2023年2月28日火曜日


今月の本棚-17520232月分)

 

<今月読んだ本>

1)防衛大学校(国分良成);中央公論新社

2)旅する漱石と近代交通(小島英俊); 平凡社(新書)

3)ソ連核開発全史(市川浩);筑摩書房(新書)

4)亡命トンネル29(ヘレナ・メリマン);河出書房新社

5)ヒトラー・マネー(ローレンス・マルキン);文芸社(文庫)

6)古代史のテクノロジー(長野正孝);PHP研究所(新書)

 

<愚評昧説>

1)防衛大学校

-前校長が熱き思いで語る防大の全容-

 


高校時代(1954年~1957年)、まだ敗戦の影は色濃く残り、ガダルカナルから生還した先生なども居て、社会全体反戦・反軍が一般的な風潮だった。そんな世相の中で、“田吾作”と仇名される坊主頭のいかにも村夫子然(決して見識が狭い意ではない)とした数学教諭が授業中、「君たち総理大臣を目指すなら東大か防衛大学へ進学することだ」と一瞬我々をギョッとさせ、「確率として最も高い」と続けた。つまり、過去の首相就任者は東大・陸大・海大卒が圧倒的に多かったことを、いつものシニカルな口調で揶揄したのだった。総じて反体制傾向にある高校生にこの話はうけた。当時、都立の進学校から防衛大学校(以下防大)へ進むのは極めてまれ、少なくとも在校3年間、先輩・同期に一人も居なかった。つまり、私とは無縁の存在だったのだ。それが変わったのは30歳になったとき、大型プロジェクトの取引先相方として、防大卒後陸上自衛隊幹部候補生学校も終えながら故あって民間に転じた同年の技術者と一緒に仕事をするようになってからである。その指導力・責任感は際立ち、難しいプロジェクトを完遂、今に続く良き友人の一人となっている。その後、異業種交流・学会活動を通じ陸自トップの防大OBや海自出身の防大教授と懇意になり、すっかり防大ファンになってしまった。しかし、その割に防衛大学校のことを知らない。前校長に依るそのものずばりの書名に惹かれ読むことになった。

著者は1953年生れ、2012年~21年第9代防衛大学校校長。前職は慶大法学部教授(法学部長、専門は中国政治・外交)。本書は在校時から構想し、退任後書き上げた防大最新情報の書と言っていいだろう。例えば、2023年度女子枠は480名中前年度までの70名から100名に拡大される!と言うような。

先ずことわっておきたいのは、随所で著者が触れる校名である。防衛大学校であって防衛大学ではない。これは旧軍も同じで陸軍大学校・海軍大学校であって陸軍大学・海軍大学ではない。“校”の有無に意味があるのだ。例えば、一般大学の入学式を防大では“入校式”と呼ぶ。同様の名称に航空大学校、気象大学校などがある。これは文部科学省の学制(学校教育法)からきており、各校とも大学ではなく各種学校と位置付けられている。従って最近まで卒業生、大学院に相当する研究科修了者に学士・修士・博士の称号は与えられず、独立行政法人大学改革支援・学位授与機構設立によって以後ここから与えられるようになった。社会通念上実害はないものの、これには学校運営やプライドの点で不満があるようだ。

一般大学の学部に相当する群は8、理系が主体(8割)だが人文系(国際関係など)もある。3種の試験(一般、学校推薦、総合選抜(AO試験に相当;資格要件あり;実態は若い下級自衛隊員対象))を経て約480名が入校、一般教養から防衛関連諸学まで4年間学ぶ。知育以外に体育・徳育に重点が置かれることが一つの特徴だろう。全校生徒(留学生を含む)は約2000名、4大隊で構成され4学生舎(寮)に住まう(女子学生が増えたため第5学生舎建設中)。一部屋8名で各年次2名ずつの生活だ。課業は朝6時起床から2230分の就寝までびっしり詰まっている(部活や自習時間はあるが)。外出・外泊・休暇の他学内生活にも厳しい制限があり授業を一コマでもさぼると懲戒処分が待っている。TOEIC750点以上が卒業要件(英語は死活問題との認識)、2年留年で退校。曹長として卒業。入校から卒業まで任官辞退・拒否が約1割程度生ずるのはこの特殊な教育・生活環境もあるようだ。生徒の身分は特別職国家公務員、著者在校時は月117千円の俸給が支給されている(手取りは85千円程度、他にボーナス)。それもあり、任官辞退・拒否者に対して、給与はともかく、学費返済(償還)を求めるべしとの意見もある。因みに米陸軍士官学校では卒後5年間の義務を果たさぬ者や防衛医大非任官者には学費償還が求められている。

