2016年3月31日木曜日

今月の本棚-91(2016年3月分)


<今月読んだ本>
1) スーパーカー誕生(沢村慎太朗):文藝春秋社(文庫)
2) 宿澤広朗-運を支配した男-(加藤仁):講談社(α文庫)
3) 花森安治伝(津野海太郎):新潮社(文庫)
4)遠ざかる祖国(上、下)(逢坂剛);講談社(文庫)

<愚評昧説>
1)スーパーカー誕生
ジャーナリズムの根幹は建設的な批判にある。しかし趣味の一つ自動車に関しては、いまやそれは不在である。
NAVI(二玄社)、ENGINE(新潮社)の2誌は20年来愛読した自動車文化月刊誌だったが、NAVIは数年前に休刊(実質的には廃刊)となりENGINEは継続出版されているものの、本年から購読をやめた。両誌とも外車中心のチョッと洒落たところに惹かれたのだが、新しいのはクルマだけ、内容のマンネリと広告もどきの記事(これが年々酷くなってきている)に辟易し見切ることにしたのだ。一言でいえば外車礼賛の“提灯”記事ばかり。「少しはきちんと批判もしろよ!」が限界に達した。
現在につながる我が国自動車ジャーナリズムを確立したのは“CARグラフィック”(1962年発刊)を立ち上げた小林彰太郎である。自動車評論に文化的・歴史的あるいは競技的視点を加え、その一方で工学的な設計・製造とは異なる技術面にも目を向け、ロードインプレッション(乗り心地)など運転との関わりを丁寧に記し、折からのマイカーブームと併せて、クルマを身近なものにしてくれた。爾来我が国自動車評論は一人の例外を除き、小林の亜流を脱し切れていない。唯一の例外は国産乗用車を対象にした“間違いだらけのクルマ選び”を大ヒットさせた徳大寺有恒(本名;杉江博愛)である。彼の魅力は社会面(経済性や交通政策を含む)から、“(提言やエールを送りつつ)辛口”で一刀両断するところにあった。それゆえにペンネームを使わざるを得なかったのだ。そんな自動車ジャーナリズムに幻滅を感じていたところ偶然Webで著者を知り、読んでみることにした。
数多知るモータージャーナリストの一人である本書の著者名をこの本に触れるまで知らなかった。調べてみて分かったことは、“辛口”評論(特に外国車)がその主因らしいことである。ズバズバ本音で書かれては雑誌社も記者も外車メーカーやディーラーから取材や試乗の機会を与えてもらえない。それを恐れて登用しないのである。それだけ骨のある、稀有なモータージャーナリストなのだろう。
スーパーカーと言えば1970年代ブームを起こした、ランボルギーニやフェラーリがまず浮かぶ。本書でもこの2社の製品にかなりの紙数が割かれるが、著者の定義するスーパーカーには、超高級高性能車に限らず、以下のような特徴を持つものをよく知られたものに加えている。
限りなくレーシングカーに近いが路上を走れるクルマ、走ることが目的で荷物スペース、居住性への配慮などミニマム(あるいはナシ)、高出力エンジン(結果として高速度)、流体力学を考慮した特異なスタイル。そしてカギになるのはエンジンの搭載位置がミッドシップ(前後車軸の間;通常のクルマは車軸の前か後)であること。F1に見るように、重心が中央部に来るこの位置が最も走行安定性が良いのである。これは自分で2台のミッドシップ(トヨタ・MR-S、ポルシェ・ボクスター)に乗った経験から納得するところである。しかし、このミッドシップ搭載構造は設計・製造・保守さらに生産コストを考えるとなかなか難しいところがあり、その開発は一筋縄ではいかない。
本書はこのミッドシップ高性能車を歴史的に追い、その開発・生産の苦難の道を、関係者への現地インタビューや文献調査で裏付けを取りながら進めていく(この部分はがかなり本書を際立たせる)。ミッドシップ車前史(1920年代からの)を除いても50台近いクルマが取り上げられ、そこにはイタリア車に代表される欧州車ばかりではなく、アメリカ車(フォード・GT40GM・コルベット)や日本車(ホンダ・NSX)も同じ濃さで解説され、それぞれの開発秘話が明らかになる。とは言っても最も多いのはイタリア車で、そこには馬車作りの時代から続くカロッツェリア(個別仕立ての車体開発・製造業者)の存在が大きな役割を果たしていることが分かる。つまり、歴史と文化がスーパーカー出現とその成功の背景にあるのだ。
さて“辛口”である。いくら高値で売れるとはいえ、経済性が欠かせないし、時間の制約もある。実用車のエンジン、シャーシーや部品を流用しようとすると随所に無理が生ずる。この実態を暴くところにその面白さがある。要するに危ないクルマ、見掛け倒し(カッコばかり)のクルマ、ライバル対抗策だけのクルマ、中途半端な出来のクルマが人知れず世に出ているのである。既に過去のものだから許されても、もし最新実用車をこの調子で書かれると確実にメーカーは困るような内輪話がいっぱい。読後「もう少し身近な車を取り上げて、この調子で書いてくれたら」と思ったが、詮無い期待なのだろうか。
本書は技術的な掘り下げが深い(特に、設計・開発・試作段階)。従ってかなり用語解説に紙数を割いている。よほどのクルマ好きでなければ薦められないが、私にとっては学ぶことの多かった本である。
因みに、一部には著者を「自動車評論における小林秀雄」と評する向きもあるようだ。

