2009年6月25日木曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(6)

6.伯爵夫人の出自 コンテッサ(Contessa)はイタリア語で“伯爵夫人”の意。クラウン、コロナ、ブルーバード、グロリアなど当時の乗用車の名前は英語名が多い。そんな中でのイタリア語はしゃれた響きがする。それは、この車のもともとの出自が欧州であることから来ている。生産国は日本だが、モデルとなる車はフランス、さらにそのフランス車のモデルとなる車はドイツ製、そしてコンテッサのデザイナーはイタリア人。
 わが国の乗用車生産が本格的に始まったのは、1950年代の後半。トヨタのクラウン、ダットサン(日産)の小型車、プリンス(現在は日産)の乗用車などがそれらである。これらのメーカーは現在も乗用車生産を続けているが、この時代、トラックメーカーのいすゞや日野なども、わが国経済の復興を先読みして乗用車生産に乗り出している。いすゞは英国のヒルマン社と、日野はフランスのルノー公団と提携して、それぞれヒルマン・ミンクス、ルノー4CVのノックダウン生産で技術を学んだ。
 日野ルノーの基となるルノー4CVは1946年フランスで生産開始されたリアーエンジンの小型車(写真参照)で、その当時から10年くらいフランスの国民車と言ってもいいような地位にあった。リアーエンジンの大衆車と言えば、何と言ってもフォルクスワーゲンの“カブトムシ”である。1930年代にヒトラーの命を受けてフェルディナンド・ポルシェが開発した車である。このポルシェ博士は戦後、“賠償(戦犯)”としてフランスに拘置され、大衆車開発に協力を求められる(設計を行ったわけではないようだが)。そこで生み出されたのがこのルノー4CVなのだ。つまりこの車はカブトムシの弟分と言っても良い。
 日野が何故ルノーと提携したのかは定かではない。いずれにしても当時のわが国自動車会社の技術は、戦争の後遺症で著しく遅れていた。特に、ほとんど実績の無かった、乗用車はそれが顕著で、戦前からダットサン小型乗用車を生産していた日産でさえ、英オースチン社と提携しA40、A50などのノックダウンから始めて技術を修得、後のブルーバードやセドリックにそれが生かされていく。4CVもフランスで初めてのミリオンセラーになったほどの車である。良い選択だったと思う。
 日野ルノーは、重量;640kg、排気量;750cc、馬力;21hpの小型車で、今なら軽自動車より非力である。しかし当時は国情に合った良い車で、4ドアーと言うこともありタクシーにも随分使われ、昭和28年から38年までの10年間に3万5千台生産されている。
 この提携関係が切れる前、後継車として昭和36年(1961年)発表されたのがコンテッサである。エンジンは内径を拡大して900cc(35馬力)になっているものの、基本的には4CVと同じもの。構造もリアーエンジンで同じ形式を踏襲している。ただ、ボディーはオリジナルで、イタリア人のデザイナー、ミケロッティの作。コンテッサと言うイタリア名はここから来ているのであろう。4CVがカブトムシ同様丸味を帯びたデザインなのに対し、コンテッサは角が尖って一見アメリカ車風である。当時は欧州車でもこれが流行の先端であった。
 私の購入したコンテッサSは昭和39年(1964年)発売されたスポーツバージョンで、馬力が5馬力アップして40馬力、シフトが3段から4段になり、コラムシフトからフロアシフトになっている。足回りも、スポーツタイプの固めのものが採用されている。しかしながら、他社のスポーツカー(例えばフェアレディ)に比べると、ほとんど標準のセダンと大差なく、手を加えてレースに出場することも無い、街乗り・街道スポーツカーと言っていい車である。当に私の好み・乗り方にぴったりの車であった。

 この貴婦人とそれから3年、四国、山陽・山陰、信州、関東そして紀伊半島を駆け回ることになる(写真は購入二日目に寮の庭で撮影)。
 注;写真は全てダブルクリックすると拡大できます

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