2008年11月18日火曜日

篤きイタリア-1

1.イタリアへ行こう
<募る思い> シルバーノとの長年のクリスマスカード・年賀状のやり取り、3年前ひょっこり横河本社で会ったマウロとの会話「イタリアに戻った。フェラーリは5台になった」、昨年の滞英生活で知った英国人のイタリア文化と歴史に対する敬意・憧憬、それに塩野七生の「ローマ人の物語」。イタリアへの思いは募った。
 一方で、欧州大陸へほとんど出かけたことの無い不安が反力としてはたらく。38年前セーヌ河口ポート・ジェロームの石油化学工場へ出張した時の道中英語の全く通じない世界。パリの街を散歩中ジプシーの子供に突然取り囲まれた恐怖。シルバーノも手紙で「ヨーロッパを楽しみたければ、英語以外のヨーロッパ語をモノにしてくることを薦めるよ」とあったが何も出来ていない。殺人のような残虐な犯罪はアメリカに多いが、スリ・かっぱらいの被害は欧州訪問者に嫌と言うほど聞かされる。
 友人たちと会うのが第一目的だから自由な旅にしたい。しかし言葉の問題をどう克服するか?安全をどう確保するか?パック旅行は言葉と安全に関しては問題ないものの、自由な行動は殆ど不可能で今度の旅には全く向かない。欧州旅行に経験のある友人・知人(米国人を含む)に助言を求めるとともに、イタリア紀行の本などにも目を通した。一番頼りになるのは大学時代の親友Mである。彼は長いアメリカ勤務の後、引退後イタリアに入れ込んで夫婦でイタリア語会話も確り学んでいる。二人は大学の混声合唱団の仲間、イタリア行きは音楽を楽しむことにある。彼の地で痛い目にもあっている。経験豊かな彼との会話からの結論は、英語で何とかなりそうだ、そして安全はそれなりの準備・対策を、である。
 8月初旬から計画を具体的に詰め始めた。先ずイタリアの友人たちへのメール連絡とスケジュール調整。訪問候補地選択、イタリア国内移動とフライトの調整、現地旅行社(日本人向け)との接触・見積り依頼。最終的に入手可能な航空券の都合から、10月3日成田発・ミラノ行き、10月14日ローマ発・成田行き(15日到着)で全体スケジュールが決まった。宿泊地は、ミラノに3泊(この間にマウロを訪ねる)、ヴィチェンツァに2泊(この町はシルバーノの住むサンドリーゴに近い)、ヴェネツィアに2泊、フィレンツェに2泊そしてローマに2泊と割り振った。友人を訪ねるほかは定番の観光旅行。国内移動はすべて鉄道とした。
 友人達は自宅に泊まるよう勧めてくれたが、マウロはアメリカ人の前夫人と離婚し今は独り者(の筈)、シルバーノは偶々この時期コロンビア人の夫人は帰省中、二人の娘も遠隔地の大学にいる。男の一人所帯に転がり込むことは、自分がその立場にあったらとても出来ることではない。好意を傷つけぬよう丁重に断った。
 この間にも、現地旅行社や友人たちと細かい調整を行い、10月3日快晴の中アリタリア航空7787便は定刻に成田を飛び立った。この便はJALとのコード・シェアー便で運行主体はJAL、乗員も乗客も日本人がほとんどで、外国旅行の気分が無いまま12時間のフライトが続いた。
<ソンブレロの男>
 シルバーノとの最初の出会いは、1979年6月ニューヨーク郊外、ライタウンのヒルトンで3日間開催されたExxonのTCC(Technical Computing Conference;ワールドワイドな技術分野のコンピュータ利用発表年会)である。世界中のエクソンから200名を超える参加者が集まり、彼も私もこのメンバーの中に居た。私はこの時、川崎工場のシステム技術課長であると伴に工場全体の生産管理システム構築のプロジェクトリーダーであった。この会議への参加目的は、そのプロジェクトを紹介することである。最初の渡米から9年を経て、それなりに経験を積み地位も上がっていたが、これだけの国際会議で発表するだけの語学力も度胸も無かった。原稿を読み上げるような発表が終わったとき、何とかできたという安堵感と思い通りに話せなかったことに対する苛立ちで複雑な思いにかられていた。休憩時間、そんな私のところへ幅広の帽子を持ち鼻の下に立派な髭を蓄えた男がやってきて「良い発表だった。英語が上手いな」と声をかけてきた。これがシルバーノとの出会いである。実はこの男の存在はホテルにチェックインした日から気が付いていた。ロビーを徘徊する、チョッと米国人やヨーロッパ人とは雰囲気の異なる風体;幅広帽は西部劇でおなじみのテンガロンハットと異なり山の部分が丸みを帯びている。南米の牧童(ガウチョ)が被るソンブレロのようだ。靴はズボンの裾に隠れているものの乗馬用のブーツ風。髭の整え方がやや大時代的(少し左右に捻ってある)、なのである。これは後でわかることなのだが、彼はスペイン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語が出来るのだが、この中では英語に一番自信が無く、この会議でほとんど誰とも話をしていなかったらしい。英語の下手な私に声をかけることで、やっと孤独から開放されたようである。それ以来会議が終わるまで食事や休憩時間に話しかけてくるようになった。聞けば、ヴェネズエラ人で元々家族はイタリアから移民したのだと言う。今回会うまで彼がExxonヴェネズエラ(ラーゴオイル)から参加していたと長く信じていたが、実際はヴェネズエラ国営石油に所属し、Exxonの招待でこの会議に参加していたことが分かった。
 その年の暮れ、彼からクリスマスカードが届いた。こちらも版画の年賀状を送ってそれに応えた。旅先のアイスランドから絵葉書を送ってきたこともある。確か1981年の春だったと思うが、彼から結婚式への招待状が届いた。とてもヴェネズエラまで出かけることは出来ないので、お祝いの手紙を送った。結婚相手はコロンビア人のマリアと言う女性、現在の奥さんである。結婚後しばらくして、長女の誕生と石油会社を辞め奥さんの実家(コロンビアのメデジン)で牧畜業に従事しているとの便りが届いた。さらに数年後「コロンビア(この時期麻薬のメデジンカルテルが跋扈していた)は娘の教育に良くないので、南ア連邦のプレトリアに移った」との便りが届く。
 そして1992年の早春「プレトリアから父の出身地イタリアに戻り、次の仕事を始めるまでの間日本と南洋(ナウルだったと記憶する)を訪問するので、適当な宿泊先を探して欲しい。また日本に行ったら是非亀戸天神に行きたい」との知らせが届く。その年は丁度長女の大学受験、我が家も人並みにカリカリした雰囲気でとても外国人を泊められるような状態ではない。幸い会社が御殿山ラフォーレホテルの一室をキープしており、この期間は空いていたのでここを手当てした。成田に迎えに出た私の前に13年前と変わらぬ立派な髭と人懐っこい彼が現れた。それから3日間、鎌倉・江ノ島、念願の亀戸天神などを案内し、寿司やうどんすきでもてなした。
 イタリアに落ち着いた彼は森林業に関係する仕事しながら、政治活動に力が入っているようだった。特に“PADANIA”と呼ばれる北部イタリア地域の独自性を守る運動に積極的に関わっている様子をクリスマスカードに添えた手紙で伝えてきた。“民族と土着宗教”が彼の関心事であり、日本訪問時にアイヌに関する知識を披瀝したり、亀戸天神訪問を望んだりしたのもそれと深く関わっている。今回の訪伊で、複数のイタリア人から異民族流入に不安を訴える心情を聞かされたことも、彼の活動の動機付けなっているようだ。
<赤いフェラーリ> IBMのスーパープログラマー、マウロの名前を知ったのは1980年である。ERE(Exxon Research & Engineering)に次世代プロセスコンピュータシステム開発のため長期出張していた同僚・部下たちの報告書に頻繁に現れる彼は、難問を次から次へと解決していく。イタリア人であるがその才能を見込まれ米国IBMに転出しており、プログラム同様英語も達者だという。