2)宿澤広朗
小学校、中学校の校庭はコンクリート製の狭いものだった。高校は土のグランドだったが四角形ではなく、直線で長い距離を取っても100mは無かった。どの学校でも当時一番人気のあった野球すらできなかった。だからサッカーやラグビーなど知る由もなく、大学に入ってからも興味も持てず、サッカーは手を使ってはいけないこと、ラグビーは前方にパスしてはいけないルールであることくらいしか知らなかった。それでもサッカーは就職後ときどき和歌山工場内の草試合などに駆り出され、オフサイドという妙な決まりを知るくらいにはなっていた。しかし、ラグビーに接する機会は全くなかった。
ラグビーを始めて観たのは川崎工場に転じてしばらくした1972年頃だったと記憶する。この時出向した東燃石油化学川崎工場にはラグビー部があり直属課長は高校と大学時代選手だった人、部下の一人も東工大で活躍したラガーマンだった。そんな縁から石油関係企業で戦われるオイルメンの試合に何度か誘われ内に「これはとても自分にはできないスポーツだが、奥が深そうだ(戦法もルール運用も)」と興味を持つようになった。そんな思いを口にしたことが、ラグビーの一流選手が集まる取引先の横河電機に伝わり、やがて早慶戦、早明戦、さらにはケンブリッジ大訪日戦などの入場券が廻ってくることになり、レベルの高い試合を観ることで、ますますこの競技への興味が沸いてきた。
早大のスタンドオフ(司令塔)として活躍していた宿澤の名前を知り、プレーを観たのはこの頃だが、ポジションと身体つき(162cm!)もあり選手としての印象はそれほど強く残っていない。むしろ驚いたのは、彼が住友銀行(現三井住友銀行)に就職したと知った時である。「何故ラグビーで有名な企業に入らなかったんだろう?」との率直な疑問である。次に驚かされるのはそれから四半世紀経た頃彼が住友銀行の役員に就任したことである。一流のラガーマンが一流銀行の取締役になることは稀有のことなのであろう、当時の新聞報道でそれが報じられた時にはちょっとしたニュースだった。そして最後の驚きは現役専務執行役員としての突然死である(本書に依れば筆頭頭取候補だったらしい)。職場の仲間との山歩きの途中、心筋梗塞で亡くなったのである。本書はこの宿澤の小伝である。
昨秋のラグビーワールドカップで日本代表は大活躍、優勝候補の南アフリカを圧倒し、国内におけるラグビー人気は一気に高まった。しかし、ワールドカップの一勝目はこの南ア戦ではなく1991年のジンバブエ戦である。この時の全日本監督を務めたのが宿澤であることはラグビーファンとなっていた私の記憶に確り残っていた。そんな折目にしたのが本書、ためらうことなく求めた。
先ずラガーマンとして世に出た人だけに、本書の紙数はかなりそこに割かれるが、それに劣らずビジネスマンとしての活動も広範に取り上げられ、ロンドンにおける為替ディーラーから国内営業における松下電器グループ救済策まで、表裏の無い人柄で事に当たる、如何にもスポーツマンらしい姿が活写され、当に勝負が終わった後には何も残さない“ノーサイド”の気分に浸れる(私がラグビーに惹かれるのはこの瞬間である。サッカーや野球と違い“勝ってもはしゃぎまわる者がいない”)、清々しさの残る一冊だった。一つだけ気になるのは、読書については「瞬発的判断(彼はこれをラグビーにも、為替・債券売買にも、そして経営判断にも最重要視)の妨げになり、不要と思っていたふしさえある」と著者が記している点である。「あれこれ読めば、あれこれ迷う」のは確かだが・・・。