本書を読んで初めて知ったのだが、2年次になると将来進路(陸・海・空)を選ぶことになる(最終年次と思っていた)。受験時からパイロット志願が最多、陸・海・空の配分は211、空への道は陸・海にもあるが厳しく、この段階で初志が叶わぬ者もあり、そこにも辞退・拒否の因がある。さすがと思ったのは体力向上、いくつもの体力テスト(男子;50m走、立ち幅跳び、ボール投げ、懸垂、1500m走など)があるが1年生と4年生の差はすべての種目で男女とも歴然としている。男子懸垂の平均値は1年生で5.8回が4年生では16.6回まで伸びるのだ!

以上のような教育・訓練・生活の他、防大の歴史、学校運営(人事・組織から犯罪・事故まで)、学内行事(名物棒倒しでは20名近い骨折者も出た!)、陸海空統合士官学校としての長短(吉田茂首相の強い要望で統合校となる)、留学生を含む海外交流など幅広く防大の姿を、自身の体験を中心に描いており、問題点も含め親近感を持って防大を理解できる良書だ。ただ、いささか校長個人の回顧録臭が強く、ここは評価の別れるところだろう。初代校長槇智雄に対する思い入れはことのほか強く、随所に登場、さらに一章を割いている。立派な人のようだが、個人的にはあまり興味を持てず、ここは飛ばし読みした。

明治来多くの国家指導者を輩出した旧陸軍士官学校は創設70年でその幕を閉じた。防大はすでに73年、いまだ卒業生から校長すら出ていない(著者は実現を切望している)。果たして“田吾作”の予言した総理誕生はあるのか?

 

2)旅する漱石と近代交通

-持病の胃痛から乗物嫌いに見えた漱石、意外といろいろ乗っているのだ-

 


言葉もろくに話せない幼時期「ブーブを描いて」と絵心のない父を困らせたらしい。職業と言うものを意識し出した小学校低学年時には交通関係で働けたらと漠然と考えるようになっていた。大好きだった模型製作の延長線である。対象は自動車→鉄道→飛行機と変わり、大学で再び自動車に戻った。卒論でエンジン制御をやったが時期尚早(現代のエンジンは制御システムのかたまりだが)、プラント制御を職としたものの、この歳になっても乗物への興味は尽きない。当に“三つ子の魂百まで”である。漱石と鉄道については著者の既刊「文豪たちの大陸横断鉄道」や牧村健一郎著「漱石と鉄道」などいくつか読んでいるのだが“近代交通”に新鮮味を感じ読んでみることになった。

著者は1939年生れ、三菱商事勤務の後2005年以降近代史・鉄道史および漱石に関する研究・著述に専念しているようだ。

漱石(1867年生れ)の健康状態は、英国留学中の神経衰弱、作家として名を成した後の修善寺大患(胃潰瘍に依る吐血)など健常者のイメージは薄い。しかしながら、本書によると学生時代はきわめて頑強・健脚で、活発に旅行していることが分かる。本書で紹介される最初の旅は大学予備門時代の1889年友人たちと出かけた房総旅行から始まる。当時房総半島には鉄道は皆無、東京霊岸島から蒸気船で保田にわたり、そこから外房に出て銚子まで北上、利根川・江戸川は舟運を利用して東京に戻る約一か月半の旅、半島内の移動はすべて徒歩だった。大学時代の旅(ほぼ毎年夏休み)、松山中学赴任の旅、第五高等学校時代の九州旅行、新婚旅行、英国留学、作家としての講演旅行、満韓旅行、東京やロンドンの都市内移動、漱石の学生時代から死に至るまでの旅を追い、どんな乗物に乗り、いかなる印象を持ったかを、日記・講演録・書簡から探り出し、時には作品から推定する。例えば「坊ちゃん」(1906年刊);ばあやの清に新橋で見送られて以降、次のシーンは船から艀に乗り移り三津浜に上陸、伊予鉄道で市内へ向かうのだが、漱石が実際赴任する際(1895年)の交通事情は如何様だったか。東海道本線(89年)・山陽鉄道(94年)は神戸で接続、広島まで達しているので、ここで船に乗り換えるのが第1案、しかし、神戸から船便で三津浜に向かうことも可能だった。当時の時刻表を調べ、適度に休み(1泊)を入れれば双方可能なことを確認して見せる。三津浜から松山市内への移動も伊予鉄道が88年開通しているので「坊ちゃん」の話が体験の基づいていることが実証できる。

何と言っても目を見張るよう表現が頻繁に出てくるのは英国留学(1900年~03年)。実は先の房総旅行の際、霊岸島から保田に至る船旅で船酔いを経験、今度は長期間大洋を航海するので総じて体調不調の日々が多い。190098日に横浜を出帆、1019日ジェノヴァ着の船旅では、途中寄港地の見聞はともかく、あまり楽しんでいない。これはドーバー海峡横断でも同様。しかし、ロンドンでは「不愉快な2年」と記しながら、汽車は無論、路線馬車・鉄道馬車・地下鉄そしてリフト(エレヴェータ)など各種近代交通に驚き、感心した様子を書き残している。

満韓旅行は190992日より一月半、日露戦争ののち獲得した南満州鉄道(満鉄)の第2代総裁となっていた親友中村是公に招待されての旅である。中村案は満洲→中国(支那)→満洲→朝鮮のルートだったが、胃痛発症で中国行きは止めている。しかしここでは中村が専用貴賓車1両を漱石のために用意し豪華な旅を体験している。一方で温泉地熊岳城は駅から人力トロッコ利用となり、またもや胃の不調を訴えている。帰国10日後1026日、伊藤博文がハルビン駅で暗殺される。

中村の好意は満洲ばかりでない。1911年満鉄東京支社(飯倉)で会食の後鎌倉の貸別荘に向かう漱石のため新橋まで自動車(自働車)を用意、これが漱石自動車初体験である(ロンドンでは見た程度)。

ライト兄弟の初飛行は1903年、1910年には徳川・日野両大尉が代々木練兵場で国内初飛行を行う。1912年以降に何度か作品に飛行機(飛行器)が出てくるから、それも確実に見ている。

乗物を中心に据えながら文学論・作家論と乗物発達史を巧みに配す、何ともユニークな漱石研究を堪能した。同じ歳のサラリーマン人生、その後こんなテーマに取り組む著者に大いなる敬意を表したい。

 

3)ソ連核開発全史

-ロシアが勝つか世界の破滅か、核をちらつかせるプーチン。ここに至るソ連核開発の道をたどる-

 


ウクライナ戦争も1年が過ぎた。この戦争は“予想外”の連続だ。一昨年秋ロシア軍が国境付近に集結、演習を行っていることが報じられた時、「まさか侵攻はないだろう」「あったとしてもクリミヤ同様、ロシア人が多数を占める東部の一部占領くらいか」と思っていた。しかし、始まってみると首都キーウ攻撃に主力がつぎ込まれ、ウクライナ中立化(衛星国化)が目的と分かった。次に、両国の戦争資源を考えると短期にロシアがウクライナを屈服させるのではないかと案じた。しかし、ウクライナはよく持ちこたえ、反撃さえしている。これも予想外だ。残る疑念は敗勢になったときロシアは核兵器を使うかどうかだ。先日、極右の政治思想家・地政学者である、アレクサンドル・ドゥーギンが民放TVインタヴューに登場、「この戦争はロシアが勝利するか、世界の破滅しかない」と語っていた。つまり、勝てなければ最後は核兵器を使った世界戦争になるとの意である。「まさか」と思うのだが、予想外れの今回あり得ない話ではない。最新のロシア核兵器事情を知りたく本書を手にした。

最近はほとんど通販購入するが、本書は珍しく書店で求めた。そんな際はあとがき、それにノンフィクションでは参考文献リストに目を通す。情報鮮度をチェックするためだ。あとがきの日付は2022年盛夏とあり、ロシア語の文献も多数並んでいた。これに帯の“ウクライナ”が目に入り、即購入したが、これが早とちりだった。タイトルのキーワードは“全史”だったのだ。ソ連時代から今日に至るロシアの核開発の通史である。確かに原水爆開発・原潜に関する情報も盛りだくさん書かれているが、民生用(原発)にも多くの紙数が割かれ、各種の原子炉タイプを始め、知られざる放射能被曝や廃棄物処理などソ連・ロシアにおける核に関するあらゆるテーマ(特に暗部)が取りあげられている。一方で一番の関心事である戦術核兵器については何も記されていかった。そうは言っても、知られざるソ連・ロシアの核を知ることができた点では価値ある一冊だった。

ソ連時代の先端技術については西側の模倣・スパイのイメージが付きまとうが、核物理学の前史を知るとそれなりに独自発展をしていたことが分かる。だからこそスパイ情報やドイツ人科学者・技術者を有効活用することができたのだ。また、共産党一党独裁時代は党によるトップダウンでことが進められたと思われがちだが、冷戦が厳しさを増す以前は、科学アカデミーが研究活動に幅広い自治権を持っていたことも意外なことだった。ただ、冷戦勃発以降、資源調達から科学者・技術者動員、研究開発組織・拠点建設・運営(特別閉鎖都市、10ヵ所、作業員を含め70万人)、兵器実用化まで党の統制下に置かれることになる。これによって、原爆は4年、水爆は1年、原潜は3年の遅れで、米国に追いついている。そして、実験規模ではあるが世界初の原子力発電所(オブニンスク原発、黒鉛炉型)が1954年に稼働している(米国は他のエネルギー源との経済性を勘案して積極的に取り組まなかった)。

技術以外で取り上げられているのは、冷戦最盛期(60年代まで)から緊張緩和(デタント)期に至る核軍縮政策の変化、中国を含む東側の核開発の歴史とソ連の役割(ウクライナは原発大国(発電量の50%を超える))、国際社会に向けた平和(反米)キャンペーンなど。

本書を評価すべき一つに、開発過程で生じた種々の問題点を明らかにしていることがある。初期のウラン資源不足(量のみならず含有率も。現在は品位も高く世界の5%、第4位の輸出国)、放射線科学の遅れと被曝、原発の低いエネルギー変換効率と無理なスケールアップ(これがチェルノブイリにつながる)、トラブルの隠蔽体質、国内における反核運動、再処理されない大量の使用済み燃料処置(僻地・地下に保存、海洋投棄(主として原潜))などがそれらだ。おそらくソ連崩壊後の公開資料に基づくものであろう。著者の努力の跡がうかがえる(多分ロシア語原文から情報入手)。

現状で注視すべきは原発ビジネス。2021年度の国内総発電量20%が原発に依存するほどの原発大国。核燃料や原発輸出を世界に展開、原発本体は中国・トルコ・インド・フィンランド・エジプトなどへ35基が輸出され、使用済み燃料の受け入れ・再処理も引き受ける。つまり、核兵器の原料はいくらでもあるのだ。陸上兵力に制約(予算、人員、装備)の多いロシア軍が核兵器(特に戦術核)に頼る可能性は皆無ではない。

現在の日本人がほとんど知らないソ連・ロシアの核開発の全容が見えてくる。これほど広範なソ連・ロシア核開発通史はおそらく本邦初ではなかろうか。

著者は1957年生れ、広島大学総合科学部教授(商学博士、科学技術史専攻)。学部は大阪外語大(現阪大)ロシア語科卒。

 

