2013年6月30日日曜日

今月の本棚-58(2013年6月分)


<今月読んだ本>
1)時のみぞ知る:第1部(上、下)(ジェフリー・アーチャー);新潮社(文庫)
2)護衛空母入門(大内建二);光人社(文庫)
3)鉄炮伝来(宇田川武久);講談社(学術文庫)
4)中国の強国構想(劉傑);筑摩書房
5)KesselringKenneth Macksey);Greenhill Books
6)ツール・ド・フランス(山口和幸);講談社(現代新書)

<愚評昧説>
1)時のみぞ知る:第1部(上、下)
著者は英国を代表する現代流行作家で、多くの訳本が出ている。しかし取り上げられる対象がチョッと私の好みからは離れているので、読んだのは、本欄でも紹介した、史実に基づく、エヴェレスト登頂を描いた「遥かなる未踏峰」だけである。この時は“歴史”に惹かれた。今回読むことになったのは舞台が “ブリストル”だからである。
英国人とはビジネスマン時代何人も知人が居たがそれらは全て石油かIT関係者だった。そんな中で唯一仕事がらみではない友人は、カリフォルニア大バークレー校の短期MBAコースに参加したときのクラスメイトである。2007OR歴史研究のため渡英した際、ブリストル在住の彼を訪ね、家族ぐるみの歓迎を受けるとともに、市内を丁寧に案内してもらった。
「目の前の大きなビルはブリストル大学。息子はここを卒業したんだ」「ここら辺は産業資本家が居を構えていた地区。今ほとんどがオフィスとして使われている」「向こうに見えるのはエイボン・ゴージュ(峡谷)。19世紀に作られたつり橋、クリフトン橋は今でも使われている」「これはガボットの像。コロンブスが達したのは北米大陸ではない。ガボットこそが、その数年後ここを発って初めて大陸に足跡を残したのだ(1497年)」。時代は違う(本書は1920年代から話しは始まる)とはいえそのブリストルが取り上げられるので、読んでみる気になった。
ブリストルは英国中西部にある古い歴史を持つ港町。それゆえ造船業が早くから栄え、その後航空機や自動車産業でも英国を代表する企業が生れてくる(今でもロールス・ロイスのジェット・エンジン工場はここに在る)。地理的にロンドンから鉄道で西に2時間足らずのところにありながら、海を隔ててアイルランドがあり、北の方はウェールズに接するので、人種・宗教ではチョッと複雑な所である(私の友人も、生まれ育ちはイングランド中部だが、先祖はアイルランド人、夫人はウェールズの出身で、家族は皆カソリックであった)。これに階級が絡むのが英国社会だから、英国人の人間関係は日本人には解り難いところがあるといわれる。この小説は当にその“階級”をテーマにした大河小説である(読んだのは第1部のみ、英国では既に第3部まで発刊されており、それで完結する)。
主人公は父親のいない少年(第一次世界大戦で戦死したと教えられている)。今は母とその両親(祖父母)、それに母の兄(伯父)と暮らし、生活は造船所で働く伯父に依って支えられている典型的な下層労働者階級の家庭である。母の考えで初等教育学校に入学するが、学問に興味は無く、早く伯父同様に造船所で働くことだけを願い、勉学には力が入らない。しかし、教師は彼の高い学習潜在能力を見抜き、地区教会牧師と相談して、大教会付属の進学校へ進む計画をすすめる。決め手は類まれなボーイ・ソプラノの美声である。この学校には聖歌隊隊員としての特待生制度があるのだ。こうして少年は突然上流階級社会に放り込まれる。嘲笑・いじめ、それを庇う上流階級のクラスメイト(造船所経営者の子)。
母が犯した結婚直前の過ち。父の死にまつわる隠された事実とそれを封印しようとする関係者。伯父の窃盗容疑と投獄、それによる収入の途絶。苦境を切り抜けるための母の才覚。やがて変声期を迎えた少年の更なる上級学校(グラマースクール)進学への障害。数々の難題を何とか乗り越えながら、ついにオックスフォード大学へ入学する。グラマースクール時代に親しくなる女性(上流階級出身の親友の妹)との恋そして結婚。しかし式典の場で牧師の同意を求める問いかけに思いもよらず“No!”と応える、複雑な過去を持つ庇護者の老人。それには彼の誕生の秘密が深く関わっている。そんな中欧州の戦争はそこまで迫ってきている。エリートは率先して軍を志願、彼はブリストル育ちなので海軍を希望する。資格取得のため乗り込んだ貨物船はUボートに撃沈されるが・・・。ベストセラーを連発する作家の筆さばきはさすがに見事だ。それに友人が案内してくれたブリストルが重なる。アッという間に2巻を読み終えた。第2部、第3部の出版が待ち遠しい。

2)護衛空母入門
2時世界大戦において戦略兵器となった航空機・戦車・潜水艦についてその発達史を、技術・生産、戦略・戦術、組織・人の面から調べ、経営におけるIT利用推進に生かす方策を探る手立てとしてきた。中でも航空機は、中学・高校時代航空エンジニアを夢見たこともあり、最も早くから知識を集積してきた分野である。工場におけるシステム部門の組織運用、本社における情報システムの分社化などで、ここから学んだことが大いに生かされたと今でも信じている。
航空機の戦略性に早くから(第一次世界大戦前)注目したのはイタリアのドーウェ将軍で、その空軍戦略論はトレンチャード(英)、ミッチェル(米)と受け継がれ、第三の軍種、空軍誕生へと発展していくが、その思想は戦略爆撃論であり、専ら大型長距離爆撃機を中心とした考え方である。しかし、海洋国家ではもう一つの戦略兵器、戦艦に代わる機能を航空機に託す考え方が芽生え、それが現実となるのが空母を中心とする機動部隊である。真の戦略システムとして機動部隊を発足させ整備・運用・発展させたのは事実上日・米のみで、英国は早くから空母を所有したものの、艦隊(本国艦隊、地中海艦隊など)に分散配置、シーレーン防衛システムの一要素として位置付けてきた。米国は太平洋戦線では日本を相手にするため、攻撃型だが、大西洋では英国の強い要請で防御型の空母運用に専念、全体としては攻守二つのタイプを持つことになる。しかも太平洋戦争後半、島嶼を攻め上がる米軍の攻撃力の一端をこの護衛空母が担うことになり、防御兵器を積極的に攻撃兵器に転じていく。
本書が取り上げる護衛空母とは、当初このシーレーン確保・船団護衛用に開発された空母で、既存の商船(貨物船・貨客船・客船)を大改造(新造の場合も基本設計は戦時標準貨物船)して作られた小型空母である。兵器としては本格的なものでなく、戦果も地味な上に、特に日本ではシーレーン防衛の考え方が終戦直前まで極めて希薄で、護衛空母と明確に分類されることも無く(当時の造船将校福井静雄著「日本空母物語」によれば“商船改造空母は護衛空母にあらず”としている。大鷹、神鷹など“鷹”のつくのが客船改造空母)、その存在が正しく理解されているとは言い難い。
制式空母と改造空母はどこが違うか。軍艦か商船かという根本的な違いを一先ず置くと、後者は前者に比べ、小型・低速であることが挙げられる。しかし、大きさに関しては初期の制式小型空母(例えば龍驤;飛行甲板の長さ;160m)と大きな違いはない。問題は速度である。米国の戦時標準貨物船改造の場合速力は概ね1820kt130150m)、日本の客船(日本の場合、貨物船からの改造は皆無)改造空母は2123kt(概ね180m)程度である。これに対して制式空母は、前出の龍驤で29kt、赤城31kt190m)、瑞鶴34kt240m)と大きな差がある。風上に向かって全速で走り、艦上機を飛び立たせる。これが空母運用の基本である。スピードが遅いほど制約は多くなる。ここに掲げた数字だけから見れば米国の護衛空母は最も非力に見える。しかし、技術力でこれを補い77隻(一部は英国に貸与)もの改造空母が大西洋、太平洋で活躍した。
決め手はカタパルトである。カタパルトは発艦加速装置で、火薬式のものは日本も実用化していたが、これは搭乗員・機体への衝撃力が強く、低速でも飛べる水上偵察機を戦艦・巡洋艦などから打ち出す程度で、重い艦上攻撃機や艦上爆撃機を飛び立たせることは出来ない。米国が採用したのは油圧式(日本はこの油圧技術が未熟だった;特に高圧オイル・シール技術。英国の独自開発護衛空母にもカタパルトは無く、旧式の飛行機を利用したが、潜水艦や哨戒機が相手なので効果はあった)、これなら加速の度合いを滑らかに増加させることが出来るのでショックが少ない。高速化・大型化する新鋭機を低速で短い飛行甲板の護衛空母から発進させ、Uボート発見とそれを爆雷攻撃する“ハンター・キラー”システムが出来上がっていく。護衛空母就役と伴に商船の被害は大きく減じ、やがて大陸反攻に転じていく。
本書は、米・英・日の商船改造空母を、誕生の背景、商船建造の諸施策、改造方法、運用方法、実戦例などから解説したもので、“入門”とは言え護衛空母の全てを網羅しているので、全体システムの理解に役立つものであった。

