2022年11月30日水曜日

今月の本棚-172(2022年11月)

 

<今月読んだ本>

1)アクティヴ・メジャーズ-情報戦争の百年史-(トマス・リッド);作品社

2)天路の旅人(沢木耕太郎); 新潮社

3)あの本は読まれているか(ラーラ・プレスコット);東京創元社(文庫)

4)鉄道ビジネスから世界を読む(小林邦宏);集英社(新書)

5)英語教育論争史(江利川春雄);講談社(選書)

6)神田神保町書肆街考(鹿島茂);筑摩書房(文庫)

 

<愚評昧説>

1)アクティヴ・メジャーズ-情報戦争の百年史-

SNS話題の脱真実時代、偽情報に依る世論操作は100年前からから始まっていた-

 


国の安全保障や国策を有利に進めるための組織としてCIA(米)、KGB(カー・ゲー・ベー、ソ連崩壊後はFSB)、MI-6(英)などの諜報機関がある。その活動は国内治安維持や軍事・外交情報の収集・分析からクーデター計画の推進、軍事作戦支援、要人暗殺のような謀略まで広範なものだ。そんな活動の中で、地味ではあるが連綿と続けられているものに世論操作(偽情報に依る偽計;これを本書ではアクティヴ・メジャー(積極工作)と称している)がある。第二次世界大戦前ナチスドイツが軍事力(特に空軍力)を実力以上に見せることにで、初期の領土拡大に貢献したことはよく知られるところだ。そしてSNSSocial Network Service;ツイッター、フェースブックなど)を道具とするポストトゥルース(脱真実;客観的な事実報道より情感に訴える情報が信じられやすい)の時代、ブレグジット(英のEU脱退;これは外国からの謀略ではないが)、トランプ対ヒラリー大統領選挙では、巧妙な世論操作が結果を左右したと言われている。本書は1921年から2017年までのおおよそ100年にわたる世論操作を31の実例・テーマで詳しく紹介するものだ。

2003年から2005年にかけて頻繁にロシアに出張した。既にソ連崩壊から10年以上経ていたにもかかわらず中央集権体制は依然徹底しており、何処へ行くにもモスクワを拠点にせざるを得ないようになっていた。モスクワ第一の観光名所は赤の広場とクレムリン、休日にはよくその辺りへ出かけたものだ。定宿ホテル近くのプロスペクト・ミーラ駅から地下鉄で45駅目のルビャンカ駅が乗り換えなしの最寄り駅。深い地下鉄のホームから何度かエスカレータを乗り継いで地上に出ると、そこはソ連崩壊前“ジェルジンスキー広場(中央にジェルジンスキーの銅像が在ったが撤去、広場の名称もルビャンカに変更)”と称するロータリー広場になっており、その向こうに薄茶色の大きなビルが見える。KGBの本部ビルだ。スパイ小説ではルビャンカと言えばKGBの換語となるほど関係深い。

ジェルジンスキーは1920年代の秘密警察(чk;チェーカ)創設者、その後のソ連諜報組織に絶大な影響力をおよぼした人物。第1話はこのジェルジンスキーが主導した“トレスト(合同)作戦”から始まる。国内に反革命疑似組織を作り、偽情報で国外にいる反革命支援者を操り、反革命分子の大量逮捕・処刑と組織壊滅を目的とした6年にわたる偽計作戦である。本書に取り上げられる事件の8割方はロシア・ソ連の諜報組織、чkKGBGRU(ゲー・ぺー・ウー;参謀本部情報部)が絡むものだけに、相応しい書き出しである。

唯一日本が登場するのは“田中上奏文”事件。1927年から1929年まで首相を務めた田中義一が昭和天皇に極秘で上奏したと言われる世界制覇構想(満蒙→中国→米国→世界)。偽物であることは間違いなかったが、NYタイムズにも取り上げられ中国さらには米国の反日プロパガンダとして利用され、外交政策に大きく影響していく。著者はここにもトロツキーやGRUが絡んでいる可能性をうかがわせる。

米国国内の反共対策、ナチスドイツの国威発揚、白人優性主義・人種差別批判(米国;KKKの活動、豪州;白豪主義、西欧の対ユダヤ人観)など、外交・軍事に直接関わらない事例も多々あるが、何と言っても数が多いのは冷戦下におけるソ連による諜報・宣伝戦、巧妙な仕掛けで平和運動や反政府活動を誘導している姿だ。直接表面には出ず、対象国の組織やメディアあるいは識者が意識することなくソ連の意思を代行するように仕向けていく(例えば、エイズ発症米国謀略説の流布)。

インターネットの到来は積極工作に新たな手段をもたらす。ウクライナを含む旧ソ連圏への工作(特に独立派に対する)、他国の選挙や政策策定への干渉、同盟国の分断(例えばメルケル独首相携帯電話盗聴事件)、西側反体制派の利用(例えば、スノーデン事件)。匿名性が保たれ、中間メディア媒体を必要としないだけに“仕掛ける側”に有利な環境だ(出所不明、反論困難)。当にポストトゥルース(脱真実)が日常化している。それにしてもロシア人のこの分野での力は突出している。何がそうさせるのか?これから何が起こるのか?本書に触発される疑念と不安は多い。

著者は1975年西独生まれ、ベルリンフンボルト大学(東独時代)、ロンドンスクールオフエコノミックスで学んだ後フランスのシンクタンク、米RAND研究所などに勤務、現在ジョン・ホプキンス大学政治学教授。

本書の最大の難点は翻訳。誤訳はなさそうだが、直訳調で日本文としての完成度が低く、これが終始気になって内容に集中できない。それ故、百年と言う長期間の情報工作をテーマにする情報量豊富(引用文献リストだけで55頁)な研究成果だが、他人に薦めることははばかられる。

 

2)天路の旅人

-終戦を挟む8年間、チベット・中国西域を探った凄腕日本人スパイの軌跡を、凄腕ノンフィクション作家がたどる-

 


満洲物を読んでいてフッと妄想が浮かぶ。もし、泥沼化した支那事変(日中戦争)を、中国本土撤兵と国民党の対共産党戦を日本が支援することで休戦・和平に持ち込み、代わりに満洲の利権(満洲国承認の是否は置いて)が維持出来たら私の運命はどうなっていただろうか、と。特に、小学校以降の教育(旧制)は如何様だったろう。先ず中学校は新京中学校か奉天中学校へ進み、その後内地の旧制高校か専門学校さらに大学進学もあったかもしれぬが、現地に建国大学(新京、文系官吏養成)、満洲医大(奉天、設立時は満鉄付属)、旅順工大(旅順、技術者養成)、ハルピン学院(ハルピン;現在の呼称はハルビン、設立時は外務省直轄、ロシア専門家養成、杉原千畝は卒業生)などの高等教育機関(いずれも最終的に国立。大学は皆予科を持つ)が創設されていたから、そのいずれかに進んでいた可能性も考えられる。

満洲の他にも、明治維新以降中国本土や植民地(台湾、朝鮮)にユニークな日系高等教育機関(例えば、上海の東亜同文書院)がいくつも設立され、人材を輩出してきたが、本書を読んで内蒙古にもその種の学校が在ったことを初めて知った。張家口を拠点とした蒙古善隣協会が1939年に創立した興亜義塾(専門学校相当、学校所在地フフホト)がそれである。内蒙古からさらに中国奥地の新疆省、青海省、チベット方面への影響力拡大をうかがう国策推進の先兵養成が建学の趣旨。同期生は20数名、専修コースは蒙古斑と回教班の二つから成り、蒙古語・中国語・ロシア語、蒙古事情・回教事情、政治・経済、地理・歴史、畜産さらに乗馬や武術を1年半塾で学びその後1年余を蒙古人の廟(ラマ教寺院)や包(パオ;遊牧民のテント住居)で過ごし3年で卒業となる。1941年に第1期生を送り出し、本書の主人公西川一三(かずみ)は3期生として1943年に蒙古斑を卒業する。この人の8年(1950年帰国)に及ぶ秘境隠密行を、若き日バックパッカーとして香港からロンドンに至る長期バス旅行を完遂、それをまとめた「深夜特急」でノンフィクション作家としての地位を確かなものとした著者が、本人や家族への聴き取り、西川自著「秘境西域八年の潜行」の検証(原稿を含む)、関連文献調査、時に「深夜特急」の体験を交え再現して見せるのが本書の要旨である。

