2022年10月31日月曜日

今月の本棚-171(2022年10月分)

 

<今月読んだ本>

1)チキンライスと旅の空(池波正太郎);新潮社(文庫)

2GE帝国盛衰記(トーマス・グリタ、テッド・マン); ダイヤモンド社

3)統帥乱れて(大井篤);中央公論新社(文庫)

4)科学者と軍事研究(池内了(さとる));岩波書店(新書)

5)天子蒙塵(全4巻)(浅田次郎);講談社(文庫)

 

<愚評昧説>

1)チキンライスと旅の空

-下町を語らせたら右に出る者の無い作家の想い出数々-

 


入社して7年余和歌山の田舎で寮生活だった。そんな中で数少ない楽しみの一つが元寮生の新婚家庭訪問である。ある時大阪のお嬢さん育ちの女性を伴侶に迎えた友人宅に招かれ歓談中、「私は東京の下町育ちだらか」と切り出すと「エッ!シタマチ?」と怪訝な顔をされた。娘時代何度も上京の機会はあった人だから山手(やまのて)線は乗ったろうし“山の手”は想像できたかもしれないが“下町”は不可解だったようである。この時から “下町”が全国区でないことを意識するようになった。その後“寅さん”シリーズで広く認知されるのだが、小学校から高校までの友人たちにすれば「柴又が下町かよ?」、ましてや下北沢や高円寺が下町と報じられるようになると「何をかいわんや」の感である。我々の感覚では、南西から北東へ銀座・築地・日本橋・神田・上野・浅草辺りまでが下町、隅田川から東は武家屋敷もあった本所を除き下町ではない。そんな狭い昔からの下町を描かせたら、これ以上の作家はいないと思われるのが本書の著者池波正太郎である。浅草で生れ育ち奉公先は日本橋、正真正銘の下町っ子である。卒業した西町小学校は新制御徒町中学の学区内だから、世代は異なるものの、格別の親近感を持つ人物だ。小説は鬼平犯科帳(長谷川平蔵の居所は本所)をTVや劇画で楽しんだだけで、読んではいないものの、随筆はかなり揃えている。本書は文庫本としてはその最新版(書かれた時期はかなり以前だが)、読まずにはおかれない。

まとめられた話は1972年から1986年まで新聞・週刊誌・月刊誌に掲載されたもの38話。しかし、単なる過去の追想ではなく、いずれも著者の前向きな生き方が滲み出て決して古さを感じさせない。題材は得意の食(店や料理ばかりではなく食材や調理法まで)や芸能(映画・演劇・レコード)関連が多いが、時節や旅(海外を含む;特にフランス;パリの定宿は川に近い下町)あるいは作品などにもおよび、著者の既刊随筆に比べ範囲の広いことが特色と言える。それ故に、本書を読むことで“池波正太郎とはいかなる人物であるか”が分かったような気になる。

時も場所もテーマも異なる話を整理すると以下のような来し方だ。父親の家系は宮大工だが父は綿糸問屋の通い番頭、母方の祖父は錺(かざり)職人(金銀細工;宝飾、小間物家具の金具)、著者は1923年浅草聖天町の自宅で生れる。一家は関東大震災で一時浦和に転居しているがしばらくして入谷に移る。ここで父が事業(撞球場)に失敗、離婚。母はその後再婚し異父弟が生まれるが、再度離婚し実家に戻る(浅草永住町)。著者は召集されるまでここで暮らすのだが、祖父が死亡しすべての家族(曾祖母・祖母・母・著者・弟)を母(なかなかの肝っ玉おっかさん)が支えることになる。しかし、後年老母が「子供を育てることが苦しいと思ったことは、一度もなかった」と語り、著者も「貧乏だが腹がへったことはなかった」と回想、下町の連帯感がそれに与かったとしている。小学校を卒業すると株仲買店に丁稚奉公(13歳)。給料は安いが16歳ころから自分も株売買を始め、その収入は「あの時の稼ぎを貯めていたら家の10軒も持てたのに」と老母に嘆かれるほどだった。グルメに目覚めるのはこの時代、美食を求め銀座・丸の内界隈に進出、時にはタクシーで横浜の中華街まで遠征することもあった。戦時徴用で旋盤工になり飛騨高山に出かけそこで食べたチキンライスが忘れられず本書の題名となる一文を記す。召集で海兵団に入団(20歳)、米子基地勤務で終戦を迎える。昭和20310日の下町大空襲で住まいは焼失したものの祖母・母は無事、住居を品川区荏原に移し、戦後区役所勤務をしながら新国劇の座付き脚本家を務め、この時師匠である長谷川伸から「小説を書け」と強く進められ本格的な執筆活動に入る。昭和35年(1960年)「錯乱」で直木賞を受賞、人気作家となっていく。

“東京の下町”と題するそのものずばりの話もある。子供時代不忍池で蛍狩りをしたとあり、ここも黒門小学校の学区内、これは隔世の感である。書かれた時点(1970年代)でその変貌を嘆いているが、現在はさらに激変、生きた時代・書かれた時代・読んでいる時代を往き来しながら、単なる繁華街(ダウンタウン)ではなく生活臭のある下町を楽しんだ。

 

2GE帝国盛衰記

1907年来のダウ平均工業株から外れた超優良企業の凋落。名経営者ウェルチも無罪ではない-

 


小中学校時代の読書は専ら図書室にあった世界名作全集や偉人伝だった。中でもエンジニア志望だったから“エジソン”には惹かれるものがあった。電球の開発でフィラメント材料を試行錯誤、日本の竹がそれに適するとの話が一層親近感を与えてくれたものだ。そんなエジソンへの敬意は成人してからも持続、1982年ニュージャージに在ったエクソンの技術センター訪問の折、休日を利用してウェストオレンジの研究所跡を訪れた。米国産業遺産となるそこには彼が昼夜分かたず研究開発に励んだ一画があり、簡易ベッドまで残され、往時を偲ぶことができようになっている。このエジソン崇拝観が激変するのは60歳過ぎてから。いくつかのエジソン伝(「エジソンの生涯」「エジソン発明会社の没落」「訴訟王エジソン」など)を読むうちに、子供向けの英雄譚とは全く異なるエジソン像を知ることになったからである。そこにはアイディア盗用・独占欲・狡猾・陰謀など負のイメージが溢れている。例えば、最近映画「エジソンズ・ゲーム」の主題となったウェスティングハウスとの電力供給における直流・交流戦争(エジソンは直流、ウェスティングハウスは交流)が挙げられる。放火事件まで引き起こしてウェスティングハウスを貶めようとするのだ。このエジソンが1878年に創設したのがエジソン電気照明会社、これがやがて本書のタイトルにつながるエジソン・ゼネラル・エレクトリック社となるわけだが、早い時期(1892年)にエジソンの名は消し去られ、経営にも関与することも無くなって、単にゼネラル・エレクトリック(GE)となってしまう。本書の出版を知ったとき、このエジソン電気照明会社から始まる1世紀以上にわたるGE史と勝手に思い込んでいたが、読んでみると予想とは違い、20世紀最高の経営者と言われたジャック・ウエルチのあとを継いだジェフリー(ジェフ)・イメルトの時代を中心としたごく直近のGE経営の変貌・衰退を詳しく語る内容であった。

1981CEOに就任したウェルチは最盛期に売上を5倍、収益を15億ドルから127億ドル、株価を40倍引上げたGE中興の祖である。これだけの実績を上げるためには大胆な経営改革が必須。厳しい姿勢で事業構成の組み直しから人員削減まで徹底的に行った。その最大の眼目はGEキャピタル(金融業)の拡大、一時期GE収益の半分以上を稼ぐまでになる。2001年退任、後継者としてイメルトが選ばれる。イメルトはキャピタル偏重を改め本業(製造業)回帰を目指すことになる。理由は金融事業に対する外部から聞こえて来た、あまりにも範囲を広げ過ぎ実態が見えないとの批判。しかし、彼はビジネススクールに学んだとは言えマーケティングが専門、キャピタルの事業をよく理解できないため、そのリストラは中途半端なものに留まる。一方GEの他事業部門資金はキャピタル頼み、伝統的に財務計画・報告は杜撰なものになっている。例えば、ジェットエンジンや発電タービンビジネスは単品では赤字だが長期にわたる保守で利益が出る仕組み(繰延収益化)、これを四半期ごとに調整してあたかも利益が出たように操作することが常態化していたのだ。この会計操作は鉄道車両や医療機器も同じ。つまりウェルチ時代から収益は作られたものであり、経営の実態は経営者自身気が付かぬほど複雑化していたのである。これがやがて証券取引委員会(SEC)の疑念を生むことになるが、イメルトは当初事態を深刻に受け止めておらず、特別会計を使った巧妙な仕組みで製造業回帰のためのM&Aに邁進する。杜撰な財務管理は買収企業評価の甘さにもつながり大型買収に失敗を重ねることになる。

