2014年11月30日日曜日

今月の本棚-75(2014年11月分)


<今月読んだ本>
1) ニッポン景観論(アレックス・カー):集英社(新書)
2) 日本-喪失と再起の物語(上、下)(ディヴィッド・ピリング):早川書房
3) リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」(橋山禮治郎):集英社(新書)
4) Enemies A History of FBITim Weiner):Penguin Books
5) ふしぎな国道(佐藤健太郎):講談社(新書)
6)スターリン(横手慎二):中央公論新社(新書)

<愚評昧説>
1)ニッポン景観論
68歳でビジネスマン人生を終え、しばらく英国に滞在した。現役時代の外国は米国が主体で、英国は一度も訪れていなかったから、親戚筋とも言える英語国でこんなに違うのか!と思わされることにしばしば遭遇した。その一つに野外広告がある。居を定めたのは代表的観光地、湖水地帯のすぐ南に在るランカスター。ここを拠点に鉄道やレンタカーであちこち動き廻ったが、大都市のごく周辺を除けば、大きな広告看板が全くない。“英国の田園風景”は代表的な観光資源かつキャッチフレーズだが、その実現・保全には相当な気配りがされていることを知った。米国西部大平原の一本道に忽然と現れる自動車の巨大看板の存在とは大違いである。翻って、我が国を見る時その差は歴然としている。東海道新幹線に乗り、車窓から雪を頂く美しい富士山を眺めていて、窓の下部に視線が移るといやでも野外広告が次から次へと目に入ってくる。米国以上に目障りな存在なのだ。
昨年の訪日外国人数は1千万を超え、今年は12百万に達すると言う。製造業に往年の勢いを欠く昨今、2020年のオリンピック開催も視野に入れて、政府も観光立国による外貨獲得に力を入れてきている。しかし、目の肥えた外国人旅行者には、我々日本人には気が付き難いところに“醜い(理解し難い)日本”が見えてしまうのだ。
冒頭の広告・看板を始め、景観を著しく損ねる電柱・鉄塔、観光スポットの案内板や注意書き、周囲とのバランスを欠く各種土木構造物、存在意義不明のモニュメント建築物、古民家や街並みの保全状態、果ては文化財保存工事の方法まで対象として取り上げ、諸外国の例と比較し、その改善策を提言する。これが本書の内容である。
例えば広告・看板。本書で初めて知ったのは、広告大国と思っていた米国でも、NYマンハッタンの看板はブロードウェイの一部を除き3階以上は不可、ハワイは1959年以来大型看板一切禁止であることなどである。また観光スポットの案内板は統一がとれ景観にも配慮しているのだが、下にスポンサーである“HITACHI”が赤字で確り書き込まれていることを取り上げ「漢字の読めない外国人にはHITACHIだけが唯一理解できる文字」と指摘して、複数の例を(京都;八坂神社・高台寺など、出雲大社、鹿島神宮など)写真入りで紹介、“「HITACHI」は神秘と文化を表すシンボルマーク”と揶揄する。一方で伊勢神宮の消防ホース収納箱や湯布院の銀行看板を縮小した例などを取り上げ「やればできる」を教えてくれる。電柱はともかく(後進国以下;いかに酷いか事例・背景を詳しく解説)、鉄塔では最近増えている携帯電話基地局を取り上げ、カナダの森林地帯で採用した、一見樹木のように見える塔の写真を掲載して景観保全の道を示す。
しかし、もっと大きな景観破壊に建築・土木がある。例えば一応取りやめとなった広島県福山市鞆の浦(遣唐使の時代からの港で江戸時代の港湾施設が残る)の埋め立て・架橋工事を取り上げ、計画をモンタージュしたものと現状を並べて「そもそも先進国では考えられない」と糾弾する。この他にも実害が考えられない山岳部の沢をコンクリートで固める数々の工事や美しい浜を護岸堤防で潰してしまった所、建築家の独り善がりと思われるような奇態で周囲とのバランスを欠く建造物(出雲大社の社務所、門司港レトロ地区に聳え立つハイマートビル)などを「これでもか!」と言うほどヴィジュアルに示し、日本人(特に行政)の美的感覚に疑問を投げかける。この批判は、林業の効率化推進で広葉樹林が杉一色に置き換えられて、紅葉がパッチワークになってしまったことにもおよぶ。
著者は地方経済活性化のために公共投資が行われることに反対しているわけではないが、別の使い方があるだろうとの考えに立つ。例えば電線の地下埋設や、上下水道整備、景観復旧保全投資、さらには不要や期待効果が上げられなかった土木建築構造物を撤去することに使えばいいと主張する。
“景観論”を超えたところで本書に注目したいのは“産業論”の視点である。日本らしい景観を再生(忠実な復元ではなく近代化すべきはして)するための公共事業(「国土の大掃除」)に叡智・技術・予算を注力すべきとの考え方は新たな日本改造論につながるのではなかろうか。また、地方創生に関して、都会の若者が地方移住を考える場合農業に比べ観光業はハードルが低いと言う指摘も一考に値する。
著者は少年時代を日本で過ごした米国人、イェール大学で日本文化を学び、オックスフォード大学で中国学を修めた人。京都亀岡に居住し、日本文化の研究に当たる傍ら古民家改造の宿泊施設などを経営、街づくりコンサルタントなども務めて、海外に向けて日本に関する観光情報を発信している(これが口コミで伝わり徳島県の過疎地、祖谷(いや)に持つ古民家改造宿泊施設の利用者はほとんど欧米人で年間1000名を超す!;徳島県は外国人訪問数で四国でダントツのトップ)。
本書は“ヴィジュアル版新書”と名付けられている通りカラー写真がふんだんに使われているので、著者の考え方・指摘を直ちに理解できる。どれも言われてみれば「なるほど!その通り!」と相槌を打ちたくなることばかりだ。ただ行政が絡む問題が多いので、世論の高まりが不可欠、そのためにも本書が多くの人に読まれ“話題になること”が望まれる。

2)日本-喪失と再起の物語
日本人は欧米人の書いた日本論・日本人論が好きだとよく言われるが、私もその一人である。内容賛否はともかく、印象付けられた代表的な作品として、ルース・ベネディクト「菊と刀」、エズラ・ヴォーゲル「ジャパン・アズ・ナンバーワン」、チャーマーズ・ジョンソン「通商産業省と日本の奇跡」、カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎」、ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」が上げられる。そして本書もこれらと同種の作品である。手短にいうと外国人の目で、直近の我が国が抱える諸問題を日本近現代史の流れの中で論評するものである。
これらの本を読む動機は、敗戦から復活していく日本を外国人はどう見ているのかに専らの関心があった(「菊と刀」は戦前の作品だが)からだが、この視点をガラッと変えたのは1983年カリフォルニア大学バークレー校ビジネススクール参加にある。このコースは米国人ビジネスマンを主たる対象に、この時代経済躍進著しい日本に対して“アメリカ経済をいかに再興(Revitalize)するか”をテーマにするものであったから、最初の講義から“日本”が取り上げられ、“日本社会は欧米と異質かどうか?”を論ずるところから始まった。講師を務める教官、私も含め学生の全員が“異質論”に傾いて授業が進んでいたある日、一橋大学に留学経験のある若い教官が強烈な“同質論”を展開した。「欧米にも先進、後発があった。日本の発展もマクロに観察すれば何ら特別のものではない。もし日本だけが“異質”ならば、世界は永遠に日本に勝てないことになる。そんなことはあり得ない!」これが彼の主張であった。爾後学生の関心はこの点に集約されていく。
本書の著者が着目するのもこの“異質/同質論”(異質部分を認めつつも同質論の立場)。これを開国から東日本大震災にいたる160年間の日本近現代史の分析に通奏低音のごとく援用(前出の5人とその著作も引用)して、時々の歴史的出来事と社会を浮かび上がらせ、前後の因果関係を明らかにして、失われた20年と震災からの再起復興を、異質・同質のベストミックスで実現する可能性を予見させていく。
書き出しはあの大震災と原発事故から始まり、そこからの回復を驚異の目で見つめる。この短い時間の変貌を、今度は160年に引き伸ばし、日本近代化の過程(特に国難とそれへの対応)を、様々な角度から;天皇、国内政治、経済、国際関係・外交、軍事、社会(少子化、フリーター、女性の地位など);時間軸を追って辿っていく。
さて、本書購入に際して個人的に興味を持っていたのは2点、一つは太平洋戦争(大東亜戦争)とその戦後をどう記述しているか?二点目は(失われた20年と大震災からの)“再起”について何が書かれているかであった。
あの戦争に関しては、開国時列強に対抗するための防衛的な富国強兵策がやがて利権・版図を広げる侵略戦争に転じていく過程を国内・国際事情を深耕(例えば福沢諭吉の脱亜入欧論の検証)し論じていく。ここら辺りの内容は我々日本人が理解している歴史観と特に大きな差異は感じない。では欧米が先行した植民地獲得戦争とどこが異なるのか?答は“時代”である。“遅れてきた帝国主義国”ゆえに今に引きずる“歴史問題”が生起しているとする。アヘン戦争の例なども取り上げ「英国はもっと酷いことをしてきたのだが・・・」と自省を含めながらクールな分析結果を示す。
この“歴史認識”ではオランダ人の書いた「戦争の記憶」と言う本(邦訳絶版)を材料に日独比較が紹介される。戦後両国の一般人に「あなたにとってあの戦争で最も強く記憶に残ることは何か?」と問いその答を分析したものである。日本人の記憶は圧倒的に“ヒロシマ”、専ら“被害者”としての意識が勝っている。これに比べるとドイツ人は身近にユダヤ人狩りなどあり、“ホローコースト”だと言う。つまり加害者意識である。もし中国人や東南アジア人に「私たちも戦争の被害者です」と発言したらどんな反応が返ってくるだろう?あるフィリッピン人は核兵器廃絶をテーマにした会議で「2発ばかりでなく、2~30発落としてやればよかったんだ!」と叫んだとか。
こう書いてくると歴史認識に関して中韓と同じトーンにとられそうだが、その点ははっきりと、両国の党や国家指導者が自分の立場を守るために反日をしばしば利用していることを明記しているし、ドイツの戦後処理についても「ナチスに全責任を押し付けて上手くやった」とシニカルな見方をしている。
歴史認識とも関連するが“靖国問題”には「ドイツの首相がアドルフ・ヒトラーの墓に献花することと同じだ。あんなことをしていては何度謝罪し、多額の経済援助を行っても全て帳消しになってしまう」と厳しい。この結論を出す過程では東條首相の孫、昨年亡くなった東條由布子にも長時間差しで対談している。しかし、その主張は極めて表層的(お国のためにやったことで一般兵士と変わらない)でとても外国人を説得できるものではない。
次に“再起”である。おそらく本書を手に取る人の大部分はここに惹かれるのではなかろうか?過去の2つの国難(開国、敗戦)を乗り越え、大国のひとつに数えられるようになる、艱難辛苦の道のりを讃えるような話は日本人の自尊心をくすぐる。しかし、その手の話題は書かれていない。ここに書かれているのは再起の“可能性”あるいは“予兆”である。
先ず前提として“失われた20年”と言われるがこの間の日本の経済環境は決して悪いものではなかったとの認識に立つ。それが明らかになるのはリーマンショック後、同じ轍を先進諸国が辿ることになり、それらと比較した場合、日本の方がよほど良いポジションにいるとの見解である。問題だったのは政治で、小泉首相誕生は確かに政治のやり方を変え喪失感に活を入れたが、パフォーマンスのわりに実益は上がらなかった(当に小泉劇場だった)。第2次安倍内閣に至る6代(第1次安倍内閣を含む)の首相はいずれも短命に終わる。再登場の安倍首相は前回と異なり、やるべきことが分かっている。経済政策と安全保障に焦点を絞り具体的な施策を明確にし、これを推進しようとしている。つまり安倍首相の政治家としての言動とアベノミックスに期待した再起の可能性を示すのである。ただこの可能性ですら決してバブル時のようなものを期待するわけではない。
政治・経済以外では社会の変革がある。日本的経営の枠組みが崩れ、終身雇用制が消えてゆくとパート、フリーターのような不安定な身分が増える反面、組織に頼らない自由な生き方を志向する若者が増えている。震災からの復興もボランティア活動に支えられ、着実に成果をあげている。このような動きが幅広く社会に浸透していけば、個人中心の新しい社会が形成されていく(欧米型社会がより好ましいと言う考え方が根底にある)。
日本に居住する外国人の数(200万人;20年前の倍)、在外日本人の数(120万人;1990年の倍)を挙げて社会変化の予兆を示すとともに、2020年の東京オリンピック開催(原発事故が広く知られているにも拘わらず開催が決まった。これは豊かで安定な社会であることを世界が認めたことである)、現在の一人当たりの豊かさは中国の8倍であること並べて、まだ数十年は世界5位以内の経済大国であり続けることは間違いない、と結ぶ。
取材・編集方法は幅広い(右から左、著名人から市井人、日本人ばかりでなく外国人も)個人とのインタヴューおよび文献調査に基づいているので、バランスは取れているものの、著者自身の考えが直に伝わってこないことにもどかしさを感じる(率直に言ってこの感じは最後まで付きまとった)が、全体としてそれぞれの課題を客観的にとらえ書こうと言う意図は十分伝わってくる(南京事件のように、原典の内容に疑問が投げかけられているものを“事実”と捉えているようなところも一部あるが)。面白いのは、この客観性を維持しようと言う姿勢の中に、ところどころで著者が英国人であることが顔を出すことである。島国としての共通性の有無、中国侵略者としての違い、過度な(と英国人には見える)米国依存への批判などがその例として挙げられる。
日本語版は上下巻合わせて600頁を超す大冊なので、直近の各種時事問題が幅広く取り上げられており、これらを外国人ジャーナリストがどう捉え、発信しているかを知り、新聞報道や他の関連情報と比較してみると大変面白く読める(私は異質論/同質論に着目して読んだ)。
著者は英フィナンシャルタイムズの東京支局長(滞日7年;日本語検定1級なのでインタヴューは日本語で行ったようだ))→アジア編集長(現在香港在)。

3)リニア新幹線 巨大プロジェクトの「真実」
先月初めリニア新幹線の着工が国土交通大臣に認められた。子供のころは鉄道技術者が夢だった鉄道ファンの一人として前々から関心を持っていたが、“認可”には複雑な思いである。「技術的には面白いが、経済的・社会的には膨大なカネ(9兆円)の無駄遣い、かつ環境破壊につながるのではないか?」と感じていたからである。周囲にも積極的賛成論者は見当たらず、むしろ「反対をブログで発信してください」とメールをくれた本欄閲覧者も居るくらいだ。そのわりにはこの計画に批判的な報道をあまり目にしない。むしろ安倍首相がケネディ大使と実験コースに同乗するところなどを取り上げ、リニア宣伝に積極的だ。これでいいか?!こんな動機で本書を手にした。
著者は日本開発銀行(現日本政策投資銀行)で調査部長を務めた、巨大プロジェク投資評価が専門のエコノミスト。国内では本四架橋やアクアライン計画に関わり、OECDに出向し海外の大型インフラ投資案件(ユーロトンネルなど)の査定業務にも従事した経験を持つ、当該分野を語るに最適な人である。本書は本年3月の出版だが、3年前に「必要か、リニア新幹線」(岩波)を出し、それ以降“リニア批判派”として知名度の高い人である(私は本書を読むまでこのことを全く知らなかったが)。3年前の著書からの環境変化を踏まえて本書を書いたことがまえがきに書かれている。要は前著でその必要性に疑問を投げかけたにもかかわらず国民の関心・理解が今一つ低調であることに危機感を募らせての第2作と言うことである。
