2010年5月31日月曜日

決断科学ノート-41(トップの意思決定と情報-1;内部情報と外部情報)

 このノートは「経営における意思決定の場で、IT・数理の利用を更に高めるには如何なる環境醸成が必要か」をまとめるための、素材やヒントを記録するために書いている。前回まで連載した“工場管理情報システム作り”では、課題の意思決定が迷走するプロセスを例示した。これからしばらくはトップ(必ずしも経営者ばかりで無く、政治家や軍事指導者を含む)が課題を“決断するために要する情報”について書いてゆく。
 1981年5月、当時川崎工場勤務だった私に「本社トップ向け経営情報システム開発検討の指示が出たので出てきて欲しい」との連絡があった。この時期和歌山や川崎の工場管理システム、プラント運転のための次世代システム、中央研究所におけるラボラトリー・インフォメーション・システムなど、多くの情報システムが開発あるいは運用をはじめており、関連案件稟議決裁か何かの折に、社長が「ぼつぼつ本社の経営者に資する情報システムも要るんじゃないか?」とつぶやいたことに端を発する話であった。この話はやがてTIGER(Tonen Information GEneration and Retrieveの略、彼が工場時代しばしば大声で咆哮するところからタイガーと綽名されていたことにおもねてつけられた)プロジェクトとなり、9月に本社へ転任するとそれを担当することになる。今回の話はこのプロジェクトそのものの紹介ではなく、初めて体験した経営トップと情報(システム)の関係についてである。
 工場に長く勤務していると工場幹部の日常の意思決定に必要な情報は見当がつく。いや非日常的なこと(運転異常や事故など)でもおおよそどんな情報がカギか想定できる。また、親しく話を聞くことも可能である。その点では実戦部隊は上から下まで一体である。しかし、本社経営陣に関わる情報ついては、担当業務として生産活動に関するLP(線形計画法)モデルによる生産計画の検討などがあるが、これはスタッフが運用し、結果を整理して情報提供している。直接的な数値・情報は稟議などの案件に関する特定情報を個別に準備することと定期的な情報提供(工場の生産実績や一般的な経営指標、新聞記事など;これらも実態はそれぞれの主管部門スタッフが解説する)くらいしか思い浮かばない。これは本社勤務経験がそれまで無かったこととはあまり関係なく、本社のベテランでも明快にトップの必要情報を提示するのは容易ではなかった。それは工場と違い、本社役員の扱う懸案事項が外部(取引先を含む)の環境変化に影響される部分が大きいことに因るからなのだ。
 つまり工場管理では内部情報(特にプラント運転情報)が主体になるのに対して、本社の経営管理では外部情報(例えば原油価格、為替レート、金利、タンカー運航状況、短期エネルギー政策、他社プラントの操業状況(事故など)、調達予定機器の価格)がより大きなウェートを占めるわけである。そしてこの外部情報は、定型的・自動的に収集できるものは少なく(標準的な原油価格や為替レートくらいは集められるが)、役員の性格やバックグラウンドによってその任に当たるスタッフが種類・質・量を慮り、提供方法を工夫して、その用に資するものである。
 それでも役員と頻繁に接触のある本社部課長にヒアリングし、“群盲象を撫でる”ようにして第一段階(内部データ、定例一般報告)の役員用情報システムを作り上げた。導入当初は物珍しさもあってまずまずのアクセス数だったが2,3ヶ月もすると全く使われなくなってしまった。
 1960年代末期、企業にコンピュータが導入され、ルーチン・ワーク(販売実績処理や経理処理など)への適用が軌道に乗ると、MIS(Management Information System)という三つ文字が賑々しく登場した。これからは経営者がコンピュータを使うのだと。これは当時の技術や経済性の観点で、一定期間(日、週、月)を対象とするバッチベースの“実績情報分析”の一部に留まった。その後も類似のシステムが一時話題になっては消えていった。それは技術的問題よりは、経営者が意思決定に必要な情報を絞り込むことの難しさと必要な外部情報入手がITの及ぶ範囲を超えたところに在ることに因るからである。真に経営判断に資する有効な情報システム構築は、インターネットが普及し、かなりの外部情報が収集し易くなった現在でも、まだまだゴールは遠い。
(次回予定;トップの情報リテラシー)

2010年5月28日金曜日

奥の細道ドライブ紀行-1(計画立案-1)


