2009年1月25日日曜日

篤きイタリア-5

6.地中海の帝都;ローマ
(写真はダブルクリックすると拡大します)
 フィレンツェにはまだまだ見たい所、訪れたい所が多々あった。一方で昨日の一日徒歩ツアーの疲労を考えれば、もう一日歩き回るのは辛い。一週間くらい滞在し、公共交通機関を使った半日観光、残りはカフェテラスや庭園でボンヤリ過ごす。夜は専門の(観光特化で無い)レストランやエンターテイメントを楽しむ。イタリア(多分他の欧州都市も同じ)ではこんな旅がしたい。特にここフィレンツェでは。しかし、現実は“多すぎる観光客”でこんなのんびりした旅は経済的にも空間的にも無理だろう。
 フィレンツェの出発時間はチョッと思案した。基本的には何処でも、宿泊地ホテルのチェックアウトタイムと次の訪問地のホテルのチェックインタイムに合わせて決めてきた。ここでもその基本は変わらないのだが、乗車時間は1時間半と短い上に、ローマの宿泊先はコロッセオの近くなので、到着日はその周辺の観光だけで済ませれば、フィレンツェ出発を遅らせても良い。見るところはいくらもある。こんな考えに至ったのは、前出の大学時代の友人Mが夫人や混声合唱団の仲間とたまたまこの時期イタリア観光中で、この日彼らは我々と逆にローマからフィレンツェへ移動することになっていたからである。海外で親しい友とひと時を過ごすのは格別の思い出になる。しかし、列車の時間やホテルと駅との往復、先方もチェックアウト・チェックインに合わせた移動計画。国内で計画を立てている段階でこれは無理、途中ですれ違いと分かった。
 結局フィレンツェの出発は10時52分、ローマ到着は12時半のユーロスターにした。今度は二人向かい合わせの席である。席は所々空いており、4人席の人は適当に移動している。今回は到着時間が昼食時ということもあり、車中食は用意しなかった。好天の車窓をボンヤリ眺めていると、並行する線がある。在来線と新幹線と言ったところであろうか?道中の景観は長閑さだけが心を休める程度の、変化の少ないものだった。イタリア最後の鉄道の旅はこうして終わった。
 正午過ぎのローマ駅(テルミニ)は明るく暖かい。暑いくらいだ。今回も荷物があるので駅からタクシーにした。宿泊先は、カポ・ドゥ・アフリカ(アフリカの首都)と言う名前のホテルで、コロッセオ(楕円形闘技場)の近くのアフリカ通りにあった。このアフリカ通り周辺は閑静な所で、ここの通りを真っ直ぐ西北に進むと5分くらいでコロッセオに達する。観光には絶好のポジションにある。最寄の地下鉄駅は“コロッセオ”、テルミニ駅まで二駅である。このホテルも個人旅行者向けで、外からは付近のアパート(どうやらそのいくつかは長期逗留者向けらしい)と見分けがつかない。クリーム色の壁にアーチ型の玄関が、いかにも“アフリカ的”な雰囲気を醸し出す。内部も黄色やクリーム色が基調で明るく落ち着いた上品な仕上げ、部屋の天井が高く広さも申し分無い。バスルームやTV・インターネット環境などの設備は最新式で、ヨーロッパとアメリカの良いところを組み合わせた、今回の旅でベストのホテルだった。

<溢れかえる観光客>
 今日は日曜日。言わば“ローマの休日”である。チェックイン後一休みして、フロントで地図をもらい、周辺観光の要領を教えてもらう。地下鉄やバスを使えば有名な観光スポットへは容易に行けそうだ。ただ念を押されたのは「スリには充分気をつけて!」である。特にヴァチカン行きのバスは危ないと言う。幸いこれは明日のツアーに組み込んであるのでこの日行く予定は無かった。
 地下鉄利用はミラノで体験済み。コロッセオを外側から見学しながら、地下鉄入口に向かいキオスクで乗車券を求める。最初の目的地はスペイン広場、駅名はそのものずばりのスパーニャ、コロッセオを通る線はB線、スパーニャ駅はA線上にあるのでテルミニ駅で乗り換えることになる。東京の地下鉄ほど路線の数が多くないので迷うことは無い。テルミニ駅から三つ目がスパーニャ、明るい所へ出るのに少し地下道を歩く。表へ出るとそこはスペイン広場、午後の強い日差しの下観光客が溢れかえっている。映画でもしばしば大事なシーンの舞台となるスペイン階段にも、大勢の人が座り込んでいる。白・黒・黄色。一人旅・二人連れ・グループ。老・若・男・女。飛び交う多様な言語。ここで連れを見失ったらとても見つかりそうにない。スタンダール、バルザック、ワグナー、リストが住み、バイロンの通ったカフェあり、ブランドショップが軒を連ねてはいるものの(これは人が集まるからこうなったわけで、これが人を惹きつけているわけではない)、特別な歴史的モニュメントがあるわけでもないここに、これほど大勢の観光客が集まるのは何故だろう?多分あの「ローマの休日」の影響なのではなかろうか?(我々も実はそうなのだが) イタリアを旅していて、映画のシーンが大きな観光資源になっているのはローマだけではない。ヴェネツィアがそうだったし、シチリアには「ゴッドファーザー」がある。映画のシーンに惹かれて溢れるほどの観光客が出かけてくる所は、この国にしかないのではないか(韓流ブームの一時期そんな所もあったようだが)?
 これだけ人が集まっていると広場も広場ではない。広場でない所の方がややスペースがある。南西の日差しの強い階段の方は、これを避けるのか日陰のないところは歩き易い。取り敢えず教会のある上まで昇ってみる。午後2時頃にホテルを出たため、この観光散策の後はこのままの装いで夕食をとる考えだったので、夕方の冷え込みも考慮して長袖シャツにセーターさえ羽織っていたが、半袖のポロシャツで充分な陽気。階段の途中でセーターを腰に巻きつけたものの、それくらいでは、この暑さはしのげない。教会まで辿り着いた時には汗びっしょり。それを待ち構えるように、インド系の清涼飲料やスナックを商う屋台が石畳の高台テラスに店を出している。スーパーで買えば1ユーロ以下のミネラルウォータが2ユーロもするが、この暑さと乾きに値段は二の次、冷えているかどうかだけが問題だ。それも彼はよく承知している。クーラーに入ったボトルを示して「値段は同じ!」とくる。眩しいテラスでぐい飲みした冷えた水は、今まで飲んだどんなビールにも勝る喉越しだった。
 “命の水”を飲んだ後は再度広場に降り、そこから南西に延びる、ブランドショップの並ぶコンドッティ通りを人混みにもまれながらオベリスクとヴィットリオ・エマニュエル2世記念堂を結ぶ、ローマの代表的な大通り、コルソ(競馬)通りに出て、この通りを記念堂方向(南東)に向かう。こんな大通りもやはり観光客で溢れている。記念堂のさらに南東は、古代ローマの政治中枢が在ったフォロ・ロマーノ、その少し東にコロッセオが在る。途中の名所を訪ねながら、徒歩でホテルまで帰るルートである。最初の見所は、肩越しコイン投げで有名な「トレヴィの泉」。三叉路を意味する“トレヴィ”だけに、大通りから入ってチョッと探すのに手間取ったが、観光客の流れでおおよその見当はつく。あの有名な噴水は宮殿前の小広場の大部分を占め、平らな所は噴水とその背後にある宮殿を装飾する大きな彫像群に見とれる人々の群れに埋め尽くされ、噴水の縁には沢山の人が隙間のなく座ってコインを投げたりしている。ここもただただ人、人、人であった。それだけにスリのメッカでもあるらしい。長居は無用である。
 コルソ通りの終点はヴェネツィア広場、ここはかなり広い広場で交通の要衝である。広場に面して聳えるのがヴィットリオ・エマニュエル2世記念堂である。正面が北西を向いているので、折からの強い西日で大理石造りの西面が輝いて見える。エマニュエル2世はイタリア統一の英雄だが、この記念堂は彼の功績を称えるものではなく、統一後の戦役で戦死した兵士を弔うものである。広場と遜色のない幅広の階段の頂部に半円形に並んだ円柱を持つ壮大な記念堂は、下から眺めるものを圧倒する。ここには無名戦士も葬られ、24時間衛兵が墓守をしている。クレムリン、アーリントンと同じである。長い道のりを歩いてきた者にとって、この広い階段は格好の休憩場所を提供してくれるように見えた。端の方で一休みと思い腰を下ろしたら、直ぐさま監視員がやって来て立つよう注意された。もっともなことで不徳を恥じた次第である。
 記念堂は小高い丘の上に築かれている。裏側もテラス状になっており、南東側に西日の中の古代ローマ遺跡が間近に見下ろせる。ここからローマの七つの丘の一つ、カピトリーノの丘は指呼の間、そこまで歩くと丘の端から夕陽を真横に受けるフォロ・ロマーノやセヴェルス帝の凱旋門(在位193~211年)が見下ろせる。遺跡巡りは明日午後のメインエヴェントだ。さらに15分ほど歩いてやっとコロッセオの周縁の緑地に辿り着き座り込んだ。3時間は歩いている。この間休んだのはトレヴィの泉と記念堂で少々だけ。飲食はスペイン階段上のあの冷たいミネラルウォータだけ(ボトルから時々補給したが)。5時を過ぎているが空腹よりも歩き疲れの回復が急務だ。幸いまだ明るく、大勢似たような観光客がそここで休んでいる。ホテルへ返って一休みという案もあるが、多分バタンキュウーでろくな夕食も食べないことになりかねない。ここはもう少し頑張ろう。この時期コロッセオ観光は6時半までなのでまだ行列が続いている。それに纏わり着くみやげ物売り、ボンヤリ辺りを眺めているだけでも結構退屈しない。やがてコロッセオの横にボンヤリした月が顔を出した頃、近くの観光客相手のレストランで夕食にした。この時間になると不思議なもので冷たいビールよりワインが欲しくなるものだ。やっとイタリアンスタイルが身についてきたのかもしれない。
 ライトアップされたコロッセオの横を抜けてホテルへ帰る時には、先ほどの月が高く明るく輝いていた。そしてこの月光のコロッセオの周りで、ウェディングドレスを着た女性が数人がはしゃいでいる!聞くと先ほど式を挙げたばかりの花嫁とのこと。月下氷人や月下美人は知っているが、月下花嫁は始めてである。このローマ史を象徴するコロッセオでこのように祝うことが出来ることを心から喜んでいる風だった。観光とは別のよきローマの慣わしを垣間見て、一日の疲れは吹き飛んだ。「お幸せに!」

<神の国;ヴァチカン> 高校2年生の時に世界史をとった。担当の先生は東洋史、西洋史別で二人。どちらも面白く、受験の世界を遥かに超えて勉強した。それでも中国については日本史や三国志などの延長線に多少の纏まった知識もあったが、西洋史関連は少年少女向けのシェークスピア程度しか無く、ギリシャ・ローマに発する西洋文明に興味津々の授業だった。そんな中でよく理解できなかったことの一つが、宗教と政治権力の関係である。カノッサの屈辱や英国国教会の成立は教皇と皇帝・王との権力争い(司教の叙任権)の結果だが、何故坊主ごときが皇帝や王を破門など出来るのか?破門など意に介さず自分の国を好きなように統治すればいいではないか(英国国教会はこうして生まれたが)!もし坊主がゴタゴタ言うのなら武力で押さえつければいい(共産国家はこうして宗教を排除したが)!と。
 これが体感できるようになったのは、共産主義国家における宗教問題が表面に出てきたごく最近のことである。過度にイデオロギーに依存した社会の為政者にとって、そのイデオロギーと異なる信念を植えつける宗教ほど恐ろしいものは無かろう。冷戦構造の崩壊は、経済システムの破綻にあることは間違いないが、その端緒がカソリック国ポーランドから発したことは宗教と国家権力を見つめる上で象徴的な出来事といえる。その二つの権力の妥協による産物(?)がヴァチカン市国である。
 ややこしい権力構造を巡る歴史は一先ず置き、れっきとした独立国(国連にも加盟しているし多くの国に大使館を持つ)ながら国籍保有者はたった800人強、しかしカソリック教徒10億人を従える奇妙奇天烈な国をこの目で見てみたい。国境はどうなっているんだろう?こんな気持ちでローマ観光の目玉としてツアーのメニューに加えた。ただしヴァチカン美術館は、それだけでさらに半日を要するのでパスすることにした。正直言ってルネサンス以前の宗教画は、文字の読めない人に対する布教を目的にするので、おどろおどろしく稚拙な感じがして好きでない。
 この日の市内ツアーは地下鉄テルミニ駅に近いホテル・レックスという所に8時半に集合することになっている。昨日の午後コロッセオ駅からテルミニ駅乗換えでスパーニャ駅まで行っているので地下鉄移動は問題なかった。しかし、テルミニ駅からの案内図はかなり簡略化されており、途中三度もその在り場所を確認する必要があった。中には英語を話せない人もいたが、手振り身振りで何とか集合場所に辿り着けた。そのホテルの地下の一部は日本人旅行者専用の受付・待合室になっており、如何に日本人観光者が多いかを窺がわせた。既にほとんどのツアー参加者が集まっており、しばらくするとこの日のガイド、日本語を話すイタリア人の小柄な中年女性、クラウディアさんと言う人が現れ、大型バスへと引率してくれる。参加者は日本人だけで12人だったと思う。いずれも二人一組、夫婦らしい組みが多いが、女性だけの組みもいる。
