2010年6月30日水曜日

奥の細道ドライブ紀行-4(酒田)

 酒田は古くから栄えた、日本海の港湾・商業都市、また米どころとして知られている。藩主の居城は隣の鶴岡だが、「本間様にはおよびもせぬが、せめてなりたやお殿様」と詠われた、本間家の在所である。海運、金融と事業を広げ、それを元手に灌漑や砂防林で水田を拡大、庄内藩や米沢藩のような近隣の藩のみならず、仙台の伊達藩まで支援するほどの財力を持ち、戦後の農地改革まで日本一の大地主であった。 従って酒田の見所は、この本間家の残したものに尽きる。それは、本間旧本邸、別邸(美術館を併設)と山居倉庫の三ヶ所である。
 小降りではあるが雨はまだ続いている。フロントで聞くと「何処にも無料駐車場があります」 と言うことなので、クルマで出かけることにする。町に入ったときから気になっていたのは、歴史のある町にしては、町並みも家々も、何か薄っぺらい感じがする。しかし、町の中心部に位置する、旧本邸だけはさすがに風格がある。33.6m(幅)×16.5m(奥行き)の壮大な木造平屋は、これだけ大きいと当時の照明技術では、外縁の部屋を除けば明かりが入らない。「こんな所で生活するのは、いかに立派でもチョッとなー」と感じさせる。それもそのはず、ここは自宅ではなく、1768年幕府の巡検使宿泊用につくられ、藩主酒田家に献上されたものであるとのこと。普段の生活の場ではないのだ。
 周囲の家々との違いは、大きさも然ることながら、昭和51年10月の大火の際にも倉や土塀、庭の樹木に守られて、ここだけ焼け残ったことが、それを際立たせているのだ(周辺の家はその後作られたので、全くバランスがとれていない。“薄っぺらさ”はそこからきている)。戦時中は軍の司令部、戦後は市の公民館として使われていたこともあるようだが、現在は復元され元の姿に戻っている。道路を隔てた向かい側に「お店」と称する建物があり、ここが商社のオフィスだったわけだが、どうやら大火で焼かれた後新築したようだ。当時の風景画を見るとこの「お店」に隣接して、家族や使用人の居住区が在ったやに推察される。
 次に訪れたのは酒田駅近くの別邸である。ここには美術館が併設され、本間家が藩主たちから拝領した美術品などが展示されている。ガイドブックには無休とあったが、展示物の入れ替えが行われており、残念ながら公開されていなかった。しかし、庭園(鶴舞園)で有名な別館そのものは見学できた。江戸末期(1813年築)この辺は町外れ、晴れた日には鳥海山が庭園の遥か先に遠望でき、見事な借景を形作ったと言う。大正以降は“酒田の迎賓館”となり、昭和天皇も皇太子時代お泊まりになっている。庭に面した部分はガラス障子で構成され、座敷からの、回遊式庭園の眺めはが素晴らしい。このガラスは明治期に入れられたもので、手漉きのため表面に微妙な凹凸があるのも、時代を感じさせる。
 最後の観光スポットは、山居倉庫である。これは商港として栄えた、酒田のいにしえを今に残す建物である。倉庫の形状は山型の建て屋をいくつも連ねて一棟とするもので、現存するのは最上川河口、酒田港の一角に在る一群だけだが、往時は港湾地区の至る所にあったらしい。いまでも現役の農業用倉庫として使われており、そこに観光施設が併設されている。最上川に通ずる新井田川に面して、掘割が切られている所なども残っており、水運輸送の歴史を偲ぶことの出来る、貴重な文化遺産といえる。
 この日の夕食は、日本海の魚を味わいたかったので、インターネットで調べ、ホテルから歩いていける「こい勢」と言う寿司屋にした。駅から比較的近いこともあり、地元のサラリーマンと思しき客が数人入っていた。席は全てカウンター、板さんと歓談しながら、地酒の「初孫」で、“おまかせにぎり”を堪能した。ネタはほとんど地元産、いか、ノド黒、カワハギ、太刀魚、ズワイガニ、マグロ(和歌山)とウニ(北海道)だけが他所のものだった。
 雨の帰路、まだ8時だと言うのに、駅へ通ずる通りに人影はなかった。
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2010年6月25日金曜日

遠い国・近い人-7(十字路の男-1;トルコ)

 1996年5月、ギリシャ・ロードス島で開催されたESCAPE(European Symposium on Computer Aided Process Engineering)-6thに、招待スピーカーとして呼ばれた(と言っても諸費用は自己負担だが;このギリシャ訪問は別途本欄に取り上げる予定)。その帰路、休日を利用してトルコのイスタンブールに立寄った。僅か三泊の滞在である。嘗ての東ローマ帝国、そしてオスマントルコの首都、東西・南北文化の十字路と言われる場所だ。
 この短い観光旅行は仕事とは関係ないので、自分で計画を作らねばならない。一番の心配事は言葉の問題である。それまでのただ一回のヨーロッパ旅行経験は、1970年6月のフランス出張のみ。その時の移動の苦労は今でも忘れられない。タクシーも鉄道も、英語が全く通じないのである。ましてやヨーロッパでもない、トルコの一人旅である。何か手がかりは無いものか?そんな悩みに道をつけてくれたのは、職場の後輩、YNGさんである。彼の団地に、トルコ駐在経験のある商社員が居り、奥さん同士が親しいと言う。 その人から、駐在当時利用していた現地大手旅行エージェント、ERGUVAN、を紹介してもらい、ファックス(当時はインターネットは普及していなかった)で何度かやりとりして(これは全て英語、値段もUSドル表示)、二日間の日本語ガイド付き個人ツアーを纏め上げた。
 ロードス島はトルコ本土(小アジア)が遠望できるほど近い。ここから直行便があれば便利だが、ギリシャ・トルコは仇敵、ローカルな交通は著しく制限され、一旦アテネに戻ってイスタンブールに向かうしかない。アテネの空港では、ギリシャ・ドラクラマを直接トルコ・リラには両替してくれず、一旦USドルに変えて出国する。行き先名はイスタンブールではなく、コンスタンチノポリスと表示され、彼の地がキリスト教国だった時代の名称のままである。
 イスタンブール空港でドルを小額リラに両替した。ガイドブックでは1USドルが4万リラとなっていたが、両替所の表示は8万リラ。何か大もうけした気になったが、それだけインフレが酷いと言うことである。丁度その時期ユニセフの会議があり、市中に適当なホテルが取れず、空港近くのホテルを予約していた。 「シャトルバスのようなものが無いか?」と案内所で聞いたが、「タクシーで行きなさい」との返事。どこの国でも空港タクシーは近場はいやがる。乗車拒否を心配しながらタクシー乗り場に行き、ホテル名を告げると「OK」の返事、ついでに僅かなリラしか無いので「USドルで良いか?」と聞くと、嬉しそうに「もちろんですよ!」と返ってきた。英語が通じること。気持ちの良い対応をしてくれたこと。未知の国での玄関口での対応は、その国の印象に著しく影響する。さい先の良いスタートだった。
 夜ホテルに電話があった。“ブルハン”と名乗る、明日からのガイドである。「明朝9時にロビーでお会いしましょう。着いたらフロントから電話します」 かなり癖はあるものの、まずまずの日本語であった。
 翌朝ロビーで会ったブルハンさんは、年齢は30代前半位。小柄な人で、、目鼻立ちは白人と近いが、髪は黒く肌の色も浅黒い。鼻の下には立派な髭があった。身体の大きさを除けば、この地の典型的な男性と言って良い。ツァー会社で日本人専門のガイドをしている、と言って名刺を差し出した。そこにはアルファベットで“Burhan Ozturk(OとUの上にはドイツ語のウムラウト;二つの点・・が乗る)”と書かれ、その下に、ひらがなで“ぶるはん”と小さなルビがふられ、中央上部にこれも小さく漢字で“武留範”とある(写真)。会社名は記載されておらず、どうやら契約社員らしい。「日本語はまだ上手くありませんが、よろしくお願いします」と丁寧に挨拶をする。数少ない経験だが、中近東の人間は、総じて押し出しで勝負すると思っていたが、この人の第一印象は、恥じらいとか謙虚とか、日本人に近い資質を持っているようだ。
 今日・明日の観光予定について説明してくれたあと、表に停めてあるクルマに案内される。エンジのトルコ製フィアットで、彼の自家用車だと言う。「日本車のように良くないし、汚くしていて済みません」(確かにあまり綺麗ではない)と謙遜する。こうして武留範との二日間のイスタンブール観光が始まった。(つづく)

2010年6月22日火曜日

奥の細道ドライブ紀行-3(酒田へ)

 天気予報通り、5月12日朝の横浜は曇りだった。本日の予定は酒田まで行き、この日の内に本間本邸、別邸(本間美術館)を観て、出来れは北前船で栄えた時代から残る、最上川河口の倉庫地帯、山居(さんきょ)倉庫を訪れたい。これらを観る時間を3時間とすると、2時頃には酒田に着きたい。ナビタイムでの所要予測時間は約7時間。そこから逆算して出発時刻は7時少し前となった。東北道への道は一昨年の仙台・平泉行きでわかってはいたが、首都高中央環状線での分岐路(小菅JCT、江北JCT)車線確認のため、カーナビで蓮田SAをゴールにルート探査を行い、少し遠回りになるが葛西JCT経由を選択した。
 平日の通勤時間帯に、都心方面へドライブすることは滅多にない。ベイブリッジまでは追い越し車線は空いていいたが、そこからはトラックが増え、三車線とも長い貨物列車のようにつながって走る状態だ。しかし流れはスムーズで、これらかの長距離ドライブの助走としては、車間だけを注意していればいいので、むしろ好ましいともいえる。葛西JCTで常磐道・東北道方面に向かう中央環状に入ると、四ツ木付近から渋滞が始まり、それは東北道へ分岐する江北JCTまで続いたが、そこを抜けると混み具合が緩和され、走りやすくなってきた。一旦490km台に落ちていた次の給油地点までの距離が、500kmを超えた数字を示すようになる。蓮田SA到着は8時20分、約1時間半は予定より約20分早い。
 関東平野を北へ向かう道は、平坦で“走りの楽しみ”を欠く、特に住宅地域は高い防音壁で囲われ、土地どちの特徴を垣間見ることもできない。やっと様子が変わり、旅らしい景色になってくるのは那須を過ぎてからである。ここまで来ると車線は片道2車線に減じているが、交通量も減っているので、走りを堪能する運転が出来る。気をつけなければならないのは、覆面パトカーと自動速度取締機だ。郡山を過ぎると空も明るくなり、遥か左手に吾妻連峰が見え隠れする。やがて東北道の最終休憩予定地、福島・宮城県境の国見SAに11時20分に到着。ここまでの距離は約360km、埼玉北部から燃費はグーンと伸び、残給油距離は300km。これなら酒田まで無給油で行ける。エッソの酒田SSをカーナビに設定する。必要な情報は、酒田ICを出た後のSSまでのルートだ。
 村田JCTで東北道に別れ山形道に入る。ここからは初めての道。しばらくは今までと変わらぬドライブが続くが、蔵王越えが楽しみだ。 しかしこの期待は、あっけなくトンネルで破られた。新しい道路ほど近代土木技術の恩恵を受けるが、走りの楽しさはその分減ずる。帰りのルートは一般道(蔵王エコーライン)にしよう!山形市街を遠望しながら、盆地の西端に位置する寒河江(さがえ)のサービスエリアに12時20分到着(写真)。ここで昼食とする。ときどき薄日がさし、北には雪を被った月山が望める。山形道に入るとトラックがほとんど走っていなかったが、このSAにもその姿は無く、業務用のライトバンが目立つ。仙台や山形を拠点とするセールスやサービスの仕事に使われているのであろう。食堂のメニューも地方色は無く、ありふれたものばかりだ。 親子丼を食してみたが、ただ腹にたまったと言う感触しか残らなかった。
 寒河江を出ると、道はオレンジ色のポールで区分された対向2車線になって朝日山地に入り、山間を抜ける登りとなる。天気もどんよりとした曇り空に変わってくる。月山近くでは北斜面に雪が残り、霧雨模様で間欠ワイパーを稼動させる。有料区間は月山ICで一旦途切れ、次の湯殿山ICまでは一般道になるのだが、併走する国道112号線とは別に、月山花笠ラインと呼ばれる専用道路になっているので、実質的にはそれまでの道と変わらない。さすがに高速ワインディングは厳しくなり、この雨中山岳走行はやや緊張した。アップダウンと加速・減速で燃費も一気に低下してくる。
 湯殿山を下り降りると、雨に煙る広々とした庄内平野が見えてくる。日本を代表する米どころ、きれいに整地された田植え前の田圃が見事だ(農業機械の高効率が窺える)。天気が良ければ、日本海も見晴るかすことが出来たに違いない。しかし、この頃には雨も強くなり、酒田市内へ向かうルート確認に神経を使うので、景色を楽しむ余裕はない。カーナビの案内でエッソ・エキスプレス(セルフ)酒田SSに着いたのは2時過ぎ、家からの距離は554km、給油量は50L。11km/Lは、首都高の渋滞と山岳道路を考慮すれば、良い数字である。
 駅前のアルファーワン酒田チェックインは2時半になった。予定より30分遅れたが、昼食などの休憩時間を考えれば、所要時間は若干計画より短い。フロントで聞くと、三ヶ所の観光に要する時間は2時間程度。3時からで問題はないとのこと。
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2010年6月17日木曜日

遠い国・近い人-6(黒い戦略家-3;パキスタン)

 夕食後リヴィングで家族と寛いでいると、パシャが「これからクリーブランドの街に出て、元AMOCOの仲間と会うんだ」と言う。正直「今から?」と思ったが何か訳があるのだろう。彼の運転する車でダウンタウンに向かった。当日は休日で人出もほとんど無い街は、暗闇の中にわずかなネオサインが点滅するだけである。案内された場所は寿司バーだった。客は数人皆独り客である。その中の一人がパシャの友人だった。当初明日午前のミーティングを計画していたが彼の都合が悪くなったので今夜にした、と言うことだった。しかし、それに加えて、折角日本から来た客に、アルコールを振舞えない埋め合わせを、ここでしようとの気遣いも感じられた。彼は相変わらずソフトドリンク、私はその友人とビールを飲んで、フロリダで得た情報の裏づけなどを行った。自分は飲まずとも、酒の効用を知った心憎い気配りであった。
 翌朝朝食後夫人は地域のボランティア活動に、子供たちは学校へ出かけていった。夫人はイスラム風のスカーフ?(何か正式の名前があったと思うが)で頭を覆っていた。米国に居ても、宗教的な戒律には忠実な家族との感を深くした。
 この日の私の予定はここからデイトンへ移動し、米空軍博物館を訪れることである。デイトンはライト兄弟の出身地、米空軍のライトパターソン基地があり、博物館が併設されているのだ。ここで米空軍の前身、陸軍航空軍のヨーロッパ戦線における、OR適用に関する資料を探すことを計画していた。長距離路線バスでの移動を考えていたが、パシャは「自分も行ったことがないので、一緒に行き明日こちらの戻る」と言って、同行してくれた。2時間強のドライブ、昼過ぎに博物館に着き、歴史的な飛行機(空母から東京爆撃を敢行したドーリットル飛行隊のB-25、長崎原爆投下のB-29<ボックスカー>、音速を初めて超えたロケット機<ベルX-1>など)の数々を見学、OR関係の書籍も入手できた。
 その夜はホテル近くのファミリー・レストランで食事。「自分に構わず、酒を飲んでくれ」と言う彼の好意に甘え、ビールを飲みながらの夕食となった。話題はやがて今回の旅の空港における、セキュリティチェックの話になる。この時までに国内線に三度乗っているが、いずれの空港でも、標的になったように厳しいチェックを受けてきたことを話すと、彼も結構やられていることが判ってきた。それから話は米国における非白人に対する人種差別へと転じていくのである。
 彼の家庭は両親とも教育者(父親は大学教授)。何と高校のときアメリカへ留学、そこからMITに進み、修士課程を終えAMOCOに就職したのだと言う。「国へ帰ることは考えていないのか?」と問うと「留学当初はそのつもりだったが、今では全く考えていない」との返事が返ってきた。「残念だが、パキスタンの現状と米国で生まれ育った子供たちの将来を考えれば、多少不愉快なことがあっても、ここで暮らすほうがベターだ」「専門職でやっていくなら仕事上では差別はないからね」と言うのがその理由であった。実際BPの傘下に入ったあと、英国本社勤務もしているし、トルコの製油所では責任ある地位を与えら、彼なりに職業人として大きな不満はなかったようである。「だから子供たちも専門職の道に進んで欲しいと思っているんだ」と語り、前年長女が医学部へ進学したことを、ことのほか喜んでいた。
 この職業観は私の考えと共通するものがある。ソ連軍→国府軍(蒋介石)→八路軍(毛沢東)とめまぐるしく統治者が変わる戦後の満洲で、技術系専門職(医師や技術者)の処遇は、それ以前の日本統治時代と大きく変わることは無かった。自動車会社の事務系管理職だった父が、工場の下働きに身をやつす姿を見て、子供心に“生き残るためには職業が決定的である”と焼き付けられた。大学進学時クラス担当からは文系を選ぶよう勧められたが、全くその気は無かった。
 デイトンは典型的な中西部の白人の町、ホテルの従業員、博物館の職員、翌日利用したタクシーの運転手、皆穏やかな白人だった。そんな中での有色人同志の人種・職業論議。パシャ一家の米国での幸せを願いつつ夜が更けていった。

 (パキスタンの項 完)

2010年6月13日日曜日

奥の細道ドライブ紀行-2(計画立案-2)

  大まかなルートと宿泊地を決めたら、次に日々の行動計画と宿泊施設を検討する。今回の場合、酒田・乳頭温泉・銀山温泉に泊まることにしたが、初日の酒田は地方の産業都市で、それほど観光スポットは無い。一方翌日角館で充分時間を取りたいので、少ない見所をこの日に見てしまいたい。自宅から酒田までの走行距離はおおよそ550km、途中の休憩を含めれば7時間は見ておきたい。こういうタイトなスケジュールは日本旅館や観光ホテルは向かないし、もったいない。その点ビジネスホテルは計画変更が容易で使い勝手もいい。時間の余裕度に応じて夕食の場所を決めることも出来る。 インターネットで駅周辺のホテルを当たり、アルファーワン酒田に決める。
 翌日の予定は、酒田から日本海に沿う国道7号線を走り、羽後本荘 付近で東北東へ向かう道を取り、角館に達してそこで昼以降を過ごして、夕方田沢湖経由で乳頭温泉に達する。走行距離は200km足らずだが、温泉の在り場所はかなり山深く、先は行き止まり、温泉旅館の数も限られている。これもインターネットで予約状況が調べられるので、空室情報・料金・景観・部屋の設備などを調べ、妙乃湯と言う旅館を選んだ。
 三日目は角館付近までは来た道を戻り、東北中央部の幹線国道である7号線を南下、湯沢付近で国道108号線へ岐かれ鳴子に至る。ここを観光した後、銀山温泉に至り、ここで徳川時代初期の銀鉱跡を訪ねる。予想走行距離は約220kmだが山岳道路が多く時間は7時間くらいかかりそうだ。ここは比較的古くから開けた温泉場で、旅館は十数件ある。この中で最も有名なのは「おしん」にも登場した能登屋である。木造4階建て文科省の重要建造物に指定されている。しかしここをインターネットで調べたところ気になる情報が出てきた。外見は見事な木造だが、中はコンクリート部分が多いこと。大きな旅館だけに団体客も多く、それがカラオケをやると客室まで聞こえてくると言うのである。そこでそれとは対極にあるこじんまりした宿を探し、客室8室の旅館藤屋に泊まることにした。
 宿泊場所の絞込みには主にその地の観光協会などのホームページにアクセスしたり、楽天の「ぐるナビ」などを利用するが、道路事情(特に、距離と時間)調査はNAVITIMEという無料ソフトを利用する。装備したカーナビが一番いいのだが狭い車内でエンジンをかけたまま行わなければならない(バッテリー消費が高い)ので計画段階では現実的でない。曜日・時間帯による混雑状況は日本道路交通情報センター(JARTIC)のホームページ(HP)で数週間前からモニターする。
 ルートが決まると、次に大事なのがガソリンスタンドである。OBとしてエッソ・モービル・ゼネラルは割引が効くので何としてもそこで入れたい。しかし、これらの会社のスタンドは大消費地偏在の傾向があり、地方では行き当たりばったりで探すと意外と見つからない。特に自動車専用道が問題である。三社共通のHPと道路地図でどの地域で補給するか候補店の住所・電話番号をメモしておく。今回最大の難点は自宅~酒田市内のルートで、単純計算では満タンで出発しても酒田ICまでギリギリである。この間は専用道で一軒も該当のスタンドは無く、一度一般道に下りるか、あるいはサービスエリアの他社スタンドで少量補給することも考える。
 トイレストップの場所も地方道では軽視できない。 幸い最近は“道の駅”が整備され、状況は改善されてきているが必ずしも道路際に在るわけではないので、事前にこれもHPで当たっておく。さらに観光地での駐車場なども必須情報だ。また一応自動速度取締機の設置場所(特に警告の出ていない一般道)も“専門誌”から得ておく(カーナビのオプションとして販売されているが購入していないので)。
 インターネット上の各種HP、道路地図、ガイドブック、以前のドライブ記録などでこれらを詰めていくのに一ヶ月くらいアッという間に経ってしまう。 それでもインターネットのご利益は大きい。あとは好天を願い、安全運転あるのみである。

(計画立案の項おわり)

2010年6月8日火曜日

今月の本棚-21(2010年5月)

<今月読んだ本(5月)>1)明治37年のインテリジェンス外交(前坂俊之);祥伝社(新書)
2)原潜デルタⅢを撃沈せよ(上、下)(J・エドワーズ);文芸春秋社(文庫)
3)街場のアメリカ論(内田樹);文芸春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1)明治37年のインテリジェンス外交
 日露戦争はわが国にとって勝算を期待できる戦いではなかった。日英同盟は在ったものの、軍事面でも経済面でも衰退する大英帝国がこれに積極的に加担する動きはなかった。独仏は三国干渉に見るようにロシア側についていた。唯一力になってくれそうなのはアメリカのみである。
 時の総理、伊藤博文が送った私設特使は金子堅太郎。彼の米国人脈を頼ろうとの考えである。これが功を奏し、戦時国債の引き受けを初め、世論も味方するようになってくる。
 ギリギリの局地的勝利停戦下での講和交渉、ここでも露全権のウィッテの巧みな外交戦略・戦術にややもすると米国メディアは親露的なトーンになりがちである。対する小村寿太郎(と言うより日本外交)はマスメディア対策が全く稚拙。これを何とか埋め合わせ逆転させるのも金子の力(長い滞米経験、それの基づく人脈、語学力、ルーズヴェルトの信頼)である。賠償金は取れなかったものの、樺太の南半分を獲得でき、“勝利”を手に出来たことは、彼の存在抜きには考えられない。
 この本の内容は二つの資料;金子が昭和になってから各所で行った講演の記録と、ウィッテの自伝、に基づいている。その点では客観性をやや欠く怖れもあるが、当然筆者はその部分を検証し、外交交渉の核心をニュートラルに抽出する努力をしている。歴史はかく表現されるべきである。
 ウィッテの手の内を見ていると、100年以上前の話だが、今に続く日本の外交下手は一向に改善されていない(否あの時より退化している)と感ぜざるを得ない。出でよ!第二、第三の金子堅太郎!