 芭蕉が深川の庵を発ち、東北・北陸の旅に出たのは元禄2年3月27日、新暦では1689年5月16日である。ほぼそれと重なる5月12日早朝家を出て、3泊4日で山形・秋田方面を駆け抜けた。東北地方だけで3ヶ月もかけた往時の旅とは比ぶべくもないが、大きな都会をほとんど含まないルートは、随所にあの紀行を偲ぶ情景が残されていた。総走行距離1500kmのドライブ行をしばし振り返ってみたい。
 久し振りの長距離ドライブに出かけようと思い立った時“おくのほそ道”は念頭になかった。あったのは「秋田へ行こう!武家屋敷の残る角館は是非行きたい」である。全国都道府県の内、未だに足を踏み入れたことの無い所は本州では秋田県を残すのみである(その他に九州の長崎・佐賀・熊本の三県を訪れたことがない)。自らハンドルを握って走ったことの無い県は、青森・秋田・山形。秋田へ行けば山形も通る。青森県はむつ小川原備蓄基地にに駐在していた友人のクルマで周っているので、それほど執着するところがない。
 私にとって、旅の楽しみの過半は計画立案にある。だから、海外でも国内でもツアーにそのまま参加することは論外である。その点自分の車での長距離ドライブは完全にテーラーメイド、あらゆる希望を盛り込むことが可能だ。しかし、実際には制約や条件・希望があり、自ずと実行案は絞られてくる。先ず日程である。時期を連休明けにできることは引退者の特権だ。出来れば未知の地を走るのだから、昨年の紀伊半島ドライブ同様4泊5日にしたい。これに対して家内の希望は3泊4日だと言う。理由を質したわけではないが、高齢の両親への気遣い、乗り物にあまり強くない体質がその背景にあるようだ。
 4泊をベースに考えている時は、関越か磐越自動車道で新潟に出て、そこからひたすら日本海を左手に見ながら北上し、一日の仕上げは美しい夕日を楽しむ案だった。しかし、この地方に詳しい自動車ディーラーのセールスマンは「新潟から秋田まで海岸風景はほとんど変わらないのでお勧めではありません。山形・秋田を走るなら内陸部のほうが面白いですよ」と言う。宿泊数が3泊になったことを考慮すると、山形の日本海側で1泊、秋田で是非訪れたいと思っている角館周辺で1泊、帰りは宮城か山形の山間部で1泊と、おおよその宿泊地の見当を付ける。
 初日は出来るだけ走りたい。そのためには自動車専用道路が延びているところが好ましい。東北道と山形道で到達できる酒田がこうして決まる。後の二ヶ所は温泉にしたい。角館の近くでは乳頭温泉が最も秘湯感覚のようだ。最終日は山寺(立石寺)を観光した後蔵王エコーラインを走って帰宅する。その条件から3泊目は銀山温泉が最有力になる。この段階では、銀山温泉が“おしん”や“千と千尋の神隠し”に登場する場所とは全く知らなかった。
 ルートは、長距離ドライブとなる初日と最終日は自動車専用道路、他の日は一般道路(県道か二桁・三桁の国道)にして、運転を楽しむことと地方の生活に身近に触れることを主眼に置くことにする。 計画の骨子はこうして決まった。見ると、首都高湾岸線は深川を通り、東北道では那須のサービスエリア(SA)や白河ICがある。山形道では月山の麓を通り最上川の河口酒田に至る。秋田から奥州中央部戻る道筋では鳴子に寄って大石田をかすめるし、最終日は立石寺にも寄る。宮城・岩手を除けば奇しくも“おくのほそ道”の舞台が随所に出現する結果になった。(つづく)

(写真はダブルクリックすると拡大します)

2010年5月22日土曜日

遠い国・近い人-4(黒い戦略家-1;-パキスタン)

 艶のある黒い肌、中背で痩せぎす、大きな目が印象的だ。雰囲気がアフリカ系アメリカ人とは異なる。姓はAhmadだが皆パシャ(Pasha)と呼んでいる。名刺にもメールIDにもPashaが使われている。しかし、どうもこれは本名ではなくニックネームではないかと今でも思っている。それは彼が一時期トルコで働いていたことがあるからだ。かの地では、近代化の父、ケマル・パシャのように高位・高官の尊称としてパシャが使われる(パシャの本来の位置は姓の後だが、彼はミドルネームとしている)。訳せば“閣下”と言うところであろう。彼の立ち振る舞いがそれを髣髴させるので、そんな愛称が付けられ、本人も気に入って今に至っているに違いない。
 パシャと初めて会ったのは2002年サンフランシスコで開催されたOSIソフトウェアのユーザー会である。この時、ユーザー会とは別に販売パートナーを対象としたDistributors Meetingがメンバーを限って開かれ、彼がこれからの販売戦略についてプレゼンテーションを行った。いつもはシステム寄りの戦略を聞かされることが多いのだが、この初対面の男はユーザー智見に基づいた販売戦略を披瀝した。ユーザー出身である私にとって大変印象深い話にすっかり魅了された。休憩時間、少人数の会議ゆえ直ぐに彼と話す機会がやってきた。どうやら事前に参加メンバーの情報を集めていたようで、こちらが自己紹介すると「SPINのMadonoさん?日本でのパイのビジネスの話はパットから聞いているよ。上手くいっているようだね」とレスポンスが返ってきた。気分の良い出会いであった。
 彼はパキスタンの出身。高校卒業後アメリカに渡りMITで制御工学を専攻、スタンダード石油インディアナの流れを汲むAMOCOに就職。そこが英系のBPに吸収され、OSIに参加するまでAMOCOの技術センターや英国、トルコでの勤務も経験した国際人だった。その時の経験を生かして、これからOSIの産業別戦略策定・推進を担うのだという。会議で話を聞いていてピントが合ったのはこう言う背景が在ったからなのだ。
 このユーザー会議期間中、彼とは何度も話す機会を持った。そんなある時、SPINが今は横河資本の下にあることを知ると「AMOCO時代横河が訪ねてきて何人か知り合い出来たよ」と役員経験者のOKDさんやTMTさんの名前が出てきた。ご両人とも私も懇意にしている方々である。親しい共通の友人・知人ほど強い接着剤はない。これでパシャとは一気に旧知の友人のようになってしまった。
 その年8月日本のユーザーを対象にしたOSI技術セミナーを開催するに当たり、彼にプレゼンテーションを依頼したところ快く受けてくれ、セミナー成功の決め手となった。これを機会にOSI起業者でCEOのパット以外に気脈を通じる心強い仲間が出来たことを喜んだ。(つづく)

