2015年10月22日木曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-29


71991年;二つの海外出張
日本のバブル経済崩壊はこの年の3月頃からに始まったのだが、依然として情報システムへの投資は活発、当社の経営状況も堅調に推移し、バブルが弾ける予兆は全く感じられなかった。ただ、汎用機中心だったこの世界に変化が起こり始めていることはPCと通信技術の普及、それにアプリケーション用パッケージが小型機向けに勢いを増しおており、確実に新しい時代を予見させていた。技術系のACS(プラント運転管理)も事務系の一連の業務(経理・財務、購買、販売)も汎用機を得意とする事業内容に将来を見据えた手を打つ必要が迫ってきていたのである。
情報サービスの新しい動向は、ITジャーナリズム、コンピュータメーカーあるいは東燃(主にエッソ・モービル関係)を始めとするユーザーからもたらされていたが、内容は断片的で玉石混交。やはり自ら確かめることが大切である。役員になった1988年から、経営企画を担当することになり、毎年少なくとも一回は米国に出かけ、調査活動を行い、その結果が生産管理用パッケージMIMIの導入などにつながっていたが、この年も2回海外出張し、その後に役立つ知見を得ている。
一つはオーストラリアで開催された富士通主催の世界規模のユーザー会である。きっかけは198990年の2年間活動した富士通汎用機ユーザー会の研究会(LS研)における分科会活動“情報システム戦略度診断手法”が最優秀研究として認められたことによる。この研究は当時話題になっていた情報システムの戦略的利用法(SISStrategic Information System)について、内外の適用事例を調査分析し、その診断法を開発、より高度な(戦略的)利用法への処方を示すことを目的としたものであった。その手法は“経営戦略への情報システムの関与度”“利用部門での情報活用度”“システム部門の組織管理力”など6点の評価項目をレーダーチャートで示すとともに、発展段階の位置付けを行うもので、2年と言う制約もあり、学問的・実用的な詰めはいささか甘かったものの、関係学会を含め内外から注目され、海外での発表が実現したわけである。開催時期は5月、場所はアデレード、発表者は初年度のリーダー、鐘紡情報システム部長のYSDさんと次年度リーダーだった私の二人である。
この会議と前後の他国訪問(個人的に知己の居たシンガポール、富士通が準備したフィリピン)を合せて分かってきたことは、事務系個別業務向けシステムは既に第二世代(バッチからオンラインリアルタイム)に移ってきているが、統合的な運用には至っておらず、経営戦略レベルでの利用が大きな課題になってきていることであった。つまり、のちにブームを呼ぶERP(統合基幹システム)の必要性である。これは既に普及しつつあった生産系のCIM(統合生産管理システム)の全社版であり、その必然性はよく理解できた。我が社はERP(まだ当時この言葉は使われていなかったが)にどう取り組むか。この問題意識が出張の成果であった。
もう一つは11月にロサンゼルスで開かれた米国化学工学会(AICE)年会における我が国化学工学会とのマネージメント部会ジョイントセッション参加である。これを仕掛けたのは千代田化工の役員退任後名古屋商科大学教授を務めていたKMTさんで、この人は化学工学会経営システム研究会立ち上げの発起人でもあったことからマネージメント関連研究会同士の交流を図ることになったわけである。日本側は東レの伊藤会長、カネカの舘社長など錚々たるメンバーが発表者として参加した。私も研究会の情報システム関連主査をしていたので前出の“情報システム戦略度診断”を紹介、AICE関係者にSPINを「日本におけるプロセス工業特化のシステムインテグレータ」として売り込むことが出来た。
また、AICE年会の前後、大学(ノースウェスタン大、MIT)、シンクタンク(ノートン・ノーラン研究所)、企業(DEC、ユニオンカーバイド)などを訪問し、主にプロセス工業におけるIT利用の彼の地における実態をつぶさに知ることができた。どうやらこれからUNIXベースが主流になりそうだと。

(次回;東燃の情報システム動向)


