2016年8月31日水曜日

今月の本棚-96(2016年8月分)


<今月読んだ本>
1) 暗い国境線(上、下)(逢坂剛):講談社(文庫)
2) 満州国演義(第8巻;南冥の雫、第9巻;残夢の骸)(船戸与一):新潮社(文庫)
3) 英語と日本軍(江利川春雄):NHK出版
4)大本営が震えた日(吉村昭):新潮社(文庫)
5)大本営発表(辻田真佐憲):幻冬舎(新書)
6)戦場の軍法会議(NHKスペシャル取材班、北博昭):新潮社(文庫)
7)収容所から来た遺書(逸見じゅん):文藝春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1)暗い国境線
本欄で既に3話まで紹介してきた逢坂剛のスパイサスペンス小説“イベリアシリーズ”の第4話である。このシリーズの面白さは、第2次世界大戦の少し前から終戦に至る欧州戦線における諜報戦を、スペインを舞台に展開するところにある。日本人作家がこの時代の欧州を取り上げた作品は極めて少ないうえに、著者がこの地に滞在経験があり、スペイン語の使い手としてもかなり高いレベルにあることが、臨場感を持ったユニークな小説に仕上がっている。
主人公は陸士卒業後謀略戦を中野学校で学んだ帝国陸軍の尉官北都昭平。日系ペルー人としてスペインに渡り、彼の地で欧州軍事情勢の情報収集・分析に当たっている。当時の中立国スペインは市民戦争という代理戦争の直後、連合国・枢軸国が熾烈なスパイ戦を展開している。北都の組織的な位置付けは陸軍のごく限られたルートにしかつながっておらず、一匹狼に近い活動を行わざるを得ない。これに絡むのがドイツ国防軍情報部(アプベーア)と英国秘密情報部MI-6。これらにアプベーアに対抗意識を持つナチス保安部とMI-6の兄弟組織である国内防諜組織MI-5が加わり、米国の参戦とともにさらにCIAの前身OSSも登場して、事態を複雑化していく。この軍事スパイ活動を縦糸としつつ、北都とMI-6所属の女性スパイ、ヴァジニアの微妙な関係を横糸で織りながら、物語は実話に即して一話一話が完結する。
今回の実話は、19437月に行われた連合軍のシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)。194211月連合軍は北アフリカに上陸(トーチ作戦)、翌19435月チュニジア戦で枢軸軍は崩壊する。単独で欧州大陸の戦線を戦っていたソ連は同年2月スターリングラード攻防戦に勝利するが、ドイツ軍はまだソ連領内で戦っている。ソ連は連合国の第2戦線が西ヨーロッパで開かれるよう米英に強く求めてくる。そこで練られたのが地中海からの上陸作戦である。フランス、イタリア(本土、サルディニア、シチリア)、ユーゴ、ギリシャどこにすべきか?連合国側も枢軸国側も北アフリカから最も近いシチリアこそ本命と考えるのだが、連合国としては損害を最小に抑えたい。そこで欺瞞工作や陽動作戦を検討する。その結果決まったのが“ミンスミート(ひき肉)作戦”と呼ばれる、のちに明らかになる巧妙な欺瞞工作である。
(偽)作戦情報を含んだ司令官同士の私信(複数)を持った海兵隊将校(実際は飲んだくれて行倒れになったウェールス人)を英国から北アフリカに空路派遣する。その搭乗機が大西洋スペイン南西岸で墜落し、タッシュケースをチェーンで手に結んだ浮遊死体が海岸に漂着する。スペインは建前上中立だが、市民戦争で借りのある枢軸(特にナチスドイツ)側に通じており、私信の内容が何らかの形でドイツに伝わる可能性が高い。手紙の内容は、一つはギリシャ本土の二か所を目標とするもの、もう一つはサルディニア島を暗示するサーディン(鰯)作戦と名付けられ、両作戦とも陽動作戦としてシチリアをあげている。死体の腐敗防止策、スペインにおける検視技術レベル、将校の個人的な行動足跡とその証拠(劇場の入場券の半券、領収書、ラブレター)など実に細々したところまで配慮されているので、ヒトラーと国防軍はシチリア以外の場所にも兵力を割くことになり、ハスキー作戦は成功する。
以上はすべて史実であり、これを扱った英国の著名な歴史ノンフィクション作家、ベン・マッキンタイアーによる“ナチを欺いた死体”を本欄-4320123月)で紹介している。それもあって、どうも比較が先に立ち、「あの本を下地にチョッと色を添えただけ」の感(盗作に近い感覚)が拭えずに読み終わった。このシリーズの根本的な問題は、主人公のスパイとしての活躍場面が浅く、その割に史実を含めてあれこれ話を広げ過ぎているので、どうしてもスパイ小説独特の知的緊迫感を欠くことである。そうは言ってもあと3巻で終わりなので最後まで付き合うことになりそうではあるが・・・。