内容は、リニア新幹線計画が出てきた背景、なぜ中央新幹線なのか、どのように作るのか、過去の大型プロジェクトの失敗例、経済性の検証、技術・環境面からの検証、政策決定の在り方と続き、リニア新幹線に関わる課題を網羅的に解説していく。どの項目も情報やデータが確りしており、予備知識のないものにも理解しやすく書かれている。そしてどの項目も問題点だらけである。地下トンネルを飛ぶ航空機(8割はトンネル;景色など全く楽しめない)、在来線新幹線とは比較にならない電力消費量、強力な電磁波、中央断層をぶち抜く困難な土木工事と環境問題、在来東海道新幹線と合わせた利用者数の甘い予測値などなど。確信犯的に反対論を展開しているわけではないのだが、読み終われば「こんな問題だらけの新交通システムに、安易にゴーサインを出してはいけない」と洗脳されてしまった。
内容で特に評価できるのはやはり専門分野の“経済評価”である。人口動態、既存新幹線の利用状況、運用・保守費用、現在のJR東海経営状況など綿密なデータを用意し、いくつかのケースを想定、それぞれの経済性を弾いて、この計画が容易ならざるものであり、JR東海の試算が如何に甘いものであるかを白日の下に曝す。
あまり知られていないことで面白かったのは巨大プロジェクト失敗例の数々である。超音速旅客機コンコルド、ユーロトンネル、アクアライン、ドイツリニア鉄道などが取り上げられ、それぞれの失敗の原因を分析し、それらとリニア新幹線計画との共通点を浮立たせる。いずれも狭義の技術的課題は一応解決しているのだが、経済性と環境問題では全く計画時の目論見から外れてしまっている。特にコンコルドの失敗(騒音、経済性)と中止になったドイツリニア鉄道(経済性)は極めて類似性が高く、“リニア新幹線計画危うし!”の感を強く抱かせた。因みに、本四架橋、アクアライン評価には著者も加わっており、いずれも経済性が杜撰であることを公にしたが、計画が中止になることはなく、現状は予想通り大赤字になっている。その穴埋めは結局税金として我々が負担させられているわけである。
今回の計画はJR東海が自己資金(無論融資も受けて)で行うことになっているが、もし赤字になった場合は、公益事業ゆえに国民にツケが回る可能性が高い。着工認可が下りてしまった現在それをとめる方法はあるのだろうか?何故批判の声が高まらないのだろうか?読後に残った不安と疑問である。

4Enemies  A History of FBI
自身読書家で、私の読書嗜好をよく知る友人が、読後「面白いから」と回してくれた本である。彼の薦めてくれた本はいずれも“当たり!”だった。
スパイ物(軍事サスペンス)ファンとして、その手のフィクション・ノンフィクションを、長い期間にわたり相当な量読んできた。お馴染みの組織は、MI-5(英・国内)、MI-6(英・海外)、CIA(前身のOSSを含む)、FBIKGBGPU(ソ連陸軍情報部)、モサド(イスラエル)、戦中ならばナチスのゲシュタポ(秘密警察)やカナリス機関(軍事情報部)もある。この中でFBIだけは州間にまたがる国内犯罪(国内で活動するスパイ摘発を含むが主体は他国の警察所管事項)を専ら捜査する機関と思っていた(巻頭で、米国人の大部分もそのように思っていると書いている)。対外軍事諜報・工作活動はCIAの領域だしその名がとどろいていたからである。しかし、本書を読んで、FBIの主務(Bureau’s first and foremost mission)が設立来国家に対するテロリズムとスパイの機密捜査であることを知らされた。特に初代長官フーヴァーが牛耳っていた時代(終身!)、FBIが大関(横綱は大統領;形式的には司法長官が上司だが)ならCIAは平幕といったところである。
本書はそのFBI誕生の契機となるフーヴァーの司法省勤務(1917年年)時代からアラブの春(2012年頃)に至る1世紀に近い歴史物語である。邦訳(文藝春秋社)のタイトルは「FBI秘録(上、下)-その誕生から今日まで-」となっているがこれが原著では副題、本題はEnemies(敵)、ここには犯罪組織や国家の敵ばかりではなく、ライヴァルCIAや形式上の上部機関司法省、大統領を含む“FBIの敵”を意味し、見事に本書の内容を表している。
著者は嘗て本欄でも紹介した「CIA秘録」の作者、NYタイムズの記者にしてピュリッツァー賞授賞者のティム・ワーナー。綿密な調査を基に丁寧な作品を仕上げる彼の3作目である。450頁の本文の後に60頁の引用文献・発言リストが付されていることがそれを物語る。この中には“幸運にも(と著者が述べている)”最近機密解除になった大量の資料が(thousands of records)利用されており、その点からも内容の価値を高めているに違いない。
書き出しは19177月フーヴァーの司法省奉職から始まる。この年の2月にはロシア革命が起こり、4月には米国が第一次世界大戦に参戦している。彼の司法省勤務は陸軍歩兵の身分で、スパイ、アナーキスト、共産主義者、スト扇動者やドイツに組する破壊工作者を取り締ることであった。日曜も深夜も身を粉にして働く彼は直ぐに上司に認められ、22歳で敵性外国人取締課の課長に抜擢される。これ以前の彼は高校卒業後国会図書館に勤務しながら夜学(ジョージワシントン大学)で法律を学んでいた苦学生である。そこで彼の絶対的権力の基となるファイリング技術を習得している。爾来77歳、現役のまま他界するまで、国家反逆者の取り締まりと情報収集・整理が天職となる。
