2012年3月30日金曜日

決断科学ノート-111(自動車を巡る話題-5;自動車行政)




若者の自動車離れが言われだして久しい。しかし、これは若者だけの現象だろうか?いまやほとんどの家庭に車があるものの、“クルマを持つ楽しみ”を語る人が、若者に限らず。明らかに減っている気がしてならない。特に“運転の楽しみ”にそれが顕著だ。そこには、わが国交通史とそれを踏まえた諸政策が影響していると見る。
車に関わる政策には、交通(輸送)、道路、安全、環境、産業(自動車生産)、財政(税)、エネルギーなどがある。これらの政策立案に際して、自動車、特に自家用乗用車と言うのはどのように捉えられ、扱われてきたかである。先ず取得・運用・維持のための費用として、取得税、重量税、ガソリン税(軽油税)、強制保険・任意保険、車検・法定点検費用、通行料、駐車料金、免許更新料などがかかる。発展途上国や特殊な国家(シンガポールのような都市国家)を除けば、高額の費用負担を強いられている。次いで運転の利便性に関しては、道路整備(高速道路網ばかりで無く、歩道との明確な分離、バイパス整備などを含め)の遅れや、信号の多さ(歩行者にはありがたいが)、軽自動車から大型トラックにまで無制限な車線利用(ヨーロッパでは大型トラックはセンターライン側の追い越し車線は使えない)、駐停車スペースの少なさなどが挙げられる。
ここから見えてくるのは、“クルマは贅沢品”と言う自動車黎明期の考え方、その大本ともいえる馬車の無かった独特のわが国交通史、更には土地所有に対する異常な私権の強さなどである(本来国土は国民全体のものである)。特に、馬車交通の歴史を持たなかった特異な歴史の影響は大きい。ヨーロッパ大陸に張り巡らされたローマの道や駅馬車が荒地を疾走する西部劇に見るアメリカとの違いは決定的だ。結果として、彼の地では考えられない、“車は所有して欲しい。しかしあまり乗らないで欲しい”という政策が出来上がっていくのである。これでは自動車成熟社会で“持って・乗って楽しいクルマ”は生まれてこない!(経済的に、クルマに手が届くか否かギリギリの社会では、どんなクルマでもそれなりに憧れである)
確りした自動車産業を保持することは、当面わが国にとって最重要経済課題の一つだ。一方で自動車も生産技術だけで差別化される時代は終わりつつある。コモディティ化は後進のメーカーにも先行者キャッチアップの機会を与える。一味違うクルマ(乗用車)を作り上げるための材料は、その国の自動車の使い方・乗り方から生み出される。部分的に速度制限の無いアウトバーンを持つドイツの車はスピードばかりで無く、一定期間当りの走行距離もわが国とは比較にならぬくらい長い。当に自動車を使いこなしているのだ。そして、この日常の使い方とそこからの反応が、独特のステータス・シンボルとして結実している。
エコは新しい競争環境でもある。山がちで狭隘な国土も見方を変えれば有利な条件だ。ヒルクライムと言う、山登り専門の自動車レースもある。「日本製のクルマは山道では滅法強い!足回りを中心に安全策も確りしているので、急峻で狭い山道でのハンドル操作も全く恐怖感がない。降りでエネルギー回生を行うので燃費も抜群だ」と言うような評価がされれば、差別化因子、更には日本車のキャラクターとして世界に認められていくのではないか。そのためにはもっと国内でユーザーが乗りこなし、メーカーにフィードバックするシステム(メディアを含む)が必要だ。
自動車行政が、乗用車のユーザーを増やし、これを積極的に使い込み、楽しんでいくような方向に抜本的に変わるよう期待したい。軽自動車とミニバンをいくら作っても国際競争には“絶対に勝ち残れない”のだから。

2012年3月25日日曜日

工房フォトギャラリー-9;ソ連空軍初等練習機に乗る


  
河川敷飛行場に戻ると、ロルフが「もう一機のヤツに乗るか?」と聞いて、屋根と柱だけの吹きさらしの格納庫の隅の方に向かう。ついていくとそこには操縦席が赤いキャンバスで覆われ、濃緑色に赤い星マークが描かれた、ソ連空軍の初等練習機、YAK-18が置かれていた。操縦席の下にはご丁寧に、キリル文字で何やら書いてある。下段が“ロルフ(Rolf)”。同好の士との共有物なのだ。
このYAK-18はソ連オリジナルではなく、1960年代から中国でライセンス生産され、実用に供されていたもの(BT-6;雛鷹)が民間に放出され、それをレストアし、今は航空ショウなどでデモンストレーション飛行や模擬戦を行ったりしているとのこと。従って計器版の文字は新中国漢字で書かれていた。
先ほど乗ったセスナとは大違い。機内はスパルタンな雰囲気で、構造材の骨組みが直に見える。風防は隙間だらけ。座席位置はタンデム(前後)でお互いのコミュニケーションはインターフォーン経由になる。それもチャンネル切換え式だ。彼が前席、私は後席だ。「さっきのセスナとは違うから、操縦装置には絶対触るなよ!」
滑走路の半ばで離陸し、周回して滑走路上をローパス、いきなり旋回して急上昇。一直線に延びる米加国境上をしばらく東に向かう。国境の両側は深い森林地帯だ。「ここで落ちたらしばらく見つからないぞ!」
カナダの森林地帯に戻って急上昇・急降下、さらには宙返り。果てはバレルロール(横回転を連続する)まで行う。「大丈夫か?」「OKOK!」 肩から締めるシートベルと構造材に捉まるしか身体を保持する手立てがないが、不思議なもので、ジェットコースターで体験する恐怖感は無い。
自宅の上を飛んで、家族が庭へ出てくるのを確認して帰途についた。わずか30分程度の飛行だったが、軍用機の機敏な動きを体験した貴重な機会であった。
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2012年3月22日木曜日

工房フォトギャラリー-8;セスナ小型水上機に乗る



 
飛行機への関心は、(受験の失敗で)初志が叶えられなくても、50代まで持続していた。19955月カリフォルニアでの会議の後、ヴァンクーバーに住む、旧知の若い大学教官夫妻を訪れ、彼の地での非営利組織でのIT利用に関して話を聞かせてもらう機会を持った。彼らも私の飛行機好きを知っており、そこには思わぬプレゼントが用意されていたのである。
夫人の「週末一日フリーな日を作っておいて」とのメッセージを自宅への招待くらいに考えたのだが、告げられたのは「あなたの飛行機好きを父に話したところ、『それじゃ丁度別荘の利用準備に出かけるので、自家用機で一緒に行こう』と言っているの」とのこと。夢のような話だった。
彼女の父、ロルフは現在ヴァンクーバーの郊外で歯科医を営むが、元々はノルウェー空軍のジェット戦闘機パイロット。カナダ空軍へ交換派遣されているとき、教官夫人の母と知り合い、軍と国を捨ててカナダに移住し、歯科医として新しい人生をスタートさせたのだ。経済的に大成功し、別荘を持ち、趣味として飛行を楽しめる身分にあるのだ。