2)満州国演義(第8巻;南冥の雫、第9巻;残夢の骸)
満州国建国に遡ること4年、1928年鮮満国境に近い寒村での馬賊同士の戦いで幕を切ったこの小説(第1巻;風の払暁)もいよいよ終盤を迎え、1946年の広島で幕を閉じる。第8巻は1942年ミッドウェイ海戦、ガダルカナル島争奪戦と、この戦争の転機から1944年まで。第9巻は19443月のインパール作戦から始まり、レイテ島の戦いなど戦争末期の日本の退勢から沖縄戦、原爆投下、ソ連の満州侵攻、終戦そして満州国崩壊、軍・官関係者のシベリア抑留、民間人の引揚までを描く。主人公、敷島4兄弟の内生きて日本に帰りつくのは4男の四郎のみであった。
1巻で紹介された長男太郎は満州事変(1931年)当時重要な位置付けにある奉天領事館の参事官、外交官として決して悪いポストではない。しかし、満州国成立(1932年)後は国務院外交部に転じ処長(局長)に出世するが、傀儡政府の外務官僚に情報は入らず実権もない。壮大なドラマの導入部に馬賊の頭目(青龍攬把)として颯爽と登場した次郎は、その後馬賊を廃業、特務機関に協力してインド・ビルマ独立要員を上海・香港・海南島で育てながら侵攻軍とともにマレー半島、シンガポールに進出、ジャワを経てビルマに流れていく。奉天独立守備隊憲兵中尉として実戦経歴をスタートさせた三郎は、中国戦線さらには太平洋戦争による戦域拡大で、原籍は関東軍所属のまま、中国・東南アジア戦線を観戦したのち関東軍に戻り少佐に進級、憲兵隊を離れ対ソ作戦特殊部隊を率いている。左翼演劇に傾倒し特高に目をつけられた四郎は、特高-特務機関の遠謀で上海の東亜同文書院に送られ、そこで北京語・上海語をさらにはハルビンでロシア語も学んで、演劇経験と語学を生かして満州映画に所属、督戦映画製作のためフィリピンに出かけた後、関東軍情報部に軍属(欧米情報分析)として徴用される。
8巻は副題“南冥の雫”が示すように、太郎を除く3兄弟がお互い会いまみえることはないものの、東南アジアで知見・体験する謀略・戦闘・統治状況が歴史を踏まえた物語として構成される。共通するのは満州同様、大東亜共栄圏構想の理念と実態のかい離である。少なくとも軍上層部に理想実現の意思は全くない(特務機関の一部にはそれに反発するような空気もあったようだが・・・)。
9巻、いよいよ本書そして大日本帝国の終焉である。政府と軍統帥部の混乱、上層部(軍司令官、師団長)にも及ぶ軍紀の乱れ(インパール、フィリピン)、無謀な作戦による外征軍の敗走・玉砕、重要情報の握り潰し・無視・改ざん(ヤルタ会談、台湾沖海戦、ポツダム宣言)、ソ連の満州侵攻と外地居留民保護放棄、満州国軍の離反、終戦、シベリア抑留、ロシア人による数々の暴力、頻々と入れ替わる統治者(ソ連→国民党→八路軍)、引揚げ。
4兄弟の最初の死者は次郎(1944年)、インパール作戦で囚人部隊(軍規を犯した軍人・軍属)を率いてゲリラ活動を行うが、敗走中の“白骨街道”で息をひきとる。部下であった台湾出身の軍属によって太郎に届けられた遺髪を、3兄弟が初めて一堂に集い馬賊時代縁の深かった通化(鮮満国境)の地に埋葬する。次いで太郎は満州国官吏であったことから戦後シベリア送りとなり、生き残るためにソ連に通じたことを恥じ収容所内で自死する(1946年)。三郎は戦後心ならずも民間人に変じていたが、通化に集結した(関東軍司令部の疎開先として整備されていたため多くの日本人がここに流れ込んできていた)日本人居住民が八路軍(中共軍)に(国民党軍支援を目的として)反旗を翻す際指揮官を乞われ、目論見が敵に漏れていることを知りつつ、責務を果たすべく敵中に突入し倒れる。これは史実であった通化事件(1946年)をモチーフにしている。4兄弟の内一番線が細い四郎だけは軍属の身であったことから、上司(上官)が直ちに解任、何とかシベリア送りを免れ、広島出身の引揚孤児を伴って1946年秋帰国する。4人に絡む特務機関中佐間垣徳三も太郎と同じ収容所で自死に近い死に方(白昼堂々と収容所の正門から脱出を図り銃殺される)をするが、シベリア送りになる直前、なぜ4兄弟に付き纏ってきたのか、太郎にその理由を明かす。それは第1巻の始めに本文に先立ち短く描かれる、維新における官軍の会津攻めと深く関係することであった(長州藩の下級武士が会津藩士の妻女を犯す)。
本書購読の動機は、“私の満州”を追想することにあった。第一は、強い印象を残す断片的な出来事(例えば、1942年妹出産のための一時帰京)を除けば、彼の地の連続した記憶は小学校入学前(1944年頃)から1946年秋の引揚までに過ぎないのだが、この短い期間が以後の人格形成・生き方に大きく影響していると常々感じており、「満州を知ることこそ自分を知ること」と強く感じているから。第二は前史を含め「満州こそ今の日本が置かれている国際環境につながる遠因だ」と信じているからだ。それゆえ“これは”と閃いた本はフィクション、ノンフィクションを問わず手に取ることになるのだ(時々“はずれ”もあるが)。
船戸与一は名前くらいしか知らない作家だった。しかし、本書発刊の広告を見た時“これは”と触発されるものがあった。結果は“大当たり”だった。歴史に舞台を借りた歴史小説は数々あるが、この作品は小説の形態を借りた歴史書といっていいほど、近代日本史・東アジア史を丹念にかつ客観的に追っている。それだけに司馬遼太郎や山崎豊子の作品のように個人がクローズアップされ、それに感情移入するような場面はないが、歴史の転換点で「こんな経緯でことが決まっていたのか?!」あるいは重大事件で「実態はこんなことだったに違いない」と因果関係やその後の諸説理解に納得感が得られるのだ。それは私自身の体験・知見につながる最終巻(残夢の骸)のわずかな部分から類推するばかりでなく、巻尾20余ページにわたる参考文献の量と質からもきている。
“あの戦争”を学ぶのにこれほど優れて、読み易い教科書はない。

3)英語と日本軍
戦時中英語が“敵性語”として排除されていたことは戦後ラジオ放送の漫談などでよく耳にした。野球のストライクは“よし”、ボールは“ダメ”だったと。しかし、自身の周辺でこんな妙な訳語を聞いた記憶は全くない。ハンカチ、エプロン、ライター、サイレン、タイヤなど日常的に使われていたし、軍に関しても加藤隼戦闘隊の歌など「エンジンの音轟々と、隼は行く雲の果て」とやっていた。つまり、法律・条令などではなく、一種の精神運動に過ぎなかったので徹底を欠いたのだ。従って、これをもって当時の日本人の英語力軽視の一因とするのは牽強付会の極みと言える。実際私の現役時代石油会社には海軍出身者(技術士官を含む)の先輩が多く居たが、戦後の英語教育混乱期(新制中学設置で英語専任教師が絶対的に不足;義務教育である中学校数・生徒数が一気に増えたが、旧制中学の先生は新制高校に移った。私の中学1年生時には2学期まで資格を持った英語教師が居なかった。結果として、当時の都立高校入試科目に英語はなかった!)の我々に比べむしろ英語力は高いくらいであった(陸軍出身者で優れた英語の使い手は居なかったが)。
著者は外国語(特に英語)教育・教育史を専門とする研究者(和歌山大学教授)。従って、本書の骨格も我が国における“英語教育史”であり、その対象分野を軍に絞り込んで他分野や他国と比較検討し、そこから今後の英語教育の在り方を提言する内容となっている。
維新以降の近代化の歴史は、先進欧州文化文明導入と社会システムの日本化であった。ここにおける外国語習得・駆使は最必須事項、幕末期も含め、諸藩・新政府は外国語教育に力を入れる。産業革命の先駆者かつ大帝国の英国(英語)、大陸軍国フランス(仏語)、科学技術で英国を凌駕しつつあったドイツ(独語)、これらがそれまでの中国語やオランダ語にとって代わる。軍における外国語教育もその一環に組み込まれ、海軍は七つの海を制する英国、陸軍は始めはフランス、普仏戦争後はドイツを規範とするようになる。当初の語学教育の目的は近代軍事システム導入の下地を作ることであったが、究極は仮想敵国情勢収集・分析、さらには暗号解読、作戦工作にある(インテリジェンス)。海軍にとっては英・米、陸軍にとっては中・露と言うことになる。海軍の対象国はいずれも英語なので一応従来の継続で問題ないが、陸軍はそれまでの独仏語に加えて中国語(北京語)とロシア語を理解できる士官が必要となる。この辺りから陸軍において、その後の軍事戦略と語学のかい離が始まってくるのである。つまり太平洋戦争時の主敵、米英の事情に精通し人的つながりを持つ専門家がほとんどゼロに近い状態になってしまうのだ。
この陸軍が持つ英語軽視の傾向は、海軍と異なる幹部育成コースにある。旧制中学12から進む幼年学校(これ自身プロシャのシステム)の語学教育は仏独中露(中国語は途中廃止;主敵であるにもかかわらず蔑視)に限られ、英語は一部の地方幼年学校(例えば仙台、やがて廃校)以外で教えられることはなかった。この幼年学校卒業者と旧制中学卒業者が一緒になる士官学校(予科・本科)でも英語は必須ではないので、旧制中学からの進学者に僅かに英語を解する者がいるに過ぎない状態だったのである(仏独露を解しないことがむしろハンディキャップになる)。それもあり高級参謀・司令官への出世コースは専ら幼年学校からの進級組に占められる(独語班出身者の圧倒的優位)。日本の運命を狂わせた三国同盟に陸軍が熱心だったのはそんな背景が大きい。
片や海軍には幼年学校のような初等軍教育機関は存在せず旧制中学卒業者が等しく兵学校に入学し、全員英語を学ぶことになるのである。また、士官教育に限らず、下士官育成の予科練などでも英語は重視されていた。しかしここも目的に適った十分な英語教育が行われたとは言い難い。つまり、会話能力の欠如である。開戦前までは教官の中にネイティヴスピーカーも居るのだが、他の高等教育機関同様読み書き中心のカリキュラム(教養主義、英文科アカデミズム)で、敵情分析(インテリジェンス)に即戦力となるような語学力には達していない。泥縄式に学徒出身の予備士官などをそれに当たらせるが、インテリジェンス(無線傍受を含む)については大きな改善はなかった。
以上のような経緯から、日本軍における語学教育は、長期的・戦略的目的と短期的・戦術的な目的が認識されぬまま、中途半端に終わったと総括する。
翻って米軍はどうだったか。本来ならウエストポイント(陸軍士官学校)、アナポリス(海軍兵学校)における外国語教育を知りたいところだが、本書には全く触れられていない。ここで取り上げられるの、日本との軍事衝突を意識し始める真珠湾攻撃前からの陸海軍における日本語教育である。見方によってはこれも泥縄式と言えなくもないが、日本語漬けの徹底ぶりと組織的な取り組みには我が国のやり方とは雲泥の差がある。例えば、海軍の士官養成日本語学校はハーバード大と加州バークレ-校に開設され、成績上位5%以内が要件、週6日・14時間の授業で18ヵ月(最初は11ヵ月)かけ、終戦までに1250人の日本語専門家を育成した。陸軍も同様のコースで日系26000人、非日系を750人送り出し、別に9ヵ月の下士官コースがあり10ヵ所で15千人に日本語を叩き込んでいる。日本に帰化したドナルド・キーンもここで学んだ海軍士官の一人であるが、無論当時のカリキュラムは日本文学アカデミズムとは全く無縁の、インテリジェントを目的とした内容であった。
本書は英語教育史の観点から、軍と英語の歴史を辿ったあと、戦後の英語教育との関係にも言及する。(独語傾斜の強かった陸軍から)「政府の英語一辺倒主義的外国語教育は戦前の軍と同じではないか」、(教養主義の海軍と米軍の語学教育から)「グローバルに活躍する人材育成に教養主義に基づく一般校での語学教育(会話中心の早期語学教育を含む)ではダメ。優秀者を絞り込んだ徹底的な集中方式が好ましい」と。
因みに現在の防衛大学校では英語必須、独語、仏語、露語、中国語、朝鮮語、アラビア語、ポルトガル語が選択必須だが2年生まで。それから先はすべて英語。仮想敵国(中・露・鮮)の言語を徹底的に叩き込む教育体制にはなっていない。

