも川魚(大ます、鯉)だけ、この他鮎、岩魚、肉は飛騨牛、野菜は当然山菜を含めて近くで採れるものばかりだ。調理法や味付けもおおむねこの地方のやり方に若干手を加えた(工夫した)もので、差別化が良くできていた。普段日本酒をたしなまない私だが、地酒の冷酒で和風“美味しいものを少しずつ”フルコースを堪能した。
部屋へ戻ってもう一度専用露天風呂へ。あとは例によって爆睡である。

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(次回;金沢へ)

2017年7月11日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-22


10.横河電機傘下になって-2
19987月東燃から横河電機に株式譲渡される前後までを縷々書いてきた。これ以降“横河電機傘下”となるわけだが、このテーマでもう一話つづけて、あとは個別のタイトルにしたい。書いておきたいことは、譲渡の最大の動機付けとなったETSと横河グル-プ子会社経営についてである。
ETSEnterprise Technology Solutions)は1997年秋に打ち出された新経営戦略である。横河のビジネスは長く自社開発ソフトウェアを含む工業用計測・制御システムをプロセス工業に提供することであった。しかし、バブル経済崩壊後国内における大型設備投資は完全に頭打ちになり、製品需要は古いシステムの置き換え主体に転じてきていた。この経営環境変化に対応するために計測・制御システムを取り巻く経営課題を各種サービスで補完し、売上・利益規模を維持・拡大していこうというのがその狙いである。おそらく自社汎用コンピュータビジネスが完全に行き詰ったIBMCEOとしてガースナー(1993年~2002年)を外部から招聘し、ドラスティックな経営改革(“ソリューション”を掲げて)を成功させていたことに、触発されたものであろう。譲渡先第一候補となったのもこのソリューション提供に力になれると考えたからである。
しかし、グループに加わりETSビジネスの実態が分かってくると、どうも経営陣が鳴り物入りでユーザーに向けて喧伝していたほどに力が入っていない感じを強くした。「ETSって何なんですか?きちんとコンセプトや戦術を整理しないといけないんではないですか?」と担当役員に問うても明快な答えが返ってこない。挙句「もうそんな段階ではない!とにかく顧客は種々経営課題を抱えているのだから、それに対応するサービスを売り込むのだ!」とまで言われてしまう。ETSがアナウンスされてから我々が加わる約10カ月間の間何をやってきたのかを聞いてみると、社長以下役員や各部門リーダーと営業担当者が顧客とサービス提供者に分かれてロールプレイを重ねてきたのだという(ビジネスごっこ)。IBMとは大違いである。
IBMの最も大胆な改革は、自社製品しか売れないベテラン営業を大量リストラ(早期退職優遇制度など。IBMの有能な営業マンは国内外で引く手数多)することと他社製品を取り扱うところから始めているのだ。営業を変えなければ、課題解決サービスを提供できるかどうかも判断できないし、値付けなど全くできない。一応それが出来ていたのは、子会社の一つ横河システムサービス(YSV)が行っていた計測・制御機器(他社製品を含む)のメンテナンスサービスくらいであった。結局SPINは独自の営業部門を持ち続けることになる。
次は子会社・関係会社である。我々が横河に身をゆだねることになった理由の第二は雇用の長期保障である。この点では譲渡以前から経済誌などを通じて、定年後や中途入社者を活用するいくつかの施策が話題になっており、そのための子会社なども紹介されていた。
グループ入りして半年、12月に子会社社長を対象にした研修会が泊まり込みで開催され20社近くが集まった。とにかく子会社が多いこと、同じような機能の会社が何社もあること、にまず驚いた。参加者の多くは本社に籍があり、課長か若手部長クラス、いずれ本社に戻ることが前提で今のポジションにあるようだった。また、売り上げの大部分はグループからである。これは東燃とは全く異なる。課長クラスが役員になることなどあり得ないし、非常勤には出向者もいるが、常勤役員は退職して子会社に移るのが原則である。つまり片道切符である。当然のことだが顧客を外に広げ、それで経営が成り立つことが必須である。この研修会で密かに感じたのは「まるで会社ごっこじゃないか」と言うことであった。
この二点、ETSと子会社経営、に関する違和感は結局2003年退任するまで持ち続けることになる(問題提起や提言・進言はしてきたので別途どこかで取り上げたい)。


(次回;美川社長の死)

2017年7月8日土曜日

信長回想ドライブ1200km-5


5.しらかば平散策
最初の観光スポット、新穂高ロープウェイへは思ったより早く到着、天候もよく、遥か槍ヶ岳まで続く北アルプスの山々を360度にわたり、景観を楽しむことが出来た。しかし、旅館のチェックインまでまだ十分時間がある。前回も書いたように、ここはこの日の午後か、翌日の朝か思案したところである。と言うのも、このロープウェイ以外周辺にこれと言った見所が見つからなかったからである。おもちゃ博物館?クマ牧場?平湯まで戻って大滝公園?一応ガイドブックにそれなりのうたい文句で紹介されているが、わざわざ出かけてみよう、という気は起こさせない。そこでロープウェイで登ってくるときパスした第一と第二の乗り継ぎ地点に開けたしらかば平でしばらく時間をつぶすことにした。
西穂高口駅から67分で到着、多くの人はここで第一に乗り換えていったが、外国人はここで止まる人がおり、何か口コミで伝わっているのかもしれない。こちらは特に情報はないが、ロープウェイの乗車券を求めた際渡されたパンフレットを見てビジターセンターがあることを知っていたので、先ずそこで過ごし方を相談することにした。センターの内部は山小屋風で若い女性がPCと向き合って何か作業をしていたが、直ぐに対応してくれた。「12時間ここで過ごしたいが、何か良い案はありませんか?」の問いに対して、このセンターに付帯した露天風呂、山野草ガーデン(ハーブもある)それに散策路が在ることを教えてくれた。ここで風呂に入ることは全く考えないし(どうも登山者が対象らしい)、山野草ガーデンはそれほど大規模でなさそうなので、散策路についてさらに確認すると、フルのルートは1時間強要し、高低差もかなりあるが、ショートカットコースなら年寄りでも3040分で廻れるとのこと。“クマ注意”の警告板など設置されているが、コースから外れなければ先ず問題ないようなので、この案で行くことにする。
鍋平高原(しらかば平)自然散策路の起点はこのビジターセンター、そこから第一ロープウェイの駅を経て数百メータ上りの道を進む。しばらくは車も通れる道幅だが、やがて舗装が荒れてきて、“許可なしは進入禁止”となったところで山道に入る。その分岐点に“熊出没注意”が現れる。散策路はやや下り、雑木の間に間に山々が見え隠れする。あとさきも行き交う人も皆無、緩いアップダウンが続き森林浴の気分はなかなか良い。フルコースはスタンプラリーを行うように設定されており所々にスタンプボックスが設置されている。第一ロープウェイの索道の下をくぐると道は上りに転じ急な所もあって結構しんどい歩きになる。スタートから30分くらい進んでフルコースとショートカットの分れ道に到着。ここからの上りはさらに急勾配で10分くらい続く。やっと木の間にビジターセンターが見えてくる。ほぼ予定時間でセンターに到着。単独や少人数の外国人のグループが地図を片手に動き回っているのを眺めながら、センター前のベンチでしばし休憩。空気と冷たい水が旨い!
15時のロープウェイで新穂高温泉駅に下り、今日の宿“隠庵ひだ路”に向かう。ルートは来た道を平湯方面に戻り、少し手前で右に分かれて国道471号線と並走する。道沿いに旅館は現れるが、商店はほとんどない。かなり戻ったところで再び国道方面へ左折すると“ひだ路”が在った。
到着時刻1540分、本日の走行距離;319km

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(次回;隠庵ひだ路)