蛇足:1998年、東燃システムプラザの株式が横河電機に譲渡された。当時の横河の社長は美川さん(「経営陣はそのままでいい」と断を下された)、この人は慶大ラグビー部OBで全日本の代表にも選ばれている。営業部門の部長(財務課長時代横河の財務体質を大幅に改善、のち中国法人副社長;日本人トップ)にはこれも全日本のフルバックを務めた早大OBの植山さんが居たし、人事部門の部長(のち執行役員)は明大OBの笹田さんだった。皆さんと親しく付き合う機会があり一流選手は一流のビジネスマンでもあることを身近に知った。本書を読みながらこれらの人々との往時を偲んだのは言うまでもない(美川さんは宿澤同様現役のまま亡くなった)。

3)花森安治伝
結婚した年(1970年;昭和45年)の冬、ボーナスで大きな買い物をした。英アラディン社製のブルーフレーム石油ストーブである。国産品の倍くらいの価格だったが、高い評価が記憶にあったのでそれに決めたわけである。基本設計は1930年代だと言われるが、現在でも売られているほどの優れものなのだ。この商品を我が国に広く知らしめたのは生活雑誌“暮しの手帖”で確か1960年代のことだったと思う。この雑誌を手にしたことすらないのだが、新聞・雑誌でしばしば特定商品がトピックスとして報じられたので“ブルーフレーム”を知っていたわけである。
花森安治とはこの“暮しの手帖”の名物編集長、創刊(1948年)から66歳(1978年)の死(心筋梗塞)まで30年間その地位に居た人物である。生年は私の父と同じ1911年(明治43年)、そんな男が女装で人前を出歩くので、しばしば週刊誌などに写真姿が掲載され、話題に事欠かない‘6070年代を代表する有名人だった。本書はその評伝(単なる伝記ではなく、著者の花森評が色濃い)である。
旧制の神戸3中から松江高校を経て東大文学部(美学)へ進んだ花森は卒業を待たずに松江の旧家の娘と結婚する。それもあって生活のために東大に本拠を置く“帝国大学新聞”に就職(?)、文筆を生業とするようになる。実は文章以上に優れていたのは、挿絵などを描く力や紙面デザインなどの美的センスで、少し環境が変わっていれば画家になってもおかしくなかったほどの才能を持っていた。それもあって帝大新聞では記事も書けば、カットも自作、更に編集もこなす獅子奮迅の活躍をする。反面授業にはほとんど出席する時間がなく、自分から提案した「社会学的美学の立場から見た衣粧(衣装だけではなく化粧を含む意)」を何とかまとめ上げ卒業する。しかし、大恐慌の影響が残る“大学は出たけれど”の時代、取り敢えず得た仕事は伊藤胡蝶園(のちのパピリオ化粧品)の広告担当。ここではそこそこ存在感のある仕事ぶりを発揮していくのだが、やがて戦時色が高まり化粧品事業そのものが先細りになっていく。次についた仕事が大政翼賛会の宣伝広告部門である。ここであの有名な標語“ぜいたくは敵だ!”を創出したといわれる。
本書において、著者が“暮しの手帖”と同じような重みを持って深耕するのはこの時代の花森である。つまり戦争推進における彼の役割と言動である。もし自ら進んで好戦思想のお先棒担ぎをしていたのならば、戦後の暮しの手帖の基盤となる、生活者優先の主張と矛盾する点を追及していく。結論から言えば、決して大政翼賛積極推進者ではなく、生活のためやむなくと言うことになるが、ここは“同業(著者も編集者)相哀れむ”の感無きにしも非ずである。
“暮しの手帖”発足は二人姉妹が始めた“衣裳研究所”が起源で、もともと衣装・化粧に関心が高かった花森がこれに協力する形で始まる。それが衣服や化粧から次第に生活用品におよび“暮しの手帖研究所”を創設して商品テストを行うことで、雑誌としての独自性を確立していく。初期の新入社員は専らこの商品テストのための要員であったほど、ここに力を入れている。商品はすべて自前で調達、同じものを複数揃えて行うなど、中立性・客観性維持に努め雑誌の評価を高めて、最盛期には月百万部を超えるまでに成長させる。
編集長としては徹底したワンマン、記者の書いたもののチェックも極めて厳しい。取材にはテープレコーダーを持参させ、再生して内容を確かめる。よくある誘導インタビューなどはこれで暴露されてしまう。「これは消費者の意見ではなく、君の意見ではないか!」と言うように。今の新聞記者や放送記者に爪の垢でも飲ませたいくらいである。
本書著者は以前本欄で紹介した「百歳からの読書術」の著者。作家としては伝記を得意としているようで、参考文献や時代考証もその面からしっかりしている。大政翼賛会に関する部分では、政治・軍事面からは多くの報告があるが文化面での活動が本書ほど確り書かれたものを知らない。知られざる戦中戦後史あるいは昭和文化史としての価値もある、ユニークな評伝であった。

蛇足:19662月大田区鵜の木の新築間もない花森邸の応接間から出火、全焼した。この家には5台の石油ストーブがあったが、その一台アラディン社のブルーフレームだけが見つかっていない。

4)遠ざかる祖国
既に2冊(第1話、第3話)を本欄で紹介した“イベリアシリーズ”の第2話に相当するものである。第1話の“イベリアの雷鳴”から第3話の“燃える蜃気楼”に飛んだのは、Web上で読んだ既読者の評価が極めて低かったからである。しかし、第1話を貸した友人が、バンコク滞在中第2話(上巻)を日本書籍の古本屋で見つけ、帰国後下巻も入手して、読後それらを回してくれたことで読むことになった。
“イベリアシリーズ”の舞台と主題は第2次世界大戦中のスペインにおける諜報戦である。主人公は日系ペルー人宝石商に変じた日本陸軍将校。正規の軍組織とはまったくかけ離れた存在として、欧州情勢を調査分析して、国内の直属上官にのみ報告する密偵である。これに英国秘密情報部(MI-6)やドイツ国防軍情報部(アプヴェア)、それにスペイン反体制組織が絡むスパイサスペンス仕立てになっている。第2話は日本の参戦、特に真珠湾攻撃までの過程をMI-6が追うところにテーマが設定される(特に英国が日本を参戦に仕向ける工作)。
シリーズ物の難点は以前の話が分かっていないと、読んでいる内容が理解できぬ局面に遭遇することである。そこを補うためにはどうしても繰り返し説明が多くなる。既に知っている者には「くどい」筆致になるのだ。加えて本話は新聞連載されたので、それが一段と酷くなる。Webに投稿されている多くの書評と同様の冗長さを私も痛感させられた。それ以上に不満だったのは、これは本格的なスパイサスペンス小説ではなく、通俗恋愛小説の趣が強いことである。MI-6の女性捜査官と日系宝石商のそれである。英国の一流スパイ・戦争サスペンス作家、ジョン・ル・カレやレン・デイトンだったら決してこんな甘っちょろい、中途半端なものを書くことは無いだろう。読みながらこんな感じがしばしば去来した。緊迫感が持続しないのだ。唯一の収穫は、ここでこの二人の肉体関係が出来上がったことを知ったことである。これを知る知らないはこれからの話の理解に大きく影響する可能性があるからである。
評価するのは史実に対する裏付け・考証の確かさである。スペインを巡る英国スパイ組織の活動は、本欄で何度も取り上げている関連ノンフィクション図書と矛盾するところが全くない。むしろ「こいつはあの本に出てきたあいつのことだ!」を発見する楽しみさえあった。

蛇足:中立国(ペルー、スペイン)の人間として主人公がロンドンに出向くが、滞在するホテルから離れた場所で独空軍の爆撃に遭遇する。避難場所は地下鉄だがその入り口に待ち構える女性空襲監視員に「チケットは?」と問われる。「チケット?(入るだけで?)」「そうよ。名前入りのチケットよ」 居住者や滞在者には地域毎に退避用のチケットが配られていたのだ。これは本書で初めて知らされた。


