2020年8月31日月曜日

今月の本棚-145(2020年8月分)



<今月読んだ本>
1)新時代「戦争論」(マーチン・ファン・クレフェルㇳ);原書房
2)贖罪(吉田喜重);文芸春秋社
3)鉄道のドイツ史(鴋澤歩);中央公論新社(新書)
4)イスラームからヨーロッパをみる(内藤正典);岩波書店(新書)
5)日本語の個性(外山滋比古);中央公論新社(新書)
6Tanks100 years of Evolution-(Richard Ogorkiewicz);Osprey
7)桶狭間の戦い前夜の真実(竹内元一);甲子園出版

<愚評昧説>
1)新時代「戦争論」
-古典的戦争論・軍事思想はもはや現代戦に通用しない!戦後生まれの軍事学者が提示する新・戦争論-

8月は日本人にとって“戦争”の月。86日広島原爆、9日長崎原爆そして15日は終戦。私にとって9日はソ連満州侵攻の日でもある。これに合わせてメディアは特集記事・番組を組む。全体としてそれらは反戦・平和祈願一色。私も被害者を悼み、平和を願う気持ちは変わりないものの、年々違和感がつのる。アメリカが悪い、旧軍が悪い、国が悪い、と被害者意識のみがクローズアップ。当時国民もメディアもそれに熱狂したことの深層に迫るものは皆無に近い。あの戦争を踏まえて、ではこれからの我が国安全保障を如何にすべきか、の論議はほとんど見られない。最大の理由は“戦争”に正面から向かい合うことを忌避する風土が出来上がっていることである。世界の有名大学には戦争論・軍事学を講ずる学科や学部が数多存在し、社会のリーダーたる政治家・公務員・ジャーナリストがこのようなところで学び、国情・地政学や技術環境、国際関係を踏まえた論陣を張っている。歴史的に拡張策しか知らない中露、世界一の軍事大国を死守する米国、反日を唱えなければ国家運営がおぼつかない朝鮮半島の二国、に囲まれた我が国で独自の安全保障論を展開出来れば世界の耳目を集めるのは必定と思うのだが、残念ながら“言わず(被害だけは言うが)・聞かざる・見ざる”が大勢を占める。現代を代表する軍事思想家の最新作を読んで軍事学の最新情報に触れてみよう。これが本書講読の動機である。
著者は1946年ロッテルダム生まれのユダヤ人。1950年にイスラエルに移住、ヘブライ大学で修士課程まで学んだあとLondon School of EconomicsLSE)で歴史学の博士号取得、2010年まで母校ヘブライ大学で歴史学と軍事学の教授を務めた。この間著した軍事史に関する著書の内でもケンブリッジ大学出版部から1977年出た“Supplying War(補給戦)”は名著として数々の戦史に引用されている。
「戦争論」と言えば何と言ってもプロシャ軍人であったクラウゼヴィッツの著したそれだが、これに並ぶのがスイス軍将官だったジョミニの「戦争概論」、二人ともナポレオン戦争時代の自身の体験を基に、「戦争とは何か」「如何に戦うべきか」「その時の指揮官の状況判断やリーダーシップは如何にあるべきか」を説く。
しかし、歴史を遡れば紀元前5世紀ころの孫武による兵法書、いわゆる孫子の兵法、同時代のギリシャ人トゥキュディデスの軍事思想書、ローマ時代の皇帝が著したもの、さらには16世紀イタリア人マキャヴェリの「戦術論」など、数々の「戦争論」が在ったことが導入部で紹介され、内容比較が行われる。これらの中から著者が「新時代」と対比するために選んだのがクラウゼヴィッツと孫武のそれである。特に、クラウゼヴィッツは近代戦まで多大な影響力があったため、頻繁に取り上げられ、優れたものと認めつつも、現代の戦争にそぐわないと断を下す。
ではどこが問題なのか?両者(クラウゼヴィッツ、孫武)に共通する問題点は以下の11。①戦争の原因と目的を語っていない(有名な「戦争は政治の延長である」との違い)、②戦争と経済の関係(総力戦のカギ)を語っていない、③上位の指揮官の視点でしか戦争を見ていない(特に孫武)、④軍事技術を軽視している、⑤参謀の任務、兵站や情報(インテリジェンス)の重要性にほとんど触れていない(警句程度)、⑥相互作用が重要と言いながら掘り下げていない、⑦海戦に関心がない、以下は当然のことだが、⑧空戦を論じていない、⑨核戦争も扱っていない、⑩戦争法に触れていない、⑪非対称戦争が扱われていない。これらの問題点を踏まえ著者の「新戦争論」が展開される。
従って本書は、戦争経済(総力戦)、軍事技術、海戦、空戦・宇宙戦・サーバー戦、核戦争、戦争と国際法、非対称戦争(弱者の戦い)に重点を置く。ある意味“クラウゼヴィッツ戦争論批判書”と言ってよい。いつまでも古典に執着しない、時代に即した新しい発想が求められているとの主張は、現代の戦争を考えるために投じられた一石として評価できる。
しかし、戦争に限らず古典は一旦咀嚼・抽象化して現代に照射・援用することで生きてくる。新環境への対応策に古典の哲学を生かす姿勢があってもいいのではないか?当該分野における現代を代表する権威だけに、いささか期待外れな感が残った。

2)贖罪
-かつてヌーヴェルバーク映画で時代を画した気鋭も86歳。今なぜナチスNo.2 主人公の小説を書いたのか?-

著者名を見て「オヤッ?」と思った人が居るのではなかろうか?「何故古い日本人映画監督(86歳)の作品を今頃読むのだろう?」と。高校時代から映画好きではあったが映画祭の受賞作品や黒澤映画くらいしか邦画は観なかったし、日本人の小説はほとんど読まない私にとって、本来この本を手に取ることは無かったはずである。決め手は広告にあった「ルドルフ・ヘス」である。1960年代松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として大島渚や篠田正浩と並んで一世を風靡した人が、何故こんな人物を取り上げたのだろうかと。
ルドルフ・ヘスは、欧州近代史に興味のない人にとっては馴染みのない名前だが、ナチス党副総統、ヒトラーに次ぐNo.2であった人物。1894年豊かな貿易商の子としてエジプト・アレキサンドリアに生まれる。ギムナジウム(中高一貫校)入学まではこの地で暮らす。ギムナジウム卒業後スイスの高等商業学校に進み、卒業後ハンブルクの商社に就職。ここに勤務中第一次世界大戦が始まり、陸軍に志願、歩兵として戦い負傷、鉄十字章を得ている。航空兵転科の願いが叶い訓練中に終戦を迎える。戦後ミュンヘン大学に入学したヘスは地政学の祖カール・ハウスホーファー教授の知遇を得る。一方で戦後ドイツの現状に不満を持つ若者の政治活動が活発化、ヘスもこの地を基盤とするナチス党に入党する。その縁でヒトラーとハウスホーファーを結び付け、ハウスホーファーが唱える「生存圏」構想がヒトラーの著書「我が闘争」に生かされることになる。因みに「我が闘争」はミュンヘン一揆でヒトラーと伴に収監されヘスがタイプ打ちをして仕上げたものである。この一連の三者の関係がヘスの地位を高めて行く。ナチスドイツの重要人物ゆえ、当然戦後ニュルンベルク裁判に引き出され終身禁固刑を宣せられ服役、1987817日西ベルリンシュパンダウ刑務所で老衰死(93歳)する(謀殺説、自殺説もある)。高位の地位にありながら死刑宣告を受けなかったのはそれなりの理由があるはずだ。これを探るのが本書の骨子であり、戦後の獄中生活とその死の場面を類推するところが作者の創作である。
形の上ではナチス党No.2とは言え、政治的な実権はゲーリング航空相が握り、諸処の権力もヒムラー親衛隊長官、ゲペルス宣伝相、ボルマン官房長官、リッべントロップ外相が掌握、ヘスはヒトラーの個人秘書と言うのが実態だった。そんな男がナチスドイツ最盛期の1941510日夕刻、単独で双発戦闘機Me110を駆って英国に向かい、和平工作を図ろうとしたことで、歴史に名を残すことになる。英国での扱いは戦時捕虜、ロンドン塔に終戦まで収容される(ロンドン塔最後の囚人)。この経緯で絶滅収容所に関与しなかったことと狂人と判じられたことから、死刑を免れたようである(ソ連は最後まで死刑を要求、関係者による刑の軽減要請を最後まで拒否する)。
そもそもどのような経緯でNo.2まで登りつめたのか?和平工作を画策ようになる心境の変化は如何に?その可能性を信じるようになったのは何が決め手か(ここが一つの読みどころ)?計画はどのように進められ実施されたのか?英国は収監中何をしたのか(ニュルンベルク裁判では狂人と診断されるのは英国が過酷な拷問を行った結果ではないか)?シュパンダウ刑務所での言動は如何様であったか(狂人のままだったか)?死因は本当に老衰だったか?これらの疑問を、米国公文書館に残されたタイプ打ちの手記(英語にはアレキサンドリア時代から馴染み、高等商業学校時代タイプを学んでいるが、自作である信憑性はかなり疑わしい。この文書に“私”と言う主語が全く無いことも、手記でない可能性が高い)とハウスホーファーの息子が記録し、ベルリン図書館に在った手記(これは本物)を基に作者の推論を交えて解き明かしていく。
ある種のミステリーでもあるから内容紹介はここで止めるが、本書で知った歴史上の事実関係を一言記しておきたい。地政学の開祖は英人地理学者・政治家・探検家のハルフォード・マッキンダーであるが、学問としての提唱者はドイツ軍人(最終階級中将、1908年~10年駐在武官として滞日)からミュンヘン大学地理学教授に転じたカール・ハウスホ-ファーである。先述したように、第一次大戦後ヒトラー、ヘス、ハウスホーファーの三者が会する機会が生まれ、ハウスホーファーの「生存圏」理論がヒトラーの「我が闘争」に組み込まれる。一方、ハウスホーファーの妻はユダヤ人であったが、ナチスとハウスホーファーの関係で家族と引き離されることはなかったものの、戦後ハウスホーファーは戦犯としての厳しい取り調べをうけ、起訴は免れるがユダヤ人迫害の一端に関わったことを恥じ、妻を殺し自死する。また、先に触れた息子は修道院にかくまわれ、本書の基となる手記の一つを残すが、終戦直前ヒトラー暗殺に加担したと疑われ、親衛隊に処刑されている。
何故著者がヘスに興味を持ったか?導入部1章はいわば吉田喜重自伝、ここでそれが明らかにされる。少年時代の記憶にヘス単独飛行があったことがきっかけである。この自伝部分は終戦が一つのヤマ場となっている。福井を本拠とする豊かな絹織物商の長男だった著者は半強制的に幼年学校受験生に学校推薦され9月初旬受験を控える中で終戦を迎える。どこかアレキサンドリア時代からナチス党活動までのヘスと重なるような読後感が残った。
吉田自伝の部分以外はすべて外国のこと。時代も1世紀近く昔、ロマンスはやがて妻となる大学時代の女子学生との至極平穏な恋愛くらい(二人の間に一人息子が誕生、狂人は死の少し前まで彼らに面会しようとしない)。ヘスの人生も常人とは違うものの、波乱万丈と言うわけでもない。残された記録(手記;これは吉田訳)が中心で創作部分はごく限られる(ただしミステリーとしてはなかなか優れている)。従って、一般向けか否かは?マークだが、第二次世界大戦の欧州戦線に特別な関心がある私にとっては読みごたえのある本だった。

