2008年11月24日月曜日

滞英記-11

Letter from Lancaster-11
2007年8月4日

 今朝のBBCトップニュースは、牛の口蹄病発生です。6頭の牛が焼却処分され、動物類の移動禁止令が出ています。食肉の流通が心配です。
 ここのところ当地もやっと晴天が続くようになりました(と言っても今朝は小雨ですが)。外へ出たくなる気分と洪水で不本意な終わり方をしたドライブの口直し(?)にレンタカーを借り、近隣を走り回っています。遠くは一晩泊まりでヨークまで出かけました。車はルノー・クリオのマニュアル車ですがとても運転し易く、長期レンタルにしようと思っています。英国での走行距離も2000マイル(3200km)に達し田園とドライブの楽しみ方が少し分かってきました。今回はブリストル行のあと訪ねたコッツウォルズを中心に<田園と観光>について私感をご報告します。

<田園と観光>
 土地の高低差の少ない、気象条件も穏やかな(今回の洪水は60年ぶりの異常気象)英国では自然が作る目を見張るような奇観・景観が殆どありません。それに代わるものが田園美、庭園美、建築美ではないかとおもいます。前回お知らせした、ジェフやジーニーもささやかではありますがこれを我が物にした庶民といえますし、湖水地帯で訪れた幾つかのマナー(大邸宅)もこれらが売り物になっています。究極はチャーチルの生家、ブレナム宮殿で、王侯貴族の求める美も当然ここに帰結しています。この中でも一番英国人が自らも求め、誇るものが田園美ではないかと思います。“一生懸命働いて引退したら田舎で暮らす”、カントリーライフこそ彼らの理想なのです。
 しかし、自然美と違い田園美を享受するには人々がある程度豊かになり、愛でる側に余裕が出来て初めて可能になるのです。土地を領主や富農に囲い込まれ(囲い込み運動;16世紀~19世紀)、牧童や小作人、都市労働者として暮らさざるを得ない状態では同じ田園でも感じ方はまったく異なったことでしょう。また、都市と言う汚れた密室に閉ざされ、それから解放されると言う精神的インパクトがあって初めて田園美に目覚めるのです。
1)ウイリアム・モリスのこと
 些か辛気臭い話から始めたのは、今回の主題であるコッツウォルズが、豊かな出自の都市生活者であった芸術(運動)家ウィリアム・モリス(1834~1896)の活動によって、ごくありふれた田舎の村々が特異な存在になっていったからです。モリスの生まれ育った所はロンドン北部のウォルサムストウ、産業革命後の都市化で美しい自然環境を失っていった典型的な地域と言われています。
 モリスはオックスフォードで神学を学んでいましたが、友人の影響で建築学に興味を持つようになり、ここから絵画・工芸・デザイン更には詩作など多様な分野に才能を発揮していきます。特に工芸デザイン(図案)は経済的にも成功し、会社経営にも優れた手腕を発揮します。都市化による自然破壊を、身をもって体験した彼は、自然と創作活動が共存できる理想郷(実際は家族の生活の場)をロンドンからもそう遠くない、ケルムスコット村に築いたのです。コッツウォルズが、美しい田園が至るところに存在する英国で、今日のような独特の地位をもつことになったきっかけなのです。
 モリスの名前は知っていました。彼が“アーツアンドクラフト”運動の推進者だったからです。芸術と工芸をひとつながりの世界と捉える考え方に惹かれるものがあったからです。版画の世界はまさにこの極致です。絵師(芸術家)と彫師・刷師(工芸家)が協力し合い一つの作品を仕上げていきます。また工学も工芸と深く関わりあいます。機械を作る機械は工作機械です。この工作機械を作るために、独特の測定器や冶具(ジグ;精度よく組立てるための道具)が必要です。これらの測定器や冶具の製作には工芸的なセンスを必要とします。建築しかりです。クラフトこそ製造業、建設業の要なのです。表面に見えるものだけではなくそれを支えるもの、周辺のものを含めて見つめる目、これがモリスの目であり、コッツウォルズを訪ねるときの留意点ではないか、田園も家も小川も全体としてのバランスの良さを見る、そんな思いでこの旅に臨みました。
2)コッツウォルズ
 コッツウォルズは、Cotswoldsと書きます。一つの村や町ではなく、東はオックスフォード、西は今回の洪水で大きな被害が出たグロスター、北はシェークスピア生誕の地ストラットフォード・アポン・エイボン、南は前報でチョッとご紹介したSpaで有名なバース。これらに囲まれたかなり広範な地域の名称です。南西と東北を結ぶ対角線上にCotswold Hillと呼ばれる丘陵が走っています(sが付いたり付かなかったりしますが現地での表記どおりにしています)。
 この地方が英国を代表する田園(田舎)になったのは石炭の産出が全く無く、産業革命に取り残されたことで、自然が残ると言う皮肉な結果だとガイドブックなどに解説されています。石炭は出ませんが、ライムストーンと言う建築用の石灰石が何処でも容易に得られ、“蜂蜜色”と表現される美しい石造りの家が多く建築されていることもここを有名にしています(蜂蜜色は新しいうちで、やがて薄茶とグレーになって、年季を感じさせるようになります)。
 コッツウォルズを観光すると言うことは、その地域内にある幾つかの村々を訪れること、それらの村々の間を移動することから成っています。この移動手段と滞在時間・日数によって、楽しみ方が変わってきます(たぶんそれに季節)。これと言ったランドマークの無い、広域に跨る観光地ですから、理想的には車で何日かかけ、気に入った所ではフットパス(田園の中の歩道)をハイキングなどし、B&Bに泊まるようなやり方になります。ここに限らず英国人の旅慣れた人達のやり方です。
 今やここは湖水地帯と並ぶ英国観光の代表で、日本でも各種のガイドブックが出版され、ロンドンから近いこともあり日帰りツアーも盛況です。時間に制約がある場合(ほとんどの日本人はこのケース)、これでも結構楽しめるでしょう。
3)都市から田園へ
 英国に初めて着いたのはマンチェスター、赤い石造りが際立つ大都市です。空港と都心の間に緑はあるもの、他国の空港・都市間とさして雰囲気は変わりません。翌日市内でレンタカーをピックアップし、マンチェスター大環状道路を抜け北上し始めると緑と家屋の割合が変わって行きます。南北を結ぶ幹線道路M6に入るとなだらかに起伏する緑の大地を石垣で囲った牧草地が左右に展開し、“あぁ!これが英国の田舎なんだ!”とこの国に対して抱いていたイメージぴったりの光景に感動しました。しかし、これはまだ序の口。ランカシャーの州都、プレストンを過ぎると道路以外は緑、みどり、ミドリです。散在する雲と穏やかな起伏による陰影のコントラストだけが彩りに変化を与えています。その緑の中に小さく点在する白は羊たち、茶色や黒は牧牛です。東京や横浜から来た人間には殆ど夢の世界です。思わず「ウォー」と叫び声を上げたほどです。
 この感動は、更に湖水地帯を訪れるドライブでも体験します。まだ、頭の中は東京や横浜基準の景観感が残っているからです。しかし、嵐が丘行やスコットランドへの旅になるとこの感動が微妙に変化しています。「何処へ行っても英国の風景は変わらないなー」と。滞英2ヶ月近く、6月初めのロンドン行きを除けば殆どランカスター暮らし、日常目にする風景は最初に感動した風景と全く同じです。景観感が田園(と言うようりも“ありきたりの田舎”)ベースに変わってしまっているのです。“でもコッツウォルズは違うはずだ!”
4)ブリストルからコッツウォルズへ ブリストルは人口40万人の大都市です。市内から高速への道が分かり難いだろうとジェフが市中のレンタカー屋からM5まで誘導してくれました。インターチェンジのランナバウトでテールライトを点滅しながらUターンする彼に手を振って別れを告げ、M5の北行き車線に入ります。彼が前日教えてくれた予報通り空は快晴です。ランカスターと比べるとかなり南に位置するので、車内は暑いくらいです。英国の一般家庭には先ず無いクーラーがこの車には付いているので軽く活かします。5分も北上すると例の緩やかに起伏する緑の景観が現れてきます。「何処も同じだなー」
 18番で入ったM5を9番で下り、A46を経てB4077に入りました。大好きなB道路です。先ず目指したのはBroadway;日本から持参した案内書には宿場町として栄えた所で、バスも頻繁に発着とあります。お土産のことばかり書いてあるので気が進みませんでしたが、コッツウォルズの要衝(?)の一つとあったので、取掛かりとして定めた目標です。B4077は車の往来も少なく、期待通り楽しいドライブが始まりました。しかし、景観は依然「何処も同じだな」です。違うのは道路沿いに樹木が多く、チョッと日本の山道を走る感じに似ていることです。これが切れるとまた緑野。天気が良いので光の陰影の変化が強烈です。樹木の茂っている所では、木漏れ日が作る光の斑模様が車内に万華鏡を再現します。こんな調子ですっかり英国流運転、時速50マイル(80キロ)は出ています。飛ばしながらオヤッと思ったのは、明るい所から暗い所へ入ると一瞬前方が見えなくなります。目が明るさの変化についていけなくなっているのです。老化現象です。
 こんなこともあって、途中でB4632に左折して入るのを見逃し、コッツウォルズを南北に貫く幹線道路、A429のあるStow-on-the Woldに出てしまいました。本来の予定はBroadwayからChipping Campden、Moreton-in-Marshと北東の村を廻り、それからA429を南下してStow-on-the Woldへ出る予定でしたから、3ヶ所も見所をバイパスしてしまったことになります。そこでA429を北上し一先ずMoreton-in-Marshに向かうことにしました。このあたりは車で廻る気楽さです。道中はただの田舎道、起伏する緑野はあるものの、さして感動する情景はありません。Moreton-in-Marshはロンドンから鉄道で行くことの出来る町、またOxfordへ通じる道もここを通るし、シェークスピアの町、Stratford-upon-Avon通じる道もあるので、当にコッツウォルズの要衝です。この村には有名な樹木園があるとガイドブックに書いてあるので、町の中心にある広場の駐車場に車を停めるべく駐車エリアに進みましたが全く空きがありません。同じような車が二、三台ウロウロしています。私もしばらくノロノロ徘徊しましたが、直ぐに見つかりそうもありません。今まで何処の観光地でも何とかなったのですがここは全くダメです。夏休みのせいでしょう。あきらめて次の訪問地、Chipping Campdenに予定と逆のコースで向かいました。
5)コッツウォルズの町、村
①Chipping Campden(チッピング・キャムデン)

 この村は観光の基点となる町や村を除くと、どのガイドブックにも最初に紹介される村です。売りは“蜂蜜色の家々”です。“王冠の中の宝石”と言うのもあります。あとの見所は教会墓地からの牧草地の景色や村の中心部にある中世のマーケット・ホール(跡)です。村へ入る時何軒かユニークな茅葺き屋根の家があります。よくガイドブックに紹介されている家々です。庭は生垣でよく見えません。中心部の広場に到着。今度は運よく駐車場が確保できました。先ずインフォーメーション(I)、そこで地図でも貰って取り敢えずトイレ。これが定番です。しかし、手持ちのガイドブック(日経BP)に示されている場所に(I)は在りません。道行く人に聞いても“私もツーリストなので”と特定できません。コンビニのような店に飛び込んでやっと見つけることが出来ました(あとで調べて分かったことですが、ダイヤモンド社;〔地球の歩き方;イギリス〕は合っています)。(I)へ行って地図を所望すると有料とのこと、たいして情報量も無いのに30ペニー(75円)しました。近くにあったトイレも有料で20ペニーです。出る時子供が入ろうとしていたので、ドアーを押さえて、タダでいれてやりました。“蜂蜜色”はありますが、表通り(ハイストリートよく呼びます)のものはくすんで古くそれなりの歴史を感じさせますが、建物自体はそれほど魅力的なものではありません。裏へ廻ると確かにきれいな蜂蜜色に会えますが、ここは新興住宅地と言った感です。村に入る時見た茅葺き屋根の数軒は確かに奇麗ですが、“見せるため”が見え見えです。ハイストリートは土産物屋と飲食店がオンパレード。教会墓地からの眺めは「何処も同じだなー」でした。“作られた田園美”の最初です。