4)亡命トンネル29

-ケネディ大統領の冷戦戦略転換点ともなった、西独若者たちによる東独市民トンネル脱出劇-

 


20185月ドイツ旅行ツアーに参加した。結局これが最後の海外旅行となりそうだ。ドイツに対する関心は格別で、特に第二次世界大戦の軍事関連施設(戦跡・博物館など)と冷戦の舞台をあちこち探訪したいと願っていた。従って、本来ならば個人旅行で出かけたかったのだが、家人との二人旅は歳を考えると無理と判断、ツアー参加となった。この旅の必要条件は、鉄道利用と旧東独を訪れること、中でもベルリンは欠かせない。そのベルリンのMustは、ジョン・ル・カレの「寒い国から帰って来たスパイ」に代表されるスパイ小説定番の東西を分けた壁。これが撤去されていることは承知していたが、せめてその痕跡でもと期待した。幸い宿泊したホテルは映画にしばしば登場する検問所“ポイント・チャーリー”の徒歩圏だったし、市内ツアーで壁の一部を観光することも出来た。しかし、本来の壁は、東側から見ると先ず有刺鉄線があり次いで壕(無人地帯)、その先に壁があるはずだが、観光コースには壁の一部が残っているだけで、往時の緊迫感をわずかでも呼び起こすものではなかった。壁が建設されたのは1961年、「寒い国」が英国で出版されたのは1963年。本書は、その間の1962年、西側から掘り進んだトンネルで29人が脱出した実話である。

著者は英国の女性ジャーナリスト(生年不詳)。本書はその主人公とも言える、決行時ベルリン工科大学生だったヨアヒム・グスタフに2018年一週間にわたってインタヴューし、その情報を基に多くの関係者から聴き取りを行い、さらにシュタージ(東独国家保安省、ソ連のKGBに相当)の記録に当たって書かれたものである(壁建設70周年を期して2021年英国で出版)。

トンネル作戦のリーダーとなるヨアヒムがそこに至るまでの背景・経緯;196122歳とあるから生年は私と同年(1939年生れ)のはずだ。ドイツ東部の農家を営む一家(両親・妹の4人)は19452月ソ連軍が迫ることから西方へ馬車で逃げるが、オーデル川目前で追いつかれ父はどこかへ連れ去られ、これが最後となる。縷々あって祖母・母・妹とともに東ベルリンに住むことになる。1953年の東ベルリン暴動の際は中学生、このころから反体制の傾向を強める。東独の大学で物理を学んでいるが1961年夏休み壁が突然設けられ、東西の交通が著しく制限される。共産党青年団に加入していなかったヨアヒムは何かと制約を受け、自由を求めて9月のある夜有刺鉄線だけの所から西ベルリンに脱出する。そこでベルリン工科大学に編入、通信工学を学ぶ傍ら学生を中心とした脱出支援組織のメンバーとなり、トンネル作戦を開始する。

ベルリンの壁が出来た主因は、これ以前に東独から西独に向け脱出する者が年々増加、3百万人(東独人口の20%)を超えており、それをおさえることが目的であった。壁が出来ても下水道・鉄道・トラック・河川あるいは壁に接した建物から西側に飛び降りる(下で西側の消防士がマットなどで受け止める)ことまでして逃亡をする者が後を絶たない。中でもトンネルは1960年前半で約70ヵ所とごくありふれた脱出方なのだ(ただし成功したのはヨアヒムらのものを含め19本)。本書の中心はこのトンネル掘りの苦労と脱出希望者との連絡、それにこれを阻止しようとするシュタージ・国境警備隊の動きに割かれる。

トンネル掘りでは;場所の選定(入口・出口・ルート(地質や河川水位を含む))、トンネル掘削作業、人員や道具(測量機器、掘削工具、支柱材、照明、電話、排出土運搬、送気)、そのための資金集め。脱出希望者と連絡では;情報入手と機密保持(支援組織が脱出者リストを作成)、東西を往ききする連絡員と連絡方法。シュタージの動きでは;シュタージの組織・情報収集(隣人監視システム。支援組織にもぐりこんだスパイ。国内のシュタージ協力者17万人、教会の65%)、国境警備隊による阻止策。資金集めのトピックスは米国のキーTVNBCがそれに加わることだ。トンネル工事と脱出劇をカメラに収め、成功後これを放映することを条件に密かに協力する。

トンネル掘削開始は19625月、西側は壁から40mの工場地下室、東側は80m先のアパートの地下室。交代制で昼夜兼行2カ月進んだところで漏水事故が起こる。原因は西ベルリンの水道管漏れ。仕方なく、かつて他者によって掘られ中断していた別坑道を掘り進めることに変更。この坑道は目的地に達するのだが事前にシュタージのスパイにより情報が漏れており当日最後の穴が開く直前に40数名が逮捕されてしまう。ここで計画は第一のトンネルに戻る。水道管は補修され坑道が乾ききっていたからだ。9月初旬脱出口直下までトンネルは開通、後は地下室の床を抜くだけだ。ここの段階で脱出日は914日と決し、連絡員(イタリア人女性(穴掘り仲間のガールフレンド)、観光客を装う)が何ヵ所かの密会場所(パブ)で集合場所と時間を告げ、三々五々集まった老若男女29人が脱出に成功する。妻と幼子を東に残した男が穴から這い出した二人を抱きしめるシーンが確りNBCのカメラに収められていた。

後日談で特記すべきは二つ。第一はNBCの放映(総フィルム長3.6km!を80分番組に編集)に西独政府、米国務省とも冷戦激化を恐れて反対したことだ。これをのちにNBCCEOとなる凄腕プロデューサーが12月に強行、大評判となり米国の冷戦・ベルリン政策が一転する(19636月ケネディ大統領はベルリンに乗り込み「私もベルリン市民」とぶつ)。もう一つは妻・娘と一緒に脱出した男が二人をベルリンに残しオランダに去り、その別れた妻が後年ヨアヒムと再婚することである。シュタージの記録に残る隣家の監視情報と合わせて、妻一家の脱出行が29人の代表として詳しく取り上げられているのはこれによる。

英国人のドイツ人観は“杓子定規で几帳面”。シュタージは密告を詳細に記録・保存しており東独崩壊後もそれがかなり残っている。著者はこれを丹念に調べ、監視人や密告者の言動をあぶり出し、ヨアヒムら関係者への聴き取りと重ね合わせ、この脱出劇をリアルに多角的に描いている。まるで大ヒットした映画「大脱走」の民間版だ。関係者の写真、引用や文献リストも充実。唯一欠けているのは地図、これがあれば私のベルリン散策と照合でき、楽しみは倍加したはずだが。

 

5)ヒトラー・マネー

-偽札づくりの極意伝授。ナチス・ドイツによるポンド紙幣偽造作戦とその末路をすべて公開-

 


バブル経済の崩壊が始まった1990年代、低迷する日本経済復活のアイディアとしてヘリコプター・マネー論が取りざたされた。お札をバンバン摺ってばらまけば景気が回復するとの論である。国債乱発、それを日銀が購入(紙幣増発)、アベノミックス下での黒田異次元緩和はこれと同様、お札が増えればインフレが進み円安に向かうのは必定(と思うのは素人か?無論金利や国の信用度は無視できないが)、国家財政のみならず国際収支さえ悪化の一途だ。国の安全保障策はどうしても軍事に眼が行きがちだが、財政・金融政策・通貨政策はボディブローで効いてくる。もし仮想敵国が精巧な円紙幣を大量偽造発行したらどうなるだろう?逆に日本が紙幣戦争を挑んだら核に勝てるだろうか?第二次世界大戦時、ナチス・ドイツは大規模にそれを実行した。結果は如何に?たまには兵器中心の軍事情報収集を離れ、別の角度から戦争を見てみよう、これが購読の動機である。

本書は「ベルンハルト作戦」と称せられたナチス・ドイツによる英ポンド札大量偽造の全容を明らかにするノンフィクションだが、“戦争と通貨偽造”に関して歴史やその他の国の同種の活動もかなり詳しく紹介している。先ず歴史に関しては、古代ギリシャの都市国家間戦争、フデリック大王、ミラノ公による偽通貨作戦、ナポレオン戦争(英国による仏革命政府紙幣)、米独立戦争(英による植民地紙幣)、また米国の南北戦争(両派が互いの紙幣)で採用され、相手方の経済を混乱させており、本件が特殊な謀略でないことがわかる。次いで、今次大戦での偽造紙幣作戦は、検討され中止されたものを含めれば、ナチス・ドイツに限ったことではなく、英国(マルク;検討段階で中止)、米国(マルク、伊リラ;検討段階で中止。日本占領下のフィリピン通貨ペソ;印刷まで至ったが未使用)、ソ連(ドル;謀略ではなく外貨不足のため使用)で偽札発行が論じられ一部具体化している。英国ではケインズもこれに関わっているし(反対;ケインズに限らず英米の反対論は、社会正義、国家威信、流通の難しさ、経済性に依る)、米国における提案者の一人は作家のスタインベックであったりして、国家の特殊組織による隠密作戦ではないことを教えてくれる。

1941年半ばにスタートする「ベルンハルト作戦」は厳密にはナチス政権が行ったのではなくヒムラーをトップとする親衛隊(SS)の策謀である。ヒトラーは承知していたもののどこにもそれを承認した記録は残っていない。主目的は英経済を混乱させることにあるが、権力に比し意外と手元不如意のSSが自由になる資金が欲しかったことも大きな動機だ。「ベルンハルト作戦」は実行主務者SS大尉ベルンハルト・クルーガーの名前から来ている。本来は繊維機械技術者だが大不況の中で失職、ナチス党員となりSS配下の国家保安局技術課に所属、パスポートの偽造などに従事していたことから偽札作りのリーダーに選ばれる。自身は印刷技術の知見は無いものの管理者として優れ、機密保持もあり懲罰収容所(絶滅収容所とは異なる)のユダヤ人や占領地国民の専門家をリクルートして組織を作り上げ、工房も収容所内に設けて偽札作りを開始する。精巧な偽札作りのプロセスが如何に困難なものか、元エンジニアとしての興味は専らここにある。先ず用紙、原料の木材種、紙を漉くための水、透かしを入れるための漉き器に使う網、厚みや切断面の仕上がり、どこまで英国のオリジナルに近づけるか。原版(金属)の材質・彫、印刷インキ(光線の反射まで)。試行錯誤の連続だ。作業者たちのやる気も出来栄えに影響するので、ここの収容者たちは特別扱い。作業時間は7時~16時、日曜は休日、食事も悪くない。1943年夏何とか量産体制に入る。印刷機424時間稼働で5£、10£、20£、50£、4種の紙幣を量産する。連合軍の進撃で工房閉鎖に至るまで摺ったポンド札は約900万枚、金額は13400万ポンド(現在評価60億ドル)。これらの紙幣は品質により4つの等級に分けられる。第1級(英国でも見破られない)、第2級(限りなく1級に近い)、第3級(英国外で使える)、第4級(英国で空中散布;実行されず)。この後ドルの偽造にかかるが、試作段階で終戦となる(ドナウ川に流れていたドル紙幣を詰めた木箱が見つかっている)。

偽札作りのもう一つのカギは流通である。英国内に大量に持ち込み英経済を混乱に陥れることが最終目的だったが、これは叶わなかった。主たる用途は海外での資源調達費、金(キン)の購入、諜報活動費用。使われた国は南欧・東欧・英植民地、特に欧州では独の敗勢が見えてくると連合国の紙幣を求める動きが活発化、需要が高まって行く。この過程で偽札であることが発覚するケースもあるが、高品質のものはイングランド銀行の専門家と鑑定機器を要し、外国や市中の銀行で判別するのは極めて困難だった。国と銀行の名誉・信用に関わるだけにイングランド銀行はこの件を2003年まで認めなかった。

印刷機器や残余の偽札は終戦間際の混乱の中でオーストリア山間部の湖に沈められ、トレジャー・ハンター達の関心の的となったが、オーストリア政府はこれを禁じ、見つかった紙幣は焼却処分した。ベルンハルトは英・仏政府に一時拘束・逮捕されるが無罪となり、2003年まで生存(83歳)、その少し前オーストリアの水中生物学者と小型潜水艇で湖底に潜り残留物の一部を見ている。その時発した言葉は「すべては総統と民族と祖国のため」、これはナチス党のスローガンである。

著者は朝鮮戦争にも従軍したことがある、海外報道を専らとする米人ジャーナリスト。妻はホロコーストの生存者。

多数登場する関係者の経歴や背景説明がいささか過剰で、時間の感覚が時に混乱するが、「そんなこともあったのか!」と教えられることが多々あり、欧州戦線を軍事と全く異なる角度から知ることができた。

 

6)古代史のテクノロジー

-港湾土木技術者に依る我が国古代土木工事解説、風呂敷を広げ過ぎ砂上楼閣-

 


日本史で唯一興味を覚えるのは科学技術分野のみ、政治史・戦史・社会史、いずれも維新以前はほとんど中学で学んだ域を超えない。対して、数学史や技術史については本欄でもいくつか取り上げ、新知識をあれこれ習得した。最近本欄紹介したものでは小川束「和算」、播田安弘「日本史サイエンス壱・弐」、渡辺一郎「伊能忠敬の日本地図」などが挙げられる。この中で播田、渡辺は学者や作家ではなく、技術者だった本業を離れ研究あるいはライフワークとして取り組んだもので、歴史を見る目が既存の歴史観とは異なる斬新さが魅力だった。例えば、播田の場合、造船技術者の知見を基に、気象・海象、船舶工学・航海術の視点から“蒙古来襲”や“秀吉の中国返し(明智光秀の謀反に毛利攻めから畿内へ取って返す)”あるいは“邪馬台国”に新説を提示する興味深いものだった。本書を書店で見た時、“テクノロジー”で惹きつけられ、著者歴をチェックすると元国土交通省港湾技術研究所部長とあり、表紙に青森三内丸山遺跡の巨塔建設工程想像図が描かれているのを見、「これは土木技術の歴史を学べそうだ」と勝手に思い込んで、値段も確かめず購入してしまった。結果は全くの期待外れだった。こんな読後感だから、今回内容紹介は省き、「何が期待外れだったか」を手短に述べるにとどめたい。

著者は1945年生れ。大学卒業後国土交通省(多分就職時は運輸省)入省、港湾技術研究所部長、大学客員教授などを務めた工学博士。ライフワークは海洋史・土木史研究とある。

取り上げられている題材は、三内丸山遺跡、河内・大和運河、邪馬台国など。特に、巨大な池(奈良、京都)や運河(これに設けられた港湾)が多い。しかし、一部を除けば一般人にはほとんど知られていないものだ。そこに著者のかなり大胆な(通説に反論する)推論・仮説が動員されるので、いずれの説明も納得感が無い。古代の水位の想定や地峡形成に至る地形変化などの説明がその例だ。ときに古代から江戸時代まで飛躍することすらある。また地理学や地質学の基本より古墳や遺跡の現場調査を論拠にするところもすっきりしない。

話はこのような自説土木・港湾史から日本国・日本人の成り立ちに話が広がり、その間を無理やり関連付ける牽強付会が鼻につく。そして「一体全体この本は何を目的に著されたのだろう?」となっていく。

あとがきに「どこの馬の骨ともわからない歴史の素人が古代人の脳に分け入ると称して、技術を軸に歴史の面白いところをだけを切り取らせていただいた」とある。技術が軸であるかどうか、面白いかどうかは読者の判断、それを除けば、この独白通りの内容である。それにしても1100円の投資は捨て金であった。

 

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