しかし、これだけの経歴では半世紀にわたってそのトップに居続けることは出来ない。もう一つの幸運は、敵性外国人取締課の次に就いた社会騒乱を監視・摘発する新組織にある。この課の発足は秘密裏に行われたこともあり、職務権限を定めた規定や明確な予算処置も講じられなかったこともあり、管理者の自由裁量余地が極めて大きかったのだ。無能な管理者ならば早期に潰れされていたかもしれないが、フーヴァーは司法長官を手玉にとるほど飛び抜けて有能だった。1925年上部組織の捜査局(Bureau of InvestigationBOI)長官に就任、この組織は1935年権限も拡大して連邦捜査局(FBI)に改名、長官の地位を継続する。ソ連の基盤は固まり、ナチスは政権を握っている。この間大恐慌もあり、社会基盤を揺るがす事件が米国でも頻発するが、電話盗聴・盗聴マイクによる監視・郵便物開封・令状なしの拘置・家宅侵入などの違法行為を駆使して、犯罪の防止、犯人・容疑者の逮捕、組織潰しで実績を挙げていく。
時の大統領はフランクリン・ルーズヴェルト、フーヴァーとFBIの活動を高く評価、親ナチ米人の監視・摘発などにも目を向けさせるようにしていくが、最も熱心だったのはライヴァルたちの言動を探ることにあった。一層の組織強化と権限拡大を目論むフーヴァーとの暗黙取引が成立する(ルーズヴェルトは決して書いたものを残さぬよう厳命する)。のちに“大統領が最も恐れた男”と称せられた素地がこうして誕生する。
フーヴァーは生涯8人の大統領に仕えるが、それらとの関係は本書を興味深いものにしている最大のテーマとも言える。初期のクーリッジ、フーヴァーは両者の地位に大きな差があるし、FBIの活動も犯罪捜査中心だったから際立つトピックスは無いが、ルーズヴェルトは前記の通り。後任のトルーマンとは犬猿の仲、アイゼンハワーとは極めて良好(冷戦下における赤狩りは両者最大の関心事)でアイクは「70歳までやってくれ」と身分保障する。この時の副大統領はニクソン、彼はフーヴァーが死んだときの大統領だが、副大統領時代のニクソンを小物と見ている。アイクの後のケネディとは父親のジョセフ・ケネディがわいろを持ちかけるが一蹴、司法長官となった弟のロバート・ケネディに関して「ぶち殺してやりたい」と側近に漏らすほど兄弟を嫌っていた。ケネディ暗殺はFBIが仕組んだと言われるほど関係不良は周辺も承知していたほどである。あの暗殺であとを継ぐことになるジョンソンとはルーズヴェルトと似た関係、ライヴァル、議会対策にFBIを最大限に利用し、終身長官を保証する。最後になるニクソンをフーヴァーはまるで評価していないが、ニクソンの方はアイクの時代を見ているのですり寄っていく感じが強い。しかし、フーヴァーの死後自分の“フーヴァーファイル”の回収を命じそれを読んだニクソンが激怒したと言う。大統領とFBIの関係はその後も詳しく紹介される。ニクソン辞任につながるウォーターゲート事件、レーガンのイラン・コントラ事件、ブッシュ・ジュニアと911同時多発テロなどがそれらだ。
FBIの“敵”については先にも触れたがそれ以外にも、FBIに批判的な議員、公民権運動推進者(キング牧師など)、同性愛者(この捜査はかなり熱心で、それが因で社会的に葬られるケースがかなりあった)、ヴェトナム反戦主義者、極右のクー・クラックス・クラン(KKK)、プエルトリコ独立運動家、カストロ主義の同調者などにもおよび、国内のみならず海外や外国大使館などへの秘密捜査の手が伸びて、CIAとの縄張り争いを随所で起こしている。
フーヴァー亡き後、肥大化したFBIは自己の統制がとれぬほど混乱を起こし、難しいポジションだけに正規の長官任命がしばしば滞る(代行によるショートリリーフ)。911同時多発テロは予兆を下部の捜査員がいくつもつかみ、報告していたにも関わらず、その間隙を突かれた形になり、FBIの権威を失墜させることになる(正規の6代目長官が赴任したのは94日、1週間前)。
本書の構成は4部構成、その内3部はフーヴァー時代。面白さもこの部分が際立っている。特に、大統領府、司法省、議会、FBIと捜査対象の魑魅魍魎とも言える絡み合いは、よくできたスパイ小説をはるかに超える。読後強く記憶に残るのは専らフーヴァーに関することである。英文ゆえに著者の意図を正確につかんでいるかどうか疑問もあるのだが、本書から読み取ったフーヴァー像は、決して権力欲(地位・カネ・名声)の亡者などではなく(闇社会とのつながりなど噂されるが、その種の話は本書には全く出てこない)、安全で安定した社会を実現維持することに邁進した、強い意志を持った保守主義者との印象である。ただ違法行為は目に余るし、いくらなんでも半世紀は長すぎた。

5)ふしぎな国道
自動車旅行(日本だけでなく世界;アジア横断、アフリカ縦断、ロンドン~東京など)の本はかなり読んでいるが、“道路の本”を見たり読んだりした記憶は全くない。それだけに書店で平積みになっている本書を見た時、「一体全体これは何を書いた本だろう?」と触手が動いた。扉を開くといきなり「余はいかにして国道マニアになりしか」ときた。国道マニア!初めて聞く言葉である。表紙裏の著者紹介を見ると、東工大大学院で化学を学び、医薬メーカーの研究員を経てサイエンスライターを生業としている人である。未知(道の本、国道マニア)とミスマッチング(道路と医薬研究者)に惹かれて本書を読むことになった。読後感;ドライブ計画検討に欠かせない、座右の書である。
自分のクルマを初めて持ったのは昭和406月(1965年)、入社して3年目、和歌山工場時代である。勤務地の和歌山工場は和歌山市中心部から25kmほど南へ下ったところで、紀伊半島を一周する国道42(死に)号線が近くを走っていた。当時和歌山市からここまでは一応舗装されていたが、そこから南は市街地を除けば未舗装の酷い道が峠を越え、目もくらむ断崖を擦るように延々と続くような状態だった。紀伊半島内部へ向かう道はさらに過酷で、すれ違える場所は限られており、しばしば一方が狭く険しい道を後退して行き交うような有様、用もないのに好んでこんな道を走る好き者は先ずなかった。しかし、待望のマイカーを持った私にとって、そんな道も気にはならなかった。と言うよりも山岳ラリーに一人で挑戦しているようなスリルが堪らなかった。以降酷道・険道巡りが趣味となっていく。この本はその世界にかなりの頁数が割かれたものだった。
無論これに限らず、国道に関する様々な話題を取り扱っている。
これが何故国道なんだ?!と思うような道:階段国道(竜飛岬)、登山道国道(289号線;新潟~福島;バイクでも踏破困難)、切り返しを何度かしないと抜けられない道(477号線;京都~大津)、アーケードを貫く国道(170号線;東大阪市瓢箪山商店街)などなど。
記録を持つ数々の国道:陸路だけを行く最長路は4号線(東京~青森;743.6km)だが、海の中に見えざるルートがある国道58号線は鹿児島から奄美大島を経て沖縄本島那覇まで857kmとなる。最短は174号線の187.1m、国道2号線と神戸港を結ぶ盲腸線だ。最高地点は群馬・長野の県境渋峠(2172m)を超える292号線、最低位はアクアラインのトンネル部でマイナス60m、最大車線数は14車線!(4号線仙台バイパス)、クルマが走れる道の最大斜度は31度!これは東大阪市と奈良県生駒市結ぶ308号線の暗(くらがり)峠大阪側、非力な車は登り切れないし、下りはまるでスキーのダウンヒルである(直線ではないが)。最長直線距離は国道12号線北海道美唄市~滝川市間の29.2km、新宿~八王子間に相当する。
書かれているのは道そのものばかりではない。国道の歴史(本書では、国家が管理した道の起源を奈良県葛城市と堺市を結んでいた竹内街道としており、その制定は613年、近代的国道制定は明治9年(1876年)に始まったとのこと)、番号のつけ方、道路標識(誤字脱字の写真証拠まで)、起点・終点元票(意外と見つけにくい)、 “道路マニア”の深遠な?世界(例えば、東京から大阪まで一切国道を走らないルート発掘(横切るのはOKだが))まで興味深い話題を幅広く取り上げている。
しかしメインディッシュは何と言っても酷道・険道走破、道路マニアの最大勢力はここにあるそうだ。著者もその一人、自ら走ったところを中心に代表的なそれらの細部を紹介する。その中の十数本は、全行程はともかく、一部を含めれば私も厳しい運転を楽しんだ道であった。
本書によれば酷道3大エリアは、紀伊半島、・四国内陸部・中国山地であり、西日本ばかりである。紹介例の中には新潟・群馬・福島県境や信州にハラハラ・ドキドキするコースが出てくるのだが、名所として高ランクにないのは、“数”の問題だろう。紀伊半島は日本一の大きさを誇る半島にも拘わらず海岸線以外に大きな町は全くないので、そんな道に事欠かない。中国山地は東西に長いこともありそこを南北に縦断する難所を持つ道が多い(鉄道でも蒸気機関車の3重連が走っていた)。四国は紀伊半島北部から石鎚山脈に至る中央構造線が続くので山道だらけである。いずれの土地も和歌山時代走っているので納得である。時間と距離でもっと厳しいと感じていた道、国道352号線(新潟県魚沼から奥只見、尾瀬の北側を経て南会津に出る、通称樹海ライン)は一昨年秋走破したが、本書によれば「日本にこんな秘境があったのか!?」「酷道の見本のような道」と書かれていた(本ブログ「逆賊三藩山岳ドライブ」に掲載)。
と言うような訳で「次はどこにするか」に欠かせない、道路情報の宝庫とも言える本であった。地図や写真もふんだんに使われ、ユーチューブでの事前体験などの知識も与えてくれる、山岳ドライブ必携の書である。

6)スターリン
スターリンの名をいつ頃知ったか記憶は定かではないが、少なくとも朝鮮戦争が始まった1950年(小学6年)にはよく聞くようになっていたし、1951年のサンフランシスコ講和会議でソ連・東欧ブロックが条約批准に反対したことで、その指導者として“悪の権化”のイメージがはっきり植えつけられたことは間違いない。そして忘れもしないのは、19533月(中学3年進級直前)彼の死去により株価が暴落したことである。一国の指導者の死がこう言うところに影響を与えたことにある種の畏怖の念を覚えた。「これは凄い人なんだ」と。