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2016年3月25日金曜日

九州超長距離ドライブ記-予告-

 長らくブログ投稿が滞っていること、お詫びいたします。先週16日(水)より墓参を兼ねた家族旅行をだしに、山陰を経由九州一周の超長距離ドライブに出かけ、先ほど9泊10日、3111㎞におよぶ旅を終え、無事帰国したところです。近々ドライブ記を連載いたしますので、よろしくお願いいたします。








2016年3月15日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-41


14.次なる役割
1988年取締役に就任してから5年余が経過した。この間、SPINは大変革し、1988年には120名弱の従業員は約230名まで倍増、売上高は約22億円から50億円を突破するまでになっていた。これに伴い、東燃本社内に間借りしたり品川に分散配置されていたオフィスも、他の子会社と共同で一棟借りした飯田橋の新設ビルに統合され親離れが加速した。また顧客も石油・石油化学では東燃グループの競合相手のほとんどが取引先となるばかりか、総合化学やセメント、ガラスさらには食品、薬物・血液検査になどにも広がり、 “プロセス特化”のシステムインテグレータとして業界での存在感を示せるまでに成長した。
ただ問題が全くなかったわけではない。会社発足の動機となり、収益性の高かったExxonIBMの共同開発製品、プラント運転制御用パッケージACSの引き合いに陰りが現れていたし、売上の過半を占める受託開発はバブル経済崩壊の下で厳しい競争を強いられ始めていた。また、グループ内向けサービスも石油業規制緩和による経営環境変化によって、株主から競争購買など一層のコストカッティング策を強く求められようになっていた。つまり、技術システムも事務システムも、売上は順調に伸びても収益がそれに伴わなくなってきていたのである。これに対応するにはシステム構築計画段階から設計・開発、さらに運用・保守に至る一貫サービスを提供できる態勢が好ましい。ITユーザーから発したSPINゆえに、このようなサービスの知見はあるものの、新規採用者が増えるとその濃度が薄まっていく。このことはユーザー知見のみならず、新規技術の点でも言えた。この時期ネ(ネットワーク)・オ(オンライン)・ダ(ダウンサイジング)・マ(マルチメディア)が一気に進のだが、これらの技術を東燃グループ内で修得する機会が著しく限定されていたことである(高度成長期のように新規プロジェクトが目白押しというわけにはいかない)。ユーザー知見はあっても、新しい技術の知識がなければ、有利な条件で受注することが出来ない。
加えて、一貫受注に成功し、確実に利益を確保するにはプロジェクトマネージメント能力、プログラム開発の生産性の高さが必須である。この辺りの問題は東燃時代から経験しており、Exxonの手法など海外まで出かけて学んでいた者も居たが、SPINが他を圧倒するようなレベルではなかった。
つまり1993年末頃の状況は、“先々に課題を抱えた、一見順風満帆の航海”と言うのが現実であった。
年末の決算をまずまずの成績で終え(経常利益約2億円)、19941月初め予て予定されていた台湾でのプロセス工業向けセミナーに講師の一人として参加、帰国すると本社社長室から「NKH社長からお話がある」と呼び出しがかかった。告げられたことは「来年度から社長をやってもらう。SMZ現社長は顧問にするので、どんな経営陣にするか考えておくように」とのことであった。今まで2代の社長はいずれも東燃役員からの天下りだったし、他の子会社も概ね同様だったから、チョッと意外な感じを持ったが、「SPINならやってける」との自信はあった。自社に戻りそれをSMZ社長に報告すると「NKH社長とは既に話をしている。MYIさん(同期入社の取締役)は常務に昇格し、TSS(東燃システムサービス;SPINの子会社で清水工場内に在る)の社長を兼務してもらう。あと一人は君が考えるように(OMR常務は1年前に別の子会社に移っていた)」とのこと。まず浮かんだのはシステム計画部長のTKWさんである。彼とはTCS(東燃コントロールシステム)外販を東燃テクノロジー(TTEC)で始めたときからの戦友、SPINの初代技術システム部長もであったから、NKH社長を含めどこからも異論はでないと読んでいた。
しかし、直後に二つの激震が走る。1月末TKWさんが脳梗塞で倒れ、2月には私に内示を出したNKH社長の退任が新聞紙上に出る。英紙(フィナンシャルタイムス)も含め、大株主(ExxonMobil)の意向であること解説していたが、それ以外に考えられない。「SPIN生みの親であるこの人が去ると、この会社はどうなるのであろうか?」そんな不安を抱えながら、3月末までを過ごすことになる。

