2013年6月16日日曜日

美濃・若狭・丹波グランド・ツアー1500km-8


6.郡上八幡(2
吉田川を学校橋で北側に渡り、今度は北町と呼ばれる地区を巡ることにする(前回の地図参照)。宿で教えてもらった名所は、安養寺と言う古寺とその周辺の古い町並み、その西に在る博覧館と名付けられた郡上踊りの演舞場と物産館が一体化した建物、さらに西に在る、職人町・鍛冶屋町などである。
古い町並みと聞けば、訪れたことのある馬篭宿・妻籠宿(長野)、角館(秋田)、高山(岐阜)などが思い浮かぶ。川に沿う道をしばらく西に歩いていくと道路際に石碑とその説明を書いた立て札がある。読んでみると歌人折口信夫(釈超空)が大正8年(1919年)8月にこの地を訪れた時に詠んだ歌とある。「焼ヶ原の、町のもなかを行く水の、せせらぎ澄みて秋近づけり」 説明文を読んでみると、この年の7月に川の北側で大火があり、一面の焼け野原になってしまっていた。前から民俗学者の柳田國男にこの地を訪問するよう勧められ、8月に来てみたら水の流れは変わらぬものの、あとは焼け野原しかなかったわけである。
と言う訳で、“古い町並み”とは言ってもそれ以降に建てられた家々である。それでも大正後期から昭和初期のものが多く、独特の景観を作り上げている。一般家屋も職人の住いも共通しているのは、長屋形式で軒が長く張り出し、それを支えるように各戸毎に壁面から斜めに壁が軒先に向けて延びていることである。これで隣の家とのプライバシーは適当に保てるが、本来の目的は何なのだろう?いまだにこの解は得ていない(いずれ登場する越前大野でも、こんな形式を見かけた)。
歩きっぱなしで小休止したいが、お休み処は現れない。自動販売機でもないかと探すが、景観を慮ってか全く見かけない。チョッと辛いが良いことである。安養寺は大きな寺だが前から眺めるだけ失礼した(最近この寺が信長の天下統一に重要な役割を果たす所であることを知った・・・蛇足参照)。博覧館は夏にしか見ることのできない郡上踊りのミニ版を観光客向けに演ずる所で、3時が最終のため入場は締め切られていた(見るつもりもなかったが)。近くには観光バスも止まれる広い駐車場(城下町プラザ)もあり、休憩・食事の店も集まっているので、その一ヶ所で一休みすることにした。中国人の団体やおばさんのグループなどが出入りして、町を歩き始めた時よりは人出も多くなっている感じだ。この後はどうやら下呂温泉に行くらしい。今のシーズン、ここへ泊まるよりはその方が良いだろう(こちらは翌日の行程を考えてここにしたが)。
休憩後職人町へ向かう途中食品サンプルの店が多いことに気がついた。サンプル工房、サンプル・ヴィレッジなどと書かれた看板が掲げられ、ショーウィンドウの中には本物と見紛う料理や食材が並んでいる(右)。食品サンプル発祥の店(岩崎という店で、滝三という人がこの世界の始祖であるとの説明書きがあった;左下)などと称しているものある。帰宅後調べてみると、なんと食品サンプルの約60%はここから出荷されていることがわかった。
残る見所は八幡城だがここへはクルマを出さなければならないし、時間も4時をまわっていたので下から眺めるだけにした。
地方の町を訪れるといつも自問するのは「ここはどのようにして生活していくのだろう?」と言うことである。八幡町の場合、この地方の中心都市なので各種行政機関が在るものの、田畑の全く無い山間の狭隘な平地に14千人(市全体では4万人強)が暮らす。名古屋からは高山本線や名鉄と長良川鉄道(越美北線、第三セクター)を乗り継いでつながるが、それも12時間に一本の不便な土地である(特急を利用しても2時間強かかる)。それでいて貧しさなど微塵も感じさせない(豊かさもほどほどだが)。観光?食品サンプル?不思議な所であった。

蛇足:数日前読み終えた「鉄炮伝来」(宇田川武久;講談社学術文庫)に、戦国時代の急速な鉄砲普及が紹介され、浅井・朝倉攻めに先立ち信長がこの地方を治めていた土豪、遠藤一族に送った朱印状(動員令)の話しが出てくる。この尚々書(なおなおがき;付帯事項)に鉄炮を持って参加するよう但し書きがある。それを受けて遠藤胤俊・慶隆が安養寺に“玉薬(火薬)”を求める書状を送っている。安養寺の広い床下では、古土法(暗所に450年寝かされた土には硝酸塩が含まれる)による硝石が生成し、これで火薬(硝石、硫黄、炭を混合して作る)を作っていたのだ。つまり安養寺は織田軍の火薬廠だった訳である。
(写真はクリックすると拡大します)


(次回;シティホテル吉田屋)

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