2010年5月2日日曜日

遠い国・近い人-1(国際関係私論;シリーズ開始に当たって))

 現在の中国東北部は一時期満洲国と呼ばれていた。1939年1月この地の首都、新京(現長春)に生まれ1946年 9月まで8年弱をここで過ごした。新京は日本が大規模な都市開発したところだったから、我々の居住区内で、近くに住む満洲人(満人と呼んでいた)は僅かの特権階級しか居なかったが、街中では肉体労働者(特に馬車牽き)の満人をよく見かけた。
 日本人小学校(当時は国民学校と呼ばれた)入学時(1945年4月)クラスに一人だけ満人の同級生がいた。通学経路が同じ方向、彼はチョッと癖はあるが日本語を話せたので、帰りは二人だけで帰ることもあった(往きは社宅の小学生が一緒になって集団登校した)。ソ連侵攻は夏休み中の8月9日、彼との付き合いは7月末まで一学期4ヶ月で終わった。学校は秋の運動会あたりまで続いたが(その後は満人の小学校になった)、夏休み明け登校した時彼の姿はなっかた。個人としての初めての“外国人”との交わりである。
 満人とは居住区を分けながらも共棲していたので、終戦まで子供心には“外国人”という意識は無かった。“外国人”を意識したのは8月下旬から進駐してきたソ連兵を見てからである。明らかに姿形が違う。日中我々に蛮行することは無かったが、大人たちはいろいろ乱暴狼藉を噂していたし、女学生は髪を短くして男のような風体になっていた。性的なことは分からなくても、ソ連兵の難を避ける策であることは理解できた。一度父と同行してかなり離れた別の社宅を訪問したことがある。冬のさ中帰りが遅くなり、日もとっぷり暮れた夜、私をソリに乗せて凍結した道路を自宅に向かっている途中、銃を持ったソ連兵のホールドアップに遭った。強盗である。幸いソ連の憲兵が近くを警邏中で事なきを得たが、ソ連兵の恐ろしさを身をもって体験した(後日、父はこの時「殺される」と思ったと語っていた)。
 私のソ連感・ロシア感は、この時から2003年まで約60年間基本的に変わることは無かった。しかし、横河の仕事で頻繁にロシアを訪れ個人的に多くの人と親しく交流することで、それが一気に好転した。この例は他の国でも同じである。ハリウッド映画を通じて憧れたアメリカも、訪れて人々の身近な生活を知ると多くの失望・幻滅を味わうことになった。書物やメディアを通じたその国・国民の理解と自ら体験した実態には大きな違いがあり、その後の見方がまるで異なると言うのが、私の国際関係論である。
 今までに訪れた国の数は26ヶ国、ほとんど仕事である。これは海外旅行を趣味とする人と比べればたいした数ではない。しかし、交換した名刺の数は1000枚弱(非訪問国を含む)、長期海外駐在経験者・貿易業務従事者を除けば相当な数ではなかろうか。定期的な手紙の交換(クリスマスカード、年賀状)やメールのやり取りをしているのが50人くらい、これを含めて、会えば“やあやあ”と直ぐに旧懐を温め合えるのが100人くらいになる。何人かの家には招かれたり泊まったりしている。家族ぐるみの付き合いもある。彼等を通じて理解した国々は、私にとって特別の国になっている。その思いをこの「遠い国・近い人」シリーズで紹介していきたい。
 話題の取り上げ方にルールは無いし、時間的な順序もあまり考慮しない。内容も人が主役だったり、国が中心だったりと一定しない。ただ、彼等と私の関係、彼等あるいは彼等の国を私がどう思っているかは出来るだけはっきり書くように心がけるつもりである。固有名詞はファーストネームだったりイニシャルだったりするが、これはある程度プライバシー上の配慮とご理解いただきたい。

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