3)鉄道のドイツ史
-鉄道と時を同じくする統一ドイツ誕生。統一鉄道運用が先か?分邦国家統一が先か?東西ドイツ統一まで続いたその歩み-

高校の世界史を学んでいると、フランスはカエサルに征服されたガリアを経てフランク王国がその後変じて現代につながることが分かる。これに対して、ドイツはローマ帝国辺境の地に在ったゲルマン民族中心に創られた神聖ローマ帝国がその起源と説かれる。その皇帝ハインリッヒ4世がローマ教皇と司祭の叙任権を巡って争った結果の“カノッサの屈辱”は「何故坊主の方が皇帝より偉いんだ?!」と疑問を持ったものである。一時は北海・バルト海沿岸から北イタリアまで版図とし、ローマ帝国の後継者をその名に冠する強大な国家であったからだ。しかし、その後の歴史はかなり複雑なものがある。帝国は19世紀初めまで存在するものの、プロテスタントとカトリックの争い、ハプスブルグ家の伸長、フランス革命、ナポレオン戦争などで領邦国家・自由都市に分裂、国家としての実体は無きがごとき状態が長く続いていた。ナポレオンが没落し、形だけのドイツ連邦が誕生したのが1815年、この時40(自由都市を除く)前後の領邦国家が存在、各国が領主(王)の下独自の国家運営を進めている。
18世紀後半に始まる産業革命は発展拡大、1825年には英国でストックトン-ダーリントン間の鉄道が開通している。小邦分立から統一ドイツ(ドイツ帝国)成立、さらには両世界大戦を経て、現在のドイツに至る過程に鉄道はいかに関わってきたか、が本書の主題。鉄チャン物の視点は全く無く、バリバリのドイツ政治経済史である。
著者(1966年生れ)は大阪大学大学院経済研究科教授、外務省専門調査員として在独研究も行っているドイツ経済史の研究者、ドイツ経済学の祖フリードリヒ・リストと鉄道の関係を詳述するところなどから本書は研究成果の大衆版と言える。
著者は頻繁に“ドイツ語圏”と言う言葉を使う。神聖ローマ帝国を成し、日常的にドイツ語を使う、オーストリア、チェコやスイスの一部を指すような語感だが、基本的には1871年普仏戦争勝利後誕生した“ドイツ帝国”ととらえる方が適当だ。鉄道敷設・経営はそれ以前からプロイセン、ザクセン、バイエルンなど有力領邦国家のみならず各領邦で始まっており、“ドイツ”と一括りにできない背景がある。この用語から国家統一に欠かせぬ鉄道とその複雑さが伝わってくる。しかし本欄では“ドイツ”を使用ことにする。
ドイツ初の鉄道は1835127日バイエルン王国ニュルンベルク-フュルト間6kmを走ったルードヴィッヒ鉄道、この日は現在でもドイツの鉄道記念日である。当時のドイツは英国・ベルギーなどに比較して、工業は発展途上国、レールも機関車も英国製である。経営は民営、産業革命で経済環境が激変する中、地域の中核商業都市ニュルンベルクと手工業地フュルトの経済人・市民が鉄道による発展に賭けることを決した結果である。農業・手工業・素材資源依存経済からの脱却は各領邦国家に共通する願い。これを契機に各地で鉄道敷設が行われ、1850年代には総距離6000kmに達し、全土を覆う鉄道網らしきものが骨格を現すが、問題山積みである。国営か民営か?どんな運営組織が望ましいか?財源はどこから?課税は如何様にすべきか?機関車を始めとする資材・機材はどう調達・生産するか?ゲージを始めとする規格は如何にすべきか?技術者や鉄道従事者を如何に養成すべきか?彼らの処遇は?周辺国鉄道との接続は?鉄道を工業立国の主導役にすることに各領邦(統一後は自治権の強い一地方)とも異議はないものの、各論はまた別である。
ドイツ帝国誕生は1871年、2年後の1873年帝国鉄道庁(REA)が発足して鉄道行政・運営の一元化を担うことになるが、プロイセン中心の施策に各地方が反発、REAは非力で統一運営できない。著者はここまでで紙数の半分を使う。つまり前半35年間と後半現代に至る150年間がほぼ等量と言うことになる。長い分邦主義が鉄道運営の一元化を阻み、それが統一的国家運営を妨げる。普墺戦争・普仏戦争における大モルトケの鉄道戦略も、後世伝えられるような電撃的なものではなかったことが本書で明らかにされる(特に普墺戦争)。この分邦主義が本格的に転じるのは第一次世界大戦勃発後から、ナチス政権誕生でやっと完成する。この部分では各領邦の政治経済が論じられ、現代につながる特異なドイツの地方自治体系の背景を学ぶことになる。
しかし工業立国・国際競争力強化の先導役としての役割は着実に果たしていく。クルップに代表される鉄鋼業の勃興(特に高品質のレール)、機関車開発・生産に代表される重機械工業の発展、信号システムなど、各地方が覇を競い合い、世界の覇者英国をキャッチアップ、やがて世界市場に進出していく。その代表例はベルリン-ビザンチン(イスタンブール)-バグダートを結ぶ3B政策、根本に「敷設地は外国でも鉄道利権はドイツのもの」と言う考え方がある。言わば資本と技術がドイツ帝国主義の先兵になるわけだ。ここではドイツ経済史学者の面目躍如、産業史・国際関係論の視点で鉄道の果たしてきた役割を教えられる。
東西ドイツ統一、EUにおける存在感と統合化の一層の推進、道路・航空との競争、夢であった超長距離鉄道による新興国(特に中国)との直結、ドイツ鉄道会社(DB)に課題は多々あるものの、19世紀後半から幾多の難題を乗り越えてきた経験を活かし、新時代の在り方を、環境との親和性に求める姿勢に「ドイツの鉄道政策、軽んずべからず」の感を深くした。

4)イスラームからヨーロッパをみる
-大量のイスラム流入はヨーロッパに何をもたらしているか?その動機は西欧民主主義押し付け策にあったのではないか?-

一昨年念願だったドイツ旅行に出かけた。成田を発った機は夕刻フランクフルトに到着、東京より高緯度に位置する関係で外はまだ陽は高く暗くなるまでマイン川に沿う公園を散策した。第一印象は浅黒い肌の人が多いことである。特に女性はスカーフ(ヒジャーブ)をまとっておりイスラム(著者は“イスラーム”と表現するが馴染まないのでイスラムとする)系であることが一目瞭然。噂には聞いてはいたがドイツ到着早々その洗礼を受けたわけである。その後の移動でも大都市(ケルン、ベルリン、ミュンヘン)では、いたるところでこのような人々を見かけることになり、欧州におけるイスラム難民・移民の存在を間近に見聞することになった。
イスラムの国であるインドネシア、マレーシア、トルコ、イラン、バーレーンで仕事をしたことがあるし、米国永住権を持つバングラデシュ人の家庭に泊めてもらったこともある。いずれの場合も格別違和感を持つことはなかったが、今回は私の“西欧イメージ”と合致せず「ヨーロッパに来たのに何だ!」が率直な気持ちだった。このイスラム観は日々彼らに接している、地元住民(白人キリスト教徒)と共通することを本書で確認することになる。
20世紀後半多くのイスラムが欧州各国に移住してくる。ただ主体は出稼ぎの男性中心、女性や子供は少なく、絶対比率が低くいうちは受け入れ国の言語、習慣や文化に同化する傾向が強く、地元民との摩擦は限定的だった。それが変わってくるのは2001年の同時多発テロ(9.11)以降。特に2015年シリア絡みの戦争・紛争等で大量の難民が欧州に殺到することになると、自らの文化・宗教・習慣を公然と前面に出してくる。すると受け入れ側は同化政策や多文化共存政策を打ち出すが、理想と現実は合致しない。ストレスは受け入れ側・流入側双方で高まり、共生の破綻が起こる。これが今の欧州とイスラムの関係なのだ。
本書では先ず、欧州各国・都市におけるイスラム受け入れ実体と問題点を概観する。人口比率で見るとフランスが最も高く8.8%(590万人)、スウェーデンの8.1%がそれにつぎ、ベルギー7.6%、オランダ7.1%、オーストリア6.9%、英国6.3%(420万人)と続き、ドイツは6.1%だが人口数が欧州最大の約8300万人だから500万人のイスラムが在住することになる。これらが仕事を見つけやすい大都市に集中しているので、そこでのトラブルがクローズアップされる。身近な例はフランスの「ブルカ禁止令」。ブルカはスカーフの一種(眼まで薄布で覆う)だが、この禁止令ではすべてのスカーフが対象となり、公共の場(学校を含む)での着用が禁止され、裁判沙汰になる。これに類似する法律はベルギーやデンマーク、オランダ、オーストリアでも成立している。欧州人から見れば黒装束に身を包み眼だけ出すのは犯罪者のイメージだし、スカーフだけでも数が多くなれば「これみよがし」の感が強くなる。一方イスラムの立場からすると、隠すのは「性的刺激を受ける部位が他の宗教と異なるのだ」と著者は弁護する。宗派にもよるが、くちびる・うなじ・頭髪ときには眼ですら家族以外にさらすことを禁じている。こんなことから人種差別、さらにはヘイトクライムが各地で発生する。
高次元の問題点は、欧州のみならず多くの民主国家が採用している「世俗主義」(政教分離)、大多数は宗教が特権を持つことを禁じている。しかし、イスラムの世界では本来あり得ない政治形態なのだ。これも宗派によって差はあるが、政教一体、公私一体、内外一体を理想社会とするイスラム思想と完全に相反することになり、イスラムの数が増えるにつれ様々な問題が生ずる。
このような対立構造の中で注目すべきはトルコの変貌である。オスマントルコから近代トルコへの改革は当にこの世俗主義採用にあった。そのトルコが急速にイスラム教重視策に舵を切り替え、これを欧州との取引材料にしてきている。イスラム流入(特にシリア内紛とイスラム国絡み、それとクルド対策)のカギを握るトルコにEU各国も配慮せざるを得ない状況が出来上がってきている。
著者が本書で問題視するのは、西欧民主主義が是とする考え方がアラブの春を呼び、独裁勢力を打倒することに成功したが、反って社会の混乱は増し、難民を発生させたことの責任にある。問題の根源は欧州側に在るのではないかと。読んでいて欧州非難が強すぎる感があるものの、イスラームからヨーロッパをみれば、それが妥当な意見とも思えてくる。
著者は一橋大学名誉教授(社会学専攻)、同志社大学に移ってもこの問題のフィールドワークを続けており、本書はその最新報告。パンデミック(コロナ禍)の現下、信仰の道に立ち返ろうとするイスラムは確実に増加すると言う結びに重みを感じる。また滞日外国人が200万人を超えた我が国でも、示唆に富む内容であった。

5)日本語の個性
7月末逝った知の巨人が1970年代に綴った国際化への備え。現代にも通用するその慧眼に感謝を込めて合掌-

著者が73096歳で亡くなったことが報じられたのは今月に入ってからだった。本書は3月に購入し積読状態にあったが、急遽追悼読書となった次第である。
1983年に発行され250万部を超えた「思考の整理学」(本欄20098月紹介)、滅茶苦茶な乱読を勇気づけられた「乱読のセレンティビティ」(20171月)、外国人に日本語を教えることで改めて日本語を学ぶ「日本語の作法」(201812月)、いずれも発想法や読み書き、言葉に関するエッセイだが、分かりやすい筆致と含蓄のある内容ですっかりファンになっていた。最近見ないなーと思っている時、たまたま本書が平積みになっているのを発見、奥付を見ると何と「思想の整理学」より遥か以前1976年初版で32刷を重ねたのち20182月に改版初版が、本年2月にはその再版が出たロングセラーであることを知って購入した。
あとがきによると、本書の元となるのは言語学者・英語学者の同人雑誌に連載してきたエッセイにあるようだ。新書として発行されたのが1976年だから、書かれたものの大部分は1975年以前と考えられる。つまり“Japan as No.1”のはるか前、国際社会で存在感が出てき始めた時期であることに留意したい。「これから英語が重要になってくる“であろう”。しかし、日本人・日本語の思考・意思伝達構造は英語民・英語とは異なる。それを自覚するために、日本語の特質をきちんと理解しておこう」が、独立テーマで書かれた15編のエッセイにもかかわらず、底流に貫かれている。
話は日本語の論文や書物に頻繁に現れる“であろう”を英訳することの難しさから始まる。曖昧さを避けるべき理系の論文にも多用され、日本語に精通した英人物理学者が問題提起しているのを偶然目にし、注意していると、ノーベル物理学賞受賞者の江崎博士が「日本語は哲学や科学的思想を伝えるのに不向き」と書いているのを見つけ、“であろう”表現の根源と翻訳の本質を熟考することになる。前者に関しては「日本人が断定的表現を好まないこと」(主語を明確にしないのも同根)、後者は「翻訳は単なる言葉の置き換えではなく、慣用表現まで立ち入るべきもの」と、この一見些細な問題を整理し、翻訳の際は「である」と解すればよいと結ぶ。
この話の延長線上で、日本語表現は「終わり良ければすべて良し」が基本であり、構文として、前半で肯定し終段近くで“しかし”と否定する文体は好まれない、とのとの見解を示す。また、東京弁は歯切れは良いが語尾の変化に乏しく、切れたところが殺風景と難じ、それに比べ語尾に愛嬌がある関西弁が漫才では受けると、“終わり良し”の別例を披歴したりする。因みに著者は旧制中学校を卒業するまで愛知県で過ごしている。
段落(句読点や改行)の曖昧さ、音読と黙読の違い;日本語は黙読に適しているがその間耳は死んでいる、名詞と動詞の重みの違い;日本語は動詞が重要(それが語尾の重要性につながる);明治期西欧文明を取り入れるために多くの新名詞が作られたが、動詞にまでおよばず、そこに翻訳の限界がある、芸術表現と日本語;西欧の演劇はギリシャ以来シェークスピアまで舞台は屋外、対する日本は室内;多数の人間に大声で訴えることに適していない、など身近な例で日本語の特質を教えてくれる。
だからと言って「これからは英語スタイルで」と主張するわけではない。「日本語の個性を知った上で国際化に対応しよう」「外国語コンプレックスに陥らないようにしよう」が読者に伝えたいメッセージである。どの話題も新鮮な切り口で語られ、分かりやすく話が展開するので、現在読んでも違和感なく著者の意図を気持ち良く受け入れられる。ロングセラーに成るべくして成った名著と言える。
著者紹介は不要とも思うが、個人的関心事を少々記してみたい。先ず英語が最も学びにくい時期(終戦前後)に東京高等師範学校・東京文理科大学(いずれものちの東京教育大学、現筑波大学)で学んでいること(1947年文理大卒)。大学卒業直後から、英語研究界では極めて権威ある月刊誌「英語青年」(1898年創刊、研究社)の編集長を12年間務めたこと。お茶の水女子大学教授時代付属幼稚園園長を兼務し、幼児の言語教育に造詣が深いこと。そして驚くことに、我が国英語学・英語教育学の第一人者にも拘らず、一度も国外に出たことがないこと!知的巨人のご冥福を祈って、合掌