2017年7月4日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-21


10.横河電機傘下になって
199871日をもって株式が100%東燃から横河電機に譲渡されるのだが、その前後のトピックスをいくつか書いておきたい。
第一は、SPIN生みの親であるNKHさんのことである。1994年私が社長に任じられた直後、大株主のExxonMobil(当時は、そしてSPINが横河傘下になったときも、両社は独立企業だった)によって代表権のない会長に祭り上げられ、オフィスもパレスホテルの別棟事務棟に移っていた。しかし、この年4月日銀政策委員審議委員に就任、5月連休明け、譲渡が公表された直後、SPIN常勤役員だったMYIさん、YNGさんと日銀にご報告に伺った。NKHさんは新聞にも載ったこの件をご存じなく、チョッと驚かれたが、その場で横河電機会長で旧知のYMNさんに電話をかけ「SPINは私が創った会社なんです。よろしくお願いします」と心強い支援の一言を伝えていただいた。
第二は、6月中旬開催された横河トップとの顔合わせ懇親会である。メーカー/ユーザーと言う関係から、多くの横河役員と交流はあったが、その多くは技術担当、美川社長は専務時代横河正三社長と年始挨拶で東燃トップを訪ねて来られたときに同席するくらいだったから、さしでお話しする機会はこの時が初めてだった。印象はとにかく“エネルギッシュ”の一語に尽きる。さすがかつての全日本ラグビー代表、「この人ならついていこう」と思わせる人柄だった。面白かったのはそんな一件元気そうな人が実は痛風病みだったことである。これはこちらのMYIさんと同じ。二人の話が、それから弾んだことは言うまでもない。MYIさんにとって横河は未知の会社、少しは気が楽になったのではなかろうか。
その美川社長は横河社内に「SPINの経営は当面の間、従来通りの経営を継続させ、ETS戦略に相乗効果を出せ!」と命じたらしい。それもあって役員にはシステム事業本部を率いていたHRS取締役が非常勤取締役になり、デューディリジェンス・チームメンバーだったUKIさんが非常勤監査役に任じられただけだった。これはSPIN社内はもとより顧客にも安心感を与える断で、大変有り難かった。
さて、東燃グループの決算期は1月~12月、横河は多くの日本企業同様4月~3月である。従って1月~6月の半期は東燃下で決算を行い、その後7月~3月の9カ月の変則決算となる。ところがこの16月期ERPパッケージルネサンス事業に種々トラブルがあり、近年まれな苦しい収支見通しになってしまった。下手をすると企業評価ベースが狂ってしまう。結果は何とか黒字にできたものの、譲渡交渉と合わせて少々ストレスがかかったのだろう、8月に入り、胃痛が始まり日々酷くなっていった。9月に入り医師の診察を受けたところ急性胃潰瘍との診断。幸い入院や休みもとらずに何とか回復したが、厳しい数か月だった。翌年3月決算では計画通りの実績を上げることが出来て、評価チームそして株主の期待を裏切らずに済んだ。
残る大きな問題はオフィスをどこにするかである。1996年それまで何カ所かに分かれていた東燃および東燃関係会社のオフィスは恵比寿プライムタワーに統合された。ここでは会議室の共同利用なども行われ、全体としての経営効率改善が進んでいた。しかし株主が変わった以上、ここを出ていかなければならない。横河電機の本社は三鷹、工場群もそこがもともとは主体だった。しかし、バブル期営業本部は新宿に、新工場は甲府にと分散拡大していった。バブル崩壊後これを整理する計画が着々と進んでいた。新宿の営業本部は三鷹の新オフィス棟に移り、工場も国内は甲府中心、それにシンガポールや中国の工場に製造ラインがシフトされつつあったので、三鷹の古い工場建屋にかなり空きが出てきていた。「三鷹に来ませんか?」横河からはそう勧められた。確かに家賃の点では魅力的だ。しかし、竹橋→飯田橋→恵比寿と移ってきた経緯から、多くの従業員はこれらの通勤域に住居を構えていたし、東燃の社宅(これはしばらく家賃さえ払えばいいことで譲渡契約した)は横浜地区に在ったので、三鷹では不便この上ない。悪くすると退社するものが出る恐れもある。あれこれ検討した上で、たまたま恵比寿に建築中の手ごろなビルが見つかり、12月にそこへ移ることを横河本社も認めてくれた。
いろいろな角度から見て、これほどスムーズに譲渡が進んだのは、東燃、横河ともに経営状態が極めて良かったことに尽きると今でも思っている。多くの場合、経営が追い詰められてからのリストラ(人に限らず組織も)は“貧すれば鈍する”でとてもこのようにはいかないであろう。


(次回;横河電機傘下になって;つづく)