その日フレーザー川の河川敷に在るプライベートの仲間で維持している飛行場に、大学教官の娘婿と私の三人で向かい。準備・点検をし、そこからヴァンクーバー遥か北方に在る、松島のような美しい湾に面した別荘(専用桟橋がある)まで飛行し、家具や部屋を点検して戻ってきた。
片道約1時間の飛行。単発小型機は初めてだし、まして水上機である。その副操縦席に座り、短い時間だが操縦桿さえ握らせてもらった。終生忘れられぬ経験であった。
しかしロルフのプレゼントはこれだけではなかった。次回をお楽しみに!
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2012年3月18日日曜日

決断科学ノート-110(自動車を巡る話題-4;フォルクスワーゲン)



 
少し古くなるが、38日の日経朝刊に世界の自動車大手12社の2011年度の業績が取り上げられ、“収益の二極化が鮮明”との見出しが大書きされている。好調は米・独・韓、不調は独を除く欧州と日本である。収益トップはフォードの1.56兆円(570万台)、二位はフォルクスワーゲン(VW)の1,54兆円(820万台;2位)、三位はGM58百億円(販売台数トップ;9百万台)、日本勢トップの日産(ルノーは含めず単独)は7位;29百億円(470万台)、トヨタは10位;2千億円(7百40万台)である。
記事によればフォードとVWは会計上の一過性の処理があり、数字が突出したとあるが、VWの営業利益は前年比58%増、1兆円の大台を超えた唯一の自動車メーカーになっている(嘗てトヨタもこの数字を実現しているが・・・)。本稿-1でも述べたようにヒュンダイ(53百億円、660万台)が「いまやトヨタはライバルで無く目標はVW」と語るのもこの辺のところにあるのだろう。両社とも成長著しい中国で大きな伸びを示し(ヒュンダイ27%、VW17%)、競い合っていることもそれに拍車をかけているに相違ない。
VWの好調はどこからきているのだろうか?ここからはデータをベースにした経営分析から離れ、一自動車ファンとして考察を試みてみたい。
VWと言えばドイツ語で“国民車”、中国でのブランド名は“大众(大衆)”である。当に一般庶民向けの車にビジネスを集中してきた会社とのイメージが強い。初代ビートルはその狙い通りの成功を収めた車として自動車史に残る名車である。しかし、名車ゆえに後続モデルにヒット作が出現せず、中興の祖、ゴルフ誕生(1975年)まで苦難の時代を迎える。今やCセグメント(スモール・ファミリーカーあるいはミディアムカー)の代表選手となり、他社の新車開発では常にベンチマークとなるこの車の存在が、単一車種(亜種;ワゴン、スポーツカー、新ビートルなど)大量生産の効果を極大化し、今日の好調をもたらしていると言える。加えて、初代の成功とその後の失敗(次期モデル開発)に学び、市場や規格の変化にも機敏に対応、上位にパサート、下位にポロ、さらにはアップ(1リッター3気筒エンジンの小型車;昨秋欧州で発売)などを取り揃え、世界の“大衆”の期待に応えられるラインアップを着々と整えてきていることも見逃せない。
しかしながらVWには、“大衆車”メーカーとしての成功が大きいほど困ることも起こってくる。どんなに品質が良くても“高級車”とは無縁のイメージが強くなってしまうのだ。先の日経記事ではダイムラーは210万台で57百億円、BMWは百70万台で5千億円の純利益を上げている。VWの一台当りの純利益はこれらに比べ半分以下と言うことになる。イメージだけでなく儲けもまだこれらに比べると薄いのだ。
これに対する対応策は意外と早くから手を打たれている。1965年におけるアウディ社の買収がそれである。アウディは戦前のアウトウニオンにつながる名門、ネームバリューに不足はなかったし技術的にも前輪駆動では一級のものを持っていた。ただこの時期アウディも経営が苦しく、VW自身がビートルの次を求めて呻吟していたこともあり、相乗効果を発揮するには程遠い経営環境だった。これが生きてくるのは先ずゴルフ開発(VW初の前輪駆動)、80年代から90年代にかけてのアウディ・クワトロ(4輪駆動)による世界ラリー選手権での大活躍、更にはその後のル・マン24時間レースにおける圧倒的な強さに待たなければならなかった。
確実に御三家の一角を占めるまでの地位を得たアウディは、1999年フェラーと並ぶスーパーカー、ランボルギーニを傘下に収めている。
もう一つはポルシェとの経営統合である。初代ビートルはナチス時代にフェルディナント・ポルシェ博士がヒトラーの“国民車”として設計・開発したものである。戦後博士がビートルの生産やVW社の経営に関わることは無かったが、息子のフェリー・ポルシェがポルシェ社を立ち上げ、VWとの共同開発スポーツカー、カルマンギアをアメリカマーケット中心に成功させるなど、緊密な関係を保っていた。2005年頃からビジネス好調なポルシェがVWの買収に動くが、資金が続かず逆にVWに買収され、経営統合に向けて動き出している(2011年末を目指したが、種々の制約をクリアーできず未達成)。これに深く関わったのは当時のVWCEO(現監査会会長)、フェルディナント・ピエヒ、ポルシェ博士の孫(娘の子)である。
高級車と言えば何と言ってもロールスロイス(R&R)。そのR&Rの倒産(1971年)と国有化、ヴィッカースへの売却を経て1998BMWと買収合戦が起こり、結局R&RブランドはBMWへ、ベントレーはVWのものとなった(W12気筒エンジンはVW開発・供給)。英国の超高級車のインテリアは独特の風格があり、今でもこれを愛でる人は多い。
ブランド戦略の留めは、往年(戦前)のフランスの名車ブガッティを買い取り、それを復活させたことである(ヴェイロン;W18気筒+4ターボ・エンジン搭載(1015馬力)、最高速度400km/h以上、1.8億円!)。もっともこれは失敗だった気がするが・・・
こうして嘗ての“大衆車”メーカーは、王侯貴族のステイタスシンボル、ブガッティ、ベントレーからスーパーカーのスター、ランボルギーニ、ポルシェ、ベンツ・BMWの量産高級車に対抗できるアウディ・シリーズまで、“高級車”も扱う、史上比類無き幅の顧客を対象にする一大自動車メーカーに変身してきているのである。そしてこの上級マーケットへの挑戦が収益改善に結びついてきているのではなかろうか。