2015年10月15日木曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-28


529日以降中断しておりましたSPIN経営-Ⅱを再開いたしますので、よろしくお願いいたします

61990年経営総括
1988年~89年は役員第一期、それ以前のグループ内業務中心から、あらゆる面で外部へ打って出る2年。新人採用の本格化、商品・サービスの充実、計算センターの清水への移転、親会社とは独立したオフィスの確保(飯田橋)、協力会社(システムブレイン)への資本参加など、目の回るような忙しさの内に過ぎていった。幸い業績は順調で売上も利益も計画以上の実績を上げることが出来た。
それに次ぐ2期目の初年度となる1990年、既に“経営トピックス”としてその活動概要を紹介してきたが、そこでも触れたように、後で振り返るとIT関連の大転換期;小型化の流れ、通信環境の変化、アプリケーション・パッケージの普及などがそれらである。この渦中にあって、必ずしも事前にこのような動向を正確に読んでいたわけではないが、海外の動きも含めてそれらに接触・触発される機会が多々あり、結果として流れに取り残されることなく、その後への備えが出来上がっていった。
会社発足の動機でもあったIBM汎用機をプラットフォームとするプロセス制御システムACSは依然引き合いはあったものの、ダウンサイジングの傾向ははっきりしてきており、「次は何か?」を問われ始めていたが、これもACSの米国での拡販計画が縁で米国CDS社の生産管理システムMIMIの独占代理店契約に成功、新時代への足掛かりを得た。
経済情勢全般は依然バブルは膨らんでおり、設備投資中でも情報技術投資は旺盛で、事務系もプラント系も大きなプロジェクトの引き合いが絶えなかった。また、親会社も第2次石油規制緩の真っただ中にありながら、バブル景気の中でのエネルギー需要は衰えず、製油所を含む生産管理システム体系の再構築(インテリジェント・リファイナリー計画)や財務・経理システムの更新などのプロジェクトが目白押しだった。
会社設立時に、実態として「これしかできない」ことから経営戦略の柱とした“化学プロセス工業特化(広義の化学プロセス;石油精製・石油化学、化学、鉄鋼・非鉄金属・紙パルプ、セメント・ガラス、医薬・食品など)”もやっと業界でその専門性を評価され、ホームグランドの石油精製・石油化学以外にも、大手顧客がつくようになってきた。これは工場のプラント運転や保守ばかりではなく、本社の経理・財務・購買のような事務系アプリケーションにも及んできた。
この業種特化に対する評価を更に高めてくれたのは、分社化前から関わってきた、本来意図したものではなかったが、化学工学会のプラントドペレーション研究会・経営システム研究会、富士通のラージシステム研究会(LS研)やOR学会、経営情報学会での積極的な活動参加も無縁ではなかった。
また当面はハードルが高いと思われていた、海外ビジネスも韓国石油最大手の油公(ユゴン;現SKエナジー)へのACS導入サポートがきっかけで、同社のプラントメインテナンスシステムの開発に兄弟会社の東燃テクノロジーと協力して受注できた。
このように良好な経営環境から1990年度の売上高は40億円弱、経常利益も約11千万円、従業員数も150名を超えるまでになった。売上高は前年より約4億円増、ここで注目すべきはグループ外への売上が約12億円、全体売上の13目前に達したことである。ただ利益に関しては、ACSの売上が低下したことと内部に比べ外部の利益率がやや低いことから微増に留まった。しかし全体として成長する市場でそれに見合う売上を伸ばすことを目標としてきたことを勘案すれば、合格点をもらえる経営結果と言っていいだろう。

(次回;1991年;二つの海外出張)


2015年10月11日日曜日

魅惑のスペイン-22



13.総括(最終回)
今回初参加、ハラハラ・ドキドキの少ない完全なツアーなのに、たった8日の旅を4ヶ月もかけて、ダラダラと書き続けてしまった。実は、(仕事以外で)ヨーロッパに出かける機会があったら是非行ってみたい、と20年来思っていた国の見聞記だからだ。何故スペインにそんな思い入れを?高校で世界史を学んだ際「太陽の沈まぬ帝国」と称するほどの大国であったことを知った。それでいながら、(個人的に)“嫌み”を全く感じなさせない国、これが私のスペイン観である。中・仏の中華思想、英の狡猾さ、独の傲慢さ、米・ソの覇権主義、いずれの国もこれら特質から他を見下すところを意識させられてしまう。そんな雰囲気が無いのはイタリア(ローマ帝国の末裔ながら)とこの国だけである。
結果は“イメージ通り”だった。若者の失業率が極めて高いのだが、誰も明るく人懐っこい。卑しさもなければ偉ぶった態度もない。スリ・かっぱらいが多いと言うが、街歩きにギスギス・ガツガツした感じは全くなかった(場所と時間にも依るのだろうが)。この国を揶揄する時にしばしば取り上げられるルーズさ(特に時間)についても、輸送機関に関する限り問題はなかった。つまり外国人に極めて居心地の良い社会なのだ。
垣間見たスペインが近しく感じたのは食にもある。格別凝った食事をしたわけでもないが、全般に口に合った。海岸地方の魚料理、イベリコ豚、ステーキどれも美味しかったし、ヴォリュームも適量だった。加えてワインが良い。中でも辛口のシェリー酒は今まで味わったことのない爽やかさが気にいった(日本を含めスペイン外では専ら食前酒の位置付けで甘口ばかりだった)。スペイン人はこれ(多分辛口)を食事と伴に楽しんでいたから、“食前酒”と言うのは英国人辺りが作り上げた慣習ではなかろうか。この他にも、ハモン(生ハム)、オレンジジュース、オリーブ(サラダ)、どれも毎日食べても飽きない。タパス(スペイン小皿)をバルで楽しめるのも、日本の居酒屋嫌いの私には向いている。
宿泊先はアメリカンスタイル(グラナダ)、欧州スタイル(バルセロナ、マドリッド)、パラドール(カルモナ)に泊まったが、好みはこの逆になる。グラナダの場合、ホテルそのものに不満は無かったのだが、ロケーションが悪く(市外の高速道路沿い)、住民の日常生活との接点がなかったことが評価を下げた。パラドールも街の中心部に在ることは珍しいようだが、そこに留まるだけで歴史に浸れる良さがあるので、これは街中から離れることにも一興がある。
今回観光の最大関心事、西欧文化とイスラムの関わりも、グラナダ、コルドバ、トレドで堪能できた。特にアルハンブラ宮殿やコルドバのイスラム建築の素晴らしさにうたれた。ただ、もう少し日程に余裕があれば、これら古都に数日留まり、観光客であふれる名所旧跡ばかりでなく、その街の今の生活にも触れることが出来たらと思った。その点ではバルセロナとマドリッドはそれなりに自由時間を楽しんだ。音楽や美術・建築にも伝統的なものからモダニズムまで優れたものが多く、その分野に造詣を欠く一見の観光客にも理解しやすく、耳や目を楽しませてくれた。これら人間が介在する見所に比べると、今回のルートで観る限り、自然はなべて単調で、風景に感動することはなかった。
最後に大好きな乗り物である。必須科目のスペイン新幹線AVEについては2回にわたって紹介したが、そこにも書いたように、これはスペイン独特のタルゴ形式(一軸台車)ではなく、車両はフランス製、運行はドイツシステム、フランスやイタリアなど他国の新幹線と基本的に変わらない。大都市でも地下鉄利用に警告を発せられたのでトライせず、結局スペインらしい鉄道経験は得られなかったのは心残りだ。
高速道路は思っていた以上に整備されていた。おそらく他のヨーロッパ諸国と遜色ないだろう。サービスエリアなども充実していて、クルマの旅も面白そうだ。問題は旧市街の中心部、城塞都市内部など「こんなところを走っていいのか?!」と思うような通りが随所にある。マドリッドですら一方通行が多く、これはその土地になれていないと大変だ。こんなところを欧州では一般的なハッチバックの小型車が走り回っている。バルセロナではプジョーやルノーなどフランス車が多かったが、他の都市では国産のセアト(一時日産が資本参加、現在はVW傘下)とゴルフ、ポロに代表されるドイツ車が目立った。日本車はルノーやセアトとの関係もあるのだろう日産車を比較的よく見かけた。トヨタは何と言ってもプリウス、マドリッドではタクシーに多用されていた。これは2年前のパリ同様、チョッと特異な存在である。
全体の印象として、人好し・食良し・気候よし、社会システム全般もあまり違和感がなかった。機会があったら、もう一度自分で考えた計画で旅してみたい。その日のために、20年前入手した中丸明という人の書いたスペイン紀行3部作「スペイン五つの旅」「スペインひるね暮らし」「スペインうたたね旅行」を再読しながら、今回の旅を反芻し、その日に備えよう(歳を考えると実現する可能性は薄いが)、などと思う日々である。
写真はクリックすると拡大します
(完)
-長いことご覧いただきありがとうございました- 

2015年10月6日火曜日

魅惑のスペイン-21


12.帰途につく
今回の旅の最大の問題点は、朝の早いことだった。連泊の2泊目は夜フロントで翌朝の朝食ボックスを受け取り、あとは自室か移動中(結局これやった人は居なかった;一部を後で食べた人は居たが)摂るのだ。マドリッドもバルセロナと同じ。夜フロントで受け取るシステム。中身も同じようなもの;サンドイッチ・果物・ジュースパック・ヨーグルト・菓子;である。5時のモーニングコールでスーツケースも出すので、それ以前に起きて身繕いをし、それから部屋でこのボックスを片付ける。6時にはホテル出発。外はまだ暗い。1時間弱で空港に着く。
バルセロナ同様、マドリッド国際空港も他の欧州巨大都市の空港と違い、清潔で親しみやすい感じが良い。チェックイン手続きでは前の黒人(アフリカ人)二人連れのチケットに問題があるらしく、我々夫婦だけしばし取り残されたが、それも何とかクリアーして出国へ。セキュリティは相変わらず厳しいが、イミグレーションはただ通るだけ。スタンプも押してくれない。昔インドを出る時これで失敗したことがあり(最終搭乗カウンターから戻された)、心配になって添乗員に確認したが、「何も問題ありません」とのこと。
免税店で自分用土産として、当地に来る前から考えていたシェリー酒を求める。実は本場はアンダルシアの南西部へレスでセビーリャがその近くだったから、ここで買って日本直送を考えていたが、旅行社にも宿泊地にもそのようなシステム無かった。直送できれば1ダースくらいまとめ買いして友人たちに配ろうと思っていたのだが、機内持ち込みは3本まで、残念ながら息子と婿への分しか求められなかった。店で目立つのは専らスペインワイン、意外とシェリーは少ない。あっても味わいの区分が分からない。店員に聞くと「ドライ?」と聞き返されたので「そうだ!」と答えると「これだ」と指さして教えてくれた。ただ他のシェリーと比べ値段が極めて安い。チョッと心配になり周辺を探してみると値札に“Dry”と書かれ、価格が他のものとあまり変わらないものがひと種類だけ見つかったので、それを求めた。しかし帰国して飲んでみると現地で飲んで気にいったものよりは甘く(日本で一般的なシェリーと同じ味)、あの時店員が薦めた物が正解だったかもしれないと思ったりしている。
マドリッドからロンドン(ヒースロー)まではイベリア航空、8時半の出発だからパンとコーヒー位は出るかと思ったが、飲食物は総て有料とのこと。LCCとの競争が激化している欧州の空路はいまや単なる移動手段と考えた方がよさそうである。
ロンドンでは乗継に十分時間はあるのだが、セキュリティ上の配慮から搭乗ゲートは直ぐには表示されないので広大な空港内の移動を考えると分岐路ハブエリアからあまり離れるのは適切でない。早めにそのエリア行き、チョッとコーヒーでも飲みながら本でも読んで待とうと思いゲート近くのスタンドに行って行列に並び、順番が来たのでオーダーをする際ユーロ札を出したら「お釣りはポンド・ペンスになりますが良いですか?」と返事が来た。そーか!この国はユーロではないのだ、と気がついた。近々英国に来る予定はないので、ここでしか通用しない硬貨の処分は出来ないわけだから、バカ高いコーヒー代を払うことと同じなのでやめにした。
帰りの便も往きと同様英国航空のプレミアム・エコノミー、往きと違い帰りは窓側の並び席だったから、トイレへの出入りで他人を煩わせるとことが無く、やっと払っただけの価値を獲得できた。6139時予定通り成田着。

写真はクリックすると拡大します


(次回;旅の総括;最終回)

2015年9月30日水曜日

今月の本棚-85(2015年9月分)


<今月読んだ本>
1) 燃える蜃気楼(上、下)(逢坂剛):講談社(文庫)
2) 文体の科学(山本貴光):新潮社
3) 石油と日本(中嶋猪久生):新潮社
4) 技術大国幻想の終わり(畑村洋太郎):講談社(新書)
5) フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ(ジョナサン・コンリン):柏書房
6) 石油産業の真実(橘川武郎):石油通信社(新書)

<愚評昧説>
1)燃える蜃気楼
逢坂剛のイベリアシリーズは第2次世界大戦の欧州を舞台にしたスパイ小説である。本欄-826月)で紹介した“イベリアの雷鳴”が第1作で以降第7作まで続く。第1作はナチスドイツのポーランド侵攻に始まり、スペイン市民戦争で貸を作ったヒトラーがフランコに協力を迫る場面で終わる。ここに主役として登場するのが、駐スペイン日本公使館もその正体を正確には掴んでいないペルー国籍の日系2世、北都昭平(実は中野学校出の陸軍将校)。それにドイツと英国の諜報機関が絡み事態を複雑にする。これにスペイン市民戦争時代を引きずる反フランコ組織の陰謀が加わるので、スパイ戦は混迷をさらに深める。日本人の書いたものとしては、なかなか考えられたストーリー展開になっているが、英国の一流スパイ小説・冒険小説に比べるとサスペンス小説の肝である連続する緊迫感と凄みを欠き、何か軽い感じが残ってしまった。
本書はその3作目。「もう少し読み込んで、評価しよう」そんな気持ちで手にした。第2作“遠ざかる祖国”を飛ばして第3作を取り上げたのにはそれなりの理由がある。第2作は主題が真珠湾攻撃なので日本人作家のホームグランドと言ってもいいのだが、Webでの書評が極めて悪いのだ。端的に言えば「繰り返しが多く、くどい」との評、その根本原因はこの第2作だけが新聞連載であったことから来ているようだ。それもあってこれだけは文庫本化もされていない。シリーズ物を飛ばすのに引っかかるところはあったが、古本を求める気にはならなかった。
今回の題材は連合軍の反攻。ドイツの攻勢もロシアや北アフリカで齟齬をきたし始める中で、中立国スペインにたむろする各国スパイに新たな参戦国米国が加わり、対日・対独諜報活動を始めが、その稚拙でストレートな動きに他国が振り回される。そこに反ヒトラー活動を疑われる国防軍情報部長カナリス提督とゲシュタポの戦いが加わり、さらに独英二重スパイの動きが絡んで、連合軍の北アフリカ上陸作戦を巡る丁々発止の情報戦が繰り広げられる。加えて、北都昭平には敵味方の判別がつかない、日系米人の若い女性が登場してきて、開戦前に恋仲となった英国女性諜報部員との関係をややこしいものにしていく。第一作や直木賞受賞作品“カディスの赤い星”同様相仕掛けはなかなか凝っている。
多くのスパイ物ノンフィクション(主として英国の)を読んできた読書歴から、本書の歴史考証(特にスペイン、ポルトガルにおける英国の諜報活動)はかなりレヴェルが高いと評価できる。単行本が出たのが2003年だから、取材・調査活動はそれ以前となるが、この時期まだ翻訳物は出ていなかったので、恐らく公開されたばかりの資料に基づく原書(英書)に当たって材料をそろえたに違いない。依然ストーリーは今一つ“凄み”を欠くものの(多分恋愛小説的要素を織り込んでいることがその因だろう)、第1作よりは事実と小説の境界が渾然一体となっており、努力のあとを充分楽しむことができた。次作も既に入手している。