西川一三は1918年生れ、山口県地福の農家出身。長兄は大学進学が叶ったが次男の彼は中等教育で終わらざるを得なかった。しかし、福岡の名門修猷館中学校で学び、1936年満鉄入社、中学・就職で難関を突破したことに優れた資質の証左だろう。軍の進出で満鉄経営は華北におよび天津・北京・包頭(ぱおとう、内蒙古)に勤務、この最後の勤務地で興亜義塾を知り5年務めた満鉄を退社、入塾する。国のために挺身したい、これが動機だ。卒業生の進路は現地進出の民間企業や新聞社、畜産などだが、彼は外務省の出先(張家口大使館)に売込み、中国西北部を探る仕事(一種のスパイ;第3蒋ルート実態調査;ムルマンスクからロシア中央部、カザフスタンを経てウルムチ(新疆省)に至る)を手に入れる。自身も西域に関心が高かったからだ。内蒙古の南西部から先は完全な中国支配地域、ラマ僧に化け、時には駝夫(ラクダ引き)に身をやつし、蒙古人やチベット人の隊商、遊牧民、巡礼者と行動を共にしながらやがてラサに至る(過去の到達日本人は7名、その内5名はインド経由)。砂漠(砂嵐)、高山(吹雪)、無人地帯、飢え・渇き、燃料難、激流、野盗、さまざまな障害を何とかしのぎ、ほとんど徒歩(ラクダやヤクは荷物運搬用)でここまで2年余、終戦情報が耳に入るが実態は不明。しかし、ラサにも中国の影響がおよんできており長期逗留は危険だ。軍資金(銀貨)はとうに尽き、托鉢僧(ほとんど物乞い)になって蔵印公路をヒマラヤ越えでインドへ向かう。インド国境の街で先行していた塾の一期生に巡り合い、彼から敗戦を告げられる。しかし、二人とも日本人であることを隠すため会話は専ら蒙古語、インド人は蒙古人と思っている。それに目を付けたのが英印軍、チベット・中国奥地の最新情報収集を依頼され、密貿易業者に化けて再びチベット侵入。これは一回だけだったが、西川は次の行動(個人的な関心からインド、アフガニスタン方面探査を目論む)のため何度もヒマラヤ越えの密貿易に従事、資金が溜まると再びラマ僧になってインド、ネパールの仏跡を巡る(托鉢、野宿、無賃乗車)。アッサムに鉄道工夫として滞在中インド警察に捕らえられ、19505月帰国。このチベット・西域知見を重視したのが占領軍(米軍)、帰国後1年間GHQでその情報整理に当たる。静岡の女性と結婚、一女をもうけ盛岡で理髪・美容業界向け化粧品卸売業を営み、2008年没。

沢木が西川を知るのは30年ほど前、TBSの「新世界紀行」(4回)で彼の旅が放映されたとき。2度にわたって刊行された「秘境西域八年の潜行」にも目を通し、今から四半世紀前会ってみたくなる。旅そのものよりその後の人生を含めて人物に興味を持ってのことである。従って、会う目的は取材ではなく人となりを知るという点にあった。1年にわたり、月一回盛岡に出かけ土日二晩5時頃から9時頃まで酒を飲みながら主に沢木が問いかける形で旅を振り返る。元旦以外は仕事を休まない西川なので平日が埋まっている沢木と話し合える時間はこの時しかないのだ。しかし、あれだけの難行苦行をしたのに西川から積極的に話題や質問が発せられることはない。これが変わってくるのは沢木が「深夜特急」で体験したインドからパキスタンを経てアフガニスタンに達したことを話した時、この時二人の間に在った薄膜が消えた感がしたと言う。西川もこの道を辿りたかったからだ。やっと心が触れあったところで、この話をどう処理すべきか判じられず(既に立派な自著があるのに何を書けるか?)、沢木は対談の中止を申し出る。それから約20年後西川の訃報を知り、遺族との交流をきっかけに西川一三像を求める活動が再開、7年前から本書の執筆にかかる。所要期間と労力は「深夜特急」をはるかに上回り、内容にそれだけの重みを感じられる出来栄えだ。常に自然体、志は高いが無欲、誰にも目線を合わせて生きる、地味だが好奇心に満ちた西川の人柄が全編に満ちている。帯によれば「著者史上最長の新しい旅文学」。凄い人物、見事なノンフィクション、読んでよかった!「さすが沢木!」これが読後感である。

