2009年6月8日月曜日

決断科学ノート-10(リンダマン;チャーチルの科学顧問)

 スタッフに似た感じの意思決定支援者に顧問と言うものがある。スタッフが“組織”の一員(あるいは組織そのもの)であるのに対して、顧問はより個人色が強い。素早い決断を先端・新規課題で求められる時、組織依存型の支援では組織間調整に手間取ったり、部門自身が新規課題を学習するためにタイミングを失することがある。場合によっては、機密保持のためにごく限られ関係者内で回答を得たいことも生じる。こんな時組織から離れたところに、特定分野に優れた知人(ブレーン)が居ると便利である。経営者(特に社長)の多くはこのようなブレーンを社外に個人的に持って、社内スタッフの役割・対応をチェックすることもある。最新技術に関して、このような方法は大変有効である。
 もう10年以上前になるが、他社でこんな例があった。インターネットが普及し始めている時、社長が社外で“イントラネット(社内のように限られた範囲でのインターネット技術利用)”の効用を聞いてきた。その社長にとって“インターネット”のおおよそは理解していたが“イントラネット”は初めて聞く言葉だった。そこで社内の情報システム部門に「イントラネットとはどんなものか?」と聞いたところ、“インターネット”の説明を得々としたというのである。何か違うと感じたこの社長は、社外の知人に質してこの間違えを確認した後、社内イントラネット構築検討を指示したと言う。
 第二次世界大戦は科学技術戦とも言っていい。英米の政治・軍事のトップ(大臣、司令官)の周りに、よく“科学顧問(Scientific Advisor)”と言う職位を見かける。大体高名な科学者(工学部を含む)である。“ORの父”、ブラケットも海軍省、空軍沿岸防空軍団の科学顧問を務め、その影響力は極めて大きかった。彼の場合、目にした文献・書籍で見る限り、いずれの組織でも軍人や政治家と問題を起こすようなこともなく、現場の信頼は厚かった。これは彼がその立場をよく心得、“政略・理念(大戦略)”の世界に踏み込まず、“科学・技術”に傾注して役目を果たそうとしたからだと言える(しかし立場が変われば自説を堂々と語る人であった;戦後核兵器開発に関して強硬な反対論を展開して、ノーベル物理学賞受賞者でありながら、国の原子力開発から完全に閉め出されている)。
 チャーチルにも科学顧問が居た。オックスフォードで実験物理学の教授を務めていたリンダマンである。もともとはバーデンバーデン生まれ(1886年)のユダヤ系ドイツ人であったが、父親の代に英国籍になっている。初等教育をスコットランド、次いでドイツのダルムシュダットで受けた後、ベルリン大学に進みここで博士号をとっている。第一次世界大戦勃発直後に帰国し英空軍実験航空隊に入隊、テストパイロットとして優れた技量を発揮している。
 1919年、のちに国防政策に関する科学技術政策をめぐり、激しく対立することになるティザードの斡旋でオックスフォードに職を得、休眠状態だった実験物理学研究所(Clarendon Laboratory)を再起・活性化させていく。対するケンブリッジにはラザフォードの率いるCavendish Laboratoryがあり、ブラケットは彼の下で研究員を努めている。
 チャーチルとの関係が出来たのが1921年というからかなり古い。チャーチルはいくつかの省庁の大臣職は経験しているものの、まだ保守党のリーダーにはなっていない。きっかけはチャーチル夫人とリンダマンが同じテニスクラブでダブルスのパートナーを組んだことに始まる(リンダマンは優れたテニスプレーヤーで、ウィンブルドンにも出場するほどの腕前であった)。これが切掛けで、チャーチルは戦争における科学について彼に助言を求めるようになる。特に、保守党の盟友であったバーケンヘッド伯爵が1930年なくなってからは急速にリンダマンを重用するようになっていく。しかし、30年代前半年はインドやアイルランド問題など、軍事以外にも大きな政治課題があり、リンデマンがあまり表面に出る場面はなかった。唯一目につくのはチャーチルの発した「国防強化に関する声明」(1935年)で、これは明らかにリンデマンが1934年8月タイムズ紙に寄稿した“ナチス空軍の脅威”に関する警告と軌を一にするものである。この前後からリンデマンは積極的に亡命ドイツ系ユダヤ人科学者(特にゲッチンゲン大学)を彼の研究所に受け入れ始め、その内の7人は更に米国に渡り、マンハッタン計画に参加している。
 1940年5月、チャーチルが首相となるとリンデマンは彼の個人科学アドバイザーに任じられ、やがてはPaymaster General(予算管理局長)と言う閣僚ポストに就くことになる。彼は自分直属の統計解析組織を立ち上げ、ここでの分析結果をチャートや図にしてチャーチルに直接上げて、その判断に供していった。その範囲は“大戦略から卵の生産”まで及んだと言う。チャーチルは彼を“The Prof(教授)”と呼び、「彼の頭脳は美しい機械である」と賞賛し、戦争内閣(War Cabinet;限られた閣僚のみ参加)や統合参謀会議(War Office)などの重要会議にも彼の隣に席を占めさせ、後には男爵、そして伯爵に叙している(チャ―ウェル卿)。
 しかし、彼の“科学・技術顧問”としての力量・資質には疑問を感ずる面も多々ある。先ず、自分のアイディア(例;空中機雷)やその研究所の研究課題(例;赤外線利用に依る航空機検知;これでレーダー開発が混乱に巻き込まれる)を売り込むことに熱心で、客観的な判断を欠くこと、自分の都合のよいようにデーター・情報を意図的(例;絨毯爆撃効果)あるいは間違いに気付かず(例;V-1,V-2を魚雷と誤認;この件では参謀会議の席上チャーチルにこっぴどく叩かれる)利用すること、他人の成功をあたかも自分の手柄のように振舞うこと(例;弟子のJonesが気付く、ドイツ爆撃機の電子ビーム誘導)などがある。もう一つは、そしてこれがより大きな欠陥だが、地位が上がるとともに、“チャーチルの威”を借りて傲慢・独善的になり、古い友人や弟子からも孤立してゆくその人柄である。この典型に当初は無二の親友であったティザードとの確執がある。これは英国の戦争と科学に関する書き物には必ず触れられるほど有名だが、別途報告することにしたい。
 「彼なくしてあの戦いに勝てなかった」と言う評価がある反面、「典型的な宮廷官僚」とこき下す酷評もあり、評価の難しい人である。微かに感じていることは、チャーチルは老獪な政治家、リンダマンの欠点も知り尽くし、彼を時には悪役に仕立てながら自分の意思・政策を実現して行ったのではないかと言う勘繰りである。
 トップはスタッフ・顧問の一枚上でなければならない。スタッフ・顧問はその分を弁えなければならないと言うことであろうか。

訂正;前回の-9において、ティザードがベルリン大学で研究員を終え“欧州”に滞在中とありますがこれは“豪州”の誤りです。お詫びして、訂正いたします。

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