2)文体の科学
先日東燃時代の同僚二人と飲む機会があった。二人とも米国に長期出張の経験もあり、英語は達者な連中である。話題が英語力(会話を含む)におよんだとき、一人が「外国語をモノにできるかどうかは国語(日本語)力にかかっている」と言い出し、私ともう一人も一般論としてはそれに同意した。しかし3人の中では一番英語力に劣る私は“国語力”の中身がどうも気になって、高校時代の国語教育に話を振ってみた。現代文・古文・漢文を、それぞれを専門とする先生に学んだが、どれも好きになれず、当然良い成績を収めることも出来なかった。つまり国語力が高くはないわけで、確かに彼の論理と一致する。それではこの3教科の内どれが英語力に最も影響するのだろうと焦点を絞り込んだ。しかし、ここまで踏み込むと論拠が曖昧になり、学校で学ぶ“国語”とは別の、“日本語表現法(話す、書く)”のようなことにカギがあるような話になっていった。これでやっと彼の主張が腑に落ちた。
最近はプレゼンテーションが重視され、しゃべり方の訓練を受ける機会も多くなってきているようだが、我々の世代はそんな教育は全く受けていない(教科書の音読はしたが)。書くことについても学校で体系的な講義をきちんと聞いた記憶はない。せいぜい作文・日記を書かされ、“起承転結”を教えられた程度である。だから就職数年後エクソンのエンジニアリングセンターに派遣されていた先輩から、そこでのレポーティングに関する詳細教育資料を翻訳したものを渡されたときの印象は強烈なものだった。「内容よりも先ず形!」 これに基づいて作成した技術レポートを読んだ別の先輩が「君のレポートはカッパブックスみたいだね(当時売れていたやや軽薄な光文社発行の新書)」と評し、それに続けて「いや悪い意味じゃない。読んでみようという気になるし、一応最後まで読んだよ」と言われたときには複雑な思いをしたものである。私の書くことに関する意識の芽生えはこの辺りから始まった。
本書の広告を見た時、まず浮かんだのは谷崎潤一郎や三島由紀夫の「文章読本」である。つまり、一つは有名作家の文章を例に、書き手に“文章上達”の秘訣を教えてくれるもの(谷崎)。もう一つは同じような分析對象を取り上げ、読み手に対して“読み方指南”するものである(三島)。どちらも日常(読書とブログ投稿)に直結する題材なので「名著の現代版か?」と興味を覚えた。ただ著者名を全く知らないことが気になったが、一流出版社の新潮社が単行本として出すのだからとAmazonに発注した。
届いた本の序と目次に目を通して「ウン?」となる。そこには「今までのこの種の本は専ら文章の意味内容を検討するものであったが、それ以外の要素(特に文の形や表現法)を無視してしまっていいわけはない」との意が述べられ、対象分野が列記される。対話・法律・科学・辞書・批評・小説がそれらである。文体=文章と解釈したのは私の早とちりであった(無論無関係ではないのだが)。
ここでいう“文体”は以下のようなことを総て含んでいるのだ。文章による思想表現形式(規範的vs個性的)、文章の構成(配置;文字・語・文章・空間)、題目(章・項)のつけ方、書かれる物理的対象(紙・映像・電子)、字体(書体・サイズ・色・版組のスタイル)などである。そしてそれらが時間・空間・記憶によって種々の制約を受けることを、例を挙げながら解説する。例えば、ある小説を異なる字体で印刷した書籍、映画・TVの字幕表現にした時、さらに携帯電話利用の電子書籍にしたものを並べ、同じ思想(意思表現)でも読者・視聴者・観客に伝わる内容に差異が出てくる、逆に言えば、同じ意図を伝えるためには異なる表現法が必要になる、と。
応用編の“対話”は、我々の日常交わす会話である。これを書籍(電子を含む)で取り上げる時の表現法には「」を用いるのが一般的だが、それを連続して書くか、改行して書くか、その頭に話者名を入れるか入れないか、あるいは「」を使わず、xx(人)はyyy(発言)と語ったというように第3者が介入するような書き方にするかによって、読む時間と想定する空間がわずかに異なり、その違いが内容の捉え方に微妙に影響してくる可能性に言及する。
次の対象では法律文が極めて特異なものであることは認めつつ、著者はこれを“文章による建築物”と捉え「そう喩えたくなるほど、全体の構造に配慮がなされている」と、 成文法主義下の“天網恢恢疎にして漏らさず”の事例を「不正アクセス禁止法」を取り上げて解説する。そしてその“漏らさず”を実現するため法律文には句読点が極めて少ないことを明らかにする。これこそ網目を細かくするカギなのである。
著者・編者の主観を極力抑える科学(社会科学、自然科学)文書や辞書文体の特色、書き手の意思が表に出てくる批評や小説の文体にも前記同様ユニークな分析が、認知科学や脳科学を駆使して続く。
著者は「まだ科学と言うレヴェルには至っていない」と断っているが(タイトルは編集者が命名;初出は季刊誌「考える人」に“文体百般”と題して連載されたもの)、真摯で挑戦的な研究活動が伝わってくる内容に、(早とちりした)所期の目論見とは異なるものであったにもかかわらず、「なるほど」と教えられることが多々あり、充実した読後感を得られた。扱う世界の広がりに大差があるものの、あのエクソンの“技術レポートの書き方”と「内容だけが問題ではない」という点においては同じ考え方に立っており、改めて“読み・書き”に覚醒されるところがあった。
著者は現在文筆業ということになっているが、前歴はコーエーで10年間ゲームソフト開発に従事している。この辺りに独創的な研究展開への芽があったのかもしれない。

3)石油と日本・6)石油産業の真実
米国のエネルギー・アナリスト、ダニエル・ヤーギンが著したように、20世紀は“石油の世紀”。私のビジネスマン人生45年間はその石油に終始した。悔いはない。と言うよりも、国際情勢の緊迫、経済環境の変化に伴う世界の動きが直に伝わる職場に居られることに生き甲斐さえ感じる日々だった。その石油に関する思いは今も変わらない。ここに紹介する2冊はいずれも我が国の石油産業を取り上げた最新の書物である(両書とも本年5月発刊)。最新業界事情を知りたく手にすることになった。“雀百まで踊り忘れず”と言ったところであろうか。
石油産業は大別すると上流(アップストリーム)と下流(ダウンストリーム)に分けられる。上流は;油田探査・原油生産・原油輸送、下流は石油精製・製品販売である。広義の石油関連として石油化学やLNGもそこに含まれ、前者は下流、後者は上流と見ていいだろう。このように石油産業を包括的にとらえたとき、我が国石油産業は他国に比べかなりいびつな構成になっている。つまり過度に下流に偏っているのである。大規模油田を持たぬ大国や工業国でもその利権を確保して、上下一貫体制を目指す国家がある中で、その経済規模に比し我が国のアンバランスは極端である。二つの著書が問題とするのもこの点だ。何故そうなったのか、これから如何にすべきか、これが核である。
先ず“石油と日本”(以下3)と略す)、“石油産業の真実”(以下6)と略す)ともに歴史から説き起こす。3)は世界史的な視点、6)は日本史的な視点から展開するところに違いがある。また3)が明治期から戦前の石油政策・石油産業をかなり丁寧に解説するのに対して、6)は初期の外資の活動に言及はするものの、戦時統制に重きが置かれている。戦後占領期の石油業活動禁止と外資復活は両者ともその後の我が国の石油産業の特異な発展の背景として詳しく解説され、中でも外資と民族系企業・政府のせめぎ合いが生々しく語られるところは双方ともに読みどころの一つになっている。ただその内容は3)が官民広く俯瞰するのに対して、6)は専ら政策的な面に力点が置かれる違いがある。このような視座の違いは、講和条約発効後の産業政策や業界の動きについても同じように引き継がれる。これはそれぞれの著者の経歴・立場の違いから来ているものと推察される。つまり、3)は中東にも滞在している石油をめぐる金融業務に従事した経験を持つ銀行マン(東海銀行)。これに対して6)は経済学者(東大)で政府(通産省・経産省)の審議委員を務めた人であるからだろう。
両書を面白くしている要因に、数人の石油人を章や項を設けてクローズアップしている点がある。3)では出光佐三、山下太郎にそれぞれ1章が割かれ、6)でもこの二人は取り上げられ、加えてイタリア炭化水素公社(ENI)を創設したエンリコ・マッティと私の勤務していた東燃の社長・会長を務めた中原延平・伸之親子にかなりの紙数が割かれている(強力な外資に対する中からの改革者として)。
さて、上下流のアンバランスである。いずれも石油製品利用初期段階からのメジャーの経営戦略、国策ともに(原油の)産地精製主義を採っていたため、上流部門への進出が遅れたとしている。安全保障上消費地精製主義に転じたときは日本にとって国際情勢がそれを容易に受け入れる環境ではなく、戦後もそれを引きずることになる。
このような状況を改善する動きとして、3)はアラビア石油を取り上げるが、山下太郎亡き後通産官僚によってコントロールされ、挑戦的な先行投資を行わず、利権を失った経緯を掘り下げ、国家資源戦略を再考すべきとの結言に留まる。対して6)は、過小過多(小さな開発会社が数多く存在する)を解消し、イタリアENIのような、消費国としての力(輸入量・額)をバ-ゲニングパワーとして活用、上流利権交渉に当たれる、ナショナル・フラグ・オイル・カンパニー(産油国が対等な交渉相手と認める)を設立すべきと、具体的な提言を行う(現実に石油公団解散と石油天然ガス・金属鉱物資源機構;JOGMECと国際石油開発帝石;INPEXの誕生はその方向に沿ったもの)。
いずれの書も大まかな内容は業界では既知のことではあるが、細部は「そんな背景・経緯があったのか!」と驚かされる局面が多々あらわれる。例えば、モサディク首相による突然の国有化政策で禁輸状態にあったイランの石油製品を出光が輸入した話は、当時高校生だった私にも記憶に残る出来事だったし、戦後の石油業を語るときしばしば話題になる歴史的事件だった。それが実行できたカギの一つに“保険と金融”問題の解決があったことはあまり知られていない。つまり国際取引では必須の、損害保険やL/C(支払確約書)開設で如何に(建前上)英米の公的機関を欺くかに知恵と手段を総動員する話である。解決策は裏で英米の金融機関とつながる一種のマネー・ロンダリングを行うのであるが、この話は3)の独壇場。詳しい裏事情が明らかになるのは、日本側でそれを引き受けたのが、著者が後に勤務することになる東海銀行だったことと無縁ではあるまい。一方6)では異形(極端に縛りの多い)の石油業界が出来上る基となった(第2次)石油業法(1962年制定)が、(第1次)石油業法(1934年制定)成立までのメジャーとのタフな交渉経験を踏まえて作られていくプロセスと重ね合され、新旧法の関係を対比しつつ詳述・解説され、キーポイントの“外資抑制策”を浮き彫りにする。
読み物としては断然3)が面白い。しかし、我が国石油産業を、政策面を中心に現在から将来に向けて理解するには6)がよくまとまっている。3)は一般読者向け、6)は業界関係者向けと言っていいだろう。

4)技術大国幻想の終わり
1991年、NHKドキュメンタリー番組“電子立国日本の自叙伝”が何回か連続して放映された。1980年代の半導体を中心とした我が国電子製品が世界を席巻していく姿を、国内外トップクラスの研究者や企業への取材を交えながら紹介する内容に惹きつけられ、“日本人としての誇り”すら励起される番組だった。爾来四半世紀、サンヨーは消え、シャープも風前の灯火、ダントツのトップブランド、ソニーもサムソンの前では存在感が薄い。半導体に限っても米・韓・台に大きく水を開けられ青息吐息の状態である。「一体全体、あれは何だったのだろう?」「やがて自動車産業も同じ轍を踏むことになるのだろうか?」こんな疑問や不安がよぎる日々である。
情報技術に長く携わってきた者として、振り返ってみると時々にこれを予見させる疑念がなかったわけではない。90年代中頃、韓国石油企業の知人が来日した際携帯電話を2台持って使い分けている。聞けば「日本だけ国際的に普及している方式が使えないから」との返事が返ってきた。TV放送がまだアナログの時代、ハイヴィジョンTVのデモを見たことがある。北海道の冬を扱ったもので、風の舞う雪原で雪の一粒一粒が飛ぶように映し出された画面に感動した。しかし、世界はこの方式を受け入れようとはしなかった。また、これは電子技術と直結することではないが、米国永住権を持つ台湾人の知人は「日本の自動車は本当に故障しない。しかし、適度に買い替えたくなる身には、踏ん切りがつかなくてかえって困る。要するに過剰品質なんだ」と。
日本が1世紀をかけてキャッチアップした高度・最新技術を瞬く間にモノにする、台・韓・中。「彼らはコピーキャットだ」と切り捨て、納得してしまうことは容易だし、プライドも保てるかもしれない。しかし「それではいけない!」と警鐘を鳴らし、これからの日本の製造業の在り方に私見を開陳するのが本書である。
先ず、何故高度・先端技術の移転がしやすくなったのか?20世紀の技術は設計から生産に至るまで随所に理論と経験に基づくノウハウの習得と蓄積を要した(つまり時間がかかった)。しかしディジタル技術の発展普及は簡単(資本投入は必要だが)に熟練者の技能を機械的に再現できるようにしてしまった。日本の製造業の強みは各段階における“すり合わせ”の妙にあったが、これすらディジタルで置き換えられるようになってきている。
次は市場と生産のグローバルな広がりである。汎用品と言えども先進国基準では新興国では売れない。先端技術・多機能・高品質だから高くても売れる、は通用しないのだ。日本や米国のユーザー向けに開発された製品がこれで壁にぶちあたる。韓国製品が伸びているのは、機能を抑え価格を低くして現地ニーズによくマッチしているからだ。彼らはこれを実現するため、現地に精通した人材育成に日本とは桁違いの力を注いでいる。
実は“現地ニーズ”の重要性は新興国マーケットに限らない。先進国で韓国製半導体や電子製品が大きなシェアーを獲得したのは、製品の品質や信頼性の考え方を日本と変えている点にある。歩留りが少々悪くても、安く作り、トラブルが起これば交換すればいいとの戦略を採るからである。
高度な工業製品の供給先(生産者)が増えれば、相対的に技術以外の要素が差別化因子になってくる。特に広義のデザインが重要だ。ここでは少々価格が高くても、“かっこいい”物が売れる。この点で日本製品は欧米に遅れをとっている(ここではアップルの戦略をクローズアップする)。
ではこれから日本の製造業はどうすればいいか?上記のような環境を踏まえ、「考え方を変える」「からくりを変える」「教育を変える」が著者の提言である。
考え方を変える;戦後の日本は復興・発展に懸命の努力をし、稀に見る豊かな社会を実現した。しかし、昨今それが当たり前に存在するものと思っている。“人並みに努力すれば人並みに幸福になれる”ではなく、現状に満足せず主体性を持って環境(与件)改善に努力する。書かれてはいないが“常に危機感を持って、前へ進もう”と解釈した。
からくりを変える;成熟社会到来と経済成長の停滞、少子高齢化と人口減少、終身雇用制の後退。社会も日本企業も従来の成長拡大モデルを見直し、変える必要がある。しかし、移民を大量に受け入れることはドイツ滞在の経験から、極めて懐疑的。むしろ高齢者や女性の活用を奨める。同感である。製造業はマザー工場を日本に残し、設計から製造まで市場の近くに移すべきだ。
教育を変える;考え方を変えるにも社会のからくりを変えるにも、根本は教育にある。何を変えるか。一つは親の所得で子供が教育を受けるシステムを変える(経済的に恵まれない子供の支援体制)。もう一つは時代に合わなくなった教育カリキュラムを見直す(知識重視、記憶力重視からの脱却)。その結果として“自分なりの仮設を作り、それを自ら検証・修正できる人材を増やしていく。これは情報技術活用のカギが“仮説設定能力の向上!”と四半世紀前から主張してきた私の考えと同じである。
著者は東大名誉教授だが知名度を上げたのは退官後工学院大学に移り“失敗学”を提唱し始めてからである。多分その影響であろう、福島原発事故の調査委員会委員長を務めている。大学卒業後一旦民間会社(日立)に入社、三現主義(現地・現物・現人)の重要性を学び、学者になっても世界の現場を訪れ、そこから得た知見が随所に取り上げられている。ただ新書と言う性格もあろう、断片的・一般的・抽象的な軽さは否めない。