3)鉄炮伝来
人との待ち合わせ時間に少し余裕があったので駅ビルにある書店で潰すことにした。ふと文庫本コーナーに平積みされた本書の帯に目がいった。“新兵器”“戦場を一変”に惹かれて手に取った。わが国への鉄炮(どうやら古くは“砲”ではなかったようだ)伝来とその後の普及を扱った“学術研究書”である。
1543年(憶え易い年号だ)種子島に漂着したポルトガル船に依って齎された。これが中学の時日本史で習い、今まで持ち続けてきた“鉄砲伝来”に関する唯一の知識である。多分標準的な日本人も同じであろう。本書はその広く信じられてきた説を覆す、著者の研究結果をまとめたものである。
本書によれば、鉄炮伝来には①ポルトガル伝来と②中国伝来の2説が長く研究者の間で論じられ、争われてきたとのことである。①は薩摩島津氏に仕えた禅僧南浦文之(なんぼぶんし)の著した「鉄炮記」に書かれ、そが鉄砲伝来の唯一の記録であるため、肯定的に引用されてきた。しかし、書かれたのが遥か後の慶長11年(1606年)であり、時代が経ちすぎて信憑性を欠くとしている(これ以外にも当時滞日した宣教師の残したもの、母国にある遭難船の記録なども参照しながら)。②に関しては詳しく書かれていないが「中国・朝鮮伝来説は古くからあるものの、何も記録が残っていない」とし、大正時代これを唱えた長沼賢海説を別の研究者の批判を援用して「私は賛成しない」と結論付けている。
では宇田川説はどのようなものか。一言で言えば“倭寇介在説”である。ただここで言う倭寇は我々が日本史で習った、朝鮮半島から中国沿海部を荒らし捲くった日本の海賊とは少し違う。構成員は中国人が主体で、“真倭”と呼ばれる日本人も多く、出身地は、九州各地、摂津・紀伊・和泉など早くから海外貿易を手がけていた地区、それに東南アジアに進出していたヨーロッパ人や南洋人も一部加わって、当時中国では禁制の海外貿易を行っていた集団である。その中心地は浙江や福建だが、豊後・薩摩・肥前などと盛んな交流があったという。この倭寇貿易を通じて、鉄炮が九州のみならず堺などに齎されたとするのが著者の伝来論である(当時の朝鮮王朝から明政府への古文書を論拠にしている)。
この“伝来”以降の鉄炮の普及は当然のことながら西から始まり東へおよんでいく。もはや刀槍の時代でなくなるのは戦国時代。織田・武田が激突する長篠の合戦は織田の鉄炮戦術が大勝利をおさめたことで有名だが、戦術よりも数であったことを著者はクローズアップし、敗れた武田はその後鉄炮調達にまい進する様を何度も語る。
秀吉の朝鮮征伐では火器(大砲を含む)使用において優れた遠征軍の戦いぶりを活写する。当時の朝鮮軍は火箭(原始的なロケット)しか持っておらず、火縄銃の開発に腐心し、技術導入・修得のために捕虜優遇策さえ試みる。これに成功した後遠征軍が苦戦するようになる。何やら現代の日韓関係(造船・鉄鋼・半導体・家電)に似た現象を髣髴とさせる。
大阪冬の陣・夏の陣では両軍膨大な鉄炮(で戦うが、特に徳川家康はそれに熱心で、夏の陣では大型砲;石火矢を大量に投入して圧勝する。東軍に参加した伊達軍だけで3400挺、上杉軍1400挺にのぼる。当時の日本が如何に銃炮重視の戦いをしていたかが分かる。当然のことながら鉄炮鍛冶が重用され、火薬製造は秘術とされる。また砲術武芸が栄えていく。しかし、徳川が天下を取るとその使用は厳しく制限され、衰退の一途を辿ることになる。
著者は国立歴史民俗博物館名誉教授。武器の歴史研究を専門にしている。最終章(第八章)では日本鉄炮研究史をまとめ、その体系化が著しく遅れていることを指摘している。まだまだこの分野の研究課題が多いこと言うことだろう。いままで読んだことがなかったが、“学術文庫”はなかなか奥の深いものであることを知った。