それ以降歴史への興味が増すにつれ、ロシア革命、党内抗争、赤軍粛清、独ソ不可侵条約、独ソ戦、テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談、鉄のカーテンと冷戦、死後の批判などにおける関係報道・書物を通して、陰険で冷酷な性格と狙った獲物(地位、領土・勢力圏、利権)を着実にものにする狡猾なやり口を強烈に肥大化させ、大国指導者の中でも別格の権力者像が私の中に出来上がっていった。しかし、いずれの関連書物も歴史の一断面を切り取ったもので、言動の裏にあるものをじっくり探る、伝記の類は読んだことはなかった。その最大の理由は、訳本を含めてほとんどがジャーナリスティックなものしか出版されていなかったことである。こうなった背景は冷戦終結まで内部情報の開示が著しく制限されていたこととロシア語に精通した当該分野(ソ連・ロシア近代史)の学者が極めて少なかったことにあるように思う。
著者は副題として“非道の独裁者”を用いているが、これが日本人の大方のスターリン像と読んでのことであるし、欧米の研究者の書いたものもこの傾向があるとしている。しかし、モスクワ日本大使館に調査員として滞在し、彼の地の人々のスターリン観に直に触れ、公開資料を調べていくうちに、このステレオタイプのスターリン像と異なる評価が少なくない(つまり一般のロシア人はそれほど悪印象でない)ことに気付く。少年時代から巷間語られるようになる性格の兆候があったのだろうかと。
先ず、早くから革命家を目指していた、後年顕著になる粗暴なところがあったと言うソ連時代の定説にメスを入れる。家庭、教育、民族・地域としての特質、ロシア社会、宗教などが取り上げられる。靴職人で大酒飲みの父、本人は無学だが教育熱心な母、奨学金を得ての神学校進学(これは職人の子としては異例)、ここで示される詩作などの優れた才能。経済的にはともかく知的環境としては当時の同世代少年としては比較的恵まれている。
社会に対する反抗が目立ってくるのは上級の神学校に進んでからだ(16歳;生年に2説ある;1878年と9年、ここでは8年で数える)。ロシア社会の後進性に加えて、今でも騒乱の絶えないカフカス・グルジアと言う地に在って、反ロシア(地方政府の役人はロシア人)政治活動に関わるようになり、神学校を退学させられると(1899年)社会主義運動にのめり込んでいく。大きな試練はこの時代にやって来る1903年のシベリア流刑で(25歳)、以降本格的な職業革命家に転じていく。これに重なる時期小さな革命集団、ロシア社会民主労働党がボルシェビキ(多数派と言う意)とメンシェビキに分裂し、ボルシェビキ党の指導者としてレーニンが表に出てくる。ボルシェビキの核心は“意識の高い党員による中央集権的な組織で革命を成就”にある。つまり党員と一般大衆の峻別である。地方の非圧迫民族出身で身近で現実的な問題を対象に反体制運動を進めてきたスターリンとは相いれないところがある。しかし流刑中の身で分党活動に関わることが無かったことが幸いし、のちに地方・下層からの支持が彼に集まる下地を温存することになる。
日露戦争とそれに続く不況、ロシア社会は荒れ党内抗争も依然として収まらない。この間数えきれないほどの脱走・逮捕・流刑を繰り返す。逮捕の裏には党内に潜り込んだスパイの密告がある。敵を判別する特異な思考癖はこのとき体得したと言うのが著者の見方である。幾度も懲りずに脱走しては党活動に励むスターリンの力量をやがてレーニンが認め1912年中央委員に取り立てる。これも流刑中の出来事である。
1917年、革命がなるとレーニンらはその国際的な広がりを図るが(コミンテルン)、スターリンは専ら国内に注視、一時期は無能な少数派と見られるが、自説を抑えて民族人民委員(民族問題担当大臣に相当)として政権に加わる。このとき南部地方からの食糧調達責任者を兼務し、農民や地方政府の抵抗(食料隠し)を収拾、実績を上げたことがレーニンの評価をさらに高める。当面の課題に対する集中力、強い意志、実務的な判断力、のちに彼の特徴となる資質が明瞭になってくるのだ。
政権は未だ安定せず、各所で中央に刃向う行動が起こるが、レーニンは殺人を含む断固たる指示を同志たちに送って、反対派(批判派を含む)を徹底的に排除する。この殺伐とした時代に最も頭角を現してくるのがスターリン、レーニンに忠実に学んでいるのだ。歴史に取り上げられることになる、大飢饉と大量餓死、粛清はこの時のレーニンの権力掌握プロセスを再現したもので、後世スターリンの冷酷非道の代名詞となる行いが、彼独自の性格から出たものないことを、各種の資料から著者は示していく。この残忍性が流布するのは、レーニンが再起不能の病に倒れ、書記長(この地位はその当時党の最高位ではない)となったスターリンを最大のライヴァルと見做し始めた時(1922年末)、後継候補者たちに発した「スターリンはあまりに粗暴である。(中略)書記長の職務にあって許容できるものではない」との言葉がその後引用されてきたと著者は断ずる。しかも“粗暴”の真意は“残酷、無慈悲”と同じ意味ではないと(むしろ“熟慮されず論理的でない”に近い)。
以上本書の内容を“非道”を材料に概説したが、著者が言わんとすることは、スターリンは異常性格者などではなく、度重なる流刑の経験と師と仰ぐレーニンの言動から絶対権力獲得の道を体得していったことと見做す。
「ロシア国民の少なからぬ人々が今もなおスターリンに思いをはせ、愛着の意持ちを抱くのは何故か?」この視点からの考察は歴史的事件を取り上げながらその死まで続く。
スターリン再考に関して、質の高い斬新な内容を持つ書として評価できる。

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2014年11月22日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部;取締役の一人として)-1