 

3)あの本は読まれているか

-ノーベル文学賞受賞を阻まれた名著「ドクトル・ジバゴ」を使ったソ連崩壊作戦。どこまでが真実か?-

 


書架を見ればその人が分かる、とよく言われる。納得する一方で「まずいな~」とつぶやきたくなる。私の蔵書に古典・名著は皆無だからだ。 “少年少女世界名作全集”の類は読んでいるが、これは原作とは比べようもないダイジェスト版。そして、中心になる作品は、シェークスピア、ディケンス、デュマなど西欧のものが大部分、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーゴリ―など古典文学で重要な位置を占めるロシア作家の代表作がこの種の全集に組み込まれていた記憶は無い。後年我が国著名人の読書録などを読んでいるとドストエフスキーに影響を受けたと書かれたりしていて、教養不足を質されているような感さえもつ。それでもロシア文学の一端に全く触れていないわけではない。それは映画で補われているのだ。「戦争と平和」「罪と罰」「アンナ・カレーニナ」などがそれらだ。そして、これは古典ではないがノーベル文学賞作家ボリス・パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」も、名匠デヴィット・リーン演出3時間を超える大作で、内容のみならずノーベル賞受賞辞退に追い込まれた理由まで知ることができた。

私の書架にあふれるのはスパイ小説や軍事サスペンス物ばかり。本書もその種のものだが、表題にある“あの本”は「ドクトル・ジバゴ」、高尚な作品が通俗小説の材料になる稀有な構成・ストーリーは、既刊のスパイサスペンス物とは一味も二味も違った作品に仕上がっており、思わぬ読後感を味わうことになった。

著者は1981年生まれの米人女性作家。本書は事実上の処女作だが、出版権オークションで2百万ドルの値が付き、NYタイムズの書評にも取り上げられた話題作。ラーラ(Lara)はペンネームであるが、ジバゴの愛人の名でもあり、著者の「ドクトル・ジバゴ」への思い入れがうかがえる。

時代は1950年から60年の10年間。東西冷戦の真っただ中。主人公は米国とソ連に住む二人の女性。一人はロシア系米国人、米国生まれで母と二人暮らしのCIAタイピストであるイリーナ、ソ連側はパステルナークの愛人オリガ、彼の子を宿したこともある。そしてボリス・パステルナークはこの間1958年ノーベル賞を受賞している(ただし辞退することになるが)。28章にわたる構成は東・西を交互に繰り返し、二人の主人公は互いにその存在すら知らない。唯一の接点は小説「ドクトル・ジバゴ」、ロシア語版がソ連国内で配布されるまでの過程で二人を交錯させるだけだ。イリーナはロシア語能力を認められタイピストとして採用されるが、やがて諜報員に転じる。オリガは前夫との間に二人の子を設けているが、この段階では既にボリスが最も頼りにするパートナーになっており、小説の構想段階からその内容を知る者としてKGBにマークされている。実はボリスも反体制作家として治安当局に早くから目を付けられていたが、スターリンが彼の詩を好んだため、見逃されていたものの、その死後(1953年)監視は厳しさを増し、オリガの強制収容所送りにつながっていく。ボリスの嘆願でオリガは数年後保釈されるものの、二人の自由度は日々狭まっていく。それに比べるとイリーナの日常は平穏で、段階を踏みながらスパイとしての能力と地位を高めていく。最大のヤマ場は「ドクトル・ジバゴ」原稿の海外持ち出し。1957年密かにイタリアに渡ったものが翻訳出版され、以後英語版を始め各国訳が続々と出版される。最後はロシア語版を如何にロシア人の手に渡し、それをソ連国内で流通させ、反体制の世論を喚起するかだ。この場面で主役はオリガからイリーナに変わる。

事実関係を確認しておこう。パステルナークに愛人がいたこと、イタリア人の手で初めて世に出たこと、CIAに「ドクトル・ジバゴ作戦」なるものが存在したこと、ソ連が国家として「ドクトル・ジバゴ」の流通・講読を必死に抑えようとしたこと、は事実である。謝辞を読むと、この事実確認に相当の労力をつぎ込んでいることが分かり、著者の本作品に対する熱意がひとかたならぬものであったことが推察できる。

難点は二つ。本書は単なるサスペンス小説に留まらず、歴史小説であり、政治小説であり、恋愛小説であり、社会小説(特に米国における高等教育を受けた女性の職業)であるため、サスペンス部分が希薄になってしまっている点、ファッションや化粧、料理の描写場面が必要以上にくどい点である。

 

4)鉄道ビジネスから世界を読む

-一帯一路の布石は1950年代から始まっていた。中国の狡猾な世界戦略への対応策を探る-

 


1996年ゴールデンウィークの時期、ギリシャ・ロードス島で開催された国際学会で発表の機会があった。日本は連休だったから渡航予定を早め、数日アテネ観光に費やした。二日目現地の市内バスツアーに参加したところ、日本人家族一組と同道親しく話をするようになった。聞けば東大医学部教授と夫人・教授の母3人で学会参加を兼ね欧州旅行をしているとのことであった。その夜の食事に誘われOKすると、教授のお薦めでアテネ外港のピレウスに出かけことになり、そこでギリシャ風シーフードを堪能した。当時ピレウスのことは何も知らなかったが、古代ギリシャのアテネ海軍基地からスタート、現代ではエーゲ海観光の拠点として、欧州旅客船港として有数の港湾都市であることを教えられた。長いこと忘れていたその都市名を聞いたのは2016年、その港の管理運営権(開発権を含む)が中国の手に渡ったと報じられた時である。IMF債務を返済できず一帯一路政策の拠点として取り込まれてしまったのだ。本書の中で著者は「将来香港割譲と同じように歴史の教科書で扱われる重大事」と不吉な予言をしている。タイトルは“鉄道ビジネス”となっているものの、本書の内容はアフリカを中心に“中国ビジネスの今”を現場から伝えるものである。

著者は1978年生れ、東大卒後住友商事入社5年で独立、花や水産物を扱う商社を起業。ケニアやアゼルバイジャンのバラ、ブルガリアのアカニシガイ(巻貝の一種)、チリのウニなどの輸出入などを取り扱っている、ヴェンチャービジネス精神に富んだ人物。

鉄道に関しては、トレヴィシックとスティーヴンスンの世界初の蒸気機関車から、軌道ゲージ戦争、米大陸横断鉄道敷設と中国人苦力、インドネシア新幹線導入に際しての日中の争いまで雑多な話が満載だが、重点的に取り上げられているのはアフリカにおける中国の鉄道ビジネス。驚くべきことに、1950年代から中国がそれに関与していたことである。貧しい中国が貧しいアフリカを支援する「南南協力」がそのきっかけ、今や中国による鉄道建設は35カ国に及んでいるのだ。鉄道の他高速道路、港湾整備、それに多数のスタジアム建設、ビッグプロジェクトが中国援助の下で進められてきている。当初は、宗主国に見捨てられた植民地救済とその見返りによる孤立していた共産国家支援体制づくりを目的に、安い自国労働者投入で細々と行われていたが、旧植民地が自立し強権統治国家に変じてくると、その国家運営と中国の経済進出戦略が同調し始める。世界銀行、IMFその他先進国の援助はカネの流れの透明性や投資効果を厳しく求めるのに対して、中国のそれは極めて緩い。為政者にとっては公私ともに都合の良いパートナーなのだ。あとから生ずる種々の問題;債務の罠と担保処置、雇用問題(おいしい仕事は中国人に取られてしまう)、中国人コミュニティの発生と地場経済支配、投資最終目的未達(利用度、経済効果)、稼働後の杜撰な保守、などについて国の統治者は何も考えていない。アフリカに限らず発展途上国鉄道建設プロジェクトに関しては日本のみならず欧州ももはや勝ちみがないのが実情なのだ。著者はここで経済援助に対する“先進国スタンダード”と“中国スタンダード”を対比させ、ことの良し悪し・採否は一先ず置き、「マルチスタンダード」の存在を冷静に自覚すべし、と説く。

