2009年9月28日月曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(24)

24.紀勢南の道 三重県に縁のある人が「あの県は、北はいいのですが、南が問題なんです」と言って、南部の後進性を語ってくれたことがある。北には四日市を中心に、鈴鹿・亀山・桑名などに工業地帯があり、伊勢・志摩は観光で人を引きつけている。しかし、南は平野が無く農業は零細で、昔から半島と黒潮の接点として栄えた尾鷲以外はこれといった町も無く、沿岸漁業と林業くらいしか暮らしを支える産業が無いのだと言う。
 確かに、今回のグランド・ツーリング計画でも、賢島を発った後新宮まで特に寄るところを思いつかなかった。前回は志摩から一旦伊勢経由で松阪まで戻り、そこから42号線に入り多気町を通って尾鷲に向かったが、ほとんど山中ドライブの記憶しかない。今ではこのルートは伊勢自動車道から紀勢自動車道が途中まで通じているものの、自動車専用道路は旧道以上に味気ないだろう。そんなこともあり、今回はリアス式海岸が続く海沿いの道、260号線を42号線との合流点まで行くことを計画していた。鉄道や幹線道路から隔絶した地にどんな生活があるんだろう?
 21日の朝は曇り空だった。しかし雨が降るような重さはない。一番先にしなければいけないことはガソリン補給である。ホテルから260号線へ出る県道17号線にゼネラルのスタンドがあることを事前に調べておいたので、ナビをそこにセットして向かった。やがてそのスタンドが見つかったが塗装の感じはゼネラルだが看板がない。降りて聞いてみると最近ゼネラルをやめたとのこと。無論エッソ・モービル・ゼネラルの共通カードも使えない。しかし店の人は親切にもエッソのスタンドが近くのわき道にある事を教えてくれた。早速そこへ出かけて満タンにした。給油量は37L、自宅からの走行距離は397km、10.7km/L。高速道路が効いたのだろうが予想以上に燃費が良い。
 給油をした浜島口から県道17号を経て260号線に入る。この道路は複雑な海岸線に沿っているのでほとんど高低がない。生活道路なのだろう行き交う車は地元の軽自動車程度で、交通量も極めて少ない。それもあって道路は何か埃っぽい感じがする。小さな湾や半島が出ては消え消えてはまた現れる。海岸に近づくと防波堤で景観を遮られる。トンネルは照明も無く、青の洞門もどきだ。時々漁村や小さな漁港施設があるが人の気配はちらほら。はるか離れた紀勢線の駅とでも結ぶのか道路にはバス停もあるがそれと行き交うこともない。いずこも静かである。と言うよりも活力がまるで感じられない。格差社会を見る思いで心も晴れない。曇天もあって海の明るさを楽しむことも出来ない。
 42号線に合流するのは紀伊長島。その少し前から海岸線を離れ、道路はアップダウンと曲折を繰り返す。運転を楽しめたのはこの間だけであった。やはり「この県は南が問題です」を体感した。
 42号線はこの辺りでは熊野街道と言う。昔から生活に密着した街道なのだ。41年前発破工事で待たされた峠は今回260号線を走ってバイパスしたので、峠越えは無いものの、高い山が間近に迫るところは昔と変わりない。それでも紀伊半島外周を巡る幹線道路だけに交通量も多く、沿線に町やショッピングセンターなどが現れる。少し大きな町はバイパスが設けられ、車の流れもスムーズだ。尾鷲を過ぎると一旦山に入るが、直ぐに熊野灘に沿う平坦な道に戻る。左側に大海原が広がっているはずだが、防風林と背の低い車のせいで全く見えない。三重・和歌山の県境を成す熊野川河口で道は川を遡る方向へと向きを変え、新宮市の街中を貫く位置で渡河する。今日見る最大の町、新宮が大都会に見えた。
 取り敢えず目指すのは熊野三山の一つ熊野那智大社である。42号線をもうしばらく南下し、那智駅の前で県道46号線に入り、山間の田舎道と言っていいこの道を走って、神社下の門前町に辿り着いたのは1時頃だった。駐車場・お土産物・食堂兼用の店で先ずは腹ごしらえのうどんを食した。

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2009年9月25日金曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(23)

23.志摩観光ホテル 志摩観光ホテルはわが国を代表するリゾートホテルである。昨年新館とも言える“ベイ・スウィート”が出来てからは、本館(旧館)は“クラシック”と名付けられている。何度か改装されているが、開業が1951(昭和26年)年4月となっているから、半世紀を超える歴史を持つ。講和条約発布がこの年の9月だから、それ以前に準備が進められていたことになり、よくあんな時代にこんな贅沢なホテルを計画したものと驚かされる。当時の利用客は外国人か“超富裕層”だったに違いない。経営母体は賢島まで線が延びていた近鉄なので、その“富裕層”は専ら関西のそれである。新幹線が開通する前は、半島横断(大阪~名古屋)の鉄道は近鉄が電化も早く進み、時間も最短だった。芦屋や箕面を午後発っても夕刻前にはチェックインできる。そんな目論見で出来たに違いない。
 前にも書いたが、山崎豊子のTVドラマにもなった“華麗なる一族”の冒頭シーンがここ志摩観光ホテルでの元旦である。芦屋在住の銀行家が開く、成人した家族に妻妾同席の異常な新年会は、そらからの展開に大いに興味をそそられる書き出しであった。供せられる料理は、無論さっぱりしたお節ではなくフランス料理である。
 就職するまでは高級ホテルやレストランには全く縁が無かった。働きだしても地方の工場勤めでは縁遠い。それでも次第に、取引先のご招待や友人の結婚式などで食事をする程度の機会は持つようになった。このホテルの名声を知るようになるのも、一応一人前と自分では思い始めた20代の後半であった。「一度出かけて泊まってみたい。それも車で乗り付けたい(当時はまだ自家用車は贅沢品である)」 車を持つとこんな気持ちが加速してきた。末の妹の結婚式が名古屋で行われると聞いたとき、それを是非実現しようと思い立ったわけである。今のようにインターネットのような便利なものはない。手配は和歌山市内に在った交通公社(今のJTB)で行った。
 この時も鳥羽から一度伊勢まで出て伊勢道路・志摩を経由して賢島に着いたのが4時頃だったろうか。11月下旬、日の落ちるのは早く、案内された北西側の部屋から複雑に入り組む湾を照らす美しい落日を堪能した。落日以上に堪能したのがディナーのフランス料理、アワビのステーキであった。
 チェックインが済むと女性のスタッフが部屋まで案内してくれる。今回の部屋は5階の南東側で前回よりもはるかに広く眺めも良い。到着は6時少し前だがまだ明るく、湾内に真珠養殖の筏がいたる所に舫ってあるのが分かる。この景色は41年前と何も変わっていない。ディナーの時間は7時にしたので、盛りは過ぎたもののつつじが美しい庭をしばし巡り、英虞湾につながる小道を下ってホテル専用の小さな船着場まで下りてみた。どうやらここから真珠養殖の作業場を観光する船が出るようだ。
 ロービーに戻ると、ディナーを待つ人たちが三々五々集まってきていた。外国人の団体客もいる。話し言葉を聞いていると英語以外もあるので複数の国の混成ツアー・グループらしい。彼等は先にレストランに案内され、メインダイニングからやや突き出た細長い部屋に収まった(翌朝の朝食は個人客がここだった)。この辺の配慮は個人旅行者に有り難い。
 ディナーの内容は、予約時インターネットで調べて予め指定しておいた。前菜はアワビのテリーヌ、これはビールの小グラスと、次いで伊勢えびのスープ、そしてあの忘れられないアワビのステーキ(あとで肉料理もあるので前回よりはかなり小ぶり)、これが終わると口直しのシャーベット、メインはフィレミニオン。無論赤ワインを味わいながらである。最後にデザートのアイスクリームとコーヒー。41年前一人で緊張しながら過ごした時間とは大違い。年の功とでも言える余裕で9時前まで至福の時間を楽しんだ。

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2009年9月22日火曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(22)

22.伊勢・志摩を目指して-2  2台乗船の乗用車の1台は私、もう1台は志摩スペイン村がある的矢湾に浮かぶ、渡鹿野島という小さな島に在る旅館・福寿荘の番頭さんの車だ。伊良湖で乗船する直前に「今日はお伊勢さんですか?」と聞いてきたので「そうです」と答えると、「お宿はもうお決まりですか?」と更に聞いてくる。こちらの訝しげな表情を見て取ったのだろう、自己紹介をし、その旅館のパンフレットや志摩地方の観光案内図をくれた。昨日浜松まで営業活動をしてきた帰りだという。
 41年前のセンチメンタル・ジャーニーに重なるのは伊良湖岬のフェリーからになる。前回は時間の関係でもう少し遅い便に乗ったので昼食もフェリーターミナルで摂ったが、旨いものがある訳でも無いので、少し遅くなるが鳥羽で摂ることにした。下船間際に彼に昼食を何処で摂ればいいか聞いてみた。「鳥羽駅の近くに何軒かあります。途中だから案内しましょう。私が手を窓から出しますからそこで左へ曲がってください。直ぐに何軒か料理屋や食堂が在りますから」と言って先導してくれた。初対面の際のこちらの無愛想が申し訳なかった。
 車の停めやすい料理屋に入ると、もう1時半だというのによく客が入っている。間近に海があるのでメニューはほとんど魚。海鮮どんぶりを旅の第一食とした。伊勢えびの頭が入った味噌汁なども出て、味はまずまずだったが値段は確実に観光価格だ。
 もう2時過ぎ。伊勢神宮に詣でてさらに賢島のホテルに夕刻着くためにはそれほど余裕は無い。鳥羽の市街を出ると直ぐに伊勢志摩スカイラインに入り、それに続く伊勢道路を経て神宮内宮へと急いだ。平日だったことが幸いし無料駐車場も空きがあった。
 内宮詣では中学の修学旅行以来56年ぶりである。あの時は東京駅発の夜行列車でどこか最寄り駅まで来て、そこからボンネット型(エンジン部分が前に突き出している)の観光バスで内宮と二見が浦の夫婦岩を見たことだけは記憶に残っているが、なにせ早朝の到着で眠かったことのほうがまず思い出される。
 その時のかすかに残る記憶は五十鈴川を跨ぐ橋の両側に鳥居のある宇治橋だが、残念なことに今回は20年毎の遷宮に備えて架け替え工事中。この神宮のシンボルとも言える橋を渡ることは出来なかった。
 木々に囲まれた広い砂利道を、一の鳥居、二の鳥居を経て、最深部の御正宮に至る参道やそれぞれ役割を持つ建物は世界のどんな宗教施設に比べても清楚さと自然との一体感で類を見ない。仏教寺院も含めて他の施設はおどろおどろしさや暗さ、それにある種のこけおどしを感じたが、ここにそれは無い。日本文化を具象化したものがこの神宮であると言っても良いだろう。そこここに英語やフランス語のガイドが付いた外国人グループツアーを見かけたが、彼等はこれをどう感じるのだろうか?
 一巡して門前の商店街を冷やかしていると、例の「赤福」の休憩所が在った。一連の食品偽装騒動で真っ先にやられたが、経営者の謝罪が一番潔い感じがした。これもこの聖地所在の故なのであろうか?遅い3時のおやつに「抹茶氷」を縁台に座っていただいた。暑い午後、長時間の徒歩参観の疲れが一気に払拭された。
 本来の参拝順とは逆になったが、この後少し離れて配置された、内宮に比べると小規模な外宮を参拝して伊勢参りを終えた。
 実はこの外宮には修学旅行では訪れておらず、2001年ブリヂストンの招待でF1ジャパングランプリが鈴鹿サーキットで開催された時に来ている。前日の予選を見たあと津のビジネスホテルに泊まり、翌日の本番は昼からだったので、同行していた息子が「伊勢神宮に行きたい」と言うので案内した。その時は内宮・外宮の二つがある事を知らず、駅から近いここを訪れ「(こんなに小さくなかったはずだ)」と思いつつ参拝した。今回の旅の計画中それを知り、二日後和歌山でこの誤りを告げることになる。
 間もなく5時だが、幸い初夏の日はまだ高い。今日の最終目的地、賢島までもうひと走りだ。
 伊勢・志摩・鳥羽はほぼ正三角形を成す。伊勢から志摩を経て賢島に至る主要道路は、伊勢→鳥羽→志摩と三角形の二辺を走る国道167号線であるが、今日唯一の山道ドライブを楽しめ、ショートカット(伊勢→志摩)の伊勢道路(県道32号)を行くことにする。志摩半島は小さな半島でそれほど高い山も無いが適度なアップダウンがあって、交通量も少ない。ワインディングする道の運転を堪能するにはもってこいだ。しかし、日が傾きつつあるので、谷合は仄暗い所もある。西日のとのコントラストが強くなるので、運転には万全の注意が必要だ。老いた目が光の変化についていけないのだ。それでも途中に町の無いこの道の運転は第一日目の仕上げとして、最後の楽しみを与えてくれた。6時少し前無事今夜の宿、志摩観光ホテルに到着した。

 この日の走行距離はおおよそ400kmであった。
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2009年9月17日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(21)

21.伊勢・志摩を目指して-1
 一週間前から天気予報の見所が変わる。名古屋や大阪をチェックするようになったのだ。快晴続きとはいかないようだが、概ね雲と太陽が重なっている。22日だけ雲と傘マーク、この日は紀州山中を走る日だ。半島深奥部の雨はそれなりに風情があり“らしさ”を味わうのに悪くない。風も特に強くならないようだ。それでも出発の朝必ず伊勢湾フェリーの運行状況だけは要確認だ。
 平日(往路)と休日(復路)の道路状況もインターネットで同じように一週間前から調べるが酷い渋滞はなさそうだ。
 昔からそうなのだがエッソ・モービル(特にエッソ)の販売戦略は徹底して都市中心である(和歌山県を除く)。これは長距離ドライブをするものにとって泣き所だ。今回消費するガソリンの量を考えると割引(1割)の有無は大きい。ルート上のエッソ・モービル・ゼネラルのスタンドの所在地を、これもインターネットで調べると、東名下りは全く無い。一般道にはそこそこ在るものの、決して多くは無いし回り道になる。燃費実績に基づけば、伊勢・志摩まで無給油で行けるが、万が一を考え渥美半島を入念にチェックする。幸いルートから少し寄り道になるものの、トヨタ田原工場の近くにゼネラルを見つけることが出来た。
 当日の朝、横浜は曇り空だった。自宅近くの堀口・能見台から横々道路に入り、保土ヶ谷バイパスを経て東名町田・横浜で東名に乗る。ここから御殿場までは頻繁に利用しているので緊張感も無い。三車線の道は渋滞こそないものの、厚木までは前後左右埋まっている。特に長距離の大型トラックが多く、車高の低いスポーツカーには最低の走行環境だ。
 秦野中井を過ぎ大井松田にかかるころからアップダウンが始まり、トラックとの差がつけやすくなる。雲が晴れて冠雪の残る富士山が見えてくると間もなく御殿場、ここから先を自分の車で走るのは初めてである。富士の裾野を巡ってから由比付近ではほとんど海上を走る。しばしば台風時には不通になるここも今日は長閑なドライブ日和。自宅を発って一気に日本平のパーキングエリアまで達した。
 ここで一休みしてカーナビをセットする。目的地は伊良湖岬だ。事前のナビタイマー(PC)では豊川ICまで東名を走り、そこから151号線を南下、259号線に出て伊良湖へ向かう道を選んだが、カーナビでは浜松西ICで降りて65号線経由で浜名バイパスを走るルートを選んでくる。どうやらカーナビの方が“後戻り”に対する許容度が厳しいようだ。これに従うことにする。
 浜名バイパスが終わる潮見坂で1号線に別れ、伊良湖岬に向かう道路に入ると、やがて道路標識に“42”が現れた。あの紀伊半島外縁を走る国道である。こんな所へつながっているとは全く予想していなかった。前回渥美半島を走ったときは、豊橋から半島北側、三河湾沿いの259号線で伊良湖まで行ったので気がつかなかったのだ。初めての道、和歌山は遥か先だが何故か気持ちが楽になる。遠州灘に沿うこの道は大きな町もなく、交通量は少ない。時折低い防砂林の切れ目から大海原をチラッと見せながら、緩やかなアップダウンを繰り返して伊良湖岬まで、気分安らぐドライブを楽しませてくれた。
 12時少し前岬の先端にある、広大なフェリー乗り場に着いた。あらかじめ調べておいた12時10分発に乗れるはずだ。既に船は接岸しているが、ほとんど待つ車は無い。中型のトラック、小型乗用車が各1台ぽつんと離れてとまっているだけである。出札口へ行くと「あと10分ぐらいで乗船です」と言う。他人事ながら「これじゃ商売に全くならない」と心配になる。私の場合、同乗者1名の運賃(1500円)を含めて8,000円である。結局乗り込んだ車は、後からやってきた軽自動車1台を含めてたった4台である。この他バイク、サイクリングや徒歩旅行者が数名加わった。船は“知多丸”;総トン数2330トン、バス11台、乗用車43台、定員500人を運べるのだから、今回は空荷同然の航海である。 伊勢湾の空は晴れ、風もほとんど無く、絶好の航海日和。ディーゼルエンジンの音だけが低音で響く船室でしばしまどろむ。約一時間の航海は4時間連続運転の疲れを癒すには格好の中休みだ。「神島が左舷に見えます」と放送があったが41年前のあの「潮騒」のトキメキは無かった。1時過ぎ船は静かに鳥羽港に着いた。

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2009年9月12日土曜日

決断科学ノート-17(技術評価と政治的因子)

 もう半世紀も前(1958年)の話になるが、当時航空自衛隊の次期戦闘機として、米海軍の艦上戦闘機グラマンF-11-F(タイガー)を陸上用に改造強化した、スーパータイガーが空自調査団によって内定した。これに国会で難がついた。建前は「米軍で制式採用になっていない」と言うことだが、直ぐに対抗機種として空軍のロッキードF-104Cが出てきたところをみると、本音はロッキード派の巻き返しであろう。翌年航空幕僚長になる源田実氏を団長に調査団が編成され、再度評価が行われ、ロッキードに逆転決定した。この機体は空自向けに改造を施したF-104Jで、米軍制式機ではないことに関してはグラマンと同じであった。この調査団の団員の一人は大学の親友、MTの父親(当時運輸省航空技術研究所長;元海軍技術中佐)であったことから身近な“技術と政治”の問題として、いまでもしばしば、類似問題があると思い出す。
 このケースの場合、最初の調査団に日本用として提案された機体は、米海軍の制式戦闘機より強力なエンジンに換装し、その他の部分でも性能向上が図られていた。これから将来に向けて導入するのだから、制式現用機をそのまま導入したのでは部隊運用時点では旧式機になる恐れがあるわけで、確かに調査時点では完成していないが、個別の技術は実績があったので、専門家の技術評価としては正しかったと言える。これに対して素人の政治家が、他意(おそらくは金銭絡みであろう)をもって覆したわけである。
 ただ中学時代から航空技術者を目指していた航空少年の私にも、最初の選択に引っかかることがあった。それはグラマンが戦前から続く、海軍機専業に近いメーカーであり、新生米空軍ではほとんど実績の無いことであった。
 金銭はともかく、民間企業においてもこれに類似する決定が、納入者選定、機種決定、一括請負業者決定などの際しばしば起こる。と言うよりも大きな商談になれば必ず裏に応援団が居ると言っていい。財界系列グループ、メインバンク、政治家、大学の同窓などを通して社内の意思決定機構に有形・無形の圧力が掛かる。この場合、仲介者はほとんど技術的な内容は理解しておらず、専ら政治的(ある種の経営的要素を含む)力点から押してくる。若い時分一担当者として技術評価を命じられ、実験までして確信を持って出した結果が、政治的因子で乱されると、怒り心頭に発したものである。
 しかし、同じような政治的視点で技術評価が覆されても納得できることがある。それは技術評価を真摯に聴取した上で、断を下された場合である。
 まだ20歳代の半ば、世は高度成長期、石油製品需要は増加の一途にあった。建設に次ぐ建設である。そんな時遠隔操作でタンク尺(タンク在槽の液位;高さ;これを基に取引証明が行われるほど大切な数値)を計るタンクゲージと言う計器が石油会社で導入され始めた(それまでは人間がタンクの屋根に上がり、特殊な巻尺で計測していた)。米国のVarec社が先鞭をつけ国内マーケットでは競争相手は無かった。そんな時国内三大オートメーション機器メーカーであったHK社を代理店にしてTexas Instruments社(TIと略す;今でこそICの先駆者として有名だが、元々は石油会社向けの計測器を作る会社だった;社名の“Instruments”はそこから来ている)が新方式のタンクゲージを売り込んできた。Varec社のものがフロート(浮き)を利用したものであったのに対し、TI社のものは洗面器を伏せた中にフロートをつけたような形をしており、計測時このフロートをモーターで巻き上げると、液面を出る瞬間表面張力が生じる。これを検知して尺を測る形式だった。単なるフロートでは液の比重やフロートの汚れなどで精度に影響が出るが、新方式は液面を出る瞬間を捉えるのでより正確だと言う謳い文句で現場実験を申し込んできた。
 この申し出を本社の技術部が受け、和歌山工場で評価することになり、それを担当することになった。補修中のガソリン用タンクを利用してそれを装着、数ヶ月かけて行う本格的な実験である。
 結果は精度について、売り込み通り満足すべきものだった。気がかりは、計測するたびに表面張力がかかるのでテープの寿命がどうかであったが、短い期間ではそこまで確かめられなかった。それを含めて報告書を書き工場のラインを通じて本社に提出した。本社技術部は次期和歌山工場拡張で大量に建設されるタンクにこれを採用したいと結論付け、工場技術部に了解を求めてきた。
 本社の代表は技術部計装技術課長、Uさん。学究肌で誠実な人柄。学会や企業の専門職の人たちに知己が多い。対する工場は技術部機械技術課長、Yさん。バックグランドはこれも計測・制御だが、今は材料・回転機械から電気・土木まで広範な分野を統括する、独特の技術哲学と鋭い問題把握・分析力を持つオールラウンド・プレーヤーである。二人はほとんど同年代、社内資格も同等の部長資格だった。
 二人だけの話し合いの場に同席を命じられ、自分では評価を行ったTI社のものが当然決まるものと思ってその場に臨んだ。
 U課長は、実用実験評価の結果を踏まえ、更に価格、取り扱い代理店の信頼性(Varec社のそれは大手商社をスピンオフした個人が経営)などからTI社のものを採用したい旨説明し、工場の了解を求めた。
 説明の間一言も発しなかったY課長は、その後もしばし沈黙。特徴のある大きな目はまだ相手に向けられていない。この沈黙の時間と目がYさんに対峙する身には不安なひと時である(この不安感が表情に表れなくなるとやっと一人前に扱われる)。やがて重い口を開いたY課長は「Uさん、その提案は受け入れられないな」と静かに語り始めた。「確かに、技術評価を行うこと、その評価結果の内容に同意はしたが、技術評価と機種決定は別でしょう!?」「この報告の中核を占める精度の問題は、既にVarecを導入している川崎工場や他社で深刻は問題になっているわけではない。TIがより精度が良いというだけだ。また、この評価で結果は出ていないが、長期使用には課題を残していると言っている」と、まず技術評価から機種選定の関係を断ち切った。
 次いで、国内外実績と社内実績から両者の比較を語り、敢えて全く国内実績の無いTIを採用するメリットはあるのか?と疑義を述べる。
 最後のとどめは、代理店のHK社の扱いである。オートメーション機器の三大サプライヤーとは言え、HK社は石油精製・石油化学の実績は他の2社(YGとYH)に比べはるかに劣り、そこへの実績作りに汲々としていた。オンサイト(生産設備そのもの)では勝てないのでオフサイト(タンクや出荷設備など)から食い込む戦略を取っており、タンクゲージはその戦略兵器と言ってもよかった。「わが社程度の会社が、三つの大手サプライヤーと付き合っていくことは、経営的視点から見て決して効率のよいことではないと思う」と締め括った。いつもは「今度はどんな新しい技術に挑戦するんだ?」と若手・中堅の意欲を掻き立ててくれる人の結論とは俄かに信じられなかった。
 建設が目白押しの中で、投資案件は枚挙に暇が無い。政治的混乱を少しでも避けたいとの思いから発した決断である。こうしてTI社のシステムは退けられた。このシステムは結局世界でも主流とはならなかった。
 技術至上主義の若い身で、技術以外が最終決定に大事な事を、身を持って学んだ事例である。その後の重要意思決定において、どれだけこの時の教訓が役立ったか分からない。冒頭の次期戦闘機も、パイロットだけに機種選定を任せてはいけないと言うことだったのかも知れない。

2009年9月10日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(20)

20.41年ぶりの紀伊半島へ  紀伊半島をドライブしながら和歌山へ行こう、と思い立ったのは昨年8月息子の勤務が和歌山になったことが一番の動機である。息子夫婦の住まいが和歌山市内であることを考えれば、今では新幹線と阪和線(特に、新大阪発の紀勢線特急)を利用すれば4時間程度、羽田から関空へ飛んでそこから直行バスで行けば約2時間で行ける。ほとんど一日がかりだった40年前とは比べものにならない。しかし、これでは紀伊半島の最大の特色、あの山深い景観・暮らしを、私にとっては40年振り、家内にとって初めてのそれを、間近に体験することは出来ない。息子の転勤後直ぐに考えたことは、愛車での長距離ドライブ。昨年11月の平泉行きははっきりこれを前提に実行した。
 いつ行くか?どのルートで行くか?何日の行程で、どこで泊まるか?計画の検討を始めたのは年初に息子夫婦が帰省・来宅したときから始まった。息子の仕事、連休と梅雨を避けると実施時期は5月中旬~下旬が良さそうである。やがて休日高速乗り放題1000円が発表され「これを利用しない手はない!」と言うことになる。往路にするか復路にするか?渋滞が予想されるので、宿などに迷惑のかからない復路にこれを利用することにした。
 今では半島に西も東もかなり南まで高速道路が入り込んでいる。しかし旧道を走らなければこの地の真の姿は見えてこない。これはルート設定の必要条件だ。
 道中何処を観光するか?この地を初めて訪れる者に紀州らしさを味わってもらうには、海岸と深山ということになる。海は何処からでもアプローチできるが、山は限られる。高野山や大台ケ原は半島北部、海岸との組み合わせが悪い。昔走った、新宮から本宮に至る熊野街道、本宮から中辺路を経て田辺に至る熊野古道に沿う道を今度も第一候補にした。ゴールの和歌山市、そこに至るまでに代表的な温泉地白浜には是非一泊したい。白浜・和歌山間には6年余を過ごした有田がある。転勤後出張では工場に何度も行っているものの、ほとんど周辺を含めて訪れていない。是非変わりようを確かめたい。
 家内に希望を聞くと「伊勢神宮へ行ったことがない」と言う。伊勢神宮へ行くなら泊まりは志摩か鳥羽になる。横浜という、紀伊半島の遥か東を出発点にして志摩へ行くルートは1968年SSSで走ったルートと重なってくる。あの時は名古屋から豊橋に出て渥美半島を回ってフェリーで鳥羽に出た。今は東名が伊勢湾道路につながり伊勢までは一走り、時間的にはこちらの方が早い。大分迷ったが、少々時間がかかっても自動車道の味気なさは避けたかった。志摩で一泊するなら時間的には一般道でも問題ない。伊良子岬から鳥羽の間はフェリーなので、運転疲れもしばし癒される筈だ。
 志摩の後はどんなルートで何処に泊まるか?那智の滝を見るとすると海中温泉のある紀伊勝浦も悪くない。しかし、海岸と温泉のセットは白浜と同じになる。48年前の貧乏旅行、41年前にも訪れた湯の峯温泉なら途中随所で当時との比較が楽しめる。
 関西・中部の道路地図とインターネットの“NAVITIME”、それに熊野・南紀観光案内を使って、ルート・距離・時間を検討した。
 また、同期入社で和歌山出身、今は100歳を超えた父上の介護で月の半分は和歌山で生活をしているMYさんや息子にもアドヴァイスを求めた。
 作り上げた計画は;
5月20日(水):自宅→東名横浜→東名浜松西→浜名バイパス→国道42号→伊良湖岬→(フェリー)→鳥羽→伊勢神宮→志摩
5月21日(木):志摩→尾鷲→新宮→本宮→湯の峯
5月22日(金):湯の峯→中辺路→白浜
5月23日(土):白浜→有田→和歌山
5月24日(日):和歌山→阪和道→阪神高速→西名阪道→天理→東名阪道→伊勢湾道→東名→自宅
 初日は400km弱、最終日は500km強を走るが中三日は100km台。紀伊半島を堪能するためのスケジュールと走行距離である。最終日の日曜日は高速道をつないで自宅まで一気に帰る。ただしこのルートでは名阪道は自動車専用道路だが既に無料になっており、1000円走行は叶わない。名神を経由すれば可能だったが、遠回りだし大渋滞が予測されたので避けた。
 宿泊先は、志摩と湯の峯は嘗て泊まったことのある、“志摩観光ホテル”と“あづまや”にし往時を偲ぶこととした。白浜は和歌山勤務時代一度泊まってみたいと思いながら実現しなかった、白砂と海を見渡せる“白良浜荘ホテル”。和歌山市は息子のマンションにも近い和歌山駅に隣接した“ホテル・グランビア和歌山”にした。

 去ってから41年目の紀伊半島ドライブへ!あとは天気の良いことを祈るばかりだ。
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2009年9月6日日曜日

今月の本棚-12(8月)

On my bookshelf-12(8月)
<今月読んだ本(8月)>

1)中国の異民族支配(横山宏章);集英社(新書)
2)思考の整理学(外山滋比古);筑摩書房(文庫)
3)週末はギャラリーめぐり(山本冬彦);筑摩書房(新書)
4)P.M.S.Blackett(Bernard Lowell);The Royal Society

<愚評昧説>
1.中国の異民族支配
 チベット、ウィグル、中国の辺境で騒乱が絶えない。中国の国力伸張の昨今、問題は国際社会に及ぶ。中国人は内政問題だという。では中国人自身歴史的にこれら周辺地域をどう見てきたか?辛亥革命以降の中国指導者・時の政権の見解を学術的に追って、今日の主張に至るプロセスを整理した著作である。決して時流に阿る際物ではない。
 中国とその周辺を表す表現に、“中華”とそれを囲む“東夷・西戎・南蛮・北狄”という言い方がある。この場合の中華は漢民族を意味し、その他は非漢民族である。辛亥革命の対象、清朝は女真族すなわち東夷、朝鮮・日本もここに含まれ、ウィグルはや蒙古は北狄、チベットは西戎ということになる。
 辛亥革命は「韃慮(韃靼の輩)の駆除、中華の恢復」を唱える“光復革命”であり、異端(満州族)による支配を脱し、漢民族による正統な支配に戻すことを主張した。これは異民族と漢民族を峻別する「華夷之辧」と言う言葉で表される。ここには国家としても未開の異民族は含まれない。辛亥革命において孫文は当初漢民族だけの国家を考えており、当時の国旗は漢民族の本来の居住地(内蒙古、チベット、ウィグル、新疆、満州などを含まない)、18省を意味する“十八星旗”を用いている。
 しかし、一方に歴史的に朝貢関係によって出来上がった周辺家族国家を取り込んだ「大一統;一人の皇帝、一つの政府が中国版図内の民族を行政管理する」と言う考え方がある。この場合周辺国は優れた漢民族の下で指導されることが前提で、完全に対等・平等の立場を与えられるわけではない。現代中国の国家感はこの「大一統」の考え方を修正・理論武装(異民族ではなく少数民族で漢族と対等、先進が後進を助ける;と称して漢民族を大量に移住させる)して作られている。
 この現代「大一統」の理念に至る、孫文、蒋介石、毛沢東らの国家・民族に関する考え方の変遷を、英国(チベット)・ロシア(蒙古)などとの覇権争いなども含め丹念に追って、現代中国の異民族支配の矛盾(正統「華夷之辧」が異端になり、異端「大一統」が正統になる)を明らかにしている。
 「中国はつねづね、侵略される側の痛みを忘れてはならないと、日本の歴史観を非難する。(中略)だからこそ、少数民族といわれる辺疆の異民族が、同じような痛みを感じていることを、中国も理解すべきである」と結んでいる。同感!

2.思考の整理学 オリジナルは1983年に出版されたものである。随分時間が経っているが、大学の生協では今でもよく売れている本らしい(帯に“東大・京大で一番読まれた本”とある)。
 タイトルは一見ハウツー物のように見えるし、構成もそのような項目が並ぶ。しかし、読んでいくうちに、学問とは?研究とは?思考とは?教育とは?大学とは?と学び、それを極めることの根源的なテーマと対峙させられ、目から鱗が落ちていく。
 著者は英文学の教授。この本を書く動機は卒論の学生指導に依拠する。卒論のテーマをどう決めるか?そのテーマにどう取り組むか?論文をどうまとめるか?いずれのステップでも学生は自主的に決め、行動することが出来ない。今の教育では学生を他の動力で空中に引き上げるグライダーにするだけで、自力で飛ぶ飛行機には出来ない。短い距離でも自ら飛べる飛行機を作りたい。こういう思いで書かれたのが本書である。
 49年前、大学の3年生、ゼミが始まる。選んだのは“自動制御”。担当は脂の乗り切った少壮教授、機械工学を専攻しながら応用数学で学位(理学博士)を取ったことが自慢だった。ゼミの初日、ゼミ用研究室に集まった10人ほどの学生を前に「うちのゼミは君たち学生の自主的な活動を主体にする。輪講よし、実験よし。私は君たちの必要なことに何でも対応する」と言ってその日は終わった。翌週当てられた時間に同じメンバーが集まった。しかし、教授は居ない。1時間位待ったが現れない。「休講だろう」と散開した。次の週も同じことが起こった。恐る恐る教授の部屋に出かけると「先週は何をやったんだ?」と質される。「先生がいらっしゃらないので解散しました」と答えたところ、「もういい!皆優をやるからゼミはしなくていい。僕は君たちに“自主的にやれ”と言った筈だ!」これに目覚めて、その日機械実験用の水槽を用いて、初歩的な自動制御の実験を行い、教授に報告した。先ほどの怒りはおさまり、ご機嫌で講評してくれた。この教授には2年生の工業数学、3年生のゼミ、4年生の卒論とお世話になった。今振り返って、研究者としてはそれほどの実績を残していないが、私にとって“学ぶ”ことの意義・方法論を教えてくれた得がたい人生の師であったと思う。
 この著書を読みながら当時を思い出し、著者に指導を受けた学生にとって、私同様に得がたい指導者であったろうと推察する。
 
3.週末はギャラリーめぐり
 本書によれば日本人は世界一の美術愛好家だという。展覧会動員数は2004年から5年間世界一、年間900万人強が美術館に出かけているそうだ。その一方で美大卒業生の惨状は目を覆うばかりらしい。こんなわが国美術界の実態を友人の山本さんが書いた。
 著者は東大法学部出身のサラリーマン。1970年代マンションを購入、壁を飾るものが欲しいとギャラリーを訪れる。それまでは格別な美術ファンでもなかったが、この時の体験で絵画鑑賞の楽しさに目覚め、土曜日をギャラリーめぐりに当て集めたコレクションは1300点、購入当時は無名の作家がほとんどである。今ではギャラリー・ツアーの案内役やカルチャー教室の講師などを務め、“アート・ソムリエ”(これも山本さんの発案)として知る人ぞ知る存在である。
 拙い年賀状の版画を40年以上続けている私にとって、版画の世界は多少身近な世界だが、それ以外の絵画はご祝儀で購入した友人の油絵や複製画くらいしか持っていない。ときどき絵が欲しいなと思うこともあるのだが、ギャラリー訪問は敷居が高いし、デパートや書店の絵画即売会は結構いい値段でなかなかその気になれない。大方の人にとっても同じ思いではなかろうか?そんな普通の人にとって、気軽にギャラリーを訪れる心構え・マナーを教えてくれるのが本書である。
 そのための基礎知識として、美術界の実態(作家、後援者、収集家、画商の関係)、絵画バブルと投機やオークション、美大経営まで分かりやすく、親しみやすくこの世界を紹介している。
 週末は、“画廊を無料の美術館”としてめぐり、若い作家を励まし育てよう!

4.P.M.S.Blackett 英学士院刊行の、“ORの父”ブラケットの伝記である。1897年誕生1974年逝去、77年の一生を111ページにまとめた小伝。学士院会員全員の伝記が刊行されるのかどうかは不明だが、著名人は同様の伝記が発刊され、これもそのシリーズの一つ。
 発刊者の性格上中心は学問的な業績・活動概要紹介で、個人としての人となりは学会活動と関係する部分に限られる。それでも出自に関しては祖父まで遡り、ロンドンの株仲買人の息子が、兵学校を経てケンブリッジで物理学の世界に踏み込み、やがて大を成すプロセスで、彼のその後の言動を予見させる話も多々紹介されている。
 社会主義者的言動(一時は共産主義者と見做され、核兵器開発の情報から遮断される)が目立つのは、世界大恐慌時の体験に基づくもの(特に、貧富格差)であることも本書で知った。
 私の最も関心のある第二次世界大戦中の活動については、Ⅴ.World War Ⅱとして一章が設けられ18ページが割かれ、滞英調査時得られなかった情報も多々あり、これからの研究に大いに参考になる。
 戦時におけるOR適用が高く評価される反面、戦後ウィルソン政権時のそれが必ずしも成功しているとはいえないとし、その因を適用分野での実務経験の差(民間セクターでの就労経験は全く無い)と言う見方を述べている資料なども引用されている。
 それにしてもこの人の活動の多彩でエネルギッシュなことに驚かされる。海軍軍人から物理学者に転じての貪欲な研究(1947年度ノーベル物理学賞はこの時期の活動)、戦前・戦時の各軍における科学(ORを含む)顧問としての活動、戦後の核兵器に関する政治的な活動(一般市民を巻き込む大量殺戮反対;これは戦前からの信念で英爆撃軍団の無差別夜間爆撃にも反対している。アメリカ一極支配への牽制)、戦後の理工学教育の強化と製造業の活性化に関する活動、ウィルソン政権下での技術省の創設とそこでの活動、発展途上国支援活動、インドでの国防科学育成活動、英学士院長としての改革の推進。並の人間にはこれらのどの一つをとっても立派な業績である。
 これらの功績によって数多くの賞を獲得し、栄誉を讃えられ(日本を除くほとんどの主要国家の学士院の名誉会員)、男爵位に叙せられている。
 あらためて、“彼なかりせば、ORは?”と考えさせられた。

追記 この本は1976年The Royal Societyから出版された。従って入手した本はAmazonを通じて購入した古本である。Webで古本を求めたのは和書も含めてはじめてである。Amazonの検索で“Blackett”、“Biography”と入力したところ複数の該当書物が表示され、併せて価格や本の程度、仲介する本屋に関する情報もついていた。そこで一番権威のある(The Royal Societyだから)と思われる本書を選んだ。送られてきた(発送地は米国カリフォルニア)本を見て約6000円もするのに随分薄いなと感じた。もし滞英中に彼の地で探したら、もっと安価であったかもしれない。しかし、読んでみてその情報内容(引用著作・文献情報を含む)に満足している。

2009年9月3日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(19)

19.ロング・ドライブへの備え ボクスター購入は、その昔数日、長い時では一週間かけて行った長距離ドライブを再現し、それを高性能車で楽しむことである。そこには日帰りや一泊程度の旅とは違う諸々の備えが要る。当時との年齢の違い、車の性能、道路事情全てが大きく違っている。車に慣れるとその準備に掛かった。
 先ず行ったことは、カー・ナビゲーション・システムの装着である。実は購入時セールスマンから純正システム取付けを薦められたのだが、こう言う“軟弱な”道具を着けることは、運転そのものの楽しみ(ある種の厳しさも楽しみの内)を阻害するものと考えて止めにした。異国の英国でさえそんなもの無しでやってこられたし、昔のラリードライバーは無論こんなものに頼らず道なき道を走破したと。
 しかし、2008年3月浜松で開かれた学会に参加した後、友人とレンタカーを借りて浜名湖近隣を走った際、車にカーナビが装備されており、その威力を実感した。航空自衛隊浜松基地への地方道案内、市内での多車線進路指示など、地図だけでは限界があるきめ細かなサービスにすっかり魅せられてしまい、これからの未知の土地への旅には必須の備えと導入を決意した。機種は、ポルシェ車への実績からパイオニアの「楽ナビ」にした。6月中旬これが取り付けられ、近隣ドライブで取り扱い要領を少しづつ学習していった。
 ボクスターによる本格的な長距離ドライブの最初の予行は、7月に行った新潟・信州旅行である(松之山・蓼科グランドツーリング参照;ブログの該当アイテムをクリックしても上手くつながりません。“滞英記-3”をクリックし、その記事の最後のところにある“前の投稿”をクリックするとそこへ行けます)。
 その時の主な狙いは、山岳ドライブとこのカーナビの取り扱いだった。我が家から関越自動車道を経て日本一の豪雪地帯松之山に至るルートは高速道路・主要地方道・山岳道路と多彩な道路環境でのドライブを楽しめる。また、松之山から信濃川に沿う主要地方道、117号線に出る405号線は冬季通行禁止になる厳しい道で、山岳ドライブを試すのにはもってこいの道だ(結局117号線との合流点、津南まで一台の車とも行き交わなかった)。飯山辺りから蓼科に至るルートは選択肢が多い。ここでは一般道だけを走ることにしたが、それでも幾つかのルートから選ぶことになる。実際にこの地方を走ってみると農道などの整備もよく進んでおり、一般道と変わらない。立寄り地点の設定や、音声による方向指示の癖を十分会得しないままカーナビに頼る運転で随分ミスを犯した。
 蓼科から小海線に沿う佐久甲州街道を経て中央道の須玉に至る道は、都会に近く別荘地なども多いことから、山岳道路とは言えよく整備されているので、高速でアプ・アンド・ダウンするワインディング・ロードを駆け抜ける楽しみがある。しかし、要注意はブレーキのフェード現象である。嘗てこの道をBMW-320で走った際、中央道の半ばからこれが激しくなり、ハンドブレーキを使いながら、何とか自宅まで辿り着いた恐ろしい思いは今でも忘れられない。AT車による初めての長距離山岳ドライブで、安曇野を出発美ヶ原へ出てビーナスライン、メルヘン街道を通って佐久甲州街道へ出るハード・ドライブ。この時はそれがフェード現象とは気がつかなかった。
 フェード現象とは、ブレーキを酷使し過ぎてブレーキローターが熱くなり、またディスクパッド(摩擦材)も加熱されガスが発生し、そのガスがブレーキローターとディスクパッドの間に挟まって、ローターとパッドがきちんと擦い合う事が出来無くなる現象。特にAT車ではエンジンブレーキの効きが弱いので、どうしてもブレーキに頼る運転になる。
 ボクスターのティプトロニックも原理的にはATである上に、スポーツカー運転の楽しみの一つは速度の緩急切り替えにあるので、ブレーキへの負担は嫌でも増す。今回は基点が蓼科で時間的な余裕が十分あるので、フェードしたら途中で長時間休むつもりで、エンジンブレーキを併用しながら頻繁にブレーキを踏んで走ってみた。結果は全くこの現象は起きなかった。さすが代表的なスポーツカーは違う、とこの車への信頼性を確認した。

 二度目の予行は、11月に出かけた奥州平泉へのドライブである。仙台で開かれた学会参加が目的だったが、今回の主題となる紀伊半島ドライブが具体的な対象として浮かび上がっていたので、それへのテストを兼ねることとした。“高速道路を、一日どのくらいの距離、どのくらいの時間運転できるか”がテーマである。仙台の牛タン、中尊寺での紅葉狩り、秋保温泉などを楽しみつつ、ひたすら東北道・磐越道・常磐道を走った。
 いずれのルートを採るにしても、高速道路だけなら、横浜~和歌山間は十分一日で走りきれるとの自信を得た。
(写真はダブルクリックすると拡大できます