 この後、Broadwayに行くつもりにしていましたが、ガイドブックがお土産・買い物中心の記述だったので止めにし、A429を南下してBourton-on-the-Waterに向かいました。しかし、道路が途中封鎖されており、A424を採ったところ今夜の宿泊地Bufordに出てしまいました。そこで宿泊予定のThe Ram Innに赴き、チェックインだけ行い、この町で昼食にしました。
②Bourton-on-the-Water(ボートン・オンザ・ウォーター)
 昼食後A424を朔行、途中からBourton-on-the-Waterへの道をとり今度は問題なく辿りつき、駐車場も空きが充分ありました。駐車場に車を止め、外へ出ると子供達の声が聞こえてきます。高い木立の生垣で区切られた先に、英国人の好きなメイズ(生垣で作った迷路)があるのです。駐車場の端できれいな小川がメイズ側に流れを変えています。此処の売り物はこの小川で“リトル・ヴェニス”です。流れはほぼ車で走って来た道と並行に村の中央へ向かっています。小川の両側には遊歩道。川岸には柳の並木が植えられ涼しげです。ただ、だんだん行き交う人が増えていきます。アーチ状の石造りの小橋などがありなかなか良い雰囲気です。小川の底は浅い石造りなので子供たちが水遊びをしています。やがて川の片側はコーヒーショップ、Inn、アイスクリーム屋などが並び始めます。自動車の通る向かい側の通りも商店や土産物屋が現れます。一歩裏の通りには例の“蜂蜜色”の家も在りますが、結局ここも“作られた田園美”の村で、何と“クラシックカー博物館”までありました。入らなかったのは無論です。次の目的地、南部コッツウォルズのBiburyです。
③Bibury(バイベリー)
 この村のキャッチフレーズは“イングランドで最も美しい村”です。ボートン・オンザ・ウォーターから幹線道路A429を南西に向かい、途中でB4425を東北東に向かうのが正道ですがこの頃になると主要道路の関係が頭に入っているので、更なる田舎道のショートカットを採ったのが悪くしばらく道に迷いましたが、やがて村に辿りつきました。周囲が開けておらず、今までの村と違い何か日本の山中の小集落のような感じです。時刻は4時頃、この頃になると空も曇って光のコントラストはとっくに失われています。“明るい蜂蜜色”で語られるコッツウォルズもここではくすんで、緑色を帯びた薄茶です。家も橋も、壁も同じような色調です。今までの村と違い地味な感じですが落ち着きがあります。
 幸い道路際の駐車スペース(無料)に空きが在ったので頭から突っ込みました。目の前に東アジア人(咄嗟に日本人と思いましたが)の女性が二人立っています。向こうも“日本人かな?”と言う表情。横に停まっていた観光バスは日本人のツアーだったのです。実はチッピング・キャムデンでも、ボートン・オンザ・ウォーターでも観光バス、自家用車、路線バスで訪れている日本人を沢山見ました。このグループが去った後また別の日本人観光団がバスでやってきました。川沿いの有料トイレが日本人で溢れるほどです。
 T字型で構成されるこの村の骨格を下(南)の方から入り縦横が交差する少し手前右側に居ます。交差する部分には蔦を這わせたイン(旅籠)があります。上の横棒部分は道路に沿って清流が流れています。低い石積みの堤防もくすんだ薄茶です。Tの右端の橋を渡るとこんな田舎なのに古い棟割長屋があります。主要道路を外れてわき道に入るとハッとするような、感じの良いカントリーハウス(本当の農家のようにみえる)に行き当たります。皆同じ色調です。
 Tの交差点、私が駐車している反対側にカフェテラスがありそこには食堂、みやげ物屋が併設されていますが、テラスとアイスクリームスタンドがやや目立つだけで世界共通のあの卑しい感じの“観光臭”が全くありません。やっと、田園も家も小川も全体としてのバランスの良い所をみつけました。しばらくテラスでアイスクリームをなめながら“日本感覚を一番強く感じた村”でぼんやり過ごしました。
 (実はこの村にも問題が無いわけではありません。T字交差のやや右上にトイレがあるため、横棒右部分の道は車がいっぱい駐車しており全体の景観を著しく傷つけています。トイレと駐車場を見えない場所に設ければ完璧です。そのためのスペースはいくらでもあるのですから。しかし、後で分かったことですが、ここだけでなく、このような自然改造にすら強い抵抗があるようです。300万戸住宅建設の必要性を訴えるブラウン首相の政策は、この様な自然観との戦いでもあります)
④Burford(バーフォード)
 バイベリーからバーフォードまではB4425で一走り。5時には宿(The Ram Inn)に着きました。コッツウォルズのやや南中央部にあり東西を結ぶ幹線道路A40に、南北を貫くA361やA424が交錯しており、この地の交易の中心地であったことが窺がえます。他の集落、村に比べハイストリート(メインストリート、南北に走る)の幅も長さも数等あり、町という規模です(そのため道の両側は車がびっしり駐車している)。
 このハイストリートは南へ行くほど高く、上から、下と前を見るのがお勧めと言うことになっています。下に向かっての眺めはライムストーンの家並みが、前方は町の終わりから遠くまで田園風景が広がっています。一度日中チェックインで立寄った時感じたのですが、中心部は飲食店やお土産物屋で、商品やテーブル・椅子が表の通りを占有し、人通りも多く、おまけに駐車の列で、石造りの家並みを楽しめるのは少し繁華街を外れた、北の一部に限られます。
 夕食の予約は7時、まだ時間もあるので町を散策してみることにしました。さすがにこの時間になるとハイストリートの店は閉まり、人通りも殆どありません。夕暮れ時ですが緯度の関係で明るさは十分あります。通りの最上部からの眺めは例のくすんだ薄茶色に変わります。この時間天気予報通り雲が増え、遥か彼方の田園に荒涼感が漂っています。人通りが全くない裏通りに入ると、古い石造りの教会や、同じく石造りの広い庭を持つ住宅があり、昼間の喧騒な町とはまるで雰囲気を変えた姿を見せます。ガイドブックが村や町に泊まって、観光客の来ない朝夕の情景を味わうよう勧めるのがよくわかります。
6)旅籠“ひつじ亭”(The Ram Inn)
 宿泊先を決める際、ジェフに頼んだことは、コッツウォルズの南東部と言う地理的なことだけです。これは今回のドライブの究極の目的がWoodstockにあるからです。チャーチルの生家、ブレナム宮殿訪問です。バーフォードが田園美を代表する場所とは全く思いませんが、この目的のためには最適だったと思っています(あの豪雨さえなければ)。前日ジーニー宅を辞去してから知ったことですが、“ひつじ亭”を紹介してくれたのはジーニーなのです。品の良いジーニーの好みの宿なのでしょう。
 “ひつじ亭”はハイストリートの真ん中辺を、西に入る比較的幅のある道を5~60m行った所にあります。表面はモルタルのような仕上げの石造り二階家、タウンハウスとは異なりますが、何軒かの家が繋がっている一番端です。入口は二ヶ所、パブと旅籠に分かれています。黒地に白いひつじの看板。ドアーは厚い木製、梁や床は黒光りしています。フロントは、玄関(と言っても木戸)を入ると左側にありました。一人でいっぱいのスペースです。玄関ホールには暖炉がありその辺りが一応ロビーです。フロントの若者が二階の部屋まで案内してくれます。ギシギシと急な階段を上がると幾つかの部屋(見える範囲の扉の数は五つ)があります。その一部屋の鍵を開けて入ると、そこは屋根裏部屋のようで、通りに面した窓に向かって、天井が傾斜しています。床も梁も一階同様黒光り。床は明らかに道路と反対側に傾斜しています(ベッドの頭の位置が、足より低い感じ)。家具も年代物で引出しなどガタガタしています。しかし、静かで、清潔で落ち着ける感じが気に入りました(さすがジーニーの好みだ!)。幸いバスルームは近代的で一流ホテルと変わりありません。もちろん床が傾いたりしていません。鍵は二つあり、一つは部屋のもの、もう一つは一回り大きい鍵で、先ほど入ってきた玄関(木戸)の鍵です。「外出して遅くなる時はこれで開けてください」「(こんな町で遅くなるはずないよな)」と思いましたが、町内探訪の際ハイストリートから入った別の通りに、“Red Lion Arms”と言う、洒落た(フラワーバスケットをいくつも飾った)パブが在ったのを思い出し納得しました。
 夕食を摂るため、少し早めに木戸の前のロビーのような所へ行き一階全体を観察することにしました。一番の目的は、食事をする所を確認するためです。
一階全体は玄関から向かって左3分の1位はパブ、フロントを挟んでパブ側にも専用木戸があり、パブの客はそちらから出入りするようです。ロビーとパブの間にはカウンターがあるので直接は行き来でません。
 中央部はロビーと裏の方へ通じるアクセスエリアです。このロビーに座って全体を観察していると、中年の男女が玄関とフロントの間に置かれた丸テーブルに席をとり従業員に何やら注文しています。やがて皿に盛られた料理とビター、ワインが運ばれてきて、彼らはそこで食事を始めました。「(エッ!こんな所で?)」「(せめてパブで食べたいな)」「(いくらなんでも?)」と思いつつ周辺を眺めていると、ロビーのパブとは反対側になる部分にドアーがあり明るい光がこちらに漏れてきています。「(あそこが食堂に違いない)」とその部屋に向かいました。入ってみるとそこは食堂ではなく、客の談話休憩室のような感じの部屋で、他とは違いインテリアは薄茶の木と白い漆喰でまとめられ、暖炉があり、書物や新聞が書架やテーブルの上に置かれています。ここも違う?
 再びロビーに戻ると先ほどの二人がせっせと飲み食いしています。「(やっぱりここなのかな?)」 すると若い従業員が来て「何か飲み物をお持ちしましょうか?」と聞いてきました。「(いよいよこんな所でディナーか!?)」「そうだね?ビターを1パイント頼もうかな?」「かしこまりました!」「ところでディナーはここで摂るのかい?」「(まさか!)いいえ、ダイニングルームは奥にあります。時間がきたらご案内します」確かに玄関からロビーを通りその先にパブ、ロビー、談話室を貫くような廊下があるのです。しかし、ロビーからの入口は小さく、出入りをしているのは専ら従業員なので、業務用の廊下と思っていました。
 やがて時間が来たとウェートレスが迎えに来ました、飲み残しのビターを持って彼女について行きました。ロビーの後ろから談話室の方に向かい突き当たりを左に曲がり進むと、ひつじ亭本体とは別棟の石造りの家に至ります。そこがダイニングルームなのです。内部の作りは全く異なり、大きな暖炉があり談話室同様の薄茶の木を多用したインテリアが上品です。中庭を眺められるその部屋は、キャンドルが各テーブルに灯されているものの、照明も暗すぎず都会の隠れ家のような洒落たレストランです。
 残りのビターを飲みながら、メニューを眺め、前菜はサーモン、メインは無論ラムに決めました。ボトルを一人で空けるのはチョッとしんどいのでハウスワイン(赤)のグラスを頼のみました(結局2杯)。全て申し分のない味、珍しくデザートまで賞味しました。再度「イギリス料理が不味いなんて言う奴は誰だ!」(調子に乗って飲みすぎ、食べ過ぎ、寝苦しかったのは失敗でした)。          チェックアウトの際聞いてみました。「この建物は何時頃出来たの?」、若い従業員が「14世紀です」「!!(恐れ入りました)」
7)ブレナム宮殿
 チャーチルに特別な関心を持ったのは、大学一年の夏休み、英語クラスの宿題で;英語の本(フィクション、ノンフィクションいずれも可)を読み、その読後感を英語で書け、と言うのがあったことです。その時選んだのが「チャーチル半生記」です。動機は不純で、優れた訳が文庫本として出ていたからです。この半生記は、誕生から第一次世界大戦前で終わっていますが、それだけに若い彼が人生の色々な岐路で悩み、苦しみ、挑み、挫折し、模索する姿がリアルに描かれ、当時その年代にあった自分とオーバーラップし、「こんな大人物でも、我われと同じような失敗や苦労があったんだ!」と随分勇気付けられました。もう一つ、この本から得たことは、イギリス貴族の生活と考え方の一端を知ることが出来たことです。
 彼はエスプリと時宜を得た数々の警句や造語を残していますが、忘れられない一言に「戦争が残酷になったのは、徴兵制が敷かれ、大衆が動員されるようになってからだ」というのがあります。これ知ったのはこの本からでした。エリート中のエリート故に吐けた言葉ではないでしょうか?この戦争の部分を他のことに置き換えると、一部の者に与えられていた特権が、大衆化することで殺伐になり、理想から遠ざかる様子に見事に当てはまります。テニス・スキー、高等教育、マイカー・マイホーム、レジャー・別荘地、海外旅行そして国連さえも。
 この高慢ちきで洞察力に富んだ男の生い立ちは、<ORの起源>にも深く影響してきます。インターネットの普及時、英OR学会のホームページを見ていると、チャーチルが語った逸話が紹介されていました。「ORに何故興味を持ったかって?ハリス(爆撃軍団長)が反対したからさ」 OR適用の嚆矢となったのは、戦闘機軍団の“バトル・オブ・ブリテン”における防空システムです。ハリスは防御優先の空軍戦略に早くから異を唱えていました。チャーチルがいなければORは日の目を見なかった可能性があるのです。
 私にとって、ブレナム宮殿訪問は単なる観光ではなく、『聖地巡礼』なのです。
 ブレナム宮殿そのものの紹介は観光案内に譲ります。1704年、スペイン王位継承戦争中ドイツのブレンハイムの戦いでルイ14世の軍を破った、ジョン・チャーチル(のちのマールボロー公爵)に当時の女王アンが褒美として与えたものです。ウィンストン・チャーチルは1873年ここで誕生しています。所在地はウッドストック、厳密にはコッツウォルズ地方ではではなく、オックスフォードやストラットフォード・アポン・エイボンのようにその周辺地区と言う方が適当でしょう。
 門を入ると、遥か彼方に見える宮殿の内門まで幅の広い道路が一直線に通じています。奥はもちろん、左右も境界が全く認知できません。その広大さに圧倒されます。建物以外は全て緑、宮殿だけが薄茶色で浮かび上がります。内門へはまだまだと言う位置、道路の真ん中にガラス張りの高速道路料金所風ポストがあり、ここで駐車料金を含む入場料を払います。少し先の、芝生の中の駐車エリアに行くよう指示されます。以下、雨の中の難行苦行は“号外”でお知らせした通りです。宮殿の見学開始時間は10時半から、内部庭園(これだけでも多分バッキンガム宮殿の数倍はある)は10時から。豪雨の中ではとても庭園見学どころではなく、片隅から宮殿周辺の庭の様子を探るのみです。遥か下方に池(いや、湖)が見えました。
 宮殿は真ん中にホールがあり、ここで全体の説明があります。円形天井にはブレンハイムの戦いの様子が描かれています。ここで左右どちらへ行くかです。説明員が最後に「左右どちらからも見学いただけます。私は右からご覧になることをお勧めします」と言いますので、これは絶対その通りにするようお勧めします。と言うのは左へ行くと2階から見ることになりますが、そこはこの宮殿建設から今日に至る、宮殿とマールボロー家の歴史を、映像やジオラマで説明する仕組みになっており、限られた人数で、それを段階的に区切られた(勝手に移動できない)ステップで移動するようになっています。途中を飛ばせないのです。40分位かかりますがその間トイレもダメです。私は1階から見て最後に2階へ行くよう進められ、せっかく来たんだからと二階に周り、最初の部屋で閉じ込められた時「ブリストルへの道を急がなければならないのにこれは拙い!」と思ったが後の祭りでした。
 私がここで見たいと思っていたものは、チャーチルが生まれた部屋、彼が多くの時間を過ごしたに違いない大図書室、彼の日記や手紙など自筆の資料、それに玄人はだしの絵でした。これらは全て1階にありました。特に見たかったのは、後にノーベル文学賞(第二次世界大戦回顧録)を受賞するほどの名文家であった彼の書き残した物です。ありました!パブリックスクール、サンドハーストの陸軍士官学校、インドでの勤務。達筆です。これを読んでいくのは英国人でも大変と見えて、タイプライターで打ったものが脇に添えてあります。サンドハースト時代、友人とスイスに出かけ父親から贈られた時計を紛失した時は、謝罪と赦しを請う手紙を何通も送っています。余ほど残念だったのと父親が怖かったのでしょう。とても全部を読んでいる時間はありません。後ろ髪を引かれるおもいで先を急ぎました。もう一つ圧倒されたのは大図書室です。図書室と言うより博物室と言った方が適当かもしれません。宮殿右端翼を二階まで吹き抜けている部屋の壁面は全て書籍で覆われています。むろん歴代の蓄積です。二階は回廊になっていて、そこから書物にアクセスします。一階中央部は地球儀や何やら書籍以外のものが集められています。大きな暖炉がいくつもあり、中央のものは一段と大きく、その前にはソファーが何組も置かれています。燃え盛る暖炉の前で、このソファーに身体を預け、ローマ史や先祖の戦闘記録に時の立つのを忘れて読みふけるウィンストンの若き日の姿を想像し、しばし動けないほどの感動をおぼえました。20世紀を代表する“乱世の英雄”、ウィンストン・チャーチルはこの環境が作り出したのだと。
 ぼんやりしている私に、「ここをご覧になった後は、今日は雨も強いので庭をご覧になるより二階を是非お廻りなさい」と職員がアドバイスしてくれました。これが“号外”でご報告した水害地獄への誘いだったのです。

<コッツウォルズ観光補考> 以上でコッツウォルズ報告を終えますが、かなり“やぶにらみ”の観光感と自覚しています。素直に美しい田園を楽しめばいいと思います。限られた時間で英国旅行をする場合(多くの方がそうだと思います)、ロンドンからアクセスしやすいコッツウォルズはやはり一番の見所でしょう。
 私の場合も、マンチェスターを出て初めて目にした田園風景に接した時、言葉を失いました。こんな奇麗な風景が身近に、至るところにあるなんて何て英国は素晴らしい所なんだろうと。しかししばらく田園(田舎)暮らしをするとだんだんこれが日常そのものになります。英国へ着いて間もなくジェフに電話をしたところ、「どうだ?英国の印象は?」と問いかけてきました。「緑の美しさに感動したよ」と答える私に「こちらへ来てみれば分かるが、英国は何処も同じさ」とコメントが返ってきました。そして3ヶ月を経た今、私も「何処も同じさ」の擬似英国人になりつつあります。
 しかし、私の目にはジェフと違い日本製のレンズが付いています。この田園美を英国人とは違う目で見ている面もあります。それを最後にご紹介し本報告を終えたいとおもいます。
ⅰ)広告が全くない
 高速を車で走っても、列車に乗っても沿線に広告が全くありません。あるのは精々ビルや工場のオーナーの名前くらいです。景観を保全するためには相当私権に制限が加わっているはずです。
ⅱ)緑地宅地化への厳しい制約
 ブラウン政権は300万戸の新設住宅が必要と言っています。野党党首も若年層の住宅取得に積極的に取組む姿勢を示しています。この背景にはこのところの不動産ブームでバブルが起き、現業公務員(警察官、看護人、初等・中等教育者など)クラスの人がほとんど自分の家が持てない状況になってきていることがあります。
 新規住宅建設実現には種々の障害がありますが、これだけスペースがありながら宅地の確保が容易でないことが大きな理由の一つになっています。地域住民や地方政府が緑地の宅地転用に強く反対しているのです。また、土地売買に関する法律が広い土地を小分けして販売することを禁じているとも聞いています。ここでも多くの人に犠牲を強いながら緑を守る姿が見えてきます。
ⅲ)都市災害・公害への反省
 これは主としてロンドン中心の歴史的な変遷になりますが、17世紀のロンドン大火、18世紀に始まる産業革命に伴う都市のスプロール現象等から生ずる都市災害・公害への反省が緑地保全に寄与しています。1938年ロンドン・グリーンベルト法が成立、戦中のロンドン空襲なども反省材料となり、都心から20キロ以上100キロまでの間を緑地化することが強力(強引)に進められて来た結果、ロンドン郊外の美観が戻ったと言われています。強権による緑化保全はここにも見て取れます。
 コッツウォルズはロンドンに近く(モリスは、ウィークデーはロンドンで仕事をし、週末家族の住むケルムスコットへ戻っていた)、良質の石炭を算出するウェールズと工業化が進むロンドンやその郊外を結ぶ途上にあって、その土地で石炭が算出しないことだけで現在の幸運がもたらされたとは信じられません。むしろ都市型緑地保全政策の恩恵を受けた(モリスの故郷が産業革命そのものの影響をもろに受け、緑を失っていったことの対極として)のではないかと推察します。“人工的操作によって保たれた田園美”という視点で、コッツウォルズは田園の自然がそのまま保たれている(それしか選択肢のない)私の周辺とは違った意味を持っています。
 是非コッツウォルズを訪れてください。この景観の裏にある英国人の努力を学んでください。そして何時の日かわが国もこんな情景が何処でも見える国土にしたいものです。起伏に富んだ地形(英国人にはこれだけで感激するでしょう。日本アルプス命名者、ウェストンはイギリス人です)、水が豊か、緑は溢れるほどあります。緑を愛でる余裕もあります。世界の人々が驚愕する自然美を育む素地は充分あるのですから。

以上

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