8.瀋陽観光-1
瀋陽(奉天)は清朝発祥の地であり、北京遷都後も第二の都とされ、下っては奉天(張作霖)軍閥の拠点として、また日本統治下では60~70万人の人口を数える商工業の中心地、満洲(現東北三省)最大の都会であった。しかし、この都市に関する私の記憶は惨めで辛い想い出ばかりだ。1946年7月下旬新京を発った我々引揚団は、この地の廃工場に一ヶ月ほど留め置かれ、飢えと不潔な生活に苛まれることになったのだ。留め置かれた理由は、港湾施設・船舶が不足し、一気に乗船地である葫蘆島へ移動すると、その地で食住が成り行かなくなってしまうからだ。長逗留したのに、塀に囲まれた場所に閉じ込められていたので瀋陽の記憶は塀の中しかない。
12時丁度に瀋陽着、駅前広場で駅と周辺の建物について現地ガイドの張さんの説明を聞いたあと、しばし広場を散策となったが、猛暑は日本と変わらず、皆早々に日陰のある駅構内へ退散となった。13時バスで駅を出て、直ぐ近くの「金杯商務酒店」というレストランで昼食。“瀋陽料理”とあったが、いわゆる中華とどこに違いがあるのか不明。ただ、総じて薄味であり、個人的には好ましいものだった。
市内観光のスタートは駅に近い中山広場の中から周辺の建物を紹介することから始まる。ヤマトホテル、横浜正金銀行、東洋拓殖、朝鮮銀行、満鉄病院、奉天警察署(現市公安)、関東軍司令部などが広場を囲んでおり、大連中山広場同様の景観を呈している。
この広場の中央には巨大な毛沢東像が八路軍の兵士に守られて屹立している。この部分に日本統治時代何か建っていなかったかを帰国後調べたが、何も無かったようである。
大連との違いはヤマトホテルが「遼寧賓館」として営業していることである。広場の次にここを訪れる。ロビーのシャンデリアや置かれているピアノ(スタインウェイ製)は当時のまま。客室以外は全館見学可、特定の部屋に党の高官が宿泊したと銘板が張られていたりする。内装は一新されているのであろう、若い利用客の姿もちらほら見られた。
次は、駅の北東に位置する西塔街、老北市とも呼ばれ、古き時代が残る繁華街のひとつらしい。らしいというのは、この時刻(16時頃)アーケード状のこの街をぶらついているのは、我々グループ以外にほとんど見かけなかったことによる。飲食店が過半を占めるここ、夜になれば賑わうのだろうか?ガイドの説明に依ればこの一帯は中国最大の朝鮮族居住区、この街ではハングルは見かけなかったものの、翌日の昼食は朝鮮料理、この近くのハングル溢れる一帯で摂ることになる。
最後の訪問地は中街、言わば瀋陽銀座。ここの一画で夕食を摂るので、集合時間までは自由行動。歩行者専用の広い通りの両側にブランドショップを含む商店が延々と続く活気ある場所だ。閑散とした老北市を観たあとだけに、そのコントラストは極端だ。とにかく人で溢れている。それも若い人が多い。小径に踏み込んでみると、食べ物を主に様々な露店が並んでおり、そんな中には蛙の串焼きなどもあって、「やっと中国を見た」の感さえ沸いてくる。
日本の繁華街との違いは貴金属、特に金を扱う店が多いことだ。そんな店に普通のおばさんが結構出入りしている。チョット覗いてみようかと立ち寄ったが、中にガードマンらしい姿を見て、入るのはヤメにした。
夜はもっと活況を呈するのだろう。道路の中央部に舞台があり、若者たちが音響装置の準備している。中国もそんな時代になっているのだ。
夕食は、この通りと車道が交わる、角にある「老辺餃子館本館」なる創業1829年の老舗で摂った。前菜として数種の中華が供されたあと本ちゃんの餃子が始まる。10種すべてが蒸し餃子で蒸籠にのったまま出てくる。一人2個宛てとのこと、最初は指示され通りに2個食べていたが、これでは最後まで食せないと、1個にペースを落としたものの、とき既に遅し、翌日の昼食でその報いを受けることになる。
満腹のままホテルにチェックイン。大連と同じシャングリラなので、全体としては清潔・快適さに変わりはないが、ベッドの大きさ(大連は大きすぎ)、アメニティの内容(ひげ剃りセットなし)、ウォッシュレットでないこと、NHKが視られぬことなどに差があった。
写真上から;瀋陽地図、毛沢東像、ヤマトホテル全景、満鉄病院、関東軍司令部、ヤマトホテルロビーのピアノ、老北市、中街メインストリート、中街路地、中街金店、餃子の老舗(クリックすると拡大します)
(次回;瀋陽観光つづく)