5)フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ
この種の本(日常生活や興味の対象と全く関係なく、何の役にも立たない)を買うのは、外国(特に欧州;現役時代ほとんど訪れる機会が無く、友人知人も居ない)に対する好奇心からである。両都市とも短い日数滞在し観光もしたが、ほとんどツアー定番の有名スポットのみ。二つの都市を関連付ける未知の雑学情報を知るだけでもいい。こんな思いで内容も確かめずAmazonに衝動発注した。届くまでぼんやり想像していたのは都市開発とそこでの生活、それに中学生時代読んだチャールズ・ディケンズの“二都物語”(フランス革命期の冒険と悲恋)にでてくるような両都市在住者の交流であった。この予想は、時代(1819世紀)も取り上げられるテーマも当たらずとも遠からず。英仏を中心に、現代につながる欧州近世・近代社会の相互依存性・共通性形成過程を人々の日常生活を通じて教えられた。
原著タイトルは“Tales of Two Cities”、つまり複数の話から構成されている(ディケンズはThe Tale of Two Cities)。それらは、家(建物)・通り・レストラン・ダンス・夜の街と密偵・死者と埋葬である。それぞれの章は、参考文献に一部共通性はあるものの、基本的には独立している。しかしこれだけ脈絡のない項目で両都市の比較し相互作用を語られると、かえって包括的な近しさ沸いてくる。その近しさを読む者に身近に感じさせるのは、著者の意図が“両市民は互いに学び合っていた”ことを明らかにすることにあるからだ。因みに著者はオックスフォードで歴史を学んだ米国人である。
英仏は狭い海峡を挟んで隣国、何度も激しく戦い、妬み恨み合ってきた歴史がある。本書の導入部では、フランス人男性が洒落たフランス風のいでたちでロンドンの通りを歩いていて襲われるシーンが当時の版画で示される。この背景にはフランスが英国の植民地であった米国の独立を支援したことがあると解説され、仏人の英国訪問に際しての種々の警告書が刊行されていたことが紹介される。一方で宮廷文化に発するパリの最新女性ファッションが好まれ普及するのはパリよりもむしろロンドン、売込みのために小型のマネキン人形にミニュチュア衣装をまとわせ、海峡へ急行する場面が出てくる。
本書の邦題は“フランスが作ったロンドン イギリスが作ったパリ”とフランスが先になっている。どういう考えでフランスが先になったのかは分からないが、読んでいるとサーブはフランスから始まるものが多い。しかし、普及段階では速度も広がり(量)もロンドンが勝り、強く・数多く打ち返し、それがパリを変えていく。これはフランスの強い王権による中央集権的で華やかな宮廷(格差)文化が、時代の先を走り、その成果物が分権的で相対的に中流階級が多かった英国で広く受け入れられたからである。
種々の比較項目の中でも、打ち返しのスピードや頻度に差がある。極めてゆっくりとかつ一方的な例は“家”である。アパート形式はパリから始まるが、この様式がロンドンで本格的に普及し始めるのは19世紀末からである。それ以前は貧民街の一掃などの場合に限られている。無論両都市の交流の中でロンドン市民はアパートを知っていたが、外観(パリはこの規制が厳しかった)はともかく、そこでの生活は極めて猥雑なものと信じていた。雑多な人間が同居し、充分はプライバシーが確保できず、時には不道徳な交流(不倫)が行われる場所と捉えていたのだ(ゾラの小説などの影響)。ロンドン市民は代わりに低層のテラスハウス(石造りの長屋)を好み、城壁の外へ広がり出て行ったのである。
社会構造の差から違ったスタートをした例に“通り”がある。通りに歩道が出来るのはロンドンが早い(街灯や側溝も)。中流階級の中から街をぶらつく遊歩者が出現してきたからだ(パリ発の最新ファッションがロンドンで普及するのも、この遊歩者の存在による)。パリで通りを歩くのは、そこで仕事をする人に限られていた。貴族は馬車で往来するから歩道など必要なかったのだ。今のシャンゼリゼ大通りからは考えられない事象である。
人間の最後は死。欧州の大教会・大聖堂には建物内の床下や壁際に石棺が多数埋められたり積み上げられたりしている。庭も墓石でいっぱいだ。特に城壁で囲まれていた時代はスペースに限りがあった。貧しい庶民の大多数は共同墓穴(1ヵ所10002000体)に袋詰めで放り込まれ、石灰を撒いて土をかぶせるだけ。いつも周辺には腐臭が漂っている。これを郊外の広い公園墓地で一人ひとり埋葬するように変えたのはロンドンが先、パリではナポレオンが天下を取ったあとロンドンを参考に郊外墓地の建設が始まる。死に関係した話題では葬儀費用の話も面白い。ヴィクトリア時代、英国は不透明だがフランスは定額制が確立され、料金も手ごろだったと記されている。
この他にも現在もパリの名物として演じられるカンカン踊り(フレンチ・カンカン)は英国のスカートダンスの影響を強く受けていることやシャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルがフランスで人気が高かった探偵小説家ガボリオの信奉者であったことなど、身近なところで両都市の密接な関係を教えてくれる。
雑学好きの方にはお薦めの一冊と言っていい。

写真はクリックすると拡大します


以上