 その天才と始めて会ったのは、入社以来19年の工場勤務の後初の本社勤務となり、このプロジェクトの主管部門の課長になったときである。1981年東京にやってきた彼との初対面はこちらが管理職と言うこともあり、極めて儀礼的なものであった。しかし、夜の懇親会で彼が無類の車好きであることを知り、同好の士として一気に親しみが増した。翌1982年秋EREに出張した私はここを拠点に仕事をしていたマウロと再会し、ディナーの招待を受けた。当時ニュージャージに在ったEREへ通うため、パシッパニーという町のホリデー・インに滞在していた私を夕刻迎えに来てくれた彼の車を見て驚いた。何と真っ赤なフェラーリではないか!「夕食までには時間がある。少しドライブしよう」とルート10をあの独特の甲高い爆音を轟かせながら30分ほど走ってくれた。聞けばこれ以外に2台のフェラーリをレストア中とのこと。天才プログラマーは、天才メカニックでもあったのだ。その夜近隣では比較的大きな町モーリスタウンで、知的で可愛い夫人のジャネット共々ご馳走になったのは鹿肉料理。今にして思えば、ヨーロッパで秋に好まれるジビエ(野鳥・野獣)料理の趣であった。
 その後も東京で、ニュージャージで何度か彼と会ったり食事をしたりした。私との会話はプログラムの話は無し、専ら車談義である。3年前三鷹で会った時、IBMを退職し自分の会社を立ち上げたこと、ジャネットとは残念ながら離婚したこと、そして母親の遺産を相続してイタリアへ生活の拠点を移したことを聞かされた。「それであの3台のフェラーリはどうなったんだい?」と聞いたところ「今は5台保有しているよ」との答えが返ってきた。「エッ!5台?(新車なら2億円くらい)」
 「君の素晴らしい5人娘に会いたい」訪伊計画を知らせるメールにそう書いた。「ミラノ空港まで車で迎えに行く。是非我が家に泊まってくれ。居たいだけ居てくれて良いんだよ」篤い返事が直ぐに届いた。事前調整ではミラノ滞在の中日、10月5日朝ホテルに迎えに来てもらい、その日一日を彼の在所、マネルビオで過ごし夕刻ミラノまで送ってもらうことになっていた。グーグルマップで彼の自宅を調べた時「チョッとミラノまで車での送迎は距離があるな」と感じていた。
<ミラノでの異変>
 ミラノへの飛行ルートは、成田から新潟に出てそこから北上しナホトカを経てシベリアに入る。ここからシベリアを横断してほぼモスクワを目指す感じである。2003年から5年にかけてロシア出張で頻繁に利用した空路である。モスクワのやや南をかすめ、ラトビア辺りでバルト海に達しここで南に進路を変え、デンマーク、ドイツの上空を通過する。スイスアルプスはさすがに高く、下界の夕闇の中にその山容が迫る。ここを過ぎると暮明の残る中、機は高度を下げロンバルディア平原の北西隅にある、ミラノ・マルペンサ空港に予定よりも20分も早く到着した。入国審査では、同時に着いたアジアからの到着便でインド系、中国系などの外国人と同じラインに並んでいたが、混雑してくると「ジャポネはこちらへ」と、イタリア人・EU市民の窓口へ案内された。空港には現地旅行会社(マックス・ハーベスト・インターナショナル;以後MHIと略す)が手配した、英語を話せる運転手が出迎えてくれた。車は黒塗りのベンツEクラス、運転手は車好き、前週のシンガポールF1グランプリ、翌週の日本グランプリで盛り上がる。上々の滑り出しだ。30分チョッとのドライブで、ミラノ中心部ドォーモ(地区司祭のいる教会)近くのスパダリという名のホテルに着いた。個人旅行者向けの目立たぬ造りが好ましい。
 カウンターだけのフロントで来意を告げると、「マウロさんご存知ですね?先ほど電話がありました。到着次第電話をいただきたいとのことでした」 こんなやり取りとチェックイン手続きのバタバタする中で、ボーイへのチップ用に10ユーロ紙幣をコインに崩してもらった。
 荷物運びをボーイに頼み、部屋に入ると直ぐに持参した携帯でマウロに電話した(ヨーロッパではホテルからかける電話は法外の値段になると聞いていたので)。「成田からの飛行はどうだった?」「まあまあだったよ」「少し疲れているようだね。ところで5日の予定なんだが、夕方6時から外せない用事が入ったんだ。予定を変更して明日4日午前の市内観光が済んだら、列車でこちらへ来てその晩は我が家に泊まり、5日午後ランチを済ませてミラノへ戻ることにして欲しい」「ウーン、明日の観光の予定はスケジュールがはっきりしてないし、いきなり最寄り駅へ辿り着けるかどうかチョッと心配だなー」「大丈夫!ブレーシアはミラノ発のユーロスターやインターシティが最初に停まる駅だし便も頻繁にある。翌日ホテルを発つ前にフロントから電話してくれ。スタッフと話をして、来られるように手筈するから」 不安を抱えつつOKする。まだ9時少し前、頑張ってライトアップされたドォーモやそれに連なるガレリアなどを散策、ホテルに戻り荷物を解き、貴重品を机の上に並べる、コインを数えると6ユーロしかない。ボーイにやったチップは2ユーロ、外で買い物はしていない。考えてみるとフロントでの両替以外ない!あの有名なつり銭・両替詐欺である。感じの良い若いスタッフだったがせこい奴だ!しかし初日に体験してあとのためには良かったかもしれぬと慰めた。

2.マネルビオの二日間 4日の市内観光は、英語理解者グループ主体に日本人7名が加わる構成で、在伊14年のKさんと言うベテラン日本人ガイドが同行してくれた。スフォルツァ城→最後の晩餐→スカラ座→ガレリア(天井の高いアーケード商店街;プラダの本店もここにある)→ドォーモと定番コースを巡ってここで解散となった。この道中MHIのスタッフTさん(女性)からKさん経由で電話が入ったので、急なブレーシア行きのことを話したところ該当時間帯の列車ダイヤ連絡があった。ツアー解散後Kさんにホテルのロビーまで同行してもらい、ミラノ中央駅までの行き方(地下鉄の乗り方)、列車の切符の買い方などを丁寧に教授してもらった(イタリア語で、所望の切符を頼む文章を書いてもらう)。
 部屋へ戻り一泊旅行の準備をしてマウロに電話する。「駅までの行き方、列車の切符の買い方、乗れる可能性のある2本の列車の発車時間がわかった。駅で切符を買ったらもう一度電話する」と伝え、フロントで地下鉄ルートを確認して中央駅に向かう。ドォーモ駅は2本の地下鉄が交差するので要注意だが、切符を買ったキオスク(イタリアでは地下鉄の切符はキオスクか自動販売機で買う)で確認し無事中央駅に着く。中央駅は現在改築中で日本のガイドブックとは異なる所にチケットカウンターがあるが、これはKさんが事前に知らせてくれていた。多くの人は自動販売機で切符を買っているがとても自信が無いのでカウンターに並んで求めることにした。Kさんが書いてくれたメモ(これに2本の当該列車の出発時間を書き足した)を見せると、英語で「今日のですね?クラスは?」ときたので「セコンド(普通車)」と答えると、早い方の列車を発券し番線を教えてくれた(これ全て英語)。ホームから最終連絡をマウロにする。列車はユーロスター(新幹線のような電車型)ではなくインターシティ、電気機関車が牽引するタイプである。座席指定だったのでそこへ行くと4人掛けボックスシートにチャンと空席があり、窓側は二人の外国人だった(あとで分かったことは、彼らはブラジルの航空会社乗組員でヴェネツィアへ出かけるところだった)。イタリアで始めて乗る列車は定刻に中央駅を発車し、明るい午後の日差しの中、平原を東に向けて疾走する。検札に来た車掌に次の停車駅がブレーシアであることを英語で確認する。38年前のフランスとは大違いだ。
<黒いフェラーリ> ミラノ中央駅からのマウロとの電話では「駅前は駐車が難しいので大通りを真っ直ぐ100メーターほど歩いて欲しい」とのことだった。駅舎の前で大通りを確認していると直ぐ傍に彼が居た。「How are you?ようこそイタリアへ!」 駅舎に並行する通りの向こうに黒いフェラーリが停めてある。どうやら駐車スペースを確保できたらしい。「あれだよ!」と私の旅行かばんを取り上げてそちらに向かっていく。今回は当方に連れがいるので、後ろに補助席のある456GTである。
 ブレーシアはロンバルディア州ではミラノに次ぐ第二の都会だが規模は比較にならず、南に進路をとると直に商業施設、中小規模の工場と住居らしきものが混在する郊外そして収穫の終わった田園風景に変わってゆく。彼の住む町、マネルビオはここから南へ約20Km、バイオリン製作で有名なクレモナは、更に南へ20Km下った先になるので時々道路標識に“Cremona”が現れる。アウトストラーダ(高速道路)を使わず、一般道を走ってくれるのが嬉しい。やがて車はマネルビオの街中に達し狭い街路をゆっくり走る。5時少し前、教会ではこれから結婚式が始まるようで、正装の男女がファサードの階段や隣接する小公園の緑陰に集まって談笑している。「今通っているのが町のメインストリート。公園の向こうに見えるのがタウンホール(市役所)、この教会はタウンホールよりはるかに歴史があるんだ。特にこの鐘楼はね」「ほら!こんな町にも中華レストランがあるんだぞ」と二車線ぎりぎり、やや屈曲した石畳の街道を徐行しながら説明してくれる。両側の建物はほとんど石造りの二階建て商家。中心部を出ると周辺部は居住区や町工場や倉庫のような建物があり、4階建てのアパートなどもある。更に外縁部に出ると墓地や個人住宅のある一帯がありこの一隅に彼の住まいが在った。敷地は500坪ほどあろうか、背丈ほどの石の塀で囲まれ、裏側に2箇所その一部が切り取られ、自動車で出入りする時の電動式ゲートが設置されている。手前は母屋と一体となった2台収容のガレージ、奥のゲートは8台収容できる独立した専用ガレージの出入り口である。奥のゲートが重々しく横に動いていく。道は専用ガレージの前を通り、半地下式の1階裏口につながっている。「ようこそ我が家へ!」 黒い猫が裏口横の小屋から出てきた。
<城石家> 彼の家族名はCastelpietra、Castelは英語のCastle(城)であり、Pietraはイタリア語で石のことだという。つまり城石さんである。先祖は南ドイツに発し、何代か前にこの地に移住したとのこと。戦前は繊維工業の盛んな地で、彼の父親はここで最大の繊維会社(往時は2000人規模)の経営者(技術者、オーナーではない)を務め、特に福祉政策(社宅や託児施設など)に力を入れ評価が高く、町の名士だったようである。今の家はその父親が建て、母が90過ぎまで住んだ家だという。彼はこの地で育ち、教育を受け高校はクレモナまでバスで通っていたとのこと。両親の墓も当然この町にある。兄弟・姉妹がいるのかどうか、高等教育を何処で受けたのかは定かでない(このブログを読んだ友人から、ミラノ工科大学電子工学科卒との連絡あり)。家族は母が飼っていた黒猫ともう一匹灰色の猫がいた。そしてこれはあとで詳しく紹介するが一人住まいと思っていた彼に、実はこれからの人生を伴に過ごす、アグスタという伴侶がいたのである。
 「もう直アグスタが戻って来ることになっている。その前に家の中を案内しよう」 半地下の裏口から入った所は広いユーティリティルーム、と言うより彼の作業場である。キッチンやバスルームもあるが各種工具、工作台、ラリー用品、模型(ほとんどがフェラーリ)、ワインやら暖炉用の薪など雑多なものが棚や床に散在している。当に男の隠れ家だ。次の部屋は彼らが日常使っているリビング・ダイニングルーム、広さは30畳位あろうか、一部リビング部分に外部から明かりが入るようになっている。ダイニング部分には4人用のテーブルと椅子があり、我々も朝食や午後のお茶はここでいただいた。リビングは正面に暖炉がありこの前にソファーが置かれ、コンピュータ駆動のオーディオユニットが備わっている。そして暖炉の上には何とフェラーリのF1マシーンのクランクシャフトが鎮座している。壁のいたるところに鹿の角が取り付けられている。これは祖父の友人、オーストリア貴族のハンティング成果だという。
 アグスタとの挨拶が済み、ダイニングでお茶を飲んでいるとどうも彼が落ち着かない。「僕のラボを見て欲しいんだ」「ン?(こっちは早くガレージの中が見たいんだが)」  この部屋も30畳位、ほぼ正方形。2面はL字型に机の高さ・幅で棚がある。その上に多数のディスプレーが並び、棚の下にはPCやワークステーションのCPUや周辺装置、電源などが置かれている。今はほとんど目にすることの出来ない、汎用機用の記憶装置なども稼動可能状態にある。世界に散らばる彼の顧客、石油精製・石油化学会社、計測・制御システム会社、コンピュータ会社、は当初はIBMの標準品を導入したが、長い利用期間のうちにダウンサイジングとオープンシステムの普及で種々雑多のコンピュータを使うようになった。この異なる利用環境に適ったサービスを提供するのが彼の仕事である。この仕事をここマネルビオから提供するために、彼が作り上げた仕事場がこのラボ。恐らく世界でここほどACS(IBMとExxonが開発したプロセス制御システム;Advanced Control System)のシステム環境が充実した所は現在存在しない。このACSは、あのアポロを打ち上げたシステムと深く関わっている。そしてマウロはこのシステムソフトの第一人者であることを現在まで続けている。石の城は、凄まじい男の城でもあった。
 半地下の上の1階(と言うか2階というか)部分は通常の居住区である。玄関ホールを挟んで一方の側は3つの寝室(この一室に泊めてもらった)と共通のかなり広いバスルーム。ホールの他方はダイニング・キッチン、更に奥に客間を兼ねた広いリビングが在る。このダイニング・キッチンとリビングルームは普段使っておらず、我々が滞在した日、ディナーから帰った後ここでお茶を飲んだのが久し振りだったようである。レースのDVDを見せてくれたが、時差ボケ二晩目とても長くは留まれなかった。
 庭は相当広い。何せ全部で10台の車を納めるガレージがあっても、りんごの木を含め緑に事欠かない。目下庭の一隅にはプールを建設中である。大型の浄化装置を持つそれは12M×6M位で本格的な水泳には物足りないが、個人の息抜き用としては十分な広さである。どうやらマウロも泳ぐ気は無いらしく、「プールサイドでデッキチェアーに横になりながら過ごすんだ」と言っていた。このプールや専用ガレージはいずれも最近建てたものだが、そこには広すぎる庭の維持に苦労した母親の晩年が自らの老い先に重なってくるらしい。「昔はきれいな庭だったが、すっかり荒れてしまってね。実は隣の家のあるところも昔は我が家の庭だったんだが母が処分してしまった」
<8人娘とミッレミリア> 独立ガレージをじっくり見る機会はディナーに出かける前にやってきた。これこそここへ出かけてきた第一目的である。所有するフェラーリの大部分が中古車であることはアメリカにおける彼の言動から想像していた。ブレーシアの駅まで迎えに出たのも1995年型である。くの字形のガレージに入って予想外だったのは、クラシックな車が目につくこと、そして2台分のスペースは空きになっていることだった。ガレージの中で更に赤いカバーを被った赤いテスタロッサ(1985年型)、黄色の355F1(1998年型)それに先ほど駅まで出迎えてくれた黒の456GT(1995年型)がいわゆる中古車である他は、嘗て最も美しい車の一つと言われたランチャア・アウレリアB20(1953年型)、2+2(補助席)のフェラーリ330GT(1967年型)は中古車と言うより遥かに価値の高いクラシックカー(正しくはヒストリックカー)の範疇に属するものである。聞けば空いたスペースは目下外部のガレージでレストア中のランチャア・フラミニア・ツーリングGT(1961年型)とフェラーリ・ディーノGT(1972年)が収まる場所だと言う。更に母屋に直結したガレージにはフィアット・アバルト695SS(1966年型)が停めてある。これはとんでもない車で、40年代後半に開発され確か70年頃まで生産されたイタリアの国民車、フィアット500(チンクエチンタ;最近この印象復刻版ともいえる車が発売され人気を博している)をアバルトと言うスポーツ・チューンナップ会社がエンジン排気量を695CCにアップして飛ばし屋やレーサーに提供していたものである。彼の娘たちはお転婆な4人の熟女と4人の老女だったのである。
 マウロのもう一つの顔は、マネルビオに隣接するクウィンツァーノという町に本部を置く、ヒストリックカークラブ(Club Auto Moto Storiche)の会長を務めると伴にヒストリックカーで争うレーシングドライバーでもあるのだ。これらのレースはスピードを競うよりは、お祭り的な要素が強く、チャリティを目的に催されることが多いらしい。それでも中には私でも知っている大変由緒あるレースもある。それがミッレミリア、1000マイルレースである。このレースは1927年に始まった公道レースで、ブレーシアをスタート/ゴールにローマを折り返し地点とする1000マイル(1600Km)でスピードと耐久力を競うものであった。戦争中は中断したものの、1947年に復活し1957年まで続いたが、この年フェラーリの運転者が観客を巻き込む大事故を起こし中止となった。その後1967年大幅にルールを変えてヒストリックカーレースとして甦った。