4)大本営が震えた日
吉村昭の本は“戦艦武蔵”、“深海の使者”など数々読んできたが、どう位置づけるのか難しい。受賞した数々の文学賞から見れば小説家だが、好んで読んできた作品から分類すればノンフィクション作家となる。結局巷間言われる“記録文学”作家と言うのが落としどころとして適当なのだろう。確かに、ひたすら精緻な事実を積み重ねる純ノンフィクションライターの書いたものに比べ、感動のしどころが違いうような読後感となることが多い。つまり“出来事”以上に“個人”が印象付けられるのだ。
8月に向かって、“あの戦争”に関する本が書店に並ぶのは恒例のことだが、終戦後71年も経るとなかなか新しい題材のものは少なくなる。本書はいわば復刻版、「昔読んだかな~」と思いつつページを繰ると記憶を呼び起こすものが何もなかったので手にすることにした。
小説かノンフィクションかのジャンル分けも難しい人だが、本書の分類もチョッと厄介だ。短編集なのか一つの作品なのか明快ではない(だから悪いと言うわけではない)。短編集とあとがきや解説に特記しているわけではないのだが、独立した話をまとめたような構成なのである。全編を結ぶ要は“1941128日”だけである。
開戦に関わるニュースと言えば被弾・被雷して黒煙を上げる真珠湾の米戦艦群が定番、あれから太平洋戦争が始まったといつの間にか思い込まされてしまっている。マレー半島上陸、グアム・ウェーク・タラワ・マキン諸島攻略、香港制圧、フィリピン航空戦、ルソン島上陸、北ボルネオ(英領)進出。攻撃目的達成に時間的なずれはあるものの、真珠湾以外にこれだけの作戦が同時並行的に進められていたのである。連合艦隊が「新高山登レ一二〇八」を受信するのは122日、マレーや南方諸島に向かう輸送船団は既に南下中、南支や仏印でも陸上部隊が行動を起こしている。どこかでこれらの動きが察知されていたら、真珠湾の戦果はなかったかもしれないのだ。本書の各話はこれら事前作戦行動が漏れる恐れのあった出来事あるいは漏れないための欺瞞工作や厳しい機密保持策を取り上げたものである。
1話(目次にそのように明記されているわけではないが)は、121日上海から台北飛行場を経て広東飛行場に向かった中華航空(一応民間航空だが支那派遣軍の配下にある。機種はDC-3)の行方不明(墜落)事件である。その機には支那派遣軍総司令部の少佐が搭乗しており広東駐屯の第23軍(香港攻略部隊)宛ての開戦命令書を持参していたのである。台湾海峡を横切り大陸側の汕頭(スワトウ)通過まで確認できているのだが、予定時刻を過ぎても広東飛行場に到着しない。捜索は翌2日から始まるが航路付近は低雲が立ち込めてなかなか発見できない。3日早朝23軍電報班は「山岳地帯に日本機が墜落している」との国民党部隊から重慶に向けた暗号電報を傍受、23軍航空部隊の捜索機もそれを確認する。墜落の仕方は激突ではなく不時着に近い。もし中国軍が先に到着すれば命令書が敵の手に渡る可能性が高い。航空部隊に墜落機爆撃命令が下る。この時点で航空兵たちは事の重大さを知らされていない。「生存者がいるかも知れぬのに・・・」 実際少佐と別命(暗号書携行)を帯びた南方軍第25軍の曹長、大尉(主計)、中尉(航空)、民間人2名計6名が負傷しながらも生きていたのだ。中国軍がここへやってくるのは時間の問題。重傷で動けない中尉と移動を拒否する者を残し軽傷の少佐と曹長の逃避行が始まる。結局生き残ったのは重傷の中尉(124日)と曹長(127日)の2名(少佐は中国軍に捕まり斬首される)、大本営は二人の証言から命令書が確実に処分されたことを知ることになる(二人は戦後まで生き残り、著者は苦労して両人を見つけ、面談している)。
開戦前に横浜を発つ外国人客も乗船している北米定期航路の客船運航、機動部隊が集結している択捉島単冠湾岸住民の拘束と通信封鎖、大量の輸送船調達とそれらの海南島集結、国内出発地である広島宇品港周辺での生鮮食品買占めや飲料水の確保、マレー侵攻に欠かせないタイ国通過の機密外交交渉、在マレー英洋上偵察飛行艇との遭遇、南進する船団と行き交ったノルウェー船臨検と乗組員退船後の撃沈、戦闘開始前のハワイ周辺での米艦による特殊潜航艇撃沈(ウォード号事件)、横須賀海兵団や各種術科学校残留練習生の東京観光(各地方海兵団のワッペンをつけさせた欺瞞工作;東京湾に多数の艦艇停泊しているように;朝日新聞見学まで用意されていたので当然記事になる)、これら異常状態から開戦が事前に露見する可能性は軍機以外にもいたるところに在ったのだ。第2話以降はこれらの出来事をそれぞれの章立てで短くしかし密度濃く、相互に関連付けながら、運命の日に向け収斂させ、終章を在ハワイ米軍が平文で発した「これは演習ではない」で終わる。
開戦劈頭のそれぞれの戦場・戦闘については数多ある出版物でおおむね知っていたことだが、極めて広域な戦線を開戦日一点に収斂させる構成は著者の創造と言える。こうまとめられたものを読むと、偶発的なものは別にして、大戦争を計画し実施することが如何に難しいことかを改めて認識させられる。残る疑問は、一応目論み通り進んだのは“運”だったのだろうか?はたまた大本営の“知恵”だったのだろうか?著者はこれに対して何も語らない。もし自説を加えればそれは記録文学を逸脱してしまうのだろう。