彼の施策は投資家の疑念と不安を生み、やがてウェルチ時代に遡る経営見直しを迫られることになる。同時期サブプライム・ローン問題、リーマンショックなども発生、先ずキャピタルが俎上に上がり、キャピタルの行き詰まりはGEグループ全体の資金調達危機を派生、救済のためFRBの監督者が乗りこみ監視下に置かれる。イメルト就任時の株価38ドルは2009年には12ドルにまで落ち、配当を30セントから10セントに減ずると株価はさらに下落、S&Pの格付けはAAAからAAに下げられ、1907年設けられそれ以来のメンバーだったダウ平均工業銘柄30社からも外されてしまう。 “物言う投資家”が取締役会にポストを求め、大胆なリストラ(キャピタルの解体、プラスチック事業、医療事業、NBCユニバーサル(メディア)、石油・ガス機器事業の売却など)に着手するとともにイメルトを退任に追い込む(2017年)。イメルトを継いだのはグループCFOのジョン・フラナリーだが彼の寿命はわずか14カ月(生真面目な性格が優柔不断と断じられる)、本書ペーパーバック出版の時点(2021年)ではフラナリーが取締役会メンバーとして招いた、小規模なコングロマリットCEOを経験しハーバード・ビジネス・スクール教授に転じたラリー・カルプが務めている。

本書の主役は専らイメルトだが、著者は衰退の根源をウェルチの経営手法にあると考えている。特に収支と株価に着目したRank&Yank(抜擢と切捨て)と呼ばれる厳しい人事評価システムと金融業への過大な傾斜がその代表だ。製造業と金融業の人事管理および収益・財務管理か全く異質なものであることをイメルトは無論、ウェルチですら理解していなかったのではないかと見ている。次いで問題視しているのが取締役会の役割・機能である。社外取締役が多数派(一流財界人、学識経験者)のGEでも会長はCEOが務め、誰も会長に異言を呈することがないのが実態。月一度ほど集まるだけで年収2千万円の収入、社有ジェットを利用でき、時には製品(多分家電製品)の供与を受ける特権・特典に完全に懐柔されてしまっていたのだ。

読みながら去来したのは東芝。我々の就職時は超一流会社、同級生も何人かここに入社した。しかし、ボロボロになったウェスティングハウスの原子力事業を買い取ったとき「20世紀初頭からGEと関係が深かった東芝(東京電気+芝浦製作所)が今、何故?」と疑ったものだった。そして不正経理を因とする東芝解体が進んでいる。規模は違うが同じ総合電機、果たして東芝はどうなるのか?

内部に食い込んで、経営細部の情報を収集、イメルト一人を悪者にするような興味本位の論調でなく、多岐にわたる問題点を客観的に分析、大企業の病根を突き詰めるプロセスは、「さすが経済ジャーナリスト!」の感を抱かせ、現役時代読んだ経営史・企業文化に関する同種の書物と比べても際立った秀作と評価できる。

著者は二人ともウォール・ストリート・ジャーナル記者、一時期GEを担当した先輩・後輩である。

 

3)統帥乱れて

-大本営と現地軍、陸軍と海軍、仏印北部進駐を巡る混乱を海軍当事者が語る-

 


