2009年11月29日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅(31)

31.白浜観光-2 三段壁の次はその隣にある岩畳の千畳敷、これも日本の海岸に多い風物。方々にこの名をつけた観光名所が在る。初めて目にした千畳敷は、中学3年生の夏休み叔父夫婦に案内してもらった佐渡島尖閣湾のそれだった。初めて見る広々した岩棚に大いに感動し、その名を聞く度に思いは半世紀以上前に戻る。海岸ではない、秋芳洞や木曾駒ケ岳でも不思議に“千畳敷”はあの佐渡のイメージだ。今回も同じだった。
 浜通りを中心街に戻り、ホテルの前を通り過ぎて今度は北に延びる小さな半島に向かう。そこには、温泉と景色(これは日本中何処にでも在る)を除く二つの観光スポットが在るのだ。一つは南方熊楠記念館、もう一つは京大水族館である。
 海岸沿いの道は西側が海になるので午後も遅い今の時間は西日が強く、白浜のランドマーク、円月島の中央空洞部分が明るくなってちょっと凱旋門を髣髴させる。道路際で何人かがそれを撮影している。
 最初に訪れたのは熊楠記念館。小半島の先端の小高い丘の上にある。駐車場は丘の麓にあるので上まで登らなければならない。あの時はどうだったのかまるで記憶が無い。あの時とは父の定年退官慰労のために両親を紀州へ招待した時、昭和40年(1965年)秋、のことである。熊楠を知ったのもこの時の父からである。用意していた観光案内書を見て「南方熊楠はここに縁があったのか!」と彼の人となりを語ってくれた。
 熊楠を一言で語るのはきわめて難しい。強いて言えば博物学者、学問が細分化した今ではもうこんな学問領域は存在しない。植物学、菌類学、天文学、民俗学、鉱物学などで多くの成果を上げている。名前の熊楠は熊野本宮の熊とそのご神木、楠からきている。和歌山市で生まれ白浜に隣接する田辺で育ち、大学予備門(現東大;ここでは夏目漱石や正岡子規と交流)に進むが進級試験に失敗、退学後アメリカに渡り現在のミシガン州立大学で学んだ後、さらに英国に渡り大英博物館東洋部でスタッフ兼研究者として働いている。1900(明治33年;33歳)年帰国後は田辺に居を構え、紀州の山中で菌類の研究に励んでいる。滞米英時代に十数ヶ国語をマスター、幾つかの論文は英科学誌「ネイチャー」にも掲載されている。またロンドン滞在中知り合った孫文がこの地まで彼を訪ねてきたこともあるという。野口英世と並び、近代日本黎明期の科学界を代表する巨人と言えよう。
 記念館は小さな三階建てのコンクリート製の建物。その中に熊楠ゆかりの品々が展示されている。中でも目を引いたのは中学入学前(10歳)に始め5年を要した「和漢三才図会(1700年代に書かれた百科辞典;オリジナルは105巻81冊)」の見事な書写である。小さな美しい筆跡と膨大な量に驚かれる。その後の活躍を見れば、これがただの書写だけではなく、内容も学びながらの作業であったと想像できる。
 子規との交流の記録、英文誌の論文、孫文から贈られた帽子、研究に使った当時の顕微鏡、丹念に描かれた菌類の標本図。この好奇心、根気と集中力は紀伊半島の深い山々と関係があるのだろうか?未知の世界を切り開く猛烈なエネルギーの詰まったこの記念館に、もう一つの“坂の上の雲”を見た思いであった。
 この丘(番所山)を下ったところに京大の水族館がある。白浜観光といえば必ず立寄ったところである。これは最後に観た40数年前とはまるで様子が違っている。何度か増改築されているようだ。もともとは研究用の水族館で対象は瀬戸内海や南紀の海洋生物が主体なので見世物としての面白みは無いが、イソギンチャクやヒトデなど無脊椎動物の宝庫であり、他の水族館には無い楽しみが得られる。昔は紀州の海に潜るとよく見かけるウツボが大量に居る水槽があったが、それは無くなっていた。最近は減ったのであろうか?

 閉館少し前(5時頃)ここを離れたが、初夏に向かう陽光はまだ眩しかった。
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2009年11月26日木曜日

決断科学ノート-23(科学者と政治-6;ティザードの場合④)

 レーダーの開発・改良、それを核とする防空網、更にこの新しい兵器システムの運用体系を作り上げる仕事に邁進するティザードは、次から次へと現れる難題を、持ち前の調整・管理能力で片付けていく。その完成度は昼間侵攻に関する限り、ミュンヘン会談時(1938年9月末)ほぼその後の実戦システムと変わらぬところまで達していた。次なる大きな課題は夜間侵攻に対する備えである。小型軽量で見えない敵を打ち落とす精度持った、航空機に搭載できるレーダー開発は、いまだアイディアの状態から試行錯誤が始まったばかりだった。
 チェンバレンの宥和政策を批判するチャーチルにとって、夜間爆撃への国民の恐怖を何としても和らげたい。保守党が復権したものの閣外にいる彼は国防政策に何かと発言の機会を狙っている。そのためにホームグランドの帝国国防委員会の下部組織の一つで航空省のティザード委員会と密接に関わる、防空研究小委員会(通称スウィントン委員会;スウィントン伯爵主宰)の改組を提案、ここにリンデマンを加えることを求めてくる。だからと言ってティザードを排除するようなことはしない。チャーチルもティザードの軍事科学者としての力を知っているからだ。
 こうしてティザード委員会が進めていた防空科学の仕事は次第に再構成されたスウィントン委員会に実権が移り、専ら政治的な角度からこれが論じられるようになる。官に公式な身分を持たないティザードは微妙な立場になっていく。それでも国防、特に航空科学で国に役立ちたいとの思いは強く、また航空省・空軍もそれを切に望んでいたので、中将待遇の科学アドバイザー(実質的には空軍参謀長の)のポストを提供し、航空省の中にオフィスを設け数名のスタッフを付けることを決する。その仕事始めの日は1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻した日であった。この数日後チャーチルはチェンバレン内閣の海相に就任する。
 ポーランド制圧から1940年5月の西ヨーロッパ侵攻開始まで、両陣営(独、英仏)は宣戦布告はしたものの、Uボート作戦を除けば本格的な戦闘は無く、睨み合いだけの“まやかしの戦争(Phoney War)”とのちに称せられるような状態を呈している。しかし、ティザードにとってはこの期間ほど多忙な時はなかった。機載レーダー、航空無線、敵味方識別装置、潜水艦磁気探知装置、低空爆撃解析、夜間空戦実験など八面六臂の活躍である。西部戦線で電撃戦が始まり“まやかしの戦争”が終わった5月10日、ついにチャーチルは挙国一致内閣の首相に上り詰める。これで勝負は決まった。
 ティザードのチャーチルに対する反発は決して人格的なものではなく政治的なものだったし、チャーチルもティザードの科学管理者としての力量は高く評価していたが、国防政策推進の点でティザードが大きな力を発揮する事を好まなかった。予兆は省庁再編成で航空省から航空生産省が分離するところから始まり、重要情報から次第に遠ざけられていく。呼ばれる会議ではいつもリンデマンが進行役を務めるし、チャーチルの指示はリンデマンに向けられる。6月末これに耐え切れずついに辞表を提出する。2ヵ月後英独航空戦(バトル・オブ・ブリテン)が始まり、それに勝利したのはティザードが心血注いで作り上げた防空システムだった。当に天下分け目の戦い。ここから英国は反攻に転じる。
 国防政策立案の第一線からは退いたものの、辞職後も訪米軍事科学ミッションの代表を務め、米国の信頼そして同盟強化に努めるなど、軍事科学オーガナイザーとしてはその後も活躍する。チャーチルは戦時中大英帝国一等勲爵士を与えることを決めるが、ティザードの方から「戦争中だから」と断っている。やはり何か引っかかるものがあったのであろうか?
政治的動きを徹底的に嫌った彼にも有力者から忌避される責任の一端はあったが、科学的視点からの方針決定を譲らなかった彼の行動こそ、多くの科学者・技術者そして兵士たちの共感を沸き立たせ、科学戦に勝利をもたらしたと言っていいだろう。

 わが国の場合環境や原子力行政の周辺で、政治的動きをする学者は枚挙に暇が無い。政治を生業にしない者はやはりティザードのように在りたい。
 (これをもってOR関係者の“科学者と政治”はひとまず終わります。いずれリンデマンやバネバー・ブッシュ(米)を取り上げたいと思っています。ご期待ください)

2009年11月19日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(30)

30.白浜観光-1 昼食時間に近かったが、中辺路町の中心と思われるこの近露王子付近に適当な食事場所は無かった。それほど空腹でもなかったので、311号線を更に白浜方面へ向かうことにした。道は走り易いが山岳ドライブの醍醐味は全く消え失せ、富田(とんだ)川に沿って緩やかに下りが続く。15分くらい走ると道の駅があったが、まるでフランチャイズのお土産物屋、併設された食堂は味気ない雰囲気だ(お土産物そのものは土地のものもあるが)。さらにしばらく走ると数台の車が止まったドライブイン(この言葉も大都会周辺では死語になりつつある)があったので、ここでうどんの昼食を摂った。関西はどこでもうどんが美味しい。
 深山の秘湯、龍神への分岐路、串本方面とつながる371号線などが現れると交通量も多くなり、ダンプカーや商用車が増えてくる。もうドライブを楽しむ道ではない。ひたすらカーナビの指示に従って白浜を目指す。幸い天気は回復、山間から抜け出したこともあり明るさが増してくる。ゴール、白良浜(しららはま)荘グランドホテル到着は2時過ぎだった。チェックインだけして白浜観光に出かける。
 和歌山工場時代ここにはよく来ている。少人数の時は繁華街から少し離れた、以前は個人の別荘か何かであったのであろう、静かな佇まいの会社の保養所に泊まることが多かった。課のレクリエーションになると収容人員の関係で中心地のホテルや旅館と言うことになる。大学時代の友人や両親とは代表的な観光名所を巡ったが、会社の同僚とは飲んで騒いで翌朝は二日酔いで有田へ直帰が多かったように思う。そんな思い出がどこまでダブルのか、いささかハイな気分になってくる。
 ホテルから海岸沿いに南へ下る道はメインストリートの浜通り、両側の歩道がたっぷり取られ見違えるように奇麗になっている。この頃には空は完全に晴れ、今回の旅で初めてオープンにして走る。建物の間から白い浜が垣間見えるのはちょっとワイキキの雰囲気である(白浜とワイキキビーチは友好姉妹浜)。最初に向かったのは断崖絶壁の三段壁、浜を過ぎると少し上り道になり、右側に海が開けダイヤモンドヘッドへ向かう感じだ。最後のワイキキドライブは1983年11月、運転していた車はレンタカーのトヨタ・コルサだった。
 三段壁は能登の東尋坊や伊豆の城が崎などわが国の海岸によく見られる、高く切り立った岩壁に波が打ち寄せる勇壮な風景が売り物である。ただ景色としては単調であまり時間をかけて堪能するようなものではない。むしろ同種の海岸にも見られる“自殺防止”の看板に暗い想い出が蘇った。

 もう四半世紀以上前になるが当時和歌山工場の運転部門の課長職だったYMK君が社外研修のあと行方不明となり、数日後ここで発見された。入社は一年後輩だが、和歌山時代を伴に寮で過ごし、信州の山歩きに一緒したこともある。新入社員当時、滅多に人を褒めない若手育成担当者が「彼に問題を与えると、どんな解き方をしてくるか楽しみなんだよ」とふと漏らしたほど早くから注目される人材だった。後年私が川崎工場時代、彼は本社技術部スタッフとして予算審査の役割を担っていたが、難しい設備投資案件の経済性に関して大胆なアイディアを出して援けてくれたことがあった。ちょっといかつい風体だが心根の優しい、将来を嘱望された彼が、何故変わり果てた姿でここに浮かび上がったのか今は知る由も無い。
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2009年11月17日火曜日

決断科学ノート-22(科学者と政治-5;ティザードの場合③)

 第一次世界大戦とそれに続く大恐慌は特に敗戦国ドイツに混乱をもたらし、左右の政治対立はしばしば暴力を伴うものとなっていく。1933年軍隊組織を模したナチス党がついに政権を獲得、本格的な再軍備に着手する。たくみなナチスの宣伝は航空兵力を実力以上に誇示し、海が最強の防壁であった島国英国は、それを歴史的な危機と感じ始める。
 これへの備えを検証するために行われた、1934年夏のロンドン夜間防空演習は容易に仮想敵爆撃機の侵攻を許し、「空襲に関する限り英国は無防備」と結論付けられた。どうするか?三つの組織がそれぞれの立場でこの課題に取り組んでいく。一つは英空軍(RAF)の参謀総長をヘッドにした軍人グループ。二つ目は、リンデマンが実務担当者でチャーチルがリードするグループ。三つ目は航空省の技術者を中心としたグループである。この内第一と第三は防空に関する実戦部隊とその行政機関という密接な関係にあり(平時はRAFも航空相の管理下)、第二グループは、陸・海・空三軍全体を対象にする、内閣管轄下の国防委員会(Committee of Imperial Defense;CID)のメンバーの一部である。前者が実戦的・技術的課題を対象とするのに対して、後者は国家戦略の立場からこれに取り組もうとする。
 航空省では研究開発のトップであったウィンペリスが主にこの問題に取り組むことになり、強力な熱線(殺人光線)が最新技術として話題になっていたことから、ロンドン大学の生理科学者であるA.V.ヒル(第一次大戦では対空射撃部隊の指揮官、1922年ノーベル医学生理学賞受賞)にコンタクト、ここから少人数の科学者で防空科学検討グループを立ち上げる案が浮かび上がる。メンバーは、ティザードを委員長に、ブラケット、ヒル、それにウィンペリスと部下のロウ、問題に応じて適宜専門家を加えこととし、組織的には航空省内に設けるがCIDの防空部門とも協力しその責務を果たす、名称は防空科学委員会(The Committee for Science Survey of Air Defense;CSSAD;のちに“ティザード委員会”と呼ばれる;本ノートでは以降T委員会と略す)、と言うものであった。提案が提示され省内の内諾を得たのは11月中旬だが、初会合が開かれたのは翌年1935年1月28日、時間がかかったのはやはりCIDとの関係だった。当時の空軍力は、現代なら核兵器に匹敵する国家安全保障の最重要事項、チャーチルはこの委員会を自分の影響下に置きたかったのだ。また彼の科学顧問、物理学者のリンデマンも政界進出を狙っていた。
 メンバーが最初に合意したことは、ここで取り上げる調査対象は“既存兵器の効率改善や組合せではなく、革新的な防空システムの開発”であると言うことだった。即効性を求める政治家には気に入らないアプローチである。
 音波、熱線、赤外線そして電波の、検知・破壊兵器への利用について検討が加えられ、電波の利用(Radio Detective Finder;RDF、のちのレーダー)が探知システムとして最有力との結論に達する。2月末にはこの分野の先駆者である無線研究所所長ワトソン・ワットの協力を得て初歩的な実験をRAFの技術開発主務者ダウディング(のちの戦闘機軍団長)に見せ、その後の実験へ財政的な支援確約を得るまでになる。しかし、この様な情報がCIDに断片的に伝えられるに従って、活動に横槍が入ってくる。
 チャーチルの真の狙い、防空システム構築の主導権獲得、を実現するために行われたことは極めて姑息な細々した技術的提言とそれらの優先度付けで、ほとんどはリンデマンのアイディアに基づくものであった。それらは、赤外線による探知装置、落下傘や阻塞気球に吊るした空中機雷網、高射砲による無数のワイヤー散布(プロペラに絡ませる)、探知用無線機を空中散布するなどとても“革新兵器”と言えるようなもので無く、T委員会はまともに取り上げることをしなかった(赤外線利用について調査はしているが実用化の可能性無しとしている;現代の空対空ミサイルが赤外線追尾型であることを考えるとあながち間違った提案ではなかったが)。これが二人には気に入らない。チャーチルは保守党指導者のチェンバレンやマクドナルド首相(労働党)に圧力をかけついにリンデマンをT委員会に送り込む。この時チャーチルはリンデマンをティザードに替えて委員長にしたかったようだがさすがにそこまでごり押しすることは出来なかった。
 1935年半ばからのT委員会はリンデマンと他のメンバーの対立(調査研究の優先度に関して)が恒常化する。リンデマン(そしてその後見役チャーチル)の主張は「レーダーの開発とこれを核とする防空システムの研究・開発は10年、15年のスパンなら正しいが、今求められているのは数ヶ月のオーダーなのだ!」と言う、この年の選挙で政権を奪回した保守党が短期に国民に見える成果を出すことにあった。当に政治的インパクトを狙った何ものでもない。1936年7月、建設的な議論が進まない環境に嫌気がさし、ヒルとブラケットが航空相に辞意を表明、ティザードも彼等に従う。ここに至りついに航空相が直接この混乱解決に乗り出し、結局リンデマンを外した新委員会を10月に再スタートさせる。
 それから1年半、ティザードは彼の人生最大の業績といわれる、レーダーを中心とした早期警戒・迎撃システム構築に邁進する。そしてそれは1940年のナチス空軍の英侵攻作戦を封じる決め手となったのである。
 しかし、この時の恨みをチャーチルもリンデマンも決して忘れてはいない。

2009年11月14日土曜日

今月の本棚-14(10月)

1)零式艦上戦闘機(清水政彦);新潮社
2)エコノミストを格付けする(東谷暁);文芸春秋社(新書)
3)カティンの森(アンジェイ・ムラルチク);集英社(文庫)

<愚評昧説>
1.零式艦上戦闘機

 零式(れいしき)艦上戦闘機とは“ゼロ戦”のことである。戦艦大和と共にわが国を代表する太平洋戦争中の兵器だ。ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館の第二次世界大戦コーナーには、各国の代表的な戦闘機;ムスタング(米)、スピットファイアー(英)、メッサーシュミット109(独)と伴にゼロ戦が展示されていることからも、その評価の高さが判る。
 この飛行機については、設計者(堀越次郎;三菱重工)、運用者(坂井三郎など;海軍)、航空学者(佐貫又男、加藤寛一郎;東大)、作家・ジャーナリスト(吉村昭、柳田邦男)を始め多くの著者によるフィクション、ノンフィクションが書かれ、既に書きつくされた感がある。評者もこれらのほとんどを所有し読んでいるが、“「零戦神話」をことごとく覆す!”との宣伝文句に惹かれて読むことになった。
 「零戦神話」には、長所としてその軽妙な空戦性能(操縦性)、長い航続距離、20ミリ機関砲の威力などが上げられるが、これらは時として短所を生み出す要素ともなる。軽量を徹底するための防御力の脆弱さは負の神話の代表的なものである。この他によく語られるのは機載無線電話が使い物にならず、戦闘時の編隊行動に劣っていたこと、エンジンの能力アップにつながる高性能ガソリンの開発が出来ず、本来の性能が十分発揮できなかったことなどがあげられている。しかし、無線電話やガソリンの問題はゼロ戦に限ったことではなく、当時の日本の技術力全体の問題と言っていい。
 本書はこの神話を、開発とその背景、生産、運用(戦術・戦闘)と進めながら、そのライバルたちと比較し質していく。評者の個人的な興味もあるが、運用特に有名な会戦(真珠湾、ミッドウェイやマリアナ沖など)の描写はさして目新しい感じがしなかったが、開発・生産・技術に関しては、未知の興味深い分析が多々あり、看板に偽りは無かった。
 例えば、生産技術に関する三菱と中島の違い(主契約者は三菱だが生産機数は中島のほうが多い;中島は生産効率を上げるため不要な軽量化工作を端折ったりしている)、可変プロペラピッチ技術の後進性(自動車で言えばギヤーとタイヤ;ここに紙数をかなり割いている)、20ミリ機関砲の実効(弾数が少なく、照準器の性能と相俟って必ずしも決定力にならなかった)など学んだ点である。また、運用に関して、防御の脆弱性は零戦に限ったことではなく、同時代の他国の戦闘機(例えば米海軍のワイルドキャット)も同程度だったが戦訓(実戦からのフィードバック)が早かったことで差が出たことなども本書で知った。
 筆者は技術や軍事の専門家ではないし、物書きを生業とする人でもない。経済学部を卒業した若い(30歳)市井の弁護士である。趣味が高じてここまできたのであろうが、頼もしい軍事ノンフィクションライターのこれからを期待したい。

2.エコノミストを格付けする
 2003年に出版され筆者を広く知らしめた「エコノミストは信用できるか」の続編である。昨年のリーマンショックとそれに続く金融危機に対して著名な経済学者、エコノミスト達の見通しはどうであったか、日ごろの論理・論旨はどう変わって行ったか、を公開出版物(ウェブを含む)から調査分析、評価したものである。
 取り上げられた人物は、ノーベル経済学賞のクルーグマン、FBRのバーナンキから、懺悔録を出版した中谷巌、小泉内閣で閣僚を務めた竹中平蔵、野口悠紀雄、リチャート・クー、白川日銀総裁など40人である。多くのエコノミストが金融危機の予兆を見落としたばかりか、こじつけやら言い訳をしつつ簡単に誤りを認めなかったり、はては開き直りや豹変をすることに躊躇しない厚かましさを、バックデーターを明示しながら炙り出す。中谷の懺悔はそのこと自体が次の売り込み材料ではないかと見る辺りなかなか手厳しい(私も始めからそんな気がしていた)。
 比較的高い評価を受けたのは、リベラルな経済学者でノーベル賞受賞者のスティグリッツ、野村総研のクー、榊原英資など、悪い方は田中直樹、グリーンスパン、竹中平蔵らの名前が並ぶ。
 この本の見所はこの格付けそのものよりも(面白いが)、そこに至る近年の経済環境の変化(ITバブルやサブプライム問題など)とそれぞれの経済理論(主張)の一貫性・整合性、さらに政策推進者はその政策提言と行動に着目しているところにある。その点で経済学になじみの無いものにとって、身近な問題を材料にする入門書的な役割を果たすものとも言える。
 この人(ユニークな経済ジャーナリスト)とこの様な本の存在が、いいかげんで姦しいタレントもどきの経済学者、エコノミストを篩いにかけ、我々の前から駆除することにつながってほしい。

3.カティンの森 「カティンの森」事件は、ソヴィエトが崩壊するまでミステリーに包まれた、第二次世界大戦中の悲劇である。独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきポーランドは敗戦後独ソ両国に分割され、ソ連に捕らえられたポーランド人将校15000名は三ヶ所の収容所に抑留され、その大部分が処刑され埋められた。その一つがロシア西部の要衝、スモレンスク郊外のカティンの森である。
 この地は独ソ戦でドイツに占領されていたことから、ソ連側は虐殺の執行者をナチスドイツであると主張してきたが、ドイツはそれを否定していた。冷戦後それがソ連の所業と分かったことで、当時(1990年)のロシア大統領、ゴルバチョフがポーランドに謝罪した。
 この本がフィクションであることは知っていたが、てっきり小説仕立てのノンフィクション物と早合点、冷戦後明らかになった資料に基づく、ソ連の当時の事情を知ることが出来る事を期待し、中身をよく確かめずに買ってしまった。それは全く見当違いであった。
 内容はカティンの森に埋められた一人のポーランド将校の母・妻・娘の彼を巡る回顧談と言っていい。四分の一くらい読んだところからは飛ばし読みで、何か興味深い情報が無いかと探ったが、あの事件についての新情報は皆無であった。小説としても引き込まれるものは何も無かった。あのアンジェイ・ワイダが監督した映画が近く公開されるようだが見る気もしない。従ってこの本を読んだとは厳密には言えない。
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2009年11月7日土曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(29)

29.古道を歩く 40数年前和歌山で暮らしていた時には、中辺路を始め熊野詣での道の存在は知っていたが、“古道”は聞いたことはなかった。熊野古道を知ったのは、各地の世界遺産がTVなどで紹介され始めてからである。
 少し調べてみると、「熊野参詣道」が国の史跡として指定されたのは2000年、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録されたのは2004年。地元では道路整備が進む中で“古道”と呼んでいたのかも知れないが、広く知られるようになるのはつい最近のことなのだ。
 道が世界遺産になることは極めて珍しく、スペイン北西端のキリスト教聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラに至る巡礼の道とここくらいである。
 今回のドライブ行に際して購入した南紀ガイドブックを見て、この古道を徒歩で巡る種々のプランがあることを知った。ほとんど山歩きに近いものから、路線バスを利用するもの、自家用車を回送してもらう案まで目的・脚力・時間など希望と状況に合わせて選択できることが分かった。この日の走行予定は白浜まで約110km。山道を考慮しても走るだけなら3時間程度である。朝8時過ぎに出発すれば3時間ほど古道を歩いても3時頃には白浜に辿り着ける。道中で一番大きな集落は中辺路町の近露王子周辺だったのでここに車を停めて、古道の一部を歩いてみる計画にした訳である。
 時刻はほぼ9時半。この時は朝からの小雨も上がっていたが依然曇天。雨具やセーターをナップザックに詰め、例の農協経営のスーパーで飲み物などを購入、集落の外れにある小学校の脇を通って古道入口に向かった。小学校から古道への途上には何軒か民家があったがほとんど無人の廃屋だ。
 古道の取掛かりには立派な看板があった。熊野本宮に向かう次の王子(休憩所のこと)は2.6km先の比曾原(ひそはら)王子である。この看板から急に暗い森が始まる。森中の道は上りで足元は残念ながらガイドブックにあるような石畳ではなく、丸太製の階段が設けられた、針葉樹の落ち葉に覆われた土道である。人の気配は全く無いが、どこかで犬が何頭か吼えている。人家の無いこんな所で野犬でもいるのだろうか?あまり気持ちのいいスタートではなかった。
 襤褸の法衣を纏った高野聖が、ヌッと現れてもおかしくないようなこの暗い道を20分くらい上り進むと、二、三頭の犬の鳴き声が更に近くなってくる。一頭の泣き声は吼えると言うよりは悲鳴のような泣き方である。やがて前方の木立の合間に何やら建物のようなものが見えてくる。犬たちの泣き声はどうやらそこが発信源らしい。一頭の薄汚れた白い犬が目に入る。獰猛な野犬だったらどうするか?不安がよぎる。しかし、こちらに向かってくる気配は無く、しきりに建物の下部に向かって悲鳴に似た声を上げながら、その周囲を徘徊しているだけである。建物と見たのは、鉄柵とベニアの廃材で出来た、中は窺うとの出来ない大きな檻で、何頭かの犬が収容されているようだ。外にいる一頭はその仲間なのだろう。それにしても何故こんな所にこんなものが在るのか?とても世界遺産と認められるような環境では無い(帰宅後調べて、熊野古道は全部が世界遺産ではないことを知った)。
 それは次に現れたコンクリート簡易舗装の狭い道で確実になる。森の切れ目でこの道に出ると上から軽トラックがやってきた。生活道路なのだろう、まるで旅の風情を欠くものであった。上り詰めるとこの道は更に幅広い道に合流し、そこには道標が立てられ傍らにはベンチが置かれ、周辺に数件の家が在る。人は見かけないが下で見た廃屋ではなく、現役の棲家であることは間違いない。こんな所でどんな生活があるんだろうか?他人事ながら心配になる。
 少し下り坂のこの居住地区内の道を進むと、車2台がすれ違えるほど立派な道路に出た。幸い車の往来は無いものの“古道”のイメージは全く消え失せてしまった。比曾原王子の案内板はその少し先の道端にあり、その裏手数メートルの藪の中に江戸時代に建てられた小さな碑が在った。
 同じ道を戻り、近露公園に隣接する近露王子跡に行ってみた。ここには神社が在り、その一隅に王子を示す碑が残っている。今上天皇陛下が皇太子時代行幸された際、ここでお休みになったとあったので、われわれも一休みすることにした。

 全行程約5km強、2時間少々の古道歩きはこうして終わった。
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2009年11月3日火曜日

決断科学ノート-21(科学者と政治-4;ティザードの場合②)

 1919年春、ティザードはオックスフォードに戻り20年2月には熱力学担当の准教授(Reader;Professorの一つ前)に任ぜられる。この間、民間会社と協力して航空エンジンと燃料の関係を研究し、ノッキング状態を示す“トルエン価(のちにオクタン価)”の概念を確立、その計測用特殊エンジン開発などの成果を上げている。純然たる学問よりは実務に密着した研究に優れていた事を示す一例と言える。また、休眠状態にあったクラレンドン物理学研究所再開のためにベルリン大学、そして勤務場所は異なったが空軍の航空実験で交流の続いたリンデマンを大学幹部に紹介し、ここで働く機会を作ることになる。多彩な交友関係と適材を見抜く力も彼の特性なのだ。この時代、二人が後年政治の舞台で仇敵になることなど、まるで窺わせる気配は無い。
 オックスフォードを去る切掛けは、やはり大戦中携わった軍事科学関係者からもたらされる。戦時中(1916年)軍・官・学によって設立された、軍事科学推進母体、Department of Science and Industrial Research(D.S.I.R.);科学・工業研究機構)を再編成することが閣議決定され、その運営会議のナンバー・ツー(Assistant Secretary;AS)として声がかかってくる。
 時期は大学の准教授になったばかりの頃である。新組織、中でもASの役割権限は曖昧。不安にかられつつも“軍事科学”研究への誘惑は絶ち難い。約2ヶ月逡巡した(この間無論具体的な業務やサラリーの確認を行っている)後、1920年6月オックスフォードを退職、9月から国防省に設けられたオフィスで新しい仕事をスターとさせる。
 後年、ティザードはこの時の決断事由を、a)学者としての限界(この時35歳)、b)軍事科学の価値と発展性(未成熟分野)、c)子供たち(息子3人)の教育(サラリー)d)オックスフォードの気候(頻繁に風邪をひいていた)をあげている。
 D.S.I.R.の中で1923年にはPrincipal ASに昇進、1927年には前任者の引退で運営委員会のトップに上り詰め、「国家公務員の中で最も影響力のある科学者」と言われるまでになっていく。活躍の場は科学に留まらず、燃料開発研究で痛感する財源の問題から、ガソリン税の復活(1921年以降無税)を提言、これが当時の財務大臣(Chancellor of Exchequer)、チャーチルに伝わりその実現につながっていく。純然たる科学的問題がそれと拘わる政治問題に転じていく最初の具体例と言っていいだろう。
 こうした管理能力と名声を外の組織も見逃さない。1929年5月、インペリアル・カレッジは彼に学長(Rector)就任の可能性を打診してくる。当時のインペリアル・カレッジは幾つかのロンドンに在る国公立カレッジの寄合い所帯で、それを真に統一された大学に改編する仕事は極めて挑戦的なものであった。一方でD.S.I.R.の長に就任してまだ2年、ここでの仕事も面白い。ティザードは「今すぐならノー。しかし真剣に考える」と返事をし、主管審議官にこの事を伝える。しかし、どう誤解したのか審議官はこの報告を「本当はティザードはこの話を受けたいのだ」と取り、後任を決めてしまう!退路を絶たれた彼は7月D.S.I.R.を辞任する。
 統合カレッジ作りは、所在地と建物の整理統合・再開発、それに伴う財政問題、新しい教育カルキュラム作成や講座の新設など多岐にわたる。折りしも世界的大恐慌の中、大変困難な状況下で進めざるを得ないことになるが、ここでも彼の力は存分に発揮される。その活躍ぶりは、後年「もし30年代にインペリアル・カレッジがティザードを欠いていたら今日の地位・名声は無かったろう」と言われるほど。一方で「これから先10年、危機が迫っているときに、政府は貴重な人材を失った」とも。
 1929年保守党は総選挙に破れ、チャーチルは当選したものの財務大臣辞任、彼にとって“荒野の10年”が始まる。
 早く表舞台に復帰したい目立ちたがり屋のチャーチル、一見運命に身を委ねるように見えるティザード。台頭する軍事大国、ナチスドイツの跳梁を、二人はしばしタッチラインの外から眺めることになる。政治家と科学管理者、立場の違う両者にとってこの時期こそ雌伏の期間であると同時に、充電の時期でもあった。

 歴史は適材を適時、適所に配置する助走を始めていた。