2010年5月17日月曜日

遠い国・近い人-3(大粒の涙-2;インド-2)

 そのバーは僅かなソファー席と長いカウンターで出来ており、既に30人くらいの客でいっぱいだった。もちろん全て男。どうやらここはメンバー制らしく 、客の中にはナラヤンさんの知人も居る。外国人は日本人二人だけ(YMT部長と私)。遠来の客のために皆で詰めあい、何とかカウンターに3人分の隙間を作ってくれた。他の客同様飲み物と乾き物(ナッツなど)で、技術会議や先ほど観たインド舞踊を材料に歓談を始めた。やがてソファー席の客が立ち上がると、皆は我々に気を遣い席を勧めてくれた。
 席に落着くと、ナラヤンさんからインド初訪問の感想を聞かれた。紙幣を見せながら「一つのお札にこれだけ多種の言語で、その価値を表さなければならないなんて、大変ですね」と言ったところ、「インドの広さを解かっているかな?」「普通の地図では、赤道付近に比べ南北極地へ近づくほど地面は実際よりも広く描かれる。一見小さく見えるインドの広さは、北欧と西欧を加えた広さに匹敵するんだよ」「そのヨーロッパにどれだけの言語と通貨があるか考えてごらん」「決してインドは複雑で特別な国ではないんだよ」 インドに対する認識を根底から覆された一瞬であった。
 話題はやがて私の生まれ育ちに転じ、満洲(Manchuria)で生まれ、彼の地で小学校に進み、夏休みにソ連侵攻があり、その後中共軍の統治を経験して、翌年日本へ引揚げたことを語った。話が進むにつれナラヤンさんの表情が次第に変わり、話に強く惹かれている様子がうかがえた。一区切りついたところで「全財産を失ったのか?」と聞いてきた。「一人一個宛て許されたリュックサックに詰められる範囲だった」「帰国直後、短期には親戚の援助もあったが、それからしばらく両親の苦労は大変だった」 彼の顔に「そうだろうな」という気持ちが表れていた。
 私の答えを引き取るように彼が話し始めた。「インドのパーティションを知っているね?」 一瞬何のことか解からなかった。“パーティション”で知っているのは、コンピュータ記憶装置の境界域管理かオフィスの間仕切りくらいである。しかし、続けて語る彼の話から、それが1947年のインド独立時における、パキスタンとの“分離”を意味する言葉であることが解かった。
 彼の家系は古くから、現在のパキスタン領に住んでいた。宗教はヒンズー教、家は豊かでその地方の名家、恵まれた環境で育った。この分離の年、彼はボンベイ(現ムンバイ)の技術専門学校(カレッジ)へ進み、故郷を離れ一人で下宿生活をしていた。当初はただの国境線制定、住民の生活に急な変化は無いようにみえたが、やがて宗教の違いからくる諍いが各地で起こり、ついにカシミールを巡る戦争にまでエスカレートしてしまう。イスラムの国となったパキスタンではヒンズー教徒への圧迫が一段と厳しくなり(当然インドのイスラムも同様)、ついに彼の両親・弟妹は着の身着のままで父祖の地を追われ、狭い彼の下宿に逃げ込んできた。その時から始まる家族の悲惨な生活、全てを失った無念の思いが、私との会話を契機にほとばしり出てきた。「それまで皆仲良く暮らしていたんだ。それが人工的な分離策によって一気に崩れてしまったんだ」 話し終わった時、彼の大きな目から大粒の涙が溢れ、黒い肌を滴り落ちていった。
 民族分断・難民体験は終戦後の引揚げを除けば、日本人に経験の無いことである。一方でアメリカ合衆国(言わば難民が作り上げた国)を始め、世界の国家・民族はこれが当たり前の歴史とも言える。
 あれから四半世紀、国際紛争で何か事が起こるたびに、あの一粒の涙が思い起こされる。
(大粒の涙完)

2010年5月11日火曜日

遠い国・近い人-2(大粒の涙-1;インド)