現役時代数理技術を扱う部門の管理職を経験したことからその一手法であるOROperations Research;作戦研究)に興味を持ち、実務を離れた2007年この学問の発祥の地英国に渡り、その歴史研究の泰斗であるランカスター大学経営学部教授に個人指導を受けた。ORはその名のごとく軍事作戦に数理を適用する活動、島国英国の生命線であるシーレーン確保のため対Uボート作戦に広範な適用事例があり、これによって危機を脱しことがよく理解できた。教授の指導方法は英国事例文献のリーディング・アサインメント(宿題)中心だが必ず「日本はどうだったか?」の質問が投げかけられる。幸い渡英遥か以前からOR史関連資料を集めており、そのひとつに本書の著者による「海上護衛戦」(単行本発刊昭和28年(1953年))があった。著者は昭和18年秋創設された海上護衛総司令部の参謀を務めた人(1902年生れ、海兵・海大卒、米国留学、駐米大使館武官補、終戦時大佐)で、帝国海軍には“船団護送(兵員輸送を除く)”の発想は皆無と言っていいと記されていたのでその旨応えると「信じられない!何故なんだ?」と話が盛り上がった。そんなことがあってそれまで知らなかった著者名が印象づけられていた。その新著(復刻版)が出たので読んでみることになった。

太平洋戦争(大東亜戦争)へ至る大きな道のりをたどると、満州事変(19319月)→支那事変(日中戦争;19377月)→仏領インドシナ進駐(仏印;現ヴェトナム、ラオス、カンボジャ;北部19409月、南部19417月、南部進駐と同時に米国に依る石油禁輸・日本資産凍結)→ハルノート(194111月)→開戦(194112月)となる。本書で扱われるのはこの仏印北部進駐に関する陸海軍の動きであり、西方電撃戦でドイツに敗れた後の仏和平派に依るヴィシー政権誕生後の日仏外交と密接に連動する。日本側の建て前は仏印経由の蒋援(国民党軍支援)ルート遮断にあるが、その先に英領マレーやビルマさらには蘭印(現インドネシア)があり、米・英・蘭との関係も複雑に絡まっている。仏側(東京、現地)との交渉は、紆余曲折はあったものの、北部進駐は平和裏に行うことで仏側も了解する。しか陸軍の一部(参謀本部、現地軍)に武力進駐を画策する一派があり、中央(政府・大本営)と現地軍(平和進駐でも海軍の協力は必要)を巻き込む混乱が発生する。著者はこの時の遣支第2艦隊(第1が中国沿岸北部、第2がトンキン湾までの南部担当;司令長官高須四郎中将)作戦参謀(中佐)であり、この混乱の渦中にあった。タイトルの“統帥乱れて”は平和進駐のため現地に派遣された監視団(交渉団)団長西原一作陸軍少将(大本営参謀)が中央に報告した電文に「統帥乱れて信を中外に失う」とあったことから引用されている。武力派のトップは大本営陸軍部(参謀本部)第1部長の富永恭次少将と南支方面軍司令部副参謀長佐藤賢了大佐。これに参謀本部・現地軍や海軍軍令部(海軍はごく少数)の中堅佐官級参謀が加担する。

陸軍武力派の意図は何としても“事変(戦争)”にして、勝者の名誉を出先の軍・個人が獲得することにある。満州事変の下剋上では関係者が一部見かけ上左遷されても、しばらくすると重要ポストに返り咲いている(例えば、石原莞爾は関東軍参謀から仙台の連隊長になるがこの後参謀本部作戦部長の任に就く)。支那事変も同様、あの時代の職業軍人にはこの手のタイプが決して少なくなかったのだ。命令の無視・曲解が現地レベルで頻発するとともに大本営陸海軍間での情報共有化も意図的に妨げられ事態は混乱、国境付近の部隊は一部越境、仏側と小競り合いが起こり、進駐具体化交渉が進まなくなる。ここで艦隊司令部は上陸支援に向けられた駆逐戦隊を引揚げることを決し中央の統制を要請、何とか平和進駐を実現させる。本書はこのような過程を現地陸海軍間の会議・交渉を中心に日時を追い、個人の言動を明確にして語るものだが、著者の立場は一連の動きの海軍側要石の位置にありその状況が生々しく伝わってくる。

本書の単行本は昭和59年(1984年)刊、著者晩年の作品である(82歳)。戦後からこの間ひたすら戦史研究に取り組み(本テーマばかりでなく海上護衛戦なども含む)、関係者への聴き取り、残された日記(自身と高須大将(最終)のものが中心)の内容確認、戦記・戦史出版物との比較、防衛研究所戦史室に残された関係電報や焼却を免れた公文書類の詳細調査、によって完成させたと著者あとがきにある。ここで在来の戦史書物と大きく異なるのが電文の多さである。海軍はその性格上わかるものの陸軍の一部情報までそこにあることに驚かされた。このからくりは陸軍の通信システムでは長距離通信が出来ず旗艦経由になりかつ大本営と現地軍間の通信暗号が共通だったことによる。海軍軍人が書いたものだけに対陸軍観にバイアスがかかっていることは否めないが(自身そう述べている)、この電文中心が客観性を保つ重要な役割を果たしていると思える。大きな流れの中で目立たぬ北部仏印進駐の細部を報告している点で価値ある一冊と言える。