一方で、先進国(特に日本)海外ビジネスの問題点を指摘する。高価格維持を目的とした多機能化、汎用化や高性能化が現地のニーズにマッチしないことだ。鉄道にとって安全性維持は必要条件であるが、速度を落とせば安全性が確保できるときに過度な安全対策でコストアップになっている点、他の交通機関(クルマ、飛行機)との調和を配慮していない点(これは政治レベルで時に話題になる米国での新幹線プロジェクト。現地の人は全く必要性を感じていない)、などが質される。商品開発の段階から現地事情に適合した(あるいはたまたま合致)例もある。ウォッシュレットは中国のみならず東南アジアにも急速に普及している。用便後素手で始末し、柄杓で汲んだ水で手洗いしていた人々に、これほど衛生環境を変えてくれる道具は無いからだ。ドイツ製品の評価が高い印刷機械ビジネスでは、小森印刷がアジア人の体力に合わせた小型機をヒットさせている。「汎用性を追わず、目的を絞った製品で勝負を!」が著者のアドヴァイスである。

新書160頁に中国関連を中心に海外ビジネスがてんこ盛り、いささか焦点がぼけるが、現場で奮闘している人の生の声「現実を直視せよ!」は伝わってくる。

 

5)英語教育論争史

-明治維新来問われる役に立たない英語教育100年。繰り返す論争に終わりはあるのか?-

 

 


戦後の新しい学制がスタートしたのは昭和22年(1947年)4月、小学校はそのまま6年制(プラス高等科2年があったが中学受験は初等科6年で可、高等科は規模小)、5年制の旧制中学は3年制の新制高校に変じ、大学は3年が4年に延長され、旧制高校は大学の教養課程(前期2年)に組み込まれた。全く新しいのは新制中学校のみである。校舎も無く教員も存在していなかった。教室は小学校を午前・午後の2部授業にし、一部の教室を新制中学のために割いていた。先生の前身は種々雑多、復員兵、失業者、社会人兼夜学生。どんな資格要件だったか知るすべもなかったが、私の入学した昭和26年(1951年)、英語以外は一応専門の担任教師が揃っていた。ただ、戦時中の英語教育制限・中止の影響もあり、きちんと学んだ英語教育専門家が払底、わが校の場合1年生2学期まで体操の先生が時間を減じて代行しているようなありさまだった。従って、英語教育のバラつきが激しく、都立高校入試(私の場合、昭和29年度)に英語の試験が無かった。本書を読み、この状態は明治初期外国語教育を開始した時と酷似していることを知った。否!専門教員不足以外にも、当時からあった英語教育問題が連綿として現在まで続き、甲論乙駁を繰り返しているのだ。根幹にある問題意識は「労力と時間をかけた割には、使いものにならない」こと。本書では1880年代から1980年代までのおよそ100年間の英語教育で起こった争点それぞれに1章を割き、争いが起こった時代順に進めていく。

各論点は以下の通り;①何歳から始めるべきか?(小学校教育論争;明治期)②訳読か?会話か?(学習法論争;明治-大正期)③教養か?実用か?(中学校教育論争;大正-昭和戦前期)④全員に必要か?(義務教育要否論争;昭和戦後初期)⑤国際化に必要な英語とは?(平泉澄(国際化人材選択コース)vs渡部昇一(広く浅く)論争;昭和後期)⑥英語だけでよいのか?(英語帝国主義論争;平成期)⑦なぜ英語を学ぶのか?(英語教育論争総括)。いずれも身近に感じてきた話題ばかりである。

それぞれの章の進め方は、以下の順序で展開される。論争発生の時代背景(例えば、①何歳から?;不平等条約解消を目指し、治外法権居住地の外国人に全国自由に居住を許す「内地雑居」策)→異なる意見とその発信者・支援者(反対論;小学生は自国語教科を学ぶだけでも精一杯、専門教育を受けていない小学校教師に指導は不可;当時の小学校は尋常小学校4年(義務教育はここまで)、高等小学校4年から成り、高等科2年終了で中学受験可)→論争の結末(不平等条約改定はならず論争はおさまる)→著者のまとめ(1885年の段階でこの論争が起こっていたことに驚くとともに、端緒の内に問題が顕在化したことは貴重と評価)。いずれの段階でも出典を明らかにし、綿密な分析が行われる。

終章が“なぜ英語を学ぶのか?”になっているように、英語を学ぶ必要性・動機が最も重要な論点と考える。ここで問題となるのが実態として“受験”が大きなウェートを占めていることである。私自身、父が東京外語(仏語)出身と言うこともあり、子供の頃から外国・外国語に憧れたが、そこへ出かけるのは夢のまた夢だった時代、最大の動機は高校受験には不要でも大学受験必須にあった。教養・実用以上に受験に必要な英語、この学習環境が英語教育に繰り返し論争を起こす因となっていることを本書でも直接・間接に問題視している。だからと言って大学入試から英語を外すことは難しい(論争史の中でたびたび「選択教科にすべし」の意見が現れるが、受験必須で排される)。焦点を絞り込めない学習目的、すべての論争は議論を尽くさぬまま終焉し、再びゾンビのように吹き返すのが英語教育論争史なのである。

英語に関する著書は比較的本欄で取り上げており、一部は英語教育史的かつ論争を含む内容のものもあったが(例えば、鳥飼玖美子著「通訳者たちの見た戦後史」本欄20217月)、本書ほど広範で長期間わたるものを目にしたことはない。英語教育問題を総覧する視点で極めて価値ある一冊と言える。

著者は1956年生れ。大阪市立大学(学士)、神戸大学(修士)、広島大学(博士)で学び和歌山大学名誉教授(英語教育学、英語教育史専攻)。高専から一般大学に転じたユニークな経歴を持つ。

 

6)神田神保町書肆街考

-世界文化遺産になってもおかしくない古書店街の歴史を多角的に追う、愛書家必読の大著-

 


“神田の本屋街”を知ったのは、小学校6年生になり上野広小路近くの黒門小学校に転校した時(1950年)。乗り物好きの私にとって万世橋の交通博物館は都電で直行できた最初の冒険地だ。次はその先の須田町に在った有名な鉄道模型店まで足を延ばした。須田町は靖国通りと中央通りの交差点、冒険活動は北に向かい、淡路町・小川町を経て駿河台下に至る。こうして神保町界隈の書店街を見つけた次第だ。中学・高校時代は専ら受験参考書を求めて訪れたが、古書店には用は無く当時としては大型書店だった三省堂か東京堂を利用していた。また大学時代は学校周辺にいくらでも書店があったからそこで事足りていた。この街が再び身近になるのは1966年それまで大手町に在った本社が新設のパレスサイドビル(最寄駅竹橋)に移って以降、神保町は指呼の間、昼食とその後の休憩時間をしばしここで過ごし、それで知った二つの店をよく利用するようになった。一つはすずらん通りの画材店文房(ぶんぽう)堂(明治20年文房具店として開業)、版画材や道具が揃っていることではおそらく日本一だろう。もう一店は神保町交差点を靖国神社方面(北)に向かい岩波ブックセンター(廃業、岩波書店の経営ではない)の先の路地を西に入った所に在る軍事古書専門店文華堂である。この書店街には本を求めること以外にも価値があった。それは本社を訪れた外国人の観光散策である。パリやロンドンにも書店街はあるが、これだけの規模はないようで、ハイな気分になって浮世絵版画や日本美術の本を衝動買いすることもあった。本書の単行本発刊は2017年、当時から知っていたのだが、五千円近い値段に躊躇していたところやっと文庫本(それでも800頁、2200円)が出てきたので早速読むことにした。因みに、書肆(しょし)は書店の意だが、“肆”には“いとぐち”の意味もある。