1.   経営陣一新
第Ⅱ部の開始年度は1988年、東燃役員改選期にあたりSPINの経営陣も一新される。私もその一人として新任され、1994年まで取締役を務めることになる。この間の6年を第Ⅱ部として綴っていくことにする。
その間のSPINの経営を語る前に、先ず東燃グループの役員人事に関わるあれこれについて解説しておきたい。
東燃本体の役員ポストは、会長・社長・副社長・常務・平取締役、これに常任監査役とあり、他社に多くある専務職は無く、会長は社長退任後のポスト。常勤役員は、会長・社長が全般、副社長は一部直轄組織を持っていたが(情報システム室は長く副社長主管であったがNKHさんが副社長になった時、技術担当取締役の下に入り情報システム部となり、SPIN設立後その後継組織、システム計画部も同じ扱いであった)、これも全社的な立場が強かった。常務・平取締役は、総務・人事、経理・財務、企画・広報担当、製造・製品開発、技術・購買を担当するものが各1名(担当の組み合わせは固定ではない)、それに事業所(3工場、1研究所・新規事業)のトップが規模や年功に応じて任命されていた。従って常勤役員は事業所も含め総数10名強、他社に比べて極めてスリムな構成である。また、任用基準(退任基準)は年功序列的な性格が強かった。平取締役・常務の在任期間は役員登用後23期(46年)が平均でその後は関係会社の社長や監査役として数期過ごす人が多かった。しかし、大株主(ExxonMobil)の意向で子会社の数は厳しく制限されており、必ずしも人心一新や若手登用に好ましい環境ではなかった。
1988年、この年はNKHさんが社長になって2期目を迎える年である。“強守と展開”に向け大胆な役員登用が行われるのではないか、そんな噂が1987年の後半からグループ内で飛び交っていた。昭和25年(1950年)太平洋岸石油精製工場の再開が認めら、この年以降新卒として採用され、現在役員を務めている昭和20年代入社の人たち(45名居た)が専ら話題として取り上げられ、これら古参(?)役員が、NKHさん(確か昭和33年入社扱い)より若い人に代わるのではないかと言うのである。その時の最年少役員は昭和36年入社(修士課程修了だから34年扱い)のTMBさん(のちに社長)、NKHさん社長就任時に取締役になっており、いよいよ昭和35年~38年入社が次期候補として下馬評に上がってきていた。
東燃本社の役員人事は当然子会社とも影響するが、設立背景(出資率を含む)や規模によって事情が異なっているので、その辺りを眺めてみたい。
先ず規模からいってもグループ内位置付けから言っても別格なのが東燃石油化学(TSK;のちに東燃化学と改名、略称もTCCとなる)。ここは、出資率は100%ながら昭和37年からプロパー社員を採用し独立色が強く、当時の役員は早くから東燃籍を離れ転出した人たちが中心であった。東燃本社の事務系部長(人事、経理など)が時々登用されることはあっても指定席があるわけではない。それに比べると、同じ石油業を営むキグナス石油(50%;KSK)、日網石油精製(70%;NSK;のちにキグナス石油精製となり最終的に東燃に吸収)は石油業法の関係で日本魚網(漁具関連商社)との合弁会社ながら、営業関係を除けば東燃と一体の経営が行われており、東燃役員経験者が社長・常務に就任することが恒常化していたし、本社部長が取締役になるケースも多かった。少し毛色の変わったところでは政府と東燃が50%出資する備蓄会社、むつ小川原石油備蓄がある。ここの社長は政府機関(資源エネルギー庁、石油公団など)出身者と東燃(TSKを含む)で交互に務めるようになっており、常務経験者が登用されていた。また現地の所長(取締役)も東燃出身者だったが、これは東燃管理職の身分を残したままの役員就任だった。同種の会社に日本地下備蓄があるが、ここは石油3社(東燃・出光・太陽)と政府の出資、社長・常務は通産省OB3事業所(串木野。久慈、菊間)はそれぞれの運営母体(東燃は串木野)部長クラス出身者が役員を務めていた。この他には東燃タンカー(TTK)と東燃テクノロジー(TTEC)があるが、TTKは運輸行政と通産行政の違いから別会社になっているものの、実質は東燃組織で社長や監査役は東燃役員OBがその任に当たっていたが、従業員は総て東燃所属である。またTTECは外部向けのビジネスを中心に経営されていたが、役員はTTKと同じ基準、従業員の経歴・身分は東燃同一と見て差支えない。両社はその道一筋の人が偶に役員(社長を除く)に就くことがあっても、極めて限られていた。
さてSPINである。社長のMKNさんは昭和25年以降の入社だが、大学卒業はそれ以前だから今期退任かあってももう一期、MTKさんは昭和28年入社、同期3人が東燃の取締役になっており(昭和59年;1984年)、既に一人はKSK社長に転出、あとの二人も今期退任が噂されている。しかし、“その道一筋”の専門子会社役員だから継続し常務昇格も考えられる。残りの一人KKTさんはMTKさんと同じ歳、TSKから経理の専門家として登用された人。事務系システムズエンジニアには経理出身者が多く居るが、この人は全くその経験がないので、私も含め誰もSPINに不可欠な役員と思っていないのが実情だった。

(第Ⅱ部“経営陣一新”つづく)