2022年6月30日木曜日

今月の本棚-167(2022年6月分)

 

<今月読んだ本>

1)作家との遭遇(沢木耕太郎);新潮社(文庫)

2)第二次世界大戦秘史(山崎雅弘); 朝日新聞出版(新書)

3)日本探見二泊三日(宮脇俊三);角川書店(文庫)

4)アーカイブの思想(根本彰);みすず書房

5)ナチスと鉄道(鴋澤歩);NHK出版(新書)

6)日本列島地名の謎を解く(谷川彰英);東京書籍

 

<愚評昧説>

1)作家との遭遇

-真摯なノンフィクション作家が展開する、著名全作品に基づく作家論-

 


私が著者の作品に初めて触れたのは19865月に刊行された「深夜特急;第1便」による。1947年生まれの著者が1973年~74年(267歳)にかけて香港をスタート、ユーラシア大陸を主にバスで西へ移動、最後にロンドンにたどり着くまでの貧乏旅行記である。同じ月に第2便も出たが第3便が出たのは1992年、チョッと間隔の空き過ぎた連載ものであった。「深夜特急」を手にする前、既にノンフィクション作家としての著者の名前は知っていたが、作品を読んだことは無かった。しかし第1便を読み進めているうちにすっかり虜になってしまった。バックパッカー物にありがちな“汗臭さ”が全く無く、品の良さがただよっており、その筆致に惹きこまれたのだ。これを機会にエッセイやノンフィクションに手を出し今日に至っている(ただし、小説は一編も読んでいない)。それらの作品を通じ、横浜国大経済学部で学びながら卒論のテーマは「カミユ」だったこと、卒業後富士銀行(現みずほ銀行)に就職するのだが入社式で「ここは自分の来るところでない」と感じ翌日退職願を出してルポライターに転じたこと、それを許してくれた恩師長洲一二教授(のち神奈川県知事)の墓参を欠かさないことを知り、いつも自分の生き方に真剣に向き合ってきたこの人に好感を持った。そんな著者が著名な作家たちをどう評価するのか、それを知りたく本書を手にした。

本書は書下ろしではない。多くは文庫本に寄せた解説記事を編纂したものである。取り上げられる作家は19人;井上ひさし・山本周五郎・田辺聖子・向田邦子・塩野七生・山口瞳・色川武大・吉村昭・近藤紘一・柴田錬三郎・阿部昭・金子光晴・土門拳・高峰秀子・吉行淳之介・壇一雄・小林秀雄・瀬戸内寂聴・山田風太郎(掲載順)。

著者は、作家と実際に遭遇する機会は、酒場と対談あるいは講演旅行(これは避けている)にあると言う。しかし、登場人物で会話を交わしたことのあるのは井上ひさし・山口瞳・吉行淳之介の三名のみ。あとは解説のため作品を通じての遭遇に過ぎない。しかし、本書は人物論ではなく作家論であるから、それで構わないわけだ。この解説記事を著者はどう考えていたかがあとがき(単行本)に記されている。それは、単なる当該作品の紹介ではなく、卒論の「カミユ」研究と同様、徹底的にその作品集を読み下し、そこから作風と作品紹介に入るわけである。時には大量の著書を海外にまで持参して、わずかな余暇を生かして作家の全貌をつかもうとする。かつて読んだ他の作品との違い、同一題材の他作者との作品比較、歳を経たことに依る社会や自身の変化、作者の残した取材ノートや回顧録まで掘り起こして、作家の全体像に迫ろうとする。こうなると十数頁でとどめるべき作品解説が、時には3040頁になることもある。この集大成が本書なわけだからその濃さは個々の作家の評伝以上のものになる。

私が複数読んだことのある作家は、山口瞳・塩野七生・吉村昭の三人のみだが、山口に関しては、司馬遼太郎が「命がけの僻論家」と語ったことが記され、好き嫌いをはっきり述べる山口の真骨頂を見つけ出している。塩野に関しては、世に知られることになる最初の作品「ルネサンスの女たち」におけるチェーザレ・ボルジアを、広く膾炙されている悪人像に抗しマキャベッリ同様権謀術数渦巻く時代の犠牲者と見做す塩野の心意気を推しはかる。また、吉村に関しては、ノンフィクション作品と見紛う受け取り方を、本人は嫌悪していたことを紹介する(特に「戦艦武蔵」)。「その通り」「なるほど」「そうだったか」の連続。「さすが何事にも真剣に取り組む沢木作品」が読後感である。

 

2)第二次世界大戦秘史

-ウクライナを侵略したのはソ連・ロシアばかりではない。第二次世界大戦前後大国周辺国はいかに立ち振る舞ったか-

 


世界史を学んだのは高校から。担当教諭は二人、それぞれが西洋史と東洋史を講じた。四大文明の発祥から始まり、西洋史ではギリシャ文明の興隆、ローマ帝国の発展、キリスト教布教、ゲルマンやノルマンの侵攻、イスラム勢力の勃興、十字軍を始めとする種々の宗教戦争、大航海時代、南北米大陸やアフリカ・アジアの植民地経営、東洋史では漢民族国家の成立と変遷、仏教伝搬、モンゴルのユーラシア制覇、シルクロードを通じた東西交易、異民族清朝の中国支配、そしてそれらと日本との関わり、これで一通り世界の歴史を理解したつもりになっていた。またこの程度の知識で、海外ビジネスを含め、日常困ることは何もなかった。しかし、ソ連崩壊と近年のイスラム世界の変容を見るとき、その歴史観がかなり偏ったものであることを痛感するようになる。つまり西欧視座史観、大国偏重史観、自国中心史観であることだ。さらに問題なのは、現代につながる20世紀以前にそれが終わっていることだ。先月本欄で紹介した「物語 ウクライナの歴史」の著者である元駐ウクライナ大使でさえ、赴任するまで「ウクライナはロシアの一部」との認識だったことを率直に語るほどだから、私の世界史観もあながち、非常識ではなかったのだが。しかし、ロシアのウクライナ侵攻でフィンランドやスウェーデンがNATO加盟を決し、中欧・東欧あるいはバルカン諸国へその影響がおよぶ昨今、ほとんど欧州史に登場してこなかった欧州中小国の第二次世界大戦史を知ることは、今の世界を理解するに必須と考え講読することになった。

裏表紙に記された著者紹介には1967年生まれの戦史・紛争史研究家とあるが、Wikipediaには地図職人、グラフィックディザイナー・、シミュレーションディザイナーも併記されており、市井の研究者と言うところか。しかし、この本は掘り出し物だった。

帝国主義や古い王政が衰退する時期に勃発した第一次世界大戦はドイツを中心とした三国同盟側の敗北に終わり、同時に起こったロシア革命の影響もあって、一見理想と見えた“民族自決”ベースの戦後体制の実態は国益むき出しの複雑怪奇な様相を呈することになる。本書の内容はこれを踏まえた上での、欧州・中東中小国の第二次世界大戦における行動を詳らかにするものである。

オーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国の支配を脱した中欧・東欧諸国、オスマントルコ崩壊に依るバルカン半島の諸民族国家成立、ロシア帝国から解放されるバルト3国やフィンランドあるいは一時期のウクライナ、中立政策を採りながら大国に翻弄されることになる北欧三国やオランダ、ベルギーなどの西側周辺国、英仏勢力弱体化によるイランを含む中東諸国の動き。チェコからのズデーテン地方分離やフィンランド・ソ連間で戦われた冬戦争のように第二次世界大戦史に明確に刻まれたものもあるが、大半は連合国か枢軸国かに色分けされ、それぞれの勝敗の中に埋没されてしまっている。取り上げられる国は;ポーランド・フィンランド・ノルウェー・デンマーク・オランダ・ベルギー・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・リトアニア・ラトヴィア・エストニア・ユーゴスラヴィア(クロアチア)・ギリシャ・チェコスロバキア・イラン・イラク・シリア・レバノン・パレスチナ、計20ヵ国。

大国の意図・思惑とは別に、小国間でも民族紛争・宗教紛争・失地回復が動機で数々の戦いが行われ、火事場泥棒のような行為がいたるところで生じている(例えば、第二次大戦前ポーランドもルーマニアもウクライナに侵攻している)。また植民地解放運動や国内の権力争いがこれに絡む。敵の敵は味方、寄らば大樹の陰、小国ゆえに周辺事情で旗幟を変え、まるでオセロゲームのように大戦に影響を与えていく様は、“秘史”と題するにふさわしい内容であった。

国連安全保障理事会の常任国ではなく、核兵器も持たない我が国は、経済大国とは言っても国の安全保障を自らの力だけで保つことは難しい。日米安全保障条約は在るものの、これら小国の盛衰に学ぶことがありそうだ。好みではないが“いさぎよさよりしたたかさ”と言ったところか。

 

3)日本探見二泊三日

-鉄道旅行作家第一人者は、30年前どんな旅をしていたか。13の旅で語るその楽しみ方-

 


20197月の北海道ドライブのあと硬膜下血腫とコロナ禍で昨年11月の二泊三日修善寺温泉紅葉狩り以外旅行をしていない。コロナの状況も、ここのところやや前週を上回っているものの、with Coronaのフェーズに入ってきているようだ。政府も夏休みに向けてGo to再開の観測気球を上げ始めており、乗り物好き旅行好きの血が騒ぐ。運転免許証を返納した今、これからは公共交通機関、なかんずく鉄道利用が主体になるだろう。乗り鉄旅行家第一人者であった著者がどんな旅をしていたのか、時間のずれが30年あるものの、旅行先やスタイルから何か旅に役立つ情報が見つけられるのではないか、と期待しての読書である。決め手はタイトルの“二泊三日”である。一泊の旅はせわしない、かと言って一週間近い旅は体力的にきつい。これからの私の旅は二泊三日せいぜい三泊四日が適当なところと考えるからだ。

著者についてはいくつもの作品を本欄で取り上げ紹介しているので詳細は省くが、節目になる年齢について触れておきたい。生年は1926年、中央公論社を退職するのが1978年(52歳)、退社後出版した「時刻表2万キロ」が同じ年日本ノンフィクション賞を受賞、翌年発刊の「最長片道切符の旅」と合わせ鉄道旅行作家としての名声を確立する。この“二泊三日”はJTBが出版していた旅行月刊誌「旅」の19901月号から12月号に掲載されたものが中心になり翌19913月単行本として出版された(文庫化は1994年)。記された旅は著者645歳時実施と言うことになる。1999年気力・体力に限界を感じ休筆宣言、2003年に悪性リンパ腫で没している(享年77歳)。30年の時代の差、著者と私の年齢差、果たして何が役立つ情報か?

本書で記される旅は13編、北海道から九州まで全国規模だが関東は皆無。この13編を著者はABC3種に分ける。A:有名観光地。団体バスが駐車場や大旅館にひしめき、旅情が減殺される。B:風景その他はAより若干劣るが、観光客数は数十分の一である。だから荒らされてない。日本の良さが残っており、静かな旅にひたることができる。交通の便もさして遜色ない。C:秘境。交通が不便で、訪れるには体力と時間を要する。そして「本書に収めた13篇は、だいたいBに属する」と総括する。また中には1泊(恵那のマツタケ刈り)や4泊(五島列島)もあるとことわりを入れている。

著者の作品は代表作の前2著を含め、自ら企画し実行し著したものである。しかし、今回はJTBPR誌ゆえに、著者と編集部の間で訪問先の調整を行っていることがいずれの旅にもうかがえる。ここがそれまで読んだものとの違いだ。決して悪いわけではないのだが、「この旅は個人旅行では無理だろな~」と思えるものが多い。例えば唯一の“秘境”とも言える熊野古道の旅、鮎川温泉(褐色)の湯で炊いた黄金飯なるものを食すことを企画しそれを供する旅荘の予約を入れると「お一人さんはお断りしています」となるのだが、JTBの力でそれが可能になる。また、秋田の「かまくら」(県内何ヵ所かで同時期開催)を巡る旅でも、「1年前から予約が埋まる」はずがJTBの口利きですべて可能になる。いずれも正直にその経緯を書いているところは、いかにも著者の人柄が伝わり、好感は持てるのだが特別扱いの感は免れない。

著者を有名にしたのは乗り鉄、本書でも乗り物は鉄道主体、1990年には既に旧国鉄から第三セクターに移管されたものが多いのだが、その後それすら廃線になったものもいくつかある(旧夕張線、北海道ちほく高原鉄道・ふるさと銀河鉄道(帯広-北見を結ぶ)、JR三江線)。また線は現存していても列車が無くなっているもののある(五能線に乗るため上野発秋田経由の寝台特急「あけぼの」を利用しているが今は走っていない)。つまり、路線・乗物面からここに記された旅は不可能なのだ。

そんなわけで、本書の内容再現を期待してこれからの旅を考えることは適当でないが、鉄道愛、目立たぬ地方の旅情、商業主義旅行批判、において“宮脇節”は健在だし、旅への心構えを醸成すると言う点において、役立つ一冊であった。

 

4)アーカイブの思想

-書籍と建物だけ揃えれば図書館なのか?本来知の創生根元となるべき場所だ!図書館学の先駆者がそれを質す-

 


本ブログのURL(アドレス)はkanazawalibraryつまり金沢文庫、住居最寄り駅の名前である。鎌倉時代中期執権(4代、5代)の評定衆や寄合衆を務めた北条実時の私設文庫が在ったことに因んだ地名、そんな歴史上の読書人に少しでもあやかりたいとの思いを込めてアドレスを名付けた。実時の集めた古書・漢籍は歴史の中で四散し、今は隣接する称名寺(金沢八景の一つ;晩鐘)が保存していたもの(国の重要文化財を含む)を展示する県立博物館となっている(最初の神奈川県立博物館)。

ただの多読・乱読者に過ぎないが、全くと言っていいほど図書館を利用しない。中学校では図書室の世界名作全集を読破したが、高校では選択科目空き時間の調整場所、大学では入学時一度「どんなものか?」と訪れたがカードベースの書籍検索に辟易、専攻学科の小規模な図書室利用に留まった。公的図書館へ踏み入れたのは子供の夏休みの宿題を手伝ったときくらいである。現在横浜市の図書館利用者カードも持っているが、一度も借り出したことはない。つまり図書館とは無料貸本屋兼場所貸屋と言う認識、私にとってほとんど不要不急の存在である。どうやらこれが日本人の図書館利用の平均像であるらしく、著者はそこに「アーカイブ思想」の未成熟を感じ取り、その必要性を訴えるため本書を著したようだ。

著者は1954年生れ、東大名誉教授・博士、専攻は図書館・情報学。1979年筑波に創立された国立図書館大学でも教鞭を執っているがそれが2002年筑波大学に吸収されたことも図書館学に対する認識不足と受け止めている。現在は慶応義塾大学文学部教授(慶応の図書館学は1951GHQの指示で開設された日本図書館学校を嚆矢とする)、本書はコロナ禍に依る2020年度学部生向けオンライン授業用(週1講)の教科書が基になっている。

第1講はアーカイブの定義から始まる。アーカイブズ(複数)は文書・記録(ドキュメント)そのものとそれを管理する場所。これに対してアーカイブ(単数)はドキュメントの中でも意図的に集め保存するものあるいは行為そのもの指す。前者が物中心であるのに対し後者は“意図”と“行為”を重視する。また、欧米のアーカイブズ(場所)は図書館・文書館ばかりでなく博物館も含まれる。そしてアーカイブの真の意義は、「後から振り返るための知を蓄積する利用できる仕組みないしそうしてできた利用可能な知の蓄積のこと」とする。この観点からすると、我が国のアーカイブは保存物や建物重視で、本来の知の蓄積・活用が上手く図られていないとみなし、以下9講で西欧における知の考え方・蓄積方法・活用方法を辿りながら、我が国におけるそれを歴史的に比較検討し、今後のアーカイブ施策の在り方で結ぶよう展開していく。

西洋思想の変遷を古代ギリシア→古代ローマ→中世→ルネサンス→近代前期→近代後期の流れの中で分析、そこには常に言語(特に話し言葉)の重視(論理や弁論術)が存在、真理や法則を言語と同一視する思想が在ったと説く。知を共有すること(一般常識化)の位置付けが和洋では出発点で異なっていたとの見方である。確かに、保存に関しては金沢文庫の例を引くまでも無く、我が国にもそれなりの歴史はあるが“共有”活用と言う点では私的な存在であった。

書くと言う行為はいつごろどんな形で始まったか、筆記を残す母体の変遷、書写から印刷への変化、製本技術など書き言葉と書物テクノロジーに関する講。図書館の歴史ではアレクサンドリア図書館と修学院の違いも語られる。知の公共性と共同性では大学の誕生・変化も大きな影響因子だ(修道院→キリスト教研究主体の大学→一般教養→専門教育・研究)。教育関連では西欧(特にフランス)の大学入学資格試験(バカロレア)における哲学教育(科挙のような暗記中心でない)が深耕される。書物活用と言う点では、その分類法、検索方法、一つの知から他の知への関連付け(レファレンス)も必須だが、試行錯誤が繰り返されてきた。我が国のアーカイブ思想についても1講が設けられ、江戸時代のリテラシーから説き起こし、維新後の近代世界システム(学術知、殖産興業など)導入に触れ、既に近代化モデルが存在したことでアーカイブの必要性が薄かったと見る。一方で教養主義は「買って読む」方向に流れていった。最後の講はネット社会におけるアーカイブ。ここでは機械的な情報収集・保存のネックであった漢字の存在が解消されたこと、マルチメディアの活用などに言及してアーカイブの機能が言語処理から知識処理に転じていることをプラスと見る反面グーグル検索アルゴリズムのブラックボックス化のような不安要素も指摘する(例えば検索数に依る論文評価)。

新しい知は、しばしばアマチュアによって萌芽する(例えば、柳田國男は農商務省の役人でありながら我が国民俗学の始祖となったように)。図書館の活用はそうあって欲しい。これが著者の願いである。

学部学生対象の講義内容ゆえ理解に難儀することはなかった。また図書館学と言う分野を知ることも有意義だった。しかし、新しい知の創生と言う点では、教育システム・社会システムの根源に関わる問題であり、残念ながら現在の図書館が提供する貸本業・場所貸業(いずれも無償)を脱することは極めて難しいと言うのが読後感である。いっそのこと、新聞や一般向け小説など置かず、暇つぶしの老人(朝一番で来館、新聞やベストセラーを奪い合っているような)など来られない場所(調査・研究主体)にする施策が選択肢として浮かんでくる。ただし、この場合司書の質は一段と高いものが求められるが、我が国でその任に当たる人達の現状は如何なものなのであろうか。本格的図書館利用をしなかった者として、この辺りが気になるところだ。

 

5)ナチスと鉄道

-東方生存圏拡大を使命としたナチスドイツ。鉄道はそこで如何なる役目を果たしたのか-

 


