2012年3月4日日曜日

今月の本棚-42(2012年2月分)


(手前女児の初節句です)


<今月読んだ本>
1)デッド・ゼロ(上、下)(スティーヴ・ハンター);扶桑社(文庫)
2)スエズ運河を消せ(ディヴッド・フィッシャー):柏書房
3)サラリ-マンが“やってはいけない”90のリスト(福田秀人);ぱる出版
4)「超小型原子炉」なら日本も世界も救われる(大下英治);ヒカルランド
5)ユーラシア横断15000キロ(金子浩久);二玄社
6)会いたかった人、司馬遼太郎(中村義);文芸社
7)「科学的思考」のレッスン(戸田山和久);NHK出版(新書)

<愚評昧説>
1)デッド・ゼロ
お馴染み元海兵隊スナイパー、<ボブ・スワーガー>シリーズ最新版。今度のテーマはアフガニスタン。とは言っても主たる舞台はアメリカ。
タリバン・アルカイダに通じる地方軍閥リーダー殺害の密命を帯びた海兵隊狙撃手と標的手(スポッター)がその途上で高度な戦闘能力を持つ謎の傭兵グループに襲われ、標的手は殺される。辛うじて生き延び、軍閥邸近くの旅籠にたどり着いた狙撃手はチャンスを狙うが、その旅籠にミサイルがぶち込まれる。
半年後親米派に転じた軍閥リーダーは、アメリカの期待を担う新アフガニスタン指導者として訪米する。しかし海兵隊狙撃兵は生きており、与えられた命令を実行すべく行動する。傭兵たちも彼の殺害が契約条件だ。国賓として軍閥リーダーを迎えるアメリカは惨劇を阻止すべくCIAそしてFBIを動員する。狙撃兵の心理や作戦を読めるボブはFBIの特命捜査官としてこの阻止作戦に加わることになる。
シリーズもこれで10冊目、ボブも高齢になり、自ら最前線に立つわけではない。それに従いストーリーが複雑になっていく(国内・国際政治や他国の文化あるいはハイテック絡み)。その部分がどうしても冗長・荒唐無稽で緊張感が途切れる。イアン・フレミング(007シリーズ)、トム・クランシー(ライアン・シリーズ)も同様だった。ボツボツ打ち上げの時期だろう。それでも次作が出ればまた読むのだろうが・・・。

2)スエズ運河を消せ
「イギリス人が真剣にやるのは戦争と道楽だ!」と言う格言がある。近いところでは、サッチャー首相のフォークランド戦争における断固たる態度などその代表例だろう。この“と”を“with”とすると(チョッとこじつけだが)“道楽をもってする戦争”と意訳できる。この本は当にこんな世界を扱ったものである。英語のタイトルは「the war MAGICIANthe man who conjured victory in the desert;砂漠の勝利を魔法で呼び込んだ男」 主人公は著名な英国の奇術師、スエズ運河を消すのも実話なのだ(本欄で“種明かし”はしません)!
ジャスパー・マスケリンは十代前まで遡れる名家の出自。とは言っても貴族ではなく、錬金術師や科学者そしてここ三代は奇術師。祖父の八代目は二つの箱に入る二人を瞬時に入れ替える“魔法の箱”の考案者だ。
イギリスがドイツに宣戦すると志願するのだが、年齢制限で受け付けてもらえない。チャーチルまで動かしてやっとカモフラージュ部隊に入隊する。稚拙な張りぼての兵器、兵や兵器を隠す偽装は今次大戦以前から行われており、この部隊もそれを行うことが主たる任務であった。彼の仲間は、動物の擬態研究を専門とする大学教授、漫画家、色彩感覚に優れた画家、大工など多士済々。しかし出番はなかなかやってこない。19414月やっと中東軍(在エジプト)に加わることが出来る。ロンメルの快進撃が続いている時である。
北アフリカ戦線は幅が狭く(北は地中海、南は果てしない砂漠)、兵站線は東西に長い。また海同様全てが見渡せる。動きを察知されないよう欺瞞作戦は狐と狸の騙し合い(戦車をトラックに、トラックを戦車に、ダミー戦車の陰影を工夫して実物のように)。少しずつジャスパー小隊の実績が認められていく。やがては重要港湾アレキサンドリアを隠し、戦艦を偽装し、ついにはスエズ運河を消してしまう。根本にあるのはジャスパーが奇術で培った人間の錯覚や心理を活用したものだ。最後の大舞台は反攻の山場となるエル・アラメインの戦いである。南(砂漠)から来るか?北(海岸沿い)から来るか?ロンメルは最後までその判断に迷う。19426月に始まっていた一連の戦闘は8月の第八軍司令官、モントゴメリーの赴任で英軍の攻めに転じ、11月初めには勝敗が決まって、ドイツアフリカ軍団は32千人の兵士、千門を超える大砲、四百五十両の戦車を失い、チュニジアへと追われていく。
1111日チャーチルは英国議会下院でこの勝利を称え「ここで一言言わなければいけないことがある…奇襲と戦略だ。カモフラージュの見事な効果で、砂漠では戦術的奇襲が完全な成功を見た。……」と演説する。
諜報戦、暗号戦そしてカモフラージュ作戦など、知能戦で一段群を抜くイギリスの戦い方の中でも極めつけのユニークなマジック戦を堪能した一冊であった。