5)大本営発表
このところアベノミックス効果算出データに疑義が呈される場面が多々見うけられ「大本営発表じゃないか」と揶揄されたりする。“大本営”の本来の意味(戦時に設置された日本軍の最高統帥機関;天皇の命令を発令する)を知らなくても、これであの戦争を知らない若い人も含め“杜撰な”あるいは“ねつ造された”“ご都合主義”の“信頼できない”情報と直ちに理解する。極めて特殊な言葉であるにもかかわらず、70余年経ても、国の諸施策(例えば福島原発事故)や企業の業績・見通し(例えば、粉飾決算)評価にしばしば登場、 “大本営発表”はバリバリの現役なのである。
どんな軍にとっても国民の強い支持と高い士気は重要な戦争推進のエネルギー源である。そのために、広報・報道活動は欠かせぬ後方支援作戦の一つと言っていい。従って陸海軍ともに各レベル(参謀本部・軍令部、陸・海軍省、派遣軍・連合艦隊、軍・艦隊など)に報道部門を持ち、メディアを通じてその活動を積極的に行ってきた。それらの頂点に立つのが大本営報道部である。ただ建軍以来の陸海軍対立は非常時でも一向に改められず、実態としては、陸軍報道部、海軍報道部がそれぞれ存在しており、互いに手柄(これこそが大組織から個人まで軍を動かす最大の動機付け)を競うような、あるいは損害を隠すような状況が最後まで続き、嘘を嘘で固めるような結果に陥ってしまう。これが“大本営発表=虚偽情報”となる所以である。
では報道部が悪かったのか?生情報とその処理過程に問題はなかったか?陸海軍とも同じだったのか?はたまた軍だけに責任があるのか?ここから学ぶことは何か?著者はこのような視点から日本メディア史の暗部を探っていく。
先にも述べた陸海軍の対抗意識、報道部門とは比べ物にならない作戦部門の力、比較的実態情報が伝わりやすい陸戦とそれが困難な海戦、ここからくる両軍の報道に対するスタンスの違い(当初は陸軍が熱心、海軍は“サイレントネイビー”を決め込んでいた)、戦勝報道(特に、真珠湾)に対する軍も予想しない国民の熱狂、売り上げが伸びる記事を求め誇大記事を書きまくるメディア(特に新聞)・報道員(有名作家など)、未熟な搭乗員からの杜撰な戦果報告、負け戦を糊塗する工作といかがわしい用語使用(転進、玉砕)、寸前に止められた終戦に際しての偽大本営発表(印刷物)、これらを戦史に残る作戦の当時の報道と現実を対比しながら“大本営発表”の実態とその依ってきたる遠因を詳らかにしする。
著者の結論は大本営発表の本質は「軍部と報道機関の一体化」であり、これは「政治権力と報道機関の一体化」と置き換えることもできるとし、高市総務相の発言「場合によって電波を止める」などを例に挙げながら、報道の独立性維持の重要性を訴える(「たしかに、マスコミ報道にも酷いものがある。それで生じる被害も無視できない」としながら)。
個人的に、権力・既得権を批判しないメディアに存在価値はないとの考え方には基本的に賛成だが、一時期のメディアには、朝日新聞の慰安婦問題ねつ造記事に代表されるような、権力批判に名を借りた独善偏向報道がまかり通っていた(いまでもその傾向のある新聞を散見するが)。我が身の生き残りしか考えない“受け狙い(視聴率、販売数)”の経営・報道姿勢こそ大本営と同じ、チェックされ批判さるべきではなかろうか。そんな機関が政府以外に出来るといいのだが(今はかろうじて週刊誌か?これも酷いが・・・)。
著者は近現代史を専門とする研究者・文筆家。特に、戦争と文化芸術の関係に焦点を置いて研究活動をしているようで、今回はその“メディア編”と位置付けている。

6)戦場の軍法会議
数理・情報を含む科学技術、旅行記と乗り物、満州国を含む歴史を踏まえた各国事情それに軍事の四分野が私の蔵書の大半を占める。その中でフィクション、ノンフィクションを問わず、最も多いのが軍事に関するものであるが、それだけの多さにも関わらず軍法会議を正面から取り上げたものは一冊もなかった。近いテーマとして、捕虜や戦犯裁判などは結構読んでいるのだが・・・。
記憶に残る“軍法会議”はハリウッド映画にある。一つはそのものずばりの“軍法会議”、米国陸軍で空軍独立構想を早くから唱え、統帥部を強烈に批判して裁かれる実在の人物ウィリアム(ビリー)・ミッチェル大佐を扱ったもの。ゲイリー・クーパーがミッチェルを演じ、有罪判決(5年間の階級・指揮権はく奪)を受けて裁判所を出ると上空を軍用機の編隊が航過していき、後の運命を暗示する(戦時中名誉回復、空軍創設後(死後)少将の位を与えられる)。もう一つは太平洋戦争中台風に翻弄される駆逐艦艦長と副長の指揮権争いを扱った“ケイン号の叛乱”。ハンフリー・ボガードが艦長、ヴァン・ジョンスンが副長、弁護人をホセ・ファーラーと言う名優揃いの作品である(1955年度アカデミー作品賞、主演男優賞、同助演賞、脚本賞他を総なめ)。ただ、いずれも戦闘中の行為を問われるものではなく、統帥権・指揮権を巡る事件なので、通常の裁判劇を観た後と変わらぬ印象であった。
本書で扱われるのはその対極、戦場における下級兵士の軍紀違反である。それも数人の特定個人に関わるもの、罪状はいずれも“敵前逃亡”。内容はその実態を解明しようとNHKが取り組んだ番組制作プロジェクト報告である(20128月放映「戦場の軍法会議~処刑された日本兵」;未見)。従って事件そのものの究明と取材活動が併記され、加えて軍法の特殊性や平時の軍規適用から説き起こしていくので、全体像と流れが把握しにくく、映像に比べどうしても注意力が散漫になる。しかし、一方できれいに編集され、受け身で眺めているのとは異なり、一つ一つの事象にこだわって、あれこれ思いを巡らし、消化する時間的ゆとりがあるので、映像よりも作者の意図するところ(法の正義とその歪曲)を深く理解できたと感じている。
本書に詳しく取り上げられた兵士は3名;陸軍曹長、陸軍軍曹、海軍上等機関兵。陸軍の二人の最期はブーゲンビル島、海軍はフィリッピン(乗り組んでいた艦が撃沈され、陸兵に転じていた)、処刑の時期は19458月、同7月、同3月。罪状は敵前逃亡あるいは敵前党与逃亡(複数で逃亡)。いずれの戦地も組織的戦闘などできる状態ではなく、飢餓地獄の中で生きるか死ぬかの状況下にある。生還した当時の戦友たちを訪ねて状況を聞くと、皆食料を求めて部隊を離れ(これは許されていた)、徘徊しているうちに3日(3日以内に帰営すれば逃亡にはならない;平時あるいは勝ち戦の基準)が過ぎ、逃亡兵とされてしまったのだ。混乱の中での軍法会議は全く正規の形態をとっていない。判決を下す資格のない下級指揮官の独断で死刑が決し、直ちに処刑される。「これで食い扶持が増える」と嘯く者さえいる。軍歴に記されるのは戦死(戦病死も戦死扱い)ではなく“平病死”(死刑の意が強い)。靖国神社合祀など論外、戦後遺族年金の対象からも外される(その後認められるが生存受給者がかなり減ってからである)。これだけをストーリーとする番組ならば安直な反戦ドキュメントに過ぎない。
戦場で命令に基づき、破壊・殺傷を行うことが任務である軍隊・兵士に一般の法律は適用できない。と言ってもどんなことでも許されるわけではない。ここで生まれたのが軍法、その違反者を裁くのが軍法会議である。軍法とはどんなものか?軍法会議はいかに進められるか?構成員はどんな人たちか?その歴史的変遷はいか様であった?番組でどの程度このような点が掘り下げられたか不明だが、本書では軍法会議なるものの基本が実例を含みながら丁寧に解説される(著者として唯一個人名を記された北博昭は軍法規から軍事史を研究している人;法科大学院教授)。ここから軍法会議には常設と特設の2種があり、常設は2審制、特設は1審制、いずれも裁判部と検察部から構成されていることが分かる(弁護人に相当する者の存否は何も記されていない)。また、この構成員は一人を除き軍人(武官)であるが、特別な一人は資格を持った文官(現在の司法試験合格者;法務官;陸海軍省事務官)でなければならないとされていた。ただし、裁判長には武官しかつけなかった(にもかかわらず裁判長は法務官の見解を基に判決を下す傾向が強かった)。
平時あるいは落ち着いた戦場ではこのような形態で裁判が進められ、適法な判決が下されてきたが、戦線が遠隔地に拡大あるいは戦況が退勢になってくると最前線への法務官派遣が難しくなり、次第に現地軍の裁量に委ねられ、退却混乱する戦場では指揮官が形式的な場を作り、即断即決で判決を出すような状況に置かれていく(3人が裁かれ処刑されるのもこのケース)。また、このようなことが安易に行われるようになる遠因として、文官である法務官を支那事変頃から武官に身分を変え、独立機能を弱めたことも影響している。
満足な食事も与えられず無謀な戦いを強いられ、そのあげく部隊を離れる。人権という観点から判断すれは悪ではない。一方逃亡は重大な軍規違反でありこれを厳正に裁くのは善である。法務官がどちらの立場に立つかによって、結果は全く逆になる。その場に法務官として在ったらどう判定しただろうか?戦争・軍に関する知られざる視点からの考察は、それらに対する捉え方・理解の仕方に新たな角度を与えてくれた。
本書の情報源の主体は陸・海軍二人の法務官(それぞれ陸軍法務大佐、海軍法務中佐;二人とも戦後の法曹界で活躍)の残した日記・資料・北による聴き取り調査テープにある。これらを基に、厚生省や地方自治体、戦友、親族、戦史研究者に取材、さらにフィリッピンでの現地調査まで行い、2年かけて番組制作に当たっている。この取材の苦労話も読みどころの一つ。NHKと言うバックがあったとはいえ、プロデューサー、取材記者の執念と努力に脱帽である。