現在は公道では最高速度が50Km/hに制限され、スペッシャルステージも細密な時間コントロールを求められる形に変わっているが、出場資格が年代物の車に限られるため上位入賞は無論1600Km完走は至難の技と言われている。マウロもランチャアB20では完走できず、フェラーリ330GTで何とか完走、成績は百何十位だったとか、参加記念のショパールの腕時計を自慢げに示しながら苦労話をしてくれた。また、これらのヒストリックカーレースを通じて日本人とも交流するようになり、神戸で貿易商(香辛原料や毛皮の輸入)を営むKさんから贈られたカレンダーがリビングに掛けられていた。
<アグスタのこと> 「マウロはイタリアに戻り新しい恋人がいるようなんですよね。それも人妻だとか」こんな話を元日本IBMのセールスだったMさんから聞いていた。しかし訪伊を告げるメールのやり取りにその気配は全く感じられなかった。家に着き半地下のリビングで一休みしている時「実はアグスタと言う女性がここに同居している。国語教師をやってたんだ。まもなく戻ってくる」「彼女は残念ながら英語は喋れない」「血圧が高かったりチョッと健康に問題があるが、ディナーに同席するよ」と始めてその存在を打ち明けてくれた。カップルで迎えてもらえることに何かホッとした気分になった。
 やがてアグスタが戻ると四人でまたお茶になった。「僕が17歳、アグスタが14歳お互い初恋だった。この間いろいろ有ったが一緒に暮らすことになったんだよ。近く正式に結婚する。そしたら新婚旅行に日本に行こうかな?」 幸福そうな幼馴染の熟年(多分63歳と60歳)カップル。アグスタの恥らう姿はまるで少女のようだ。
 ディナーに出かける時、「奥さんはアグスタと一緒に向こうの車に乗ってくれ」と言う。確かに補助席付フェラーリに4人は無理だ。見ると黒い最新のベンツSLK(2座で金属製の屋根はオープンに出来る)が母屋と一体となったガレージにある。「僕が買った車でオートマティック車はあれしかないよ」 9台目の車である。これはアグスタの専用車、ヒストリックカーのラリーではナヴィゲータも務める車好きの彼女にとって、お気に入りの車らしい。
 この日は土曜日、マウロがiPhoneを駆使して問い合わせた第一候補のレストランは満席。第二候補の“SCIA’ BAS”と言うレストラン兼バールに出かける。「ここへは週3回は来ているかな」 料理やワインの選択は専らアグスタが主導権を持つ。料理具合にもチェックが厳しい(一皿やり直させた)。勧められるままにフルコース(前菜、パスタ、メイン)を頼んでしまう。前菜の揚げラビオリ(?)が美味しく食べ過ぎてしまう。次はリゾット。最後のミラノ風カツレツは半分も食べられなかった。「構わない!うちの猫たちに持って帰ろう」飲んだ赤ワインは二本だったろうか?「オイオイ運転するのにそんなに飲んで良いのかい?」「公道走るわけじゃない(?)チョッと街中走るだけだ」 仕上げはもちろんジェラートとエスプレッソ。英語を話さないアグスタともすっかり打ち解けた気分になり飲酒運転で帰宅。彼らは来客用リビング(?)でしばし歓談とワインを考えていたらしいが、ソファーに座るなりコックリし始め、早々に寝室に失礼した。
<イタリアン・ブレックファスト?>
 寝つきは良かったが、時差ボケは一晩では調整出来ない。何度か手洗いに起きながら朝を迎えた。隣の部屋の動きを聞き耳立ててモニターしつつ、頃合を見て半地下のリビング・ダイニングに出かけると、丁度朝食の準備が始まったところだった。食卓に着くと、ビスケットとロールパンを透明の袋に詰めたものが用意されている。あとは飲みものをどうするか(コーヒーか紅茶)である。当にコンチネンタル・スタイルの朝食である。家庭での朝食はこれ一回きりしか経験していないのでなんとも言えないが、フィレンツェのホテルで朝食に卵料理を頼むと、その分追加料金を請求されたとことと併せて、これがイタリアン・ブレックファストの典型なのかもしれない。ランチやディナー(この場合は時間の遅さもも要考慮)の重さを考えるとこの朝食は健康管理の面からも合理的と言える。のちのランチでの会話から推察すると彼らは外食の頻度が高そうだ。あまり家では手間を掛ける料理をしないことにしている特異な家庭なのかもしれない。外国で個人の家に泊まる面白さはこんなところにもある。
<日曜日の平原> 朝食時にこの日のスケジュールを告げられる。ランチまでの時間ヒストリックカーで近隣ドライブ、一度家に戻り荷物を持ってレストランに向かい、アグスタも交えゆっくり食事をしてブレーシア3時5分発の列車でミラノへ戻る。天気は快晴。ヒストリックカーに乗れる!異存は無い。
 引き出された車は黄色のフェラーリ330GT(1967年型)。この車は前出のミッレミリアを完走した車。クーペタイプで後ろの座席が昨日乗った456GTに比べやや広い。これなら3人乗車も問題なさそうだ。エンジンに火を入れると年代物のエンジンに有り勝ちな不規則な回転や振動が無い。さすがにスーパーエンジニアの手入れが行き届いている。ただスピードは抑え気味で50~60Km/h位で走る。日曜日の朝、道を行く車は少ない。マネルビオの街中は彼の父親の遺産とも言える嘗ての工場や従業員用のアパートなどを見て廻り、やがて車はロンバルディア平原を西に向かう一般道に出る。遥か北には山並みが見え「あれはアルプスそのものではないがXX(意味不明)アルプスと言うんだ」 今度は南側を一瞥しながら「南にも山並みが見える」「南北両方の山並みが見えることは極めて稀だ。今日は特別天気が良い」 道の両側は刈り取りの済んだ畑が続く。ここら辺はとうもろこしがメインのようだ。青い空、黄色い畑地、高い並木の緑、絶好のドライブ日和。のんびり走る我々をはるかに排気量の小さい車たちが追い抜いていく。近隣の町には半ば朽ち果てた小さな城砦などもある。このような城砦は非常時の逃げ込み用だったらしい。わき道へ入ると退避場所でしか車が行き交うことは出来ない。珍しいヒストリックカーに、皆こちらを見てオヤッというような顔をしている。
 「しばらく乗っていなかったんでガソリンを入れよう」 イタリア最大手のAGIPのスタンドは完全に無人だ。「このスタンドはヒストリックカークラブの友人のものなんだ」 勝手を知った行きつけのスタンドで給油していると、他のお客が車に寄ってくる。どこでもこの車は人気者だ。
 穏やかな秋の日差しの中、最初は西進ついで南に向かいクレモナの近くまで行きそこからマネルビオに戻ったのは11時頃。一旦例の半地下のリビングに落ち着きお茶、いやカンパリー、を飲む。寛ぐ中で彼がふと漏らした言葉「仕事で世界中飛びまわった。500万マイルは確実に超えた。もう遠くへ行きたいとは思わない。ここが一番落ち着く」 憧れのイタリアを駆け足で走り出したばかりの私にも、彼のこの気持ちは納得できる。こんなイタリア人を心底羨ましく思った。
 例によってiPhoneでチェックしたレストランはまたも第一候補は満席。第二候補の“Alle Rose”は町を出てブレーシアに向かう街道沿いにあった。ここも彼らがよく利用する所らしく(週に3階は来る)、オーナーの女性と親しそうに話している。最初は三々五々集まってくるお客に庭でワインとカナッペや例の揚げラビオリなどの前菜がふるまわれる。これが美味しい!食べ過ぎ注意だ。
 やがて中に移り、アンティパスト、パスタ、セコンドと例によってフルコース。メニューはほとんどオーナーのお勧めに従った。かなり広い室内がどんどん埋まってゆく。少し離れた席には正装した地元の人のグループも見えるし、子供連れもいる。小さな町にいくつもレストランがあり、何処も混んでいる。料理は美味いし、値段も手ごろなのだろう。イタリア人が慎ましく暮らしながら、生まれ育った土地を愛するのはこんなライフスタイルが可能だからだ。このことをこのマネルビオ、そして次のサンドリーゴで確信した。
 赤ワインを飲みながらのランチが終わる頃マウロが「帰りの列車を1時間遅らせて、一旦我が家へ戻り、一休みしよう」と言い出す。アグスタも賛成のようだ。昼の酒は利くし、これから向かう大都会ブレーシアでは飲酒運転取締りも田舎とは違うのかもしれない。眠気を催す昼下がり黒いフェラーリはもと来た道を戻る。お茶を飲んだり、記念写真を撮ったりして小一時間過ごし、4時5分発の列車でミラノに戻った。
 素晴らしいマネルビオでの二日間だった。

0 件のコメント: