2023年8月31日木曜日

今月の本棚-181(2023年8月分)

 

<今月読んだ本>

1)銃弾の庭(上、下)(スティーヴン・ハンター));扶桑社(文庫)

2)関東軍(及川琢英);中央公論新社(新書)

3)逃亡(吉村昭);文藝春秋社(文庫)

4)読み書きの日本史(八鍬友広);岩波書店(新書)

5)「大失敗」の世界史(トム・フィリップス);河出書房(文庫)

6)クラシックカー屋一代記(涌井清春、金子浩久);集英社(新書)

 

<愚評昧説>

1)銃弾の庭

-太平洋戦線の伝説的海兵隊スナイパーと凄腕ナチス狙撃隊指揮官がノルマンディーで対決-

 


司馬遼太郎がどこかに書いていたが、旧日本軍歩兵の小銃射撃技能は概して低く、対して砲兵の技量は一級だったと(最近の国際合同演習における自衛隊狙撃手のレヴェルは高いらしいが)。この因を、日本人個人の“あがり易さ”に求め、砲兵が組織として動くことにその差があるとしていた。それもあるのか、我が国の戦記や戦争小説で“狙撃”をテーマにした作品に触れたことはない。一方、海外では映画・小説・ノンフィクションなどスナイパー(狙撃手)物は花盛り、ソ連軍は歩兵部隊をわざわざ“狙撃”師団と名付けていたほど、陸戦と狙撃は表裏一体なのだ。本書はこの狙撃戦をテーマとする戦争サスペンスである。

1946年生まれの元ワシントンポスト記者(ピュリッツァー賞受賞者)、スティーヴン・ハンターはスナイパー小説の巨匠。“スワガー・シリーズ”は20作近くあり、本欄でも何作か紹介している。このシリーズは太平洋戦争を戦った父アール・スワガーとヴェトナム戦争に従軍した子ボブ・スワガーの2編に分かれるが、二人とも海兵隊の一級スナイパー。今回は数の少ないアールを主人公とした第二次世界大戦物、それも彼の不案内なノルマンディー戦線である。

ガダルカナル、ブーゲンビル、タラワで戦った歴戦の一等軍曹アールは後進指導のためノースカロライの訓練基地に在る。そこへ上層部からOSS(戦略情報局)所属の“少佐”としで欧州派遣が命じられる。ノルマンディー地方特有のボカージュと呼ばれる牧草地・雑木林・耕地・生け垣から成る起伏や遮蔽物の多い土地は敵防戦部隊に利し、米兵にとっては当に“銃弾の庭”となって、作戦が滞ってしまっている。この事態打開には、重火器を失いながら密林に潜み夜襲をかける日本軍と戦った経験を生かせると踏んだ軍上層部の考え方による。


ドイツ軍は後退しつつも、ボカージュの地形を生かし、実戦経験の乏しい米軍部隊の下級指揮官を狙い撃ちすることで部隊にパニックを誘発させる作戦を徹底する。戦死者数はアール着任前に千五百名以上、確実に実効を上げている。アールは先ず英国で状況分析にかかり、大きめの独立部隊の中に小さな狙撃専門部隊が編成され、キーパーソンは十数名と推定、対抗策を検討する。この間、実戦部隊でないOSSと軍作戦部門との齟齬、OSSの内部抗争、フランスレジスタンスの主導権争いなどが絡み、アールの副官格であるリーツ中尉追い落とし計画まで動き出し、次々と難題が立ちはだかる。

舞台はノルマンディーの戦場に移り、実戦部隊からの情報や現場検証で狙撃の実態が明らかになって行く。被害の多い時間帯(夜明けの明かりが射し始める頃)、狙撃優先度(将校→下士官→機関銃手→銃手→歩兵)、狙撃標的部位(後頭部)、使用銃器や弾丸、敵の事前偵察活動(地形や距離)、狙撃部隊の所属と性格(親衛隊SSだが、純然たるナチとは異なる行動)、解放された米軍捕虜がもらした指揮官の発した不可解な言語(独語ではない)。これらから狙撃部隊の戦術と指揮官像が見えてくる。

狙撃部隊と対決する特別編成の小隊が組まれ、アールは一等軍曹に戻り、分隊長として、夜間の大掛かりな強行偵察活動に参加、多くの敵狙撃兵を倒した後、いよいよ指揮官と対決、ついにこれを倒す。

上下2巻で700頁超の長編。先にも述べたように話題は多岐にわたり、それぞれに歴史に即した事実を踏まえながら、ストーリ展開をするので、先が読めないもどかしさをしばらく味わうことになる。しかしそれらは狙撃技術・狙撃者を賞味させる前菜、ただの殺人者でない敵狙撃指揮官との対峙を盛り上げていく。さすが巨匠の力作、次もアール主人公の第二次世界大戦物を期待したい。

 

2)関東軍

-“独断専行”の代名詞関東軍、その特質を軍人事と満州国軍との関係で読み解く-

 


私が就職した年(1962年)、会社には和歌山(有田)、清水、川崎の3か所に工場が在った。この内川崎工場は新規事業の石油化学が主体、清水工場は比較的小規模だったから、精製部門の中核は人員数・処理量最大で多様な設備を備えた和歌山工場だった。販売部門を持たない企業ゆえ、経営全体が和歌山工場中心に回っていたと言っていい。また、役員の多くもここの工場長職を経ており、「本社何するものぞ」の気概に満ち、自他ともに“和歌山関東軍”と称される、独特の工場文化があった。決して“独断専行”していたわけではないが、その覇気は新入社員にも伝わり、そこに籍を置くことに喜びと誇りを感じたものである。

さて、その関東軍。平積みされた書名を見て最初に思ったことは「まだ関東軍について書くことがあるのか?」である。私の書架だけでも関東軍を主題にした書物は汗牛充棟の観があるほど並んでいる。個人の戦記などを含めれば、数百冊の関東軍物が既刊されているはず。それでも8月、私のわずかな戦争体験と直結するテーマにどうしても抗しきれなかった。「何か新しい観点はあるか?」と。

著者は1977年生れ、北海道大学で文学博士号を取得。専門は日本近現代史、東北師範大学・吉林大学(いずれも長春在)で4年間教鞭を取り、現在は北大大学院文学研究員とある。研究記録(論文、著書)を調べてみると“満洲国軍”に関するものが多く、数多ある関東軍物でここに重きを置いているものはほとんどないことから、独特の視座が窺える。実際内容も前史も含め、満州に限らず関東軍と中国軍閥の関係、あるいは軍閥間の合従連衡を深耕している。例えば、軍閥上層部における人材と関東軍の関係、日本の陸軍士官学校留学組の処遇が日満・日支関係に及ぼす影響がその一例だ。ただ、満州における軍閥としては張作霖の奉天軍閥(東北軍)が突出した存在だったから、その点では大勢として既刊の書物と変わるものではない。つまり、関東軍は張作霖を取り込むことを画策するが、それが思うように進まず1928年爆殺、息子の張学良も親関東軍とはならないことから1931年満洲事変(柳条溝における鉄道爆破)を起こし関東軍が満洲を制圧、1933年満洲国が成立する。この過程で関東軍が中央(政府、参謀本部)の意向をかわし、“独断専行”するわけである。

満洲国軍は満州国の軍隊であるが、母体はかつての軍閥や馬賊、地方あるいは指導者に依って新しい国家への忠誠度は異なるし、軍隊としての質にもバラつきがある。これを如何に育成し、どのような軍隊にしていくか、実質的にこれを決めるのは関東軍、スタートは完全にその統制下にある。本土からの増強に制限がある関東軍、更には独立国としての国防力の必要性。ここから石原らのように国軍を一刻も早く中核にすべきとの論を張る者もいるが、現実は関東軍下部組織の扱いに留まっている。これが日支事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)で状況が変化、やがて不満が表出、ついに反関東軍・反日に転じていく。軍閥興亡史と併せて、ここは満洲国史を考える上で確かに重要だ。

関東軍は、もともと日露戦争の結果租借権を得た遼東半島(関東州;旅順・大連)統治とロシアが敷設した南満州鉄道(満鉄)の借款権を維持するために、植民地経営機関とも言える関東都督の下に設けられたものである。しかも都督府長官は現役将官(中将)が任じられたから、通常の軍組織と異なり、内務省や外務省管轄の機能を合わせ持ったので、政治行政と深く関わることになる。ここに関東軍が“独断専行”となる下地があるのだ。特に、本来の関東州治安維持部隊である2年輪番制の派遣駐箚師団(2個師団)と正規の陸軍組織ではない満鉄独立守備隊(1km当たり4名、将校のみ現役で下士官兵は予備役を採用)を統合軍に改編・増強する過程で政治的な力をつけていく。

組織と歴史を語る時最も興味深いのは個人を描くところにある。それは歴史小説でもノンフィクションでも同様だ。本書で面白かったのは、歴代関東軍司令官・参謀長(副長、作戦担当部長)および陸軍大臣・参謀総長(次長)の関係を分析するくだりである。それぞれの階級・列次(同じ位になった順番)・任期・陸士/陸大卒業期・所属派閥、さらに資質や人間関係を調べ、重要な意思決定(対支戦線拡大、対ソ戦略変化、内蒙古独立運動支援など)との因果関係を探り、ここにもう一つの悪評“下剋上”が生じた因を見つけ出そうとする。「もしこの人事が違っていたら、現在の日本の国際社会における位置付けも違っていたのではないか」と妄想したりした。その点からも“関東軍”は永遠に問い続けるテーマかも知れない。

 

3)逃亡

-ささいな規則違反、そこから始まる若き海軍整備兵のミステリアスな逃避行-

 


かつて映画界は8月になるとあの戦争(太平洋戦争)をよく取り上げていた。「日本のいちばん長い日」(1967年、岡本喜八監督)はその代表例だろう。それはTVドラマやドキュメンタリーに継承され、今月15日に放映されたNHKドラマ「アナウンサーたちの戦争」は実在したアナウンサー和田信賢を主人公とするものだった(和田は終戦の詔勅(玉音放送)を担当した)。これは出版界も同様で、絶版になっていたものが復刊されることも多い。その代表が本書の著者吉村昭、「戦艦武蔵」「大本営が震えた日」など数々の作品が、この時期思い出したように書店に現れる。本書もその一つ、単行本の発刊は1978年だが、文庫本化したものが珍しく平積みになっており、97式艦上攻撃機が炎上している表紙に惹きつけられ、即購入した。

吉村作品はいずれも綿密な調査に基づいて書かれるため、しばしばノンフィクションと混同される。しかし、これに著者は不本意のようで、他書の解説で作家の創作意図・表現力をしっかり読み取って欲しいとの意を漏らしている。

著名作家ゆえ、見知らぬ人から題材情報を提供されることがある。本書の導入部は第三者によってもたらされた取材対象人物との電話のやり取りから始まる。「ご迷惑ならお話をうかがえなくても結構です、再び電話はいたしません。でも、もしも話してよいというお気持ちがおありでしたら、拙宅に電話してください」と。ここは完全にノンフィクションだ。しかし、突然電話を受けた相手の最初の声は「人工的につくられた声帯から洩れる声のように抑揚を欠いていた」とあり「執行直前、関節がゆるみ、立つことができなくなった死刑囚の口から発せられた言葉のようでもあった」と続く。ここは著者の創意した表現で、“読み進めたい”という気を誘う。さらに、電話を終わった直後「罪深いことをしてしまった、と私は思った。私は未知の男を闇の奥底から引き出してしまったことを悔いた」と自身の心情を吐露する。こんな気持ちが電話越しではあるが相手に通じたのであろう、直接対面取材が叶い、回を重ねるごとに相手の方が饒舌になって行く。この変化は著者の感性に基づく対話力に誘発されてのことだろう。ノンフィクションと決めつけられることに納得しないのは、読み手にもよく理解できる。

物語は、若い脱走兵の戦争末期から戦後5年を超す逃避行である。霞ヶ浦海軍航空隊一等整備兵望月幸司郎は19歳の若者。外出が許された日曜日、兄の紹介で文通するようになった川崎在住の女性宅を訪れるが、長居をして上野発の最終列車を逃しがしてしまう。折よく駅で同じ方面に向かうトラックに便乗、何とか翌朝点呼に間に合う。この運転手に謝意を表するため、休日隊内を案内する。何度か会ううちに男は「チョッと落下傘を貸してくれないか」と持ちかけてくる。備品の欠品がばれることは恐ろしいが、あの時危機を救ってくれた借りに報いないわけにはいかない。男は遥か年上の40代、落下傘借用の目的は不明だが、望月はこれを実行する。このことがもとで、落下傘欠品事件を隠すため、さらに男の指示で97式艦攻に放火する羽目になる。やがて落下傘欠品容疑者(放火事件の容疑者は別人に嫌疑がかかる)として禁錮室に隔離、厳しい取り調べが行われ、それに耐えきれず脱走する。東京大森での馬喰、北海道での過酷なタコ部屋生活、ここからも脱走し別の飯場に潜伏、そして終戦。飯場から実家(福島の農家)に送ったはがきが進駐軍の検閲に引っかかり、それが契機で米軍関連犯罪の情報収集者として5年を過ごす。北海道へ渡る際、馬喰時代の同僚になりすまし伊藤と名を変え都内を転々、著者が面談した時は東京郊外の街で妻と二人果実商を営んでいる。

この逃亡談は、吉村自身一部実地検証・独自取材をして聴き取りを補完、他の吉村作品同様事実と創意が混然一体となり、読み物としての完成度を高めている。底通しているのは主人公を戦争の犠牲者として見つめる眼。決して反軍思想でないものの、当時の若者に共通する軍隊観・戦争観で描いたところに、著者の創作姿勢がうかがえる。因みに、著者は昭和2年(1927年)生まれ、昭和18年には17歳で望月一等整備兵と2歳しか違わない。

ところで本書はある意味未完である。最初に望月に関する情報を提供してきた者も落下傘を持ち出させたトラックの運転手もその後は不明なまま、これが反って作品を印象深いものにする。こんなミステリアスな終わり方はノンフィクションでは許されない。

 

4)読み書きの日本史

-話し言葉しかなかった日本語、漢字仮名交じり文を生み出し、それが近代化に寄与する。この間の教育・教材は如何様だったか、風説と現実の違いを明らかにする-

 


リテラシー(Literacy)という言葉、最近はITリテラシー、金融リテラシーなど、社会生活を営む上で知っておくべき知識の理解度を表す際広く使われるようになっていきてるが、本来は識字能力を意味する。その識字能力が何であるかを深く考えず「江戸時代の日本人は世界一高い識字率だった」などと根拠のない風説が巷間信じられてきた(この誤りは本書の中で正される)。自身の識字能力習得を振り返れば、当時の子供は先ずカタカナを覚え、次いでひらがな、漢字へと移っていった。初めて文字に依るコミュニケーションを行ったのは5歳ころ、覚えたばかりのカタカナを使って、母方の祖父に「のらくろ」の本(シリーズ漫画)を送ってほしいと、手紙を書いたことと記憶する(既に戦争が激しくなっており、入手できず別の絵本が送られてきた)。この例だけを見ても識字能力の定義は難しい。カタカナの読み書きできる程度では誰も識字率100%とは認めないだろう。

漢字が伝わる以前、我が国固有の文字は無かった。話し言葉は以前から存在したから、漢字は意味を伝える用法のほか、万葉仮名のように表音文字としても利用され、やがてそれが転じて仮名(カタカナ、ひらがな)が生み出される。漢字に一部を頼ったとはいえこれは文字利用の画期で、爾後現代に至るまで文字に依る意思疎通は漢字仮名交じり文で行うようになる。維新後の近代化が急速に進められたカギにこの仮名の存在が大きい。政治・軍事中心ではない日本史を学ぼうと本書を手にした。

話し言葉だけだった世界に、それを記録することと非対面情報交換の必要が生じ、文字が誕生する。やがて漢字から仮名が生まれたように借用文字が各地に派生してその数を増し、現在世界には7千を超す文字が在るという。文字そのものと同様に重要なのはそれを記す材料、我が国で残存する最古の文書は木簡である。木簡に記された漢字表記文から説き起こし、現代の電子メディア利用(特に音声入出)に至る読み書きの変遷をたどるのが本書の流れである。

木簡は7~8世紀が最盛期、特に、習書木簡と呼ばれるものは学習に使われたもので、律令制度の下、文字を書くことを必要とする者(貴族、村役人)が主な使用者である。ここに書かれた文字は宣命体(いわゆる万葉仮名)、漢字を使ってはいるが文章は日本語である。この宣命体を使えぬ者は「無才学」「文盲」などと呼ばれ、平安中期からこれら用語の出現が目立ってくる。これは律令制度の緩みと官職位が世襲制になり、必要性と学習意欲低下が起こったことによる。

文書は宣命体から漢字仮名交じり文に変わって行くが、きっかけは速記にある。漢字を簡略化したカタカナが生まれさらにひらがなに転じ、三種の文字を持つことに依って文字の利用分野が広がる。漢字文は正式記録の書式様式、カタカナは日常的な非公式叙述、ひらがなは和歌を始め美的な内容を叙述する際使われるようになる。

中世期から明治までの長期にわたり文字習得に重要な位置を占めるものに“往来物”がある。往来の意は情報のやり取り、手紙がその代表だが、時代を下るに従い範囲が拡大、各種文例集のようなものも取り込んでいく。結局これが明治まで800年あまり実用文書学習教材となる。

教育機関と言えば“寺子屋”が先ず浮かぶが、平安期は限られた人への個人教授や今でいうオン・ザ・ジョブ・トレーニングだった。この教授法は村の有力者や商人の間で長く続くことになる。江戸時代になれば幕府や藩による学校が開設されたものの、圧倒的多数は私塾だった(手習指南などと呼称。弟子たちが贈った顕彰碑が千葉県だけで3千も見つかっている)。寺が塾を兼ねるケースもあったが決してそこが中心であったわけではない。明治時代に学習塾の総称としてし“寺子屋”なる言葉が一般化したのだ(言葉は以前からあったが)。

明治期に学制が敷かれ義務教育が課せられるものの、働き手である子供を就学させることへの抵抗は強く、徴兵検査における自著(自分の名前を署名できる)率は76%に過ぎず(女性はさらに低い)、当時の実用文書、特に候文(そうろうぶん)を書ける者など僅少、“江戸時代世界一の識字率”は全くの神話だったのだ。

以上の他にも、書体(楷書、行書、草書)や漢文の日本語化(返り点、送り仮名、読順点)、言文一致の動き、読書法の変化(音読から黙読へ)など、日本語の読み書きに関する話題を網羅、教育学のみならず、考古学・言語学・社会学・文学・郷土史を駆使して、その全体像を描き出した本書は、文字教育大全入門といえる内容。願わくは索引が欲しかった。

著者は1960年生れ、東北大学大学院教育学研究科教授、専攻は教育学史。

 

5)「大失敗」の世界史

-人間の脳は短期危機回避優先で発達、長期見通しを欠いたそれが起こした数々の失敗を、英ユーモア作家が蘊蓄を傾け分析する-

 


英国人のユーモアには、冗談や駄洒落とは次元の異なる深みがある。裏に軽蔑、警告や皮肉あるいは真意、時には反意が隠されているから要注意だ。本書の原題は「A Brief History of How We Fcked It All Up(*をuに置き換えると)、“愚かしい出来事小史”」となる。著者は年齢不詳、ケンブリッジ大学で考古学・人類学・歴史学・科学哲学を学んだジャーナリストかつユーモア作家、若い頃はコメディアンだったこともあるようだ。“嘘とナンセンス”、“陰謀と失敗”をタイトルとする既刊書があることから、ユーモア作家が本業と推察する。しかし、本書の内容は諸学を生かした、真面目な失敗談ばかりである。

話は、脳の進化論(著者の理論)から始まる。ホモサピエンスに至る進化は、猿→類人猿→人。この動物だった段階から、脳に求められた最重要機能は危険回避能力、これは先々の見通しよりは瞬時の判断が先に立つ。そして判断の基準は、事前リスク評価などせず、経験則(過去)に基づく直観に依存する。このことから人間の脳は将来を予測・展望することに向いていないとして、以下広範な「大失敗」事例を紹介していく。広範なというのは、政治、経済(国家財政)、外交、戦争は無論、植民地経営、農業政策、動植物の扱い、環境破壊・公害、新技術などを網羅しているからだ。以下内容事例;

農業政策や動物移入;毛沢東が1958年から実施した四害駆除運動、中でも穀物生産に害をおよぼすスズメ駆除、これによって1億羽を殺した結果、今度はイナゴが大発生、スズメ以上に害が大きく大飢饉を招くことになった。1890年代シェークスピアに心酔している米文化人が作品に出てくる鳥を米国でも繁殖させようとムクドリを英国から持ち込む。これがやがて大繁殖、広大な規模で小麦畑・ジャガイモ畑を襲い、さらにサルモネラ菌拡散で人畜に真菌感染症を広めることになる。被害は航空事故にもおよび、1960年大量のムクドリをエンジン吸い込み墜落、ボストン空港で62人が死亡している。豪州に持ち込まれた南米の大ヒキガエル(害虫駆除)や英国のウサギ(英国流に狩りを楽しむため)、1985年古タイヤにまぎれて米国に渡った日本ヒトスジシマカ、本来そこに生息していなかったものが人によって持ち込まれて大被害をおよぼしている。

政治;民主主義は理想的な政治システムであるが、権威主義的な政権に引き継がれるとすさまじく裏目に出ることを説く。よく知られたものはドイツのナチス政権だが、19世紀前半のメキシコでも悪しき事例がある。リベラルな政権から横暴な権威主義者サンタアナに移ると、当時メキシコ領であったテキサスに流れ込んでいた米国移民を追い出すために対米戦争を仕掛け、広大な領土を失っている。

戦争;著者はこの章を「人類は戦争が好きでたまらない。いろいろな意味で、戦争は私たちの「好み」のものである」と皮肉を込めたユーモア調で切り出す。酒の勢いで始まった「カディスの戦い」(1625年;英蘭連合対スペイン)、人種差別がもたらした南北戦争における「ピーターズバーグの戦い」、北軍は砦攻略に訓練をつんだ黒人兵を直前に訓練されていない白人兵に代えて大損害を出す。白人に先陣の名誉を与えるためだった。大失敗の極めつけはナポレオンに学ばなかったヒトラーのモスクワ攻略(ナポレオンはモスクワを陥したが)、“余談”として世論の戦争反対(孤立主義)を一気に逆転させた、詰めの甘い杜撰な真珠湾攻撃にも触れている。

植民地関連;コロンブスの“新大陸発見”の裏に測定単位の混同がある。もしコロンブスが数理に精通していればあの航海に乗り出さなかったのではないか、と著者は見る。それはファルガーニ(9世紀中東の天文学者)のマイル(2km前後)を古代ローマのそれ(1.48km)と勘違いした点である。結果として世界の大きさは実物の34となる。

科学技術では身近に体験した話題もあった。ガソリンのオクタン価向上が取り上げられている。高圧縮比エンジンは出力が高い。それには高圧縮に耐えられる燃料が必要になる。いわゆるハイオクだ。このため1980年代まで添加剤として、鉛の毒性が早くから分かっていたにもかかわらず、四エチル鉛が利用されてきた。その結果大量の再起不能あるいは死に至る鉛中毒患者を生み出すことになった。私は入社3年目、このガソリン製造装置の計装設計を担当、配管接続部・計器取付け部から漏れ出しはしないかと、ハラハラしながら試運転に立ち会った。いまこれは無鉛高オクタン価の航空機ピストンエンジン用燃料に代わっている。四エチル鉛を生み出した米国人化学者トマス・ミジリー(デュポン社)は冷媒としてフロンを利用することも手掛け、本書の中で「二度地球を汚染した発明家」と悪人に仕立てられている。

歴史は勝者・成功者によって作られると言ったのはチャーチルとの伝説がある(実は異なるようだが)。しかし、敗者・失敗の歴史にも学ぶことが多々あることを教えてくれた。暗い話をユーモラスに語り、AI利用や自動運転の将来に一抹の不安を感じながらも、最後まで楽しく読み終えることができた。

 

6)クラシックカー屋一代記

-超高級車ロールスロイス・ベントレー中古車輸入販売のビジネスモデルを作り上げた男が語るその苦心・成功譚-

 


1980年代初頭からIBM汎用機を利用したプラント制御システムプロジェクトに関わった。オリジナルのソフトウェアは宇宙開発に利用されたもの。この複雑な基幹システムを担当していたのはイタリア人天才プログラーマのM。彼を知ったのは米国だったが、その後日本でもしばしば会うことになり、その付き合いはお互い引退した後も続いている。親しい仲になったのはともにクルマ好きという点にある。米国でディナーに招いてくれた際には宿泊するモーテルにフェラーリで乗り付けスタッフを驚かせたりした。2008年秋イタリアへ家人と個人旅行をした時も自宅最寄り駅ブレシアにこれもフェラーリで迎えに来てくれた。彼の家に着いて驚いた。扇型の車庫にフェラーリ、ランチァ、アバルトが何台も並んでいる。夫人用のクルマは最新型のメルセデス・スポーツカーだったがあとは全てクラッシックカーである。その時もらった赤いポロシャツの左胸には“CLUB AUTO STORICHE QUINZANO”の黄文字刺繍がある。“クウィンツァーノ地方のクラシックカー・クラブ”の意、彼はこのクラブの役員でもあるのだ。


1927年~1957年(戦時を除く)の間イタリアで行われた有名なラリーレースに“ミッレミリア(1000マイル)”がある。北イタリアのブレシアからローマに南下、ここからブレシアに戻る、公道を使った長距離レースである。戦後事故がたびたび起こったことから、1957年で中止になったが、1977年クラシックカーレースとして復活した。参加資格は1927年~1957年走行した車種に限られる。Mはそのために何台もの古い車をレストアし、夫人をナヴィゲータとしてこのレースに参加しているのだ。日本人の常連参加者も居り、堺正章もその一人、TVで紹介されたことがある。

これを模したラ・フェスタ・ミッレミリアなるレースが1997年から日本で開催され、オーガナイザーの一人であり、第1回から連続12年これに参加しているのが本書の主人公涌井清春である。本書は自動車ジャーナリストの金子の問いかけに涌井が答える形で完成させたものだ。

涌井は1946年生れ、大学卒業後セイコーの営業企画部門に勤務、ここでブランドの価値に目覚め、1980年代末に独立、ロールスロイス(RR)とベントレーに特化したクラシックカーの輸入販売を始める。業容は販売にとどまらず、修理・レストアから蒐集保存まで手掛けるようになり、日本だけでなく世界に知られるクラッシックカー業者となっていく。本書は涌井の生い立ちから、セイコーでの体験、ビジネスへ至る経緯と成功のカギ、個人としてのクラシックカーへの思い、顧客との関係、世界の業界事情まで、クラシックカービジネスのすべてを見せてくれる、チョッと得難い内容の本である。

最大の動機はブランド、スイス・バーゼルの時計見本市で、ビジネス規模では桁違いに大きいセイコーが、パティック・フィリップやロレックスに人気度(ブースの場所、集客力)では全くかなわないことに衝撃をうける。セイコーの知名度を上げるには如何にすべきか?ここからRRを多角的に調べ出し、その魅力に憑りつかれてしまう。一方で我が国におけるRRビジネスは、新車はともかく、中古車販売はかなりヤクザな仕事(売りっぱなし)であることが分かってくる。実家は祖父の代からの時計商、父の代に全国規模の卸売りを展開し成功している(高校生のときオートバイを入手、その後外国製も含め何台も保有できるほど豊かな家庭)。そのノウハウを活用すれば超高級車である中古RR・ベントレーの輸入販売に新たな道が開けるのではないかと独立する。

成功要因は、仕入れ・アフターサービス(修理の枠を超え、カスタマイズまで)・顧客管理・販売を一体化すること考え、これに徹したことにある。新車総代理店との連携、信用のおける仕入れ先確保(海外業者との人脈づくり)、確かな情報入手(所有者、所有歴、売出し情報、技術情報)と情報発信(海外を含む)、顧客との関係も単なる売り手と買い手ではなく同好の士、分からないことは一緒になって調べる。店というよりサロンである。クラシックカーと言っても完全な復元車ではない。客の好みに応じて許される範囲のカスタマイズを行う(例えば、色や内装)。このためには工場も必要だし特殊な職人とのコネクションも重要だ。蒐集家として特別に関心のあるクルマ(白洲次郎が在英時代所有していた1924年型ベントレー、吉田茂も所有したことがある1937年型RRスポーツサルーン(といっても自分で運転するわけではない)など)は売りに出さず保存・展示のみ。ここに潜在顧客が訪れるし、その持ち物が海外にも知られる。まるで小美術館を持つようなものだ。展示販売とサロンを兼ねた店、レストア・カストマイズ工場、クラシックカー・ミュージアム(14台、すべて稼働可)。この三つの拠点が一体となってビジネスが行われている。涌井は既に経営の一線は退いたものの、ミュージアムの館長だけは手放していない。

本書から読み取れるビジネスモデルは古美術品のそれに近い。所有者歴や補修・改造歴の重要性など全く同じだ。ただ古美術と異なり流通商品規模は小さく、世界を相手にモノを動かすことができなければ続けられない。ユニークな企業設立・維持にビジネスパーソンが学ぶことは多々あるように思う。EV化・自動運転の進展、涌井は将来のクルマビジネスを乗物(単なる交通手段、消耗品)と自動車愛好者の嗜好品(美術・骨董的)に二分すると見ている。果たしてどうなるか?

ミュージアムの所在地は埼玉県加須市、訪ねてみたいと思ったが、公共交通機関では不便な場所、残念ながらその願いは叶わないだろう。

 

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2023年7月31日月曜日

今月の本棚-180(2023年7月分)

 

<今月読んだ本>

1)米を洗う(辻中俊樹);幻冬舎

2)ロシアの眼から見た日本(亀山陽司);NHK出版(新書)

3)イングリッシュマン(デイヴィッド・ギルマン);早川書房(文庫)

4)ウクライナ戦争の軍事分析(秦郁彦);新潮社(新書)

5)日本エッセイ小史(酒井順子);講談社

6)「中国」という捏造(ビル・ヘイトン);草思社

 

<愚評昧説>

1)米を洗う

-“お子様せんべい”で差別化、台湾企業を世界規模に育て上げた、新潟米菓会社の歩み-

 


石油企業で働いてきた者にとって新潟県は特別な意味を持つ。現在のトップ2社、ENEOS、出光ともに起源に関わる会社がそこに存在した。ENEOSでは小倉石油、出光では早山石油がそれらだ。小倉石油は日本石油へ発展、ENEOSの母体となった。早山石油は昭和石油を経てSHELLと提携、昭和シェルと出光が合併、新しい出光が生まれている。いずれも国産原油を扱うことからスタートしたのだ。また、我が国原油・天然ガス開発の最大手INPEX(旧帝国石油)も国内事業所は新潟県に集中している。つまり、新潟県は石油業発祥の地なわけである。しかし、これは石油人の思い、その他の人は米どころ(コシヒカリ)・酒どころ(越乃寒梅、八海山)が第一印象ではなかろうか。そして、この米を基にした米菓(せんべい、おかき、あられ)では、全国生産額(令和元年)3,843億円の内新潟県だけで2,173億円、断トツの存在なのだ(2位埼玉;200億円)。現代ではこれが代表地場産業と言っていい。本書は、この米菓企業のひとつ、岩塚製菓の地域振興と国際展開に関する物語である。私の読書対象域外であるこの種(農業、食品)の本を読むきっかけはジム仲間が回覧してくれたことによる。

極めて稀有なことだが、著者歴がいっさい記載されていない。調べてみると、生年は1953年(昭和28年)、大学卒業後日本能率協会に就職、その後独立して経営コンサルタント業を営んでいる人のようである(「マーケティングの嘘」(2015年刊、新潮新書)著者)。執筆動機も不明。始めは企業広報活動の自費出版かと疑ったが、読み進めるとそれほど宣伝臭はなく、零細地場産業の堅実な歩みを記した内容であることがわかってきた。

岩塚は長岡市南西信越本線沿線の小集落、信濃川の支流渋海川の河川敷と河岸段丘で形成された土地に水田は限られ、コメの生産は自家消費ギリギリの状態。戦前は養蚕を兼業するところが多かったが、戦中食糧増産でさつまいも生産に転換、現金収入は専ら冬の出稼ぎに頼ってきたような土地である。戦後何とか地場で働ける場所をと数人の有志が、さつまいもを原料とする水飴・芋飴・デンプン工場を立ち上げる。岩塚製菓の母体となる岩塚農産加工工場がそれだ。しかし、経済復興が進む中で甘味料不足も次第に解消、事業転換を余儀なくされる。そこで目を付けたのがこの地の地場産業である米菓。当初はせんべい・おかきなど他社と同様の商品を生産するが、後発ゆえに販路・販売量は限定される。悪戦苦闘の中から1966年生み出されたのが乳幼児・子供向けのやわらかいせんべい“お子様せんべい”である。うるち米を微細粒化するところにやわらかさのカギがあり、完全な差別化に成功、その後この技術を利用した種々の商品が開発・発売され、市場は全国に広がっていく。東南アジアを中心に海外にも輸出、台湾の宜蘭(ぎらん)食品がこの商品に注目するようになる。本書第一章は19812月雪の岩塚を3人の若い台湾人が提携の可否を探りに訪ねてくるところから始まる、

既にアジア四昇竜(台湾、韓国、香港、シンガポール)が日本を急追していた時代、当然それへの警戒感から容易に提携話に乗ることはなかったが、度重なる懇請に創業者の一人で当時社長だった槇計作が「これも縁」と1年後OKを出す。条件は;良い原料無くして良い製品無し(日本の原料米と同じ米を用意する)、原料が良くても加工製造技術が悪ければダメ(日本と同じ製造機械と製法を忠実に再現する)。

すべての条件をのんで宜蘭食品が送り出した“お子様せんべい”は“旺旺仙見(ワンワンせんべい)”として大ヒット、まがい物が多数出てくるが品質勝負で圧勝(シェアー80%超)、次いで中国本土進出、幾多の苦難(契約違反、模造品など)を乗り越え、21世紀を直前に80近い工場を展開、その米菓生産量は1社で日本全国規模を超えるほどになる。この間旺旺集団と改名した会社はシンガポール株式市場に上場、自他ともに認める大会社に成長、タイやヴェトナムにも事業を広げていく。もう、原料も生産設備も日本製ではないし、経営者も代替わりしているが、その絆(縁)は継続、槇計作の胸像がどこにも飾られるほどだ。

現在の岩塚製菓グループは、従業員約1千名、売上高220億円(2021年度)、先行大手亀田製菓、三幸製菓に次ぐ第3位ながら、営業外利益は20億円を超す超優良企業なのだ。このからくりは旺旺集団からの配当金である。

地場特産品(米)を生かし、米の洗い方に発する差別化技術を確立、信頼できる提携先と出合い、成果が地元に還元される。カーボンニュートラルに揺れる石油ではこうはいかない。少々大げさかも知れないが、これからの国際社会における日本の生き方に何か示唆するものがあるような感をもって読み終えた。

 

2)ロシアの眼から見た日本

-ロシアの世界認識;国際秩序は法的秩序ではなく、権力的秩序である-

 


初めて白人を見たのは1945年(昭和20年)秋、新京(現長春)は戦場にはならなかったが満洲の首都だったからソ連軍が進駐して来たのだ。この冬、市内に散在していた社宅の一つを訪れる父に同行、帰りは夜になった。突然闇の中からソ連兵が数人現れ、父につかみかかり何事かわめいた。強盗である。幸い憲兵が付近を巡邏しており、難を逃れることができた。坊主頭の女学生、外出時に顔に炭を塗るおばさんたち、皆ロスケの蛮行を恐れてのことである。爾来、社会主義・共産主義に惹かれる時期があったものの、ソ連・ロシア嫌いは一貫していた。それが変わるのは2003年第2の職場で海外営業本部に勤務、しばらくロシアを中心に活動してからである。社員食堂の賄のおばさんから現地社員、顧客の技術者・役員まで、多様な人々と接する機会を通じ、ロシア人観は好転していった。日本人から見ると明るさを欠き重苦しい雰囲気は拭えぬものの、皆気持ちよく対応してくれたからだ。プーチンは2期目に入り日露の関係も安定、日本の経済力や科学技術力に一目置くという姿勢だった。それは多分今も大きく変わらないだろう。では国際政治・外交・軍事の場ではどうだろう。それを知る機会にと本書を手にした。

著者は1980年生れ、東大大学院文化研究科修了後2006年外務省入省、2020年退職している。任地がロシア(モスクワ大使館、ユジノサハリンスク領事館)に限られていることから総合職的な外交官ではなく、ロシア専門官と推察する。大学院での研究とこの専門を反映しているのであろう、本書の内容は国際関係論・外交論それに日露外交史を中心にした内容で、個々の外交事案解説よりは総合的・理論的な色彩が濃いものになっている。その考察はリアリストの視座で描かれ、日本人として必ずしも心地よいものではない(私はこの冷徹な見方を評価するが)。

戦後ソ連・ロシアが日本を見る眼は“米国の一衛星国(非主権国家、潜在的敵国)”であり、対等な国とは認めていない。かつて我々がソ連支配下にあった東欧諸国を見る眼を思い起こせば、彼等の日本観が想像できるだろう。経済・技術・文化はともかく、安全保障・外交ではこれが基本スタンスなのである。

紛争の地(潜在的なところを含む)はシアター(舞台)、東アジアは19世紀後半から近現代まで中国・朝鮮半島・満洲の地がその舞台だ。アクター(俳優)は、当初は英・露・中、これに日本と米国が加わり、外交劇を演じてきたが、常に主役の座を占めてきたのはロシア(ソ連)、この時代は日本も俳優の一人として認められてきたが、現在米・中・露ともそんな認識はない。

幕末・維新の樺太・千島をめぐる日露関係、日清戦争と三国干渉、日露戦争、シベリア出兵(日本人が思っている以上にロシアではこのことを侵略と見ている)、三国同盟と日ソ中立条約、ノモンハン事件、独ソ戦、そしてソ連の満州・北方領土侵攻。日露外交史の裏面(特に朝鮮半島や満洲の扱いにおける密約)などを通じ、日露(ソ)関係の変遷を、政治思想の古典や地政学も援用しながら、徹底的なリアリスト国家ロシアを浮き彫りにする。

今回のウクライナ戦争でロシアを無法国家と難じる声は大きいが、外交戦の中でこの非難は必ずしも当たっていない。各種の国際法が如何に無力であったかは歴史的事実だし、実態は大国の意思が道理を押しのけて通る例は枚挙にいとまが無い。つまり(上に自国を縛る何者も存在しない)主権国家は無法国家でもあるのだ。

ただ、如何に大国であっても国際世論を無視してふるまうことは出来ない。ここに日本の生きる道がある。同盟関係がそれだ。米国に盲従しない同盟関係、バランサーとしての日本、国の安全保障策・外交政策をこのような位置に置くことに依り、衛星国扱いから脱することが可能になる、と著者は説く。ただ、これが容易なことでないことを著者は十分認識しており、「日本に出来ることは、アメリカのプレゼンス(覇権ではない)を極東で維持すること」と結ぶ。

感情的な世論を抑えた対露外交の必要性がよく理解できる。指導者間の絆を深めれば北方領土返還が叶うはなどという発想は幻想なのだ。

 

3)イングリッシュマン

-元英諜報部員・隠遁したフランス外人部隊空挺伍長が、ロシア人暗殺者を厳寒のシベリアに追う-

 


スパイ物の総本山は何と言っても英国。米国の作品は初期のトム・クランシーを除けば激しい銃撃戦が売り物、それはそれで面白いが、読後に残るものが無い。ドイツやロシアは作品が無いわけではないだろうが、翻訳物は全く見かけない。というわけで、本邦初デヴューの英作家作品である本書を読んでみることにした。英国スパイ小説は大別すると二つのタイプに分けられる。一つはイアン・フレミングの“007シリーズ”が代表と言える娯楽型、もうひとつはジョン・ル・カレの作品に見るような、人間の内面や組織の裏面に含みを持たせる文学型である。本書はこの区分からすると前者(娯楽型)に属する。しかし、地理的広がりや英露対決に、冷戦下を彷彿とさせるシーンがあり、久し振りに本格的スパイ小説の味わいを楽しんだ。

かつてはMI-6(英秘密諜報部)の諜報員だったが今は銀行トップを務める男カーターが、日曜日息子のラグビー試合に出かける途上何者かに拉致される。犯行グループも目的も不明だが、単なる身代金目的の誘拐事件ではなさそうだ。本来は警察所轄の事件だが、過去のMI-6時代に関係ありとにらんだ高官マグワイアが、捜査に加わり、独自に事件究明を開始する。組織として公式に動けないことから呼び出されるのが、これも昔彼の下におり、その後仏外人部隊に所属、今はフランスの片田舎に隠棲している“イングリッシュマン(ラグラン)”である。MI-6時代はソ連やその衛星国家にも勤務、仏外人部隊では空挺連隊伍長として、アフリカ旧仏領植民地の反政府活動鎮圧などに当たったベテラン兵士。MI-6を去った後もカーター一家とは親しく付き合い、秘密を共有している。

マグワイアがラグランに命じるのはカーターの行方と救出。ロンドン郊外場末の工場地帯を転々とする犯行グループだが巧みに追及をかわし、この間カーターを責めて求める情報の在り処を探ろうとする。見えてくるのは英国に拠点を置くロシアマフィアのマネーロンダリング情報だ。これが表へ出ると当該のマフィアだけでなくロシアの国家威信さえ傷がつく。裏にはKGBの後身、FSB(連邦保安庁)が絡んでいるのだ。そして、事態をさらに複雑にするのはロシア内のFSBと刑事警察の権力争いである。モスクワ刑事警察も犯行グループを追っているのだ。凄惨な拷問に情報を小出しにして耐えてきたカーターもついに命運が尽きる。第一部はここまで。

2部はイングリッシュマンによる犯行首謀者JDに対する復讐劇である。実は首謀者と特定された人物もソ連崩壊後ロシアの傭兵会社兵士としてアフリカで戦い、直接対決は無かったものの、お互いその存在を知るほどの凄腕なのだ。FSBは英国からさらには刑事警察からDJを守るため、影響力を行使しシベリア流刑地に匿う。ロシアの犯罪者に姿を変えたイングリッシュマンも同地の刑務所に潜入、特別扱いのJDの所在を確認、最後の戦いとなる。

著者の生年は不明、1986年作家デヴューとある。消防士・カメラマン・空挺員など様々な職業経験と積んでいる。本書は2020年ファイナンシャル・タイムズの年間ベスト・スリラー小説に選出された代表作、確かに“スリラー小説”のジャンルに区分されることに納得感のある内容だった。

 

4)ウクライナ戦争の軍事分析

-著名戦史家老いたり!ニュース解説に終始、停戦を望むが具体案無し-

 


ウクライナ戦争もほぼ1年半が経過した。TVや新聞のニュースでは始終この戦争について報じている。しかし、その割に戦況情報が西側外信か両政府の広報に依存、今一つ実態が分からない。国際問題研究者や防衛省関係者のコメントも、一部兵器や組織の解説などを除くと、自ら一次情報を集め分析するようなものは少なく、一般報道内容をベースに希望的推論を語っているような気がしてならない。開戦から時間も経た今、現時点までの戦争経緯を冷徹に分析したものが出て欲しいと念じていたところ現れたのが本書である。何冊か既刊書を読んでいる高名な戦史家による著作、独自の分析を期待したが、独ソ戦まで遡る歴史的な解説と今後の展開予想を除けば、特に目新しい視点はなかった。1932年生れ、既に90歳を超す高齢者、直接情報を探るには限界があり、比較的入手しやすい公開資料を基に、この1年半を振り返り、概説するにとどまっている。

記述の流れは、侵攻初期の戦線(キーウ攻略など)とその前史(ロシア・ウクライナ関係史)、東部戦線・南部戦線攻防、ここから視点を変えて航空戦・海上戦・情報戦と兵器・技術、米国やNATOによるウクライナ支援策(主として兵器)、再び戦場に戻り本年年初から4月までの戦線の変化、今後の見通し、となる。ほぼ時間軸に従っているのでこの戦争を総括するには理解しやすい構成になっている。

2021年秋から侵攻が予想されながら、主に米国の偵察衛星情報が公開され、予定のスケジュールが遅れたこと、これにより雪解けの泥将軍(ラスプリッツア)到来で機甲力が制約されたこと、2014年のクリミヤ半島無血制圧で緒戦の行方を楽観していたこと、テロ対策や地域紛争を想定し、旧来からの軍編成を“大隊戦術軍(Battalion Tactical GroupBTG)にしたことによる戦術展開の齟齬、これに伴う上級指揮官の戦死・戦傷多発と作戦の遅滞、作戦ミスと損害を補うための戦線整理と東部戦線・南部戦線への傾斜。しかし、東部戦線は2014年来一進一退の膠着状態が解消しないまま、戦力逐次投入で戦略目標(例えばハリコフ)攻略が随所で滞ったこと。これらが今春までの解説となっている。この経緯は、両軍の最新戦力比較やロシア軍の戦闘序列(どこの部隊が、どこを分担するか)などニュース解説よりは詳しい情報・データはあるものの、それほど画期的なものではなく、BTGは開戦前に出版された小泉悠「現代ロシアの軍事戦略」にも問題点として明記されていたし、ラスプリッツアは冬将軍と伴に独ソ戦の帰趨を決したものとして、つとに知られるところである。

兵器の解説ではサイバー戦やドローン利用、あるいは緒戦の制空権確保失敗とウクライナ軍の防空体制、地対地ミサイルジャベリン、米国が供与した高機動ロケット砲システムハマースなどに触れるものの、数値データ以外はニュース等で報じられている程度の内容で、分析に深みを感ずるところは無かった。

戦線は、ウクライナの反攻宣言があったものの、この春以降膠着状態。ここで著者はこの戦いの今後について複数のシナリオを用意し、短い論評を行う。Ⅰ)東部・南部での攻防が続き消耗戦は3年目に入る、Ⅱ)ウ軍が欧米供与の戦車を中心に反転攻勢、露軍を分断、東部2州を制圧、Ⅲ)ウ軍の反攻は南部ヘルソン州奪還を目指し、それが成ってクリミヤに進軍、Ⅳ)露軍は中南部占領地区の防御を強化、ウ軍を撃退後再度キーウ、ハリコフの占領を目指す。著者の見解は、ウ露両国とも全戦力の投入は避け、「停戦や和平協議に持ち込んで決着させるしかない」にある。つまり、どのシナリオでも完全な終戦はないと読む。従って、これら戦況シナリオに続く停戦シナリオを用意する。A)撤退なき無条件の停戦、B)暫定条件付き休戦(東部2州現状維持、南部2州とクリミヤ半島は国民投票)、C)ウクライナのNATOEU加盟をロシアが黙認する。ロシアも加わるウクライナ安全保障。ロシアへの経済制裁解除、D)その他;ロシアに対する損害賠償は要求せず、ウクライナの戦後復興は世界諸国(ロシアを含む)が分担。この停戦に至るシナリオが言わば本書のオリジナル、この中から著者はD案を期待するが、踏み込んだ具体的解決策が示されるわけではない。個人的にはⅠ)3年目以降も継続し、プーチンに何事か異変が生じない限り戦が続くと読むが、いかがなものであろうか?

 

5)日本エッセイ小史

-「枕草紙」から「窓際のトットちゃん」まで、軽いだけにかえって世相を反映するエッセイの魅力を紹介-

 


国語と言う教科は小学校時代から好きになれない。漢字の読み書きのようなものを除き、“正解”が明確でないことがその因にあるように思う。文章(詩歌を含む)を読んだ感想など、その最たるものだろう。「この表現は素晴らしい」などと講じられても、その“素晴らしさ”が理解できないのだ。こんなことが少し変わってきたのは、高校の古文で枕草子や徒然草に触れた時である。枕草子冒頭「春はあけぼの、やうやく白くなりゆく、山ぎは少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」。これは情景が眼前に浮かんでくる。徒然草は「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と始まり、「なるほど、この調子で思うことを書けば良いんだ」となる。だからと言って高校時代に国語力が向上することはなかったが、随筆に惹かれるようになったのは確かだ。特定の作家・作品を読むようになったのはアサヒグラフ(週刊グラビア誌)に連載されていた作曲家團伊玖磨の「パイプのけむり」(196465日開始)を嚆矢とし、内田百閒の「阿房列車」シリーズ、山口瞳の「サラリーマン」シリーズ、常盤新平の一連の「アメリカ文学物」、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ、宮脇俊三の「鉄道物」、航空学者佐貫亦男の「ヒコーキ物」「道具」シリーズ、沢木耕太郎の「深夜特急」シリーズ、「グルメ」を語る玉村豊雄・池波正太郎の作品、朝から酔いが回りそうな吉田健一の「酒」談義など枚挙にいとまがない。最近のものでは塩野七生の社会時評「日本人へ」シリーズも面白い。「日本エッセイ小史」と題する書名を見て、好ましい作家・作品がどのように扱われているか、こんな興味から本書を紐解いた。著者の鉄道エッセイ「鉄道無常-内田百閒と宮脇俊三を読む-」を既に読んでいたことも大きい。

本書を読むまで随筆=エッセイと思っていた。しかし、本書の肝はその違いを語るところにある。「枕草子」「徒然草」「方丈記」を日本三大随筆とした上で、物理学者寺田寅彦の作品も決してエッセイではなく随筆であり、エッセイストではなく随筆家とする。自身エッセイストと位置付け、「随筆家」を名乗ろうという頭はハナからなかったと書き出す。ではその違いはどこにあるのか。文芸といわれる世界には小説や詩を始め、評論・ノンフィクション・紀行文などさまざまなジャンルが存在するが、エッセイほど輪郭のはっきりしない分野はないと、その定義の難しさを語り、「語弊を恐れずにいうならば、文芸世界における雑草のような存在」と結ぶ。誰もが、何でも思ったことを、形式に縛られず書き連ねる、書き手には何か本業があり、エッセイはあくまでも副業、これが著者のエッセイ観なのだ。随筆に比べ、軽く曖昧な内容だからこそかえって世相を反映しているという認識が“小史”を著す動機となっている。

1953年スターとした日本エッセイストクラブ賞、1967年から始まった読売文学賞の随筆・紀行賞、1985年誕生で、著者も受賞し、審査員も務めた講談社エッセイ賞(2018年終了)の受賞者や作品、審査時の講評、書評などを中心に、切り口を変えて数々のエッセイを講ずる。切り口は、文体・言葉遣い、女性・高齢者、海外・旅・食、メディア・出版、娯楽・スポーツなど広範。「何故それを書いたか」を探ることで、時代が見えてくるという仕掛けだ。

著者によれば“エッセイ”の嚆矢は1965年文藝春秋社刊伊丹一三(のち十三)著「ヨーロッパ退屈日記」にあるとする。この復刻版(2005年新潮文庫)の帯に「この人が『随筆』を『エッセイ』に変えた」とあることから、そのような結論に至ったらしい。実は、この「退屈日記」は1965年発刊直後に購入、印象的な内容だったのでごく最近蔵書を整理するまで保存、繰り返し読んできた愛読書であった。まだ海外へ出る機会の難しい時期、ハリウッド映画「北京の55日」(義和団事件;チャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナー主演)の日本人将校役を得た伊丹が、撮影のため渡欧した際の体験記を、自身のイラスト付きで婦人公論誌に連載したものである。いささかスノッブな筆致が気になる作品だったが、本物志向を学ぶと言う点で、実りのある一冊だった。たいしたことではないが、スパゲッティの茹で方アルデンテ(歯ごたえのある)を知ったのはこの本からだった。

随筆よりエッセイに重点を置いているため、内田百閒、團伊玖磨、宮脇俊三、司馬遼太郎などへの言及は軽く、その点では不満が残るものの、逆に興味を持ったことも無いような作家・作品を知ることができたのは収穫だった。例えば、二人の文豪、森鴎外の娘森茉莉と幸田露伴の娘幸田文の比較では、父親の育て方の違いが如何に作品に反映されているかを分析する。また、普通のイタリア人と結婚した、須賀敦子、ヤマザキマリ、塩野七生の作風解説も面白い。いずれも出羽守(欧米“では”)調でないことに着目、女性ならではの感性・観察眼を評価している。

著者は1966年生れ。高校生の時雑誌に投稿した女高生の観察記事(エッセイ)で認められ、爾後エッセイスト・作家として活動、2003年「負け犬の遠吠え」で婦人公論文芸賞、講談社エッセイスト賞を受賞している。女性鉄チャンとしても有名で、先に紹介の「鉄道無常」のほか何冊か鉄道物も著している。

 

6)「中国」という捏造

5千年?中世の欧州が生み出した中華帝国幻想、この妄想が蘇ったのはわずか一世紀前に過ぎないのだ。あらゆる“中国”が捏造であることを各論展開-

 


古代文明発祥の地が、ナイル川、インダス川、チグリス川・ユーフラテス川、黄河流域であることは、小学校の高学年に習った。現在それらの地には、エジプト、イラン・イラク・トルコ、インド・パキスタン、中国などが存在する。時代が少し下ると、ギリシャの都市国家やローマ帝国が西欧文明の萌芽となる。その地に今在るのはギリシャ、イタリアだ。しかし、中国を除けばその歴史を誇りこそすれ、国威発揚・国家戦略に結び付けるようなことをしていない。また、英国人のギリシャ文明に対する憧れや西欧諸国がローマの歴史に込める思いは並々ではないが、だからと言って、そこに国の上下関係を引きるような発想は双方ともにない。中国のみが声高に5千年の歴史を誇示し、その最大版図再現を当然のように主張する。確かに、最古の王朝殷成立は前16世紀と言われているからそこまでたどれば、あながち誇張ではないかも知れないが、現代に至る間、元や清などの異民族支配、諸国分裂もあり、国家・民族として一貫した継続性があるわけではない。それは、エジプトもイラクもトルコもインドも同じである。何故中国のみこれにこだわるのか?いつからこんなことを喧伝するようになったのか?そもそも中国とは何か?本書はこれを探る、歴史学的な研究書に近い内容の調査・分析報告である。

中国本土・台湾ともに国名に“中華”がある。だからこそ“中国”となるのだが、この中華が現れるのは孫文らが清朝に反旗を翻してからである。日本など外国に在って反清朝を唱えだすのは20世紀初頭、辛亥革命が成るのは1912年のことである。つまり、世界の中心に中国が在ると言う発想はごく最近のものなのである。細く断続的な通商路でユーラシア大陸の東西がつながっていた時代、「東方に何やら優れた文明大国があるらしい」と欧州人たちが妄想したのが当時の中国なのであり、のちに孫文らはこの妄想を新国家糾合のために最大限に利用することになる。

本書の原題は“The Invention of China(人工的につくられた中国)”、この国名の発祥そのものが捏造であるとし、現在まで中華民国・中華人民共和国が主張する、“主権”、“漢民族”、“中国史”、“中華民族(漢民族以外を包括する)”、“中国語”、“領土”、“領海”のすべてが、Invention=捏造であることを、中国は無論、日本を含む古今東西の文献を引用しつつ、具体的に論じていく。

例えば、孫文らの中華民国は漢族を狭義に捉え、清朝由来の地満州のみならず、チベット、新疆・ウィグル地区もその領土としていないばかりか、非漢民族として中華国民として扱っていないことを指摘する。その一方で王朝国家としての継続性をつじつま合わせするため、王朝史がたびたび捏造されたことを明らかにし、司馬遷の「史記」をも糾弾する。言語も同様、北京語が標準語のように言われるのは科挙の試験に使われていたからで、各地方の常用語(例えば、広東語、福建語など)がつい最近まで北京語を圧倒していた。その意味で現代の中国語も人工語なのである。

歴史的な王朝の国家観はその王朝の首都(王宮の所在地)を中心に曼荼羅模様で構成され、中核から外縁にしたがって支配権は薄まり、国境と言う概念すら存在していなかった。従って、近代に至るまで真っ当な地図など存在せず、チベット・新疆・ウィグルは言うに及ばずインド・パキスタン国境域、広西自治区・雲南省辺りも曖昧な領域だったのだ。領海に至っては、近代の排外思想から生み出された何ものでもなく、南シナ海に利権を争うようになるのは、日本の台湾領有による肥料資源開発や仏領インドシナ(主にヴェトナム)の漁業権をフランスが言い出して、初めて対応する程度であった(利権で稼ぐことにはこだわるが領有の主張は無かった)。

習近平政権は「百年国恥」を雪ぐべく、最大版図の清時代を国民に思い起こさせ、それが5千年前から継続するかの如く国際社会で振舞い始めている。これは既に廃れてしまった帝国主義思想(社会ダーウィン主義、キリスト教布教を含む)の再来である。こんなことが許されていいはずがない!たかが百年外国(西欧)によって造られた国家・歴史、それが“中国”の実態なのである。行間を読めば、しばらくは経済大国としてそれなりの存在感はあるものの、世界の中心国家は幻想、その資格など皆無と思えてくる。

著者の生年は不詳。ケンブリッジ大学を卒業後英国のシンクタンクチャタムハウスの研究員を務め、中国、南シナ海、ヴェトナムに関する著作を出版している。

 

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