7)収容所から来た遺書
1990年度大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞ダブル受賞作品である。もう四半世紀前の本を手にした理由は、2)で取り上げた満州国演義(第9巻;残夢の骸)にある。主人公の一人、満州国国務院外交部政務処長、敷島太郎は軍人ではないのにシベリアに送られ、強制収容所で過酷な労働を強いられる中で自死する。実は私の父も一時期満州国官吏(外交部→産業部;部次長は岸信介)だったが早くに民間会社に転じていたため、無事家族と一緒に帰国できた。何が違うのだろう?この小説では軍人と一緒の収容所で同じように扱われているが実態はどうだったのだろう?読後にこんな疑念が残っていた。巻尾に列記された参考文献を調べると“シベリア抑留”と題されたものが2編あったが、書評で見る限り軍人を取り上げたもののように思えたし出版社や著者に内容偏向(左寄り)を感じたので、さらにあちこち調べた結果、本書に行き当たった。主人公は満鉄調査部に勤務していた民間人、山本幡夫と言う人物である。
山本は明治41年(1908年)隠岐の島の生まれ。東京外国語専門学校(現東外大)ロシア語科に学ぶが卒業寸前(19283月)社会主義運動に関わり検束され中途退学扱いになる。しばらく福岡に転じていた実家で家業に携わり、この間結婚、1936年渡満し満鉄調査部北方調査室に採用される。ロシア語能力は抜群で、入社試験での会話力には試験官であった白系ロシア人が驚くほどだった。このロシア語が結局シベリア送りの因となる。中年で4児の父親であったにもかかわらず1944年突然現地召集され、経歴を買われハルビンの特務機関に勤務させられる(従って終戦時は民間人ではなかった)。夫婦が最後に会ったのは19456月、妻がハルビンを訪れた時である。
最初に送られたのはウラルの首都とも称せられるスベトロニフスク(現エカテリンブルグ)の収容所。19489月までここに抑留され、強制労働を強いられる。その後ハバロフスクへと東送され「ダイモイ(帰還)だ!」と皆喜ぶが、山本他数名が終着地手前で降ろされ、近郊の特別収容所(ロシア人の犯罪者も一緒)に拘留。スパイ嫌疑(ロシア語達者なことが災いしたらしい;同胞による密告)で徹底的に調べられ、ロシア国内法(反国家、反共は殺人より重い)によって懲役25年を言い渡される。今度送り込まれたのは日本人政治犯矯正労働収容所。団長は参謀本部部員で関東軍に降伏命令を伝えに来ていた瀬島龍三、収容者の多くは関東軍参謀、情報将校、特務機関員、満州国官吏など、何らかの形で反ソ活動に従事していたと決めつけられた人々である。山本は結局1949年から19548月の死(喉頭がんを放置され)までここで過ごすことになる。
それぞれの収容所での、ノルマを課せられた過酷な労働、粗末な食事、日本人活動家による吊し上げ、厳しい自然環境、飢餓や病に倒れる人々、を描くシーンは今まで読んだり映画・TVで観てきたシベリアものと共通するが、山本が極めて高い教養人・文化人であったことを、帰国した収容所の仲間から聞き出し、詩歌などを通じて紹介するところに本書の特色がある。そして、その先にあるのが“遺書”である。
収容所の文化部長として活躍していた山本に死期が近いと知った瀬島は彼と親しい男に「山本に遺書を書かせよう」と提案する(命じる)。書かれた遺書は大学ノート16ページ(4500字)、“本文”、“お母さま”、“妻よ”、“子供たちへ”の4部で構成される。この遺書を渡す際、山本は「全部頭の中に入れてくれ」と乞う。帰国者は一切書いたものを持ち出すこと禁じられていた。もし違反すれば収容所に戻されるのだ。複数の仲間が分担して、帰国が叶う195612月まで書かれたものを何度も反芻し暗記する。
山本の家族は終戦の翌年無事帰国していたが、隠岐の島、松江そして大宮と転居していた。収容所仲間も先ず家族の待つ郷里へ向かい、それぞれの生活を整えなければならない。初めの便りが妻にもたらされるのは19571月半ば、同郷(島根県)の仲間に託した“本文”である。10日後便箋25枚をびっしり埋めた“全文”と所内での山本の日々を綴った便りが届く、山本に私淑していた男からである。番目は“子供たちへ”、四番目は“妻よ”、五番目は山本の墓所を示す地図と“全文”、六番目は半年後に手紙とともに届いた“お母さま”と“子供たちへ”。そこに添えられた小さな紙片は与えられていた薬の薬包紙に赤鉛筆でかかれた「死ノウト思ツテモ死ネナイ…」と言う山本の走り書きであった。
シベリア送りの疑義が正せたばかりではなく、極限状態下でも前向きで余裕のある生き方、強い家族愛、仲間たちの信頼と驚異的な彼らの責任感、当に感動の一編、数々の受賞に納得!

蛇足;本文に4人の子供(長男・次男・三男・長女)の名前が出てくる。あとがきにそれぞれが教授・東京芸術大学・東京大学・東京外国語大学に学んだとあった。山本が死の床にあるとき(このころになると葉書の交換が許されるようになる)長男は東大受験を控えており、その合格通知を待ちわびながら死んでいく。そこで長男“山本顕一”をグーグル検索にかけてみた。出てきた!東大仏文科卒、立教大学名誉教授、立派なホームページがあり、ここに父親のことが記されていた。二度目の感動を味わった。


あの戦争を思い起こす8月はこうして終わった。

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2016年8月21日日曜日

呪われた旅-5

10.      最大の試練
順調に走行を続けて400㎞程走ったところで道は舗装路になった。快適に時速120㎞で暫く走っていたその時、ドーン!車がよろける。何が起こったのだ?車をわきに寄せ外に出てみると、タイヤがバーストしている。パンクまでは覚悟していたが、バースト!タイヤの外周5㎝くらいの処で全周にわたってタイヤが切れている。きっとStanding Waveが発生したのであろう。偶々120㎞という速度とタイヤの固有周期がマッチした のではないかと思い以後時速120㎞で長く走ることは控えた。それにしても見事に破壊されている。
交換タイヤは2本用意されているので、いつもの要領でジャッキをシャシーの下に置きジャッキアップして破れたタイヤを取り外す。タイヤを外してからはたと気が付いた。このままでは交換タイヤを取り付けられない。新タイヤを取り付けるのに高さが足りない。この四駆は後輪板バネなので、シャシーを上げると板バネが伸びて車軸が下がってしまう。ジャッキはシャシーではなく板バネの下に置くべきなのだ。しかし既に時遅し。このままジャッキを緩めれば車体が傾き転倒しかねない。もう一度取り外したタイヤを取り付けようと試みるが、重いし破損しているので元のネジ穴にはめられない。日は暮れてくるし、回りに人はいないし、体力も消耗してきてメゲそうになる。最初に良く考えてから行動すべきだったと後悔ばかりが先に立つ。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。衛星電話で電話したところで救助に来るには何時間もかかるだろう。気力を取り戻し、回りを見まわし、石を捜す。少し小さいが枕ほどの大きさの石をドラムの下に置き、ドラムが重さで変形しないように祈りながら慎重にジャッキを下す。一応安定を保ったところで急いでジャッキを板バネの下に移動してタイヤを交換する。四駆のタイヤは重いので、手では持ち上げられない。ジャッキの高さを調整して、タイヤの下にバールを入れて梃子の働きで一気にネジ穴に装着。何とか日のあるうちに修理を終えることが出来た。一気に疲れがでてきて暫くその場にとどまる。

2.      まだ終わってない?
そのまま旅を続けて日のあるうちに宿に到着の予定だった。だった、しかし予定の地点に宿は無い。どうやらGoogle Mapで地点を入れた時に間違えたようだ。
左図の青色のルートが一番妥当なルートであるが、Sesriemを出た時に真っすぐ下に降りてきたので少し時間がかかった。この間ナビは図の灰色のルートを推奨していたのか、最初から東に行くよう誘導する。すっかりナビに対する信用を無くして簡単なGoogle地図と方向感覚だけでゼーハイムまで来た。予定地点はこの近辺までだったが、宿は無い。B4の舗装路を東に走っているときにゼーハイムで右Fish Riverという看板を見る。ナビはそのまま直進するよう指示する。辺りは真っ黒で、手元にこの付近を表示する地図も正確な宿の場所を表示した上の様な地図もない。絶対にここを右折すべきと思ったが、夜間にダートを走ったことが無く月明りもない状況下で目的地も定かでない道を走るのは危険と感じて、ナビを信じることにした。ナビはどうやら舗装された道路を出来る限り走るように設定されていたようだ。ゼーハイムから延々と赤で示された道を走ることになった。
B1に戻って延々と南下。流石にB1150㎞くらい走ったところで給油所を発見。この国では給油所もB1ですら100㎞に1ヶ所あればいい方である。その為か、この車には補助タンクもあり、100L以上入る。この大回りで3時間近くを浪費して9時半ごろにやっと宿に到着。この日ほとんど1000㎞も走ったことになる。
タイヤのトラブルがなければ、明るい内に分岐点に来ていただろうから、正しいルートを通って、晩飯にも間に合っていたと思う。ドライブにはやはりナビではなく正確な地図と正しい方向感覚が必要であることを改めて確認した出来事であった。ナビ、くそくらえ!
因みに、帰りは宿で地図を見つけたので青のダート道を通って1時間半ほどでゼーハイム付近まで戻ることが出来た。結構整備されており、後悔しきりであった。

2016年8月16日火曜日

呪われた旅-4

8.     Dart道路を走る
C24に入ってすぐに被害を受ける。すれ違いざまに石礫の攻撃を受け、フロントガラスに大きな傷が出来る。何で俺に?最初の日に?保険でカバーされていたかどうか分からなかったから結構ショックであった。取敢えず運転に支障はなかったのは不幸中の幸い。
道路は中央が高いので、左によると左への分力が生じ、右へハンドルを切って走る必要がある。戻るときが問題となる、急に戻ると車が右に流れるのでカウンターをあてることになるが、タイミングによって尻を振ることになる。そうなると制御することは困難となり、車は回転し始める。危うく事故になりかけたこともあったが、車が少ないこともあって一命をとりとめることが出来た。LuckyポイントJ。その後、左への寄りすぎには十分注意をはらいつつ慎重に運転するにつれ、Dart走行にも慣れてきて時速100㎞くらいで走行できるようになった。勿論まっすぐで対向車がいない状況だけである。
周りは荒野である。Namibian砂漠が延々と広がっている。時々高いところに鳥の巣と思われる異様な光景も展開するが、それ以上不思議なことはこんな荒野の人影も見えないような土地なのにほとんどの土地がフェンスで区切られていることである。きっと、人影が無いことをいいことに白人どもが囲い込みを行っているに違いない。この巣も電柱の上に作られている。鳥には囲いは有効ではないらしい。
その後は順調なドライブが続き10時にWindhoekをでてから5時間ほどでSesriem近くの最初の宿に到着した。ここには2泊の予定であったが、例のTrouble1泊はCancelとなってしまった(勿論有料)。約500㎞を走ったので、Googleでの距離の1.5倍くらい走った感じである。
ここはGondwana Groupが経営するLodgeの一つで砂漠に建てられた高級リゾートホテルという趣である。ここでも中国人の進出は目につき、10人以上の団体が「ナミビアの自然を撮る会」主催の海外Tourといった趣で、高倍率の望遠レンズを装備した高級カメラをぶら下げて周りを徘徊していた。庭?には水飲み場が設えられており、野生のOryxがウロウロしていて野趣を演出していた。
その夜、念願の星空観察を行おうと宿から少し離れて夜空を眺めた。満天の星が輝いていたが、あまりに数が多すぎてどれが南十字星かマゼラン星雲かさっぱり分からなかった。やはりガイドが必要である。天の川は最初夜空の雲かと見惑い、星とは気付か なかった。考えてみれば、漆黒の闇に雲など見えるはずはないのであるが、もう随分長く天の川を見ていないので分からなかった。絞りを開放にして撮った写真があるが、奇妙なことにおかしな光の動きが映っている。この間夜空を眺めていたのだが、肉眼では何も確認出来ていないが、ご覧のように数秒間の間にレの字のように光が移動している。UFOがこちらのカメラに気付き高速で移動したとしか考えられない。不思議なこともあるものだ。

9.  旅のハイライトDune45
旭に輝くDuneを撮影すべく朝食弁当を貰って朝5時に宿を後にする。Duneは国立公園内にあり、朝6時半にしか開かない。公園入口に着くと既に何台かの車が同じように入園待ちをしている。
実は公園内にもロッジがあり、そちらに宿泊したかったのだが間違えて今回の宿を予約してしまった。後で分かったが、公園内のロッジは既に満室で予約はいずれにしろ出来なかったようだ。High Seasonは3か月くらい前には予約した方がいいみたい。
公園内には右も左のDuneが一杯。Dune45はその中でも姿の美しさで知られ、ポスターなどで度々紹介されている。ここに野生のOryxが歩いていれば、最高の撮影チャンスであるが、そう都合よく現れるはずもない。Duneは何億年もかけて大西洋からの強風と砂が作り上げた芸術作品であり、自然の力には圧倒される。
途中にDuneを歩いて登れるスポットが用意されていたが、砂が崩れるので中々すたすたとは登れない。最後まで登頂することを放棄し途中から下山することにする。言い訳ながら、もし当初の日程なら最後まで頑張っていただろう。
公園内を何十キロか走った先に、ここからは四駆以外走行禁止区域があり、車の走行を制限していた。こっちは四駆なのでここに踏み入れたが、途中でスタック。公園内のパトロールが車の空気圧を抜いて脱出を手伝ってくれた。流石は国立公園と思っていたが、チップを要求され世界標準の厳しさを味わう。それ以上行くとまたスタックしそうでここでメゲテしまって引き返す。何度も言うようだが、当初日程だったら最後まで行っていた。
午前10時ごろに公園を後にしてFish Riverに向かう。今日も500㎞くらいは走らなければならない。今から出れば明るいうちには目的地に着けるはず。ナビを次の目的地にセットして出発するも、ナビの指示は反対方向。Googleで事前に調べてあった地図と方向感覚を頼りに一路南下。眼前には7色の砂漠が地球の原初風景を思わせる幻想的な眺望を提供してくれる。すれ違う車もなく、見渡す限りの荒野。このような環境にいると、守ってくれる自然もなく神はアッラーのみであると実感させられる。

この時奇妙なことに気付いた。南に向かっているのに太陽が後ろにある。そうか!ここは南半球なのだ。お蔭で眼前の風景はいつも輝いて見える。頭では理解できるが、やはり違和感がある。この話には後日談があり、Jeddahからの帰り、フィリピン人のタクシー運転手とこの話をしていたのだが、突然彼が方位磁石を持ってないかと聞く。「今は北に向かっているはずなのに何で太陽は右にあるのだ」と聞く。確かに影は右から左に伸びている。きっと一時的に東に向かっているのではと言って、ナビをつけさせたが、確かに北を指して移動している。そこで気が付いた。今は夏至に近く、サウジは北回帰線近くあるため、太陽は東から真上を通って西に移動する。つまり影は、午前中は常に東から西に、午後は西から東に延びることになる。この時は11時頃だったので、太陽は右(東)に見えたのだ。日本の常識が世界の常識ではないことを改めて自覚させられた出来事だった。

(つづく)