 1986年9月横河電機から、インド科学技術省が主催する、DCS(Distributed Control System;分散型ディジタル制御システム)に関する国際会議で、東燃における利用例を発表して欲しいとの要請があった。この頃、インドでは国産技術利用の縛りが外されつつあり、石油や石油化学で先端技術の導入が始まっていた。現在の経済成長が始まる夜明け前である。この会議のスピーカーはユーザーに限られており、横河独自で発表は出来ないのだが、何とかこの機会を利用して存在感を示したいと協力を求めてきたのである。
 東燃システムプラザ(SPIN)創設の翌年、国内ではIBM、横河電機をパートナーとして外部ビジネス展開をしていたこともあり、そのセールス活動で利用している情報開示の範囲であるならとの条件で、この申し出を受けることになった。
 当時この地域を担当していた横河のYMT部長とシンガポール経由でニューデリーに着いたのは深夜、ムッとする暑さが身体にまとわりつく。数十年前英国から導入し、国産化したモーリス(国産名は確か、アンバサダー)のタクシーに冷房は無く、窓を開けて暗夜を走る。チェックインしたのはハイアット、さすがに館内のつくりはアメリカンスタイルで、一見近代的だが客室の細部はそれなりの造作である。
 翌朝指定された時間にロビーに降りると、当地独特の半袖・開襟のスーツを着た年配のインド人が迎えに来ていた。大きな目玉、黒い肌、がっちりした厳つい身体つき、代理店ブルースター社のオートメーション部門責任者、ナラヤンさんである。初めて言葉を交わしたインド人は、風貌とは異なり穏やかな語り口の人であった。その時から一週間、帰国まで何かとお世話になることになった。
 会議はショーケースも併設されるので、見本市会場のような所で行われる。初日午前は大臣の開会挨拶から始まり、立食の昼食会が参加者交流の場であった。ハネウェル、フォックスボロなどのオートメーションシステム製造者やプロセス分野のコンサルタントなど、この世界を代表するメンバーが多数参加している。夜はホテルに横河の顧客(インドの石油・石油化学会社)を招いて、私の講演と晩餐パーティが開かれた。食材(野菜、鶏、羊、魚介)も色(赤、黄)・香辛料も多彩なカレー料理がテーブルに溢れ、その美味さにつられ、つい食べ過ぎてしまう。就寝してしばらくすると腹の異常が始まった。朝まで何度もトイレに駆け込む。
 朝ロービーでナラヤンさんに「おはよう。調子はどうかな?」と挨拶が始まったので、正直に昨夜からの体調不良を説明した。「会議に出られるか?ホテルでやすんでいるかい(幸いこの日の発表ではなかった)?」と問われたので、「腹の中は空っぽなので、静かにしていれば会議に出られる」と答えて会場に向かった。脱水症状にならぬよう水の補給だけは続けながら、何とか午前の部を耐えることが出来た。昼はこの会議場のレストランではなく、日本文化センター(正式名称は不明)で摂ることになり、そこでナラヤンさんは“ヴェジタリアン”メニューを薦めてくれた。初めはサラダや温野菜などが出てきたが、メインディッシュは薄緑色のポタージュのようなもので、チョッと口にしてみると、味は全く野菜味ではなく、肉類のような味付けになっていた。舌が、身体が“これなら大丈夫!”と言い出し、すっかり平らげてしまった。ナラヤンさんはそれを見てニコニコしている。午後の会議が終わると体調は完全に回復していた。
 その夜は再びナラヤンさんの案内で、ここで食事をし、地方によって異なる何種類かのインド舞踊を鑑賞した。腹の調子は完全に回復していた。恐れていた疫病ではなく、強い香辛料に胃腸が耐えられなかったらしい。踊りが終わるとナラヤンさんは「チョッとバーに行こう」とセンターにあるバーに誘ってくれた。どうやら彼はここのメンバーらしい。(つづく)

2010年5月5日水曜日

今月の本棚-20(2010年4月)

<今月読んだ本(4月)>
1)戦場出稼ぎ労働者(安田純平);集英社(新書)
2)世界ぐるっとほろ酔い紀行(西川浩);新潮社(文庫)
3)世界ぐるっと朝食紀行(西川浩);新潮社(文庫)
4)スペースシャトルの落日(松浦晋也);筑摩書房(文庫)
5)ベルリン・コンスピラシー(マイケル・バー=ゾウハー);早川書房(文庫)
6)ホース・ソルジャー(ダグ・スタントン);早川書房
7)トレイシー(中田整一);講談社
8)ホーネット、飛翔せよ(上、下)(ケン・フォレット);ヴィレッジブックス
9)JAL崩壊(客室乗務員2010グループ);文芸春秋社(新書)
10)困ります、ファインマンさん(リチャード・ファインマン);岩波書店(文庫)

<愚評昧説>
1)戦場出稼ぎ労働者
 戦争の民営化が進んでいるという。嘗てのフランス外人部隊(これは民営ではないが)のような、いわゆる傭兵に近い存在を思い浮かべていた。しかしこの本で紹介されるのは、勇ましい戦闘者ではなく、イラク戦争で後方支援(警備、輸送、建設・工事、給食・清掃など)に当たる、底辺の戦場派遣労働者である。
 筆者は信濃毎日の記者としてイラク戦開戦当時この地に赴き、取材中武装集団に一時身柄を拘束されたこともある人。その後フリー・ジャーナリストに転じ、2007年戦場労働者のこのルポルタージュをまとめるため、クウェートで求職活動しイラクへ不法潜入。約一年にわたって、戦場に近い警備会社の寮賄い人として過ごした体験を記したものである。
 現在も戦闘が続くイラクには、民間人が単独で入国することは簡単ではない。多くの出稼ぎ人は、比較的治安が安定し、入国も容易なクウェートに入り込む。そこには、貧しい国々からの求職希望者がうごめき、いかがわしい私設労務斡旋所が多数存在する。しかしイラクでの就労を許されるヴィザも無い日本人が、容易に仕事を見つけられるわけが無い。ネパール人の宿泊所に転げ込み、同国人に化けてようやく料理人補助の仕事にありつく。国境通過も種々のトラブルに見舞われ、辿り着いたところは、鉄条網で囲われた英系護衛・警備会社の基地(オフィスと寮)。本業の警護スタッフは白人主体、基地の警備はネパール人、寮賄いのチーフはインド人。
 経歴を偽って(料理人の経験など全く無い)潜り込んだことを何とか誤魔化し、やがてインド人チーフの帰国に伴いその後任を務めるまでなってゆく。
 経済的に貧しい国々(インド、パキスタン、バングラディッシュ、スリランカ、ネパール、フィリピンなど)からの出稼ぎ労働者のコストと見返り、その背景・リスクなどを身近な情報源から取り上げているので、戦場を取り巻くビジネス実態とそこでの格差が臨場感をもって伝わってくる。

2)世界ぐるっとほろ酔い紀行、世界ぐるっと朝食紀行  新刊の“ほろ酔い”を先ず買った。酒と肴に関するエッセイである。グルメでもなく酒も強くない私にも酒と肴の組合せの妙は解かる。どの食事もいかにも美味そうであった。それで旧刊の“朝食”を求めた。
 筆者紹介には、写真家、料理研究家、作家、画家とある(本業は写真家であるようだが)。私は知らなかったが、料理研究家としてもTVなどに出演して有名な人らしい。若いときから海外に長期逗留したり、撮影で訪れた土地どちで味わった酒と肴、朝食を書き綴った随筆集である。
 生年は私より一つ下、食糧事情の悪い時代を過ごした人の思いに共感するくだりも多い。街の市場や田舎の食堂、一宿したB&Bでの食事や仲間内での一杯が材料で、有名レストランや豪華ホテルが舞台でないのも親近感をおぼえる。
食べ物の本は表現に工夫が要るものだが、なかなか巧みな文章で、口の中に思わず唾が溜まってきてしまう。本職の写真も多く、目で楽しめるのもいい。

3)スペースシャトルの落日 買い求めたのは丁度シャトルによる日本人最後の宇宙飛行士、山崎さんがスペースラボに滞在中である。マスコミが派手に騒ぎたてるわりには、実験室での成果が何も伝わってこない。毛利さんから山崎さんまで宇宙へ飛び出す以外、一体何をしているのだろう?“実りのある研究活動は行われているのだろうか?費用はどうなっているんだろう?これで終わるというアメリカのシャトル計画との関係は?こんな思いで本書を手にした。
 この本は、2003年のコロンビア号事故後、2005年に出版されたものだが、今回かなり増補・改訂され、最後の打ち上げ以降の課題も取り上げられている。アポロによる月探査後のアメリカ宇宙開発の実態が技術面を含めて解かり易く描かれ、シャトル計画の問題点、それと絡んだわが国の主体性を欠く宇宙政策が浮き彫りにされている。
 アポロ(打ち上げロケットはサターン)式の宇宙飛行は基本的に“使い捨て”である。しかしこれでは“もったいない(不経済だ)”、だから飛行機のように何度でも使えるものを作ろう。これがスペースシャトル計画の出発点である。素人にも一見わかり易い論理で、納税者の説得材料にもなる。しかし結果は、打ち上げ回数が当初予定(年間50回)の1/10(2009年度5回)と言う惨憺たるものである。これなら実績済みのアポロを改善しながら行った方が安くて安全だった(実際ロシアは未だにソユーズを使っていし、これからの宇宙行きはしばらくこれに頼るしかない)。
 月探査計画が一段落したらあと何をやるか?これは当時の米国宇宙政策の最大の課題だった。既に巨大組織となったNASAに縮小計画はのめる話ではない。宇宙産業の中核を担う航空機メーカーも同様。それ等が存在する都市や州にとっても雇用を継続できる新計画が必要だ。既得権益を守ろうとする政治的視点でこの計画が具体化していく。有翼構造の非効率性・非安全性(翼が必要なのは着陸時のみ。その腹部は最も脆弱で最も面積が広い)を訴える、科学者・技術者の声は政治家と官僚に押さえ込まれ、やがてこの杞憂がコロンビア、チャレンジャーの悲劇につながっていく(コロンビアは、直接的原因は翼部ではなく固体燃料ロケットだが)。
 それでも資金面に制約のあるこの計画を、アメリカは“国際プロジェクト”に仕立て、(当時の)自由主義先進国に参加を募る、しかしフランスは真っ先に降り、英国もやがて見送る。結局金づるは日本とドイツに留まる。爾来日本は参加協賛金を払い続け、シャトル計画の遅延により、独自の宇宙開発計画は何度も修正を余儀なくされる。
 オバマ政権は月探査計画の再開を止め、遥か将来の火星探査計画に切り替えた。具体的な姿は見えてこない。自民党政権末期に成立した宇宙基本法で、政治が宇宙開発の意思決定を行うことになったが、その担当大臣、国土交通大臣はダムやJALで全くこの職責を果たしていない。いまやわが国の宇宙開発は宙に浮いたままなのだ!

4)ベルリン・コンスピラシー  軍事サスペンスの巨匠、バー・ゾウハーの最新作である。背景は国際政治。軍事緊張の対決者は米国とイラン。無論核兵器疑惑である。イラク戦争でも反対にまわったフランス・ドイツが同じ行動をとるが、ここでの強硬派はドイツである。右派の首相はアメリカ離れを売り物にし、ドイツの米軍基地(飛行場)をイラン攻撃に一切使わせないと公言する。折りあたかも選挙が間近に迫っているが、現首相の人気はライバルに勝る。
 主役は嘗てナチのSS狩りを行ったユダヤ系アメリカ老人。終戦直後にドイツ南部でSS将校を仲間と殺害している。早朝宿泊先のホテルの部屋をノックする者がいる。出てみるとそこに逮捕状をもってドイツ刑事警察の警部が待っていた。昨夜宿泊したのはロンドンのはず。何故ベルリンで!?こうして物語は始まる。
 留置場に留め置かれた彼を息子が訪ねてくる。謎解きが始まる。切れ者女性検察官との鞘当て。やがてCIA、英国のMI-6さらにはホワイトハウスも関係する陰謀が明らかになっていく。そして最終章、大団円で終わる寸前、思わぬ幕切れで止めを刺される。
 ゾウハーは1938年ブルガリア生まれのユダヤ人。ナチの迫害を逃れるため幼時にイスラエルに移住している。国防省の報道官などを務め、第4次中東戦争にも従軍、のちに国会議員にもなっている。これらの経験が全てこの小説に生かされているようだ。
 久し振りでゾウハーを堪能した。

5)ホース・ソルジャー
 最近の戦争はTVで実況まであるわりには、その実態がよくわからない。特にアフガニスタンのそれは、最新鋭兵器を持つ最強の米軍とゲリラが如何に干戈を交えているのか、地雷や携行ミサイルの話が断片的に伝わってくる程度で戦いの全容は皆目見当もつかない。たまたま本屋で平積みされていた本書の副題「米特殊騎馬隊、アフガンの死闘」に惹かれて購入した。いまどき“騎兵隊”!?まるで西部劇じゃないか!との思いで。
 陸軍特殊部隊の起源は、遥か第二次世界大戦中のOSS(現在のCIA発足母体)に遡る。敵の後方に侵入し諜報活動や破壊活動を行うのが任務だ。隊員はレンジャーや空挺部隊などの出身者、個々人の戦闘能力は正規軍と比べ桁違いに高い。対するターリバーンは、ソ連崩壊につながった神出鬼没のタフな戦闘集団。米国が9・11テロ撲滅のため取った最初の戦術は高空からの爆撃である。しかしこの時は地上管制員がいないため効果はほとんど上がっていない。ヘリコプターによる急襲作戦も、3000メートルを超える高地ゆえその能力を発揮できない。山岳地帯に分け入り、ゲリラと戦いながら、対地攻撃を誘導する特殊部隊がウズベキスタンの基地から発することになる。50人に満たない先遣隊は反ターリバーン一派と合流、彼等の唯一の移動手段、騎馬で行動を伴にする。やがて北部の要衝、マザーリシャリーフ要塞を落とす。時の国防長官、ラムズフェルドはウズベキスタンに赴き、彼等の戦果を讃える。
 作品は徹底的な隊員からの聴き取り調査を基に書かれている。ノンフィクションの典型的な手法である。しかし、この道の先駆者、ハルバースタムとはその表現力・展開力に大きな差があり、細部のみがクローズアップされ、アフガンの戦闘を知りたいという好奇心は満たされたものの、全体像や背景がいまひとつ見えてこない不満が残った。
 
6)トレイシー  トレイシーとは、カリフォルニア北東部の廃れた保養地、バイロン・ホット・スプリングスに設けられていた、日本人捕虜尋問センターの秘匿名である。太平洋戦域で捕らえられ、それぞれの戦域捕虜収容所で取調べを受けた後、さらに利用価値があると認められた者がここに送られ、組織的にも心理的にもよく練られた環境・手法で尋問されていたのである。
 皇居を守る近衛兵、徴兵された三菱航空機の工員、撃墜された零戦パイロット、生き残った潜水艦乗り、不時着した輸送機から救出された海軍高級参謀。拷問のような手荒な扱いを全く受けていないのに、彼等は効果的な戦争遂行に必要な重要情報をすすんで(あるいは知らず知らずに)米軍に与えていく。本書の冒頭に、当時取調官がまとめた皇居内の建物のプロットや名古屋の三菱エンジン工場の構成図があるが驚くほど正確である。戦術も戦略もこのような情報を基に策定・実施されていたのである。
 日系米人は信用されず、尋問官は無論通訳にも採用されていない。全て白人の将校・知識人である。僅かに宣教師など日本に長く滞在した者もいるが、ほとんどは開戦後の即席養成である。しかし、人材の篩い分け、教育過程は良く整備され、語学も高いレヴェルが求められ、日本人に心を開かせる体制が確り出来ている。米国が大戦に勝利したのは、決して物量だけではないことをこの本はよく伝えている。
 ドイツ降伏の前後、この尋問センターは閉鎖され、ヴァージニア州に設けられていた、ドイツ・イタリア兵の尋問センターに統合されるが、そこにはヨーロッパで捕らえられた外交官や軍人も収容される(外交官はやがてホテルに軟禁)。ここでの日本人捕虜(ほとんど高級軍人)の取調べを見ていると、戦後の日本統治策や今の憲法の骨格もこの尋問センターの活動から生み出されたのではないかと思われてくる。
 本書は、沖縄の核持込密約外交文書の騒ぎよりも遥かに深く、安全保障・外交を考える(情報・諜報の重要性)機会を与えてくれた。

7)ホーネット、飛翔せよ
 ケン・フォレットの痛快軍事サスペンスである。代表作“針の眼”が重苦しい作品であったのに対し、これは拷問シーンなどあるわりに明るい感じがする。それは主人公が若い男女(高校生と王立バレー学校の生徒)だからだろう。
 舞台はナチスドイツ占領下のデンマーク。西ヨーロッパ全域がドイツの影響下にあるため、英国の唯一の攻撃手段は空爆しかない。しかし、爆撃機の被害は甚大で、効果的な打撃を与えられない。どやらドイツは密かに英爆撃機隊の早期探知手段を持っているらしい。MI-6(英対外諜報部)にその秘密解明の命が下る。
 自宅のある小島でドイツ基地建設に動員された、滅法機械に強い高校生がその秘密をかぎつける。ガールフレンドのユダヤ人銀行家の娘、バレリーナの卵が彼に協力する。平和な時代、父親が使っていた複葉小型機(ホーネット・モス)が埃をかぶって、広大な敷地内の朽ち果てた教会に捨て置かれている。
 英国でOR起源を調べている時、A.V.ジョーンズと言う人が書いた“Secret War”と言う本を読んだ。ここにこれに類する話が出てくる(デンマークではないのだが)。英国は既にレーダーを実用化しているのだが、ドイツの最新情報がわからない。レーダーの存在が判っただけではダメで(厳重に防備を固めたレーダー装置に対する、ピンポイントの空爆は極めて困難)、全体システムを解明しそれへの対抗策(欺瞞策を含む)をこうじる必要がある。こんな現実の問題点も確り小説の中に取り込まれていた。
 この本を読んで思わぬ情報を得た。あの時代スウェーデンもデンマークも民間人にはほとんどガソリンや軽油の供給は絶たれていた。何と主人公は泥炭を燃やして蒸気を作りそれで動くオートバイを走らせているし、ストックホルムでは木炭自動車が走っていたのだ!役に立たぬことだが読書の楽しみは、こんなことにめぐり合うことにもある。

8)JAL崩壊 既に本件に関してはいろいろな本が出ている。筆者が個人名ではなく、“客室乗務員”とあったので、際物趣味で読んでみた。一言で言えば現場(チーフパーサーやパーサーらしい)の恨みつらみ、不平不満集、下世話な話が書き連ねである。
 書き出しはJASとの統合問題をとりあげているものの、これも突込みが浅い。機長組合の横暴など嘗ての“鬼の動労”を思わせる場面も執拗に書かれているが、ANAとて似たような環境にあるはずだから、これが倒産の原因とも考えられない。要は長く国策会社として経営され、あらゆる部署・従業員が“親方日の丸”に安住してきた結果である。
 私が初めて飛行機に乗ったのは昭和40年頃和歌山工場勤務中、伊丹から羽田へ飛んだJALである。第一印象は“慇懃無礼”である。爾来出来るだけJALは避けてきた。復活するのは縁戚関係でJALに近しくなってからである。90年代に乗り始めたJAL(国際便)は昔の第一印象とは随分違い、あの“冷たさ”は消えていた(歳のせいもあるのだろうが)。しかし、既にその頃から崩壊への道は始まっていたのだ。
 一兵士の書いた戦記ものもそれなりの価値はある。本書もそれと同様。現場の問題点は改善されて欲しいものである。二度目は誰も助けませんよ。

9)困ります、ファインマンさん  “ファインマンさん”ものの本は岩波からシリーズ化され出版されているが、読むのはこれが始めてである。動機は、前述の「スペースシャトルの落日」の本文中に、参考文献として紹介されていたからである。
 ファインマンは著名な物理学者で、1965年わが国の朝永振一郎博士と一緒にノーベル物理学賞を受賞している。この本に依れば、大学進学ではコロンビア大学を希望したがユダヤ人制限枠の関係で入れずMITに入学、その後大学院はプリンストンに進んで、卒業後原爆開発のマンハッタン計画に加わっている。戦後は主にカリフォルニア工科大学(CALTEC)で物理を教えていたが、ここでは航空工学研究で評価の高い、ジェット推進研究所(JPL)とも深く関わっている。
 それもあり1986年1月に起こった、スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故調査委員会(大統領直属)のメンバーに任ぜられる。この本の後半、約半分はこの時の彼の考え方、行動、委員会活動に対する批判等をまとめたものである。しかし、それを正しく理解するためには、事故とは関係ない前半のいくつかの談話や話題が不可欠で、一見関係の無いテーマが一冊の本にまとめられたことが意味を持つことになる。
 高校時代の恋人と、何でも包み隠さず正直に話そうと約束する。やがて彼女が不治の病に罹るが彼はそれをも正直に告げようとする。周囲は大反対。ついに意に反して偽りを語る。その自責の念。やがて病身のまま結婚し、その死を迎える。葬儀屋が死化粧をするというのを許さない。「死んだ人間に化粧をするなんて何の意味があるんだ!ありのままでいいんだ」と。
 父親はセールスマン。客を時には騙すようなことはないのかと問う。一度でも騙したら終わり。正直に話せばその時注文を失っても、長い眼で見て失うものは無いと説く。
 少年時代、大学時代仲間とよく“考えること”について意見を交わし、実験をする。そこに多様な発想があることを知る。
 このように育ってきた人が、政治・経済・官僚機構でがんじがらめの事故調査委員会のメンバーになれば、自ずと浮き上がってくる。現場(実験場、工場)に出かけて、生の声・事実を見聞したいという彼の願いはなかなか叶わない。それでも執拗に独自の調査を進める。やがて、下々(エンジニアや工員)から、寒い時に事故が起こる可能性が高いことを知らされ、既にそれについて上部に意見具申し続けていたことも明るみになる。それらに関する報告を事務局宛に送りつけるが、本人には知らせずに事務局長は握りつぶす。
 最終報告書には彼の調査報告は盛り込まれず、激しい抗議の末添付資料とされてしまう。さらにNASAに対する“勧告”はメンバーの総意で9項目に整理されるが、ほとんどのメンバーが去った後、ロジャー委員長(ニクソン政権の国務長官、やがてキッシンジャーに取って代わられる)が1項目追加したいと言い出す。それは「NASAは今までも良くやってきた。これからもこれに懲りず頑張って欲しい」と言う意のものであった。とても彼に受け入れられるものではない。大統領が勧告案を発表した後、彼は独自の記者会見で全てをぶちまける。
 米国も日本もこの点(政治と官僚が口裏合わせて、既得権を守るため責任逃れをする)は全く同じであることを知って、民主主義の限界を感じた。「アメリカよ!お前もか?」と。
 ファインマンにすっかり陶酔してしまった。他の本も読んでみようと思う。
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2010年5月2日日曜日

遠い国・近い人-1(国際関係私論;シリーズ開始に当たって))

 現在の中国東北部は一時期満洲国と呼ばれていた。1939年1月この地の首都、新京(現長春)に生まれ1946年 9月まで8年弱をここで過ごした。新京は日本が大規模な都市開発したところだったから、我々の居住区内で、近くに住む満洲人(満人と呼んでいた)は僅かの特権階級しか居なかったが、街中では肉体労働者(特に馬車牽き)の満人をよく見かけた。
 日本人小学校(当時は国民学校と呼ばれた)入学時(1945年4月)クラスに一人だけ満人の同級生がいた。通学経路が同じ方向、彼はチョッと癖はあるが日本語を話せたので、帰りは二人だけで帰ることもあった(往きは社宅の小学生が一緒になって集団登校した)。ソ連侵攻は夏休み中の8月9日、彼との付き合いは7月末まで一学期4ヶ月で終わった。学校は秋の運動会あたりまで続いたが(その後は満人の小学校になった)、夏休み明け登校した時彼の姿はなっかた。個人としての初めての“外国人”との交わりである。
 満人とは居住区を分けながらも共棲していたので、終戦まで子供心には“外国人”という意識は無かった。“外国人”を意識したのは8月下旬から進駐してきたソ連兵を見てからである。明らかに姿形が違う。日中我々に蛮行することは無かったが、大人たちはいろいろ乱暴狼藉を噂していたし、女学生は髪を短くして男のような風体になっていた。性的なことは分からなくても、ソ連兵の難を避ける策であることは理解できた。一度父と同行してかなり離れた別の社宅を訪問したことがある。冬のさ中帰りが遅くなり、日もとっぷり暮れた夜、私をソリに乗せて凍結した道路を自宅に向かっている途中、銃を持ったソ連兵のホールドアップに遭った。強盗である。幸いソ連の憲兵が近くを警邏中で事なきを得たが、ソ連兵の恐ろしさを身をもって体験した(後日、父はこの時「殺される」と思ったと語っていた)。
 私のソ連感・ロシア感は、この時から2003年まで約60年間基本的に変わることは無かった。しかし、横河の仕事で頻繁にロシアを訪れ個人的に多くの人と親しく交流することで、それが一気に好転した。この例は他の国でも同じである。ハリウッド映画を通じて憧れたアメリカも、訪れて人々の身近な生活を知ると多くの失望・幻滅を味わうことになった。書物やメディアを通じたその国・国民の理解と自ら体験した実態には大きな違いがあり、その後の見方がまるで異なると言うのが、私の国際関係論である。
 今までに訪れた国の数は26ヶ国、ほとんど仕事である。これは海外旅行を趣味とする人と比べればたいした数ではない。しかし、交換した名刺の数は1000枚弱(非訪問国を含む)、長期海外駐在経験者・貿易業務従事者を除けば相当な数ではなかろうか。定期的な手紙の交換(クリスマスカード、年賀状)やメールのやり取りをしているのが50人くらい、これを含めて、会えば“やあやあ”と直ぐに旧懐を温め合えるのが100人くらいになる。何人かの家には招かれたり泊まったりしている。家族ぐるみの付き合いもある。彼等を通じて理解した国々は、私にとって特別の国になっている。その思いをこの「遠い国・近い人」シリーズで紹介していきたい。
 話題の取り上げ方にルールは無いし、時間的な順序もあまり考慮しない。内容も人が主役だったり、国が中心だったりと一定しない。ただ、彼等と私の関係、彼等あるいは彼等の国を私がどう思っているかは出来るだけはっきり書くように心がけるつもりである。固有名詞はファーストネームだったりイニシャルだったりするが、これはある程度プライバシー上の配慮とご理解いただきたい。