2016年9月30日金曜日

今月の本棚-97(2016年9月分)


<今月読んだ本>
1) 定理が生まれる(セドリック・ヴィラーニ):早川書房
2) 電気革命(デイヴィット・ボダニス):新潮社(文庫)
3) <情報>帝国の興亡(玉木俊明):講談社(新書)
4)馬を飛ばそう(ケヴィン・アシュトン):日経BP
5)インターネットガバナンス(ローラ・ディナルディス):河出書房新社

<愚評昧説>
1)定理が生まれる
2007年、現役を退き念願だったOR(オペレーションズ・リサーチ;応用数学の一分野)歴史研究のために渡英した。入国手続きに際し「何のために入国?」と問われたので「Applied Math.(応用数学)歴史研究のため」と答えたら「オー!」と入国管理官が絶句した。その後もレストランや列車の中で同じような質問を受け、その都度「Applied Math.の歴史研究」と言うと、一様にびっくりしたような、それでいて何か一目置くような表情でこちらの顔をまじまじと見つめる。中には「素晴らしいことだ!」と一言加えてくれる人も居た。どうやら“歴史”を落としてしまって“応用数学の研究”と誤解しているふし無きにしも非ずだったが、悪い気はしなかったのでややこしい説明はしなかった。
しかし、本欄で何冊か紹介した“工学部ヒラノ教授シリーズ(ヒラノ教授は応用数学者、父は純粋数学者)”をお読みの方は既知のことだと思うが、数学者の世界では応用数学は純粋数学より下に見られているのは厳然たる事実であり、これはどうやら我が国に限ったことでも無さそうである。ただノーベル賞に限れば純粋数学者は皆無だが、応用数学者の何人かは経済学賞を受賞している。
この誇り高き純粋数学者、先々月の本欄で取り上げた“カルチャロミックス(ビッグデータの人文科学への応用)”に依れば、若くして名声と富を得られる職業の中で“数学者”は最も恵まれない位置にあるとされているし、この結果は数学に馴染みのない人でも何となく同意するところではなかろうか?「彼らは俗世を離れ、霞を食って生きているに違いない」と。本書はそんな仙人が住むような世界で(富はともかく)名声を手にした若い純粋数学者の、受賞までの短い日々を記した日記風エッセイである。
受賞した賞は数学界のノーベル賞と言われる“フィールズ賞(4年毎で4人を限度に複数人)”、受賞年は2010年。ノーベル賞との違いは数々あるが(賞金;ノーベル賞約1億円、フィールズ賞2百万円)、最も際立つのは“受賞時までに満40歳を超えていない”と言う制約であろう。つまり比較的若手数学者の直近の業績が対象となる。過去の受賞者は米国13名、フランス12名が突出しており、それにロシア(9名;これは冷戦後だけだから凄い!)、英国(7名)が続く。因みに日本人は、小平邦彦(1958年)・広中平祐(1970年)・森重文(1990年)の3人。また第一回(1936年)選考委員の一人に高木貞治がいる。
著者、セドリック・ヴィラーニは1973年生まれのフランス人、エコール・ノルマル(高等師範学校)教授、ポアンカレ-(数理科学)研究所所長。37歳の受賞である。受賞対象研究は、熱力学で重要な位置を占める“ボルツマン方程式(気体の熱伝導・拡散運動方程式;1872年導入;ニュートン熱力学の基礎を深めた)”に関するもので、それまでいくつかの条件付きで成立していたこの方程式の制約条件の一つ(ランダウ減衰)を解き放つ数理を発見したことに依る。
20083月、リヨンに在るエコール・ノルマルの研究室で共同研究者(助手;クレマン・ムオ)に長年懸案になっているボルツマン方程式の(一つの)条件なし解法発見に取り組むことを伝えるところから本書は始まる。受賞年が2010年であることを考えると、論文発表・審査の時間を除けば1年半くらいの間の出来事である。この間約半年、著者はプリンストン大学高等研究所で客員研究員としてこの研究を続けるのだが、ムオはフランスに留まり専ら時差を利用したメールのやり取りで、両者の研究成果を伝え検証する試行錯誤が繰り返される。夫人・幼児同伴しての異国での生活は当然予期せぬ負荷がかかり、研究の合間に子育てを含めた家庭サービスにも時間を割かなければならない。決して平坦な道のりではないのだ。それでも夫人を含め米国の暮らしを前向きにとらえているところは「さすが!」の感さえ読む者に抱かせる。また研究の日々を語る中には、関連分野における研究の先達・仲間の業績なども紹介され、先端純粋数学の世界を垣間見せてくれる。
終章に近づくとポアンカレ研究所(パリ在)所長登用に関する政治的な話題や投稿論文不受理と再挑戦など生臭い話も現れて、「霞を食って生きる」ような人柄ではこの世界の勝者になるのは難しいかも、と言う気にさえなってくる。つまり若手なのになかなか俗事にも長けているのである。
興味深いのは音楽に関する話題が随所で語られることである。初めはクラシックから入ったようだが、今は専らニューミュージック系?お気に入りのシャンソン歌手の歌が思考過程に必須なのだ。
本書には問題解決に至る関連方程式がかなり出てくるが、無論私に理解できるものではなかった。しかし、これをすべて飛ばしても、純粋数学者の世界を知る面白さが失われることはなかった。はっきり分かってきたことは、“定理が生まれる”のは“神の啓示”などではなく、どんな所・時でも研究に取り組める行動習慣と優れた協力者(ムオ)の存在が大きいと言うことであった。

2)電気革命
機関車(小)→飛行機(中・高)→自動車(大;卒論は“ガソリンエンジンの調速”)と対象が変遷したものの、小学2年生からのエンジニア志望である。小学校では理科部に所属したがカエルの解剖や植物の成長には全く興味が持てなかった。そこで中学ではラジオ部に入部した。初めは校内放送でも担当するのかと思ったが予想違い、ラジオを自作するのである。部品購入に学校支援は全くなく自費負担である。当時(昭和26年;1951年)の金額で千円用意する必要があると上級生から言われる(顧問の先生はいなかった)。ノンキャリ国家公務員である父の月給はおそらく34千円程度ではなかったろうか?日々の生活を考えるとても頼める金額ではない。それでも恐る恐る両親に部活のことを話した。翌日授業中に呼び出し電話がかかってきた。「ラジオを作る費用、出してやる」 何か工面がついたのだろう、役所からの思いがけない知らせだった。作るのは“並3(なみさん)”と呼ばれる3本の真空管(検波、整流、増幅)を使った最も初歩的なラジオである(この上は真空管が増えて、並4→高15球スーパーと高級になっていく)。数日後一駅先の秋葉原まで先輩に連れられて部品を買いに行き、原理と配線図の見方を教わりながら1ヵ月位かけて何とか作り上げた。ミカン箱を丸くりぬいてスピーカーをセットしたそれから、音楽や音声が聞こえた時には初めて体得した電波の力に感激した(小学校時代電池で動くモーターや点滅装置は作っていたから、電力の力は分かっていた)。父は間もなく静岡に単身赴任、このラジオが一人暮らしの慰めになると喜んでくれた。しかし、そんな感動があってもそれ以上電気に興味は持てなかった。
土木・建築や機械は必要性もその歴史的発展もよく理解できる。化学は錬金術の延長線や薬品類の発見で、多くの偶然に頼ったものの、それらの進歩の過程を通じて身近に感じられる。しかし、電気(電力、電波)の実態をとらえ、それを活用する術を見つけるのは、他の技術とは比較にならぬほど近寄りがたく感じたからだ。本書はその難しく革新的な事象である電気を現代社会に不可欠なものとした先駆者・開拓者にまつわる話である。
人類が電気の存在を知るのは、稲妻、次いで静電気である。しかし、それが何であるかは18世紀末イタリア人ボルタが静電気の発生源を突き詰めるため、自らの舌の上に銅板と亜鉛板の小片を乗せ、両者の一端を接触させたとき、舌が感じた“ピッ”と言う感覚のもとを探るまで明らかにならなかった。初めての人工的な電力、ボルタの電池はこの研究の成果として生み出されたものである。導線の中を電気が流れる、電流・電圧という概念が生まれ、これを利用する技術が少しずつ現れる。最初は電信(モールス)、そして電話(ベル)。この電話開発にかかわる話は感動的だ。ベルはある裕福な家庭の令嬢の家庭教師、勉学指導だけのそれではない。この令嬢は極度な難聴者であったのでその方面の特殊技能者であったベルが、会話の指導をするのである。やがて二人は恋をし、両親の反対を押し切って結婚。この妻のために音声増幅装置として電話が発明されるのである。導線に電気を流すと周辺に電磁気が生ずる。逆に円形に幾重にも巻いた導線の中で磁石を動かすと電流が発生する。発電機と電磁波利用の原理はファラデーによって発見されるが、英国王立研究所の下働きであった彼の説はなかなか受け入れられない(高等教育を受けておらず数学に弱かった)。若い友人のマックスウェルに助力を求め、やがて“三本指(磁力、動力、電力:左手;モーター、右;発電)の法則”が認められる。これらの話に発明王エジソンが絡むのは言うまでもない。
無線通信・ラジオのマルコーニ、共振・周波数理論のヘルツからレーダーの発案者ワトソン・ワット(ジェームス・ワットの末裔)、コンピュータ(万能マシーン)のチューリング、そして最新のAI研究や脳科学まで、電気が果たしてきた数々の実績を語り、これからますます発展する可能性をその研究開発に当たる個人をクローズアップしながら全編が構成される。この個人に焦点を当てることで、一般読者の興味を持続させるところに単なる電気技術史に留まらない読み物としての面白さがある。理系バックグラウンドの無い人、中学生・高校生にも十分理解できる記述、新潮文庫として取り上げられた理由はこの辺にあるのだろう。
著者はオックスフォード大学の科学史教授。従ってやや英国人に重きが置かれるように感ずるが(イタリア人と思っていたマルコーニが本来英国人であることを本書で初めて知った。母の再婚相手がマルコーニというイタリア人だったのだ)、いずれも電気技術発展史上不朽の業績を上げた者たちだから不公平感が残るほどではない。

3)<情報>帝国の興亡
“情報”に対する関心は二つの点で極めて強い。第一は仕事で深く関わる広義の情報技術(コンピュータを中心とするITのみならず、文書や通信を含む)、もう一つは軍事・外交における諜報・防諜活動(暗号解読なども含む)である。前者はどちらかと言えば、社会・経済面で革命・革新を果たした技術への関心が高いのに対し、後者は軍事作戦や外交交渉に不可欠で、人間のネットワークやパワーゲームに共通する因子(例えば駆け引きやだまし合い)に惹かれる。書店で平積みされた本書を見た時、“電信・電話”からは前者を、“国家・“覇権”からは後者を思い浮かべ、新書と言う軽さもあって「どっちらでもいいや」と購入した。
結論から言えば、本書の内容は前者。情報関連技術の発明・発展に依る経済覇権の変遷を5百年にわたって辿り、インターネット社会の出現で覇権無き世界が訪れつつあるというものである。
最初に取り上げられるのは15世紀におけるグーテンベルグの活版印刷術。ルターの宗教改革における大きな役割(聖書の大量出版)はよく知られているが、ドイツの隣国オランダは当時最も宗教に寛容な国家で、他国では出版不能な内容のものでもここでは可能なため印刷業が隆盛を極める。幾種類かの「商人の手引書」出版を皮切りに、海洋国家としての先進性と相まってアムステルダムは印刷された商品取引価格情報配信(それまでは伝言ゲームのようにして伝わっていた)の中心地となり、世界経済の覇権(ヘゲモニー)を握る。
このオランダの覇権が崩れるのは18世紀。英国の帝国主義政策が海洋国家スペイン・ポルトガルを抑えて、世界に領土を広げる。この広がった世界を統治する手段は電信であり、海底電線の大部分は英国によって敷設され、それを通じた情報はすべてロンドンに集まり、そこから各地に発信される。ライバル国家もこの通信網に頼らざるを得ず、英国の覇権がしばらく続く。因みに長崎がロンドンまでつながったのは1871年、上海経由であった。
次の覇権国は第一次世界大戦後の米国、通信手段は電話である。英国が国策として外に対して覇権国家を目指したのとは異なり、広大な国土が一つにまとまる過程で、先ず国内で他国とは異なる技術の普及が進んだと著者は捉える。電話である。肉声に対する信頼性は米国民の消費行動を変えたばかりではなく、企業間の関係も電信時代とは異なり、スピーディな多国籍企業活動を可能にする。加えて、圧倒的な軍事力、国際機関(IMF、世界銀行)の支配を通じて世界経済の覇権を握る。
しかし21世紀に入りインターネットと携帯電話の世界的普及は、それが米国発のシステムであるにもかかわらず、誰がそれを支配しているのか分からぬ状態にあり、覇権無き世界が出現しつつある。これからの世界はどうなっていくのか?
以上が本書の骨子であるが、読後にいくつもの疑問が残る一冊だった。例えば、“情報”を外し“(商業・ビジネス)覇権国家の興亡”としても大体こんな流れ(オランダ→英国→米国)になるのではなろうか?オランダの場合、“情報”以外の要素、例えば造船・海運力あるいは蘭領東インド;現インドネシアの香辛料などの寄与度がより高いのではないか?英帝国も電信の力は七つの海を制した後それをさらに強固にしたに過ぎないのではないか?米国の覇権と電話の関係はそれほど強いのか?(本文中で言い訳している部分はあるが、米国覇権は国内需要・技術力・生産力・軍事力・外交力などが総合された力から来ているのではないか?)、インターネット・携帯電話における中心不在が覇権無き世界というが、これは米国一極体制の崩壊(世界の多極化)が“情報”依存だけで片付けられないことからも、牽強付会感を免れない、などなど。また、個々の情報技術が社会・経済・軍事などに与えた影響については既によく知られていることが多い(例えば、英国と電信;“ロイターの奇跡”、“ニュースの商人ロイター”)。さらに、文中に「ようだ」「かもしれない」が多い。一言でいえば「経済史としての着眼点は面白いが、詰めが甘い!」

4)馬を飛ばそう
IT関連の用語には業界関係者だけに通じる略語が多い。このIT(アイ・ティ)にしても“イット”と読んで笑い者になった総理大臣がいたが、業界に長く縁のあった者でも新略語に戸惑うことは例外ではなかったし、現役を離れて10年近く経つと、先祖返りに近い状態になっている。IoT(アイ・オー・ティ;Internet of Things;物のインターネット;PCやスマートフォーンを介さず、物(トラックから口紅まで)に受発信機能が埋め込まれ、直接インターネットにつながる状態)と言う文字を初めて見た時(78年前)「いったい何のこっちゃ?」と思ったが、今や我が国の法律の中にしっかり記されるくらい普及している。本書の著者ケヴィン・アシュトンが1999年、勤務先のP&G商品に無線タグを付けインターネット経由で商品管理を始めた際に用いたらしい。
本書を書店で見た時、奇妙な題名にまず目がいった。しかし、その下に“IoT提唱者が教える・・・”とあり、「これは最新のIoT情報に触れられそうだ」と思い込み、中身を確かめもせず買ってしまった。最初のぺージ“日本語版に寄せて”を読み始めて「エッ?そんな本なのか!」となってしまった。「この本では、新しいものがどのようにして生まれるか、その過程を明らかにする」とあるではないか!創造性はいかに育まれるか、アイディアいかに生み出されるか、それを多面的に解析し啓発することを目的に書かれたものだったのである。ここではIoTはその一例に過ぎないのである。見当違いの買い物であったが、知らざる世界に思いがけず触れられたと言う点で読んで得るところの多い本だった。
創造対象の多様さ;作曲、小説、映画・TV製作、病原菌・病理の発見、植物栽培、飛行機やITなど新技術発明、新ビジネスモデルなど広い分野が網羅される。創造性・創造力追究の多角な視点;哲学、心理学、教育学、医学、工学、社会学、経済学、歴史学などあらゆる学問が動員され、裏付けになるデータや理論が示される。また特定個人に対する“神話”が検証されそれらが質される。対象人物は;モーツァルト、ライト兄弟、ウディ・アレン(映画製作者・演出家)、スティーヴ・ジョブス、ロビン・ウォレン(ピロリ菌発見者)など有名人からバニラの人工授粉法を発見した黒人奴隷少年まで多彩である。
本書によれば、“誰が何を生み出したか”に関する記録は13世紀半ばから残っており、1417世紀のルネッサンス期から増え始め、その後一貫して増えている。しかし、それまでの創意・発明・発見は“天才の閃き”説が専らであり、20世紀になって脳科学の発展から、誰でもその才があることが明らかになってきた。つまり創造性は特別な人に具わったものではないと言うことである。
では凡人が創造力を発揮するためにはどんな生活環境・態度が必要なのか。著者は、多くの発明・発見は突然生ずるものではなく、それに関連した先行努力との連鎖が実ったものと見ている。そのためには創造に対する情熱と知性(知力ではない)の安定(賢さをひらけさせず、事実を重んじて真実を追究する)が必要と説く。別の言い方で要約すると“創造は魔法ではなく、地道な努力の結果である”と言うことになる。何とも平凡で拍子抜けするメッセージである。ただ本書をきちんと読めば、この結論に至る興味深い事例や正統な研究成果・理論から、多くのことが学べる内容になっている。
それらからキーワードを拾うと;自分のために創造する。常に初心を忘れない。報酬がやる気をなくさせる。行動しながら考える。ブレーンストーミングは効果なし。天才にさようなら。これだけ見れば安手のビジネスマン啓発書のようだが、原注・参考文献リストが60ページに及ぶ本格的な研究啓蒙書である。
人間は変化に対して変化で立ち向かうのだ!発明の母は「必要」ではない。発明の母は「あなた自身」だ。
原題の“馬を飛ばそう(How to Fly a Horse)”は暴れ馬のような機体を安定的に飛行させるまで諦めなかったライト兄弟の努力を表す。

5)インターネットガバナンス
1971年、高度成長の真っただ中、石油精製・石油化学の大規模新鋭プラントを稼働させた。主要プラントはすべてコンピュータコントロールされ、次はこれらをネットワーク化して工場全体の最適操業管理実現を目指すことになり、その構想づくりメンバーに加わった。担当した役割の一つに最先端コンピュータ・通信および自動化技術の調査があった。ここで目にしたのがARPAnet(アーパネット)と呼ばれる、米国防総省高等研究局(Advanced Research Project AgencyARPA)が進めている、軍研究機関や大学の大型コンピュータを通信ネットワークでつなぎ、巨大で複雑なアプリケーションを処理する全米規模のシステムである。目的は“核攻撃に耐える”危険分散にあると言われていた。単に大型コンピュータをつなぐのではなく“パケット交換”と言う新たな通信方式が導入され、専用回線を使わずに大量のデータ授受が可能なのだ。これがインターネットの始まりである。
当時手にしたARPAnet構成図には30台前後の大型コンピュータとそれらをつなぐ通信回線が描かれていたが、慣れ親しんだ階層型でも放射状型でもなく、何とも乱雑な結びつきで、どこが全体を統御しているのかさっぱり理解できなかった。そしてその出自を受け継ぐインターネットの今に続くのである。「一体全体インターネットの統御(ガバナンス)はどうなっているのか?」これが本書の主題である。
インターネットのガバナンス(統御・統制)とはそもそも何のことか?著者の定義によれば「特定の一つの管理者を持たないインターネットを運営する方法や体制」 異なる国で異なる文化の下で異なる主体によって管理されているが「インターネット全体に責任を持つ管理者はいない」
多種多様な通信内容をいかに捌くかと言う疑問をハードウェアの視点で眺めると、どうしても階層や放射状構造を思い浮かべてしまう。確かに国や地域によって幾重にも結節点はあるのだが(我が国全体をまとめる結節点は大手町某所に在る)、基本機能は交通整理に近いもので、システム上何か特別に強い権限を持つわけではない(検閲、遮断の手段にはなるが)。コンテンツの中にはポルノや犯罪に関わる情報も多々あり、これを取り締まる方策が必要なことは利用者としても認めるところだが、それは基本的に国家が定める法の役割で、グローバルに広がるネットワーク上で全体を統制することは出来ない。せいぜい国が自国のプロバイダー(例えばnifty)に警告を発するくらいが限度である。本書でもガバナンスの一分野として、これらハード、ソフトによる検閲、取り締まり、プライバシー保護などにも触れるが、紙数が多く割かれるのはIPアドレス(メールの個人ID)やドメイン名(組織が持つ名前)の管理に関することである。そしてその影響力が発足時に比べ途轍もなく現代のインターネット社会で大きくなり、国家・国連を巻き込んだ論争を呼んでいること説き、今後の在り方を論ずるのが本書の骨子である。
ARPAnet発足時、そこに在ったコンピュータおよび利用機関は2030に過ぎなかった。事務局機能を果たす個人が紙の表でIDとドメイン管理をしていた。ネット接続者の増加に伴い、やがて米国商務省(国防総省は軍事ネットワークをARPAnetから切り離す)が指名する特別な管理組織(IANAICANN;民営化の一環;かつてのARPAnet個人管理者が中心になる)にその業務を委託するようになる(現在もこの形態を継続)。さらにこの組織はある程度の自由度を持たせて、この権限を民間企業に与え、それが地域や国別のプロバイダーへと多重化して、いくばくかの金銭授受が行われる。いわば家元制度のようなものである。ただ本書では金銭は大きな問題ととらえていない。問題は命名権の持つ計り知れぬ社会・政治・経済・文化に対する影響力とこれを一米国民間団体が執り行うことの是非である。
当然のことながら国際電気工学会(IEEE)や国際標準機構(ISO)などが国連を通じてこれに対抗する動きを起こし、欧州を中心とした国家がそれに加担する。一方IT分野特にインターネット関連技術で先行する米国では、民間特定団体に特権を付与していることに疑問は投げかけられているが、国連の働きかけには議会を含め反対する空気が圧倒的に強く、著者もその立場をとる。その本音は「国連は烏合の衆(一国一票)。決定に時間がかかり、遅れたものに標準を合わせることになる。その先に米国の力を弱めようとする下心が見え隠れする」と言うものである。個人的に国連中心の権限移譲に関しては全く同感「よく言ってくれた!」と快哉を叫びたい(198090年代、日本の製造業はどれだけ(遅れた欧州主体の)ISOに足を引っ張られたか!)。
ただし、特定個人・組織への集中攻撃(炎上)、各種セキュリティ対策、国家による検閲・規制・情報削除要請、地域結節点認可、犯罪捜査とプライバシー保護、知的財産権問題(例えばドメイン名)、競合プロバイダーによるライバル情報のフィルタリングや相互運用規制、匿名性の是非、研究論文などに例を見る海賊行為などインターネット運用には問題山積み。現状がベストでないのは明らかである。
本書は技術的視点から社会、政治を見つめる研究報告書的な性格を持つものなので、専門分野の人には大いに薦めるが、一般読者には少し取り組みにくいかもしれない。
著者はアメリカン大学コミュニケーション大学院教授、米国務省国際情報通信アドヴァイザリー委員会委員で世界的なインターネットガバナンスの権威者。
訳者は現在総務省情報通信国際戦略局所属のキャリア官僚。訳注が丁寧なことが評価できるが、索引がないのが画竜点睛を書く(原著にあったのではなかろうか)。また原題“The Global War for Internet Governance”の方がより内容を表す。

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2016年9月16日金曜日

呪われた旅-8

16.      ナミビアの首都
Windhoekはナミビアの首都である。街には議事堂も教会もある。右の写真が議事堂とそこから眺めた教会である。人口2百万の国の議事堂はこじんまりしているが南国の美しい風情を湛えている。
スーパーや立派なモールもあるが、道端で果物などを売る露店も出ている。近寄って写真を撮ろうとした、怖いお兄さんが来て首を掻き切る仕草をする。ここはアフリカで、近くの国では部族間の殺し合いが今でも行われていることを思い出しぞっとする。
スーパーに立ち寄るとMelittaBlue Mountainコーヒーの500gパックが600円くらいだったのでこれを購入。サウジではStarbucksでしかまともなコーヒーが買えないのでここ買ったが、安い。物の値段はそこの物価で決まることを改めて認識させられた。


17.      あとがき
A journey is like marriage. The certain way to be wrong is to think you control it.
John Steinbeck
始めこそ呪われた旅であったが色々あった。思わぬトラブルや、思わぬ幸運。息をのむ景色、不思議な植生。日本では到底経験し得ない事ばかりであった。「禍福は糾える縄の如し」思わぬトラブルの後の幸運。そもそもこのようなHappeningこそが旅の醍醐味である。そしてコントロールしようとしてもできないものなのである。
トラブルが大きければ大きいほどその旅は印象深いものとなるし、困難を乗り越えた先には、ある種の自信も得られる。今回の旅はそんなことを考えさせられる旅であった。ただ女性と一緒だったら、笑い話にもならない散々の評判だったに違いない。一人旅もいいものである。ナミビアは又行きたい国である。今度は北部の動物WonderlandCampingで行ってみたいと思う。
旅の写真集を以下にアップロードしたので、興味のある人は開いてみて下さい。Ctrlボタンを押しながら以下をクリックすると当該サイトに飛びます。


-懲りない旅人―

-完-

2016年9月8日木曜日

OB工場見学会

 
本日午後は私が最も長く(12年強)勤務した東燃ゼネラル(TG)川崎工場OBの見学会に参加しました。
 
最後にこの工場を訪れたのは13年前、工場の前には高架首都高が走り、工場内も様変わりでした。しかし、1969年(30歳;独身)間取り設計したコントロールセンターは、中身(制御システム)こそ3代目に変わっていましたが、当時の姿そのままでした。
 
来年は旧日石を母体としたJXグループと合併、我が国最大の石油エネルギ会社(JXTGホールディング)が誕生します。
 地図で青枠で囲った部分がTG、ピンクで枠取りをしたところがJXグループです。黄色は大口顧客です。
 
因みに最近人気のある工場ナイトツアーは工場前を走る首都高からの眺めが一番とのことでした。

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呪われた旅-7

15.    都市への帰還
5日目は一路Windhoekに帰還である。途中でQuivertree Forest Parkに立ち寄って7時間、600㎞の道のりである。どうかもうタイヤがバーストしないように祈りながらの帰還である。途中昼食のために地方の都市に立ち寄る。
ショッピングセンターのようなところだったが、回りはほとんどが黒人。派手な色使いの衣服が多いように感じた。やはり黒い肌には明るい色に衣服が似合う。黒い肌に地味な色では闇夜にカラスとなってしまう。この時ホッテントットのような人を見かけた。帰って調べてみると、やはりこの地域の原住民であった。女性の臀部が極端に突出しており、まさに4足歩行をしていた祖先が、ちょうど2足歩行を開始した直後といった形状である。Wikipediaによれば、やはりこの部族のDNAは人類最初の分岐を保持しているようだ。
この町の周りには灌漑農業が行われており、農業が主要産業のようである。アフリカで水を確保するのは容易ではなく数百メートルの井戸を掘る必要がある。昔、サヘル(サハラ砂漠の外周地域)を緑化するProjectに懸わったことがあるが、どんな乾燥地帯でも地下深くには化石水と呼ばれる水源があり、深く掘れば水を得ることができるようだ。しかし、これを汲み上げ続けた先に何が待ち受けているのか誰も知らないし、敢えて知らないようにしている。丁度石油同じように。
3時半ころにはWindhoekに帰ることが出来て、車を返却。窓ガラスもタイヤも保険でカバーされていることを知り一安心。車は洗浄され、タイヤを交換して翌日からまた貸し出されるとか。兎に角、この国の観光は急に注目されてきているようである。
最初と同じホテルに戻るが、ホテルに夕食はないようなので、レンタカー屋のお兄さんから聞いたレストランで最後の夕食を取ることにする。

店は観光スポットらしく、客はほとんどが外国人、ここで野生動物3種盛を注文する。3種とはKudo, Oryx, Springbokで、隣のコネチカットから来た大学の先生は5種盛でワニも食べていた。いずれの肉も赤身で、結構柔らかく癖もそれ程なくおいしく食べられた。野生?なのだから脂が無いのは当然か。この国はドイツの植民地だったので地元のビールは結構いけるという話だったが、下戸の小生はいつものコーラ。残念である。尤も、酒と食事が趣味ならナミビアは最後の選択だっただろうが。

(つづく)

2016年9月3日土曜日

呪われた旅-6

12.      高級リゾートホテル
夜半に到着したホテルは周りの岩を利用した、Sesriemと同じGondwana Groupが運営する魅力的なホテルであった。同じホテルに2泊したかったのだが、既に予約が一杯で近くの同Groupのホテルに移らざるをえなかった。やはりHigh Seasonには早めの予約が必要である。
宿泊客はほとんどが白人であり、多分黒人社会とは別姓会なのであろう。多分と書いたのは周りにほとんど人影が無く黒人社会を目にすることが出来なかったからである。このような荒野では生活手段も限られているであろうから、だれもいないのである。そんな訳で、この旅行中危険を感じることはほとんどなかった。

2.      Quiver Tree
Quiverとは矢立のことであり、ブッシュマンがこの木の枝を削って矢立にしたことから由来しているらしい。木とは言ってもアロエの一種であり、世界でもこの辺りにしか自生していない。その昔にはPlant Hunterの標的だったに違いない。この国に来た人は皆その独特な形状に驚かされることになる。世界はオモシロイ!


3.      Fish River Canyon

この辺りの地形はナミブ砂漠を含めて、約8000万年前に形成されたと言われており、世界最古の砂漠と称されている。このGround Canyonのような渓谷もその頃に形成されたようですが、今では河はすっかり干上がっており、削り取られた大地のみが残っている。夕日に映える渓谷を期待していたが、どうやらそれを鑑賞するためには四駆でしか行けない反対側にあと日かけて行かねばならない様である。

(つづく)