2012年3月16日金曜日

工房フォトギャラリー-7;梅尽くし

 昨日(3月16日)は好天に恵まれ、じっとしてはおられず湯河原・熱海方面へドライブと梅を楽しみに出かけました。
湯河原は幕山公園の梅林(約4000本)、山全体が梅で彩られるのですが、さすがに今年は寒さが続き、まだ全体としては五分咲きでした。しかし下の方は満開も沢山あり、出かけた甲斐はありました。
 ここだけではチョッと寂しいので、この後熱海梅園(400本強)まで行ってみました。ここは例年なら1月から咲く早咲きもあるので、満開でした。
文化勲章受章者、澤田正廣(彫刻家、絵も描く)も併設され、自然とは異なる美しさも鑑賞できました。
 帰り道は暖かいので海岸沿いに走りましが、江ノ島以降が大渋滞で、いつもの倍近い時間(江ノ島から自宅まで2時間)がかかりました。
写真(クリックすると拡大します)をお楽しみください。

2012年3月13日火曜日

工房フォトギャラリー-6;東京湾一周ドライブ




今年はまだ箱根にも出かけていない。3時間程度の三浦半島ドライブが数回だけ。「フルに使えて暖かい日を」と念じていたがうまくタイミングが合わない。先週から今日(313日(火))が晴れたら、少々寒くても出かけようと決めていた。予報は「晴れるが真冬の寒さが戻る」とのこと。長く乗っていない車の洗車は辛かった。

10時前家を出て、行きつけのセルフで給油。昨日まで細部をつめた東京湾一周ドライブに出かけた。

ルートは;自宅→幸浦→湾岸→浮島→海ほたる(右上)→木更津南で自動車道を出て16号に入り南下→県道90号を経て→富津岬;ここで昼食をとり→内房線に並行する465号線を行き→佐貫で内房なぎさライン(127号線)を鋸山へ(ここで小休止)→同じ道を少し戻って浜金谷へ→ここからフェリーで久里浜へ上陸→いつもの半島ドライブルートの帰路(相模湾沿い)を走って→自宅;である。

一番の目玉は富津岬。東京湾では観音崎と並んで、地形的に極めて目立つ位置にある。ここは小学校5年生のとき近所の家族が大貫に夏の家を借りており、そこに招かれ、その親族の一人(高校生)と大貫の海岸から岬を目指して歩いたことがある。しかし海水パンツによる股擦れが酷く途中で断念した。以来気になっていたが一度も訪れるチャンスが無かったのだ。

岬の先端は異形の展望台(右中)とプレファブの売店しかなく、朽ち果てた第一海堡(砲台)(左上)が目の前に見えるだけの、観光スポットとしては寂しいところであった。岬の付け根部分は割りと整備が進み、公園、広い駐車場それに何軒かの食堂もあり、三浦半島、伊豆半島、箱根などと比べはるかに安く美味しいものが味わえる(てんぷら定食;海老(一匹殻ごと)・穴子・キス・貝柱・紫蘇、海苔の佃煮、アサリの味噌汁)。

鋸山は中学生のとき台東区の施設があり臨海学校が開かれたときに登っている(下から徒歩)。次は1990年社外の人たちとの研究会の際訪れた(ロープウェイ)。今回は中腹の日本寺の駐車場に車をとめ、そこから階段を上がったが、近年これほどきつい思いをしたことが無い。この歳で本格的な登山をしている人の凄さがわかた(右下)。

日本寺の境内の梅(紅白)はほぼ満開に近い(左中)。南房総は確実に春だ(富津岬から浜金谷まではオープンで走るが寒さは全く感じない)。浜金谷からのフェリーも穏やかな航海で“ひねもす のたりのたりかな”の境地であった(左下)。

この一周ルートは約160km。一日ドライブとしてはなかなか良いコースだが、問題はアクアラインとフェリーの費用が滅茶苦茶かかることが欠点だ。
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2012年3月12日月曜日

工房フォトギャラリー-5;南極観測砕氷艦「白瀬」に乗る




20055月、自衛隊幹部教育に携わる友人の好意で、三代目(宗谷・富士に次ぐ)南極観測砕氷艦「白瀬(排水トン数;11,600)」に乗る機会があった。白瀬の母港は横須賀だが、観測行の出港地・帰港地は晴海である。観測隊員を下ろした翌日、横須賀へ回航される最後の航海に息子と一緒に招待してもらった。
当日横須賀は直ぐ隣になる横浜金沢区から銀座を経て晴海へ。幸い天気は良かった。招待者は200人くらいいたのではなかろうか(通常観測隊員は60名程度だからおそらく乗船者数はこの時が最大になるのだろう)。食堂や会議室にそれぞれのグループが陣取るが、我々に割り当てられたのは艦長会議室であった(手配された弁当もここでいただいた;実費負担)。出港後しばらくすると、この部屋で艦長にこの船や観測航海に関するお話までいただいた。
艦内は個室や機関室を除いておおむね開放され、艦橋も立入り禁止域はあるものの、操舵手の直ぐ後ろで操艦を見学できる。レーダー監視員や中央と両翼で双眼鏡を構える監視員からの報告と確認応答が頻繁に交わされ、東京湾内の船の往来の多さに驚かされる。このとき指揮をとっていたのは副長だった。
ヘリコプター甲板に出てみる(右上)。明るい日差しだが風が冷たい。ヘリコプターの基地は館山。3機が次々と最後の飛行に飛び立つ(左上)。
2時頃何事も無く桟橋に接岸した(右中)。白瀬への招待客はここで解散するが、我々のグループは同じ桟橋の向かい側に停泊する護衛艦も見学(左)。操舵室も見せてもらう(右下)。見かけることは無かったがこの艦には女性乗組員もいるとのことだった。
基地を出て京急汐入駅に近い横須賀プリンスホテルの展望喫茶室で幹部学校士官たちと懇親会を持ち、4時過ぎ全てのプログラムを終えて帰路についた。自宅最寄り駅まで10分もかからない。楽しい5月の一日だった。
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2012年3月9日金曜日

決断科学ノート-109(自動車を巡る話題-3;軽自動車)