3)サラリ-マンが“やってはいけない”90のリスト
ビジネスマン人生を5年前に辞めてからはほとんどこの種の書物に触れることは無かった。今回出版社から献本があり読むことになった。一見軽いサラリーマン向けハウツー物のタイトル・体裁をとりながら、意外と奥の深い内容で、久し振りに45年に亘ったサラリーマン生活を振り返り、「その通り!」と思わずつぶやく場面がしばしばあった。
内容は、企業経営における従業員・管理者・経営者が直面してきた個別の課題やその解決法を命題にして、その適否や限界を語り、個人としてどう当たるべきかを示す形式になっている。例えば、“創造的破壊”、“成果主義”、“官僚化”、“目標管理”、“競争戦略”、“組織平準化”などなど。そしてこれらの適否・限界を示すのに、歴史の厳しい批判に耐えて残った古典的な経営哲学(例えばマックス・ウェーバーの官僚論など)や実践的な指導者育成資料(例えば、米陸軍指導者マニュアルなど)が援用されている。
「素人が戦略を語るとき、将軍は兵站を語る」と言う格言がある。これに倣えば、本書は「経営学者・コンサルタントが戦略を語るとき、実務家は社員を語る」とでも言えば良いのだろう。
形式が、2ページに1テーマでまとめてあり読みやすい。バリバリの現役ビジネスパーソンへお薦めの好著である。

4)「超小型原子炉」なら日本も世界も救われる
高校時代日本の原子力平和利用が始まった。当時読んだ本で今でも忘れられないのが「ついに太陽をとらえた!」(読売新聞社;新聞連載記事をまとめたもの)である。この本によって原子力の“明るさ”を啓発され、その将来に大いなる希望を抱いたものである。しかし、その後目にするものの多くは、(技術的なものでも)政治的意図(不安を煽る傾向が強い)が見え隠れして、やがて手に取ることもなくなった。今回これを読むことになったのも、水泳仲間が「面白いから是非」と貸してくれたことによる。
聞いたことの無い著者・出版社。著者の経歴を見ると週刊誌の記者が出発点。貸してくれた人は産経新聞の愛読者で仲間内でも保守的な傾向の強い人。「今度は右からか」と言う先入観であまり気が進まなかった。唯一惹かれたのはメディアで伝えられた「ビル・ゲイツ、小型原子炉普及支援に乗り出す」と言う記事との関連だった。これを見たとき「小型原子炉って一体何だろう?」との疑問が残っていたからだ。
この点の結論を先に言えば、本書にビル。ゲイツは全く登場しない。しかし国連(IAEA)が、この小型炉をアフリカなどの発展途上国に導入すること(砂漠緑化など)に強い関心を示していることが具体的に述べられているので、同種のものである可能性は高い。
タイトルや導入部はいかにも週刊誌調で、「サーっと斜め読みして」と読み始めたものの、中心人物(服部禎男)の経歴が只者ではないことが分かってくると、「これは確り読まなくては」との感に変わっていった。
この人は名古屋大学で電気工学を修め昭和31年(1956年)中部電力に入社、水力発電所で技術者スタート、翌年わが国初の原子力工学大学院コースが東工大に開かれると修士課程に入り(定員10名に300人の志願者があった!)、さらに卒業後米国オークリッジ国立原子力研究所の原子力災害評価特別研修コース(1年)で学んだ、わが国原子力工学(特に安全・信頼性工学)の草分けなのである。帰国後浜岡原発1号機・2号機建設にも深く関わり、次いで動力炉・核燃料開発事業団(動燃)に出向、ここでは高速増殖炉“ふげん”・“もんじゅ”の設計に従事、さらに電力中央研究所の初代原子力部長も務め(後に理事に就任)ている。オークリッジから帰国後原子力安全協会(科学技術庁主管)で安全設計の数値解析を行い、その基準を10のマイナス6乗(99.9999)とすることを導き出して、これが国際基準して認められることになる(この功績で後に東京大学から博士号授与)。当に原子力利用の王道を歩いてきた人である。
しかし、この一見順調に見える道のりが、決して順風満帆でなかったことが本書の核心である。例えば、動燃への出向は社内の原発施策への不満が外部に伝わった結果だし、電力中研への移籍はふげん・もんじゅの設計方針を巡る役所や電力業界主流との衝突による。一方で彼の主張が国際的に高く評価されることから、さらに事態が複雑化していく。
その因は、彼が原子力発電における安全・信頼性の第一人者であることからきている。つまり、安全性(そして経済性)の面でその時々の体制側としばしば対立する考え方を主張することから生ずるのである。例えば、ふげん・もんじゅ建設の際非常用電源喪失に対する備えとして12台のディーゼル発電機を持つことを提言(緊急時稼動ではなく常時稼動、それも設置場所や製造者を変えて;ここが福島のケースと全く違う)するが入れられず、発言を封じられる。
彼が主張する安全哲学の根本は、“巨大化しない(複雑にしない)”と言うことである。一方政治家や業者にとっては、大きく複雑なほど大金が動くので、小型化は困るのだ。もはや技術とは別の世界で原子力政策が決められ、進められることになる。動燃を追われる本因もディーゼル発電機以上に、ふげんやもんじゅの規模と複雑性に対する批判にあったのだ。
「超小型原子炉」もこの考え方から生まれたもので、核燃料とその燃焼方式、熱回収方式も現在あるものとは全く違う。主燃料は捨てられていたウラン238(劣化ウラン)で235は着火のときだけ必要。中性子反射体を燃料の外に置き、この反射板を下から上へ時間をかけて(3040年)動かし、燃料を燃やしていく(終え尽きたときが炉の寿命)。熱媒体(冷却材)は高速増殖炉同様ナトリウム(水を使わないので砂漠でも利用できる。水素爆発も無い)。基本原理は米国のアルゴンヌ研究所だが、実用炉の設計は電力中研と東芝で行い。既に米国特許も取得している。サイズは1万キロワットで直径90cm、高さ1m。量産して安価にしていく。
本書でよく分からないのは、ウラン238核分裂のメカニズム、放射性物質の生成とその扱いだ。「長期間封じ込められ、レベルも低いので問題ない」との説明はあるのだが、最も重要な点なので、ここは確り書くべきだった。
問題は、日本では「出来ない(金が少ししか落ちないから取り上げたくない)包囲網」ががっちり固まっていることである。頼みは外国・国際機関と言うのは情けない。
他にも3兆円をかけながら未だに稼動できない使用済み核燃料処理システムに関する問題点とその代案に対する政治的抵抗など、原子力行政と技術の関係を鋭く追及し、巨大プロジェクトのドロドロした裏側を明らかにしている。と言うようなわけでこの本も主義・思想に偏してはいないものの、やはり原子力利用における技術外の世界が嫌でもクローズアップされてくる。

蛇足;Webで調べると、ビル・ゲイツが取り組んでいるのはやはりこの原子炉だった。次世代小型原子炉(進行波炉;ゆっくり核燃料を燃やしていくことからこの名前が来ている)と称しており、彼が投資しているテラパワーと言う会社が東芝と協力することがアナウンスされている。ビルは中国などへセールスをしているが、今のところ具体化した話はないようだ。また、今年のダボス会議(1月開催)でもこの炉の普及を進めることを語っている。
もう一つ、Webで調べても、この炉の“核分裂のメカニズム”と“放射性物質”を理解するための解説は見つけられなかった。この点を批判している記事があった。

5)ユーラシア横断15000キロ
先月のユーラシア横断「世界最悪の鉄道旅行」は鉄道だった。今回は車である。スタートは極東ロシア(前回は樺太対岸のソヴィエツカヤ・カヴァニ、今回は伏木港経由ウラジオストック)、ゴールはポルトガルのロカ岬とほぼ同じである。それなのに距離は、前回は2万キロ、今回は15千キロ。随分違いがある。ルートがかなり違うのだ。今回も中国から中央アジアに入り、カフカスを経由する案が検討されるが、個人の車での国境越えは政治的理由で不可能なのだ。結局可能性のあるのはロシアをひた走り東欧へ抜け、そこからドイツに入る案になるのだが・・・。実施時期は少し古く2003年、私のロシアでの仕事が始まった年でもある。
シベリア横断をメインステージにするドライブ行は、ソ連崩壊後早い時期に防衛大学教授(自衛官ではない)とその仲間が学術調査を目的に、バイクとその支援車両で行っている。また、シベリア鉄道による旅はソ連時代から多くの日本人が試み、そこをテーマとした読み物も多数出版されている。政治的にも、中国辺境部や中央アジアに比べれば安定している。残る課題は大自然とそれがもたらす予期せぬ出来事くらいだろう。著者は自動車ジャーナリスト、私も取っている雑誌でよく目にする人。海外ドライブ経験も豊富、車やドライブに関する情報源・情報量もふんだんにある。「楽勝だろうな」と “予期せぬ出来事”とルート上にある土地々々の生活や自然描写に期待して本書を読み始めた。
しかし、東京での計画検討段階でオヤッと思うような場面に出くわす。それはハバロフスクの少し西にあるブラゴベシチェンスクと言う町からバイカル湖の遥か南東にあるチタまで道路が通じているかどうか分からないのだというのだ。私も早速ベルテルスマンの大判の世界地図帳(日本版)で調べてみると確かに繋がらない!シベリア鉄道が早くから通じているのに信じられない話である。同行する通訳の知人を通じて地元警察に照会するが、思わしい回答は得られない。前出の元防大教授に当時の事情を聞くと、彼らもここは通れず一旦中国に入り満洲里を経由してロシアに再入国していることが分かる。しかも、これは国の支援があって実現したことであった。
結論から先に言うと、ここが旅の山場であり、本書の最も興奮させられるところでもある(これから読む人のために、敢えてここをどう切り抜けたかは書かない)。この難路で会った中古車販売業者から、ウラル以西のルートに助言をもらい、検問所(警官のチェックポイント、賄賂を要求される)の多いベラルーシと自動車盗難が頻発するポーランドを避けるよう助言される。そのためモスクワには滞在せず、外環道路でバイパスしてサンクト・ペテルブルグへ出て、そこからバルト海フェリーで北ドイツに上陸するルートに計画を大幅に変更する。フェリーでの移動は“走行”距離には入らない。鉄道との距離の違いはこれによるところが大きい。
使った車はトヨタ・カルディナ(1.8L;レギュラーでOK;ステーションワゴン)の中古車。同乗者は著者・写真家(日本人)・日露通訳(ボランティアのロシア人2名;途中で交代;東京-クラスノヤルスク、クラスノヤルスク-サンクト・ペテルブルク、それぞれ1名)の計3名。期間は約一ヶ月(夏季)。
自動車ジャーナリストだけに道路と自動車のついての描写は極めて細かい。一方で自動車旅行は人との接点が少ないので、社会探訪と言う面では限界がある。自動車に関する本は沢山あるが、ドライブを楽しむものは少ない。その点で貴重な一冊といえる。

6)会いたかった人、司馬遼太郎
著者は会社の元同僚である。早期退職制度で定年前に辞め、シニアライフに関わるボランティア活動などに力を入れている。「文章を書くことの楽しみ」もその対象だったようで、この本はその成果の一つである。
巨大プラントと向き合ってきた化学工学(化学と機械の境界領域)の専門家が、全く畑違いの作家の世界にのめり込み、大作家の作品の背景や生き方さらには心の内を探るわけだが、そこには新たな心構え、考え方、生活態度が必要で、それらを実践した著者の挑戦意欲に大いに刺激を受けた。
内容は司馬遼太郎の熱烈なファンである著者の熱い思いを、種々の角度(10数話)から綴ったエッセイである。作品として頻繁に取り上げられるのは「坂の上の雲」で、これ以外はタイトルが出る程度である。その理由は著者が圧倒的にノンフィクションを好むことから来ているようだ。従って、“会いたかった人”像は専ら、講演録・評論・対談・紀行文などに依っているが、人物を客観的に捉えるためにはこの手法は適している。
各エッセイの後にはコラムがあり、必ずしも司馬遼太郎と直接は関係しないが、面白い小話が紹介されるのも楽しい。大学予備門(現東京大学)で秋山真之、正岡子規の同級生に南方熊楠がいたことを紹介し、著者の郷土、紀州出身の超人を語る段など個人的に面白かった。
名文家(文章が上手いというより、先が読みたくなる文章)司馬遼太郎を語るがゆえに「良い文章(特にエッセイ)を如何に書くか」にも重点が置かれ、これはこれで勉強になるし、シニアライフアドヴァイザーとしては意味のあるメッセージだ。

7)「科学的思考」のレッスン
本書は、地球環境・エネルギー問題、遺伝子工学・先端医療から近くは原発事故まで科学(ここでは主に自然科学、それも理工学・医薬学分野を意味する)が社会そして政治との関わりを深めている今日、専門家ではない一般市民(本書では、“知らしむべからず。依らしむべし”に順応し、不都合が生じるとメディアに付和雷同、不満を声高に言いつのる“大衆”と自ら学び対話を通じて社会を担う “市民”を使い分けている)が、それにどう取り組むべきか?その基本的な素養は何か?を提示することを目的に書かれたものである。もう一歩進めると、このような素養を持った市民による、高度・専門化した科学技術に対する“シビリアン・コントロール”の提言である(大学の講義録)。
先端科学・技術の捉え方を専門家と異なる視点で説こうとする活動は、往々にして裏に政治思想(あるいは宗教)があるのだが、読んでみてそれは全く感じない。大学は理系に入学しながら、興味の対象が生物学→数学→数理哲学と変わり、ついには文学部哲学科を卒業、現在は情報科学研究科(名大)で科学哲学を教えるという異色の経歴が、右左・文理を超えたニュートラルな立ち位置を作り上げているのだろう。
科学的といえば極めて論理的で白黒がはっきりするものとの印象が強い。それ故に黒を白、白を黒と言いくるめるレトリックがたくみに利用され、あらぬ方向に結論が向かってしまうことがある。実は科学はグレーゾーンが多いものであるので、こういう事態に陥らぬために議論のフレームワーク;仮説の設定と条件、その証明・実験、それに対する反証の方法、説明の仕方など;を確り作ることが重要と説く。
第一部「科学的に考えるってどういうこと?」ではそれを分かりやすい事例で解説してくれる。例えば、アメリカのキリスト教原理主義者によるダーウィン進化論否定とそこから導き出された、インテリジェント・デザインという考え方(「猿から進化したことを見た人はいない。一方でいきなり神が創ったところを見た人はいない」(両方とも事実ではない)からそれを教科書に併記することを教育指導に求める)を取り上げ、“事実かどうか”を問うのではなく“どちらがより良いか(納得感があるか)?”を論ずるのが“科学的思考”だとしている。
このような思考の基本を理解したうえで、第二部「デキル市民の科学リテラシー」として、高度科学・技術の専門家でない市民がそれを社会的課題として、“自ら答えを発見すべく”取り組んでいく姿勢の重要性を、これも身近な例を上げながら教授していく。例えば、311以来ほとんど毎日耳にする、ベクレル・シーベルト(これに加えてグレイ)と言う単位が必ずしも(メディアも含めて)正確に理解されずに一人歩きし、事故とその後に混乱と不安をもたらしていることを“科学リテラシー”と結びつけて教えてくれる。
この本を読み終えた直後に、「光より速いニュートリノ発見は誤りか?」のニュースがあった。著者が在籍する名古屋大学も深く関わった実験である。この本にもそれ(“誤り?”ではなく“発見?”の段階)に触れたところがある。メディアの一部には「タイムマシーン実現か!?」とやったところもあるが、あの研究者たちは「速かった!アインシュタインの相対性原理は誤りだ!」などとは言っていない。「測定したところ光より速い結果が出た。しかし自分たちのやり方に何か欠陥があるかもしれない。だから公開して批判的な意見も聞きたい」のが真相らしい。そして、どうやら誤りが見つかった。これこそ科学的思考なのだ。
信条にがんじがらめになったり、メディアに煽られて直ぐ感情的なって、拙速な結論を求めるようなことのない、よき市民の在り方をあらためて教えられた。これは大学生版だが、少しでも“良き市民”を育てるために、中学生・高校生版(教組の指導外で読めるような)が出ることを期待したい。
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