 最初の訪問先がヴァチカン。国境らしきものは何も無くチョッと残念。ガイドは大聖堂には入れないとのことで、サンピエトロ広場の前で全体説明と見学後の集合時間、集合場所の確認。見逃してはいけないミケランジェロの「ピエタ」像の在り場所確認などがある。時間が早いせいか入場の行列はさほどでもなく、直ぐに大聖堂に入れた。カソリック教徒にとっては聖地であり、特別な感動が沸くのかもしれないが、不信心な私にとっては建造物そのものと歴史的な興味しかない。ミラノやフィレンツェで見たドオーモに比べ遥かに規模が大きく、複雑な造りである。英国国教会の総本山、ウェストミンスター寺院と比べてもこちらの方が大きく丸屋根に“旧教”を感じた。しかし、1996年訪れた嘗ての東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(現イスタンブール)に在る、この大聖堂の言わばライバルであるアヤソフィヤは古さと大きさにおいてここを凌いでいるのではなかろうか?アヤソフィヤはオスマントルコによるビザンチン帝国征服後モスクに改装されたため、内部の装飾はイスラム風になり、外見もミナレット(尖塔)が付加されて単純な比較は出来ないが、往時の東の文化・経済の高さを推し量ることが出来る。
 このあと、スイス人の衛兵や教皇が広場の信徒に手を振るシーン有名な教皇庁の建物を外から眺めたりしてここの観光は終わった。残念ながら皇帝・王そして近代国家指導者(ムソリーニ、ヒトラー、スターリンそして毛沢東)と教皇の争いの跡を残すものに接することは出来なかった。
 ツアーの残りは、パラティーの丘(遠望)→コロッセオ(外部のみ)→トレヴィの泉(前日は噴水が噴き上げていたがこの日は工事中で水が涸れていた)→共和国広場(ここでバスを降りる)→三越(お土産;ここまで引っ張るのがガイドの役目、大部分の人はトイレ使用のみ)

<古代ローマ逍遥> ローマを目指す日本人観光客のかなりの人は、塩野七生の「ローマ人の物語」に魅せられ、ここを訪れることを思い立ったのではなかろうか?私もその一人である。もしあの長編を読んでいなければ、北イタリアとトスカーナ地方に時間を割いて、ローマは割愛していたかもしれない。あのシリーズがハードカバーでスタートした時には、後述するような理由で読まなかった。買ったのはただ一冊「すべての道はローマに通ずる」編である。これは技術史の視点で面白いと思ったからである。しかし、文庫本が出たとき、偶々貯め置きの本が無く買ったのが、このシリーズにのめり込む切掛けになった。
 1990年代後半、彼女の本が文庫本で出始めた頃何冊か読んだ。「イタリア遺文」「サイレント・マイノリティ」のようなエッセイ・評論は面白かった。しかし、小説3部作「レバントの海戦」「ロードス島攻防記」「コンスタンチノープル陥落」は、ノンフィクション部分は面白いのだが、小説としては盛り上がりを欠き、今ひとつ評価出来なかった。「ローマ人の物語」が出た時、出版社が長編小説的な宣伝をしていたので直ぐに飛びつくことは無かった。ただ「すべての道はローマに通ずる」編を技術史物として購入し読んだとき、これが小説ではなくノンフィクションに近いものであることを知った。しかも、筆者が哲学専攻と言うのに技術的な調査が良く行き届いているのに感心した。文庫本は何処へでも持ってゆける。最初の数巻がまとめて出たとき購入し、一気に古代ローマに引き込まれてしまった。それからは続編を待ちわびるようになった。現在34巻まで来たそれももう直終わる。そこに登場する地名、記念物、建物そして人物。それらを間近に見るチャンスが遂にやってきたのだ。
 ローマ誕生は、篭に入れられテヴェレ川に流され、雌狼に育てられたロムルスとレムスの双子兄弟に始まる。ローマの名はこのロムレスから来ていると言われる。ロムレスの勢力圏はパラティーノの丘、レムスのそれは谷を挟んで南西に在るアヴェンティーノの丘である。午後半日の時間ではとてもローマ史を辿ることは出来ない。ホテルに近く、見所が集中するパラティーノの丘から政治の中枢だったフォロ・ロマーノに至る一帯と、原型を留めるコロッセオを廻るのが精一杯だった。
 先ず初めに行ったのがパラティーノの丘、ここは皇帝たちの宮殿(ドムス)が在った所だ。南に傾斜する地形は明るく、古代でも一等地であったことが窺がえる。そこからは当時から今も流れが続くテヴェレ川が望める。そしてこの丘と川の間には平坦な長楕円形の大競技場(チルコ・マッシモ)の跡がはっきり見てとれる。あの「ベン・ハー」の戦車競技がここで行われたのだ!映画では壮大なスタジアムだが、今残るのはトラックだけである。
 丘の南端から北へ向かうと、ドムスや神殿、庭園の遺跡がいたる所にある。予め周到に道筋と時間を考えておかないと回り道になったり、見所を見落とすことになる。途中に適当な休憩所もない。個人観光はこの点で極めて効率が悪い。ヘトヘトになりながら次のポイント、フォロ・ロマーノに達する。
 フォロ(Foro)は英語のフォーラム(Forum;公開討議の場;公共広場)である。「ローマ人の物語」にも頻繁に登場する。元老院もここに在り、キケロやカエサルが議論を戦わし、「ブルータスお前もか?!」と言ってカエサルがこと切れた場所でもある。列柱の残るバジリカ(柱廊)様式の遺跡は神殿や取引所、裁判所などの跡のようだ。ここだけで凱旋門も二つある(この他にもう一つ、コロッセオの間にトライアヌスの凱旋門がある)。そして中央を貫く道は、戦利品と捕虜を連ねた凱旋行進が行われたところだ。クレオパトラもここを引き回されている。ガリアを、ゲルマンを、ペルシャを、エジプトを、そしてカルタゴを屈服させ強大な地中海帝国を構築した歴史を確かめにここまで来たと言ってもいい。しかし、「シーザーとクレオパトラ」のようなハリウッド映画で見る凱旋シーンの方が遥かにスケールが大きく感じる。誇張されたセットと瓦礫の山に近い現在の遺構の違いからくるものだろうが、それでも道路の幅や残る柱の高さなどを目の前にすると「この程度だったのか?!」とチョッと意外な感じがする。実物を見て映像のマジックを実感し、正しい姿に修正出来たことが果たしてハッピーだったのかどうか、些か複雑な思いである。
 遺跡めぐりの最後はコロッセオ。ホテルと地下鉄駅の間に在ることから、何度も外からは眺めているが内部に入るのは今回が初めてである。紀元80年に完成し、収容人員は5万、今に原型を留める楕円形の闘技場(劇場)である。他の建造物が凱旋門を除けば、基部や柱、階段などが部分的に残る遺構であるのに対して、ここは石積みの部分がほとんど残っており、2000年前の姿がそのまま見えるので強烈な存在感である。
 それまでの知識は、ここでもハリウッドである。カーク・ダグラス演じる、タスキ掛けのような鎧を纏う剣闘士スパルタカス。暴君ネロのキリスト教徒迫害をテーマにした数々の映画では、ここで教徒が猛獣に追い回されるシーンが見せ場になる。しかし、フォロ・ロマーノとは違い、ここでは映画のシーンよりも現実の方がもっと迫力があったのではないかと思わせる。それは、内部に入ることに依りその構造が委細に理解出来、当時の観客として、演じられた見世物を容易に想像出来るからである。否、私にとって現状の方が当時の観客以上に複雑な舞台仕掛けを見ることが出来るだけに面白かった。
 スタジアムの基本構造は現代の競技場と大きな変わりは無い。50メーターの高さから傾斜した観覧席が舞台に向かって設えてある。一般席・貴賓席が分けられたり、指定の席への入口・階段も分けられている。木製だった観覧席そのものは残っていないがこれらも現代のものと似たようなものであろう。大きな違いは闘技場の舞台とその下部構造である。舞台そのものが木製の板を敷き詰め、それに薄く土を撒き演じ物にふさわしい木々などもセットする。この上で剣闘士たちが人間同士あるいは猛獣たちと凄惨な戦いを行うことになる。この木製舞台の下は何層かの石造りで、複雑な迷路のような構造になっており、猛獣たちを入れておく小部屋や舞台へ追い立てる通路になっている。舞台への出口は一ヶ所ではなく、複数の出口から一斉に猛獣を放つことも可能である。木製舞台の朽ち果てた今、この複雑な下部構造が観光客の目の下に開けている。世界の富を集め、遊蕩惰眠と化したローマ市民の民心を買うためとは言え、良くここまでやったものだと感心するとともに、ポピュリズムに浸りきった、現代の為政者と大衆の今に変わらぬ関係に、2000年の空しい時間を痛感した。

 本編を持って“紀行”としての報告は終わりますが、次回この旅の総集編と垣間見たイタリア雑感をお届けします。

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