このところ何かと軽自動車が政治面、経済面で話題になることが多い。1月にはTPP議論の中で「米国が軽自動車規格を参入障壁と非難」と言う記事が出たし、先月末にはスバル360で軽自動車普及に先鞭をつけた富士重工業がついにその生産(軽トラックのサンバー)を終え、このマーケットから退場することが報じられた。
TPPの話は全米自動車政策会議(AAPC)から出たとされるが、どうも“軽”を狙い撃ちにしたのではなく、短命政権の通商政策のふらつきや為替介入、米国車の販売低迷がその根底にあるようだ。ただ世界的に見れば軽がかなり日本独特の市場向けであることは間違いなく、その割合は年々増加しているのだから、ビッグスリーの苛立ちも分からないではない。
20113月末の国内自動車保有台数を見ると、総数約75百万台の内36%を軽自動車が占め、1998年から10%強も伸びているのだ(因みにこの統計で軽比率が最低は東京の17%、最高は沖縄の53.5%;これは個人所得の順位と正反対;新興国・途上国での市場ニーズに何が求められるか象徴しているのではなかろうか)。この市場動向の中に各社の軽戦略が見えてくる。トヨタは早くからダイハツを傘下におさめ、ここに経営資源を集中している。トヨタグループ入りした富士重工の軽生産停止もこの考え方に沿ったものだ。日産はOEMでスズキや三菱の軽を自社ブランドにし、マツダも同様実質はスズキ車OEMで市場開発者(R360クーペ、キャロル)の地位を維持しようとしている。ホンダは一旦撤退していたこの市場に、昨秋エンジンを含めて新開発のNボックス(ホンダを四輪車メーカーとして飛躍させたN-360にあやかったのだろう)を投入して復帰してきた。三菱は高級(?;高価格)軽自動車;ミーブを電気自動車化してeミーブを発売、電気自動車に力を入れる日産との関係を深めている。GMと別れVWとの提携も解消した(VWは一方的な破談を受け入れておらず、法的手段で取り込もうとしている)スズキは小型ディーゼルを求めてフィアットとの結びつきを深めている。独立色が強く、インド市場を抑え(外資参入障壁が外れてからはシェアー低下傾向にあるが)、上位競合車種の少ないことは世界のメーカーにとって魅力的な提携先さらにはM&Aの対象に違いない。
しかし、国内市場では好調な軽も世界的に見ると問題山積、当にガラパゴスである。税金や保険、車庫証明で優遇されている反面、エンジン容量(660cc)、サイズ(長さ3.4m、幅1.48m、高さ2m)を厳しく制限されている。特に幅は問題で欧州車のうち最も軽に近いスマート(ダイムラーと時計のスウォッチの合弁会社製)もここだけが規定を満たせず(1.56m)小型車扱いになってしまう。幅が膨らむ最大の理由は安全対策にあり、他の欧州車も年々広くなっている。逆に日本規格の軽は世界の安全規格をそのままではクリアーできないのだ。スズキが欧州で比較的人気があるのはスウィフト(ハンガリーで生産)の存在であり、これは国内でも軽ではない。欧州マーケットに挑んだダイハツはついに撤退を決めた。
もう一つ大いに誤解されているのは燃費である。軽も走り方によっては決して普通車に比べ燃費が良いわけではない。特に高速道路を高負荷(例えば3,4人乗り)で長距離走ると、“高回転”を長時間持続せねばならぬため10km/l以下になることもあるのだ。また普通車に負けぬようダーボ付きエンジンを装備した車も決して燃費は良くない。最近これを飛躍的に改善したというミライース(ダイハツ)やアルト(スズキ)が発売され、公称32km/lと言っているが、これでもマツダのスカイアクティヴ・エンジン(30km/l)と大差ない。更なる燃費効率の向上も大きな課題なのだ(まさかハイブリッドは無いだろう)。
最大の問題点は、小さな車を製造販売して儲けるビジネスモデルにある。ビッグスリーは儲けの薄い小型車さえ長く造ろうとはしなかった。欧州では子会社(英フォードやドイツのオペルなど)にその開発を丸ごと任せていた。この関係はわが国市場における普通小型車と軽の関係にもなぞることができる。トヨタ・日産は普通車に専念し、両方を扱っていたマツダ・ホンダ・富士重工・三菱は経営資源分散による非効率で路線選択を迫られていたのだ。残る軽専業のダイハツとスズキ(ここには小型車のスイフトがあるが、軽のノウハウの延長線上でビジネスをしている)は強烈なライバル意識で競争し、優れた車を次々に市場に投入し、前出の“36%”実現の両輪となった。
インドの超低価格車ナノに代表されるように、新興国市場での“軽類似小型車”に対する潜在需要極めて大きい。現在は対象市場が違うスマート、フィアットチンクエチント・ツインエアー(2気筒エンジン)やヒュンダイグループの起亜も超小型車に強い。歴史と技術で負けない国産各社が世界で勝負できるよう、早急に環境整備(優遇処置と規格の見直しなど;優遇処置を頑迷に言い募ることは、結局特殊環境での生き残り策であり、ガラパゴスへの道を辿ることになる)を進めることによって、グローバルなビジネス展開を図れるよう関係者の努力を望みたい。

2012年3月7日水曜日

工房フォトギャラリー-4;米空軍博物館




ライト兄弟の兄、ウィルバーはインディアナ州生まれだが、弟オーヴィルはオハイオ州デイトンで生まれている。兄弟はこの地で生涯の大半を過ごし、ここであの人類初飛行に至る活動を行っている(成功したのはノースカロナイナ州のキティホークだが)。現在そこには米空軍発祥(元々は陸軍航空隊)のライトパターソン基地があり、その一角に米空軍博物館が存在する。
米国は最も多く訪問し、累計では最も長く滞在したが、仕事には縁も無くめぼしい観光地も無いここを訪れることは容易ではなかった。20052月やっとその機会がやってきた。クリーブランド郊外に住む石油コンサルタントを訪ねた際、次の訪問先の予定でスケジュールに空が出来た。コンサルタントの友人はクリーブランドから3時間かけてデイトンまで送ってくれた。彼も未体験で興味があったのだ。
三棟の巨大な格納庫に300機を超す軍用機(旅客機は大統領専用機のみ)がぎっしりと詰め込まれている。多くは第二次世界大戦機とその後の米軍機であるが、ドイツ機も世界初の実用ジェット戦闘機Me-262Ju-88爆撃機(右上)などが展示されていた。
日本機は無いものの、太平洋戦争に縁のある機体も多い。空母から飛び立ち東京爆撃を敢行したドゥーリットル爆撃隊のB-25 (ミッチェル;米空軍生みの親の名前)、ミッドウェイ海戦で日本機動部隊を発見したカタリナ飛行艇(左上)、それに長崎への原爆投下機、B-29 “ボックスカー”(右中)などがそれらだ。
朝鮮戦争で活躍した巨大輸送機、グローブマスター(左中)や歴代大統領の専用機(初代はルーズヴェルト用;ジェット時代になって“エアーフォース・ワン”と呼ばれるようになる)、6発のレシプロエンジン爆撃機、B-36(右下)から新しいステルス戦闘機(左下)やB-1爆撃機も既に納められていた。
友人はその日に帰ったが、私は翌日も一日ここを見学、至福の時間を過ごすことができた。
スミソニアンと違い本物の格納庫で窓が全く無いため光量が少なく、フラッシュを焚いても暗い写真しか残せなかったのが残念でならない。


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2012年3月4日日曜日

今月の本棚-42(2012年2月分)


(手前女児の初節句です)


<今月読んだ本>
1)デッド・ゼロ(上、下)(スティーヴ・ハンター);扶桑社(文庫)
2)スエズ運河を消せ(ディヴッド・フィッシャー):柏書房
3)サラリ-マンが“やってはいけない”90のリスト(福田秀人);ぱる出版
4)「超小型原子炉」なら日本も世界も救われる(大下英治);ヒカルランド
5)ユーラシア横断15000キロ(金子浩久);二玄社
6)会いたかった人、司馬遼太郎(中村義);文芸社
7)「科学的思考」のレッスン(戸田山和久);NHK出版(新書)

<愚評昧説>
1)デッド・ゼロ
お馴染み元海兵隊スナイパー、<ボブ・スワーガー>シリーズ最新版。今度のテーマはアフガニスタン。とは言っても主たる舞台はアメリカ。
タリバン・アルカイダに通じる地方軍閥リーダー殺害の密命を帯びた海兵隊狙撃手と標的手(スポッター)がその途上で高度な戦闘能力を持つ謎の傭兵グループに襲われ、標的手は殺される。辛うじて生き延び、軍閥邸近くの旅籠にたどり着いた狙撃手はチャンスを狙うが、その旅籠にミサイルがぶち込まれる。
半年後親米派に転じた軍閥リーダーは、アメリカの期待を担う新アフガニスタン指導者として訪米する。しかし海兵隊狙撃兵は生きており、与えられた命令を実行すべく行動する。傭兵たちも彼の殺害が契約条件だ。国賓として軍閥リーダーを迎えるアメリカは惨劇を阻止すべくCIAそしてFBIを動員する。狙撃兵の心理や作戦を読めるボブはFBIの特命捜査官としてこの阻止作戦に加わることになる。
シリーズもこれで10冊目、ボブも高齢になり、自ら最前線に立つわけではない。それに従いストーリーが複雑になっていく(国内・国際政治や他国の文化あるいはハイテック絡み)。その部分がどうしても冗長・荒唐無稽で緊張感が途切れる。イアン・フレミング(007シリーズ)、トム・クランシー(ライアン・シリーズ)も同様だった。ボツボツ打ち上げの時期だろう。それでも次作が出ればまた読むのだろうが・・・。

2)スエズ運河を消せ
「イギリス人が真剣にやるのは戦争と道楽だ!」と言う格言がある。近いところでは、サッチャー首相のフォークランド戦争における断固たる態度などその代表例だろう。この“と”を“with”とすると(チョッとこじつけだが)“道楽をもってする戦争”と意訳できる。この本は当にこんな世界を扱ったものである。英語のタイトルは「the war MAGICIANthe man who conjured victory in the desert;砂漠の勝利を魔法で呼び込んだ男」 主人公は著名な英国の奇術師、スエズ運河を消すのも実話なのだ(本欄で“種明かし”はしません)!
ジャスパー・マスケリンは十代前まで遡れる名家の出自。とは言っても貴族ではなく、錬金術師や科学者そしてここ三代は奇術師。祖父の八代目は二つの箱に入る二人を瞬時に入れ替える“魔法の箱”の考案者だ。
イギリスがドイツに宣戦すると志願するのだが、年齢制限で受け付けてもらえない。チャーチルまで動かしてやっとカモフラージュ部隊に入隊する。稚拙な張りぼての兵器、兵や兵器を隠す偽装は今次大戦以前から行われており、この部隊もそれを行うことが主たる任務であった。彼の仲間は、動物の擬態研究を専門とする大学教授、漫画家、色彩感覚に優れた画家、大工など多士済々。しかし出番はなかなかやってこない。19414月やっと中東軍(在エジプト)に加わることが出来る。ロンメルの快進撃が続いている時である。
北アフリカ戦線は幅が狭く(北は地中海、南は果てしない砂漠)、兵站線は東西に長い。また海同様全てが見渡せる。動きを察知されないよう欺瞞作戦は狐と狸の騙し合い(戦車をトラックに、トラックを戦車に、ダミー戦車の陰影を工夫して実物のように)。少しずつジャスパー小隊の実績が認められていく。やがては重要港湾アレキサンドリアを隠し、戦艦を偽装し、ついにはスエズ運河を消してしまう。根本にあるのはジャスパーが奇術で培った人間の錯覚や心理を活用したものだ。最後の大舞台は反攻の山場となるエル・アラメインの戦いである。南(砂漠)から来るか?北(海岸沿い)から来るか?ロンメルは最後までその判断に迷う。19426月に始まっていた一連の戦闘は8月の第八軍司令官、モントゴメリーの赴任で英軍の攻めに転じ、11月初めには勝敗が決まって、ドイツアフリカ軍団は32千人の兵士、千門を超える大砲、四百五十両の戦車を失い、チュニジアへと追われていく。
1111日チャーチルは英国議会下院でこの勝利を称え「ここで一言言わなければいけないことがある…奇襲と戦略だ。カモフラージュの見事な効果で、砂漠では戦術的奇襲が完全な成功を見た。……」と演説する。
諜報戦、暗号戦そしてカモフラージュ作戦など、知能戦で一段群を抜くイギリスの戦い方の中でも極めつけのユニークなマジック戦を堪能した一冊であった。

3)サラリ-マンが“やってはいけない”90のリスト
ビジネスマン人生を5年前に辞めてからはほとんどこの種の書物に触れることは無かった。今回出版社から献本があり読むことになった。一見軽いサラリーマン向けハウツー物のタイトル・体裁をとりながら、意外と奥の深い内容で、久し振りに45年に亘ったサラリーマン生活を振り返り、「その通り!」と思わずつぶやく場面がしばしばあった。
内容は、企業経営における従業員・管理者・経営者が直面してきた個別の課題やその解決法を命題にして、その適否や限界を語り、個人としてどう当たるべきかを示す形式になっている。例えば、“創造的破壊”、“成果主義”、“官僚化”、“目標管理”、“競争戦略”、“組織平準化”などなど。そしてこれらの適否・限界を示すのに、歴史の厳しい批判に耐えて残った古典的な経営哲学(例えばマックス・ウェーバーの官僚論など)や実践的な指導者育成資料(例えば、米陸軍指導者マニュアルなど)が援用されている。
「素人が戦略を語るとき、将軍は兵站を語る」と言う格言がある。これに倣えば、本書は「経営学者・コンサルタントが戦略を語るとき、実務家は社員を語る」とでも言えば良いのだろう。
形式が、2ページに1テーマでまとめてあり読みやすい。バリバリの現役ビジネスパーソンへお薦めの好著である。

4)「超小型原子炉」なら日本も世界も救われる
高校時代日本の原子力平和利用が始まった。当時読んだ本で今でも忘れられないのが「ついに太陽をとらえた!」(読売新聞社;新聞連載記事をまとめたもの)である。この本によって原子力の“明るさ”を啓発され、その将来に大いなる希望を抱いたものである。しかし、その後目にするものの多くは、(技術的なものでも)政治的意図(不安を煽る傾向が強い)が見え隠れして、やがて手に取ることもなくなった。今回これを読むことになったのも、水泳仲間が「面白いから是非」と貸してくれたことによる。
聞いたことの無い著者・出版社。著者の経歴を見ると週刊誌の記者が出発点。貸してくれた人は産経新聞の愛読者で仲間内でも保守的な傾向の強い人。「今度は右からか」と言う先入観であまり気が進まなかった。唯一惹かれたのはメディアで伝えられた「ビル・ゲイツ、小型原子炉普及支援に乗り出す」と言う記事との関連だった。これを見たとき「小型原子炉って一体何だろう?」との疑問が残っていたからだ。
この点の結論を先に言えば、本書にビル。ゲイツは全く登場しない。しかし国連(IAEA)が、この小型炉をアフリカなどの発展途上国に導入すること(砂漠緑化など)に強い関心を示していることが具体的に述べられているので、同種のものである可能性は高い。
タイトルや導入部はいかにも週刊誌調で、「サーっと斜め読みして」と読み始めたものの、中心人物(服部禎男)の経歴が只者ではないことが分かってくると、「これは確り読まなくては」との感に変わっていった。
この人は名古屋大学で電気工学を修め昭和31年(1956年)中部電力に入社、水力発電所で技術者スタート、翌年わが国初の原子力工学大学院コースが東工大に開かれると修士課程に入り(定員10名に300人の志願者があった!)、さらに卒業後米国オークリッジ国立原子力研究所の原子力災害評価特別研修コース(1年)で学んだ、わが国原子力工学(特に安全・信頼性工学)の草分けなのである。帰国後浜岡原発1号機・2号機建設にも深く関わり、次いで動力炉・核燃料開発事業団(動燃)に出向、ここでは高速増殖炉“ふげん”・“もんじゅ”の設計に従事、さらに電力中央研究所の初代原子力部長も務め(後に理事に就任)ている。オークリッジから帰国後原子力安全協会(科学技術庁主管)で安全設計の数値解析を行い、その基準を10のマイナス6乗(99.9999)とすることを導き出して、これが国際基準して認められることになる(この功績で後に東京大学から博士号授与)。当に原子力利用の王道を歩いてきた人である。
しかし、この一見順調に見える道のりが、決して順風満帆でなかったことが本書の核心である。例えば、動燃への出向は社内の原発施策への不満が外部に伝わった結果だし、電力中研への移籍はふげん・もんじゅの設計方針を巡る役所や電力業界主流との衝突による。一方で彼の主張が国際的に高く評価されることから、さらに事態が複雑化していく。
その因は、彼が原子力発電における安全・信頼性の第一人者であることからきている。つまり、安全性(そして経済性)の面でその時々の体制側としばしば対立する考え方を主張することから生ずるのである。例えば、ふげん・もんじゅ建設の際非常用電源喪失に対する備えとして12台のディーゼル発電機を持つことを提言(緊急時稼動ではなく常時稼動、それも設置場所や製造者を変えて;ここが福島のケースと全く違う)するが入れられず、発言を封じられる。
彼が主張する安全哲学の根本は、“巨大化しない(複雑にしない)”と言うことである。一方政治家や業者にとっては、大きく複雑なほど大金が動くので、小型化は困るのだ。もはや技術とは別の世界で原子力政策が決められ、進められることになる。動燃を追われる本因もディーゼル発電機以上に、ふげんやもんじゅの規模と複雑性に対する批判にあったのだ。
「超小型原子炉」もこの考え方から生まれたもので、核燃料とその燃焼方式、熱回収方式も現在あるものとは全く違う。主燃料は捨てられていたウラン238(劣化ウラン)で235は着火のときだけ必要。中性子反射体を燃料の外に置き、この反射板を下から上へ時間をかけて(3040年)動かし、燃料を燃やしていく(終え尽きたときが炉の寿命)。熱媒体(冷却材)は高速増殖炉同様ナトリウム(水を使わないので砂漠でも利用できる。水素爆発も無い)。基本原理は米国のアルゴンヌ研究所だが、実用炉の設計は電力中研と東芝で行い。既に米国特許も取得している。サイズは1万キロワットで直径90cm、高さ1m。量産して安価にしていく。
本書でよく分からないのは、ウラン238核分裂のメカニズム、放射性物質の生成とその扱いだ。「長期間封じ込められ、レベルも低いので問題ない」との説明はあるのだが、最も重要な点なので、ここは確り書くべきだった。
問題は、日本では「出来ない(金が少ししか落ちないから取り上げたくない)包囲網」ががっちり固まっていることである。頼みは外国・国際機関と言うのは情けない。
他にも3兆円をかけながら未だに稼動できない使用済み核燃料処理システムに関する問題点とその代案に対する政治的抵抗など、原子力行政と技術の関係を鋭く追及し、巨大プロジェクトのドロドロした裏側を明らかにしている。と言うようなわけでこの本も主義・思想に偏してはいないものの、やはり原子力利用における技術外の世界が嫌でもクローズアップされてくる。

蛇足;Webで調べると、ビル・ゲイツが取り組んでいるのはやはりこの原子炉だった。次世代小型原子炉(進行波炉;ゆっくり核燃料を燃やしていくことからこの名前が来ている)と称しており、彼が投資しているテラパワーと言う会社が東芝と協力することがアナウンスされている。ビルは中国などへセールスをしているが、今のところ具体化した話はないようだ。また、今年のダボス会議(1月開催)でもこの炉の普及を進めることを語っている。
もう一つ、Webで調べても、この炉の“核分裂のメカニズム”と“放射性物質”を理解するための解説は見つけられなかった。この点を批判している記事があった。

5)ユーラシア横断15000キロ
先月のユーラシア横断「世界最悪の鉄道旅行」は鉄道だった。今回は車である。スタートは極東ロシア(前回は樺太対岸のソヴィエツカヤ・カヴァニ、今回は伏木港経由ウラジオストック)、ゴールはポルトガルのロカ岬とほぼ同じである。それなのに距離は、前回は2万キロ、今回は15千キロ。随分違いがある。ルートがかなり違うのだ。今回も中国から中央アジアに入り、カフカスを経由する案が検討されるが、個人の車での国境越えは政治的理由で不可能なのだ。結局可能性のあるのはロシアをひた走り東欧へ抜け、そこからドイツに入る案になるのだが・・・。実施時期は少し古く2003年、私のロシアでの仕事が始まった年でもある。
シベリア横断をメインステージにするドライブ行は、ソ連崩壊後早い時期に防衛大学教授(自衛官ではない)とその仲間が学術調査を目的に、バイクとその支援車両で行っている。また、シベリア鉄道による旅はソ連時代から多くの日本人が試み、そこをテーマとした読み物も多数出版されている。政治的にも、中国辺境部や中央アジアに比べれば安定している。残る課題は大自然とそれがもたらす予期せぬ出来事くらいだろう。著者は自動車ジャーナリスト、私も取っている雑誌でよく目にする人。海外ドライブ経験も豊富、車やドライブに関する情報源・情報量もふんだんにある。「楽勝だろうな」と “予期せぬ出来事”とルート上にある土地々々の生活や自然描写に期待して本書を読み始めた。
しかし、東京での計画検討段階でオヤッと思うような場面に出くわす。それはハバロフスクの少し西にあるブラゴベシチェンスクと言う町からバイカル湖の遥か南東にあるチタまで道路が通じているかどうか分からないのだというのだ。私も早速ベルテルスマンの大判の世界地図帳(日本版)で調べてみると確かに繋がらない!シベリア鉄道が早くから通じているのに信じられない話である。同行する通訳の知人を通じて地元警察に照会するが、思わしい回答は得られない。前出の元防大教授に当時の事情を聞くと、彼らもここは通れず一旦中国に入り満洲里を経由してロシアに再入国していることが分かる。しかも、これは国の支援があって実現したことであった。
結論から先に言うと、ここが旅の山場であり、本書の最も興奮させられるところでもある(これから読む人のために、敢えてここをどう切り抜けたかは書かない)。この難路で会った中古車販売業者から、ウラル以西のルートに助言をもらい、検問所(警官のチェックポイント、賄賂を要求される)の多いベラルーシと自動車盗難が頻発するポーランドを避けるよう助言される。そのためモスクワには滞在せず、外環道路でバイパスしてサンクト・ペテルブルグへ出て、そこからバルト海フェリーで北ドイツに上陸するルートに計画を大幅に変更する。フェリーでの移動は“走行”距離には入らない。鉄道との距離の違いはこれによるところが大きい。
使った車はトヨタ・カルディナ(1.8L;レギュラーでOK;ステーションワゴン)の中古車。同乗者は著者・写真家(日本人)・日露通訳(ボランティアのロシア人2名;途中で交代;東京-クラスノヤルスク、クラスノヤルスク-サンクト・ペテルブルク、それぞれ1名)の計3名。期間は約一ヶ月(夏季)。
自動車ジャーナリストだけに道路と自動車のついての描写は極めて細かい。一方で自動車旅行は人との接点が少ないので、社会探訪と言う面では限界がある。自動車に関する本は沢山あるが、ドライブを楽しむものは少ない。その点で貴重な一冊といえる。

6)会いたかった人、司馬遼太郎
著者は会社の元同僚である。早期退職制度で定年前に辞め、シニアライフに関わるボランティア活動などに力を入れている。「文章を書くことの楽しみ」もその対象だったようで、この本はその成果の一つである。
巨大プラントと向き合ってきた化学工学(化学と機械の境界領域)の専門家が、全く畑違いの作家の世界にのめり込み、大作家の作品の背景や生き方さらには心の内を探るわけだが、そこには新たな心構え、考え方、生活態度が必要で、それらを実践した著者の挑戦意欲に大いに刺激を受けた。
内容は司馬遼太郎の熱烈なファンである著者の熱い思いを、種々の角度(10数話)から綴ったエッセイである。作品として頻繁に取り上げられるのは「坂の上の雲」で、これ以外はタイトルが出る程度である。その理由は著者が圧倒的にノンフィクションを好むことから来ているようだ。従って、“会いたかった人”像は専ら、講演録・評論・対談・紀行文などに依っているが、人物を客観的に捉えるためにはこの手法は適している。
各エッセイの後にはコラムがあり、必ずしも司馬遼太郎と直接は関係しないが、面白い小話が紹介されるのも楽しい。大学予備門(現東京大学)で秋山真之、正岡子規の同級生に南方熊楠がいたことを紹介し、著者の郷土、紀州出身の超人を語る段など個人的に面白かった。
名文家(文章が上手いというより、先が読みたくなる文章)司馬遼太郎を語るがゆえに「良い文章(特にエッセイ)を如何に書くか」にも重点が置かれ、これはこれで勉強になるし、シニアライフアドヴァイザーとしては意味のあるメッセージだ。

7)「科学的思考」のレッスン
本書は、地球環境・エネルギー問題、遺伝子工学・先端医療から近くは原発事故まで科学(ここでは主に自然科学、それも理工学・医薬学分野を意味する)が社会そして政治との関わりを深めている今日、専門家ではない一般市民(本書では、“知らしむべからず。依らしむべし”に順応し、不都合が生じるとメディアに付和雷同、不満を声高に言いつのる“大衆”と自ら学び対話を通じて社会を担う “市民”を使い分けている)が、それにどう取り組むべきか?その基本的な素養は何か?を提示することを目的に書かれたものである。もう一歩進めると、このような素養を持った市民による、高度・専門化した科学技術に対する“シビリアン・コントロール”の提言である(大学の講義録)。
先端科学・技術の捉え方を専門家と異なる視点で説こうとする活動は、往々にして裏に政治思想(あるいは宗教)があるのだが、読んでみてそれは全く感じない。大学は理系に入学しながら、興味の対象が生物学→数学→数理哲学と変わり、ついには文学部哲学科を卒業、現在は情報科学研究科(名大)で科学哲学を教えるという異色の経歴が、右左・文理を超えたニュートラルな立ち位置を作り上げているのだろう。
科学的といえば極めて論理的で白黒がはっきりするものとの印象が強い。それ故に黒を白、白を黒と言いくるめるレトリックがたくみに利用され、あらぬ方向に結論が向かってしまうことがある。実は科学はグレーゾーンが多いものであるので、こういう事態に陥らぬために議論のフレームワーク;仮説の設定と条件、その証明・実験、それに対する反証の方法、説明の仕方など;を確り作ることが重要と説く。
第一部「科学的に考えるってどういうこと?」ではそれを分かりやすい事例で解説してくれる。例えば、アメリカのキリスト教原理主義者によるダーウィン進化論否定とそこから導き出された、インテリジェント・デザインという考え方(「猿から進化したことを見た人はいない。一方でいきなり神が創ったところを見た人はいない」(両方とも事実ではない)からそれを教科書に併記することを教育指導に求める)を取り上げ、“事実かどうか”を問うのではなく“どちらがより良いか(納得感があるか)?”を論ずるのが“科学的思考”だとしている。
このような思考の基本を理解したうえで、第二部「デキル市民の科学リテラシー」として、高度科学・技術の専門家でない市民がそれを社会的課題として、“自ら答えを発見すべく”取り組んでいく姿勢の重要性を、これも身近な例を上げながら教授していく。例えば、311以来ほとんど毎日耳にする、ベクレル・シーベルト(これに加えてグレイ)と言う単位が必ずしも(メディアも含めて)正確に理解されずに一人歩きし、事故とその後に混乱と不安をもたらしていることを“科学リテラシー”と結びつけて教えてくれる。
この本を読み終えた直後に、「光より速いニュートリノ発見は誤りか?」のニュースがあった。著者が在籍する名古屋大学も深く関わった実験である。この本にもそれ(“誤り?”ではなく“発見?”の段階)に触れたところがある。メディアの一部には「タイムマシーン実現か!?」とやったところもあるが、あの研究者たちは「速かった!アインシュタインの相対性原理は誤りだ!」などとは言っていない。「測定したところ光より速い結果が出た。しかし自分たちのやり方に何か欠陥があるかもしれない。だから公開して批判的な意見も聞きたい」のが真相らしい。そして、どうやら誤りが見つかった。これこそ科学的思考なのだ。
信条にがんじがらめになったり、メディアに煽られて直ぐ感情的なって、拙速な結論を求めるようなことのない、よき市民の在り方をあらためて教えられた。これは大学生版だが、少しでも“良き市民”を育てるために、中学生・高校生版(教組の指導外で読めるような)が出ることを期待したい。
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2012年3月2日金曜日

決断科学ノート-108(自動車を巡る話題-2;トヨタ生産方式)



 
一昨日(229日)久し振りに製造業を対象とした富士通ユーザー会に参加する機会があった。基調講演は、トヨタで長年生産技術に携わり、その経験を基に松下電器(現パナソニック)に転じ、生産現場の業務革新に取り組んできたコンサルタントによる「海外工場のものづくりマネジメント」というものであった。
トヨタ生産方式については、書物や文献ばかりでなく、学会での交流などを通じて随分学んできたつもりであった。しかし、今回動画や作業マニュアル、作業分析グラフなどで紹介された事例は、あの「乾いた雑巾を絞る」と言われるトヨタ生産方式のカイゼン活動を間近に具体的に見るという点で、その徹底振りに感心させられた。無駄の無い流れ作業、きめ細かな作業標準化、高品質維持のための分析、15分の遅れは役員報告事項、カイゼン提案制度への取り組み姿勢(採用基準)など、単なる現場作業に留まらず、生産マネジメントの内容が丁寧に説明された。
始めは国内の自社工場で、次いで協力会社へ、さらに海外工場へこの方式を展開していくわけだが、本体で成功した方式がいきなり同じように適用できるわけではない。例えば離職率と歩留まりの関係を分析して定着率を上げたり、教育・訓練方式、さらには人事制度まで工夫してはじめて国内並みの生産性と品質が実現する。標準作業マニュアルなど国内では行間を読んでもらえばいいようなことも、きちんと文書化するのでその量は34倍のボリュームになると言う。人件費は安くともこの手間を考えれば、単純に途上国がコストダウンにつながる保証は無いのだ。こうした努力を重ね、1990年代まで、トヨタに代表される、わが国のものづくり技術は世界をリードしてきた。講師は生産技術の専門家、話はここで終わった。爪に火をともすようなぎりぎりの利益追求は、為替の変動で瞬時に飛んでしまう。
前回の日経の記事(わが国自動車産業のガラパゴス化)は実はハイブリッド・エンジンに限った話ではない。生産モデル、ビジネスモデルに及んでいるのだ。同じ記事の中でヒュンダイの会長が「いまやライバルはトヨタではなく、フォルクスワーゲン(VW)だ」と言っている。記事にはこの発言の真意は述べられていないが「あまねく世界(特に新興国)にそこそこの品質の車を安く提供し、確り儲けることでは」が前提ととってよさそうだ。確かにこの点でトヨタは市場に偏りが大きいのだ(比較的高付加価値車が売れる米国依存度が高い)。
今日(32日)の日経の一面に日産が50万円台の自動車を新興国別に開発していくことが取り上げられ、各社の低価格車の価格と対象市場(VWを除けばほとんどインドをあげている。VWは欧州・日本)が出ている。ここではタタ(印)25万円、ヒュンダイ44万円、トヨタ80万円、VW105万円。確かにヒュンダイの言う「もはやトヨタはライバルでない」はこの点で納得だが「何故VW?」との疑問は残る。少し勘繰ると、VWの世界市場に向けての長期戦略に学ぼうとしているのかもしれない。
VWは、初代ビートル(カブト虫)で早くからブラジルへ進出していたし、中国経済が開放される前から工場を持ちサンタナと言う車を生産してきた。現在でも中国市場で外国資本のNo.1である。スペインの国策会社セアト、チェコのシュコダもグループに取り込み、東欧やロシアのマーケットでは圧倒的に強い。僅かな現地体験では、同じ市場(中国・ロシア・東欧)では確かにヒュンダイ(起亜を含む)が日本車を凌駕しているように見える。
生産現場には最強のトヨタ生産方式がある。加えて、新時代に向けた市場開発・拡大モデルの創出を期待したい。

2012年3月1日木曜日

工房フォトギャラリー-3;エノラ・ゲイ




ワシントンDCを訪れた人の多くはモール(国会議事堂とリンカーン記念堂に挟まれた緑地帯)周辺の博物館や美術館に出かける。中でもスミソニアン航空宇宙博物館は最も人気のある場所だ。私もここを7,8回見学している。人類最初の飛行をしたライト・フライヤー、単独ニューヨーク・パリ間無着陸飛行をしたリンドバーグのスピリッツ・オブ・セントルイス号(右上)、音速を始めて突破したベル・X-1、アポロなど歴史的な飛行機や宇宙船が展示されている。
1995年ここで特別な飛行機が展示され大きな話題になった。それは戦勝50周年を記念する、広島に原爆を投下したB-29、エノラ・ゲイで、その是非が日米双方で激しく論じられた。この年の11月デラウェア州のウィルミントンで開かれた提携先のユーザー会に出席しあと休日を利用してスミソニアンに出かけた。さすがに4発エンジンの大型機をここに納めることは出来ず、機首部分だけの展示となったが(左)、初めて見るB-29 に、原爆投下のみならず、日本を壊滅させたその力と技術(設計・生産)に圧倒された。
2000年、別のユーザー会にお得意さんの役員と同行してワシントンに出かけた。エノラ・ゲイの話をすると「是非見たい」とのご要望。早速博物館に行き、以前の展示場所に行ったが、無い!インフォメーションで聞いてみると、「あの機体は50周年記念行事の後片付けた。現在新しい別館が建設中で3年後に見られる」と言う。
200312月、ワシントン・ダレス空港に隣接する別館オープンを知らせる、小さな新聞記事を目にした。実際に出かける機会はそれから1年あまり後、2005年の二月にやってきた。計測制御システム調査会社の会議がフロリダで開かれ、その帰途IBMの上級役員であった友人に会議と関係する情報を聞かせてもらうため、自宅に滞在することになり、その際案内してもらったのである。
彼の住まいはポトマック川の南のマクリーンと言う高級住宅地(閣僚なども住んでいる)にあり、ここはワシントン市街とダレス空港の中間点に在って、見学には持って来いの場所だった。小さなお城のような彼の邸宅(右上)からポルシェ・カレラで別館(正式には、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジ・センター;6500万ドルをこのために寄付したハンガリー人投資家の名前)へ出かけた。新しい所なので地元民の彼も初めて、「孫と来るためにスポンサーになるよ」とメンバー登録をしていた。
建物は巨大な格納庫、コンコルド、スペースシャトルなどもある中に、あのエノラ・ゲイがほぼ中央に完全な姿で展示されていた(左)。
(次回;空軍博物館)
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