2008年11月28日金曜日

今月の本棚-10・11月

On my book shelf-4

<今月読んだ本-10、11月>1)殿様の通信簿(磯田道史);新潮文庫
2)江戸の組織人(山本博文);新潮文庫
3)石油の支配者(浜田和幸);文春新書
4)ゴーリキー・パーク(上、下)(マーティン・C・スミス);ハヤカワ文庫
5)私家版・ユダヤ文化論(内田樹);文春新書
6)強欲資本主義 ウォール街の自爆(神谷秀樹);文春新書
7)幕臣たちと技術立国(佐々木譲);集英社新書


<愚評昧説>
1)殿様の通信簿
;この本の種本は「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」と言う元禄時代に書かれた「秘密諜報」で、公儀隠密が諸大名の内情を調査したものを幕府高官がまとめたもの。当時の大名243人の人物評が乗っているとのことである。
 ここで取り上げられているのは、徳川光圀(水戸黄門)、浅野内匠頭と大石内蔵助、70人の子供がいた池田綱政などだが、これ以外には前田利家とその子利長・利常に相当の紙数を割いている。この理由は家康が前田家(信長の下では同格だった)を恐れ、死に際して利常本人を前に「お前を殺したかった」と語った背景を解説し、そんな中で前田家が生き残っていくプロセスを明らかにするためである。利常は家康の孫を娶っているが、それに付いてきた乳母が隠密役をはたしていたようだ。この前田家の話は前記の資料だけで無く別の資料も使っているものと推察する。
 これら有名人が、のちに巷間語り継がれる(例えば忠臣蔵)俗説とは異なる評価が行われている点を掘り下げ、筆者の考えを加えているところがこの本の肝と言える。歴史学者が書いた本なのでキワモノ的な嫌味が無い。それにしても面白い材料を探し出したものである。
2)江戸の組織人;江戸幕府は中央官僚組織である。諸藩はある程度の自治を許された地方自治組織である。それぞれの人材登用は如何にあったか?どんなポストがあり、いかなる職権をもっていたか?人材育成は?中央と地方の関係は?意外と目にしないテーマである。形式的には将軍が最終意思決定者であるが、実権は複数の老中にある。現在の大臣と事務次官の関係はこの時代から続いている。家柄によってスタートや到達できるポストが違ってくる(それでも現在よりは抜擢人事もあるが)。つまりキャリアとノンキャリの違いも厳然として存在する。エリート・コースの最右翼は、旗本の「両番家筋;将軍身辺警護;書院番と小姓組番」次いで「大番家筋;徳川家軍事組織の中核」である。番士としてスタートし組頭、番頭やがて若年寄や老中に昇格していく。これは旗本の例だが、譜代大名とその家臣、外様大名と家臣にも就ける役職と昇進ルートがあり、トップは旗本同様老中まで登れた。
 官職で実権のあるのは、町奉行や勘定奉行などの奉行職で、江戸町奉行(東西二人いる)など現在の複数の役所の事務次官兼務とも言える。一方で遠国奉行(直轄地の大名に相当)は場所によって仕事の難易度や実入りが大きく違ってくる。長崎奉行は唯一の外国貿易を行うこともあり席次が高かく仕事のやり甲斐もあったようだが、末席の佐渡奉行は離島での金山経営で苦労が多い、その力量で金の生産量が変わることもあったとか。
 出世のための猟官活動・競争者の追い落とし、贈収賄、利権とピンはね、現在の官僚組織が抱える暗部もこの時代から確り引き継がれている。鬼平犯科帳の主人公、長谷川平蔵は家柄(両番家筋)もよく、仕事も出来町奉行まで出世してもおかしくなかったが火付盗賊改で引退している。この理由は、仕事熱心で庶民の人気が高く、それを幕閣が妬んで出世を阻んだと言う。現在の官僚組織にも有りそうな話である。
 先の“殿様の通信簿”同様歴史学者によるものだが、堅い話を分かりやすく、面白く書いており、私のように日ごろ日本史関係(時代物小説を含む)の書物を読まない者にも興味深く読める本である。
3)石油の支配者;原油の値段は現在(11月22日)バーレル50ドルを切るところまで落ちてきたが、一時は140ドル台まで暴騰した。石油会社で働いた者としても「いくらなんでも!」と思った。原油に関しては限界説と需給バランス論があるものの、他の鉱物資源や農産物も急騰し、投機筋の資金が大量に流れたと言う説が有力になってきた。
 この本は時流に乗って書かれた本ともいえるが、原油生産・市場と投機筋や産油国の政策・戦略を丹念に追って、この異常な原油価格の実態を解明しようとしている。
 先ず需給のバランスについて言えば、新興国、特に中国・インドの現在および将来の消費急増がある一方、生産は大油田の発見はなく中長期的に供給がタイトになる。しかし、本当に原油の生産は増えないのか?原油生産限界説は1949年アメリカのハバート博士が唱え(生産のピークは1970年頃と)、その後環境変化による修正はあるものの、基本的にその説がいまだに主流である。これがピークオイル説(あるいは石油有限説)である。しかし、この説は回収しやすく、精製もしやすいライト・スウィート原油をベースにしたもので、オイルシェールや半固形原油、高硫黄原油などを含んでいない。これらを含めると限界説の3~4倍の原油埋蔵量があるとする見方もある。さらにこの限界説に対して1951年、旧ソ連のポルフィエフ博士が発表した「石油無機説;新たな原油が地中深くじわじわと生成されている」がある。これは一旦枯渇し閉鎖した多くの油田で、数十年後原油生産が可能になったことに基づいている。掘削技術では世界に抜きん出た力を持つロシアからの主張だけに一考すべき視点である。
 つまり現在の原油価格は需給バランスではなく、ピーク説を政治的に利用する勢力と投機筋の思惑が一致して出来上がった奇形の価格体系だというのが筆者の見方である。ダイヤモンドの資源としての価値は1カラット30ドルが良いところだが、業界最大手のデビアスの創設者、アーネスト・オッペンハイマーは80年前「ダイヤモンドを高く売るには、ダイヤの原石自体が極めて希少なものであり、そこから得られる高品質のダイヤは更に得られる量が少ないと言う幻想を与えることが大切だ」と語り、何百倍にもなる現在の高価格体系を作り上げることになった。産油国や国際石油企業がやろうとしていることはこれと同じことではないか?事実国際石油資本の外で原油を調達する国(イラン)はこの原油高の中でバーレル20ドルの原油をサウジから購入しているし、アフリカに権益を広げる中国も安い原油を求めて着々と手を打っている。
 わが国は如何にすべきか?
4)ゴーリキー・パーク;スパイ・軍事ミステリーは第二次世界大戦中か冷戦時代に尽きる。中でも冷戦時代の西側スパイとKGBの戦いは、ジョン・ル・カレの「寒い国から返ってきたスパイ」からトム・クランシーの「クレムリンの枢機卿」まで十数編読んできた。しかし、それはソ連と言う国を訪れたことも無く、知人もいない時代であった。2003年に仕事でロシアに行き、その後2005年まで8回出かけている。彼の地の気候風土や人々の日々の暮らしを見聞することでミステリーの面白さがどうかわるか?そんな興味から手にした本である。
 オリジナルが書かれたのは1981年(日本語訳は1982年)、未だ冷戦末期ではあるが雪解けの兆候は無い。書いたのはアメリカ人。スパイ小説では世界で抜きん出た実績を持つ、英国推理作家協会の選ぶその年の長編小説に与えられるゴールド・ダガー賞(賞金20,000ポンド)を受賞している。
KGBも重要な役割を占めるが主人公は検察局組織下の人民警察の刑事、捜査中はむしろKGBと縄張りを争う場面が付きまとう。事件は厳冬モスクワのゴーリキー・パークの雪ノ下から発見される3人の凍結死体から始まる。皆顔を削がれ、指先を切断されている。無論アメリカ人が絡む。第二次世界戦時中対ソ支援物資輸送を管理するためにレニングラードに駐在し、今は対ソ貿易に特権を持つ貿易商。それにモスクワ大学に留学中行方の分からなくなった弟を探すニューヨーク市警の警部。重要な役割を果たすのはクロテンである。
 捜査はほとんどモスクワ市内、出てくる地名や建物にもなじみがある。ルビヤンカにはKGB本部があり赤の広場への地下鉄はここで乗り降りした。ルビヤンカ駅から赤の広場に観光に出かける途上警官に呼び止められ、パスポートチェックを受けた時、一番頻繁にロシア出張をしている若い営業マンのパスポートに添付された国内ヴィザ(ホテル経由でKGB発行する)に不備があり金を巻き上げられるのを目にし、一瞬スパイ小説の世界に引きずり込まれた。主人公がKGBから入手した盗聴テープを分析するために利用するウクライナホテルは、市内を移動中その特異なスターリン様式の建物を何度も目にしている。モスクワ川を見下ろす丘に一際目立つモスクワ大学にも何度か出かけた。アメリカ大使館しかりである。KGBのオフィサーがどんな優れた人材かも横河ロシアの同僚からも聞かされた。後半の舞台はニューヨークに移る。それもスタテン島(自由の女神の先のニュージャージーに隣接する島;ニューヨークの一つの区)とニュージャージー北東部。この辺も私にとって土地勘のあるところである。             
 ル・カレの重厚さやトム・クランシーの展開スピードに比べやや物足りなさを感じたものの、そこに居るような臨場感は十分楽しめた。
5)私家版・ユダヤ文化論(2007年度小林秀雄賞受賞);世界人口に占めるユダヤ人は0.2%に過ぎない。しかし自然科学分野(医学・生理学、物理学、化学)のノーベル賞受賞者はそれぞれ48名(182名中;26%)、44名(178名中;25%)、26名(147名中;18%)の高率である。優れたクラシック音楽の演奏家、数学者も多数輩出している。フロイトもマルクスもチャップリンもユダヤ人である。2000年以上も前に祖国を失い世界に散らばりながら、あらゆる分野で人材を輩出するユダヤ人。この間何度も起こる反ユダヤ運動を耐え祖国復興を果たすユダヤ人。この世界に類稀な人種・民族共通の文化はいったい何なのか?無論一部の人間が一時期唱えたような解剖学的な差異など存在しない。この問題におそらくこれと最も縁のない日本人の学者が挑戦し、私見を整理したと言う意味でわざわざ“私家版”と名づけたのが本書である。
 日本人がユダヤ人の存在を知るのは文明開化後である。それ以来日本人のユダヤ人観は概ね西洋文明の影響を受けてきたと言って良い。自らの記憶に残る最初のユダヤ人は、「ヴェニスの商人」のシャイロック;阿漕な守銭奴である。この日本人のユダヤ人観を大きく変えた(?)のが40年近く前に出版されたイザヤ・ペンダサンの「日本人とユダヤ人」である。最初の章は「安全と自由と水のコスト」で、これで日本が特殊な国であることを認識させられた日本人は多い。そして今回の“私家版”はそれ以来の新たなユダヤ文化論ではなかろうか。
 筆者はユダヤ人の知性(ユダヤ的知性)の特異性を、ユダヤ教(必ずしも現在ユダヤ教徒でなくても生活の中に固着したユダヤ教的なもの)と他の宗教(特にキリスト教)の違いに求めている。この部分は大変分かりにくいが「ユダヤ人は生まれてくる前に犯した罪深い行為に対して有責意識を持っている」と言う恩師(ユダヤ人)の言葉で説明している。これはキリスト教でいう原罪とは全く別で、時間軸を過去(生まれる以前に逆行する)に向かって進め「神」を導出する思考法で、この有責性(困難な課題を背負い込み、それに耐え、その解決を図るのが自らの使命)が独特の強い思考能力を生み出す力の基になっているのではないか、としている。(筆者も分かりにくい説明とことわっているが、それがユダヤ的思考法に則った語り方だともいっている)。いずれにしてもこの思考法(結果としてタフで優れた結果を出す)は他民族に体得出来るものでなく、それ故それを羨み、願望することが反ユダヤ主義を生み出すことになる。“可愛さ余って憎さ百倍”である。
 この本に出てくる反ユダヤ主義について、気になる話を紹介してこの評を終わりたい。イランのイスラム革命やベルリンの壁崩壊を予言した未来学者、ローレンス・トープは、21世紀中頃に「北米における反ユダヤ主義の激化」を予言している。
6)強欲資本主義 ウォール街の自爆;これも一見サブプライム問題に発した経済の混乱につけこんだキワモノ本にみえる。しかし、ウォール街でビジネスをしている現役の日本人投資銀行家(住友銀行を経てゴードマン・サックス、今は自分のこじんまりした投資銀行;法人向け投資顧問と言う方が相応しいのかもしれない)が書いた確りした中期経済分析である。あの街で詐欺もどき、ヒトの金で博打を打って荒稼ぎしているワルを、実名でバンバン登場させ、そのからくり(今日の儲けは私のもの、明日の損はあなたのもの)を明らかにしてくれる。
 根源は自由放任をあたかも公平な競争のごとく喧伝し、売上げ至上主義をはびこらせる金融政策を推し進めたレーガン政権にあるらしい。この政権下でのプラザ合意と前川レポート(内需拡大策)がやがてわが国のバブルを生み、その崩壊に付け込んで不動産(ゴルフ場を含む)を二束三文で買い叩き、税金をつぎ込むことになる倒産銀行再生でさらに儲け(わが国大蔵省は再上場の利益を無税にさせられた)、アメリカの禿鷹投資ファンドを増長させてきた。この風潮が、ヒルズ族、ホリエモンや村上ファンドを生み、新しい時代の寵児としたのは我々の責任かもしれない。社会環境・自然環境が全く異なるのにアメリカンスタイルを真似し、彼の国以上の損害を蒙ってしまう。
 アメリカの浪費経済(借りて買って、それから返す;生産を軽視し、金融のように一攫千金が可能なビジネスを高く評価する)に世界(EUも、中国も、日本も)が過度に依存した経済はこの先長続きしない、と言うのが筆者の見立てである。当然それに伴って日米安保体制の見直しも必要になる。
 世界はそしてわが国はどうすればいいのか?“縮小均衡しかない!”地道にものづくりに励もうそれもアメリカ頼みでない。これが筆者の答えである。しばらくは暗い時代を覚悟しなければならない。
7)幕臣たちと技術立国;歴史の見方は時代環境によって随分異なるものである。身近に生じた太平洋戦争(わが国では当時は大東亜戦争と言った)でさえ、客観的な記述は難しい。日本人、中国人、韓国人そしてアメリカ人それぞれの立場で“これが正史”を主張する。否、国内にも種々な見方があり、一部知識人・マスコミの左翼史観が、あたかも中庸であるような風潮をすっかり定着させ、“少し違うんじゃないか?と感じているのは私だけではないだろう。黒の中にも白があり、白の中にも黒があるのが現実である。
 さて維新である。私を含む大方の日本人にとって、明治維新によって長い暗黒の夜が明け輝かしい近代日本が始まったと言うのがマクロ日本近世史観ではなかろうか。そこでは勤皇革新は善、幕府守旧は悪と思い込ませるような教育・啓蒙活動が連綿と続いてきたように思われる。自らの技術者としての歴史認識も、鉄道・造船・製鉄・兵器・通信など明治になって体系的な情報収集・学習が始まり、今日の近代工業国家に発展してきたといつの間にか信じるようになってしまった。無論維新に100年も先立つ杉田玄白の「蘭学事始」の話などは中学生時代感銘を受けているのではあるが、極めて特殊な近代科学習得の例と捉えている。
 本書の主人公は、徳川幕府下の技術官僚とも言える3人の武士である。最初に紹介されるのは韮山の反射炉で有名な江川英龍(太郎左衛門)。2番目が浦賀奉行所に勤務し海防技術や造船技術の重要性に早くから着目し、やがてペルリ来航で奔走することになる、中島三郎助。第三の男が、造船技術、操艦技術を学ぶためオランダに留学、彼の地で建造した大型艦開陽丸を日本に回航し、箱館(函館)戦争で官軍に敗れる榎本武揚である。
 これらの人物は個人的な資質もあったろうが、それなりに役職の上で必要な技術を手近なところから学び始め、やがて幕府の種々の技術者養成システムを通じて更に高度な技術を習得している。一部の幕府高官の中には攘夷を唱え、西洋科学(その成果としての新しい軍事技術)の導入に反対する者もあるものの、清国の二の舞(アヘン戦争)を避けるために彼らを積極的に支援していこうとする勢力が次第に主流になってくる。新しい時代環境に改革しようという息吹きは、守旧一辺倒とみられがちな幕府方にも確りと存在していたのである。このような旧体制時代の備えがあったからこそ、維新後の近代化がスムーズに進んだと見るのが筆者の目である。特に、逆賊として極刑を受けてもおかしくない武揚を救った黒田清隆とその後の武揚の技術官僚・外交官としての活躍を見るとそのことが説得力を持ってくる。
 初期の、日本人離れした筆者の冒険小説;「エトロフ発緊急電」、「ベルリン飛行指令」などに惹かれふと手にした本書は、一見小説作成ノートのような書き振りが、ノンフィクションのような印象を与えるが、筆者の各人物に対する思い入れが確り込められた優れたオムニバス短編小説と言ってもいい。

2008年11月24日月曜日

滞英記-11

Letter from Lancaster-11
2007年8月4日

 今朝のBBCトップニュースは、牛の口蹄病発生です。6頭の牛が焼却処分され、動物類の移動禁止令が出ています。食肉の流通が心配です。
 ここのところ当地もやっと晴天が続くようになりました(と言っても今朝は小雨ですが)。外へ出たくなる気分と洪水で不本意な終わり方をしたドライブの口直し(?)にレンタカーを借り、近隣を走り回っています。遠くは一晩泊まりでヨークまで出かけました。車はルノー・クリオのマニュアル車ですがとても運転し易く、長期レンタルにしようと思っています。英国での走行距離も2000マイル(3200km)に達し田園とドライブの楽しみ方が少し分かってきました。今回はブリストル行のあと訪ねたコッツウォルズを中心に<田園と観光>について私感をご報告します。

<田園と観光>
 土地の高低差の少ない、気象条件も穏やかな(今回の洪水は60年ぶりの異常気象)英国では自然が作る目を見張るような奇観・景観が殆どありません。それに代わるものが田園美、庭園美、建築美ではないかとおもいます。前回お知らせした、ジェフやジーニーもささやかではありますがこれを我が物にした庶民といえますし、湖水地帯で訪れた幾つかのマナー(大邸宅)もこれらが売り物になっています。究極はチャーチルの生家、ブレナム宮殿で、王侯貴族の求める美も当然ここに帰結しています。この中でも一番英国人が自らも求め、誇るものが田園美ではないかと思います。“一生懸命働いて引退したら田舎で暮らす”、カントリーライフこそ彼らの理想なのです。
 しかし、自然美と違い田園美を享受するには人々がある程度豊かになり、愛でる側に余裕が出来て初めて可能になるのです。土地を領主や富農に囲い込まれ(囲い込み運動;16世紀~19世紀)、牧童や小作人、都市労働者として暮らさざるを得ない状態では同じ田園でも感じ方はまったく異なったことでしょう。また、都市と言う汚れた密室に閉ざされ、それから解放されると言う精神的インパクトがあって初めて田園美に目覚めるのです。
1)ウイリアム・モリスのこと
 些か辛気臭い話から始めたのは、今回の主題であるコッツウォルズが、豊かな出自の都市生活者であった芸術(運動)家ウィリアム・モリス(1834~1896)の活動によって、ごくありふれた田舎の村々が特異な存在になっていったからです。モリスの生まれ育った所はロンドン北部のウォルサムストウ、産業革命後の都市化で美しい自然環境を失っていった典型的な地域と言われています。
 モリスはオックスフォードで神学を学んでいましたが、友人の影響で建築学に興味を持つようになり、ここから絵画・工芸・デザイン更には詩作など多様な分野に才能を発揮していきます。特に工芸デザイン(図案)は経済的にも成功し、会社経営にも優れた手腕を発揮します。都市化による自然破壊を、身をもって体験した彼は、自然と創作活動が共存できる理想郷(実際は家族の生活の場)をロンドンからもそう遠くない、ケルムスコット村に築いたのです。コッツウォルズが、美しい田園が至るところに存在する英国で、今日のような独特の地位をもつことになったきっかけなのです。
 モリスの名前は知っていました。彼が“アーツアンドクラフト”運動の推進者だったからです。芸術と工芸をひとつながりの世界と捉える考え方に惹かれるものがあったからです。版画の世界はまさにこの極致です。絵師(芸術家)と彫師・刷師(工芸家)が協力し合い一つの作品を仕上げていきます。また工学も工芸と深く関わりあいます。機械を作る機械は工作機械です。この工作機械を作るために、独特の測定器や冶具(ジグ;精度よく組立てるための道具)が必要です。これらの測定器や冶具の製作には工芸的なセンスを必要とします。建築しかりです。クラフトこそ製造業、建設業の要なのです。表面に見えるものだけではなくそれを支えるもの、周辺のものを含めて見つめる目、これがモリスの目であり、コッツウォルズを訪ねるときの留意点ではないか、田園も家も小川も全体としてのバランスの良さを見る、そんな思いでこの旅に臨みました。
2)コッツウォルズ
 コッツウォルズは、Cotswoldsと書きます。一つの村や町ではなく、東はオックスフォード、西は今回の洪水で大きな被害が出たグロスター、北はシェークスピア生誕の地ストラットフォード・アポン・エイボン、南は前報でチョッとご紹介したSpaで有名なバース。これらに囲まれたかなり広範な地域の名称です。南西と東北を結ぶ対角線上にCotswold Hillと呼ばれる丘陵が走っています(sが付いたり付かなかったりしますが現地での表記どおりにしています)。
 この地方が英国を代表する田園(田舎)になったのは石炭の産出が全く無く、産業革命に取り残されたことで、自然が残ると言う皮肉な結果だとガイドブックなどに解説されています。石炭は出ませんが、ライムストーンと言う建築用の石灰石が何処でも容易に得られ、“蜂蜜色”と表現される美しい石造りの家が多く建築されていることもここを有名にしています(蜂蜜色は新しいうちで、やがて薄茶とグレーになって、年季を感じさせるようになります)。
 コッツウォルズを観光すると言うことは、その地域内にある幾つかの村々を訪れること、それらの村々の間を移動することから成っています。この移動手段と滞在時間・日数によって、楽しみ方が変わってきます(たぶんそれに季節)。これと言ったランドマークの無い、広域に跨る観光地ですから、理想的には車で何日かかけ、気に入った所ではフットパス(田園の中の歩道)をハイキングなどし、B&Bに泊まるようなやり方になります。ここに限らず英国人の旅慣れた人達のやり方です。
 今やここは湖水地帯と並ぶ英国観光の代表で、日本でも各種のガイドブックが出版され、ロンドンから近いこともあり日帰りツアーも盛況です。時間に制約がある場合(ほとんどの日本人はこのケース)、これでも結構楽しめるでしょう。
3)都市から田園へ
 英国に初めて着いたのはマンチェスター、赤い石造りが際立つ大都市です。空港と都心の間に緑はあるもの、他国の空港・都市間とさして雰囲気は変わりません。翌日市内でレンタカーをピックアップし、マンチェスター大環状道路を抜け北上し始めると緑と家屋の割合が変わって行きます。南北を結ぶ幹線道路M6に入るとなだらかに起伏する緑の大地を石垣で囲った牧草地が左右に展開し、“あぁ!これが英国の田舎なんだ!”とこの国に対して抱いていたイメージぴったりの光景に感動しました。しかし、これはまだ序の口。ランカシャーの州都、プレストンを過ぎると道路以外は緑、みどり、ミドリです。散在する雲と穏やかな起伏による陰影のコントラストだけが彩りに変化を与えています。その緑の中に小さく点在する白は羊たち、茶色や黒は牧牛です。東京や横浜から来た人間には殆ど夢の世界です。思わず「ウォー」と叫び声を上げたほどです。
 この感動は、更に湖水地帯を訪れるドライブでも体験します。まだ、頭の中は東京や横浜基準の景観感が残っているからです。しかし、嵐が丘行やスコットランドへの旅になるとこの感動が微妙に変化しています。「何処へ行っても英国の風景は変わらないなー」と。滞英2ヶ月近く、6月初めのロンドン行きを除けば殆どランカスター暮らし、日常目にする風景は最初に感動した風景と全く同じです。景観感が田園(と言うようりも“ありきたりの田舎”)ベースに変わってしまっているのです。“でもコッツウォルズは違うはずだ!”
4)ブリストルからコッツウォルズへ ブリストルは人口40万人の大都市です。市内から高速への道が分かり難いだろうとジェフが市中のレンタカー屋からM5まで誘導してくれました。インターチェンジのランナバウトでテールライトを点滅しながらUターンする彼に手を振って別れを告げ、M5の北行き車線に入ります。彼が前日教えてくれた予報通り空は快晴です。ランカスターと比べるとかなり南に位置するので、車内は暑いくらいです。英国の一般家庭には先ず無いクーラーがこの車には付いているので軽く活かします。5分も北上すると例の緩やかに起伏する緑の景観が現れてきます。「何処も同じだなー」
 18番で入ったM5を9番で下り、A46を経てB4077に入りました。大好きなB道路です。先ず目指したのはBroadway;日本から持参した案内書には宿場町として栄えた所で、バスも頻繁に発着とあります。お土産のことばかり書いてあるので気が進みませんでしたが、コッツウォルズの要衝(?)の一つとあったので、取掛かりとして定めた目標です。B4077は車の往来も少なく、期待通り楽しいドライブが始まりました。しかし、景観は依然「何処も同じだな」です。違うのは道路沿いに樹木が多く、チョッと日本の山道を走る感じに似ていることです。これが切れるとまた緑野。天気が良いので光の陰影の変化が強烈です。樹木の茂っている所では、木漏れ日が作る光の斑模様が車内に万華鏡を再現します。こんな調子ですっかり英国流運転、時速50マイル(80キロ)は出ています。飛ばしながらオヤッと思ったのは、明るい所から暗い所へ入ると一瞬前方が見えなくなります。目が明るさの変化についていけなくなっているのです。老化現象です。
 こんなこともあって、途中でB4632に左折して入るのを見逃し、コッツウォルズを南北に貫く幹線道路、A429のあるStow-on-the Woldに出てしまいました。本来の予定はBroadwayからChipping Campden、Moreton-in-Marshと北東の村を廻り、それからA429を南下してStow-on-the Woldへ出る予定でしたから、3ヶ所も見所をバイパスしてしまったことになります。そこでA429を北上し一先ずMoreton-in-Marshに向かうことにしました。このあたりは車で廻る気楽さです。道中はただの田舎道、起伏する緑野はあるものの、さして感動する情景はありません。Moreton-in-Marshはロンドンから鉄道で行くことの出来る町、またOxfordへ通じる道もここを通るし、シェークスピアの町、Stratford-upon-Avon通じる道もあるので、当にコッツウォルズの要衝です。この村には有名な樹木園があるとガイドブックに書いてあるので、町の中心にある広場の駐車場に車を停めるべく駐車エリアに進みましたが全く空きがありません。同じような車が二、三台ウロウロしています。私もしばらくノロノロ徘徊しましたが、直ぐに見つかりそうもありません。今まで何処の観光地でも何とかなったのですがここは全くダメです。夏休みのせいでしょう。あきらめて次の訪問地、Chipping Campdenに予定と逆のコースで向かいました。
5)コッツウォルズの町、村
①Chipping Campden(チッピング・キャムデン)

 この村は観光の基点となる町や村を除くと、どのガイドブックにも最初に紹介される村です。売りは“蜂蜜色の家々”です。“王冠の中の宝石”と言うのもあります。あとの見所は教会墓地からの牧草地の景色や村の中心部にある中世のマーケット・ホール(跡)です。村へ入る時何軒かユニークな茅葺き屋根の家があります。よくガイドブックに紹介されている家々です。庭は生垣でよく見えません。中心部の広場に到着。今度は運よく駐車場が確保できました。先ずインフォーメーション(I)、そこで地図でも貰って取り敢えずトイレ。これが定番です。しかし、手持ちのガイドブック(日経BP)に示されている場所に(I)は在りません。道行く人に聞いても“私もツーリストなので”と特定できません。コンビニのような店に飛び込んでやっと見つけることが出来ました(あとで調べて分かったことですが、ダイヤモンド社;〔地球の歩き方;イギリス〕は合っています)。(I)へ行って地図を所望すると有料とのこと、たいして情報量も無いのに30ペニー(75円)しました。近くにあったトイレも有料で20ペニーです。出る時子供が入ろうとしていたので、ドアーを押さえて、タダでいれてやりました。“蜂蜜色”はありますが、表通り(ハイストリートよく呼びます)のものはくすんで古くそれなりの歴史を感じさせますが、建物自体はそれほど魅力的なものではありません。裏へ廻ると確かにきれいな蜂蜜色に会えますが、ここは新興住宅地と言った感です。村に入る時見た茅葺き屋根の数軒は確かに奇麗ですが、“見せるため”が見え見えです。ハイストリートは土産物屋と飲食店がオンパレード。教会墓地からの眺めは「何処も同じだなー」でした。“作られた田園美”の最初です。
 この後、Broadwayに行くつもりにしていましたが、ガイドブックがお土産・買い物中心の記述だったので止めにし、A429を南下してBourton-on-the-Waterに向かいました。しかし、道路が途中封鎖されており、A424を採ったところ今夜の宿泊地Bufordに出てしまいました。そこで宿泊予定のThe Ram Innに赴き、チェックインだけ行い、この町で昼食にしました。
②Bourton-on-the-Water(ボートン・オンザ・ウォーター)
 昼食後A424を朔行、途中からBourton-on-the-Waterへの道をとり今度は問題なく辿りつき、駐車場も空きが充分ありました。駐車場に車を止め、外へ出ると子供達の声が聞こえてきます。高い木立の生垣で区切られた先に、英国人の好きなメイズ(生垣で作った迷路)があるのです。駐車場の端できれいな小川がメイズ側に流れを変えています。此処の売り物はこの小川で“リトル・ヴェニス”です。流れはほぼ車で走って来た道と並行に村の中央へ向かっています。小川の両側には遊歩道。川岸には柳の並木が植えられ涼しげです。ただ、だんだん行き交う人が増えていきます。アーチ状の石造りの小橋などがありなかなか良い雰囲気です。小川の底は浅い石造りなので子供たちが水遊びをしています。やがて川の片側はコーヒーショップ、Inn、アイスクリーム屋などが並び始めます。自動車の通る向かい側の通りも商店や土産物屋が現れます。一歩裏の通りには例の“蜂蜜色”の家も在りますが、結局ここも“作られた田園美”の村で、何と“クラシックカー博物館”までありました。入らなかったのは無論です。次の目的地、南部コッツウォルズのBiburyです。
③Bibury(バイベリー)
 この村のキャッチフレーズは“イングランドで最も美しい村”です。ボートン・オンザ・ウォーターから幹線道路A429を南西に向かい、途中でB4425を東北東に向かうのが正道ですがこの頃になると主要道路の関係が頭に入っているので、更なる田舎道のショートカットを採ったのが悪くしばらく道に迷いましたが、やがて村に辿りつきました。周囲が開けておらず、今までの村と違い何か日本の山中の小集落のような感じです。時刻は4時頃、この頃になると空も曇って光のコントラストはとっくに失われています。“明るい蜂蜜色”で語られるコッツウォルズもここではくすんで、緑色を帯びた薄茶です。家も橋も、壁も同じような色調です。今までの村と違い地味な感じですが落ち着きがあります。
 幸い道路際の駐車スペース(無料)に空きが在ったので頭から突っ込みました。目の前に東アジア人(咄嗟に日本人と思いましたが)の女性が二人立っています。向こうも“日本人かな?”と言う表情。横に停まっていた観光バスは日本人のツアーだったのです。実はチッピング・キャムデンでも、ボートン・オンザ・ウォーターでも観光バス、自家用車、路線バスで訪れている日本人を沢山見ました。このグループが去った後また別の日本人観光団がバスでやってきました。川沿いの有料トイレが日本人で溢れるほどです。
 T字型で構成されるこの村の骨格を下(南)の方から入り縦横が交差する少し手前右側に居ます。交差する部分には蔦を這わせたイン(旅籠)があります。上の横棒部分は道路に沿って清流が流れています。低い石積みの堤防もくすんだ薄茶です。Tの右端の橋を渡るとこんな田舎なのに古い棟割長屋があります。主要道路を外れてわき道に入るとハッとするような、感じの良いカントリーハウス(本当の農家のようにみえる)に行き当たります。皆同じ色調です。
 Tの交差点、私が駐車している反対側にカフェテラスがありそこには食堂、みやげ物屋が併設されていますが、テラスとアイスクリームスタンドがやや目立つだけで世界共通のあの卑しい感じの“観光臭”が全くありません。やっと、田園も家も小川も全体としてのバランスの良い所をみつけました。しばらくテラスでアイスクリームをなめながら“日本感覚を一番強く感じた村”でぼんやり過ごしました。
 (実はこの村にも問題が無いわけではありません。T字交差のやや右上にトイレがあるため、横棒右部分の道は車がいっぱい駐車しており全体の景観を著しく傷つけています。トイレと駐車場を見えない場所に設ければ完璧です。そのためのスペースはいくらでもあるのですから。しかし、後で分かったことですが、ここだけでなく、このような自然改造にすら強い抵抗があるようです。300万戸住宅建設の必要性を訴えるブラウン首相の政策は、この様な自然観との戦いでもあります)
④Burford(バーフォード)
 バイベリーからバーフォードまではB4425で一走り。5時には宿(The Ram Inn)に着きました。コッツウォルズのやや南中央部にあり東西を結ぶ幹線道路A40に、南北を貫くA361やA424が交錯しており、この地の交易の中心地であったことが窺がえます。他の集落、村に比べハイストリート(メインストリート、南北に走る)の幅も長さも数等あり、町という規模です(そのため道の両側は車がびっしり駐車している)。
 このハイストリートは南へ行くほど高く、上から、下と前を見るのがお勧めと言うことになっています。下に向かっての眺めはライムストーンの家並みが、前方は町の終わりから遠くまで田園風景が広がっています。一度日中チェックインで立寄った時感じたのですが、中心部は飲食店やお土産物屋で、商品やテーブル・椅子が表の通りを占有し、人通りも多く、おまけに駐車の列で、石造りの家並みを楽しめるのは少し繁華街を外れた、北の一部に限られます。
 夕食の予約は7時、まだ時間もあるので町を散策してみることにしました。さすがにこの時間になるとハイストリートの店は閉まり、人通りも殆どありません。夕暮れ時ですが緯度の関係で明るさは十分あります。通りの最上部からの眺めは例のくすんだ薄茶色に変わります。この時間天気予報通り雲が増え、遥か彼方の田園に荒涼感が漂っています。人通りが全くない裏通りに入ると、古い石造りの教会や、同じく石造りの広い庭を持つ住宅があり、昼間の喧騒な町とはまるで雰囲気を変えた姿を見せます。ガイドブックが村や町に泊まって、観光客の来ない朝夕の情景を味わうよう勧めるのがよくわかります。
6)旅籠“ひつじ亭”(The Ram Inn)
 宿泊先を決める際、ジェフに頼んだことは、コッツウォルズの南東部と言う地理的なことだけです。これは今回のドライブの究極の目的がWoodstockにあるからです。チャーチルの生家、ブレナム宮殿訪問です。バーフォードが田園美を代表する場所とは全く思いませんが、この目的のためには最適だったと思っています(あの豪雨さえなければ)。前日ジーニー宅を辞去してから知ったことですが、“ひつじ亭”を紹介してくれたのはジーニーなのです。品の良いジーニーの好みの宿なのでしょう。
 “ひつじ亭”はハイストリートの真ん中辺を、西に入る比較的幅のある道を5~60m行った所にあります。表面はモルタルのような仕上げの石造り二階家、タウンハウスとは異なりますが、何軒かの家が繋がっている一番端です。入口は二ヶ所、パブと旅籠に分かれています。黒地に白いひつじの看板。ドアーは厚い木製、梁や床は黒光りしています。フロントは、玄関(と言っても木戸)を入ると左側にありました。一人でいっぱいのスペースです。玄関ホールには暖炉がありその辺りが一応ロビーです。フロントの若者が二階の部屋まで案内してくれます。ギシギシと急な階段を上がると幾つかの部屋(見える範囲の扉の数は五つ)があります。その一部屋の鍵を開けて入ると、そこは屋根裏部屋のようで、通りに面した窓に向かって、天井が傾斜しています。床も梁も一階同様黒光り。床は明らかに道路と反対側に傾斜しています(ベッドの頭の位置が、足より低い感じ)。家具も年代物で引出しなどガタガタしています。しかし、静かで、清潔で落ち着ける感じが気に入りました(さすがジーニーの好みだ!)。幸いバスルームは近代的で一流ホテルと変わりありません。もちろん床が傾いたりしていません。鍵は二つあり、一つは部屋のもの、もう一つは一回り大きい鍵で、先ほど入ってきた玄関(木戸)の鍵です。「外出して遅くなる時はこれで開けてください」「(こんな町で遅くなるはずないよな)」と思いましたが、町内探訪の際ハイストリートから入った別の通りに、“Red Lion Arms”と言う、洒落た(フラワーバスケットをいくつも飾った)パブが在ったのを思い出し納得しました。
 夕食を摂るため、少し早めに木戸の前のロビーのような所へ行き一階全体を観察することにしました。一番の目的は、食事をする所を確認するためです。
一階全体は玄関から向かって左3分の1位はパブ、フロントを挟んでパブ側にも専用木戸があり、パブの客はそちらから出入りするようです。ロビーとパブの間にはカウンターがあるので直接は行き来でません。
 中央部はロビーと裏の方へ通じるアクセスエリアです。このロビーに座って全体を観察していると、中年の男女が玄関とフロントの間に置かれた丸テーブルに席をとり従業員に何やら注文しています。やがて皿に盛られた料理とビター、ワインが運ばれてきて、彼らはそこで食事を始めました。「(エッ!こんな所で?)」「(せめてパブで食べたいな)」「(いくらなんでも?)」と思いつつ周辺を眺めていると、ロビーのパブとは反対側になる部分にドアーがあり明るい光がこちらに漏れてきています。「(あそこが食堂に違いない)」とその部屋に向かいました。入ってみるとそこは食堂ではなく、客の談話休憩室のような感じの部屋で、他とは違いインテリアは薄茶の木と白い漆喰でまとめられ、暖炉があり、書物や新聞が書架やテーブルの上に置かれています。ここも違う?
 再びロビーに戻ると先ほどの二人がせっせと飲み食いしています。「(やっぱりここなのかな?)」 すると若い従業員が来て「何か飲み物をお持ちしましょうか?」と聞いてきました。「(いよいよこんな所でディナーか!?)」「そうだね?ビターを1パイント頼もうかな?」「かしこまりました!」「ところでディナーはここで摂るのかい?」「(まさか!)いいえ、ダイニングルームは奥にあります。時間がきたらご案内します」確かに玄関からロビーを通りその先にパブ、ロビー、談話室を貫くような廊下があるのです。しかし、ロビーからの入口は小さく、出入りをしているのは専ら従業員なので、業務用の廊下と思っていました。
 やがて時間が来たとウェートレスが迎えに来ました、飲み残しのビターを持って彼女について行きました。ロビーの後ろから談話室の方に向かい突き当たりを左に曲がり進むと、ひつじ亭本体とは別棟の石造りの家に至ります。そこがダイニングルームなのです。内部の作りは全く異なり、大きな暖炉があり談話室同様の薄茶の木を多用したインテリアが上品です。中庭を眺められるその部屋は、キャンドルが各テーブルに灯されているものの、照明も暗すぎず都会の隠れ家のような洒落たレストランです。
 残りのビターを飲みながら、メニューを眺め、前菜はサーモン、メインは無論ラムに決めました。ボトルを一人で空けるのはチョッとしんどいのでハウスワイン(赤)のグラスを頼のみました(結局2杯)。全て申し分のない味、珍しくデザートまで賞味しました。再度「イギリス料理が不味いなんて言う奴は誰だ!」(調子に乗って飲みすぎ、食べ過ぎ、寝苦しかったのは失敗でした)。          チェックアウトの際聞いてみました。「この建物は何時頃出来たの?」、若い従業員が「14世紀です」「!!(恐れ入りました)」
7)ブレナム宮殿
 チャーチルに特別な関心を持ったのは、大学一年の夏休み、英語クラスの宿題で;英語の本(フィクション、ノンフィクションいずれも可)を読み、その読後感を英語で書け、と言うのがあったことです。その時選んだのが「チャーチル半生記」です。動機は不純で、優れた訳が文庫本として出ていたからです。この半生記は、誕生から第一次世界大戦前で終わっていますが、それだけに若い彼が人生の色々な岐路で悩み、苦しみ、挑み、挫折し、模索する姿がリアルに描かれ、当時その年代にあった自分とオーバーラップし、「こんな大人物でも、我われと同じような失敗や苦労があったんだ!」と随分勇気付けられました。もう一つ、この本から得たことは、イギリス貴族の生活と考え方の一端を知ることが出来たことです。
 彼はエスプリと時宜を得た数々の警句や造語を残していますが、忘れられない一言に「戦争が残酷になったのは、徴兵制が敷かれ、大衆が動員されるようになってからだ」というのがあります。これ知ったのはこの本からでした。エリート中のエリート故に吐けた言葉ではないでしょうか?この戦争の部分を他のことに置き換えると、一部の者に与えられていた特権が、大衆化することで殺伐になり、理想から遠ざかる様子に見事に当てはまります。テニス・スキー、高等教育、マイカー・マイホーム、レジャー・別荘地、海外旅行そして国連さえも。
 この高慢ちきで洞察力に富んだ男の生い立ちは、<ORの起源>にも深く影響してきます。インターネットの普及時、英OR学会のホームページを見ていると、チャーチルが語った逸話が紹介されていました。「ORに何故興味を持ったかって?ハリス(爆撃軍団長)が反対したからさ」 OR適用の嚆矢となったのは、戦闘機軍団の“バトル・オブ・ブリテン”における防空システムです。ハリスは防御優先の空軍戦略に早くから異を唱えていました。チャーチルがいなければORは日の目を見なかった可能性があるのです。
 私にとって、ブレナム宮殿訪問は単なる観光ではなく、『聖地巡礼』なのです。
 ブレナム宮殿そのものの紹介は観光案内に譲ります。1704年、スペイン王位継承戦争中ドイツのブレンハイムの戦いでルイ14世の軍を破った、ジョン・チャーチル(のちのマールボロー公爵)に当時の女王アンが褒美として与えたものです。ウィンストン・チャーチルは1873年ここで誕生しています。所在地はウッドストック、厳密にはコッツウォルズ地方ではではなく、オックスフォードやストラットフォード・アポン・エイボンのようにその周辺地区と言う方が適当でしょう。
 門を入ると、遥か彼方に見える宮殿の内門まで幅の広い道路が一直線に通じています。奥はもちろん、左右も境界が全く認知できません。その広大さに圧倒されます。建物以外は全て緑、宮殿だけが薄茶色で浮かび上がります。内門へはまだまだと言う位置、道路の真ん中にガラス張りの高速道路料金所風ポストがあり、ここで駐車料金を含む入場料を払います。少し先の、芝生の中の駐車エリアに行くよう指示されます。以下、雨の中の難行苦行は“号外”でお知らせした通りです。宮殿の見学開始時間は10時半から、内部庭園(これだけでも多分バッキンガム宮殿の数倍はある)は10時から。豪雨の中ではとても庭園見学どころではなく、片隅から宮殿周辺の庭の様子を探るのみです。遥か下方に池(いや、湖)が見えました。
 宮殿は真ん中にホールがあり、ここで全体の説明があります。円形天井にはブレンハイムの戦いの様子が描かれています。ここで左右どちらへ行くかです。説明員が最後に「左右どちらからも見学いただけます。私は右からご覧になることをお勧めします」と言いますので、これは絶対その通りにするようお勧めします。と言うのは左へ行くと2階から見ることになりますが、そこはこの宮殿建設から今日に至る、宮殿とマールボロー家の歴史を、映像やジオラマで説明する仕組みになっており、限られた人数で、それを段階的に区切られた(勝手に移動できない)ステップで移動するようになっています。途中を飛ばせないのです。40分位かかりますがその間トイレもダメです。私は1階から見て最後に2階へ行くよう進められ、せっかく来たんだからと二階に周り、最初の部屋で閉じ込められた時「ブリストルへの道を急がなければならないのにこれは拙い!」と思ったが後の祭りでした。
 私がここで見たいと思っていたものは、チャーチルが生まれた部屋、彼が多くの時間を過ごしたに違いない大図書室、彼の日記や手紙など自筆の資料、それに玄人はだしの絵でした。これらは全て1階にありました。特に見たかったのは、後にノーベル文学賞(第二次世界大戦回顧録)を受賞するほどの名文家であった彼の書き残した物です。ありました!パブリックスクール、サンドハーストの陸軍士官学校、インドでの勤務。達筆です。これを読んでいくのは英国人でも大変と見えて、タイプライターで打ったものが脇に添えてあります。サンドハースト時代、友人とスイスに出かけ父親から贈られた時計を紛失した時は、謝罪と赦しを請う手紙を何通も送っています。余ほど残念だったのと父親が怖かったのでしょう。とても全部を読んでいる時間はありません。後ろ髪を引かれるおもいで先を急ぎました。もう一つ圧倒されたのは大図書室です。図書室と言うより博物室と言った方が適当かもしれません。宮殿右端翼を二階まで吹き抜けている部屋の壁面は全て書籍で覆われています。むろん歴代の蓄積です。二階は回廊になっていて、そこから書物にアクセスします。一階中央部は地球儀や何やら書籍以外のものが集められています。大きな暖炉がいくつもあり、中央のものは一段と大きく、その前にはソファーが何組も置かれています。燃え盛る暖炉の前で、このソファーに身体を預け、ローマ史や先祖の戦闘記録に時の立つのを忘れて読みふけるウィンストンの若き日の姿を想像し、しばし動けないほどの感動をおぼえました。20世紀を代表する“乱世の英雄”、ウィンストン・チャーチルはこの環境が作り出したのだと。
 ぼんやりしている私に、「ここをご覧になった後は、今日は雨も強いので庭をご覧になるより二階を是非お廻りなさい」と職員がアドバイスしてくれました。これが“号外”でご報告した水害地獄への誘いだったのです。

<コッツウォルズ観光補考> 以上でコッツウォルズ報告を終えますが、かなり“やぶにらみ”の観光感と自覚しています。素直に美しい田園を楽しめばいいと思います。限られた時間で英国旅行をする場合(多くの方がそうだと思います)、ロンドンからアクセスしやすいコッツウォルズはやはり一番の見所でしょう。
 私の場合も、マンチェスターを出て初めて目にした田園風景に接した時、言葉を失いました。こんな奇麗な風景が身近に、至るところにあるなんて何て英国は素晴らしい所なんだろうと。しかししばらく田園(田舎)暮らしをするとだんだんこれが日常そのものになります。英国へ着いて間もなくジェフに電話をしたところ、「どうだ?英国の印象は?」と問いかけてきました。「緑の美しさに感動したよ」と答える私に「こちらへ来てみれば分かるが、英国は何処も同じさ」とコメントが返ってきました。そして3ヶ月を経た今、私も「何処も同じさ」の擬似英国人になりつつあります。
 しかし、私の目にはジェフと違い日本製のレンズが付いています。この田園美を英国人とは違う目で見ている面もあります。それを最後にご紹介し本報告を終えたいとおもいます。
ⅰ)広告が全くない
 高速を車で走っても、列車に乗っても沿線に広告が全くありません。あるのは精々ビルや工場のオーナーの名前くらいです。景観を保全するためには相当私権に制限が加わっているはずです。
ⅱ)緑地宅地化への厳しい制約
 ブラウン政権は300万戸の新設住宅が必要と言っています。野党党首も若年層の住宅取得に積極的に取組む姿勢を示しています。この背景にはこのところの不動産ブームでバブルが起き、現業公務員(警察官、看護人、初等・中等教育者など)クラスの人がほとんど自分の家が持てない状況になってきていることがあります。
 新規住宅建設実現には種々の障害がありますが、これだけスペースがありながら宅地の確保が容易でないことが大きな理由の一つになっています。地域住民や地方政府が緑地の宅地転用に強く反対しているのです。また、土地売買に関する法律が広い土地を小分けして販売することを禁じているとも聞いています。ここでも多くの人に犠牲を強いながら緑を守る姿が見えてきます。
ⅲ)都市災害・公害への反省
 これは主としてロンドン中心の歴史的な変遷になりますが、17世紀のロンドン大火、18世紀に始まる産業革命に伴う都市のスプロール現象等から生ずる都市災害・公害への反省が緑地保全に寄与しています。1938年ロンドン・グリーンベルト法が成立、戦中のロンドン空襲なども反省材料となり、都心から20キロ以上100キロまでの間を緑地化することが強力(強引)に進められて来た結果、ロンドン郊外の美観が戻ったと言われています。強権による緑化保全はここにも見て取れます。
 コッツウォルズはロンドンに近く(モリスは、ウィークデーはロンドンで仕事をし、週末家族の住むケルムスコットへ戻っていた)、良質の石炭を算出するウェールズと工業化が進むロンドンやその郊外を結ぶ途上にあって、その土地で石炭が算出しないことだけで現在の幸運がもたらされたとは信じられません。むしろ都市型緑地保全政策の恩恵を受けた(モリスの故郷が産業革命そのものの影響をもろに受け、緑を失っていったことの対極として)のではないかと推察します。“人工的操作によって保たれた田園美”という視点で、コッツウォルズは田園の自然がそのまま保たれている(それしか選択肢のない)私の周辺とは違った意味を持っています。
 是非コッツウォルズを訪れてください。この景観の裏にある英国人の努力を学んでください。そして何時の日かわが国もこんな情景が何処でも見える国土にしたいものです。起伏に富んだ地形(英国人にはこれだけで感激するでしょう。日本アルプス命名者、ウェストンはイギリス人です)、水が豊か、緑は溢れるほどあります。緑を愛でる余裕もあります。世界の人々が驚愕する自然美を育む素地は充分あるのですから。

以上

2008年11月18日火曜日

篤きイタリア-1

1.イタリアへ行こう
<募る思い> シルバーノとの長年のクリスマスカード・年賀状のやり取り、3年前ひょっこり横河本社で会ったマウロとの会話「イタリアに戻った。フェラーリは5台になった」、昨年の滞英生活で知った英国人のイタリア文化と歴史に対する敬意・憧憬、それに塩野七生の「ローマ人の物語」。イタリアへの思いは募った。
 一方で、欧州大陸へほとんど出かけたことの無い不安が反力としてはたらく。38年前セーヌ河口ポート・ジェロームの石油化学工場へ出張した時の道中英語の全く通じない世界。パリの街を散歩中ジプシーの子供に突然取り囲まれた恐怖。シルバーノも手紙で「ヨーロッパを楽しみたければ、英語以外のヨーロッパ語をモノにしてくることを薦めるよ」とあったが何も出来ていない。殺人のような残虐な犯罪はアメリカに多いが、スリ・かっぱらいの被害は欧州訪問者に嫌と言うほど聞かされる。
 友人たちと会うのが第一目的だから自由な旅にしたい。しかし言葉の問題をどう克服するか?安全をどう確保するか?パック旅行は言葉と安全に関しては問題ないものの、自由な行動は殆ど不可能で今度の旅には全く向かない。欧州旅行に経験のある友人・知人(米国人を含む)に助言を求めるとともに、イタリア紀行の本などにも目を通した。一番頼りになるのは大学時代の親友Mである。彼は長いアメリカ勤務の後、引退後イタリアに入れ込んで夫婦でイタリア語会話も確り学んでいる。二人は大学の混声合唱団の仲間、イタリア行きは音楽を楽しむことにある。彼の地で痛い目にもあっている。経験豊かな彼との会話からの結論は、英語で何とかなりそうだ、そして安全はそれなりの準備・対策を、である。
 8月初旬から計画を具体的に詰め始めた。先ずイタリアの友人たちへのメール連絡とスケジュール調整。訪問候補地選択、イタリア国内移動とフライトの調整、現地旅行社(日本人向け)との接触・見積り依頼。最終的に入手可能な航空券の都合から、10月3日成田発・ミラノ行き、10月14日ローマ発・成田行き(15日到着)で全体スケジュールが決まった。宿泊地は、ミラノに3泊(この間にマウロを訪ねる)、ヴィチェンツァに2泊(この町はシルバーノの住むサンドリーゴに近い)、ヴェネツィアに2泊、フィレンツェに2泊そしてローマに2泊と割り振った。友人を訪ねるほかは定番の観光旅行。国内移動はすべて鉄道とした。
 友人達は自宅に泊まるよう勧めてくれたが、マウロはアメリカ人の前夫人と離婚し今は独り者(の筈)、シルバーノは偶々この時期コロンビア人の夫人は帰省中、二人の娘も遠隔地の大学にいる。男の一人所帯に転がり込むことは、自分がその立場にあったらとても出来ることではない。好意を傷つけぬよう丁重に断った。
 この間にも、現地旅行社や友人たちと細かい調整を行い、10月3日快晴の中アリタリア航空7787便は定刻に成田を飛び立った。この便はJALとのコード・シェアー便で運行主体はJAL、乗員も乗客も日本人がほとんどで、外国旅行の気分が無いまま12時間のフライトが続いた。
<ソンブレロの男>
 シルバーノとの最初の出会いは、1979年6月ニューヨーク郊外、ライタウンのヒルトンで3日間開催されたExxonのTCC(Technical Computing Conference;ワールドワイドな技術分野のコンピュータ利用発表年会)である。世界中のエクソンから200名を超える参加者が集まり、彼も私もこのメンバーの中に居た。私はこの時、川崎工場のシステム技術課長であると伴に工場全体の生産管理システム構築のプロジェクトリーダーであった。この会議への参加目的は、そのプロジェクトを紹介することである。最初の渡米から9年を経て、それなりに経験を積み地位も上がっていたが、これだけの国際会議で発表するだけの語学力も度胸も無かった。原稿を読み上げるような発表が終わったとき、何とかできたという安堵感と思い通りに話せなかったことに対する苛立ちで複雑な思いにかられていた。休憩時間、そんな私のところへ幅広の帽子を持ち鼻の下に立派な髭を蓄えた男がやってきて「良い発表だった。英語が上手いな」と声をかけてきた。これがシルバーノとの出会いである。実はこの男の存在はホテルにチェックインした日から気が付いていた。ロビーを徘徊する、チョッと米国人やヨーロッパ人とは雰囲気の異なる風体;幅広帽は西部劇でおなじみのテンガロンハットと異なり山の部分が丸みを帯びている。南米の牧童(ガウチョ)が被るソンブレロのようだ。靴はズボンの裾に隠れているものの乗馬用のブーツ風。髭の整え方がやや大時代的(少し左右に捻ってある)、なのである。これは後でわかることなのだが、彼はスペイン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語が出来るのだが、この中では英語に一番自信が無く、この会議でほとんど誰とも話をしていなかったらしい。英語の下手な私に声をかけることで、やっと孤独から開放されたようである。それ以来会議が終わるまで食事や休憩時間に話しかけてくるようになった。聞けば、ヴェネズエラ人で元々家族はイタリアから移民したのだと言う。今回会うまで彼がExxonヴェネズエラ(ラーゴオイル)から参加していたと長く信じていたが、実際はヴェネズエラ国営石油に所属し、Exxonの招待でこの会議に参加していたことが分かった。
 その年の暮れ、彼からクリスマスカードが届いた。こちらも版画の年賀状を送ってそれに応えた。旅先のアイスランドから絵葉書を送ってきたこともある。確か1981年の春だったと思うが、彼から結婚式への招待状が届いた。とてもヴェネズエラまで出かけることは出来ないので、お祝いの手紙を送った。結婚相手はコロンビア人のマリアと言う女性、現在の奥さんである。結婚後しばらくして、長女の誕生と石油会社を辞め奥さんの実家(コロンビアのメデジン)で牧畜業に従事しているとの便りが届いた。さらに数年後「コロンビア(この時期麻薬のメデジンカルテルが跋扈していた)は娘の教育に良くないので、南ア連邦のプレトリアに移った」との便りが届く。
 そして1992年の早春「プレトリアから父の出身地イタリアに戻り、次の仕事を始めるまでの間日本と南洋(ナウルだったと記憶する)を訪問するので、適当な宿泊先を探して欲しい。また日本に行ったら是非亀戸天神に行きたい」との知らせが届く。その年は丁度長女の大学受験、我が家も人並みにカリカリした雰囲気でとても外国人を泊められるような状態ではない。幸い会社が御殿山ラフォーレホテルの一室をキープしており、この期間は空いていたのでここを手当てした。成田に迎えに出た私の前に13年前と変わらぬ立派な髭と人懐っこい彼が現れた。それから3日間、鎌倉・江ノ島、念願の亀戸天神などを案内し、寿司やうどんすきでもてなした。
 イタリアに落ち着いた彼は森林業に関係する仕事しながら、政治活動に力が入っているようだった。特に“PADANIA”と呼ばれる北部イタリア地域の独自性を守る運動に積極的に関わっている様子をクリスマスカードに添えた手紙で伝えてきた。“民族と土着宗教”が彼の関心事であり、日本訪問時にアイヌに関する知識を披瀝したり、亀戸天神訪問を望んだりしたのもそれと深く関わっている。今回の訪伊で、複数のイタリア人から異民族流入に不安を訴える心情を聞かされたことも、彼の活動の動機付けなっているようだ。
<赤いフェラーリ> IBMのスーパープログラマー、マウロの名前を知ったのは1980年である。ERE(Exxon Research & Engineering)に次世代プロセスコンピュータシステム開発のため長期出張していた同僚・部下たちの報告書に頻繁に現れる彼は、難問を次から次へと解決していく。イタリア人であるがその才能を見込まれ米国IBMに転出しており、プログラム同様英語も達者だという。
 その天才と始めて会ったのは、入社以来19年の工場勤務の後初の本社勤務となり、このプロジェクトの主管部門の課長になったときである。1981年東京にやってきた彼との初対面はこちらが管理職と言うこともあり、極めて儀礼的なものであった。しかし、夜の懇親会で彼が無類の車好きであることを知り、同好の士として一気に親しみが増した。翌1982年秋EREに出張した私はここを拠点に仕事をしていたマウロと再会し、ディナーの招待を受けた。当時ニュージャージに在ったEREへ通うため、パシッパニーという町のホリデー・インに滞在していた私を夕刻迎えに来てくれた彼の車を見て驚いた。何と真っ赤なフェラーリではないか!「夕食までには時間がある。少しドライブしよう」とルート10をあの独特の甲高い爆音を轟かせながら30分ほど走ってくれた。聞けばこれ以外に2台のフェラーリをレストア中とのこと。天才プログラマーは、天才メカニックでもあったのだ。その夜近隣では比較的大きな町モーリスタウンで、知的で可愛い夫人のジャネット共々ご馳走になったのは鹿肉料理。今にして思えば、ヨーロッパで秋に好まれるジビエ(野鳥・野獣)料理の趣であった。
 その後も東京で、ニュージャージで何度か彼と会ったり食事をしたりした。私との会話はプログラムの話は無し、専ら車談義である。3年前三鷹で会った時、IBMを退職し自分の会社を立ち上げたこと、ジャネットとは残念ながら離婚したこと、そして母親の遺産を相続してイタリアへ生活の拠点を移したことを聞かされた。「それであの3台のフェラーリはどうなったんだい?」と聞いたところ「今は5台保有しているよ」との答えが返ってきた。「エッ!5台?(新車なら2億円くらい)」
 「君の素晴らしい5人娘に会いたい」訪伊計画を知らせるメールにそう書いた。「ミラノ空港まで車で迎えに行く。是非我が家に泊まってくれ。居たいだけ居てくれて良いんだよ」篤い返事が直ぐに届いた。事前調整ではミラノ滞在の中日、10月5日朝ホテルに迎えに来てもらい、その日一日を彼の在所、マネルビオで過ごし夕刻ミラノまで送ってもらうことになっていた。グーグルマップで彼の自宅を調べた時「チョッとミラノまで車での送迎は距離があるな」と感じていた。
<ミラノでの異変>
 ミラノへの飛行ルートは、成田から新潟に出てそこから北上しナホトカを経てシベリアに入る。ここからシベリアを横断してほぼモスクワを目指す感じである。2003年から5年にかけてロシア出張で頻繁に利用した空路である。モスクワのやや南をかすめ、ラトビア辺りでバルト海に達しここで南に進路を変え、デンマーク、ドイツの上空を通過する。スイスアルプスはさすがに高く、下界の夕闇の中にその山容が迫る。ここを過ぎると暮明の残る中、機は高度を下げロンバルディア平原の北西隅にある、ミラノ・マルペンサ空港に予定よりも20分も早く到着した。入国審査では、同時に着いたアジアからの到着便でインド系、中国系などの外国人と同じラインに並んでいたが、混雑してくると「ジャポネはこちらへ」と、イタリア人・EU市民の窓口へ案内された。空港には現地旅行会社(マックス・ハーベスト・インターナショナル;以後MHIと略す)が手配した、英語を話せる運転手が出迎えてくれた。車は黒塗りのベンツEクラス、運転手は車好き、前週のシンガポールF1グランプリ、翌週の日本グランプリで盛り上がる。上々の滑り出しだ。30分チョッとのドライブで、ミラノ中心部ドォーモ(地区司祭のいる教会)近くのスパダリという名のホテルに着いた。個人旅行者向けの目立たぬ造りが好ましい。
 カウンターだけのフロントで来意を告げると、「マウロさんご存知ですね?先ほど電話がありました。到着次第電話をいただきたいとのことでした」 こんなやり取りとチェックイン手続きのバタバタする中で、ボーイへのチップ用に10ユーロ紙幣をコインに崩してもらった。
 荷物運びをボーイに頼み、部屋に入ると直ぐに持参した携帯でマウロに電話した(ヨーロッパではホテルからかける電話は法外の値段になると聞いていたので)。「成田からの飛行はどうだった?」「まあまあだったよ」「少し疲れているようだね。ところで5日の予定なんだが、夕方6時から外せない用事が入ったんだ。予定を変更して明日4日午前の市内観光が済んだら、列車でこちらへ来てその晩は我が家に泊まり、5日午後ランチを済ませてミラノへ戻ることにして欲しい」「ウーン、明日の観光の予定はスケジュールがはっきりしてないし、いきなり最寄り駅へ辿り着けるかどうかチョッと心配だなー」「大丈夫!ブレーシアはミラノ発のユーロスターやインターシティが最初に停まる駅だし便も頻繁にある。翌日ホテルを発つ前にフロントから電話してくれ。スタッフと話をして、来られるように手筈するから」 不安を抱えつつOKする。まだ9時少し前、頑張ってライトアップされたドォーモやそれに連なるガレリアなどを散策、ホテルに戻り荷物を解き、貴重品を机の上に並べる、コインを数えると6ユーロしかない。ボーイにやったチップは2ユーロ、外で買い物はしていない。考えてみるとフロントでの両替以外ない!あの有名なつり銭・両替詐欺である。感じの良い若いスタッフだったがせこい奴だ!しかし初日に体験してあとのためには良かったかもしれぬと慰めた。

2.マネルビオの二日間 4日の市内観光は、英語理解者グループ主体に日本人7名が加わる構成で、在伊14年のKさんと言うベテラン日本人ガイドが同行してくれた。スフォルツァ城→最後の晩餐→スカラ座→ガレリア(天井の高いアーケード商店街;プラダの本店もここにある)→ドォーモと定番コースを巡ってここで解散となった。この道中MHIのスタッフTさん(女性)からKさん経由で電話が入ったので、急なブレーシア行きのことを話したところ該当時間帯の列車ダイヤ連絡があった。ツアー解散後Kさんにホテルのロビーまで同行してもらい、ミラノ中央駅までの行き方(地下鉄の乗り方)、列車の切符の買い方などを丁寧に教授してもらった(イタリア語で、所望の切符を頼む文章を書いてもらう)。
 部屋へ戻り一泊旅行の準備をしてマウロに電話する。「駅までの行き方、列車の切符の買い方、乗れる可能性のある2本の列車の発車時間がわかった。駅で切符を買ったらもう一度電話する」と伝え、フロントで地下鉄ルートを確認して中央駅に向かう。ドォーモ駅は2本の地下鉄が交差するので要注意だが、切符を買ったキオスク(イタリアでは地下鉄の切符はキオスクか自動販売機で買う)で確認し無事中央駅に着く。中央駅は現在改築中で日本のガイドブックとは異なる所にチケットカウンターがあるが、これはKさんが事前に知らせてくれていた。多くの人は自動販売機で切符を買っているがとても自信が無いのでカウンターに並んで求めることにした。Kさんが書いてくれたメモ(これに2本の当該列車の出発時間を書き足した)を見せると、英語で「今日のですね?クラスは?」ときたので「セコンド(普通車)」と答えると、早い方の列車を発券し番線を教えてくれた(これ全て英語)。ホームから最終連絡をマウロにする。列車はユーロスター(新幹線のような電車型)ではなくインターシティ、電気機関車が牽引するタイプである。座席指定だったのでそこへ行くと4人掛けボックスシートにチャンと空席があり、窓側は二人の外国人だった(あとで分かったことは、彼らはブラジルの航空会社乗組員でヴェネツィアへ出かけるところだった)。イタリアで始めて乗る列車は定刻に中央駅を発車し、明るい午後の日差しの中、平原を東に向けて疾走する。検札に来た車掌に次の停車駅がブレーシアであることを英語で確認する。38年前のフランスとは大違いだ。
<黒いフェラーリ> ミラノ中央駅からのマウロとの電話では「駅前は駐車が難しいので大通りを真っ直ぐ100メーターほど歩いて欲しい」とのことだった。駅舎の前で大通りを確認していると直ぐ傍に彼が居た。「How are you?ようこそイタリアへ!」 駅舎に並行する通りの向こうに黒いフェラーリが停めてある。どうやら駐車スペースを確保できたらしい。「あれだよ!」と私の旅行かばんを取り上げてそちらに向かっていく。今回は当方に連れがいるので、後ろに補助席のある456GTである。
 ブレーシアはロンバルディア州ではミラノに次ぐ第二の都会だが規模は比較にならず、南に進路をとると直に商業施設、中小規模の工場と住居らしきものが混在する郊外そして収穫の終わった田園風景に変わってゆく。彼の住む町、マネルビオはここから南へ約20Km、バイオリン製作で有名なクレモナは、更に南へ20Km下った先になるので時々道路標識に“Cremona”が現れる。アウトストラーダ(高速道路)を使わず、一般道を走ってくれるのが嬉しい。やがて車はマネルビオの街中に達し狭い街路をゆっくり走る。5時少し前、教会ではこれから結婚式が始まるようで、正装の男女がファサードの階段や隣接する小公園の緑陰に集まって談笑している。「今通っているのが町のメインストリート。公園の向こうに見えるのがタウンホール(市役所)、この教会はタウンホールよりはるかに歴史があるんだ。特にこの鐘楼はね」「ほら!こんな町にも中華レストランがあるんだぞ」と二車線ぎりぎり、やや屈曲した石畳の街道を徐行しながら説明してくれる。両側の建物はほとんど石造りの二階建て商家。中心部を出ると周辺部は居住区や町工場や倉庫のような建物があり、4階建てのアパートなどもある。更に外縁部に出ると墓地や個人住宅のある一帯がありこの一隅に彼の住まいが在った。敷地は500坪ほどあろうか、背丈ほどの石の塀で囲まれ、裏側に2箇所その一部が切り取られ、自動車で出入りする時の電動式ゲートが設置されている。手前は母屋と一体となった2台収容のガレージ、奥のゲートは8台収容できる独立した専用ガレージの出入り口である。奥のゲートが重々しく横に動いていく。道は専用ガレージの前を通り、半地下式の1階裏口につながっている。「ようこそ我が家へ!」 黒い猫が裏口横の小屋から出てきた。
<城石家> 彼の家族名はCastelpietra、Castelは英語のCastle(城)であり、Pietraはイタリア語で石のことだという。つまり城石さんである。先祖は南ドイツに発し、何代か前にこの地に移住したとのこと。戦前は繊維工業の盛んな地で、彼の父親はここで最大の繊維会社(往時は2000人規模)の経営者(技術者、オーナーではない)を務め、特に福祉政策(社宅や託児施設など)に力を入れ評価が高く、町の名士だったようである。今の家はその父親が建て、母が90過ぎまで住んだ家だという。彼はこの地で育ち、教育を受け高校はクレモナまでバスで通っていたとのこと。両親の墓も当然この町にある。兄弟・姉妹がいるのかどうか、高等教育を何処で受けたのかは定かでない(このブログを読んだ友人から、ミラノ工科大学電子工学科卒との連絡あり)。家族は母が飼っていた黒猫ともう一匹灰色の猫がいた。そしてこれはあとで詳しく紹介するが一人住まいと思っていた彼に、実はこれからの人生を伴に過ごす、アグスタという伴侶がいたのである。
 「もう直アグスタが戻って来ることになっている。その前に家の中を案内しよう」 半地下の裏口から入った所は広いユーティリティルーム、と言うより彼の作業場である。キッチンやバスルームもあるが各種工具、工作台、ラリー用品、模型(ほとんどがフェラーリ)、ワインやら暖炉用の薪など雑多なものが棚や床に散在している。当に男の隠れ家だ。次の部屋は彼らが日常使っているリビング・ダイニングルーム、広さは30畳位あろうか、一部リビング部分に外部から明かりが入るようになっている。ダイニング部分には4人用のテーブルと椅子があり、我々も朝食や午後のお茶はここでいただいた。リビングは正面に暖炉がありこの前にソファーが置かれ、コンピュータ駆動のオーディオユニットが備わっている。そして暖炉の上には何とフェラーリのF1マシーンのクランクシャフトが鎮座している。壁のいたるところに鹿の角が取り付けられている。これは祖父の友人、オーストリア貴族のハンティング成果だという。
 アグスタとの挨拶が済み、ダイニングでお茶を飲んでいるとどうも彼が落ち着かない。「僕のラボを見て欲しいんだ」「ン?(こっちは早くガレージの中が見たいんだが)」  この部屋も30畳位、ほぼ正方形。2面はL字型に机の高さ・幅で棚がある。その上に多数のディスプレーが並び、棚の下にはPCやワークステーションのCPUや周辺装置、電源などが置かれている。今はほとんど目にすることの出来ない、汎用機用の記憶装置なども稼動可能状態にある。世界に散らばる彼の顧客、石油精製・石油化学会社、計測・制御システム会社、コンピュータ会社、は当初はIBMの標準品を導入したが、長い利用期間のうちにダウンサイジングとオープンシステムの普及で種々雑多のコンピュータを使うようになった。この異なる利用環境に適ったサービスを提供するのが彼の仕事である。この仕事をここマネルビオから提供するために、彼が作り上げた仕事場がこのラボ。恐らく世界でここほどACS(IBMとExxonが開発したプロセス制御システム;Advanced Control System)のシステム環境が充実した所は現在存在しない。このACSは、あのアポロを打ち上げたシステムと深く関わっている。そしてマウロはこのシステムソフトの第一人者であることを現在まで続けている。石の城は、凄まじい男の城でもあった。
 半地下の上の1階(と言うか2階というか)部分は通常の居住区である。玄関ホールを挟んで一方の側は3つの寝室(この一室に泊めてもらった)と共通のかなり広いバスルーム。ホールの他方はダイニング・キッチン、更に奥に客間を兼ねた広いリビングが在る。このダイニング・キッチンとリビングルームは普段使っておらず、我々が滞在した日、ディナーから帰った後ここでお茶を飲んだのが久し振りだったようである。レースのDVDを見せてくれたが、時差ボケ二晩目とても長くは留まれなかった。
 庭は相当広い。何せ全部で10台の車を納めるガレージがあっても、りんごの木を含め緑に事欠かない。目下庭の一隅にはプールを建設中である。大型の浄化装置を持つそれは12M×6M位で本格的な水泳には物足りないが、個人の息抜き用としては十分な広さである。どうやらマウロも泳ぐ気は無いらしく、「プールサイドでデッキチェアーに横になりながら過ごすんだ」と言っていた。このプールや専用ガレージはいずれも最近建てたものだが、そこには広すぎる庭の維持に苦労した母親の晩年が自らの老い先に重なってくるらしい。「昔はきれいな庭だったが、すっかり荒れてしまってね。実は隣の家のあるところも昔は我が家の庭だったんだが母が処分してしまった」
<8人娘とミッレミリア> 独立ガレージをじっくり見る機会はディナーに出かける前にやってきた。これこそここへ出かけてきた第一目的である。所有するフェラーリの大部分が中古車であることはアメリカにおける彼の言動から想像していた。ブレーシアの駅まで迎えに出たのも1995年型である。くの字形のガレージに入って予想外だったのは、クラシックな車が目につくこと、そして2台分のスペースは空きになっていることだった。ガレージの中で更に赤いカバーを被った赤いテスタロッサ(1985年型)、黄色の355F1(1998年型)それに先ほど駅まで出迎えてくれた黒の456GT(1995年型)がいわゆる中古車である他は、嘗て最も美しい車の一つと言われたランチャア・アウレリアB20(1953年型)、2+2(補助席)のフェラーリ330GT(1967年型)は中古車と言うより遥かに価値の高いクラシックカー(正しくはヒストリックカー)の範疇に属するものである。聞けば空いたスペースは目下外部のガレージでレストア中のランチャア・フラミニア・ツーリングGT(1961年型)とフェラーリ・ディーノGT(1972年)が収まる場所だと言う。更に母屋に直結したガレージにはフィアット・アバルト695SS(1966年型)が停めてある。これはとんでもない車で、40年代後半に開発され確か70年頃まで生産されたイタリアの国民車、フィアット500(チンクエチンタ;最近この印象復刻版ともいえる車が発売され人気を博している)をアバルトと言うスポーツ・チューンナップ会社がエンジン排気量を695CCにアップして飛ばし屋やレーサーに提供していたものである。彼の娘たちはお転婆な4人の熟女と4人の老女だったのである。
 マウロのもう一つの顔は、マネルビオに隣接するクウィンツァーノという町に本部を置く、ヒストリックカークラブ(Club Auto Moto Storiche)の会長を務めると伴にヒストリックカーで争うレーシングドライバーでもあるのだ。これらのレースはスピードを競うよりは、お祭り的な要素が強く、チャリティを目的に催されることが多いらしい。それでも中には私でも知っている大変由緒あるレースもある。それがミッレミリア、1000マイルレースである。このレースは1927年に始まった公道レースで、ブレーシアをスタート/ゴールにローマを折り返し地点とする1000マイル(1600Km)でスピードと耐久力を競うものであった。戦争中は中断したものの、1947年に復活し1957年まで続いたが、この年フェラーリの運転者が観客を巻き込む大事故を起こし中止となった。その後1967年大幅にルールを変えてヒストリックカーレースとして甦った。現在は公道では最高速度が50Km/hに制限され、スペッシャルステージも細密な時間コントロールを求められる形に変わっているが、出場資格が年代物の車に限られるため上位入賞は無論1600Km完走は至難の技と言われている。マウロもランチャアB20では完走できず、フェラーリ330GTで何とか完走、成績は百何十位だったとか、参加記念のショパールの腕時計を自慢げに示しながら苦労話をしてくれた。また、これらのヒストリックカーレースを通じて日本人とも交流するようになり、神戸で貿易商(香辛原料や毛皮の輸入)を営むKさんから贈られたカレンダーがリビングに掛けられていた。
<アグスタのこと> 「マウロはイタリアに戻り新しい恋人がいるようなんですよね。それも人妻だとか」こんな話を元日本IBMのセールスだったMさんから聞いていた。しかし訪伊を告げるメールのやり取りにその気配は全く感じられなかった。家に着き半地下のリビングで一休みしている時「実はアグスタと言う女性がここに同居している。国語教師をやってたんだ。まもなく戻ってくる」「彼女は残念ながら英語は喋れない」「血圧が高かったりチョッと健康に問題があるが、ディナーに同席するよ」と始めてその存在を打ち明けてくれた。カップルで迎えてもらえることに何かホッとした気分になった。
 やがてアグスタが戻ると四人でまたお茶になった。「僕が17歳、アグスタが14歳お互い初恋だった。この間いろいろ有ったが一緒に暮らすことになったんだよ。近く正式に結婚する。そしたら新婚旅行に日本に行こうかな?」 幸福そうな幼馴染の熟年(多分63歳と60歳)カップル。アグスタの恥らう姿はまるで少女のようだ。
 ディナーに出かける時、「奥さんはアグスタと一緒に向こうの車に乗ってくれ」と言う。確かに補助席付フェラーリに4人は無理だ。見ると黒い最新のベンツSLK(2座で金属製の屋根はオープンに出来る)が母屋と一体となったガレージにある。「僕が買った車でオートマティック車はあれしかないよ」 9台目の車である。これはアグスタの専用車、ヒストリックカーのラリーではナヴィゲータも務める車好きの彼女にとって、お気に入りの車らしい。
 この日は土曜日、マウロがiPhoneを駆使して問い合わせた第一候補のレストランは満席。第二候補の“SCIA’ BAS”と言うレストラン兼バールに出かける。「ここへは週3回は来ているかな」 料理やワインの選択は専らアグスタが主導権を持つ。料理具合にもチェックが厳しい(一皿やり直させた)。勧められるままにフルコース(前菜、パスタ、メイン)を頼んでしまう。前菜の揚げラビオリ(?)が美味しく食べ過ぎてしまう。次はリゾット。最後のミラノ風カツレツは半分も食べられなかった。「構わない!うちの猫たちに持って帰ろう」飲んだ赤ワインは二本だったろうか?「オイオイ運転するのにそんなに飲んで良いのかい?」「公道走るわけじゃない(?)チョッと街中走るだけだ」 仕上げはもちろんジェラートとエスプレッソ。英語を話さないアグスタともすっかり打ち解けた気分になり飲酒運転で帰宅。彼らは来客用リビング(?)でしばし歓談とワインを考えていたらしいが、ソファーに座るなりコックリし始め、早々に寝室に失礼した。
<イタリアン・ブレックファスト?>
 寝つきは良かったが、時差ボケは一晩では調整出来ない。何度か手洗いに起きながら朝を迎えた。隣の部屋の動きを聞き耳立ててモニターしつつ、頃合を見て半地下のリビング・ダイニングに出かけると、丁度朝食の準備が始まったところだった。食卓に着くと、ビスケットとロールパンを透明の袋に詰めたものが用意されている。あとは飲みものをどうするか(コーヒーか紅茶)である。当にコンチネンタル・スタイルの朝食である。家庭での朝食はこれ一回きりしか経験していないのでなんとも言えないが、フィレンツェのホテルで朝食に卵料理を頼むと、その分追加料金を請求されたとことと併せて、これがイタリアン・ブレックファストの典型なのかもしれない。ランチやディナー(この場合は時間の遅さもも要考慮)の重さを考えるとこの朝食は健康管理の面からも合理的と言える。のちのランチでの会話から推察すると彼らは外食の頻度が高そうだ。あまり家では手間を掛ける料理をしないことにしている特異な家庭なのかもしれない。外国で個人の家に泊まる面白さはこんなところにもある。
<日曜日の平原> 朝食時にこの日のスケジュールを告げられる。ランチまでの時間ヒストリックカーで近隣ドライブ、一度家に戻り荷物を持ってレストランに向かい、アグスタも交えゆっくり食事をしてブレーシア3時5分発の列車でミラノへ戻る。天気は快晴。ヒストリックカーに乗れる!異存は無い。
 引き出された車は黄色のフェラーリ330GT(1967年型)。この車は前出のミッレミリアを完走した車。クーペタイプで後ろの座席が昨日乗った456GTに比べやや広い。これなら3人乗車も問題なさそうだ。エンジンに火を入れると年代物のエンジンに有り勝ちな不規則な回転や振動が無い。さすがにスーパーエンジニアの手入れが行き届いている。ただスピードは抑え気味で50~60Km/h位で走る。日曜日の朝、道を行く車は少ない。マネルビオの街中は彼の父親の遺産とも言える嘗ての工場や従業員用のアパートなどを見て廻り、やがて車はロンバルディア平原を西に向かう一般道に出る。遥か北には山並みが見え「あれはアルプスそのものではないがXX(意味不明)アルプスと言うんだ」 今度は南側を一瞥しながら「南にも山並みが見える」「南北両方の山並みが見えることは極めて稀だ。今日は特別天気が良い」 道の両側は刈り取りの済んだ畑が続く。ここら辺はとうもろこしがメインのようだ。青い空、黄色い畑地、高い並木の緑、絶好のドライブ日和。のんびり走る我々をはるかに排気量の小さい車たちが追い抜いていく。近隣の町には半ば朽ち果てた小さな城砦などもある。このような城砦は非常時の逃げ込み用だったらしい。わき道へ入ると退避場所でしか車が行き交うことは出来ない。珍しいヒストリックカーに、皆こちらを見てオヤッというような顔をしている。
 「しばらく乗っていなかったんでガソリンを入れよう」 イタリア最大手のAGIPのスタンドは完全に無人だ。「このスタンドはヒストリックカークラブの友人のものなんだ」 勝手を知った行きつけのスタンドで給油していると、他のお客が車に寄ってくる。どこでもこの車は人気者だ。
 穏やかな秋の日差しの中、最初は西進ついで南に向かいクレモナの近くまで行きそこからマネルビオに戻ったのは11時頃。一旦例の半地下のリビングに落ち着きお茶、いやカンパリー、を飲む。寛ぐ中で彼がふと漏らした言葉「仕事で世界中飛びまわった。500万マイルは確実に超えた。もう遠くへ行きたいとは思わない。ここが一番落ち着く」 憧れのイタリアを駆け足で走り出したばかりの私にも、彼のこの気持ちは納得できる。こんなイタリア人を心底羨ましく思った。
 例によってiPhoneでチェックしたレストランはまたも第一候補は満席。第二候補の“Alle Rose”は町を出てブレーシアに向かう街道沿いにあった。ここも彼らがよく利用する所らしく(週に3階は来る)、オーナーの女性と親しそうに話している。最初は三々五々集まってくるお客に庭でワインとカナッペや例の揚げラビオリなどの前菜がふるまわれる。これが美味しい!食べ過ぎ注意だ。
 やがて中に移り、アンティパスト、パスタ、セコンドと例によってフルコース。メニューはほとんどオーナーのお勧めに従った。かなり広い室内がどんどん埋まってゆく。少し離れた席には正装した地元の人のグループも見えるし、子供連れもいる。小さな町にいくつもレストランがあり、何処も混んでいる。料理は美味いし、値段も手ごろなのだろう。イタリア人が慎ましく暮らしながら、生まれ育った土地を愛するのはこんなライフスタイルが可能だからだ。このことをこのマネルビオ、そして次のサンドリーゴで確信した。
 赤ワインを飲みながらのランチが終わる頃マウロが「帰りの列車を1時間遅らせて、一旦我が家へ戻り、一休みしよう」と言い出す。アグスタも賛成のようだ。昼の酒は利くし、これから向かう大都会ブレーシアでは飲酒運転取締りも田舎とは違うのかもしれない。眠気を催す昼下がり黒いフェラーリはもと来た道を戻る。お茶を飲んだり、記念写真を撮ったりして小一時間過ごし、4時5分発の列車でミラノに戻った。
 素晴らしいマネルビオでの二日間だった。

2008年11月17日月曜日

滞英記-10(2)

5)Villageツアー
 「娘婿が孫を保育園から引き取り、4時半頃ここに来る」 出来るだけファミリーを私に紹介しようという彼の気配りです。「未だ時間があるからVillageを案内しよう」 先に屋外に出て彼を待つ間、もう一度仔細に広場を点検しました。“クラシックカー”は何処だ?彼の家の左外部に、自動車一台分は充分ある横長の木製の柵があり、その奥にかなり大きな物置のようなものがあります。庭へ出た時それを見てひょっとして?と考え続けていました。外へ出てきた彼に、「ジェフ、あの左部分の土地も君のものかい?」「いや、奥の家のものさ」「……(クラシックカーはどうなったんだ!?)」
 路地を出ると村の中心ある忠魂碑のラウンドアバウトへ向かいます。両側は概ね小さな商店、インド料理が数件、タイ料理も数件、ベトナム料理もあるそうです。もちろんパブも何件か。八百屋、肉屋、忠魂碑は第一次、第二次世界大戦に参戦し戦死したこの村出身者の名前が刻んであるそうです。「これはどんな所にも必ず在るんだ。日本はどうだ?」「Shrine(神社)に在るんだが、何処の神社にもあるわけではないんだ」「Shinto(神道)か?」「良く知っているなー」「Hiroは神道か?」「いや、仏教徒だ」こんな話をしているうちに商店街が切れて、住宅街に来ました。いわゆるタウンハウス、それも二戸一棟のモダンで高級感のあるものです。「あれはいつ頃出来たものかな?」「ウン?あれは60年代だな(いかにも関心が無いと言うトーンで)」
 一巡して忠魂碑に戻り、今度は反対側を探訪。細い石畳を行くと先の方に教会が見えてきました。「Priory(修道院と一体になった教会)って知っているか?」「左側のタウンハウスは、昔はこの教会で働く人達の家だったんだ」「この教会はとても古いものだ。実は、我が家はこの教会教区の人達の馬具鍛冶の家だったんだ」「(馬具鍛冶か!それで隣の家に妙なグリ-ンの大きな扉があったんだ)」「この辺の人は殆どこの教会の信徒さ。でも俺は来ないんだ。これは英国国教会だが、俺はカソリックなんだ。」(I ‘m from UK!発言の理由が仄かに見えた瞬間です)。外へ出て別の道を戻ると途中に小川が流れています。「これが此処の地名の基、Trym川だよ」川に沿った道にトヨタMR-Sが止まっています。「これは僕の車と同じだ!」(一くさり講釈すると)「俺は1970年のモーガンを持っていたんだ。モーガン4だ。しかし数年前に手放した」(エッ!あれはモーガンだったのか!そうか、手放したのか!残念だがこれで“クラシックカー”は一件落着)。
 Cottageに戻ると直ぐ外で子供の声がし、可愛い女の子が駆け込んできました。最初の孫、Amyです。帰宅途中私のために寄り道してくれたのです。お土産を用意してあったので、手渡すと皆大喜びをしてくれました。娘婿は鉄道の保線技師だそうです。好感の持てる若者でした。早々に戻る彼らを見送りに外に出ると、車のチャイルドシートの中で男の子が寝息をたてながら眠っていました。見送るジェフの顔は本当に幸福そうでした。広場から戻ると、「今日は息子がディナーを用意してくれるんだが、仕事を終えて此処に来るまでにはまだ時間がある。パブへ行こう!」

6)パブ初体験
 “イギリスに行ったらパブに行かなきゃ”、訪英経験のある誰もが言うアドバイスです。ランカスターにも沢山パブがありますが、どうしても一人で行く気になれず、酒好きのMauriceも誘ってくれません。やっとその機会がきました。当然彼のパブ「White Lion」です。店は予想したより明るく、バーテンは皆黒い半そでシャツを着た若い女性、お客も結構女性がいます。「何にする?」「ビター(黒ビール)だな」「銘柄はなんだ?」「ウーン いつもはジョン・スミスだがジェフと同じにしてくれ」確かボンバルディアと言う銘柄のビターが1パイントグラスになみなみと満たされます。それをカウンターで受け取りテーブル席に移ります。アテは全くなし。これで何時間でも仲間同士語り合うのです。最近は大型のスクリーンなどを装備し、皆でフットボールやラグビーの試合に興ずる所も多いようです。
 いろいろな話題(特に、裁判員としての興味深い話が中心)を肴に飲んでいるうちに、酒の話になりました。「この間スーパーで買い物をしていたら“アイリッシュ・サイダー”と言うのを箱詰めで安売りしていた。アルコール類であることは分かるが一体どんな飲み物なんだ?やはりビターの類かい?一度味わってみたいが一缶売りがないので逡巡しているんだ」「あれはビターではない!ワインみたいな飲み物だ。飲む機会を作ってやるよ」
 翌日バース、ブリストル市内の観光を終わり、一旦ホテルで休んだ後レストランで食事をすることになっていました。彼が迎えに来てくれて、「ディナーまでには少し時間がある。パブで一杯やってから行こう」とホテルの裏手の方に歩き始めました。商店も無い通りの奥にポツンと一軒のパブがありました。「Coronation Tap」と言う店です。ドアーを開けて中に入ると薄暗く、カウンターもテーブルも黒光りしている荒削りな木製。“想像していたパブ”の雰囲気です。カウンターに行きジェフが「アイリッシュ・サイダーを飲んだことの無いやつを連れてきた」とカウンターの中のオヤジに私を紹介します。「Hiro 今いくつだ?」「68歳?!オイ68までアイリッシュ・サイダー飲んだことの無いやつに適当なのは何かな?」カウンターの後ろには蛇口のついた樽がいくつもあります。全部銘柄の違うアイリッシュ・サイダーなのです。ここはアイリッシュ・サイダーが売り物のパブです(無論他の酒も飲めますが)。「そうか!初めてか!じゃあ、“Exhibition”が良いだろう」私はExhibition、ジェフはビター、息子はラガーそれぞれ1パイントのグラスを持って、テーブル席へ。二人は私が飲むのを見つめています。一口飲むと、ジェフが「どうだ?」と、確かにワインのような味です。酸味と甘みが微妙にバランスし、シャンペンのように弾ける感覚がアルコールにそれほど強くない私の口にぴったり。「良い味で飲み易い!」すかさず息子が壁を指差しながら「気をつけてください!アルコール度はビールより高いですからね」壁に掛かった黒板に各銘柄のアルコール度が書いてあります。最高は7.4%もある!こちらへ来てから愛飲しているジョン・スミス・エキストラ・スムーズは4%。同じ1パイントだが店を出る時には確り違いを認識できる状態になっていました。
 アイリッシュ・サイダーはリンゴ酒で、食用とは別種の酸味の強いリンゴから作ります。発泡性のものとストレートの2種があり、私の飲んだものは発泡性の方です。アルコール度が高い割りには口当たりがいいのでつい飲みすぎてしまい、気がついたら足腰が定まらない状態になるのです。ワインと違い小さくてもハーフパイント(通常は1パイント)のグラスで飲むので飲み慣れない人はがぶ飲みしてしまうことも要注意だそうです。
7)英国家庭料理を味わう
 「White Lion」で飲んでいると携帯電話が鳴りました。「息子が帰ってきた。家へ戻ろう」 道路を渡り路地を通って小さな専用広場を横切るともうそこは“Vine Cottage”、飲み屋(ビター)から飲み屋(ワイン)への移動です。息子のGareth(ギャロ)は29歳、今年ブリストル大ビジネス専攻修士修了。これから本格的な職探し(英国の大卒者の就職状況についてはもう少し情報を集めてご報告したいと考えています。一言で言えば、大多数が学部卒業即失業者の状態です)に入ります。今まで親と離れアスレティッククラブで働きながら、大学院仲間とフラット暮らしをしていましたが、来週は自宅に帰ってきて、ジェフと暮らすことになっています。
 ジェフに訪問を問い合わせた時、二晩の夕食の希望を聞いてきました。「英国の伝統的な料理を食べたい」と返事をしました。その結果、今夜は自宅でギャロの手料理、明日は英国料理のレストランを準備してくれました。ギャロは学部卒後の半失業者時代、アルバイトをしながら世界各地を廻り、その間料理に関心を持ち、腕を磨いたとのことです。姉が二人、歳が離れて生まれた男の子、甘い感じを予測していましたが、確りした好男子です。挨拶を済ますと直ぐキッチンに戻り、私たちは広場側の居間で待ちます。暖炉にはチロチロとコークスが燃えています(イミテーションですが良く出来ています。実際はガスです。私のために7月だというのにデモをしてくれたのです)。煙突は機能しているそうです。用意ができたようなので、例の賓客用ダイニングルームに移ります。ここでも暖炉が燃えています。やがて運ばれてきた料理は“マッシュポテトの上にソーセージが乗り、独特の甘みをもったソースがかかったもの”です。ギャロの秘術はこのソースです。一口食べて“これはいける!”赤ワインと良く合います。
 訪英が決まった時、先にご紹介した東燃同期のF君が、デーリーテレグラフの東京駐在員が書いた、日英文化比較を草の根レベル行った本を贈ってくれました。その中に英国料理に触れた項があります。そこには、「英国料理は不味い不味いと言われるが、それはホテルや高級レストランで食べる料理に与えられる評価で、家庭料理は全く別物、美味しくないはずはない」と書いています。ギャロの料理を食べて、その記述に100%同意しました。
8)I’m from UK
 チョコレートケーキのデザートも終わり、ジェフも私もメートルが上がってきました。いよいよ今回訪問の主目的を質す時が来ました。「ギャロ、ジェフと僕が初めって会った時の話をしようか?」「是非!」「ジェフ!覚えているかい?僕が“You are from England, aren’t you?”と聞いた時、しばらく黙っていて“I’m from UK”と答えたのを」「ウーン?覚えていないな」「日本語では英国(BritainあるいUK)のことをIGIRISUと言うんだ。これはEnglishから来ている。そして多くの日本人は(24年前の僕も含め)Englandが英国と同義だと思っているんだ。君のあの一言で英国に対する認識を一新し、UKを構成する国々を、新たな視点から見るようになったんだ。あの時意識してUKと答えたとばかり思っていたんだが」「……」。酔った勢いもありここから一気に詰めに入りました。「ジェフ、君は何処で生まれ、何処で育ったんだ?」「ミッドランドだ。ブリストルのやや北東、バーミンガムやコベントリーの在る一帯をそう呼ぶ」「じゃあ典型的なイングランド人なんだね?」「いや!先祖はアイリッシュさ。そしてAvrilはウェリッシュ。玄関の入口に在った石の置物に赤い竜が描いてあったろう?あれはウェールズの紋章さ!」
私の不勉強から発した“from England?”に対して、あの時ジェフの心に去来したに違いない、怒りの根源を解明しました。この旅の目的が達せられた瞬間です。
 24年前のバークレー管理職向けMBAプログラムの副題は“アメリカ経済を如何に再生(Revitalize)するか?”でした。“Japan as No. 1”の時代で、授業には頻繁に日本がでて来ます。そして、論じられたのは“日本は特殊か否か?”でした。ジェフはこの時のことを良く覚えていて、今夜は“英国特殊論”を展開し始めました。「アメリカもドイツも日本も同じさ!Britishだけは違うんだ!」「どこが?」「アメリカは何かあれば国歌、国旗だ!一つに纏まろう、纏めようとする!ドイツはもっと国家意識が強い!日本はもともと単一だ!我われはそれぞれが独立し、一人で考え、独りで決める!これがBritishなんだ!軍関係以外、学校で国旗掲揚や国歌を歌ったりしないんだ!」酔いが廻ってきた彼の論理に疑問を感じながら、“UKと一まとめにされて堪るか!”と言う、複雑な歴史を背負うこの国唯一の友人の本音を見た思いがしました。訪ねて来て良かった。確実に、彼と英国理解に一歩踏み込めた。
9)ヴィクトリア朝タウンハウス
 翌日18日は朝から良い天気。9時半にジェフが迎えに来てくれました。今日は一日ブリストルとその近郊を案内してくれることになっています。しかし、観光はアペタイザーでした。
 ホテルの近くは英国では珍しく、gorgeと呼ばれる深い谷が切り込んでいます。その谷にはブルネルと言う技術者が200年前に建設した、見事なつり橋がエイボン川を跨いで架かっています。今でも十分実用に耐え車が往来しています。我われの車はその橋の遥か下方、エイボン川に沿った道路を南東に向け、Bathを目指します。Bathはバス(風呂)の語源となった土地で、温泉(Spa)があります。ローマがこの島に到来した時に建設した浴場があり、近年までこれも周辺を整備した上で実用に供されていました(現在は衛生上の問題で見学するだけです)。英国有数の観光地で、日本の英国観光案内書にも詳しく紹介されていますからここでは省略します。
 バース市内の名所を観て歩いた後、紅茶とスコーンで軽い昼食(?)を摂っているとき、「これからブリストル市内に戻り、車をホテルに置いて何ヶ所か観光スポット案内する。その後ジーニーの家を訪問する。ジーニーはAvrilの幼馴染なんだ。家族みたいな者だから遠慮はいらない」「…(何でそんな人を訪れるのだろう?)」
 市内では先ずエイボン川がブリストル港を成す場所に行き、1497年ここから出てカナダのニューファウンドランドを発見した帆船のレプリカなどを見学、そこからホテルに戻り、ここに車を置いて最初に向かったのが、gorgeを成す崖縁に建てられたホテルです。ここの広いテラスは市内とつり橋が見渡せる絶景の地です。晴天のテラスでビターを飲んでいると、「新年に送った手紙に添えた写真が有っただろう?昨秋のコンコルドのラストフライトとあのつり橋が写った」「あぁ あの写真、覚えているよ」、それはAvrilの死を伝える手紙に添えられたもので、生まれたばかりのAvril二世の写真と一緒に送られてきたものです。手紙には「コンコルドを見上げる群衆の中に、Avrilと自分も居るんだ」と記されていました。「われわれが居たのはこのテラスさ」季節こそ違え、陽光の中でワインを手にしたAvril(彼女はワイン派:だからVine Cottage)とビターを持ったジェフ、一瞬にして飛び去っていったコンコルドのラストフライトを興奮気味に語り合う仲の良い初老のカップルが目に浮かびます。自らの間近に迫ったラストフライトも知らぬ気に。
 次に向かったのはブリストルのランドマーク、カボット(John Cabot;ニューファンドランドの発見者)タワーです。高台のホテルから一気に行けると思ったらおお間違い!途中何度もアップダウンがあり、エイボン川に向けて市内が一望できる公園内に建つタワー下に着いたときは二人とも更に展望台に上がる元気はありませんでした。しかし、お陰でアルコール分を発散し、ジーニー宅訪問には好都合です。初対面で酒臭いのはまずいですからね。公園内の道をタワーから下りながら「ジーニーの家はこの道を下った所にあるんだが、最近来ていないから直ぐに探せるかな?」と頼りない。公園を出た一筋目の道でそれと思しき所で一軒一軒チェックを始める。間もなく「あっ!ここだ!どんぴしゃだ!」それは正面を公園の側に向けて建てられた品の良いヴィクトリア様式のタウンハウスです(ヴィクトリア様式とジョージア様式の違いは、後者は2階部分にテラスがありしばしばテラスハウスと呼ばれます。また、前者は出窓部分があるなど凸凹した構造に対して、後者は平べったい造りになっています)。ランカスターの街なかで目にするタウンハウスとは出来が違うこと一目です。周囲の環境も公園があるので緑が多く、区画全体が宮殿の一角のような雰囲気です。傾斜地に建てられた10戸ばかりが一棟を成すタウンハウスの一番高い側がジーニーの家です。
 前庭部分はかなりありますが、残念ながら“庭”の部分は僅かです。それは傾斜地に建てられていることや、この家独特の構造からきています。左部分は玄関に向けて門から階段を上がっていくためそのスペースが必要です。右側部分は半地下の部屋に向けて傾斜しそこは駐車スペースに使われています。
 階段を上がってジェフが呼び鈴を押すと間もなく、小柄で銀髪のいかにも上品な感じの女性が現れ、ジェフと頬を寄せ合い挨拶を交わしています。ジーニーです。
 「これがHiroだ。バークレーで一緒でね(全く関係は有りませんが、直ぐそばにバークレーと言う名の通りがあった)。英国人の家を見せてやろうと思って連れて来たんだ。いいね?」「ようこそ!もちろんよ」「突然お邪魔してすみません」「良いんですよ。さあ、中へどうぞ」、「主人を20年前に亡くし、色々あったんですよ。でも今は娘も独立、他の女性がパートナーとして一緒に住んでいるの」と言うような按配で第二の英国家庭訪問です。
 玄関を入るとホールのような、廊下のような部分が奥へ続いています。奥にはシッティングルームがあってその部屋はバックヤードへの通路を兼ねています。この奥のシッティングルームは同居している女性が主に使うようです。玄関を入って右側にダイニングキッチンがあります。薄茶色の木目調の家具・調理システムで纏められた部屋は明るく丁度公園が借景となって緑が窓いっぱいに広がっています。「普通ここはシッティングルームとして使う人が多いんだけど我が家はダイニングにしたの。シッティングルームは上の階。どうぞ自由にご覧になって」玄関ホールの中央部に入口と直角の位置で階段があります。階段を途中のステージまで行くと玄関と反対側(バックヤード側)に部屋がありそこにはデスクの上にPCなどがありどうやらジーニーの仕事室と言う感じです(彼女の仕事はマーケティング関係)。そのステージで折れて更に上がると公園側に玄関ホールとダイニングキッチンを合わせた広さのシッティングルームがあります。ソファーは白、家具は薄茶色、大きな暖炉があります。窓一面に公園の緑。エレベーションが高くなった分道路と絶縁され、眺望が開けます。シッティイングルームの裏庭側は扉が閉じられています。多分ジーニーの寝室でしょう。次いで裏庭に廻ります。玄関から裏のシッティングルームを通ると裏庭に向けてドアーがあります。ここから裏庭には玄関同様階段で下りていきます。裏庭に出てわかったことは、この家には半地下式の部屋が更に二つあり、一部屋はどうやら同居の女性の寝室、もう一つはユーティリティのようです。
 庭は芝生ではなく、中央部に正方形の石を配し、周辺に草花や小振りの樹木が植えられています。三方は石壁で囲われ、プライバシーが適度に保たれています。鳥が来て餌を啄ばむ台なども有り、都会の中とは思えない空間が出来ています。石を敷き詰めた部分には木製の丸テーブルと同じ材料で出来た椅子が四脚置いてあります。日はまだ高く、庭の三分の一位はまぶしい陽光が、家に近い残りの部分は日陰になり光のコントラストが強烈です。こんな光の具合は英国に来て初めてと言って良いでしょう。落ち着きと華やかさの中で美味しいレモンケーキと紅茶をいただきました。
 去る時聞いてみました。「このお宅は何時ごろ出来たものですか?」すかさず「1880年よ。そんなに古くないの」 恐れ入りました!
 最後に駐車場を眺めると、黒いソフトトップと車体は銀色の小型車が置いてありました。ジーニーの車です。サングラスを掛けた彼女が幌をオープンにし、銀髪をなびかせながら田園を走る姿が頭の中を過ぎりました。

 この日はこの後ホテルで休養し、先にご紹介したアイリッシュ・サイダーを飲みにパブへ。そうして最後は繁華街からは離れた場所にある、こじんまりした英国料理のレストラン(「チョッとフォーマルだからな」「タイは要るのかい?」「タイは要らないが、シャツとジャケットは着用してくれ」と言う程度の)でフルコース(と言っても、前菜・メイン・デザート)ディナーをご馳走になりました。私が選んだメインは“ロースト・ラム”。「誰だ!英国料理は不味くて食えないなんて言ってる奴は!」


 良き友、良き人、良き家、良き酒、良き料理で過ごしたブリストルでした。

2008年11月13日木曜日

滞英記-10(1)

Letter from Lancaster-10(1)
2007年7月28日

 “号外”でお知らせした、60年ぶりの水害は依然現在進行形です。それでも主要道路、鉄道は概ね回復したようです。問題は市街地における電気・水道の供給で、ミネラル・ウォーターの販売は、石油ショック時のトイレットペーパーのように一人当たりの販売量を制限しています。前報でご紹介したジェフは、自身被害は無かったものの、親族・知人には被害があったようです。 順番が前後する結果になりましたが、このジェフを訪ねた<四半世紀ぶりの再会>をお届けします。

<四半世紀ぶりの再会> 17日(火)朝自宅を出る時、このところ続いている曇天・驟雨が気になりましたが、幸い駅まで降られずに済みました。グラスゴーを発し本島南西の港湾都市、プリマスへ向かう列車は定刻通り10時9分ランカスター駅を発車しました。列車はこの路線馴染みのヴァージントレイン。座席は予約してあったので座れましたが、予想したより混んでいます。夏休みが始まったからでしょう。曇り空の中に時々現れる僅かな晴れ間、何処までも続く緑の牧草地。6月初旬のロンドン行きと何も変わりません。変わっているのは、今回は観光が主目的ではなく、友との四半世紀ぶりの再会です。久しぶりの長距離列車の旅はこうして始まりました。
 英国へ来た目的は無論“OR歴史研究”ですが、ジェフとの再会はそれに次ぐ重要な意味を持っています。24年前彼が口にした言葉が、私の英国感を一変させたからです。ぼんやり車窓を眺めながら、「(彼はあの言葉を覚えているだろうか?)」、「(それを問うのをどんな状況下で行おうか?)」、「(出来れば彼の息子が一緒の時に話題にしたいな)」、「(あれには特別な意味が有ったんだろうか?)」。それに例の“クラシックカー”はどんな車なんだろう?晴れ間の広がってきた緑野を疾走する列車の中で、思いは24年前に遡ります。
1)バークレー
 1983年春もまだ浅いある日、直属上司の部長から「人事から、今年の短期MBA留学の対象者に君を選びたいと言ってきた。OKしておいたから仕事はそのことを考えながら進めてくれ」と突然申し渡された。
 この教育制度は私が川崎工場在任時代スタートし、毎年数名の中堅課長職を米国マネージメントスクールに派遣するもので、比較的若い人を対象としたフルターム(1年以上)のコースとは別に、主として中堅経営幹部を対象としたものである。東燃が当時派遣していた大学は、スタンフォード、コーネル、ピッツバーグなどで、前年からこれにバークレー(カリフォルニア州立大学バークレー校)が加わっていた。川崎工場からも既にこのプログラムに何人かの先輩が派遣されており、いずれ自分にもこんなチャンスが与えられると良いなー、と漠然とは思っていました。それが正夢になったわけです。
 人事が具体的に動き出したのは4月に入ってから、「スタンフォードに願書を出すことにしました」とアプリケーション・フォームを持ってきた時には内心「(ヤッタ!)」と思いました。なんと言っても評価の高い大学だし、出張の帰路一度立寄る機会がありキャンパスの素晴らしさが印象的でした。加えて同期入社のF君が、このプログラムスタート前、会社派遣初のフルタームMBAコースを修了しており、何かと相談に乗ってもらえるからです。
 ところが5月になって、人事から「スタンフォードはダメになりました。理由は、日本人枠は既に満杯とのことです」と言ってきたのです(これが来た時、F君に願書内容を見せたところ、「本当の理由は多分“報酬欄”だろう。この額では幹部社員として安すぎる」と言われました。人事も私もここは正直ベースで良いだろうと思っていました)。これは東燃がスタンフォードに派遣来初めてのことでした。人事も予期していなかったようで、次善の策に苦慮していましたが、代わりにもって来たのがバークレーでした。
 9月中旬指定された大学近くのホテルにチェックイン。ここが全学生のこれから2ヶ月弱の生活場所になります。クラスが始まる前日は夕方から学内で歓迎の宴が開かれます。それに先立ち、事務的な連絡や学生とクラス担当教職員との紹介の場が設けられていました。 初めて全員が集まる場に参加して意外だったのは、参加者がたった20人しかいなかったことです(実は後で知るのですが、このことでプログラムは存亡の危機にあった)。他大学では複数クラスもあるし、バークレーも昨年の参加者は50人近く在ったと聞いていたからです。内訳は、アメリカ;13、サウジ;2、イスラエル、デンマーク、オーストラリア、英国、日本各一です。この少人数で日本人一人の環境が、私のそれからの国際感覚を一変させ、どれほどプラスになったか計り知れないものがあります。
 さて、予定された導入プログラムが終わり、大学幹部が参加するパーティーまでの間、部屋にビールなどが用意され歓談する時間が設けられました。最初に声をかけてくれたのはシェブロン・エルセグンド製油所の技術部長、次いでIBMから参加のセールス、マーケティング部門の二人の幹部など、デンマーク人はBPの販売部長でこれも石油。仕事に近いところは直ぐに打ち解けて行きます。 やがて、英国人に話す場がやってきました。こちらから「You are from England, aren’t you?」と問いかけると、睨みつけるような目でこちらを見てしばし無言。一呼吸置いて冷たく「I’m from UK!」「(エッ??)…」、周りに居たアメリカ人も一瞬怪訝な表情です。「I am from the United Kingdom, not England!」アメリカ人がニヤッとしました。こちらも取り敢えず調子を合わせて作り笑い。しかし、内心;“連合王国”と表するのは知っているが普通は使わないよな!「つきあい難そうだな」これがジェフとの初対面でした。 しかし、イギリス=イングランドではなく、連合王国。それまでラグビーの5カ国対抗(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、フランス)やフットボールの予選などで“イギリス”が無いことに違和感をもち、何故イギリスだけ三つも出てくるんだ?何故皇太子が“プリンス・オブ・ウェールズ”と呼ばれるんだ?と疑問に思っていたことに一歩踏み込むきっかけを与えてくれたことも確かです。
 バークレーでのジェフとの付き合いが変わってくるのは、期の半ばで一週間の休みが入った時です。アメリカ人は郷里に帰ったり、家族を呼び寄せたり、自分たちの時間を過ごすようになります。取り残された外人の中で、もともと授業も含めてほとんどわれわれと馴染まないサウジの二人は何処とも知れず消えてしまい、オーストラリア人もディズニーランド方面に出かけ、残るはデンマーク、イスラエル、英国、日本の4人になりました。そこで4人で(実際はイスラエルを除く3人が飲んでいる席で決まり、後からイスラエルが加わった)ヨセミテへレンタカーでドライブすることになりました。リーダー格はデンマーク、なんでも積極的でイニシアチブをとりたがる、仲間から“ヴァイキング”と仇名をつけられた男です。最初は彼がハンドルを握り私がナビゲータ、左ハンドルの国から来ているから慣れていると思ったが結構性格が出て荒っぽい。思わず大声を上げてしまう。ナビゲータへの要求もきつい。次いで運転をジェフが代わる。今度もナビゲータ。慎重な運転で恐怖感が無い。次は私が運転し、ヴァイキングがナビゲータ。やたら命令調で疲れること夥しい。ナビゲータがジェフに代わる、右ハンドル同士交差点では“左を見て!”と的確な助言をしてくれる。ホテルに帰り着き、夕食も終わりヴァイキングが消えた時、「Hiro(クラスの仲間からこう呼ばれていた)が大声あげた時、俺も怖かったよ。あいつの運転は酷いな!」とぼやいた。それ以降、彼はぶっきらぼうなもの言いだが、心優しい子煩悩な男であることが次第に分ってきたのです。
 それにしてもあの“UK!”に特別な意味があったんだろうか?それを確かめずに別れたことが長く心残りでした。
2)再会への序走
 毎年版画の年賀状を送ると、手紙とブリストルの絵葉書の入ったお礼状が来るようになりました。子供が似たような年齢だったこともあり、内容は家族のことが中心で彼の優しさがいつも伝わってきました。
 彼がバークレーに来た時、仕事はBPの子会社、Bristol Composite Materials(BCM)社の技術担当常務で、主にカーボンファイバーで構造材を作るビジネスを進めていました。専門は化学、BP本体で製品開発担当のエンジニアをした後、その職に転じたのです。プログラムに参加する時、会社紹介のパンフレットを持参し皆に配るよう大学から求められていました。彼の資料には管、角材、板に加工されたカーボンファイバーを使った構造物・骨材のような物がのっていました。 当時東燃は新事業の一環としてカーボンファイバー実用化の道を模索していました。バークレーを去って5,6年した頃、このカーボンファイバー事業推進の責任者と雑談している時たまたまBCM社の話になり、海外調査の一環に加えさせて欲しいと求められました。当時は今のようにメールが無かったので、ファックスでやり取りしましたが、快く訪問を受けてくれ、直接ビジネスには繋がらなかったものの、調査の成果は上がったと出張者から感謝されました。
 さらに、90年代初旬姪の一人が大学卒業後語学研修留学で1年間ロンドン近郊に滞在することになりました。それを彼に知らせたところ、“是非訪ねてくれ!Welcomeだ”と知らせてきました。年恰好の似た彼の娘と姪の交流が作り出す新たな関係を勝手に期待し、訪ねる本人より私の方が興奮してしまいました。直接の知り合いでもない外国人に、研修中に会うのは姪にとって迷惑な話だったかもしれませんが、私の強い要望を聞き入れてくれ、渡英後しばらくしてブリストルを訪ねてくれました。大歓迎されたことは言うまでもありません。 帰国した姪は二つのお土産を持って来てくれました。一つは彼の家族が私のために用意してくれた、昔のブリストル港の風景を描いた2点の石版画です。明るいトーンの港や船が細い線で絶妙に描かれた素敵な作品です。素人版画をたしなむ私のことを考えて選んでくれたに違いありません。この石版画は書斎の机の前、顔を上げれば目の前に見える位置に今も置かれています。もう一つは、彼の家に“クラシックカー”があったという情報です。手紙のやり取りでは一度も話題に出てきていません。どんな車だろう?英国人のクラシックカー好きはその世界でも有名です。何とかこれを見に(出来れば乗せてもらいに)彼を訪ねたい。
 4年前の年賀状の返礼に、ビジネスの世界からの引退に備え、住居を移ったことが書かれていました。ブリストル市内から近郊の村(Village)に移り、夫婦で自然を楽しむ環境を整えつつあること、是非ここを訪れて欲しいともありました。
 昨年年初の手紙には、ついに引退したこと、ブリストル裁判所の裁判員をボランティアで始めたこと、男性コーラスの合唱団に加わったこと。この合唱団が近く富士通の合唱団と交流することが書かれていました。早速富士通の知人に問い合わせてみましたが「そのような計画は無い」との返事。どうやら富士通が買収したICL(英国最大のコンピュータメーカー;現在は富士通のヨーロッパにおける情報サービス事業の拠点)の合唱団ではないかと推察しています。また夫人(Avril)とウェールズの山歩きをしているところや、新居の庭の写真などが同封されており、いよいよ新生活が始まったことをうかがわせる情報で溢れていました。
 昨年9月東工大大学院研究生になり、Lancaster大から客員研究員受け入れ許可が出た時直ぐにメールで知らせました。OR歴史研究のために英国に出かけたい、と言う話は具体的な計画が出来る前から毎年年賀状に添えた手紙に書いてきました。でも「今度は本当に実現するんだ」。“毎年来たい来たいと言ってくるが、本当に来るのかな?”と言う疑念が彼にはあったでしょう。「やっと実現することになったか!長かったな!Avrilと待っているぞ!」儀礼的な響きはありませんでした。
 今年の正月受け取った手紙は衝撃的な内容でした。昨11月中旬Avrilが急逝したと言う悲しい知らせです。心臓だったそうです。「でも嬉しいことに、Avrilの死の数日後、神は新しい命を授けてくださった。次女のところに女の子が誕生した。名前はAvrilとしたよ」と。直ぐにお悔やみのメールを送ったのは言うまでもありません。しかし、彼を訪ねる喜びは失せてしまいました。会ったらなんと言えばいいんだ?男やもめの所へ行っても迷惑に違いない。
 そんな私の心を見透かしたように、4月初め彼からメールが来ました(年賀状で4月から渡英すると書いていたので)。「いつこちらに来るんだ?スケジュールを教えてくれ。着いたら連絡をくれ。訪ねてきてくれ」。携帯電話の番号も書いてあります。
 5月、ランカスターのホテルから電話をしました。「Avrilのこと、残念だ。一緒の時に訪ねたかった。そちらに行くまでに生活基盤を作ること、研究の進め方を整理することで些か時間がかかるだろう。6月下旬から7月上旬には出かけるようにしたいが、そちらの都合はどうだい?」「No Problemだ!正確な計画を決める前にもう一度連絡してくれ。手助けが必要なことは遠慮なく言ってくれ」 7月16日の週にブリストルに行きたいがどうか?と問い合わせたのは6月下旬。16日は裁判所の仕事が一日あるので17日から来ないか?うちに泊まってもいいし、ホテルでもいい。希望を言ってくれたらこちらで準備する。せっかくコッツウォルズを廻るなら一泊したほうがいい。17日は家で息子の料理で夕食をしよう。18日日中はブリストル・バース観光、ディナーは外にしよう。料理は何がいいかな?ホテルからレンタカーの手配まで出発前日の16日まで(この日は娘さんに頼んで)細かい調整をしてくれました。
 列車は英国の典型的な天候;曇りが定番、驟雨と晴れがそれに混じる、のなかをダイヤ通り走っています。再会はどんな風になるだろう?Avrilの死を悼む言葉はどう言えばいいだろう?バーミンガムを過ぎてからはこんなことばかりが頭の中を駆け巡っています。
3)Village(村)へ 駅での再会は、まるで昨日別れた同級生に会う感じでした。ブリストルの中央駅、テンプル・ミード駅は番線が20位ある割には駅舎が小ぶりで、改札を出ると切符売り場とさして広くないホールがあるだけでした。定刻に着いたが彼は来ていない。外かな?とホールを出かけたところに、髪が白くなり体もひと回り小さくなった感じですが、24年前の一見取っ付き難い彼がいました。「今丁度着いたところだった」「こちらもそうさ」握手をすると直ぐ私の荷物を取り上げ、「列車の旅はどうだった?」「途中雨が酷い所もあったが、ここへ近づくにつれ回復してきたので気分もファインだ」「この車だ。そちらへ廻ってくれ」見るとマツダ・アテンザである。助手席に座るとミッションはオート。ちょっと拍子抜けしてしまいました。多分クラシックカーで楽しんで、街乗りはイージーな車にしているに違いない、と勝手に納得。
 駅近辺の教会やモニュメントを紹介してくれながら中心街へと進んでいきます。「ここは息子が学んだブリストル大学だ」巨大なタワー形式のホールが街なかに聳え立つ。ちょうど卒業式が終わったところでガウンを纏った若者が歩道に溢れています。「最初にホテルにブッキングインしてから家に行こう」「(“チェックイン”じゃないんだ)了解」
 ホテルは商業地区が住宅地区に変わるクリフトンと言う地域にあります。四階建てで横幅が広い(実は中央部半分くらいがホテルだった)、クラシカルな造りです。半円形の車寄せがあり、車寄せの外側から歩道側の塀までの間は植え込みがあり、入り口は歩道からは見えません。入り口はドアー一つ分、中の受付は二人(その内のベテラン格は北京出身の若い女性だった)。ロビーも5,6人分しかありません。部屋は4階ですがエレベータはありません。おまけに四階は後から継ぎ足したらしく、急な階段を上がらなければなりません。しかし、適当な古さと家庭的な雰囲気の感じの良いホテルです。部屋も清潔で申し分ありません。窓の下には個人住居(タウンハウス)のバックヤードも見えます。
 荷物を置き、日本から持参した土産だけ持って彼の車に戻りました。「どうだいこのホテルは?」「こじんまりして、清潔で、静かな環境。気に入ったよ。予約ありがとう」「ここへはAvrilと一度ディナーを食べに来たんだ。その時良いホテルだと思ったのでここにしたんだ」「(Avrilが出てきた!何と言えばいいんだ?)」
 車はやがて左側に広大な芝生が広がる地域に出てきました。「ここはダウンズ(Downs)と呼ばれる所でブリストル市の土地なんだ。一切建物は建てない。市民の憩いの場所なんだ」「ダウンズの外れに家が見えるだろう。以前はあそこに住んでいたんだ。Hiroの姪が訪ねてくれたのはあそこだよ」。右側も適度に木々が茂り、大きく古そうな家々がある。「こちら側はヴィクトリア時代の個人住宅だ。いまはフラットやオフィスとして使われている」。車は更に北へ向かって街を離れていく。しばらく木立の中の道を進んでいくと、やがてちょっとした集落に入り、中心部には忠魂碑のようなものが建ったランナバウトが現れ、商店などがその周辺にあるところへでました。「ここがWestbury on the Trym(トリム川沿いのウェエストバリー)、わが村さ!」「右側に見えるのがパブだ」〔White Horse〕とあります。少し進んで「ここが俺のパブ」今度は〔White Lion〕です。このパブの前の路地のような道に車が左折して入ると、そこは小さな広場になっておりその一角に彼は車を停めました。「Vine Cottageへようこそ!ここが我が家だ」
4)Vine Cottage
 正直拍子抜けしました。田園の中の一戸建て、前庭も広く隣家との間も木立で遮られ、石造りの重々しい家、何台か車が入るガレージ、そこには例の“クラシックカー”が、勝手に想像していた彼の家とは全くイメージが合いません。
 先ず場所です。村を抜ける道両側は商店や例の長屋風個人住宅などがあります。重々しい石造りではなくモルタルのようなもので仕上げてあります(昔は石が露出していたが、近年はこの上からモルタルを塗るようになってきたとのこと)。路地の両側は2階建ての家で、道路沿いの家と逆Γの形で彼の家(上の横棒部分;下の空間が小広場)が一体になっています。広場の片隅に車庫が一棟その横に三台の駐車スペースがあり、ここに彼は車を停めました。広場に面した家の半分くらいはピンクに塗られ、車庫も同じ色です。彼の家は白、ピンクと白の間はグレーですが玄関とは別にグリーンに塗られた車庫か倉庫の両開きのドアーがアーチ状を成して壁面ぴったりはめ込まれています。どうやらピンク・グレー・白と三世帯がこの広場を共有しているようです。田園風景とは全く関係ない、古い宿場の商工業区画、そんなイメージを想像してください(実はその通りなのですが)。
 “Vine Cottage”と書いた楕円形の銘板が玄関入口左側に貼り付けてあります。他の家も“XX Cottage”とあります。これが正式な住所なのです。玄関の左右には縦長の窓、窓の下は小さな花壇になっていて花々がきれいに咲いています。玄関入口の左右、花壇との間には飾り物や鉢を置く石の台があり、右側の台には半球状の石の表面に“赤い竜”が彫られた置物。「これが我が家のシンボルさ」「???」。玄関の扉は薄茶色の木製で、かなり年季が入っています。取り出した鍵も大きなものでした。さあ、初めての英国人住宅訪問です。
 玄関の先にもう一つドアーあるタウンハウス風では無く、いきなり玄関ホールです。左側は二階へ上がる階段、右は通路でその先は二手に分かれます。右手がSitting Room(居間+客間)、このSitting Roomは広場に面する部分と裏庭(本庭)に面する二つに分かれますが一部屋としても使えます。両方ともソファー、テーブル、暖炉などがあり、最初は広場側の部屋に案内されました。大きな液晶テレビが一角を占めています。「ここで寛いでいてくれ。紅茶?コーヒー?」「もちろん紅茶を」。彼は玄関から入って左側のキッチンに消えました。部屋全体にクリーム色ですが薄暗い感じです。意外と天井が低く、照明は四隅にキャンドル風の小さなものだけ。今は点灯されていません。ソファーに座り広場の側を見ると、低い位置まで開口部のある窓の外の花壇の草花が、室内の暗さと微妙なコントラストをなし映えます。部屋の壁には家族の写真と趣味の良い絵が何枚か掛けられています。立ち上がってそれらを眺めていると、スケッチに水彩を施したすっきりした感じの風景画が何枚かあります。嘗て贈られた石版画と雰囲気が似ています。あとで分かったことですが、水彩画は全てAvrilの作品だったのです。多分あの石版画も彼女が選んでくれた物でしょう。
 ジェフがキッチンから戻り「ちょっと庭を見るか?」と。庭側の居間にはフランス窓がありそこから庭に出ます。庭の位置は居間より高く、石段を2段ほど上がります。さすがに広い!中央は芝生ですが周辺部には花々、芝生の中に未だ植えて間もないリンゴの木とスモモのような木があります。両方ともホンの1m位の高さですがいくつか青い実をつけています。庭の奥には池があり、コイと金魚が泳いでいます。庭の奥両隅には小さな小屋があり、庭いじりの道具が納められているのでしょう。隣家との境界は石積みの塀になっています。いわゆるイングリッシュガーデンで、けばけばしさや堅苦しさが無く好ましく感じられました。
 部屋に戻り、ジェフの淹れてくれた紅茶とケーキを味わいながら、あらためてフランス窓を通して見た庭は、先に行くほど緩やかに高さを増していくので、濃い芝生の緑と花々の色、周辺の草葉の緑がクリーム色の壁をキャンバスにバランスよく配された一遍の風景画になっています。ふと天井を見ると中央に四つの受け皿を十字の先に持ったランプがありました。どうなっているのか見ようと立ち上がる私に、「それはオイルを入れて灯すんだよ」「この家は200年以上経っているのでその雰囲気を残したかったんだ」「200年!(私の家に関する価値基準を一喝された瞬間です)」
 「さあ、家の中を案内しよう」 玄関から入って突き当たりを左に行くとダイニングキッチンがあります。ここは全く古さを感じさせない近代的なつくりです。いすは6人分、庭に面する側も反対側も調理台でその下は収納部、玄関側の壁には大型のレンジなどが据え付けられています。ここを抜けるとまた部屋があります。「ウーン、何て言ったらいいかな?我われは“ユーティリティ”と言っているんだけどね」広場から庭に至る細長い部屋でその間を貫通する通路と並行して外側に作業台・流し・大型冷蔵庫・ボイラーそしてトイレまであります。庭側の先はΓ形になり、ここから庭に出入りするようになっています。汚れ仕事は、生活空間を通らずこの部屋経由で出来るようになっているのです。流しがあるので「ここで台所仕事も出来るのか?」と問うと、「いやいや、これは作業用の流し。クッキング用は別にあるさ」とキッチンに戻ります。それは庭に面した調理台にありました。その調理台の中央に来た時、庭に面した窓から見た光景は居間から見た景色を更に上回る見事なものでした。最大の理由は窓が、立った目の位置を中心に、横長に切られているからです。居間のソファーからではフランス窓の下部から庭への階段部分が目に入り庭だけを切り出せないからです。窓からの美しい眺めに、「ジェフ、Avrilはここからの庭を気に入っていたろうね?」と問いたくなりましたが、「そうだったんだ」と言う答えが恐く、黙って次の部屋に移りました。そこは玄関ホールの階段下から入る部屋で窓は広場側にあります。全体に部屋の雰囲気は重々しく、絵画や壁掛けも居間に比べ凝った物が壁面を飾っています。「この部屋は特別な部屋で、少しフォーマルな来客があったときのダイニングなんだよ」暖炉があり、四人用テーブル・椅子も重厚なつくりです。二階は三つの寝室と共用のバスルームです。このバスルームは階段を上がった所にあり、窓は庭に面しています。ドアーの配置から少なくとも二つの寝室からは庭を見下ろせるはずです。手作りのイングリッシュガーデン、200年を経た建物こそ、二人だけの生活に戻ったジェフ夫妻の理想郷だったのです。(つづく)

2008年11月1日土曜日

滞英記-号外(大雨水害体験記)

2007年7月22日

 17日(火)から20日(金)の予定でイギリス人唯一の友人(カリフォルニア大学バークレー校MBAの同級生;Geoff Loydon;ジェフ)を訪ねてブリストルとそこから近い、有名な田園地帯;コッツウォルズに出かけてきました。ジェフのこと、ブリストルのこと、コッツウォルズについては他日ご報告することにして、19日(木)から21(土)にかけて私が体験した、ウェールズ、イギリス西部にかけて大きな被害をもたらした水害について、その概要をご報告します。本日もこれがBBC全国版ニュースのトップです。

1)豪雨の中を迷走 初めの予定は17日から20日までブリストルに滞在し、19日一日レンタカーを借りて、コッツウォルズの南部を観光、20日はブリストルで列車の出発時間(15時半)まで適当に時間つぶしをする予定にしていました。しかし、ジェフから19日コッツウォルズに泊まり20日ユックリそこからブリストルに帰る案を勧められました。それに賛意を示すと直ぐさま、コッツウォルズ地帯のやや南東に位置するバフォードと言う町の、14世紀から続く小さな旅籠(The Rams Inn)を予約してくれました。
 17日午後、18日一日は彼の車で、ブリストル市内やバース(温泉地)を案内してもらい、18日夕食時には、翌日からのドライブの道案内を息子共々してくれ、「明日も今日同様いい天気、しかし明後日は雨と予報で言っているから、明日出来るだけ外で観光する所を見て、明後日は邸宅や博物館など見るようしたらいい」と助言してくれました。こちらも実は20日は期するところがあり、この助言はぴったりでした。
 19日は朝からいい天気です。北のランカスターから来ると暑さだけでなく湿気も感じる日本の夏の陽気です。ホテルに早朝来てくれたのは、市中にあるレンタカー会社のオフィスからラッシュの街中を抜け高速M5に出るための道案内をしてくれるためです。借りた車は今までよりもひと回り小さい、スモールクラスのフォード・フィエスタ(マツダ・デミオとシャーシは同じ、マニュアル車)、インターチェンジへのラウンドアバウトでUターンして帰る彼と別れて、強さを増す日差しの中をコッツウォルズへと向かいました。例によって、早めに高速とはおさらば、A, Bに入り、ブロードウェイ、チッピングカムデン、モートン・イン・マーシュ、バートン・オン・ザ・ウォータ、バイブリーなど日本人の好きな名所を一覧してバフォードへ。夕食までの時間街を一巡してロビーで休んでいると、にわか雨が激しく降り出し、老夫婦がずぶ濡れでチェックインしてきました。これがこれから始まる豪雨の序曲でした。
 翌朝、ベッドも床も軋む部屋で目を覚まし、外を見るとしとしと雨が降っています。ある程度予測していたし、それほど強い降りでもありません。ブレナム宮殿(18世紀に建てられたマールボロー公爵の宮殿;チャーチル生誕の地;これを見るのがこの地方へ来たかった第一の理由;私にとっては聖地巡礼です)の公開時間は10時半から、バフォードからはA40→A4095で1時間もかからない距離です。少し早いとは思いつつ、9時過ぎ出発、走るにつれて雨脚が強まってきます。車とは行き交うが街中でも人の姿は殆ど見かけません。この辺りには牧草地は無く大きな木が道路に被さるよう茂っている。雨で暗い所へこれだからライトを点灯して走らなければ先がよく見えません。空はますます暗くなってきます。
 宮殿を示す道標にそって進んでいくと、突然前が開け、幅広い門の遥か彼方に薄茶の巨大な宮殿の外壁と内門が見えてきます。その前は広々とした芝生が左右に広がっています。外門を入っていしばらく行った道路の真ん中に高速道路の料金所のようなものがあり、ここで入場料を払うと、芝生の中にある駐車場所を指示されます。ここから内門までの距離のあること!門に着いたら膝から下はびしょびしょの状態。2時間かけて内部を観て外へ出ると、雨は更に激しく降っています。ブリストルまでの帰路、他にも見所(是非訪れたかったのはチャーチルの墓所)はあるのですが先が心配です。ブリストルに直行しよう。昨日の走りから考えれば距離も短いから、余裕を見ても2時間あれば着くだろう。
 昨晩、宮殿までと帰路のルートを三つに分けてそれぞれをA4用紙に纏めておきました。一つはバフォードから宮殿まで、他の二つは宮殿からブリストルまで。近道をするか、来る時知った道を出来るだけ多用するか?実はこれ以外に出来だけ高速を使う案も検討しておきましたが、日頃これは避けてきた案なので早い段階で没にしていたのです(これが後で悔やまれることになるのですが)。
 結局宮殿を出る時選んだ案は、“知っている道”多用案にしました。宮殿を出てしばらく走り燃料計を見ると半分を少し欠けるところ、まだ100マイル位は十分走れます。順調に行けばブリストルまで問題ありません。満タン返しが原則ですから、中途半端に給油するより最後に一回だけ終わらせたい、と言う気持ちでいましたが、“雨の中で何かあったら!”との不安がよぎりスタンドに寄り、帰路の方向確認もしました。時々行き交うトラックが撥ねあげるしぶきで一瞬前が見えなくなります。しばらくA4095をバフォードに向かい戻っていると、普段と違い車が連なってきました。スピ-ドも落ちています。反対車線もノロノロとやってきます。“何だろう?来る時には何も無かったはずなのに” とにかく前車をフォローしてユックリ走っていると、街中の渋滞のように止まっては動きまた止まる、と言うような状態になってきました。直前は乗用車でしたが、その先はバスのような車が走っており先の様子が分かりません。道路の水嵩が少し多いな!バスが動いたのに前の小型車は直後を追随しません。そこで見えたのは、まるでウォーターシュートのように水を跳ね上げながら、少しでも浅そうな所を探して右往左往する車の群れです。団子になって動き回る車の中にいるうちに、どこかで道を間違えたらしい。どうも景色が違う。こうなったときの私の原則は“分かる所まで戻る”です。天気がよく方向感覚が確かな時はほぼこれで問題解決です。しかし、このやり方は激しい雨、暗いところでは時間がかかるし方向転換もままなりません。だんだん自分が何処にいるのかが分からなくなってきます。停めて確認したくても場所もありません。焦りもあって判断力が衰えてきます。作成した図面に417とあるのを419と間違えたり、間違えに気がついても“書き写した時に間違えたに違いない”と自分を納得させてしまったり、孤立すると怖いのでつい他力本願になる結果、ますます悪循環に落ち入ります。
 3桁のA道路や4桁のB道路が楽しいのは天気がまずまずの時です。このクラスの道は道路の仕上げが悪く(特に路肩部分)、排水環境が最悪なのに気がついたのは悪戦苦闘し始めてからです。そこ彼処で動けなくなった車を見かけるようになります。床から水が浸入してくるんじゃないか?路肩を踏み外すんじゃないか?ああなったらどうしよう?喉はカラカラです。二つだけ希望を繋ぎ止めているのは満タン状態のガソリンと比較的近い距離にブリストルに至るM4とそこへ繋がるAの3桁道路が何本か走っていることです。やがてM4を示す標識が出てきました。そしてM4らしき道に入りました。M4と思って走っているとどうもブリストルとは逆行しているような名前が出てきます。心配になり、次のインターチェンジで降りてラウンドアバウトをUターンする方向に車を向けますが、M4と思しき道と併走するだけで、本道に乗れません。パーキングスペースがあったのでそこで地図を確認すると、M4と思っていたものは、高速仕様の一般道路でM4への導入道路だったのです。従ってブリストルと逆方向の町の名前も出てきていたのです。再びこの導入道路に戻ると、こんどはここも排水不良の箇所が出来ていて車線が絞られノロノロ状態です。こんな時はこちら側だけでなく反対車線も同じような状態です。この導入道路の難所を過ぎてM4に取り付いたのは3時少し前、宮殿を出てから2時間以上過ぎています。高速道路の速度規制は50マイル。完全に3時半発の列車に乗れないのは明らかです。しかし、5時半に北へ向かう列車があることを調べてあったので、これには十分間に合そうです。ブリストルへ近づくに従い雨も小降りになってきました。最後の難所は市内中心部ですが雨は止んでいます。しかもここは準備と読みがぴったり当たり、レンタカー事務所に難なく帰着できました。“地獄からの生還”でした。

2)列車全面運行停止 レンターカーオフィス近くのタクシー乗り場からブリストルの中央駅、テンプルミード駅に向かい、やれやれあとは列車に乗るだけ。長旅なので座席指定券を買うため、Today’s Ticketの行列に並び、やがて順番が来ました。「3時の指定に乗れなかったので、5時の指定券を下さい」と言うと、「Sorry! 今日の指定券はありません」「エッ!?もうフルブッキングですか?」、「いえ。今日は列車運行全面停止です。Floodingでどの線も運行していないのです。明日の指定券なら買えますが・・・」「・・・いえ結構」。
 あの豪雨は、私が走った地域の局地的なものではなかったのです。ウェールズからロンドン近郊まで至る広い範囲で被害をもたらしていたのです。
 出札口を離れ考えたのは、当然ですが、“これからどうするか?”です。先ず、考えられるのはジェフに連絡することです。電話をすれば「うちへ来て泊まれよ。部屋はいくらでもあるんだから(彼は男やもめ)」と返事が返ってくるのは間違えありません。しかし、この二日間彼には世話になりっぱなしです。好意に甘えず“先ず、自分で何とかしてみよう”。幸い、ブリストル滞在中彼に用意してもらったホテルの電話番号がわかっていたので当たってみると“部屋はある”という返事。ホテルの所在地が市中を離れ彼の家との中間点、クリフトンと言う住宅地が始まる地域にあったのが幸いしたのでしょう。とにかくタクシーで駆けつけました。豪雨の中の運転、駅での予期せぬ出来事。重い食事をする意欲はありません。前の滞在中ジェフと近くのパブに出かけた時、コンビニがあるのを思い出し、サンドウィッチと壜ビール(ビター;英国では先ず缶の一本売りはない)とポテトチップを買い、これとホテルが用意してくれた果物で夕食にすることにしました。
 風呂を浴びて、やっとこの難儀な一日のストレスを洗い流し、TVのスウィッチを入れると、何と走って来た一帯(M4やその沿線、特に私がM4にのったスウィンドン)やテンプルミード駅からのライブ映像が出てきています。次いで動けなくなった車や、冠水した線路が映し出されました。BBCは洪水情報の特集を流しているのです。各所で道路が寸断されていること、鉄道も全面的に止まっていること、空港も混乱していること、軍が救助活動に動き出していることなどを報じています。昨日今日と走り回った小さな村々の雨量などが出てきます。殆ど100ミリを超えています。よく聞いていると“Five inches(約125cm)を超えた”などと言っています。大変な所を大変な時間帯、迷走したしていたわけです。あらためて無事帰り着いた幸運を実感した次第です。
 9時頃ジェフに電話しました。この時間なら彼が私のために動き回ることはないだろうと思ったのと、少なくとも無事であることを伝えるためです。「無事でよかった!ランカスターへ帰り着いたら必ずメールしてくれ。Good night」夜が深まると“大都市のホテルはどこもフルブッキング(満室)”とも報じています。交通評論家のような人が何度も登場し、明日も道路・鉄道・空路(空港)の混乱は続くので、不要の旅行を控えるよう警告しています。夏休みの週末、明日はどうなるか?ブリストルからランカスターへの直行列車は7時26分が初発、次が9時26分。明日の朝の計画をどうするか?現状から考えると順調に運行される可能性は低い。初発は見送り、朝食を確り食べて駅に向かうことにして就寝しました。

3)Long Way
 翌日は土曜日、6時前に起床。空は明るく一部青空が見える。TVを入れると、交通機関の状況は昨晩とあまり変わりありません(ライブで酷い状況がさらに確認できるだけ)。鉄道はエンジニアリングワークがあり殆どダイヤ通り運行されていない、道路は自動車置き場に変じている、と報じています。土曜日なので朝食時間は8時から、フロントに8時45分タクシーが来るよう頼み、イングリッシュブレックファースト(卵やベーコン、ハムなどが供せられる)で確り腹ごしらえをしてチェックアウトしました。チェックアウトの際、「今日も交通機関は正常に動いていないようだから、今晩も泊まることになるかもしれない。電話をするからその時はよろしくね!」と頼むと、「今晩はフルブッキングです。キャンセル待ちになります」との返事。退路を絶たれて駅へ向かう。
 駅に着き到着・出発表示板を見ると、案の定直行便は出ていない。出ているのは近距離列車のみ。駅員が数人旅客対応に当たっている。乗車券を見せながら「ランカスターに行きたいんだが・・・」と言うと、「今日はLong Wayになりますね」との答え。「先ず、ここからロンドン・パディングトン駅へ出てください。そこから地下鉄でキングズクロス駅に行き、キングズクロス駅からGNERと言う鉄道会社の便で北へ向かってください。北へはこの便しかありません」「GNERにランカスター行きがあるんですか?(あるはずが無いと確信した上で)、ユーストン駅へ出てヴァージンで帰れませんか?」、「北行きは全てGNERです!」(次の客の対応に移る)。
 ロンドンに出ることが解決策に繋がるのは、6月のロンドン行きの経験から納得できる。取り敢えずここを脱してロンドンに向かおう。時間は9時、丁度9時半発の列車がホームに入っている。プライオリティシート(ハンディキャップ、老人用)だが席が取れる。隣のおじさんに「(時々車両が切り離され別の方向に行く列車があるので)この車両はパディングトンへ行きますか?」と聞くと、「(にやっとしながら)I hope so」と返事が返る。遠距離はパディングトン行きが唯一の選択肢、どんどん乗り込んでくる。お盆のラッシュアワーが再現される。時間間際に来た人は乗れない。無理に乗ろうとする人を駅員が制止する。怒号が飛び交う。日本のトラブル時と変わらない。列車は4分遅れで動き出す。乗車口の方から無理をしながら高齢のおばあさんとその保護者と思しき人が中に落ち着こうと進んでくる。若い男がスーッと席を譲る、隣の若い男も保護者のおばさんに席を譲る。思わず涙が出そうになった光景です。隣のおじさんに「英国の若者は親切ですね!」と話しかけると、「若者の悪さがいろいろ言われるが、彼らは親切だね。ところで英国は好きかね?」「大好きです。天気を除いてね!」「その通りだ!」。
 到着駅のパディングトンは初めての駅です。大きな駅だけに混乱も大規模。何処で何をしたらいいか?一番確認したいことはユーストン駅からヴァージンの北行きが運行されているかどうかです。案内に当たる駅員とやっと話が出来る順番が来たのでそれを問うと、「手元の乗車券は地下鉄で何処へでもいけます。ユーストン駅で聞いてください」、これで私への対応は終わりです。幸い前回のロンドン訪問で地下鉄は慣れている。高い料金も今回は関係なし!ここで一発勝負することにしました。地下鉄でキングズクロスへ出る方が簡単で早いのですが、ブリストル駅でのアドバイスを後回しにし、ユーストン駅に行きヴァージンの北行きを確かめ、ダメならキングズクロスにすることにしました。ロンドンの地下鉄銀座駅とも言えるオックスフォード・サーカスで乗り換えユーストン駅に着くと、ここも大混雑です。しかし、何処に何があるかわかっているので直ぐに巨大な到着・出発案内板のあるホールに向かいました。ロンドン訪問時と違いホールは人でいっぱい。みなそれを見上げています。何とか前のほうに出て案内板を左から(一番左が直近発着)見てゆく。北行き、知った駅名はないか?あった!行き先Carlisle(カーライルと発音する;イングランド北辺の町の名)が!Calling at(停車駅名)にはLancasterが!何時発だ?12:35。今何時だ?12:30。間もなく出発だ!プラットフォームは?“Preparing(準備中)”!!!??? やはりダメか?! するとここに“7”が表示される。ホールに一瞬どよめき。群集が動き出だす。私も7番を目指す。湖水地帯に向かうバックパッカーの若者たちが走る。僕も負けずに走る!皆知っているんだ!ホールに近い方はファーストクラス、自由席は先の車両だと。いつの間にかトップを走っている。誰かが笑っている。よほど滑稽なのだろう、小さな東アジア人の老人が必死で走っている姿が。
 列車は定刻通りに発車しました。4人掛けのシートの一隅に席を決める際、前にいる若者(“Trust me! I am a doctor”と描いたTシャツを着ていた)にここがノンリザーブかどうかを確認した(通常はリザーブ席には何らかの表示があるが今日はそれが見当たらない。しかし乗客の動きを見ているとどうもリザーブしている人がいるようなので)。「ノンリザーブだと思うよ(実はラグビーから3人連れの家族が乗ってくるのだが、その頃には空席も出ているので問題なし)」。売店で求めた缶ビール(500mlのラガーがあった)とサンドウィッチで、1日半かけた“Long Way”のエンドランを仕上げました。

 このレポートを自宅TVの前で書いています。BBCは今日も朝から“洪水”特集です。ブラウン首相全面的支援を約しています。軍隊が動員され救助活動が行われています。依然として水の引かない道路には自動車があちこちを向いて水没しています。ここ数年英国は年々異常気象現象が酷くなってきているとも。

 異国で体験した異常事態をセミライブでお届けします。

以上