4)中国の強国構想
解放経済の一応の成功で中国の存在感が一段と高まってくる中で、中国脅威論が各方面で論じられるようになってきた。特にわが国では20109月の尖閣諸島における漁船衝突事件以降、“脅威論”の出版物は汗牛充棟と言ってもいいほど書店に溢れている。それだけに玉石混交で、よほど確りチェックしないと、針小棒大・羊頭狗肉に振り回される恐れがある。
この本を手に取ったのはやはり“強国構想”に惹かれたからだ。次いで著者名が明らかに中国人と思われたからである。しかし、何故訳者名が無いのだろう?著者略歴(一部は本書外から入手)を見てその理由が分かった。1962年北京生まれ、10歳から日本語を学ぶ。1982年北京外国語大学日本語科在学中東大へ留学。歴史学で修士・博士(文学博士;専攻は近代日本政治外交史)を取得。現在早稲田大学社会科学総合学術院教授。この間、中曽根康弘賞や大平正芳賞などを受賞している。つまり日本語を母国語同様に使える歴史学者なのである。
本書の内容は、一言で言えば“近代中国政治外交史”である。清朝末期、アヘン戦争(1840年)・第2次アヘン戦争(アナン戦争)・ロシアの満州支配・日清戦争で列強に侵食されるところから始まり、義和団事件、孫文の辛亥革命、蒋介石の国民党政権と汪兆銘南京政権、毛沢東の共産党政権と文化大革命、鄧小平の解放経済政策による大変容を経て世界第2の経済大国となった現代に至る170年の歴史を、国内政治と外交(とりわけ日中関係)に焦点を当てて解説していく。そしてこれらを通じて、何故中国(人)は大国を願望するのか、それはどのようなものか、実現の課題は何か、それらは解決されるだろうか、を提示していく。
取り上げられる歴史的な出来事;革命、政変、戦争・内乱などは一般の日本人にも馴染みのあるところだが、当然中国人の立場で自国の歴史をみることとの違いは随所に存在する。そこに援用される情報もまた出所が中国側のものが多く、初めて知らされることも多い(例えば、三国同盟に関する駐仏大使顧維欽の分析と中国の採るべき政策)。さらに、この170年間の中国の政治外交が如何に日本を意識して動いてきたかは、我々が考える以上に根が深い問題であることも本書で初めて教えられた(著者の考え方に賛成という意味ではなく)。
日中問題の根底にあるのはやはり“中華思想”である。この世界観は中国を中心に曼荼羅のように外縁に広がっていく、東アジアだけが世界との前提で成り立っている。従ってヨーロッパに負けたこと(アヘン戦争)やロシアの満州侵攻は世界秩序の変化ではなかった(元(蒙古)、清(女真)も漢民族王朝ではないが、広義の中国としている)。しかし、日清戦争の敗北はこの2000年にわたる中華秩序の崩壊であり、当時の中国社会に驚天動地の衝撃を与え、一気にプライドが失われ、弱小国家・国民に堕してしまった(著者はこれによって日本を責めているわけではなく、むしろそのショックの大きさを伝えようとしている)。対華21か条、満州国建国、日中戦争といろいろ反日の材料はあるが、根はこの中華秩序の崩壊にあるのだというのが著者の見方である。
版図回復以上に、この大国としての失われたプライドを回復したい(必ずしも対日だけでなく)、これが強国構想の根底にあるのだが、その実現には経済力や軍事力以上に大きな課題がある。周恩来の掲げた「四つの近代化;工業、農業、国防、科学技術」は実現しつつあるものの、「人間の近代化」無くして真の大国たり得ないということが最近一部でいわれだしたことに著者は注目し、「(農村社会の観念から脱した)市民社会」「協力」「寛容」などの概念が組み込まれた社会の出現に期待をかけている(共産党一党独裁でこれが実現できるか?法治よりも正義(対立軸を作って直ぐ白黒を論ずる・行動する)を重んじる民族性が変わるか?(「不平等条約といえども約束を守りながらそれを改定していくのが国際ルール」などと言おうものなら「漢奸(売国奴以上に悪い言葉)」と罵られ、社会から葬り去られる。国家の指導者もこう呼ばれることを最も恐れる)の疑問を提示しつつ)。
読んでみて、極めてニュートラルな歴史観と感じた。しかし、(著者も必ずしも肯定的に捉えていないが)連綿と続く“中華思想”は、現代の世界にそぐわず、周辺国のみならず、中国自身のためにも変化が必要と感じるのは私だけではあるまい。

蛇足:あとがきによれば、本書の企画は5年前、尖閣諸島問題発生以前である。それまで発表してきたいくつかの論文を合体・加筆修正しながら出来上がっている。従って、現時点の喫緊の話題、尖閣諸島については手短に「尖閣諸島(中国名魚釣島)問題の基点は日清戦争が終戦した1895年であることを考えれば・・・」との記述があるだけである。この短い一言が持つ意味は大きいが、それ以上掘り下げた解説は無い(著者は歴史学者だから、これを裏付ける論拠を持っていると思われるが)。これが一般の中国人の考え方なのであろう。

5)Kesselring
ケッセリング、第二次世界大戦の欧州戦線にかなり詳しい日本人でも、この名前を知る人はあまり居ないのではないだろうか。
バイエルンの商家を先祖に持つ職業軍人(最終は空軍元帥;ヨーロッパ南部戦域総司令官)。プロシャのユンカー(郷士)出身者が多かったドイツ軍では異色のバックグランドである。第一次世界大戦では砲兵将校から参謀本部勤務となる(既にドイツ劣勢になっている)。この時期本部のデスクワークに専念せず、しばしば前線へ出かけ、本来の参謀任務を逸脱する行動をとるものの、危機回避に活躍し注目される。敗戦後のヴェルサイユ条約で存続する小規模な国防軍に残ることを許され、ドイツ国防軍再建の父とも言われるフォン・ゼークト将軍の薫陶を受け、密かに進められる近代化で新兵器を学んでいく。特に空軍創設準備でゲーリングとの関係が強まり、ナチスが政権を獲ると重用され、遂に空軍参謀長のポストに着く(自身は、多くの国防軍将官同様ナチス党員ではない)。組織上の上司はゲーリングとヒトラーのみと言う地位である。
しかし、極めて地味な将軍だったから、関連出版物は少ない。本書を見つけたのは、現役時代しばしば滞在したサンフランシスコ、ユニオン・スクウェアに在ったボーダー書店(大規模ブック・チェーン、電子本の普及もあり倒産した)の広いスペースを占めるミリタリー・コーナーである。ここは私にとって宝の山だった。
この人物に著者(英国の軍人出身作家)が着目するのは;北アフリカ・ヨーロッパ南部戦域において①実質的に(形式的な意思決定責任者としてではなく)三軍(陸・海・空)を指揮した総司令官、それも空軍出身、②外交関係が複雑で作戦計画実施に問題の多かったドイツ・イタリア連合軍の実質的な総司令官(形式的にはムッソリーニの下でイタリアの将軍にかなりの権限が付与されているが)、そして③守り(特にイタリア戦線)に関して連合軍を最も苦しめた戦いの巧妙さ(単に敵に対してだけでなく、ヒトラーや参謀本部の退却拒否を巧みに説得するところも)である。加えて、戦争裁判(戦域司令官のためニュルンベルクではなく、パルチザン処刑に絡んでヴェニスで行われる。山下奉文がマニラで裁かれるのと同じ形)においてその戦い方が正々堂々(騎士道に適う)としていたことを英軍から評価され、死刑を免れた(無期懲役;のちに恩赦で収監は7年で済む)ことも執筆動機の因子だったようである。
基本的には彼の生い立ちから死に至るまでを描いた伝記であるが、上記の三つのテーマを探る形で書かれるので、純然たる戦記や戦史と違い、教育・人格形成・人生観・人間関係に視点を据えている。従って、読みものとしての盛り上がりを欠くが、真に優れた軍事指導者は、実はこんなタイプではないのかと考えさせられる内容である。
先ず、政治や出世に極めて淡白である。第2次世界大戦勃発前、空軍参謀総長の時、空軍次官のミルヒ将軍との間で主導権争いが起こると(二人とも上官はゲーリング)、そのポジションを自ら降りて、一航空艦隊司令長官として実戦部隊に出てしまう。第二に、当然のことながら任務・命令には極めて忠実である。ただし、その進め方は極めて現実的かつ巧妙で、“死守”命じられても、上位命令者(ヒトラー、ムッソリーニ)の面子や機嫌を損なわない形で“撤退”作戦にしてしまう。また、戦争末期ヒトラー暗殺計画(ワルキューレ)への加担をそれとなく誘われるが断固拒否、ヒトラーの忠実な下僕と見做される。第三に周辺の人間関係を出来るだけ円満にしようと努力する。先のミルヒの他に北アフリカの英雄、ロンメルとも戦略・戦術を巡りしばしばぶつかる。ヒトラーの寵愛を受けていたロンメルは直訴さえするが、ケッセリングは自分の面子は捨ててでも、関係改善(と見せつつ自分の思いを実現できる)策を講じていく。第四に軍事面では前線の要求(補給要請)に応えることに傾注する。これにはヒトラーの信頼と人間関係への配慮が相俟って、比較的スムーズに進み(絶対量は不足だが)、実戦部隊から高い評価をうける。第五は、目立つことを嫌う性格である。この点ではロンメルと対照的、ゲッペルス宣伝相とも相容れない。
このような資質はどのように育まれたのだろう?著者は、古い商家の家系(彼の父親は教育者だが)、負け戦(第一次世界大戦)における下級参謀将校としての苦労、新生国防軍成長期におけるゼクート将軍の指導(特に、新兵器を用いた用兵;既存の考え方・縄張りを取り払う柔軟な発想。だからと言って奇抜でない)、などをその要因として挙げている。
こんな人は民間企業でも出世すること必定!との感を持った。