6Tanks100 years of Evolution
-盾と矛を兼ね備え、変革・発展を続ける最強の陸戦兵器、その100年を余すところなく伝える戦車史-

近代軍事技術史を調べていて、やりきれない気持ちになるのが日本陸軍である。主要交戦国の内航空機を除くと、何一つ一流兵器が無い。第二次世界大戦で中核陸戦兵器になった戦車にそれを強く感じる。これは浅学な私だけでなく、戦車兵として小隊長を務めたこともある司馬遼太郎が歴史エッセイ「歴史と視点」に書き残している。機械技術の点では劣っていなかったが用兵側に全くその重要性が理解されず、戦争に使える兵器になっていなかったとし「日露戦争のころの日本陸軍の装備は世界の準一流で、第一次世界大戦以降のそれは第三流であり、第二次世界大戦のころには、信じられないことだが、日露戦争時代の装備に毛の生えた程度のものでしかなかった」と総括、戦車は戦艦と三等巡洋艦くらい違うと手厳しい評価をしている。その主因は昭和陸軍の歪んだ戦争観(合理性・客観性を欠く精神主義)にあったと糾弾する。これを読んだのは四半世紀前だが、戦車兵としての体験ばかりでなく、その後戦時の我が国戦車に関する調査を行った形跡をうかがえる内容で印象に残った。爾来「しっかりした戦車史を読んでおきたい」と思い続けていたところ、偶然見つけたのが本書である。本年6月紹介した「気象と戦術」の中で雨や雪あるいは視程に関する記述に本書が参考文献として記されており、著者が機甲兵種の専門家(陸将補で退役)であることから、「これは本格的な内容ではないか」と思い英国から取り寄せた。結果は大正解であった。
副題にあるように、本書は100年にわたる世界の戦車開発・運用変遷史である。初版発刊が2015年。第一次世界大戦開戦時(1914年)以降100年と見ていい。我が国に関しては皇紀2589年(西暦1929年、昭和4年))に試作車が完成した初の国産戦車89式戦車から2010年制式採用の陸上自衛隊の10式戦車までかカヴァーされている。
Introductionに続くAcknowledgments(謝辞)を読んで驚いた。そこに陸軍中将原乙未生(とみお)の名が記され、彼と面談しその後も情報交換を続けたとあったからである。原は“日本戦車の父”と称せられる人で1895年(明治17年)熊本生れ。熊本幼年学校、陸軍士官学校と進み砲兵士官となる。そこから砲工学校・同高等科を卒業、更に東大工学部機械工学科に派遣され、3年間学んで正規の卒業生となっている。士官学校・砲工学校高等科ともに優等で卒業、恩賜の銀時計組である。軍歴の大半は技術研究所勤務だが、兵科将校のため日中戦争では戦車部隊の連隊長も務め実戦も経験している。単なる技術将校でないことは、世界的に見ても極めてまれな軍人なのである。戦後は日本兵器工業会常務理事、防衛庁顧問として戦後の国産戦車開発にも関与している(1990年没)。戦車弱小国であった日本に関し、このような人材に会い、取材したことから「これは半端な本ではない」と予想し、見事的中した。将来著される戦車史は本書後に開発されたものや戦闘を継ぎ足していけば良いくらい、確りしたものである。
著者の姓(Ogorkiewicz)から東欧系と推定、Wikipediaで調べてみると1926年ポーランド陸軍大佐を父として生まれたことが分かった。1940年ルーマニアを経てフランスに亡命、その後英国に移りImperial Collegeで機械工学を修め、米国で装甲車両(戦車を含む)開発に従事、英国に戻り政府国防科学委員会の委員や王立国防大学教授などを務めている(2019年没)。
先ず戦車前史として機関銃や野砲の移動性を高める種々のアイディアや初期の装甲車に触れる。蒸気駆動の牽引車や機関銃車がクリミヤ戦争やボーア戦争、伊土戦争に現れるが決戦兵器にまでは育たない。本格的な戦車開発は第一次世界大戦における機関銃・鉄条網・塹壕を制圧する兵器としてである。米国のホルト社製農業トラクター(特にキャタピラ走行)に注目、この活用を英陸軍のスウィントン中佐や仏陸軍のエチエンヌ大佐が上層部へ提言するが入れられず、英軍では海軍次官だったチャーチルが関心を示し、装甲車(海軍も運用)の延長線で陸上艦委員会を立ち上げ、これが実って本格的な試作が開始、実戦投入となる。この段階は既刊の戦車史にも記されているが、構想段階・設計段階・試作段階・実用段階それぞれの細部を深耕している点で既刊に優る。
