2009年11月26日木曜日

決断科学ノート-23(科学者と政治-6;ティザードの場合④)

 レーダーの開発・改良、それを核とする防空網、更にこの新しい兵器システムの運用体系を作り上げる仕事に邁進するティザードは、次から次へと現れる難題を、持ち前の調整・管理能力で片付けていく。その完成度は昼間侵攻に関する限り、ミュンヘン会談時(1938年9月末)ほぼその後の実戦システムと変わらぬところまで達していた。次なる大きな課題は夜間侵攻に対する備えである。小型軽量で見えない敵を打ち落とす精度持った、航空機に搭載できるレーダー開発は、いまだアイディアの状態から試行錯誤が始まったばかりだった。
 チェンバレンの宥和政策を批判するチャーチルにとって、夜間爆撃への国民の恐怖を何としても和らげたい。保守党が復権したものの閣外にいる彼は国防政策に何かと発言の機会を狙っている。そのためにホームグランドの帝国国防委員会の下部組織の一つで航空省のティザード委員会と密接に関わる、防空研究小委員会(通称スウィントン委員会;スウィントン伯爵主宰)の改組を提案、ここにリンデマンを加えることを求めてくる。だからと言ってティザードを排除するようなことはしない。チャーチルもティザードの軍事科学者としての力を知っているからだ。
 こうしてティザード委員会が進めていた防空科学の仕事は次第に再構成されたスウィントン委員会に実権が移り、専ら政治的な角度からこれが論じられるようになる。官に公式な身分を持たないティザードは微妙な立場になっていく。それでも国防、特に航空科学で国に役立ちたいとの思いは強く、また航空省・空軍もそれを切に望んでいたので、中将待遇の科学アドバイザー(実質的には空軍参謀長の)のポストを提供し、航空省の中にオフィスを設け数名のスタッフを付けることを決する。その仕事始めの日は1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻した日であった。この数日後チャーチルはチェンバレン内閣の海相に就任する。
 ポーランド制圧から1940年5月の西ヨーロッパ侵攻開始まで、両陣営(独、英仏)は宣戦布告はしたものの、Uボート作戦を除けば本格的な戦闘は無く、睨み合いだけの“まやかしの戦争(Phoney War)”とのちに称せられるような状態を呈している。しかし、ティザードにとってはこの期間ほど多忙な時はなかった。機載レーダー、航空無線、敵味方識別装置、潜水艦磁気探知装置、低空爆撃解析、夜間空戦実験など八面六臂の活躍である。西部戦線で電撃戦が始まり“まやかしの戦争”が終わった5月10日、ついにチャーチルは挙国一致内閣の首相に上り詰める。これで勝負は決まった。
 ティザードのチャーチルに対する反発は決して人格的なものではなく政治的なものだったし、チャーチルもティザードの科学管理者としての力量は高く評価していたが、国防政策推進の点でティザードが大きな力を発揮する事を好まなかった。予兆は省庁再編成で航空省から航空生産省が分離するところから始まり、重要情報から次第に遠ざけられていく。呼ばれる会議ではいつもリンデマンが進行役を務めるし、チャーチルの指示はリンデマンに向けられる。6月末これに耐え切れずついに辞表を提出する。2ヵ月後英独航空戦(バトル・オブ・ブリテン)が始まり、それに勝利したのはティザードが心血注いで作り上げた防空システムだった。当に天下分け目の戦い。ここから英国は反攻に転じる。
 国防政策立案の第一線からは退いたものの、辞職後も訪米軍事科学ミッションの代表を務め、米国の信頼そして同盟強化に努めるなど、軍事科学オーガナイザーとしてはその後も活躍する。チャーチルは戦時中大英帝国一等勲爵士を与えることを決めるが、ティザードの方から「戦争中だから」と断っている。やはり何か引っかかるものがあったのであろうか?
政治的動きを徹底的に嫌った彼にも有力者から忌避される責任の一端はあったが、科学的視点からの方針決定を譲らなかった彼の行動こそ、多くの科学者・技術者そして兵士たちの共感を沸き立たせ、科学戦に勝利をもたらしたと言っていいだろう。

 わが国の場合環境や原子力行政の周辺で、政治的動きをする学者は枚挙に暇が無い。政治を生業にしない者はやはりティザードのように在りたい。
 (これをもってOR関係者の“科学者と政治”はひとまず終わります。いずれリンデマンやバネバー・ブッシュ(米)を取り上げたいと思っています。ご期待ください)

0 件のコメント: