2008年12月14日日曜日

滞英記-13

注:今までの記事も含め、写真はダブルクリックすると拡大できます
Lettrr from Lancaste-13
2007年8月19日

 8月15日、日本では終戦記念日、こちらではJ-Day(対日戦勝記念日)です。フォークランド戦争25周年の仰々しい報道ぶりから、どんな行事があるのか興味津々でBBCを観ていましたが、一切これに関する報道はありません。区切りが悪いからでしょうか(62年)?このところのニュースは、インド・パキスタン独立60周年、十代の若者のアルコール問題、特に殺人、ヒースロー空港拡張計画に対する環境活動家の実力行使などで大きなニュースはありません。
 日本ではこの時期暑さの最盛期でしょうが、こちらは天気になれば、先ず先ずの日差しがあるものの、気温は上がらず20度前後で、家の中でも肌寒いほどです。これもマクロな環境破壊の兆しなのでしょうか?
 牧草地では干草(Hay)用牧草の刈り取りが真っ最中で、後に撒く肥料の臭いが強烈です。臭い・匂いは文化、英国の田園文化を楽しむためには堪えなければなりません。きれいなところだけつまみ食いしていてはダメなのです。
 今回は、7月23日、24日に掛けて出かけた、イングランド北東部の代表都市、ヨークに関するものを<敵陣、ヨークへ>と題してご報告します。

 研究活動は前回も触れました、Waddingtonと言う生物遺伝学者が、沿岸防衛軍団でOR適用に当った経験をベースに書かれた著書を読んでいます。この本の内容は、課題そのもの、課題解決プロセス、適用手法などを詳しく記述したもので、米国戦時OR活動を紹介した、Morse・Kimballの「Methods of Operation Research」に近い性格のものですが、組織内(空軍省、空軍参謀本部、沿岸防衛軍団、軍団各司令部とORグループ)の問題解決対応(意思決定)が具体的に書かれており、研究目的により合致しています。
 現段階は主として、Uボート哨戒・攻撃に当たる現地部隊の航空機稼働率・任務遂行率向上策についてのOR適用で、特にメンテナンスの問題がその鍵を握ることを突き止め、そこから参謀本部や軍団司令部に提言をする場面です。1940年代初期に“ここまでやっていたのか!”とプラント・メンテナンスの現状と比較し、感嘆しています。それもメンテナンスには素人の生物学者が!

<敵陣、ヨークへ>
 ヨーク訪問は渡英前から考えていました。他の都市にはない幾つかの見ものがあるからです。先ず城郭、次いで上階に行くほど道路にせり出す異形家屋、そのままの姿が保存されているギルドホールなどがそれです。
 第一に英都ロンドン、次いでスコットランドの首都エジンバラ、ジェフの住むブリストル、とランカスターを離れて幾つかの都会を訪ねた後は是非ヨークに行ってみたい。
 ヨークの位置はほぼランカスターと同緯度、真東に当ります。残念ながら両都市を直結する鉄道路線はありません。鉄道を使うと四角形の三辺を廻るような具合になります。そこでレンタカーで出かけることにしました。車で出かける場合、ルートと宿泊をどうするかが一番問題です。Mナンバーの高速道路は鉄道と同じようにかなり遠回りになります。しかし、途中の休憩やガソリン補給は問題ありません。ただ、今回は片道150マイル弱なのでAの幹線道路(二桁)を使えば何とかなると読み、一般道路で行くことにしました。次はホテルをどうするかです。エジンバラ旅行でご紹介したように、古い都市の中心部に在るホテルは駐車場が問題です。特に今回のように城郭都市となるとさらに条件が悪くなると予想されます。ガイドブック、トーマスクックのホテルガイド(契約ホテルのみ)などを調べると、パーキング付きは何処も鉄道駅から1マイル以上あります。しかし、よく説明を見てみると、駅からの距離が全く記載されておらずただ“Adjacent(隣接した)”とあり、庭園のような景色の中に車が止まっている写真が目に付きました。ランドマークや駅からの距離を記載していない場合、普通は都市周辺の郊外ですが、これはそうでもなさそうです。そこでトーマスクックへ出かけ確認したところ、確かに駅の隣なのです!「車が駐車している写真があるが、長時間大丈夫ですかね?」 直ぐ電話でホテルに確認してくれ「大丈夫だそうです。ただし一日10ポンド加算されます。予約は不要で、着いたときフロントでその旨話せばいいそうです」 直ちに予約したのは言うまでもありません。因みに、ランカスター周辺での長期駐車料金は一日5~7ポンドですから、ヨークのような大都市で駅隣接となれば極めてリーズナブルな値段です。
 当日は晴れ。気持ちの良いドライブが出来そうな天気です。本来ならば19日(土)に受け取ることになっていたホテルのバウチャー(利用券)も借り出す予定レンタカーも、あの洪水トラブルで、この日の朝受け取りになりましたが、比較的近くへ出かける気安さもありそのことは全く気になりませんでした。気になるのはあの“市民税督促状”だけです。
 レンタカー屋(Avis)は中心街の北辺を通るA683沿いにあるので、今日のドライブには好都合です。ヨークへのルートはこの道を東北東に向かい、イングランド北部を西北から東南に横切る幹線道路A65へ出てそこをしばらく南東に走り、東西に横断するA59を東に向かえばヨークに達します。このA65からA59の道路は、ヨークシャー・デイルズ国立公園内を通るので、A65と並行して走っている観光鉄道として人気のあるセトル・カーライル線と交わったり、見慣れた牧草地帯を離れ一帯に鍾乳洞が数多く点在する、石灰岩がむき出す丘陵地帯を走ったりするドライブを楽しむことが出来ます。今回は立寄りませんが、この観光鉄道には19世紀に出来た、荒涼とした大地を貫く長大な石造りのリブルヘッド陸橋があり、その辺は我が家から片道1時間位のドライブ圏です。
 A59は西側からヨーク中心部に達しており、南北に走る鉄道を陸橋で横切り、線路に沿って北へしばらく走ると駅へ出ます。この駅の北側に、駅舎と隣接して建っている石造りの建物が今夜の宿舎“The Royal York Hotel”です。通りを隔てた向かいには城壁が続いています。道路から左折するホテルへの道は遮断機がありそこから中はホテルの敷地です。広い庭園があり、緑と花々が見事です。あの写真の通り、庭園の周辺が専用駐車場になっているのです。“こんな立派なホテルだったんだ!”これが第一印象です。気楽な一泊旅行を考えていたので、カジュアルの着たきりすずめです。チョッと気後れがしました。石段を数段上がって中へ入ると天井が高く、床には絨毯。駅に隣接しているにも拘らず、人の出入りも殆どない静かなロビー、上階へ通じる幅広い階段にも絨毯が敷かれています。古き良き時代の、映画に出てくるような雰囲気です。そのロビーに半円形に突き出したフロントでバウチャーを示すと、チェックインの時間(2時)にはかなり早い到着にも関わらず全て準備が出来ており、「お部屋はファーストフロアーです。お荷物お持ちしましょうか?」とキーを渡してくれました。「いや荷物は自分で運びます。(でもファーストフロアー?いくら身なりがこんなだからと言って一階はないだろう!;よく英国でやる間違えを、一瞬雰囲気に飲まれてしてしまいました。皆さんご承知のようにこれは2階のことですね)」
 部屋は残念ながら庭園側ではありませんでした。これは身なりではなく、料金の一番安い部屋を頼んだのでそうなったのでしょう。室内は外見と同じで、中々今どきの新しいホテルにはない天井の高い、広さも十分、静かな部屋で、バスルームの広さなど通常の3倍くらいスペースがあります。今まで私が英国で泊まったホテルの中で一番素晴らしいホテルと言っていいでしょう。値段も他の四つ星ホテルと変わりません。このホテルは日本の観光ガイドブックに出ていませんが、場所・つくり・サービス・値段いずれの面からもお勧めです。


2)城郭都市 城郭都市、それは日本には存在しない、しかし大陸には至るところに存在する都市です。そして英国にもこのような都市があります。確かに日本にも城郭はありますが、それは“城を守る”ためのものです。町全体を、市民を守るものではありません。この違いは、多分我われが同民族としか争わずにやってこられたからだと思います。異民族による、皆殺しの恐怖に無縁だった民族と言うのは世界でもそんなに存在しないでしょう。我われの安全保障感は、このような稀有な歴史によって出来上がっているのです。万里の長城は巨大土木工事ではなく、異民族支配の恐怖感を集積・具現化したものと言っていいでしょう。
 「The history of York is the history of England」は、ヨークを紹介するガイドブックにしばしば引用される、ジョージ6世の言葉です。ローマから始まり、ヴァイキング(ノルマン、ディーン)、サクソンの侵入をうけ、混血・同化していった歴史、スコットランドとの戦い、スペイン王位継承問題に発するフランスを舞台とする100年戦争、それと跨るランカスター家とヨーク家同族相争うばら戦争(30年戦争)、オランダから乗り込んできたウィリアムズ公。ヨークはこれら全てと深く関わってきた都市であることを、この言葉が物語っています。英国の城郭都市はここ以外にもありましたが、現在も町を囲む形で残っているのはこことチェスターくらいでしょう。カーライルは城砦(城郭の主として角の部分;Citadel)だけは立派なものが残っていますが、壁の部分はありません。戦いの歴史を刻んだ壁を歩いて、その城郭から来し方を偲んでみたい。これがヨーク訪問の大きな動機のひとつです。
 トロイの馬を引き合いに出すまでも無く、城郭都市の防衛力は相当なものです。オスマントルコが東ローマ帝国の首都、コンスタンチノープル(現イスタンブール)を陥すのにどれだけエネルギーを使ったか、攻城槌、大砲、地下道これだけで一つの小説が書けるほどです(塩野七生:コンスタンチノープル陥落)。近代ではナチスドイツ軍は、その眼前に迫りながら、ついにレニングラード(現サンクトペテルブルク)を陥とせませんでした。城郭が市民を守ったのです。
 壁の内と外には隔絶した別世界があります。微かな記憶は、出生地満州の新京(現長春)で母に連れられて行った“城内”です。日本人が造った新京は高粱畑を切り開いて出来た近代都市でしたが、城内はそれ以前からの中国人の町です。灰色の石(レンガ?)を積み上げた城門や城壁があり、中国語が飛び交う喧騒で猥雑で活気のある別世界でした。
 城郭と関連して内と外を分ける言葉に“ブルジョワ”があります。欧州大陸の都市によくある、ブール、ブルク、ブルジュなどの付く都市は“城郭都市”を表わしています。そして城郭内に住む人をフランス語でブルジョワと言うのです。城内に住めない農民や貧しい人々が起し“ブルジョワを倒せ”と叫んだのがフランス革命です。
 ヨークの城郭はかなり残ってはいるものの、主要な道路はこの城郭で遮断されることも無く、一見内外は一体化した町のように見えます。北東の切れ目から城郭の一角に取り付きその上を反時計方向に歩いてみることにしました。城だけを囲む城壁は何ヶ所かで歩いていますが、町全体は初めてです。通常城だけを囲むものは、通路幅がかなりあり外に向かった壁は凹型を連ねた形状で、隙間から矢を放ち、石を落とすようになっています。内側にも胸の高さくらいの壁があり所々に内部に下りる階段があります。しかしこのヨークでは外側は同じ形態ですが、通路幅は狭く、内側には本来壁や柵はありません。この上を歩く人の安全を考え鉄製の柵が後世(それもかなり最近)設けられているだけです。場所によっては行き交う場合、どちらかが立ち止まる必要があるくらいです。幅が広い所では今でも内側の柵が無い所もあります。一朝有事の際あまり機動的な防御策を講じられない感じがします。壁の要所には城砦があるので、守りもここを中心に行われるのかもしれません。城門(Barと言います)の部分には階段があり一旦地上に降りる必要のあるところや、上にも通路のあるものなどがあります。高さは概ね10m位、周辺は緑地になっていますがややV字を成している所もあり、堀が在ったのではないかと推察します。町なかをウーズ川とフォス川が流れていることから、これらを利用できたのではないでしょうか?現在は3ヶ所で壁が途切れていますが全長は4.5kmあります。
 ほぼ◇型の城郭を東北辺の真ん中辺りから取り付き北西に向かい、北の角から南西に歩いて西の角を曲がり南西辺の途中までを、二度に分けて歩いてみました。およそ全体の半分くらいでしょう。内と外の違いは一見はっきりしませんが、よく見ると分かってきます。外側には近代的な建物の多いこと、家並みが整然としている一帯が散見されること、また地上を歩くと外は建物のつくりがヴィクトリアン・ジョージアン以降の形式で、城内に多数見られた、一階は石積み二階以上木組みのような建物が無いことなどです。ただ、古いものが城外に全く無かったわけではなく、古い教会の廃墟が壁のすぐ外側に在るところをみると、かなり古い時代から壁の外にも人々の暮らしがあったことが予想されます。敵が攻めてきた時は城内に逃げ込んだに違いありません。西角(ランカスター方向)の城砦に立ったのは夕方でした。この城壁の上をジョギングしている人がいます。600年前リチャード2世(ヨーク家)に反旗を翻したランカスター軍の襲来を告げる伝令も、彼のように城壁を駆け抜けたのでしょうか?

1)ヨーク観光
 “敵陣”を語る前にザーッとヨーク観光をしましょう。チェックインしたのが12時過ぎ、ランカスターからは3時間弱です。これから5時過ぎまでの時間、昼食を含めて徒歩で主要な観光スポットは廻れます。ただし、博物館の類は入れていません。
 城壁をくぐり城内を貫くウーズ川の畔にイタリアンがあったので、そこでピッツァとビールで昼食。真っ先に出かけたのは上階に行くほど軒がせり出した建物が並ぶ、シャンブル通りです。第一印象は、写真で見るより家も通りも小振りだなと感じたことです。せり出し方もそれほど頭でっかちではなく、正直期待外れでした。一方で、工学的に見てこの位が妥当なところと納得もしました。途中に一軒改築中の建物があり、足場が組んであるのも、あの独特の景観を殺しています。通りの両側は土産物屋でこれには元々関心がありません。早々と通り過ぎて終わりです。
 次いで、ギルドホール(マーチャント・アドベンチャー・ホール)へ行きました。ここのギルドホール訪問のきっかけは、7月上旬、ランカスターから列車で1時間北に行った国境の町、カーライルのギルドホール訪問にあります。その際、説明員がホールを支える木組み構造を説明しながら、「ヨークのギルドホールはここの何倍もあり、見事なものです。この木組み構造と同じですが規模が違います。是非ご覧になることをお勧めします」と教えてくれたからです。実際出かけてみると、まるで大きさが違います。一階は言わばホールを支える部分と言ってよく、二階がホールとそれを囲むように幾つかの小部屋(理事長室など)から構成されています。ホールの広さは25m×15m位あります。このホール内には柱はなく、床は分厚い黒光りする木製です。これを一階で支えているのがカーライルと同じ構造の木製の柱です。ホール床を構成するスパンの長い分厚い板を支えるために、これも分厚い角材を、丁度傘の柄と骨の関係で骨が上部で東西南北に張り出しています。板や角材が交差する部分に丁寧な嵌め合い加工が施され600年も上の床、否、建物全体を支えてきたのです。一階部分も決して単なる床下ではなく、チャペルや貧民の施療施設が設けられ、その跡が保存されています。二階ホールはやや水平を欠いていますが、現在でも結婚式などに使われるそうです。
 カーライルとの共通点は、一階部分は石造り、二階から上は木と塗り壁から出来ています。石造りの多い英国の建造物ですが、この形式は時として集中的に特定の町・地域に見られます。木組み構造が表へ出て、塗り壁とコントラストをつくり、独特の模様を建物に与えるところに人気があります。実はシャンブル通りの頭でっかちも、この構造で出来上がっています。
 カーライルと大きな違いがあるのは建物の大きさばかりでなく、部屋の構造と用途です。カーライルには広いホールは無く、職種別(鍛冶屋、織物屋、皮なめし屋、肉屋、洋服屋など)に専用の部屋があり、その大きさは区々で、会議を行う時だけパーティションで区切るような職種もあります。これに対してヨークは、大ホール以外は理事たちの部屋や会議室だけで、職種別の部屋はありません。そこでこの点を説明員に質してみました。答えは明快で「ここはマーチャント(商人)・ギルドのためのものです。他の職人たちは別にそれぞれ集会場を持っていました」と言うことです。答えは明快でしたが、私にはむしろギルドが分からなくなってきました。中学の社会科や高校の世界史でギルドについて学んだ時、ギルドは職種組合で自分たちの職権を守るために活動したこと、またギルドが町や市の政治・行政に大きな影響力を持っていたこと等を教えられました(ロンドンのギルドホールでは現在でも市議会が開かれる)。しかし、ヨークのギルドホールを見ると(現物ばかりでなく、活動の歴史)、商人ギルドが市政を牛耳っていた様子が窺がえます。カーライルのような職人ギルドとの関係はどうなっていたのか?もしこの時代に生きていたら、多分職人ギルドの一員になっていたのでないかと想像する私にとって、何か釈然としない、課題の残る(ギルドは奥が深そうだ! OR研究のために目を通した文献の中に、戦闘機乗りと科学者の間に“Guild to Guildの戦いがあった”などと言う表現もある。面白い!もっと調べてみたい!)ギルドホール訪問でした。
 次いでイギリス最大のゴシック建築、250年の歳月をかけ1472年に完成したと言われるヨーク・ミンスター教会へ出かけました。とにかくその壮大さに圧倒されます。また、そこにある素晴らしいステンドグラスに目を奪われます。しかし、数多教会を見てきた後では仏(?)の顔も三度まで、特別関心を引くものはありませんでした。あとは観光ガイドブックに譲ります。


3)ばら戦争
 ランカスター、いやランカシャー地方に居ると至るところで赤いばらのマークを目にします。“Lancashire”と筆記体で書かれた文字の後に赤いばらが一輪描かれています。ランカシャーの公的あるいは公共的な建物や場所(主として看板の類)、車などに描かれているので自然と目に入るのです。
 Mauriceにヨーク行きを告げると、ニヤッとして「ランカスター家の奴が赤いばらを一輪ちぎってヨーク家の奴に投げつけた。するとヨークは白いばらを手折りランカスターに投げ返した。こうして始まったのが、ばら戦争だと言われている(無論冗談だけどね、と言う風に)」 Mauriceはヨークシャー出身ですが、この地に長いせいかランカスターへの思い入れが強いように感じます。こんな話もしていました「両軍和解が成って、ランカスターの教会に代表者が集まり祭事を行うことになり、そこにヨークの僧正(Bishop)が参加していた。祭事の最中天候が急変、激しい雷雨になり雷が僧正を直撃した。無論即死さ。あれは天罰だったとランカスターでは言うんだよ」と嬉しそうに語っていました。紅白対抗は日本にもある。しばし源平盛衰記を掻い摘んで説明したが、何処まで通じたことやら分かりません。
 源平合戦とばら戦争の違いは、源平が頼朝・義仲・義経間の争いが有ったとはいえ、平家と源氏と言う家系を異にする氏族間の闘争であったのに対し、ばら戦争は同族相食む戦いだったことです。きっかけは、イングランド王リチャード2世がフランスとの100年戦争を戦っている時、日頃うるさい叔父のランカスター公が亡くなり、その嫡子(つまり従兄弟)の領地を取り上げようとしたことから始まります。これから二転、三転、この間フランスとの戦いも入ってきます。30年戦争と言うのはこれからしばらくして、ヘンリー6世(ランカスター家)とヨーク公リチャードが戦端を開く1455年のセント・オールバーンズ(ロンドン北西郊外)の戦いから、1485年のランカスター派のヘンリー・テューダ(ヘンリー7世)が天下をとり、チューダ王朝を開くまでを言いますが、とにかく骨肉相争い血みどろの戦いが続いた時代で、シェークスピアはこれを基に「リチャード3世」を書いています。
 そんな訳で、“俄かランカスター派”の私としては、ヨーク訪問は敵陣初見参と言うことになります。行ってみて分かったことは“格が違う!”と言うことです。人口は4万4千対18万で約4倍ですが、町の賑わいや建物の風情にはそれ以上の格差を感じます。教会や鉄道は比較になりません。むろんホテル・観光名所もです。残念ながらヨークの圧勝です。ロンドン、エジンバラやブリストルのような大都会よりも落ち着き、“ここなら一人で長く暮らしても良いな”と思わせる町でした。この寝返りは正真正銘のランカスター派、Mauriceには内緒です。

5)国立鉄道博物館 長らく万世橋に在った交通博物館は閉鎖されましたが、元国鉄大宮工場跡に建設中の“鉄道”博物館が、いよいよ今秋10月開館します。京都の梅小路機関車館同様、ターンテーブル(転車台)を中に何台もの機関車が並ぶようです。今から楽しみです。
 子供は誰でも乗り物が好きです。小学生時代は鉄道技師が夢でした。父方も母方も全く理系がいない家系ですが、母方の遠縁に鉄道省(後の運輸省+国鉄)の技師が居たようで(その人は早世し、話が出ている時には既に故人だった)、母や叔父・叔母が、別世界の人間を語るように、その人の現役時代の話をしてくれたのが大きな理由のような気がします。もう一つは、終戦直後の乗り物で、唯一まともなものは鉄道しかありませんでした。飛行機は製造も運用も全面禁止。自動車は木炭で動かすバスやタクシーくらいで、アメリカ軍の軍用トラック(子供達は“十輪車”と呼んでいた;前輪が2、後輪は2軸でそれぞれダブルタイヤなので8)の前では情けないくらい非力でした。そんな中で、戦争の影響で排煙板の一部が木製のものまでありましたが、ダイナミックな蒸気機関車に、敗戦のどん底状態から我われの未来を切り開いてくれる力強い救世主を見たのです。鉄道技師になろう!
 小学校5年の時、豊かな友人がOゲージ(線路幅:32mm、3線レール;本物の電車のように架線から電気を取れないので)の模型を買ってもらいました。電気機関車を、0~20ボルトの変圧器を切り替えて動かすこの模型に心を奪われました。自分の模型が欲しい!電気機関車は金属製でとても高価で買えません。むろん自作など無理です。
 “鉄道模型趣味”と言う雑誌があります。ある時、そこに当時の標準電車モハ63型の手作り記事を見つけました。床と屋根は木の板で、側面はボール紙で作ります。金属部品(モーター、台車、パンタグラフ、連結器)は出来合いのものを購入せざるを得ません。本を買い、図面を引き、板を削って床や屋根を作り、ボール紙をかみそりで切り分け、小遣いを貯めて金属部品を買い、当時デヴューし立ての湘南電車カラー(オレンジとグリーン)に塗って完成させたのは6年生の夏休みでした。それを友人宅のレールの上で走らせたときの感動は今でも忘れられません。休み明け、この話が受け持ちの先生に伝わり、学校にその電車を持ってくるように言われました。都美術館で開かれた、東京都夏休み作品展に学校代表として出品されたことは、小学校時代の誇らしい思い出です。交通博物館通いはこの時代から始まったのです。
 中学時代に講和条約が諸国と結ばれ、日本の空が帰ってきました。鉄道技師の夢は航空技師に変わります。大学入学までこの志は変わりません。大学に入ると取り敢えずまた模型復帰です。ただし今度は飛行機のソリッドモデル(木製で50分の1の細密模型)です。当時関東地区で最もレベルの高かった、東京ソリッドモデルクラブのメンバーになりました。このクラブの月例会は交通博物館の会議室で行われ、お互いの作品を持ち寄って講評を行います。メンバーは中学生、板前、造船工学の教授まで種々雑多で、落語の小金馬師匠もメンバーでした(彼は当時まだ珍しかった外国製のプラモデルが中心でした)。博物館の何周年目かの区切りに、我われのクラブでソリッドモデルによる“日本航空発達史”をやることになり“白戸35型”と言う複葉機を出品したのも、この博物館に関わる懐かしい思い出です。
 秋霜五十余年、この博物館が発展的に閉館され、新しい“鉄道”博物館として鉄道技術のメッカとも言える大宮工場跡に建設されると聞いた時、この敷地の選定の他にもう一つ快哉を叫びたかったのは“交通”でなく“鉄道”とした点です。私もこの種の博物館が好きで、機会があれば仕事の合間に訪れてきました。しかし、あれもこれもはどうも好きになれません。その代表的なのが“科学博物館”です。基礎・応用、物理・化学・生物・地学・考古学、なんでも在りは何も印象に残りません。技術の体系や発展を理解するには、焦点を絞ることが鍵です。敗戦という大きなハンディキャップを負い、目ぼしい展示物のない日本で“航空博物館”をつくっても遊園地と大差ありません。ワシントン・ダレス空港に隣接して(と言っても空港からは徒歩ではとてもいけません)新設された航空博物館は大型格納庫2棟にコンコルドを含む実機が何十機も系統的に展示されています。こうなれば別です。自動車博物館は日本に限らず、“収集館”で体系的な理解はできません。船はドン柄が大きく、数も限られます。しばらく人気があってもやがて氷川丸の運命です。
 日本の鉄道技術は英国から多くを学び、独自の発展を遂げ、世界のトップランナーの位置にあります。系統的に理解できる現物も数多く残っています。また、鉄道はもっとも身近に感じるダイナミックな道具です。数多く・多種のファンが居るのも、鉄道に比肩するものは無いでしょう。模型あり、実物あり、乗車体験あり、時刻表あり、全線乗りつぶしあり、運転経験あり、収集あり、写真あり、何でもありです。
 世界最大の鉄道博物館(The World’s Largest Railway Museum)に行ってみたい。実は、これがヨーク訪問の最大の動機だったのです。

 さて、ヨークにある国立鉄道博物館(National Railway Museum:NRM)です。通常英国ではこの種の博物館は王立(Royal)が多いのですが、ここはNationalです。理由はわかりませんが、何か新しさ、意気込みを感じます。“我等が鉄道”と。場所がロンドンでないのも気に入りました。ヨークは古くから、北部イングランドにおける鉄道の要衝で、最盛期はここを中心に網の目のように路線が走っていました。現在はかなり整理されていますが、依然として東北部の要であることは変わりません。博物館の位置はヨーク駅の西側、私が泊まったホテルと駅を挟んで反対側になります。駅から歩いて5分、便利な場所に在ります。80年の歴史がありますが、当初はLondon & North Eastern Railwayの、引退した機関車の保存から始まりその時は別の場所にありました。1970年代に現在の場所に移り、1990年に大幅な拡張をしています。現在の博物館はレールが実用線と繋がっており、そこへ一部の機関車を引き出し、走らせることも出来ます。入口はモダンなガラス作りの最新部分にあり、嬉しいことに入口上の各国語で書かれた“Welcome”の中に“ようこそ”とひらがなの表記があります。日本の“鉄ちゃん(鉄道ファン)”が数多くやってきていることを物語っています。入場料は無料ですが、寄付や維持会員を募っています。
 館内は大別して四ヶ所になります。グレートホール、ステーションホール、ワークスそして屋外です。屋外は遊園地的なもの(特別な日に、ロケット号などを走らせることもあるようですが通常は遊園地です)ですから私の関心外です。
 先ず、グレートホールへ。いきなり世界初の蒸気機関車、スチーブンソンの“ロケット号”と世界最速蒸気機関車記録を持つ“マラード号”です。ロケット号はレプリカですが、動かすことが出来ます。マラード号は本物で、1938年(まだ私が生まれる前)時速126マイル(202km)を出した流線型の機関車です。ライトブルーに塗られた車体に蒸気機関車のイメ-ジはありません。そしてこの2台のスターの左側に、何と開業時の新幹線“ひかり”の先頭車両がありました!晴やかな場所です。この博物館の基本コンセプト(勝手な想像ですが)は“英国の蒸気機関車が世界を変えた”です。蒸気機関車こそ近代文明の原点、古き物を尊ぶ英国人の国民性をこの博物館も確り受け継いでいます。そこに“電車”が置かれているのです。もちろん鉄道博物館ですから電気機関車やディーゼル機関車も展示されています。しかし、これだけ目立つ所には置かれていません。主要な展示物には専任の説明員が居て、適当な人数が集まると説明をしてくれます(個人の質問も大歓迎、質問を待ち構えている感じです)。新幹線にはその専任者も居ます。中まで入れる車両が少ない中で(機関車が多いので必然的にそうなる)、“ひかり”はその点でも人気があるようです。公式ガイドブックの“グレートホール”のページは、見開きを“ひかり”が占め、若い女性がそれを見上げています。教え子がここまで成長したのか!
 奥へ移動すると、蒸気機関車の実物カットモデル(内部が分かるように一部をカットする)がありました。炭水車の石炭・水から始まりやがて蒸気が生成され、それがシリンダーに導かれ、動輪を動かすまでをナンバリングして解説しています。父親が幼い子供にそれを説明しています。非常に上手く出来ているので子供も納得顔です。別の機関車は下へ潜り込む通路があり、普段見えない下側の構造を知ることが出来ます。
 更に奥へ進むと、ターンテーブル(転車台;蒸気機関車の頭の向きを変える装置。時間によって実際に動かされる)があり、これを囲んで迫力のある機関車が多数顔をこちらに向けています。その迫って来るような感じは大人でも圧倒されます。お互い邪魔にならぬよう、おじさん達が気を配りながらシャッターを押しています。
 グレートホールだけで3,40両の車両(主として機関車、それも蒸気)が展示されています。丁寧に説明を読みながら、場合によって説明員(グレートホールだけで6,7人居る)に更に詳しく説明を求めれば、ここだけで最低半日は必要でしょう。
先を急いで、第2会場のワークスに行きます。“ワークス”とは工場のことです。これは今まで他の乗り物博物館を含めて見た事もない、ユニークで素晴らしい展示場です。何とあの“フライング・スコッツマン(空飛ぶスコットランド人;F-1ドライバーのジム・クラークもこう呼ばれましたが、本家はこちらの機関車です)”の解体整備を行っている場面を、回廊から見下ろすのです。バラバラになった機関車を見る機会など先ずありません。クレーンや工作機械が動き、一部の作業は実際に行われます。大人も子供もありません。皆“職人のそばにアホ三人”の体です。私もその中の一人になりました。
 ワークスは巨大な倉庫に繋がっています。車両部品、信号機や転轍機、保線工具、車両や船舶の模型、鉄道員の各種制服、そのボタンや記章、雑然といろいろな物が置かれています。見せるための工夫は欠くものの、倉庫らしさがそれなりに臨場感を与えてくれます。“3百万個のコレクション”の大部分はここにあるに相違ありません。
 最後はステーションホールです。ホームが三つあり、真ん中のホームは一段と広く造られています、その他にも引き込み線があります。そこに数量編成の客車が停まっています。これをホームから見学するのです。むろんただの客車ではありません。引込み線を除けば、全て王室専用車です。実際に使われたものが展示されているのです。ヴィクトリア女王、ジョージ6世などの専用車です。窓越しに見るだけですが、鉄道移動中の過ごし方が垣間見られなかなか面白い企画と感心しました。
真ん中の広いホームはカフェテリア形式のレストランです。ここでスープとロールパンの軽食を摂ったのが1時近くです。10時の開館と同時に入館しましたから3時間の見学です。本来なら一日かけても良い場所ですが、翌日はあの“市民税督促状”でしたから、後ろ髪を引かれる思いで帰路につきました。

 白ばらのヨークは、源氏の白と好一対です。義経号、弁慶号、静号は、嘗ての交通博物館のシンボルでした。多分これらは新しい博物館でも中心的存在になるでしょう。西のヨーク、東の大宮といきたいところです。
 新しい鉄道博物館も、ターンテーブルが設けられ、それを囲む形で車両が展示されるようです。大宮工場の在ったところですから実用線への接続も可能なはずですし、工場を再現するにも最適の場所です。何も真似をする必要はありませんが、単なる展示場ではない、子供から専門家まで楽しめる、日本を代表する博物館になり、海外からも見学者が多数訪れ、日本の鉄道技術とその高度な利用状況を知ってもらえる場所になるよう願っています。

 ヨークを訪れて良かった!敵陣は笛陣となりました。

後日談
 ヨークから帰り、Mauriceの部屋を訪れると、「ヨークはどうだった?」「いろいろ面白い所があったが鉄道博物館が一番だね。あのマラード号の実物には感激した」「(壁に飾った古いポスター(額入り)を指差しながら)この機関車はマラードと同じ物さ。あの博物館で買ったんだ」「鉄道も好きなんだね!」 彼は経済史が専門ですが、一時期英国の鉄道経営史を研究しており、著書も書いていました。マニアではなく本物でした。恐れ入りました。

以上

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