2009年4月19日日曜日

決断科学ノート-5(マクナマラの戦争)

 ロバート・マクナマラ、1961年~1968年の米国国防長官、ケネディ政権下ヴェトナム戦争推進の主役である。彼の最大の武器は数理分析。危機に瀕したフォード再建時の仲間たちと推進した数理に基づく緻密で大胆な革新施策は、彼らを“神童(Whiz Kids)”と呼ぶことになるほど目覚しいものであった。この時の活躍がケネディ政権チームの目に留まり、フォード社長就任5週間目に国防長官への登用となった。
 マクナマラはバークレーで経済学を学んだ後ハーバードでMBAを取得、統計解析の専門家としてビジネススクールにそのまま残ることになる。1941年、当時の陸軍航空軍(戦後空軍になる)は既にORを実戦に応用することを英国から学んでおり、その普及のためにハーバードとの間に教育訓練プログラムをスタートさせる。この辺のアプローチは明らかに英国と違うところで、英国のOR普及が人のネットワーク中心であったの対し米国は組織的に取り組む点はさすがに大量生産のお国柄である。この活動の中でマクナマラの力量が認められ航空軍にスカウトされ、作戦立案のスタッフとして次第に重要な役割を担うことになっていく。彼の判断基準は常に“費用対効果”にあるのだが、必ずしも初期の段階では伝統的な軍人達の考えに合致するものではなかった。例えば対日反攻航空作戦用の機材として、航空軍トップは欧州戦で大量運用してきた実績を持つB-17 の転用を第一案として考えていたが、マクナマラは実用テスト段階にあるB-29 の実用化を急ぐよう主張して認めさせている。これは航続距離と爆弾搭載量(B-17 ;2.8トンで3200Km、B-29 ;4.5トンで5200Km)に着目した選択であった。またこれと併せて、日本の都市特にそれを構成する建造物に対する効果を数理的に分析し焼夷弾の大量投下を薦めている。
 このような戦争中の経験を生かすべく、退役後(陸軍中佐)は経営コンサルタント会社に就職、数理による経営分析で注目され、フォード建直しに辣腕を振るうことになる。このフォードへの就職は戦後間もない1946年のことであるから、先端軍事技術の一部であったORの民間転用が如何に早かったか驚かされる。当に数理的な経営科学の嚆矢と言える。彼を初めとする数理分析専門家は戦後同じように民間に散っていくことになるが、戦時中この分野の研究活動成果を十分認識させられた空軍は、人材をプールし研究活動を継続できるよう、ランド研究所を設立することになる。
 国防長官に転じたマクナマラは、軍人出身の大統領、アイゼンハワーにさえ批判された産軍複合体の改革に手をつける。先ず、予算編成を“費用対効果”で評価・選択する手法を大々的に適用する。これがPPBS(Planning Programming Budgeting System)と呼ばれ、その後政府機関や企業で利用されることになる数理的な予算編成方式である。しかしフォードの再建には役立ったこの方法も、政府の諸政策に適用するには種々問題を生じ(例えば、効果として企業では“利益”だけに着目することも可能だが、政策課題は案件によって一つの評価基準に絞りきれない。評価基準は絞り込めても、データの準備と解析に時間がかかり過ぎ意思決定のタイミングに間に合わない)、彼の退任後1970年には廃止されてしまう。また、兵器調達合理化のため陸海空軍で共同利用できる兵器の開発・調達を進めるが、目的用途の違うものを一つにするため、返って中途半端で高価なものが出来上がり、実戦での利用が著しく阻害される例が生じてくる。代表的なのはF-111戦闘爆撃機で、これは当初空軍のプロジェクトであったものを、海軍の艦隊防空戦闘機計画を一本化したものだが、機体が空母運用できぬほど大型化してしまう。ただこれらの失敗例は主として反改革派(産業界や政界)からのもので、国防予算の膨張を押さえ込んだと言う評価もあり(例えば、B-52の後継機B-70の開発中止や軍事基地の削減)、一概にマクナマラと分析手法の問題だとすることに異論はある。
 問題はヴェトナム戦争の作戦計画推進と数理に関することである。巷間ヴェトナム戦争はマクナマラの戦争と言われるほど彼の存在は切り離せないし、そのための軍事費は確実に増加している。この費用増加の裏づけは、戦場から収集した膨大なデータを基にしており、このデータ収集のためだけにベトコンの侵入路と思われる場所に無線発信機を散布することまで行ったと言われている。増派する兵種、その規模、使用兵器、個々の作戦計画など全ての軍事活動を出来る限り数量化して決めていくやり方は、次第に現場とペンタゴンの距離を隔てることになっていく。それを補うかのようにマクナマラは頻繁にヴェトナムを訪れるが、事態は一向に改善しない。厭戦気分が溢れる中で1967年11月末国防長官を辞任することになる。
 1995年出版された彼の自叙伝“In Respect (振り返ってみて)– The Tragedy and Lessons of Vietnam -”の中で「1960年代の米国指導者達は、過大に共産主義を恐れあまりこの戦争がヴェトナム人のナショナリズムに基づく戦いであることを見抜けなかった」ことが失敗の根源だったと総括している。
 海空の戦いは機械力の戦いと言えるが、陸戦は民族・歴史・宗教・社会が複雑に絡む戦いであり、そこに数理適用の限界がある。この反省はそれを表す言葉ともとれる。
 彼の辞任は“北爆の停止と南ヴェトナムでの戦闘停止”をジョンソン大統領に拒否されたことにあるし、それ以前から戦力増強に消極的だったことも併せると、個人的にはこの戦争の実態をきちんと理解していたふしがある。ただ、あまりに怜悧な考え方が周辺を巻き込む“空気”の醸成に向かなかったと言える。
 「知に働けば角が立つ」意思決定者として心すべき警句である(個人的には「情に棹差せば流される」や「意地を通せば窮屈だ」よりはましだと思うが)。

0 件のコメント: