2009年11月17日火曜日

決断科学ノート-22(科学者と政治-5;ティザードの場合③)

 第一次世界大戦とそれに続く大恐慌は特に敗戦国ドイツに混乱をもたらし、左右の政治対立はしばしば暴力を伴うものとなっていく。1933年軍隊組織を模したナチス党がついに政権を獲得、本格的な再軍備に着手する。たくみなナチスの宣伝は航空兵力を実力以上に誇示し、海が最強の防壁であった島国英国は、それを歴史的な危機と感じ始める。
 これへの備えを検証するために行われた、1934年夏のロンドン夜間防空演習は容易に仮想敵爆撃機の侵攻を許し、「空襲に関する限り英国は無防備」と結論付けられた。どうするか?三つの組織がそれぞれの立場でこの課題に取り組んでいく。一つは英空軍(RAF)の参謀総長をヘッドにした軍人グループ。二つ目は、リンデマンが実務担当者でチャーチルがリードするグループ。三つ目は航空省の技術者を中心としたグループである。この内第一と第三は防空に関する実戦部隊とその行政機関という密接な関係にあり(平時はRAFも航空相の管理下)、第二グループは、陸・海・空三軍全体を対象にする、内閣管轄下の国防委員会(Committee of Imperial Defense;CID)のメンバーの一部である。前者が実戦的・技術的課題を対象とするのに対して、後者は国家戦略の立場からこれに取り組もうとする。
 航空省では研究開発のトップであったウィンペリスが主にこの問題に取り組むことになり、強力な熱線(殺人光線)が最新技術として話題になっていたことから、ロンドン大学の生理科学者であるA.V.ヒル(第一次大戦では対空射撃部隊の指揮官、1922年ノーベル医学生理学賞受賞)にコンタクト、ここから少人数の科学者で防空科学検討グループを立ち上げる案が浮かび上がる。メンバーは、ティザードを委員長に、ブラケット、ヒル、それにウィンペリスと部下のロウ、問題に応じて適宜専門家を加えこととし、組織的には航空省内に設けるがCIDの防空部門とも協力しその責務を果たす、名称は防空科学委員会(The Committee for Science Survey of Air Defense;CSSAD;のちに“ティザード委員会”と呼ばれる;本ノートでは以降T委員会と略す)、と言うものであった。提案が提示され省内の内諾を得たのは11月中旬だが、初会合が開かれたのは翌年1935年1月28日、時間がかかったのはやはりCIDとの関係だった。当時の空軍力は、現代なら核兵器に匹敵する国家安全保障の最重要事項、チャーチルはこの委員会を自分の影響下に置きたかったのだ。また彼の科学顧問、物理学者のリンデマンも政界進出を狙っていた。
 メンバーが最初に合意したことは、ここで取り上げる調査対象は“既存兵器の効率改善や組合せではなく、革新的な防空システムの開発”であると言うことだった。即効性を求める政治家には気に入らないアプローチである。
 音波、熱線、赤外線そして電波の、検知・破壊兵器への利用について検討が加えられ、電波の利用(Radio Detective Finder;RDF、のちのレーダー)が探知システムとして最有力との結論に達する。2月末にはこの分野の先駆者である無線研究所所長ワトソン・ワットの協力を得て初歩的な実験をRAFの技術開発主務者ダウディング(のちの戦闘機軍団長)に見せ、その後の実験へ財政的な支援確約を得るまでになる。しかし、この様な情報がCIDに断片的に伝えられるに従って、活動に横槍が入ってくる。
 チャーチルの真の狙い、防空システム構築の主導権獲得、を実現するために行われたことは極めて姑息な細々した技術的提言とそれらの優先度付けで、ほとんどはリンデマンのアイディアに基づくものであった。それらは、赤外線による探知装置、落下傘や阻塞気球に吊るした空中機雷網、高射砲による無数のワイヤー散布(プロペラに絡ませる)、探知用無線機を空中散布するなどとても“革新兵器”と言えるようなもので無く、T委員会はまともに取り上げることをしなかった(赤外線利用について調査はしているが実用化の可能性無しとしている;現代の空対空ミサイルが赤外線追尾型であることを考えるとあながち間違った提案ではなかったが)。これが二人には気に入らない。チャーチルは保守党指導者のチェンバレンやマクドナルド首相(労働党)に圧力をかけついにリンデマンをT委員会に送り込む。この時チャーチルはリンデマンをティザードに替えて委員長にしたかったようだがさすがにそこまでごり押しすることは出来なかった。
 1935年半ばからのT委員会はリンデマンと他のメンバーの対立(調査研究の優先度に関して)が恒常化する。リンデマン(そしてその後見役チャーチル)の主張は「レーダーの開発とこれを核とする防空システムの研究・開発は10年、15年のスパンなら正しいが、今求められているのは数ヶ月のオーダーなのだ!」と言う、この年の選挙で政権を奪回した保守党が短期に国民に見える成果を出すことにあった。当に政治的インパクトを狙った何ものでもない。1936年7月、建設的な議論が進まない環境に嫌気がさし、ヒルとブラケットが航空相に辞意を表明、ティザードも彼等に従う。ここに至りついに航空相が直接この混乱解決に乗り出し、結局リンデマンを外した新委員会を10月に再スタートさせる。
 それから1年半、ティザードは彼の人生最大の業績といわれる、レーダーを中心とした早期警戒・迎撃システム構築に邁進する。そしてそれは1940年のナチス空軍の英侵攻作戦を封じる決め手となったのである。
 しかし、この時の恨みをチャーチルもリンデマンも決して忘れてはいない。

0 件のコメント: