2010年6月17日木曜日

遠い国・近い人-6(黒い戦略家-3;パキスタン)

 夕食後リヴィングで家族と寛いでいると、パシャが「これからクリーブランドの街に出て、元AMOCOの仲間と会うんだ」と言う。正直「今から?」と思ったが何か訳があるのだろう。彼の運転する車でダウンタウンに向かった。当日は休日で人出もほとんど無い街は、暗闇の中にわずかなネオサインが点滅するだけである。案内された場所は寿司バーだった。客は数人皆独り客である。その中の一人がパシャの友人だった。当初明日午前のミーティングを計画していたが彼の都合が悪くなったので今夜にした、と言うことだった。しかし、それに加えて、折角日本から来た客に、アルコールを振舞えない埋め合わせを、ここでしようとの気遣いも感じられた。彼は相変わらずソフトドリンク、私はその友人とビールを飲んで、フロリダで得た情報の裏づけなどを行った。自分は飲まずとも、酒の効用を知った心憎い気配りであった。
 翌朝朝食後夫人は地域のボランティア活動に、子供たちは学校へ出かけていった。夫人はイスラム風のスカーフ?(何か正式の名前があったと思うが)で頭を覆っていた。米国に居ても、宗教的な戒律には忠実な家族との感を深くした。
 この日の私の予定はここからデイトンへ移動し、米空軍博物館を訪れることである。デイトンはライト兄弟の出身地、米空軍のライトパターソン基地があり、博物館が併設されているのだ。ここで米空軍の前身、陸軍航空軍のヨーロッパ戦線における、OR適用に関する資料を探すことを計画していた。長距離路線バスでの移動を考えていたが、パシャは「自分も行ったことがないので、一緒に行き明日こちらの戻る」と言って、同行してくれた。2時間強のドライブ、昼過ぎに博物館に着き、歴史的な飛行機(空母から東京爆撃を敢行したドーリットル飛行隊のB-25、長崎原爆投下のB-29<ボックスカー>、音速を初めて超えたロケット機<ベルX-1>など)の数々を見学、OR関係の書籍も入手できた。
 その夜はホテル近くのファミリー・レストランで食事。「自分に構わず、酒を飲んでくれ」と言う彼の好意に甘え、ビールを飲みながらの夕食となった。話題はやがて今回の旅の空港における、セキュリティチェックの話になる。この時までに国内線に三度乗っているが、いずれの空港でも、標的になったように厳しいチェックを受けてきたことを話すと、彼も結構やられていることが判ってきた。それから話は米国における非白人に対する人種差別へと転じていくのである。
 彼の家庭は両親とも教育者(父親は大学教授)。何と高校のときアメリカへ留学、そこからMITに進み、修士課程を終えAMOCOに就職したのだと言う。「国へ帰ることは考えていないのか?」と問うと「留学当初はそのつもりだったが、今では全く考えていない」との返事が返ってきた。「残念だが、パキスタンの現状と米国で生まれ育った子供たちの将来を考えれば、多少不愉快なことがあっても、ここで暮らすほうがベターだ」「専門職でやっていくなら仕事上では差別はないからね」と言うのがその理由であった。実際BPの傘下に入ったあと、英国本社勤務もしているし、トルコの製油所では責任ある地位を与えら、彼なりに職業人として大きな不満はなかったようである。「だから子供たちも専門職の道に進んで欲しいと思っているんだ」と語り、前年長女が医学部へ進学したことを、ことのほか喜んでいた。
 この職業観は私の考えと共通するものがある。ソ連軍→国府軍(蒋介石)→八路軍(毛沢東)とめまぐるしく統治者が変わる戦後の満洲で、技術系専門職(医師や技術者)の処遇は、それ以前の日本統治時代と大きく変わることは無かった。自動車会社の事務系管理職だった父が、工場の下働きに身をやつす姿を見て、子供心に“生き残るためには職業が決定的である”と焼き付けられた。大学進学時クラス担当からは文系を選ぶよう勧められたが、全くその気は無かった。
 デイトンは典型的な中西部の白人の町、ホテルの従業員、博物館の職員、翌日利用したタクシーの運転手、皆穏やかな白人だった。そんな中での有色人同志の人種・職業論議。パシャ一家の米国での幸せを願いつつ夜が更けていった。

 (パキスタンの項 完)

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