2)原潜デルタⅢを撃沈せよ
 3月の本欄で紹介した「U307を雷撃せよ」の作者、J・エドワードの第二作である。今度の舞台はカムチャッカとオホーツク海である。仕掛けは前回同様潜水艦と対潜イージス艦だが今回はそれに無人深海探査ロボットが加わる。
 ソ連の崩壊は幾多のロシア人の誇りを傷つけた。“あの栄光をいま一度!”と願うロシア人は現実にも多いと言う。カムチャッカ州知事もその一人。カムチャッカ半島ペトロパヴロフスクは原潜の基地である。多弾頭核ミサイルを積んだデルタⅢを武器にロシア・日本・アメリカに対して、独立さらにはソ連邦再興を目論み、ゲームを挑んでくる。
 一隻のデルタⅢはオホーツク海の厚い氷雪の下に隠れ、先ずアメリカを脅す。次いで米ロ日の潜水艦を全て浮上させるよう求めてくる。攻撃型潜水艦による撃破は出来ない。密かに氷海に分け入るイージス艦とそこに積まれた深海探査ロボットだけが頼りだ。
 筆者は前回紹介したように、イージス艦で長年対潜作戦に従事してきた技術兵(下士官)である。従って、海軍に限らず、空軍や陸軍の迎撃ミサイル戦に精通している。多核弾頭(7発あり、それぞれが別の目標を攻撃できる;ただし核軍縮で3発はダミーだがそれは迎撃する側には判別できない)の発射を検知しこれへの迎撃シーンは、精緻に描かれ臨場感に溢れているが、人間的な仕掛けが浅くテクノスリラー(落ち目になってからのトム・クランシー)の域を出ていない。

3)街場のアメリカ論  すっかりファンとなった内田樹の著書である。彼の視点に立つアメリカ論だが今までの本欄で紹介した「私家版・ユダヤ文化論」や「日本辺境論」より出版は古く、2005年にハードカバーとして発行されている。その時点でのアメリカ社会・国家の問題点を評論・解説しているのだが古さを感じさせないのはさすがだ。
 その理由の一つは「トクヴィルに捧ぐ」とあるように、1830年代アメリカ大陸を旅したフランス人、アレクシス・ド・トクヴィルの著書「アメリカにおけるデモクラシーについて」を下敷きにして現代アメリカを考察すると言う手法をとっているからである。
 トグヴィルが200年近く前に喝破したのは、アメリカが他国とは全く違う“人工的につくられた理想(を目指す)国家”であり、その政治システム(多数決民主主義、完全な三権分立)や社会システムが極めてユニークだと言う点である(マックス・ウェーバーはそれ以前を「身分社会」それ以後を「契約社会」と分けている)。そしてそれは今に続くと言うのが内田のアメリカ論である。
 中でも日米関係はその原点(ペルリ来航来)から異形で、その人口国家を強く意識しながら己(日本・日本人)の存在意義を考えることを重ねてきた。特に戦後の“ねじれ状態(例えば、反米の筈の左派が米国譲りの憲法を墨守したり、本来自主独立を唱える右派が米国との同盟を声高に叫ぶ)は酷く、わが国の対米関係は「発狂ソリューション」(そう言われれば普天間問題などその典型か?)に陥っていると説く。
 そして、「米国はいまや衰退の道をたどりつつある」と認識する内田は、「それに追随するだけで良いのか?」と問いかける。
 歴史を踏まえた、含蓄のある日米関係論に啓発されると大であった。

 晴耕雨読ならぬ晴走雨読の私にとって3月・4月の天候不順は“雨読”の毎日に等しかった。連休からやっと平年並みに戻ったものの、5月中旬から再び雨の多い天気となった。この雨の中、東北地方を1500km走り、晴走雨走で5月が終わった。そんな事情で今月は本棚に並んだのは3冊に過ぎず、それも比較的軽いものだった。その中で「街場のアメリカ論」は奥の深い読み物であった。

以上

2010年6月3日木曜日

遠い国・近い人-5(黒い戦略家-2;パキスタン)

 二度目の来日は2004年11月。SPINは横河グループの他の情報サービス会社と統合され横河情報システム(YIC)に変わり、私は横河本社の海外営業コンサルタントに転じていた。彼も戦略策定担当から東南アジア地区の販売統括という新しいポジションに就いており、今回の来日目的は新しい役割の趣旨説明にあった。米国を発つ前にメールでYIC滞在中是非会いたいと言って来た。こちらも海外情報が欲しかったので、はじめは私の家へ招待する案を試みたが、彼に時間の余裕が無く、新宿のインド料理店で会食した。
 当時私はロシアの製油所に、ITによる近代化提案を行う仕事に従事していたが、そこでは横河の中核商品;計測制御システムに加えて、他社製品の提案やそれらと自社製品の統合サービスが必要だった。いわゆるソリューションビジネスである。しかし、石油・石油化学向けソリューション・ビジネスの実態は各社各様で、業界の全体像がなかなかつかめなかった。彼に会って助言が欲しかったのは、このソリューションビジネス実態調査に関することだった。彼のアドヴァイスは、一つのアイディアとして「短い時間で効率よく集めるのには来春早々フロリダで開かれるARC社セミナーに参加すると良い」 とのことだった。ARCは世界唯一の、製造業における計測・制御・情報ビジネスに関する調査専門会社である。またこの会議に参加するならば、その後彼のオフィスに寄って彼の仕事仲間も含めて更なる情報交換をしようと言ってくれた。
 ARC会議への参加と知人を何人か訪ねる調査旅行は承認され、1月末成田を発った。旅程を調整する過程で、彼のオフィスのあるクリーブランでの宿泊を相談したところ、是非自宅へ泊まってくれという。こうして初めてイスラムの家庭を訪問し、そこに宿泊すると言う得難い経験をすることになったのである。
 暖かいオーランドで開かれたARC会議の後、クリーブランドに向かった。寒さが厳しい午後遅く着くとパシャが待っていてくれた。空港から市内を抜けて1時間弱、針葉樹に囲まれた典型的なアメリカ人の中産階級が住む住宅地の中に彼の家は在った。ここが彼の自宅でありSOHO(Satellite Office Home Office)である。
 家に入ると玄関先で彼が靴を脱いだ。日本と同じ方式である。私も彼に倣った。彼は私にはスリッパを勧めてくれた。やがて現れた夫人と二人のお嬢さん(中学生、小学生)も靴下である。挨拶もそこそこに玄関先でこの靴脱ぎが話題になり、同じ様式を持つアジア人同士として、初対面のぎこちなさが一気に解消した。
 案内された寝室は本来長女の部屋だが、彼女は大学の医学部で学んでおり、下宿生活をしているので今は空き部屋なのだという。若い女性の部屋らしく内装や家具が可愛らしい。バスルームは他の子供部屋と共通だが今日は私専用にしてくれている。
 やがて夕食。広いリヴィングに隣接するダイニングキッチンも広々としている。庭を背にした主賓席に座らされる。料理は当然カレー料理。種類は二種、鶏肉と野菜だ。それにナン、ライス、サラダ、ヨーグルトなどが並ぶ。「済まないが我が家ではアルコールは飲まない。それは後で用意するから」とパシャが言う。「(あとで?どういうことなんだろう?)」「いやいや 水で結構」「カレーはどちらにする?」「ではチキンを」。 深皿にチキンカレーが供され、スプーンで一杯、フォークでよく煮込まれた鶏肉をほぐして一口。その間家族はひたすら私を注視してる。「どうだ?口に合うかな?」「エッ!もちろん!こんな美味しいカレーは初めてだ!(それまで米国食続きだったのでこれはお世辞ではなかった)」この一言で全員笑顔。夫人が「あー良かった!日本人のお客は初めてなので心配だったの」と本音を吐露した。人種・宗教に拘わらず何処の国の主婦も接客の気苦労は同じなのだ。座が和んでくると「こちらも食べてみて」とヴェジタリアン・カレーを勧められる。少しさっぱりした味でチキンの後で味わうとホッとする。アメリカの家庭で何度か食事をしたが、他ではいつも夫婦と私の3人だけだったので(外で子供家族が加わることはあったが)、ことのほか賑やかで楽しい時間を過ごすことが出来た。(つづく)