19世紀欧州に鉄道が普及してくると軍隊の移動をそれで行うことが各国でこころみられるようになる。実際の作戦でこれを成功させたのがプロシャ軍の参謀総長だったヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ、通称大モルトケによる普墺戦争(1866年)における精緻な鉄道利用であると言われており、今でも兵站を論ずる書籍でこの話がしばしば引かれている。しかし、この戦争全体から見ればそれほど革新的な効果があったわけではないと言うのが、専門家の定説になっている。大モルトケが優れていたのは、それを大いに喧伝したことにあるとの厳しい評価さえあるくらいだ。だが、当時の軍トップにあって、大モルトケの鉄道に関する知識は断トツであったことは間違いない。このプロパガンダを信じて作られたのが、統一ドイツの陸軍参謀総長を務めたアルフレート・フォン・シュリーフェンが1905年作成したシュリーフェン計画である。東西の仮想敵国ロシアとフランスを同時に撃つために先ず中立国のオランダ、ベルギーを反時計方向に回ってパリを落とし、返す刀でロシアと戦う二面作戦。この“返し”手段として鉄道を利用する案である。シュリーフェンは大モルトケとは異なり実戦にも鉄道にも疎い事務官僚軍人ゆえ、机上のプランは実現不可、結局この計画で戦った第一次世界大戦の参謀総長小モルトケ(大モルトケの甥)は長期消耗戦に引き込まれ、ドイツ帝国は滅びることになる。ではこれらから学んだはずのナチスドイツ下の鉄道と軍事はどのようなものであったか、それが知りたく本書を手にした。

著者は1966年生まれの阪大経済学部教授(近現代ドイツ経済史・経営史)・博士、駐独大使館専門調査員の勤務経験もある。「鉄道史を追えばその国の近現代史がわかる」との観点に立ち、その種の既刊書もある。従って今回の私のような軍事作戦と直結する鉄道の役割に関する情報を求める者にとっては、いささかスパンの広い内容であった。

先ず、前史として語られるのは、小国分立の領邦国家の鉄道史で、そこにはそれぞれの国家の経済政策・交通政策が色濃く反映されており、普仏戦争後ドイツ帝国が誕生しても統一的な経営が出来ておらず、それが陰に陽にナチス政権誕生まで続く。中でもプロイセン主導に対するバイエルンの独立性主張が顕著だ。ITを生業としてきた私にとっては、メガバンクの一つとして誕生しながら20年経っても情報システムのトラブルが続くみずほ銀行を彷彿させる。ナチス政権は独裁体制であったからこれを強引に解消していくが、そこには独裁の悪しき面がライヒスバーン(RB、帝国鉄道;帝国ではないが名称は継続)へ別の影響を及ぼす。党と官僚組織の主導権争い、それにユダヤ人排斥問題である。経営陣内における党員・非党員の対立、占領地区における別組織の設立、優れたユダヤ人CFO(財務担当役員)の排斥と彼の亡命、がそれらの具体例だ。最大の問題点はヒトラーの鉄道に対する関心の薄さだ。彼が興味を傾けるのは自動車と航空機。アウトバーン(自動車道)はRBの最大のライバルとなり、資材などの割り当てで常に後塵をはいすることになる。戦争推進の重要因子である鉄道について、このような背景から説明していく点に、単なる戦史や戦記物とは異なる価値を本書に見つけた。

さて戦争である。先ず緒戦のポーランド戦。鉄道誕生以前のポーランド史はともかく、近代の独立は第一次世界大戦後、それ以前はドイツ領であったことから、鉄道もその方式を継承していたので、ゲージ・車両ともドイツのものがそのまま使えたが、装甲軍の作戦に鉄道は脇役的存在、兵站輸送は自動車・馬匹が中心となる。それでも軍需物流は当然増加、そのしわ寄せは民需に来る。鉄道整備の遅れから、ルール地方からの石炭輸送が著しく滞り、ドイツ国民は厳しい冬を過ごすことになる。またポーランド占領に伴いこの地の鉄道経営はRBとは別に設立された総督府直轄の東部鉄道が担うことになり、これが後の独ソ戦に大きく影響する。

19405月西方電撃戦が行われるが、著者が触れるのは占領下のパリ東駅で行われた交通大臣(前RB総裁)ドルプミュラーの“欧州鉄道覇権”に関する演説のみ。軍事作戦との関わりには一切言及していない。あれだけの作戦だっただけに鉄道が無関係とは思えないのだが・・・。

背景や準備段階から詳細に語られるのは独ソ戦。距離の問題、道路事情、厳しい冬、これらのことから政権も国防軍も鉄道依存が高まることは予期していたのだが、それはあまりにも楽観的なものであった。つまり、装甲軍主体の大規模包囲殲滅作戦でソ連の鉄道網・機材が容易に手に入る前提なのである。実態は大違いだった。撤退するソ連軍は機関車を含む資材、通信システム(信号を含む)を徹底的に破壊していった。やむなく広軌ゲージを標準ゲージに改軌しながらの進軍となる。しかし、ドイツの機関車は厳冬に耐えられず故障続出、加えてRBと東部鉄道の経営の違いが混乱に拍車をかけ(路線延伸権、車両・人材・資材の奪い合い、運航計画の非整合性)、ついに鉄道輸送不全に陥る。独ソ戦は両国の鉄道輸送力の違いで決した。これが著者の結論である。ここには、定量的なデータ、当時の日本人鉄道技術者の見解なども引用される。

さて守りに回った西部戦線である。米英航空軍の戦略に違いがあったことは有名だが(英;夜間絨毯爆撃、米;昼間精密爆撃)、この中で英米軍とも力点を置いた戦術に鉄道要衝の破壊(大都市の駅、操車場、鉄橋、)がある。この作戦検討メンバー(米戦略調査局員)の中に、かつて第一次世界大戦後の混乱期を鎮めRBを再興させたユダヤ人CFOルートヴィヒ・ホムベルガーがおり、古巣の弱点を的確に暴き出していたことは、ナチスゆえにもたらされた亡国のブーメランと言える。

先にも書いたように、本書は軍事に焦点を絞ったものでは無い。しかし、1930200kmhを越えたプロペラ推進の「レールツェッペリン号(実験用単車両)」、19355月ハンブルグ・ベルリン間の営業運転を開始したディーゼル・電気機関車牽引の「空飛ぶハンブルグ人」(平均時速125kmh)、1936620047kmhの世界新記録を樹立した05型蒸気機関車、また、1942年ころから検討が始まった(つまりソ連征服後の)ユーラシア大陸横断超広軌鉄道「ナチスドイツのスーパートレイン」(軌間3m、機関車;全幅5m、全高6.65m、全長60m、速度250kmh)など、鉄道に依る国威発揚策・戦後策の数々が取り上げられており、“ナチスと鉄道”のタイトルに恥じない内容であった。また、戦争との関わりにおいて、東部戦線偏重の感は免れないが決して無用のものでは無く、東部戦線の定量データは極めて貴重な情報と評価でき、確実に保存版となる一冊だった。

 

6)日本列島地名の謎を解く

-自然環境・歴史は当たり前、動物・数字・当て字もそれなりの由来があった。謎解きのような地名まで90ALSを患いながら決死でまとめた地名エッセイ-

 


小学校から高校まで学ぶ教科は幅広い。当時の国立大学入試は5教科8科目(英語・国語・数学(2)・理科(2)・社会(2))だったから工学系志願とはいえ社会科も2科目選択する必要があった。結論から言えば国立の入試に失敗したから社会科は意味なかったのだが、高校時代学んだ人文地理は予想外に面白く社会人になって英語・世界史に匹敵するほど役立つ科目だった。国内に限らず海外でも、その土地のちょっとした知識が濃密な人間関係を作り出し、ビジネスチャンスを広げたのである。それはビジネスの社会を去ってからも同様、新しい友人達との共通話題を提供してくれる。本書は珍しく自ら買い求めたものではない。ジム仲間が「読み終わったから進呈します」と渡してくれたものである。通常このように他人から貸与・贈与された本の読書優先度は低いのだが、“三つ子の魂百まで”、ついついに触手が延びてしまった。中身は「そうだったのか!?」の連続、雑学の範囲をこの歳になって広げる喜びを味わった。

著者は1945年生れ。筑波大学名誉教授(副学長)・博士(教育学)。民俗学専攻で地名研究もその一環であったようだ。大学退官後ノンフィクション作家(地名作家)に転じNHKの「日本人のおなまえ」などに出演していた、と著者紹介にある。はじめにを読んで驚いた。2018年体調を崩しそれがALS(筋萎縮性側索硬化症)と判明、本書で取り上げられる現地訪問の一部はよろけながらの取材であったと記されている。さらに、出版編集時には人工呼吸器装着必須で口述も出来ない中で作業を進めたとある(発刊日は2021101日)。その熱意・執念だけでも一読の価値がある著作だ。

構成はテーマ別に8章から成り合計90の地名・駅名(時にはバス停もある)が取り上げられている。記述内容は、基本的に来歴を辿るものの、画一的ではなく、時にはその土地の統治者にまつわる話になったり、今日的な話題になったりあるいは漫談風になったりと変化するので、飽きが来ない。また学者・作家としての姿勢は“現地・現物”重視を貫いており、その点からも話が身近に感じられる。これは書下ろしでなく、初出が警察職員向けの月刊誌「BAN」(2006年~2019年)や全国商工業新聞に連載されたものだからであろう。ALSに侵されながら本書が完成できたのも、この書き溜めがあったことによる。

1章 聞いてびっくり、ユニークな地名;宮本武蔵(駅名、岡山県美作市)、南蛇井(なんじゃい?群馬県富岡市)、向津具(ムカつく!山口県長門市)、半家(はげ→禿?高知県四万十市)、浮気(ふけ、滋賀県守山市)、十八女(さかり!徳島県阿南市)、とにかくびっくりするような地名のオンパレード。宮本武蔵は完全に後付けだが他はそれなりの背景と歴史を持ち、土地の人々には何ら違和感のないものなのだ。飛鳥、熊谷、犬山、鵠沼(鵠は白鳥)、亀有など動物と関わる地名。三田、五箇山、六本木、九度山、十三、千日前など数字にまつわる地名。不知火、安房、安曇野、宍道湖、太秦など古代史を辿る地名。鵯越、蹴上、桶狭間、関ケ原、巌流島、田原坂など武人の鼓動を伝える地名。中でも興味深く読んだのは都会の地名である。青山、代々木、梅田、関内、雪ノ下などが取り上げられているのだが、梅田が埋め田から来ていることを初めて知ったし、同じ大阪の立売堀(いたちぼり)の由来にはその変幻に思わず絶句した。大坂冬の陣に際し伊達政宗がこの地に陣所を構え周囲に堀を回らした。大阪人は伊達を“だて”と読めず“いたち”と発音、それが“鼬掘り”にならず“立売”なったのは、堀が運河につながりそこに材木商たちが集まって、材木を立てて売っていたから “立売”=“いたち”になってしまったとのこと。土地の人以外読めるわけがない。

学者としての研究の一端が窺えたのは、本来の地名が改名されている理由である。奈良時代元明天皇時「風土記を編集するに当たって、国・郡・郷などの地名を『好き字』に改めよ」との勅令が出ていることである。以降平安期まで『好字(こうじ)2文字が主流になっていく。ここから堺のような一字表現が残るのは極めてまれで、それだけ自治力が強かった証しともとれるようだ。

写真(元気な時に自分で撮影したもの)・地図も充実しており、旅行計画・実施の参考として有用な一冊と言える。

 

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