とにかくすごい本だ!通り一遍の商店街史ではない。地史、文学史、大学史、語学教育史(前項で紹介の「英語教育論争史」と内容が重なり相互理解が進んだ)、洋学史、政治行政史、出版史(流通、印刷を含む)、さらに風俗史でもある。

江戸時代を代表する学問所は昌平黌と蕃所調所、前者は国学、後者が洋学を旨とした。前者の所在地は湯島に在ったが、後者は九段下→小川町→一橋門外(現在の学士会館の近く)へと変遷する。当時この周辺は旗本・御家人屋敷の街であったが維新後彼らは徳川家に従い駿府に去ったため、広大な武家屋敷のあちこちが空き家になり蕃書調所は洋書調所と改めて居をその一画に構えることになる。これが東京大学の前身。そこへ入学するための予備門(のちの旧制第一高等学校)や外国語学校(現東京外国語大学)、さらには私立として設立された商法講習所も国立の東京商業学校(現一橋大学)となり、この地に続々と設立される。加えて、近代国家への第一歩は法体系の整備、政府は英・米・独・仏に手本を求め、これと併せて長く存在した代言人を弁護士制度に改める。ここに私立の法律専門学校、現在の明治大学(仏)、中央大学(英)、法政大学(和仏)、専修大学(米)、日本大学(和)の前身が様々な背景(学閥、政治、留学など)を持って誕生する。これらの専門学校が集中した理由は、講師陣の多くが東大法学部教授や司法省の役人の兼務であったからだ。やがて東大と一高は本郷へ、外語大・一橋大もそれぞれ別の場所に移るものの、これだけ学校があれば大量の書籍需給が生ずる。特に教科書(主として洋書)は修業後不要になるから売り手買い手に困らない。明治10年代の書店配置図を見ると、古書店ではないが、既に冨山房、三省堂、有斐閣など現存する書店名が記されている。

近代化の過程で様々な法律が制定され、この商売にも影響を与えていく。“古物取締条例”はそれまで新刊書・古書の別なく取り扱えたものを峻別することになる。古書売買には古物商としての届出・認可が必要となり、専門店が生まれる。これに“出版条例”や江戸時代の書籍流通ギルド“書林組合”のしきたりも影響、神保町に古書店が集中するようになっていくのだ。書籍は重く流通は限られた域内で行われていたが、近代化による鉄道・郵便・ジャナーリズム(特に広告宣伝)の普及で全国規模の古書流通が可能になる。洋書の教科書売買から始まった古書ビジネスは、洋装版和書、和装書へと広がり、高価な稀覯本・美術書(この種の取引の難しさ、特に値付けなども紹介され、興味深い)もここを中心に取引が行われるようになっていく。

初期の店主はリストラされた武士が多かったこと、戦後多く存在した映画館の想い出、時代の変遷でスキー用品店が軒を連ねた様子、中華街としての神保町、ときに書籍以外にも転じる話題で「知の血流で心臓の役割を持つ街」の歴史を学んだ。

著者は1949年生れ、東大仏文科出身の仏文学者。共立女子大学(1978年から30年)および明治大学元教授、共立時代は神保町に仮住まいし、その後も事務所を持つほどこの地に詳しく愛着を持っている人物。本書は筑摩書房の広報誌「ちくま」に6年連載されたものをまとめたもので、索引が人名・組織名(学校名、店名など)と出版物名に分けられ充実、史料的価値が高い。


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