技術者ゆえに、戦車の基本性能と言える、火力(砲力)・装甲・機動性が詳しく分析される。これらは他の本でもよく取り上げられるが、正面装備(火力の場合;口径・砲身長・初速など)で済ませることが多い。しかし、本書では一歩踏み込み、収容人数(車長・操縦手(複数人要することもあった)・砲手(時には機関銃手)・装填手)、砲塔の構造やそこへの配員、給弾方式を含めて火力の評価を行っている。同じ砲を使っても回転砲塔に乗れる人数で単位時間当たりの発射数が変わってくるからだ。
辿るのは技術史ばかりではない。当然のことだが、より重要な用兵思想と運用組織の変遷を考察する。歩兵支援、騎兵の機械化(威力偵察や中枢機能急襲)、砲の自走化、独立兵種としての機甲軍、いずれの国もこの問題に悩みに悩む様子が浮かび上がってくる。日本陸軍は歩兵支援から最後まで脱却できず、戦車対戦車戦の発想を欠き、司馬が難じたようにノモンハンでソ連戦車に蹂躙され、フィリピン・レイテ島では米軍戦車に圧倒される。
国産戦車を開発できる国は現代でも多くない(ライセンス生産は出来ても)。本書は基本的に時間軸に沿って進むが、第二次世界大戦終了(ここまで12章の内8章を費やす)まで登場するのは、英・仏・独・ソ(露)・米の5カ国が中心。各国の主力戦車誕生の経緯が、構想・試作段階を含めて詳細に解説される(英;センチュリオン、独;パンテル、ティーゲル、米;シャーマン、など)。中でもT34を含むソ連(ロシア)戦車史は読み応えがある。ソ連の項で日本に触れが、ノモンハン事件が取り上げられるだけ、戦車の名前は全く出てこない。
我が国戦車史を詳しく辿るのは第11Asia Catch Up1925年初の戦車隊発足(少数の輸入軽戦車)、1927年原が中心になって進めた国産試作戦車の開発(大阪造兵廠)から始まり、最新の陸自10式戦車までが7頁使って紹介される。戦前の戦車(89式;初の制式戦車、97式;太平洋戦争主力)で著者が高く評価するのは世界初の空冷ディーゼルエンジンの採用、遊星歯車を使った操舵装置、一方で火力や装甲がお粗末なことを指摘している。これは司馬の評価とも一致する。戦後の戦車でもディーゼルエンジンの優秀性に触れており、その起源は戦前の魚雷艇エンジンにあることを教えられた。74式で国際レベルに達し、90式では自動給弾方式の先駆けと位置付け、10式戦車は軽量化(90式に比べ)、コストダウン、液体砲弾推進剤の採用、コマンド・コントロール機能強化で世界最優秀戦車の一つと評価する。
日本の他、韓国と中国、インドが取り上げられている。韓国の国産戦車K1は韓国軍が仕様を決め米国に詳細設計させたもの。当初最新の米M1エイブラムス同様ガスタービン駆動を希望していたが著者もアドバイザーの一人としてディーゼルを推奨、結局ドイツMAN社のものを採用している。中国はソ連戦車導入史の後に国産戦車開発に触れ最新型はT98としているが性能面にはほとんど言及せず、専らパキスタンを始めとする輸出や技術供与の話題が中心となる。インドもソ連戦車導入史とそれをベースにした国産戦車開発を取り上げている。
本書は全体で350頁あるが、戦車史の部分は250頁程度、その後に添付資料が約100頁ある。ここは戦車の3大評価ポイント、火力(対戦車弾・対戦車ミサイルを含む)、装甲(複合材を含む)、機動性の発展史であり、本文を補う技術解説編として戦車理解をさらに深める。特に、火力・装甲は一般向け兵器啓蒙書や戦史、関係者の自伝などを通してよく知られるところだが、機動性に関する解説は出色だ。各種エンジン(ガソリン、ディーゼル、ガスタービン;現在はディーゼルが主流)、動力伝達機構、車体を支えるサスペンション(コイル、板バネ、トーションバー、油圧/空気圧)、重量物を機敏に動かす操縦装置などの発達史を、本書ほど系統立ててまとめたものは見たことがない。専門家が参考にするだけの内容だ。