6)ツール・ド・フランス
1903年に始まった世界最高峰に位置する自転車ロードレース。戦争による中断もあり今年は第百回の記念大会、昨日(629日)ナポレオンの出身地コルシカ島南端、ポルト・ヴェッキオをスタートし、七つの世界遺産を巡り、彼がアゥステルリッツ会戦勝利を記念して作らせたパリ・凱旋門を目指す3400km23日間の戦いが始まった。
このところ興味のある乗り物旅行記を見かけない。何か面白い本は無いか?こんな気分でいる時、この時期を狙っていたのであろう、本書の広告が新聞に載っていた。自転車は持っていないし、サイクリングや自転車レースにも全く関心は無い。しかし“フランス自転車旅行記”として読むのもいいかも知れないと考え購入した。読んだ結果は期待以上だった。
動機はスポーツ新聞の販売拡大のためだった。変速機も無い自転車で、パリ郊外をスタートしてフランスの町々を廻る2428kmのレース、ゴールもパリ市内ではなかった。優勝者は煙突掃除人、平均時速は25.7km(現在は40kmを超える)。しかし、新聞販売拡大策は大成功、ライバルに大差をつける。年々関心が高まる中で主催者は、タイムレース、ポイント制、山岳賞など各種スペッシャル・ステージや賞を設け、ルールを変えて、レース人気を煽る。スタート・ゴールは凱旋門になり、距離も5000km(現在は3500km前後)を超えるところまで延びる。
現在のツール・ド・フランスはチーム参加に限られる。参加チーム数は221チーム9人編成)の決定は、実績を基に国際自転車競技連盟が18チームを選ぶ。残る4チームはワイルド・カードと呼ばれ主催者推薦となる。ここは主催国のフランス・チームが選ばれることが多いようだ。チーム参加だがチームの中には序列があり、エースとそれをサポートする役割を担う者から成る(エース以外はステージに依って役割が変わる)。優勝は個人、総走行時間が最短の者が選ばれる。しかし、賞金は9人の選手全体で均等に配分される(個人優勝賞金は約75百万円)。
レースの面白さを文面から味わえるのは、なんと言ってもフランス・アルプスとピレネー山脈で繰り広げられる山岳レースだ。標高は2000m級の峠がいくつもあり、10%を超える急坂を昇り、下るのだ。昇りも大変だが下りのスピードは100km近くに達する。時には異常気象で雪の中を、また熱波で平野部でも多数の死者が出た暑さの中を激走していく。TVもここは最も視聴率が高くなるようだ。山岳ステージ優勝者は白地に赤い水玉模様のジャージ(マイヨ・ブラン・アポワルージュ)を誇らしげにまとう。山ではコロンビアやスペイン・バスク地方など高地居住者が強い。
この過酷なレースの総合優勝を5回もした超人が4人いる。3人はフランス人、あと一人はスペイン人だ。しかし、1999年から2005年にかけて米国人のランス・アームストロングが前人未到の7連勝を達成し、最多記録を塗り替える。一流のレーサーながら1996年患った睾丸癌を克服しての最初の勝利にフランス人は喝采を送った。しかし、連勝するうちにドーピング疑惑が噂されるようなるが判定はいつも白。その後はさしたる成績は残せず、2011年には引退する。昨年10月、執拗にこれを追及していた米国のアンチ・ドーピング機関が遂にドーピングをつきとめる。彼もそれを認め、自転車競技界からの永久追放、全ての記録は剥奪される(繰上げ優勝は無し)。
変速機開発におけるシマノの貢献、日本人選手の参加(1926年に在仏日本人が参加している。最近はチームのメンバーに入る日本人選手も出ている;100位以下だが)など日本との関わりも紹介されている。ツール・ド・フランス話題満載の本書はレースを楽しむ格好のガイドブックだ。
著者は自転車専門誌の記者を長く続けた後、スポーツ・ジャーナリストとして独立、単独でこのレースを毎年取材し続けてきた人。フランス語(仏文専攻)に通じており、情報にダイレクト観、鮮度が感じられるところがいい。
フランス人選手が優勝したのは1985年が最後、今年はどうなるか?にわかファンとして毎日レース展開を調べてみよう(本日(630日)よりNHKBS11800から毎日放映)。

(写真はクリックすると拡大します)

本日(7月1日)本欄でご紹介した「工学部ヒラノ教授」の文庫版が新潮社から出版されました。




2013年6月27日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-12


9.越前大野
馬返しトンネルを出てしばらく下ると、前に広い平野が広がる(実は盆地だが)。これなら米がとれそうだからかつては豊かだった違いない。町の入口辺りから道路は片道2車線、分離帯まである直線道路だ。前を行く宅配便は何故かゆっくりと左車線を走っている。一気に追い抜きたくなったが、ここは慎重に行こう。スピード取締りは無かったが、右側に警察署が在った。
エッソのSSを探すが市街地に入る前にJAが一軒在っただけで、他のブランドも見かけない。その内街の中心部に達してしまい、なかなか適当な駐車場所も見つからない。幸い町は平坦で道路は碁盤の目のようになっている。二度左折を繰り返して少し街の外縁に出ようとしたら、Pマークが現われ黒くて大きな木造家屋の先に広い駐車場があった。どうやら大型バス用のスペースのようだが端のほうには小型車も停まっているので、そのクルマに並べて駐車した。傍に立て看板があり、この先に“御清水(おしょうず)”や歴史博物館があると書かれている。目指すのは武家屋敷や寺町だったが、とりあえず御清水に向かうことにする。
説明によれば、御清水はこの辺りの武家屋敷や城の用水でかつては「殿様清水」とも呼ばれた由緒ある湧水、1985年に名水百選に選ばれたとある。この後歴史博物館は少し距離がありそうだし、あまりユックリする時間も無いので、駐車場へ戻っていくと、先の方に時計櫓が見え、どうも周辺は観光施設の雰囲気である。通りすがりの人に「武家屋敷はどこでしょうか?」と問うと道路を隔て駐車場の反対側を指差しながら「内山家はあそこです」と教えてくれた。大型バスの駐車場、道路を隔てた普通車の駐車場、時計櫓、何棟かの大きくて黒い板張りの家屋、ここら辺一帯は“越前大野結いステーション”と名付けられた、大野観光の基点・中心だったのだ。
最初に訪れた内山家は大野藩家老の屋敷で、城山の下に在る。木造2階建て離れや衣装倉もある、庭のきれいな大邸宅であった。室内はどこも見学可能で、往時の暮らしぶりをつぶさに見ることができた。西側正面の門を出ると、道路を隔てて平屋で横長の大きな建物が延びている。その先の山の上に大野城が見える。一体この建物は何だろう?近づいてみると、それは城や武家屋敷との景観を配慮して造られた小学校だった。
それでは結いステーションの周辺にある黒っぽい建物は何だろう?中心にあるのは土産物屋などが入る観光センターだが、他は商工会議所や体育館などで、街づくり全体が統一されたデザイン・コンセプトで進められたことが分かってきた。こう言う町は嬉しい。
次に向かったのは寺町。地図を見ると少し距離がありそうだ。クルマで移動することも考えたが、丁度学校の下校時間(今日は昼まで?)で、交通安全のおじさんがいたので道を聞いてみた。徒歩10分程度で行けることが分かったので、暑さの中を歩いてそこに辿りついた。一つの通り(寺町通り)の両側にお寺がつながっている。一つ一つの寺はそれほど大きくは無いのだが、これだけ数が集まると壮観である。気になったのは「こんな沢山の寺があって、皆経営が成り立つのだろうか?」と言う至って生臭い疑問だった。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:越前大野から永平寺へ)

2013年6月23日日曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-11


8.美濃街道を行く(2
新道と旧道が交わったあとはやや交通量が増えたものの、前後に時々見え隠れする程度で、マイペースで走れることに変わりはない。行き交う車は主にトラックやライトバン、それに地元の軽くらいだ。皆生活・仕事のために動いているところへ、一台だけ遊びグルマが入るのは何か申し訳ないような気もする。九頭竜ダムに向けて整備されたのであろう、雪囲いやトンネルは多いものの、曲がりも少なく道幅も充分で走りやすい。時々止まるのは、例の笹子トンネルの天井崩落事故の影響で、トンネル・チェックが集中的に行われている所だけだ。片側通行の整理をしているおじさんが、申し訳ないという表情で挨拶してくれる。
九頭竜川にはダムが二つある。上流側が規模の大きい九頭竜ダム、下流が鷲ダムである。九頭竜ダムは高さが128mあり、岩を積み上げるロックフィル・ダムである。この方式は美濃から日本海側へ流れる庄川を堰き止めている御母衣ダムと同じ方式で、どうもこの辺りの地盤はコンクリートでは支えきれないので採用されたらしい。コンクリートののっぺりした仕上がり比べ、表面が棘々した感じで、それが年月を経て濃い褐色(ほとんど黒)に変わり、木で葺いた巨大な寺院の屋根のような景観を作り出している。下の鷲ダムは近くの集落の水没を避けるために作られた揚水発電所用の比較的低いダムである。
どこの巨大土木工事でも政治絡みで巨額の金が動くのは通例だが、1962年に着工されたこのダムも池田総理への政治献金が国会で問題になり、秘書官や証言をしたジャーナリストが不可解な死をとげ、後に石川達三がそれを材料に「金環食」を書いている。走りながら断片的な記憶が蘇る。
ダムの下からは道路沿いに建物が少しずつ増えていき道の駅の周辺は平地もかなり広く、学校や農協などがあり、久し振りに町らしい雰囲気になってくる。しかし、広い駐車場にはほとんどクルマは無く、最近は土地の人達のショッピング・センター兼集会場所として活気のある道の駅の趣はない。
手洗いを探していると、案内板があり「トイレは駅の方にあります」と出ている。よく見ると鉄道の駅と一体になっているのだ。越美北線の終点、九頭竜湖駅がそこにあった。半世紀以上前にはこの線と長良川沿いを走る越美南線が越美線としてつながることになっていたようだが、ダム建設が終わってからはそれら既存の鉄道すら存続が難しいほど利用価値は減じている。いまや道の駅のほうが主役になってきているのだ。
駅前に面白いものがあった。恐竜親子の像である。それも動く仕掛けになっている。子供が母親に体を寄せると、母親は体をねじり、口を大きく開け、まるで我々外敵を威嚇するような仕草をする。何故こんな所にこんなものがあるのだろう?ガイドブックをみると、これから向かう越前大野のさらに北西、勝山と言う町で1980年代からかなりの量の恐竜の化石が出土して、そこに恐竜博物館があることが分った。しかし、ここからはかなり距離もあり、いまだに「何故ここに?」の疑問は消えていない。
次の目的地は越前大野。計画準備段階で大野の駐車場を調べると市営のものが何ヶ所かあった。ただ電話番号はみな同じ。多分市役所の所轄部門で、場所に直結した番号ではなさそうだった。嬉しいことに小さな市のわりにエッソ・モービルのSSが多い(6ヶ所;ちょっと多すぎる感じがしが…)。そこで駅に一番近いSSの電話番号をナビにセットすると「ピンポイントで見つからないので付近に案内します」ときた。今朝のゼネラル同様転廃業している可能性がある。次をやってみたが同じ、その次もダメ!4軒目もダメ!!道筋は単純なので、ナビの案内無しで、とりあえず駅を目指すことにする。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:越前大野)

2013年6月20日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-10


8.美濃街道を行く
515日(水)、この日は見所が多く、しかも今回のツーリングで唯一の山岳道路を走る。楽しみも沢山だが、諸事気遣いも多くなりそうだ。8時半にホテルを出発、ゴールの三方五湖畔の宿に5時半着の予定。天気は予報通り薄曇だが午後には晴れてくるはずだ。
今日のルートは郡上八幡で高速に入らず、しばらく越前街道(156号線)を北上する。この理由は10km足らずのところにゼネラルのSSが在るからである。昨日420km走っているので燃料計の目盛りは14より少し上(20l弱)、まだ150km位は充分走れるが、山道もあるので白鳥(しろとり)で美濃街道(旧道;158号線)に分け入る前に給油しておいた方が安心だ。宿を出るときナビでSSの電話番号を入れると「ピンポイントで位置を特定できないので付近に案内します」と出てきたが、ルート・プロファイルは予想通りなので以後の道案内を委ねた。
越前街道は長良川に沿って南北に走る。白鳥で富山(越中)方面に向かう白川街道(白川郷を通る)と福井(越前)方面に通ずる美濃街道に分れる。この街道名のつけ方は、ヨーロッパ大都市の鉄道駅名の命名法と似てちょっと面白い。これから向かう地方(都市)の名前を出発地方で使っているのだ(パリのリヨン駅、モスクワのレニングラード駅)。しかし、白川街道はそこを通るからそのように名付けられているわけで、上の例とは異なる。そう言えば日光街道、水戸街道は前者だし(江戸から見て)、熊野街道は後者の例と言える。
沿道は時々河原が広がって作り上げた平地の小さな町を通過していく。SSはこの街道沿いに在るはずだ。ピンポイントで辿りつけないことは分っているので道路の両側を注意していると「次の交差点を左です」と言ってくる。見ると郡上大和駅への入口である。左折すると先の方に駅舎のようなものが見えてきた。「駅前にでも在るのか?」と思っていると、再び「左です」と指示する。「何か変だな」とポツポツと民家の続く狭い道を行くと「この辺です。案内を終わります」SSどころか商店も無い。左折を2回して八幡の方に戻っているので、さらに左折路を探して街道に出る。再び北に向かい先ほど左折した駅への交差点をそのまま直進すると、ゼネラルのカラーリングをしたSSが左側に見えてきた。クルマを入れるとセルフのスタンドだ。E/M/Gのセルフなら“Esso Express”でなければならない。周りを見ると“ゼネラル”がどこにも無い。修理点検場所に人がいたので「ここはゼネラルのスタンドではないのですか?」と問うてみた。返ってきた答えは「以前はそうでしたが、いまは無印です」とのこと。WebHPには依然記載されているものの、かなり前にグループを離脱していたのだ。ナビがピンポイントでここを見つけられなかったのは、このような事情があったからなのである。
この近くにE/M/Gが無いことは分かっていたから、次の給油地は越前大野になる。幸い充分走れる距離だから、取り敢えず道の駅“九頭竜湖”をセットして走り出した。
美濃白鳥は八幡町同様いくつかの川が長良川に合流してくるので、かなり見通しのきく平地である。いよいよここから美濃街道が始まるのだ。この道は概ね東から西へ、白山山系を横切るのだが、岐阜県側が急傾斜で立ち上がり、なだらかに福井平野に下っていく。最高地点は白鳥から4km程度の所にある油坂峠(岐阜と福井の県境;750m)なので、取り付きは、高速からつながる新道はループで高みに上るとあとはトンネルで抜けるのでこの高さに達することは無い(トンネルも大きくS字を描いているが)。しかし旧道は九十九折で峠まで上るのでヘアピンの連続だ。途中に集落は全く無いから、わざわざ旧道を走るクルマは全く無く(紀伊半島などではこう言う旧道は閉鎖れていることが多かった)、唯我独走を楽しめる。気になるのはガソリンの減り具合くらいで、トンネルを抜けてきた新道と合流するまでハンドルさばきと加速・減速を堪能した。
合流してしばらく進むと、左側に九頭竜川を堰き止めて出来た九頭竜湖が現れる。天気も晴れに変わり、暑ささえ感じる。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:美濃街道を行く;つづく)

