2010年6月25日金曜日

遠い国・近い人-7(十字路の男-1;トルコ)

 1996年5月、ギリシャ・ロードス島で開催されたESCAPE(European Symposium on Computer Aided Process Engineering)-6thに、招待スピーカーとして呼ばれた(と言っても諸費用は自己負担だが;このギリシャ訪問は別途本欄に取り上げる予定)。その帰路、休日を利用してトルコのイスタンブールに立寄った。僅か三泊の滞在である。嘗ての東ローマ帝国、そしてオスマントルコの首都、東西・南北文化の十字路と言われる場所だ。
 この短い観光旅行は仕事とは関係ないので、自分で計画を作らねばならない。一番の心配事は言葉の問題である。それまでのただ一回のヨーロッパ旅行経験は、1970年6月のフランス出張のみ。その時の移動の苦労は今でも忘れられない。タクシーも鉄道も、英語が全く通じないのである。ましてやヨーロッパでもない、トルコの一人旅である。何か手がかりは無いものか?そんな悩みに道をつけてくれたのは、職場の後輩、YNGさんである。彼の団地に、トルコ駐在経験のある商社員が居り、奥さん同士が親しいと言う。 その人から、駐在当時利用していた現地大手旅行エージェント、ERGUVAN、を紹介してもらい、ファックス(当時はインターネットは普及していなかった)で何度かやりとりして(これは全て英語、値段もUSドル表示)、二日間の日本語ガイド付き個人ツアーを纏め上げた。
 ロードス島はトルコ本土(小アジア)が遠望できるほど近い。ここから直行便があれば便利だが、ギリシャ・トルコは仇敵、ローカルな交通は著しく制限され、一旦アテネに戻ってイスタンブールに向かうしかない。アテネの空港では、ギリシャ・ドラクラマを直接トルコ・リラには両替してくれず、一旦USドルに変えて出国する。行き先名はイスタンブールではなく、コンスタンチノポリスと表示され、彼の地がキリスト教国だった時代の名称のままである。
 イスタンブール空港でドルを小額リラに両替した。ガイドブックでは1USドルが4万リラとなっていたが、両替所の表示は8万リラ。何か大もうけした気になったが、それだけインフレが酷いと言うことである。丁度その時期ユニセフの会議があり、市中に適当なホテルが取れず、空港近くのホテルを予約していた。 「シャトルバスのようなものが無いか?」と案内所で聞いたが、「タクシーで行きなさい」との返事。どこの国でも空港タクシーは近場はいやがる。乗車拒否を心配しながらタクシー乗り場に行き、ホテル名を告げると「OK」の返事、ついでに僅かなリラしか無いので「USドルで良いか?」と聞くと、嬉しそうに「もちろんですよ!」と返ってきた。英語が通じること。気持ちの良い対応をしてくれたこと。未知の国での玄関口での対応は、その国の印象に著しく影響する。さい先の良いスタートだった。
 夜ホテルに電話があった。“ブルハン”と名乗る、明日からのガイドである。「明朝9時にロビーでお会いしましょう。着いたらフロントから電話します」 かなり癖はあるものの、まずまずの日本語であった。
 翌朝ロビーで会ったブルハンさんは、年齢は30代前半位。小柄な人で、、目鼻立ちは白人と近いが、髪は黒く肌の色も浅黒い。鼻の下には立派な髭があった。身体の大きさを除けば、この地の典型的な男性と言って良い。ツァー会社で日本人専門のガイドをしている、と言って名刺を差し出した。そこにはアルファベットで“Burhan Ozturk(OとUの上にはドイツ語のウムラウト;二つの点・・が乗る)”と書かれ、その下に、ひらがなで“ぶるはん”と小さなルビがふられ、中央上部にこれも小さく漢字で“武留範”とある(写真)。会社名は記載されておらず、どうやら契約社員らしい。「日本語はまだ上手くありませんが、よろしくお願いします」と丁寧に挨拶をする。数少ない経験だが、中近東の人間は、総じて押し出しで勝負すると思っていたが、この人の第一印象は、恥じらいとか謙虚とか、日本人に近い資質を持っているようだ。
 今日・明日の観光予定について説明してくれたあと、表に停めてあるクルマに案内される。エンジのトルコ製フィアットで、彼の自家用車だと言う。「日本車のように良くないし、汚くしていて済みません」(確かにあまり綺麗ではない)と謙遜する。こうして武留範との二日間のイスタンブール観光が始まった。(つづく)

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