蛇足;本書の大きさはハードカヴァーの欧米標準サイズ(6in×9in)、我が国単行本より一回り大きい。表紙は無論ハードカヴァー、写真も16頁(一部カラー)ある。Amazon経由で求めたので送料不要。価格は約2800円。最近の我が国単行本は貧弱なソフトカヴァーでも34000円する。この差はBrexit(ポンド安)?

7)桶狭間の戦い前夜の真実
-陸軍参謀本部お墨付きの定説を覆す、アマチュア史家による桶狭間前夜の今川義元の所在-

読書をしていて、小学校以来日本史とどうかかわってきたか、時々自問することがある。神話時代から徳川に至る時代区分くらいは断片的に社会科の授業で学んだ気がするのだが、はっきりしない。はっきりしているのは講和条約が発効し、歴史教育が許された中学校2年生時、社会科の一環として毎週1時間ほど日本史が講じられたことだ。秀吉や家康はそれ以前から映画や漫画などを通じて知っていたが、信長は太閤記で日吉丸(秀吉)が草履を温めた大将くらいの知識しかなかった。しかし、戦国時代から全国統一が成るまでの過程を学ぶ際、若い先生が信長の桶狭間や長篠の戦いを称賛したので、三英傑の中で信長も記憶に残る人物になった。だが、成人しても関心が持続したのは、鉄砲を巧みに使った長篠の戦いの方で、桶狭間の戦いは単なる歴史上の一コマに留まった。そんな桶狭間を突然読むことになったのは、現役時代異業種交流で知り合い、今もOB会で付き合っている著者が、長年の研究成果として本書を出版したからである。
いささか禅問答めくが、本書の内容を一言で表せば“神は細部に宿る”となるのではなかろうか。先ず時間が“前夜”と言う極めて短い時間帯であること。本書の中で論じられるのは、その時今川義元は沓掛城に居たのか大高城に居たのかと言う点(信長は清州城に在る)、現在は両地とも名古屋市緑区のごく狭い地域に過ぎないのだ。戦闘形態が正面からのぶつかり合いか、迂回作戦か、はたまた追撃戦だったかを問題にしていること。大きな歴史の流れの中で、どれも一見どうでもいいようなことが重要な意味を持つ。つまり日本史はこれまで歩んで来た道とは異なる展開をした可能性がある、と著者は考える。
定説は沓掛、これに対して著者は大高説で挑む。もう一つの桶狭間の戦いである。両説とも出発点は江戸初期に書かれた「信長公記」にある。著者は信長旧臣の太田牛一。原著は残っておらず写本が14本あり、著者はその内の8本に目を通し、関連する「甫庵信長記」「三河物語」「総見記」なども参照して“大高説”に至る。
ではなぜ“沓掛”が定説になっているのか?桶狭間の戦いは、何と言っても歴史に残る合戦。江戸時代何人もの研究者が居り、彼等の研究結果が残されている。いずれも「信長公記」(多分写本)が元になるのだが、空白部あるいは孫引きなどあり、読み間違えの可能性がある。“沓掛”説の多くは江戸末期に集中、これに基づく見解を明治陸軍の参謀本部が「日本戦史 桶狭間の役」に採用したことが現代の定説になった、と言うのが著者の論である。
著者が自説に至るのは古文書の解読に留まらない。史料に記された発言や数字(時刻、距離、兵員数など)・潮の満干、古地図などを“大高説”証明に動員する。
結論は、「義元は桶狭間前夜大高城に居た」「当日午前織田の前哨砦を二つ落とし、信長が出てこないと見て桶狭間へ撤収中だった」「信長は偵察によりそれを知り、追撃戦を仕掛けた」「だから2千の兵で2万を蹴散らし、3千の首をとることが出来た(中学校で習ったとき、数字はともかく、少数で大軍を破った点が最も印象的だった)」「迂回説はたまたま満潮で閑道を通っただけ」、である。
著者は横浜国大工学部出身、長く三井造船に勤務したエンジニア。このテーマは退職後しばらくしてから研究に着手、私も45年前から進捗状況を聞いていたが、ここに成果物がまとまったことを喜んでいる。ただ、構成が問題提起→関連情報紹介・検証→仮説設定→証明の手順を踏む研究報告型。できればさらに肉付けして、読み物(歴史ノンフィクション)にしてもらえたらと願う。定説(沓掛説)を唱えている現役の歴史学者も実名で批判している。彼らの反論も知りたいところである。
なお、本書は一般書店には置いておらず、私もAmazon経由で求めた。

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