2013年6月18日火曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-9


7.シティホテル吉田屋
ホテルへのチェックインは4時過ぎだった。玄関前のBrabus Benzはどこかへ片付き、川崎ナンバーのクルマが隣に止められていた。フロント・ロビーに入ると誰もいなかったが、直ぐ奥から和服の中年女性(おかみさん)が現れ、チェックイン手続きを済ますと、ロビー奥につながる風呂の説明をしてくれる。どうやら大浴場ではなく(客が多い時のみオープン)、個人用で空いているときに入る方式らしい(中から鍵をかける)。次いで建物の全体説明。ロビーの右が古くからある旅館、左側がホテル。ホテル側の一階は“美濃錦”と言う料理屋で、明日の朝食はここで摂るとのこと。
一緒にエレヴェータで3階に上がり部屋へ案内してくれる。部屋は北東の角で部屋から西日に明るい八幡城が望める。部屋の広さはビジネス・ホテルのツインに比べてかなり広く、ベッドもセミ・ダブル、圧迫感が無いのが良い(後で非常口案内図を見るとホテルは9室で、この部屋が一番大きかった。なお旅館の方は6室である)。
この部屋にもユニット・バスがあるのだが、やはり広い風呂に入りたい。早速下の風呂へ出かけてみると残念ながら先客がいる。おかみさんに連絡を頼み一旦部屋に戻る。20分くらい経って連絡が入る。出かけてみると、数人は入れる広さがあり、ゆったり出来るのだが、6時からの夕食なのであまり余裕が無い。ここがこの宿の唯一不満が残ったところである。
ホテルを予約する時、始めは宿・食分離を考えたが、町の食事処案内を調べると、結局料理もここが一番評価が高かったので、2食付のプランにした。旅館側に泊まると食事は“いろり部屋”で摂るとなっているが、ホテルの場合は2階の料亭個室になる。降りていくと仲居さんが部屋に案内してくれる。幾部屋かあるようだが、人の気配はしない。ホテルの宿泊客は遅いチェックインか食事不要なのかもしれない。
「お飲み物は?」の問いかけに、日本料理が売りの所だけに、一瞬“地酒”と思ったが、長丁場のドライブと暑い日中の街歩きで生ビールを所望したが「まだやっていません」の返事。鮮度が勝負の生は客の少ないこのシーズン、ここまで運ぶ輸送費も考えると商売にならないのだろう。止むを得ずビン・ビールで我慢する。
料理はさすがであった。先ず、一つ一つタイミングを見て運んでくる。これができない日本旅館が最近は多い。食材はシーズンであれば鮎が中心(塩焼き、味噌煮、刺身、雑炊など)となるのだが生憎解禁になっていない(6月中旬)。代わりに鯉の洗い、あまごの塩焼き、山菜のてんぷら、鯉と野菜の炊き合わせ、ゴマ豆腐、飛騨牛のミニ・ステーキ、それにここの起源ともいえるうなぎの蒲焼などほとんど地元の食材を使った料理である。蒲焼は関東風に蒸してから焼くスタイルではなく、生から確り焼き上げる方式なので、やや皮が硬く、好みとしては今ひとつだったが、これもその土地を知る上では悪くなかった。2時間かけた夕食の後は一日の疲れがどっと出て、爆睡するだけだった。
翌朝朝食を摂りに“美濃錦”に出かけると、夫婦連れが一組、ビジネスマンらしい人が二人、別々に食事を摂っていた。我々の後から若い女性の二人組みがやってきた。多分昨晩泊まった客の全てであろう。朝の給仕をしていたのは、フロントで対応してくれたおかみさん一人、旦那はどうも厨房にいるらしい。オフシーズンは、昨晩の仲居さんを除けば、ほとんど二人でこの旅館・ホテルを切り盛りしているに違いない(料亭の板前は別にいると思うが)。家族+αでさっぱりしたサービスと美味しい料理を供してくれたここを選んだことは正解だった。
チェックアウトの時、旦那に例のBrabus Benzのことを聞いてみた。「実は実家が外車ディーラーでして」が答えだった。あれこれ乗り継いでこれに至ったのだそうだ。「話の続きを聞きに今度はシーズンに出かけたい」そんな気分にさせてくれる宿だった。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回:美濃街道を行く)

2013年6月16日日曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-8


6.郡上八幡(2
吉田川を学校橋で北側に渡り、今度は北町と呼ばれる地区を巡ることにする(前回の地図参照)。宿で教えてもらった名所は、安養寺と言う古寺とその周辺の古い町並み、その西に在る博覧館と名付けられた郡上踊りの演舞場と物産館が一体化した建物、さらに西に在る、職人町・鍛冶屋町などである。
古い町並みと聞けば、訪れたことのある馬篭宿・妻籠宿(長野)、角館(秋田)、高山(岐阜)などが思い浮かぶ。川に沿う道をしばらく西に歩いていくと道路際に石碑とその説明を書いた立て札がある。読んでみると歌人折口信夫(釈超空)が大正8年(1919年)8月にこの地を訪れた時に詠んだ歌とある。「焼ヶ原の、町のもなかを行く水の、せせらぎ澄みて秋近づけり」 説明文を読んでみると、この年の7月に川の北側で大火があり、一面の焼け野原になってしまっていた。前から民俗学者の柳田國男にこの地を訪問するよう勧められ、8月に来てみたら水の流れは変わらぬものの、あとは焼け野原しかなかったわけである。
と言う訳で、“古い町並み”とは言ってもそれ以降に建てられた家々である。それでも大正後期から昭和初期のものが多く、独特の景観を作り上げている。一般家屋も職人の住いも共通しているのは、長屋形式で軒が長く張り出し、それを支えるように各戸毎に壁面から斜めに壁が軒先に向けて延びていることである。これで隣の家とのプライバシーは適当に保てるが、本来の目的は何なのだろう?いまだにこの解は得ていない(いずれ登場する越前大野でも、こんな形式を見かけた)。
歩きっぱなしで小休止したいが、お休み処は現れない。自動販売機でもないかと探すが、景観を慮ってか全く見かけない。チョッと辛いが良いことである。安養寺は大きな寺だが前から眺めるだけ失礼した(最近この寺が信長の天下統一に重要な役割を果たす所であることを知った・・・蛇足参照)。博覧館は夏にしか見ることのできない郡上踊りのミニ版を観光客向けに演ずる所で、3時が最終のため入場は締め切られていた(見るつもりもなかったが)。近くには観光バスも止まれる広い駐車場(城下町プラザ)もあり、休憩・食事の店も集まっているので、その一ヶ所で一休みすることにした。中国人の団体やおばさんのグループなどが出入りして、町を歩き始めた時よりは人出も多くなっている感じだ。この後はどうやら下呂温泉に行くらしい。今のシーズン、ここへ泊まるよりはその方が良いだろう(こちらは翌日の行程を考えてここにしたが)。
休憩後職人町へ向かう途中食品サンプルの店が多いことに気がついた。サンプル工房、サンプル・ヴィレッジなどと書かれた看板が掲げられ、ショーウィンドウの中には本物と見紛う料理や食材が並んでいる(右)。食品サンプル発祥の店(岩崎という店で、滝三という人がこの世界の始祖であるとの説明書きがあった;左下)などと称しているものある。帰宅後調べてみると、なんと食品サンプルの約60%はここから出荷されていることがわかった。
残る見所は八幡城だがここへはクルマを出さなければならないし、時間も4時をまわっていたので下から眺めるだけにした。
地方の町を訪れるといつも自問するのは「ここはどのようにして生活していくのだろう?」と言うことである。八幡町の場合、この地方の中心都市なので各種行政機関が在るものの、田畑の全く無い山間の狭隘な平地に14千人(市全体では4万人強)が暮らす。名古屋からは高山本線や名鉄と長良川鉄道(越美北線、第三セクター)を乗り継いでつながるが、それも12時間に一本の不便な土地である(特急を利用しても2時間強かかる)。それでいて貧しさなど微塵も感じさせない(豊かさもほどほどだが)。観光?食品サンプル?不思議な所であった。

蛇足:数日前読み終えた「鉄炮伝来」(宇田川武久;講談社学術文庫)に、戦国時代の急速な鉄砲普及が紹介され、浅井・朝倉攻めに先立ち信長がこの地方を治めていた土豪、遠藤一族に送った朱印状(動員令)の話しが出てくる。この尚々書(なおなおがき;付帯事項)に鉄炮を持って参加するよう但し書きがある。それを受けて遠藤胤俊・慶隆が安養寺に“玉薬(火薬)”を求める書状を送っている。安養寺の広い床下では、古土法(暗所に450年寝かされた土には硝酸塩が含まれる)による硝石が生成し、これで火薬(硝石、硫黄、炭を混合して作る)を作っていたのだ。つまり安養寺は織田軍の火薬廠だった訳である。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回;シティホテル吉田屋)

2013年6月12日水曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-7


6.郡上八幡(1
ホテル・旅館共通の玄関前駐車スペース置かれているクルマはダークブラウンのBrabus Benzだ。Brabusとはダイムラー・ベンツ公認チューンナップ・メーカーの一つ。有名なのはAMG(アー・マー・ゲー)であるが、これは完全な子会社で、わが国ではヤナセなどで扱われている。しかしBrabusは二人のドイツ人(BRAckmanBUSchmann)が始めた個人企業、三井物産が輸入総代理店で、独立系の外車ディーラーを通じて販売されている。都会でも先ずお目にかかれない珍しいクルマを「こんな鄙で!」と驚かされる。
チェックインが3時からであることは承知していたが、明るい内に街を見物する予定なので、着いたことの確認と観光情報を求めて早速館内に入る。誰もいないフロントに声をかけると、大きな犬が顔を出した。直ぐに奥のオフィスから40代と思しき男性が現れ、犬をオフィスに下がらせ、対応してくれる。どうやらオーナーらしい。ガイドマップにマークを入れながら観光スポットを説明してくれる。「小さな街なので、山上にある城めぐりを除けば、歩いて2時間位で充分廻れます」とのこと。早速強い日差しの中、散策に出かけた。
郡上市は平成16年に八幡町周辺の町村が合併してできた福井県境間まで及ぶ広い市だが、中心となる八幡町は、北から南へ流れる長良川沿い広がった山間の平地部で、市街地だけで田畑はほとんど無い狭い街だ。それでも16世紀には城が築かれた歴史を持つ古い城下町。春の桜、夏の郡上踊り、秋の紅葉には観光客が集まるようだが、このシーズンは特別な催しもなく季節を演出する自然もない。おまけに木曜日は定休日の店も多いようで、街は閑散としている。こんな時でも変わらないのは古くから在る用水路だ。事前に調べた情報でも“水の街”とあるし、フロントの案内でも水に関する所が多かった。
先ず訪ねたのは宿から最も近い“宗祇水(そうぎすい;環境庁選定「日本名水百選」第1号)”と呼ばれる、室町時代から続く湧水利用場所だ。段差になった四つの石造りの水槽は、上流から飲料、米磨ぎ、野菜洗いなどと使い分け、最後は長良川の支流へ流れ落ちる。ここへの路地だけが何故か人が集まって賑やかだ。近づいてみると中国人観光客だった。こんなチマチマした観光スポットを彼らはどう感じているのだろうか?(左上)
次は八幡町を貫く吉田川(先で長良川に合流)を渡り、これも用水が流れる“やなか水のこみち”へ向かう。この付近は小さな美術館なども在り落ち着いた雰囲気が良い。(右上)そこから一旦街の中心部に戻り東に向かうと、古い木造の旧八幡町役場(観光案内所)があり(左)、その脇をさらに東に向かって“いがわこみち”と呼ばれるかなり長い用水路に沿った道を行く。ここには鯉や名の知れぬ淡水魚が泳いでいて、水が名物の景観を楽しませてくれる。(右下)
この小道を出てしばらく行くと八幡小学校に突き当たるので、北へ折れて吉田川を跨ぐ学校橋”と名付けられた橋を渡っていると、“ここからの飛び込みは慣れぬ人には危険です”と言う看板が立っている。思い出したのは夏になると風物詩としてTVなどで紹介される、子供たちの飛び込みシーンである(飛び込んでいいのは一つ下流の新橋)。下を見ると深い淵になっているが、直ぐ横には岩が見え隠れしている。高さは7,8mあり、“慣れぬ人”どころか地元の人でも死につながる恐れも充分ある。“飛込み禁止!”とすべきだろう。それとも学童はいいのだろうか?これでマークをしてもらった水周りは一巡。次は街中を見て歩くことにする。
(写真はクリックすると拡大します)


(郡上八幡;つづく)

2013年6月8日土曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-6


5.郡上八幡へ向けて(2
景色の良い新しいSA30分ほど過ごし、ここで今日の最終目的地、郡上八幡のシティホテル吉田屋をカーナビにセットする。事前にナビタイム(PCソフト)で決めたのと同じようなルートが現れたので、プロファイル(通過道路名)で確認すると、PCで選択された東海環状道路経由ではなく、名神に入り一の宮JCTで東海北陸道へ入る道筋を選んでくる(地図上ピンクがPCナビタイム、黄色がカーナビ指示)。次の候補を探しても東海環状道路は出てこない。選択ロジック(最短距離、最短時間)は変わりないはずなのだが何故だろう?優先順序が違うのだろうか?それとも料金に違いがあるのだろうか(そんなはずは無い)?こんな疑問は残ったが、カーナビの第一案がオリジナルの到着時刻に近かったので、この案を設定した。東海環状は一度も通ったことが無いので未練もあったが、問題もあった。直近のSAが美濃賀茂で相当距離があり、昼食が1時過ぎになるのだ。
新東名を走り出すと、昨年の開通時に比べややトラックが増えているものの、それほど混んでいない。道路幅も広く、カーブの曲率なども走り易く作られているのに、距離の違いや高低差が燃費に影響するから避ける車が多いのだろうか。幸い原因不明の“ドン”も消えて、クルマも道も走りを楽しむには持って来いのコンディションだ。今のところこの道には(多分)速度自動取締り機は設置されていない。しかし、パトカーの出没頻度は高く、専用のUターン場所もある。前車を追い抜くために追越車線を飛ばしていると遥か後方に何やら迫ってくるクルマがいる。遠方からだと工事屋のライトバンが屋根にはしごでも載せているように見える。しかし、チョッと背が低い。用心のため走行車線に戻ると、白黒に塗り分けられた静岡県警のパトカーが追い越していった。しばらく誰も追越車線へは出ない。
山間から下り降りると三ケ日JCTで東名に合流し、三車線びっしりのトラック街道に戻る。この状態は豊田JCTまで続き、かなりのトラックはここで伊勢湾岸道路に分岐していく。多分名古屋を迂回するルートとしてはそちらの方が短く、新名神へ抜ける方が走り易いのだろう。JCTを出て直ぐの所に上郷SAが在るので、我々はそこで昼食にする。時刻は丁度12時、距離は310kmであった。無論食べたのは“(海老天)きしめん”(680円)である。
40分ほどこのSAで過ごし、再び東名に戻る。ここら辺りは一度も走ったことの無い区間なので専らナビが頼りだ。特に、東名・名神と中央道が交わる小牧JCTは要注意。それを抜けるとチョッと余裕が出てくる。取締り機やパトカーに気を配りながら追越車線に出る。前車に追従していると後方に赤く平べったいクルマが迫って来る。フェラーリか!?相当速いので車線を譲ると、何とレクサスLFAだ!世界500台限定販売(アッと言う間に完売)、4千万円は日本の量産車として断トツの高価格車、実車を見たのは初めてである。さすがトヨタのお膝元。今回のツーリングでの“オッ!”第一号である。
一の宮JCTで東海北陸道に入る。しばらく市街地高架の片道2車線だが交通量がガクッと減る。各務ヶ原を過ぎると山がちになり長いトンネル(各務ヶ原トンネル;3km)が現れる。抜ければ山の中。陽光に映える新緑の木々が美しい。美濃関JCTでオリジナル案の東海環状と交差する。トンネルの多い道を、偶に前に現れる土地のクルマを一気に追い越しながら、クルージングを楽しんでいると間もなく郡上八幡ICだ。古い市街地を走るときによく起こるのだが、このナビはどうも走り易さを全く考慮せず、ひたすら最短を目指すらしい。「何故こんな狭い道を!」と思っているうちに吉田屋の前に出た。到着時刻は計画通り丁度午後2時、家からの距離は424kmだった。駐車スペースの隣に“オッ!”第二号が居た。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回;郡上八幡)

2013年6月6日木曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-5


5.郡上八幡へ向けて(1
一週間前からの予報どおり、514日(火)の朝は晴れだった。今日の行程は約420km、ほとんどが高速を走ることになる。自宅からの乗り口は横浜・横須賀(通称横々)道路と湾岸道路をつなぐ中間点に在る堀口能見台、ここまで500m程度一般道を行くだけだ。自宅出発は750分。この時間帯は都心への通勤で混むはずだが、横々の走行車線はつながっているものの、追越車線は比較的空いている。しかし六ッ川料金所を過ぎ保土ヶ谷BPに入ると三車線とも流れているものびっしり埋まってくる。特にトラックが多い。比較的速く走れるのは追越車線だが、東名への分岐は一番左側の走行車線になるので最初は真ん中の車線、本村を過ぎる辺りから左車線に移る。下川井を過ぎる辺りから右2車線は16号線合流で渋滞が始まり、むしろ左車線の方がスイスイ進む。この辺りはしょっちゅう走っているので、読みどおりだ。
横浜町田ICで東名に入る。どの車線も車が数珠つながりだが渋滞しているわけではない。しばらく幹線高速に慣れるため真ん中の車線を走る。東名を西に向かうときはいつもそうなのだが、最初の休憩地点は自宅を出て1時間強の足柄SAを目指す。ここまではカーナビも使わない。やや空いてくるのは厚木ICを過ぎてから。ここからは追越車線はかなり飛ばせるのだが、一ヶ所速度自動取締り機があるのでそれを過ぎるまでは要注意だ。我慢して追越車線には出ないようにする。
横々・保土ヶ谷BPを走っていたときにも起こっていたのだが、時々不規則に軽い“ドン”と言う音が背中の方でする。寒くなってからはこの車を動かすのも2,3週間に一度三浦半島ドライブをする位、久し振りに乗ると偶にこの音がするのに気がついていたが、走りに異常はないし乗っているうちに治まってくるのであまり気にしてはいなかった。しかしこの朝は自宅を出てからかなりの距離を走ったにもかかわらず厚木を過ぎても相変わらずドンとくる。先が長いのに嫌な出だしだ。真ん中の車線を走り続けたのは、このことにもよる(この事象は、今回のツーリングではやがて消えていくが、その後も全く無くなったわけではない。近く本格的に原因究明に入る予定だ;点火ミス(点火プラグのさびなど)によるミスファイアか?)。
少し靄って入るが晴れた空に富士山が一段と美しい。足柄SAでそれを見ながら一休みしようとランプ(誘導路)に入る。よく利用しているSAなのに一瞬判断を間違え、大型車のエリアに入り込んでしまう。どこかで小型車エリアへ移る道があるはずだと思ったが、完全に敷石で区切られている。大型車エリアに空きは充分あるので、停めてもいいのだが、フッと昨年春に開通したばかりの新東名を走ったとき、駿河湾沼津SAへ立寄った際、平日にもかかわらず満車で休めなかったことを思い出し、そこへ向かうことにする。
今度は充分空いていた。前回はここの駐車場をしばしうろついた後、次の静岡SAで休むことになるわけだが、山間で眺望は全くきかず失望した。今度は違っていた。気温が高くなってきているので薄く霞がかかっているものの、沼津市内から駿河湾、その先の伊豆半島まで見渡せる眺めは、旧東名を含めこの道筋一番の景観と言っていい(ただし富士山は見えない)。駐車場がいっぱいになっていた理由は、この景色を見れば当然と納得した。
ここのコーヒー店は上島珈琲の経営である。眼下の富士市に工場が在り、現役時代IBMの営業と一緒に訪れたこともある。良い香りのする淹れたてのコーヒーをテラスで味わいながらそんなことを想い出していた。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回;郡上八幡へ向けて;つづく)