 

蛇足;佐藤と富永;

佐藤賢了;本件以前の1936年衆議院委員会において「国家総動員法」の政府説明員の際、宮脇長吉議員(鉄道作家宮脇俊三の父、元陸軍大佐で士官学校教官時佐藤は生徒であった)のヤジに対し「黙れ!」とやり舌禍事件となっている。北部仏印進駐統帥違反では、上司の方面軍司令官は予備役編入となったものの佐藤は陸軍省軍務課長・軍務局長(少将)へと順調に出世している。これは東條首相のはからいと言われる。東條失脚後は支那派遣軍総参謀副長、師団長(中将)など枢要な地位からは遠ざけられているが極東裁判ではA級戦犯となって1956年まで服役。

因みに、佐藤は著者より7歳上だが駐米大使館武官室勤務経験があり同時期在米、旧知の仲である。

富永恭次;統帥違反の責任をとらされ東部軍司令部付きに左遷されるが、東條首相の下で陸軍省人事局長に復帰、陸軍次官(中将)まで昇進。その後一度も実戦を体験していないにも拘らず比島決戦を担う第4航空軍司令官に任ぜられ多数の部下を特攻に出す。一方で敗勢になると上級司令部である南方軍の許可を得ず参謀と伴に台湾に司令部を移し、これが敵前逃亡と断じられ予備役に編入される。しかし、上級指揮官の人材払底で現役復帰、格下の師団長として在満師団に配属、そこで終戦を迎え10年シベリアに抑留され1955年帰国する。

 

4)科学者と軍事研究

-反軍原理主義者の教育宣伝資料。こんな輩に学界が牛耳られてはならない!-

 


OR歴史研究で渡英した際、彼の地における第二次世界大戦時の科学者と軍事に関する文献・書籍に触れる機会が多かった。それも兵器開発のような技術的・工学的分野ばかりでなく作戦計画・実施と言う軍事活動の中枢機能までおよぶ広範なもので、トップレベルの理学や医学・生理学専門の科学者が深く関わっている姿である。ORの父P.M.S.ブラケット教授(マンチェスター大、物理学;戦後宇宙線研究でノーベル物理学賞受賞)、米国との軍事科学交流を推進し自らも航空機用高オクタン価ガソリン開発に貢献したヘンリー・ティザード教授(インペリアルカレッジ、物理化学)、チャーチルの科学技術顧問フレデリック・リンデマン教授(オックスフォード大学、物理学)などがその例だ。これがきっかけで帰国後英国のみならず米国、ドイツ、日本における科学者と戦争の関係を調べ始めた。その結果、第二次世界大戦では英国の科学者の担当域が政治・軍事・産業と最も広範で米国がそれに次ぎ、ドイツ・日本は兵器開発(工学域)に限定されていることが明らかになった。そして民主主義国ほど科学者の総力戦貢献度が高いことを知った。また英米が最新技術を共有できたのは科学技術が同レベルにあったことが、それを現実的なものにした。本書を手にしたのはこの問題における我が国における最新情報を期待してのことである。しかし、読み始めて大いなる誤解であることがわかった。反軍原理主義者の活動報告・広報資料と言うのが実態なのだ。

まえがき・あとがきから著者は2014年から軍学共同反対運動を開始(“連絡会”があり、コアーメンバーとして新潟大学、東京農工大学、海洋研究開発機構など国立大学・研究機関の教授や研究官が個人ベースで名を連ねている。)、既に2016年「科学者と戦争」(岩波新書;未読)を出版しており、本書はその続編に位置付けられる。その骨子は防衛省が創設した「安全保障技術研究推進制度(研究に対する資金助成)」に対する批判(と言うより非難)、軍事科学→戦争→悪と言う極めて単純な論理展開を主張し行動している。著者は1944年生まれの名古屋大学名誉教授(天体物理学専攻)、既に退官しているが先の制度発足来本書脱稿まで(201712月発刊)、市民講座などで50回以上反軍キャンペーン講演を行っている。

おそらく若い時から反軍・反戦思想の信奉者だったのだろうが、本書の中でしばしば触れるのはつの日本学術会議の声明・決議である。第一は1950年(昭和25年)発せられた「戦争を目的とする科学研究には絶対に従わない決意表明」、第二は1967年(昭和42年)の「軍事目的のための科学研究を行わない声明」。そして助成制度発足後にこの二つを再確認する2017年の「軍事的安全保障研究拒否の決議」。これらを金科玉条として「声明・決議に反することは許せない」と活動しているわけである。時代背景(特に国際情勢)など一切考慮せず、占領終結前後の声明(第一;あとの二つはこれの焼き直しである)墨守にこだわり続ける者は原理主義者以外の何者でもない。

ひも付き研究は自由度を奪われる。これに慣れると軍学共同に抵抗がなくなり積極的に軍事科学を推進するようになる。守りの兵器研究がやがて攻撃兵器に転じ、果ては核兵器、生物・化学兵器開発につながっていく。ひも付きは大学の自治、科学者コミュニティの独立性を失う結果を招く。民軍両用のデュアルユースも要警戒だ。こんな調子で防衛省のみならず他省庁(例えば経済産業省)の学術研究関連予算への反対を呼びかける。一方で研究費増額、配分の自由度を求め、学術会議の改編や現状と異なる大学改革を提言する。軽薄な左傾知識人にいかにも受けそうな論理展開だ。

本書は2017年刊なので助成制度の適用実績は2015年度、2016年度のみだが、応募件数では15年度109件が16年度は44件と半減以下、これを彼等の活動成果としている。

憲法改正を望み(9条ばかりでなく)、軍事と科学者の英米における関係を理想と考える私にとって、本書に述べられた内容はとんでもない主張・活動であるが、この制度の運用実績や学界内での反軍活動の実態を詳しく知ることができた点において、それなりに目を通した意義はあった。

 

追記;本項を書き終えたのは28日夕。この日の日経夕刊に、半頁を割き「軍民両用技術で歩み寄り」と見出す記事が掲載された。これは先に述べた1950年および1967年の声明を日本学術会議(会長梶田隆章東大卓越教授;奇しくもブラケット同様宇宙線研究でノーベル物理学賞受賞)が見直したと言う内容である。ポイントは「従来のようにデュアルユースとそうでないものを見分けることは困難」とし「研究対象となる科学技術をその潜在的な転用可能性をもって区別し、扱いを一律に判断することは現実的でない」と明記したことにある。コメントを寄せた山崎弘郎東大名誉教授(センサー工学;私も一時期勤務した横河電機元社員)も「遅すぎたし、当たり前のことを示したに過ぎない」と今回の判断を支持している。長年反軍原理主義者が拠りどころにしていたものを事実上反故にしたことを評価したい。

 

蛇足;ドイツ文学者・エッセイスト・東大教授池内紀(おさむ、故人)は兄、中東専門家・東大先端科学技術センター教授池内恵(さとし)は甥。

 

5)天子蒙塵(全4巻)

590万部を売り上げた“蒼穹の昴”シリーズ第5部。満洲国建国前夜を綿密な調査を基に書き上げた力作-

 


生れ育った満州に対する想いが、老い先が短くなることと反比例して高まっている。ひと当たり海外(主に欧州)を巡ったら、最後は長春(新京)を中心に彼の地を訪れたいと願っていた。完全な一人旅(家人は全く興味がない)、通訳兼ガイドを雇い、長春に数日滞在、かつての我が家とその周辺、夏休みを挟んで5カ月ほど通った小学校、自宅近く建設途上にありながら工事が中断していた宮廷府(新宮殿)、新京駅周辺(特に大和ホテル)、関東軍司令部などを探し出ししばし想い出にひたり写真を撮る。こんな旅行のために新京在住だった先輩(故人)が持っていた当時の地図のコピーも用意した。長春が済んだらハルビン(両親と観光した幼児期の写真が残る)・瀋陽(奉天;引揚途上約1カ月ここに留め置かれた)・大連(妹出産のため母とここ経由で本土と往復した)を巡る。これが計画の素案である。しかし、コロナ禍で中国観光がいつOKになるか不明だし、老齢化で実現の可能性はほぼ消えつつある。それでも満洲への関心は褪せな。小説でも歴史小説ならそれなりに有効情報があるかもしれない。こんな期待で本書を手にした。

本書は清朝末期の光緒帝と西太后の争いを描いた「蒼穹の昴」(1996年刊)から始まる一連の満洲史シリーズ小説である。この後「珍妃の井戸」「中原の虹」「マンチュリアン・リポート」と続きこれがその第5部となる。私が読んだのは前作「マンチュリアン・リポート」からで、本欄20109月に取り上げている。動機は“マンチュリアン”にあった。張作霖爆殺事件の真相を勅命(こんなことはあり得ないが)で捜査に当たる若い陸軍大尉を主人公としたものである。当時これがシリーズものであることは知らず、読み切りと思っていたから、本書の単行本(2016年刊)が出たことなど知る由も無かった。書店で「何か満洲物で面白い作品は無いか」と物色している時目に入ったのが文庫版である。“蒙塵” (天子が難を逃れて都の外に出ること)が何故か気になって手にしてみると帯に“さまよう溥儀”とあり4巻まとめ買いをし、一気に読んだ。



辛亥革命(1912年)で廃帝となった宣統帝溥儀が、軟禁されていた紫禁城(北京)を脱し(1924年)、天津の日本租界を経て東北(満洲)に逃れ満州帝国皇帝に即位するまで(1934年)を描く満洲国前史が今回(第5部)の時代背景である。この間大東亜戦争への策源とも言える満州事変が起こっている(1931年)。日本史で言えば幕末・維新に相当する時期、多様な歴史見解があり各種著作・報告などが溢れる一方、未解決の課題も多々残る、小説の題材には事欠かない時代。これを著者はどう料理するか?ここが満洲物をかなり読んできた者として興味の焦点だ。

歴史小説を読むとき、史実との整合性にどうしても眼が行ってしまう。人物、時代考証、地理、乗物・交通機関、武器を含む小道具などがそれらだ。これらに違和感があるとどうしてもストーリーにのめり込めない。今回そんな場面は皆無。自身の記憶と重なるのは新京の街並みだけだが、工事が中断されていた新宮殿(この敷地内に社宅の家庭菜園があったし、子供たちの遊び場でもあった)を含め、「よくここまで」と思わせるほど調査が行き届いている。人物描写を除いてすべて事実と言ってもよさそうだ。第4巻最後にNHKのプロデューサーが解説を寄せているが、中国関連番組制作の際著者に協力を求めるほどの中国通であることを知った。


さて、その人物である。歴史小説だから、溥儀・婉容(えんよう;皇后)をはじめ、父張作霖爆殺後東北軍を国民党軍に易幟した張学良、天津からの脱出劇に深く関わった甘粕正彦、満州事変の首謀者石原莞爾、強力な抗日馬賊の頭目馬占山、東洋のマタハリ川島芳子など半分以上は実在の人物。当然脚色されてはいるが、それほどノンフィクションで知ったイメージと変わらない。しかし、小説を面白くするのは作者が思いを込めて生み出す架空の人物。これを如何に本物のように著せるかが力量の見せどころである。読後調べて知ったことだが、シリ-ズに一貫して登場する二人がその代表。一人は光緒帝に使えた高級官僚、科挙最上級の試験(殿試;皇帝による試問)に合格し“状元”の称号を得た男、もう一人は貧しさから宦官になり西太后に寵愛され大総官太監(宦官の最高位)に就いた老人である。科挙試験の詳細や宦官の世界の内奥描写が、彼らをいかにも実在の人物のように感じさせ、優柔不断な溥儀に折に触れ助言を与え決断を促すシーンで存在感を際立たせる。つまり、創作であるにも関わらず、歴史を学んでいるような気にさせてしまう。「良くできた(歴史そのものと誤解させる)危ない小説」これが読後感である。

本書の最後は満洲国皇帝即位式(1934年)、私が生まれる5年前のことだ。「そんな時からあの新宮殿の工事はとまっていたのか!」の驚きとともに、いよいよ時代が重なる第6部の出版が待たれる。

 

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