-第Ⅱ部完-


これでSPIN経営第Ⅱ部(取締役時代)を終えます。長い間閲覧いただきましたことに感謝いたします。何度も中断したことを深くお詫びするとともに、第Ⅲ部(社長時代)を一休みした後立ち上げる予定ですので、そちらの方も引き続き閲覧いただけるよう、よろしくお願いいたします。

2016年3月13日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-40


13CIMシステムインテグレータへの歩み-2
この時代プラント操業管理については、プラント運転・制御、生産管理、保全管理、品質管理、環境管理までかなりパッケージ利用が進みつつあったが、それから先、工場の総合的な管理、さらには全社の経営管理レベルになるとまだまだ手作りシステムが大勢だった。少し大胆に整理すると、工場の中心は生産設備、どこも同じものでなければ戦えない。一方、全社運営は経営環境を踏まえた独自の考え方・やり方こそ差別化・生き残りのポイントであり、こんなところにパッケージ利用が今ひとつ進まぬ要因があったように思う。しかし、ITがいたるところにおよんでくると、技術・経営環境変化への即応やシステムの保守に人手も時間もカネもかかるようになり、自社専用システムの開発・維持が問題視されるようになってくる。
私が初めてSAP(この時はエス・エイ・ピー、のちにサップと呼ばれるようになる)と言う言葉を耳にしたのは1992年頃だったと記憶する。年2回開かれる東燃との合同役員会の席で、新任役員のSTNさんがモービルオイルの海外製油所(確かヨーロッパだった)を視察した際の見聞談があり、そこに製油所のデータが本社のSAPに取り込まれるようなシステム構成図が示され、本社諸機能に関する基盤情報システムの位置付けにあるとのことだった。彼はこの分野の専門家ではなかったから、IBM汎用機の上で動いている外販のパッケ-ジということまでしか報告はなかった。しかし、既にグループ会社の中で“総合事務管理型パッケージ”が利用されていることを知るだけでインパクトは大きかった。「何とかSAPなる製品あるいは会社について知りたい。できれば日本に知れわたる前に」とそれとなくアンテナを張りめぐらせていると、日本IBM筋から「ドイツの会社である。SAPとはSystem Application Packageの略。設立者は元独IBMのセールスマン二人、彼らは独化学企業やICI(英国の化学大企業)などを顧客にしていた。オリジナルは汎用機で動くものだったが、ダウンサイジング化に取り組んでいるようだ」との情報を得た。さらにしばらくして当時日本IBM製造業担当のKRS常務の下に在ったメンバー限定の小さなサロンに出席した際、東洋エンジニアリングの人から「代理店交渉をしたが相手にされなかった」との話が出て、これに応じてIBMのメンバーから「日本語化はプライスウォータ日本法人がやるようだ」との補足があった。これでCDS社やOSI社同様の手(日本語化に依る総代理店)は無理筋だと知らされる。
「他にこの種のソフト(現在ERPと呼ばれているもの;Enterprise Resource Planning)は無いか?」と探っていると“Baan”(オランダ)というものが網にかかってきた。しかしどうやら組立加工向けらしい。そんなある時(1993年秋)日揮・日本DECを経て中途入社したKABさんが、駐日米大使館商務部門が帝国ホテルで開いたソフトウェア中心のトレードショウに出かけRoss Systemsと言う会社のPROMISと言う製品を見つけてきて、「担当者と話をしたところ、しばらく日本に滞在するようなのでコンタクトする機会を設定しましょうか?」と報告をかねて問いかけてきた。新宿のハイヤットリージェンシーにKABさんと出かけ副社長のJSWと製品や会社の話を聞くと、元々の製品は英国製で顧客対象は食品・薬品、これをRoss社が買い取り、機能改善・強化して米国の中小・中堅向けERPパッケージとしてビジネスしていることが分かった。会社はNASDACに上場しているとも言う。「プロセス工業特化のERP」が見つかった!」 のちにSPINの経営に良くも悪くも大きく影響することになる、Ross社とのこれが最初の関わりである。PROMISはやがてRenaissanceと製品名を変え、SPINはこの製品の日本総代理店となるが、これらの詳細はこのSPIN経営-第2部の後に続くSPIN経営-第3部で報告する。

(次回;次なる役割;取締役時代総括)


2016年3月9日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-39


13CIMシステムインテグレータへの歩み
会社設立当初にはシステムインテグレータと言う言葉は無かった。情報システムの構想作りから、システム開発、プラットフォームとなるコンピュータや通信システムを調達し、そこに開発したアプリケーションソフトを載せ、実用に供するまで、一貫サービスを提供するのがその役割なのだ。SPINが目指したのはこのようなサービスを主に広義の化学プロセス顧客対象に行うことだった。IBMACS、横河電機のCENTUM、会計や購買業務の受託開発などでそれらを実現し、その後米CDS社の生産管理システムMIMIなども戦列に加え、独自のポジションを業界に確保しつつあったものの、汎用機ベースのACSは峠を越し、代わるプラント運転のリアルタイムデータ収集処理システムが求められつつあった。幸いこれはOSI社のPIを導入することで一応道筋が出来た。
しかし、これだけでは化学プロセス企業の統合的な情報システムを構築できるわけではない。プラント保全管理、品質管理、受注出荷管理などが工場管理の面で必要だし、本社サイドでもこれら工場情報システムとリンクする、多くの経営管理用情報システムが整備されなければ、ITを活用した全社ベースの新しい経営システムは完成しない。その理想の姿がCIMComputer Integrated Manufacturing)システムである。
先ずプラント保全管理システムについては、東燃グループ向けに1980年代初めから、HPのミニコン(HP-1000)をプラットフォームにしたMOSMaintenance Online System)と称するシステムが、計装・電気、回転機械(ポンプ、コンプレッサーなど)、装置(配管、塔槽類など)向けに順次開発され、実用に供されていた。これをUNIXベースのワークステーションに置き換えるプロジェクトが立ち上がっており、オリジナルに手を加えて外部販売も可能なようにして、PLAMISPLAnt Maintenance Information System)と名付けて売り出すことにした。この機能強化システム作りに寄与したビジネスに1990年代初期の韓国油公向けプラント保全システム開発支援がある。このシステムの核はMOSなのだが油公はこれをそのまま導入するのではなく、当時最新の情報技術と東燃のプラント保全方式を参考にして、新しい保全体制を作り上げようと意図するものだった。従って、このビジネスはSPINばかりでなく、東燃テクノロジー(TTEC)と共同で当たり、SPINは油公とTTECからも学ぶことが多かったのである。またMOS開発時代から化学工場のプラント保全や副資材(触媒や添加剤など)用在庫・倉庫を持っていたので、それをPLAMISの中に組み込んだりもした。お蔭で、PLAMISは石油関連会社ばかりではなく、トヨタの関係会社(スティールコイルセンター)から引き合いを受け、受注するほど顧客対象を広げることにつながった。
2の商品は、これも石油化学(TCC)が先鞭をつけグループ内の工場試験室で使われた品質管理システムである。小型プロコンをプラットフォームした既存システムもダウンサイジングの環境下でワークステーションへの置換えニーズが高まり、Lab-Aidという名のもとに石油・石油化学以外にも使える新規機能を盛り込んで、食品や薬品、環境測定などへの用途も勘案して鋭意開発されていた。
と言うような訳で、1993年末頃までには、概ね化学工場向けの情報システムに関しては、一応品ぞろえも整ってきていた。問題は、これら個別のシステムを結びつけること、さらに連動する事務関係(販売・経理・購買など)システムを、本社を含めて如何に構築していくかであった。事務系や経営管理分野にもパッケージ利用の波がひたひたと迫りつつあり、受託開発で安穏としてはいられない時代がそこまで来ていた。

(次回;CIMシステムインテグレータへの歩み;つづく)


2016年3月6日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-38


12OSIPI3
結局前夜のパーティにPatは現れなかった。「翌日のトップバッターなのに何かあったんだろうか?」そんなことを思いながらその夜は終わった。翌朝朝食の場でも何人かに「Patは来てるかい?」と問うが、誰も見かけていないとの返事。しかし、全体セッションが始まると、そこにはちゃんとスピーカーが居る。チェアーマンがPatの紹介の中で初めに言ったことは「昨日今シーズン最後のインターハイフットボール試合があり、息子がその試合に出場していたので、それが終わってから、夜を徹してカリフォルニアからクルマを飛ばして、先ほど到着したばかりだ」とのこと。どうもその試合は全米高校地区代表による決勝戦のようなものらしく、アメリカ人たちは一斉に歓声を上げ拍手喝采。Patも嬉しそうに手を振ってそれに応える。辛気臭い学会ムードはまるでない。これがPatとの初対面である。講演内容は先に挙げた文献内容に若干それ以降の新しい技術開発結果を反映したものだったので、内容理解も充分出来た。
午前のセッションが終わると昼食時直ぐに彼のところに行き、自己紹介と学会後の訪問を確認した。私は参加前に彼がここへ来ることをプログラムで知っていたが、彼の方はそんなチェックは行っておらず、たいそうびっくりしていた。あとあと付き合ううちに分かってくるのだが、割とずぼらなところがあり、「ああ、日本から誰か来るのは覚えているが、何日だっけ?」などと問い返され、こちらが唖然としてしまう。
彼は学会にフルタイム参加はしておらず、一泊しただけでカリフォルニアへ帰ったが、私は金曜までそこに留まり、デンバー経由で二人のバークレー時代の友人が待つダラスに出た。卒業来10年ぶりの再会を喜び合い、それぞれの家族と土日を過ごした後、月曜日の朝ダラスを発ちオークランドに向かい午後到着。タクシー乗り場でOSIの住所を書いた紙を運転手に示すと、他のドライバーを何人か集めて相談を始める。「住所はおおよそ分かるが、こんな会社在ったけ?」と言う雰囲気である。「まあ、行ってみるか」と走り出すと10分もしないうちに、工場や倉庫のような建物が並ぶ一画にクルマを停めて「この辺りのはずなんだが?」と辺りを窺がうが、看板も人気もないのでいかんともし難い。するとひとつの建物から若い女性がタクシーに向かってやってくる。「Mr.Madono?」で運転手も私もホッとする。案内されたのはブロック外壁・トタン葺きの(様な)平屋、年代物の建物だ。Patが入口で待っており、直ぐ社長室に招じ入れられた。そこでまたびっくり。広い部屋ではあるが、床の上まで書類や雑誌が積まれて乱雑なことこの上ない。
そんな部屋で自己紹介もそこそこに商談を二人で始めた。OSI製品PIを日本で取り扱うことに特に問題は無かったが、“総代理店”になる話はすんなりいかない。と言うのもOSIは既にグローバル展開を始めているものの、どこにも独占的な販売権を与えることはしていなかったからだ。Patは「PIは誰がどこで売ってもいいんだ。だから日本だけ例外は認められない」とのこと。実はそれに対する対案は考えてあった。「ではPIの日本語化をSPINが行い、それに関しては国内で独占的に扱わせてほしい」とボールを投げ返した。それに対して「日本語化もここで進めているところなんだ」とさらに投げ返してきた。これは予期せぬことだったが「どんなものだか見せてもらえるか?」と言うと「見せてやろう」と倉庫様の中の一室に案内してくれ、一見日本人風のスタッフを紹介してくれ「彼が専門SEと開発しているんだ」とデモを行うよう命じる。酷い製品だった。日本人風のスタッフはTKRT(日本姓)と言う父親が日系米人、母親が白人の混血、夫人は日本人とのことだが本人は完全に米国人、日本語は片言会話程度、読み書きは出来ない。開発者は中国系だがこれも米国人。漢字の理解はある程度あるようだが、KRT[同様読み書きは出来ない。加えて漢字のフォントが稚拙で、とても日本で使えるような代物ではない。Patも含めた3人の前で率直に「これでは日本で売れないばかりか、かえってPIの評判を落とす」と言ってやった。担当者が反論するかと思ったが、意外にも二人ともこちらの言い分に納得。再び社長室に戻るとPatは日本語システム開発と総代理店をSPINに任せると認めてくれた。これがのちの主力商品の一つになるPIビジネスの始まりである。

(次回;総合CIMインテグレータへの歩み)