2009年7月5日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(8)

8.貴婦人と巡った紀伊半島-2
 大台ケ原へ出かけたのは昭和42年の秋である。寮の仲間と語らっているうちに話がまとまり急遽日帰りで出かけることになった。途中までのルート(初島→和歌山→24号線→橿原)は走ったことがあったが、そこから先は未知である。早朝出発、24号線から169号線に入り吉野を過ぎる、そこから大台ケ原ドライブウェイ(ただの山道)を延々と走り、木々に囲まれた平坦地をならしただけの駐車場に着いたのは1時過ぎである。前夜寮のおばさんに作ってもらったおにぎりの昼食もそこそこに、ところどころ風倒木で迂回するような険しいハイキングルートを歩き、幾重もの山並みの遥か先に熊野灘を見晴かす断崖、大蛇嵓(だいじゃぐら)まで辿り着いたのは2時を回っていた。寮に帰り着いたのは深夜、この時ほど紀伊半島の“深さ”を感じたことはなかった。
 この大台ケ原は、現在自然保護のため厳しい入山規制が敷かれている(平日30人、休日50人)が当時特別な制限は無かったように思う。
 この年のもう一つの思い出は、鈴鹿サーキットへ“鈴鹿1000キロ”を観戦に出かけたことだ。当時最も長距離を走るエキサイティングなレースである。和歌山→五条→天理と24号を走り25号線に入って亀山に向かう。この25号線はもうこの時自動車専用道路になっていた(現在の名阪自動車道)。
 ルマン式スタート(ドライバーがコースの反対側からパドック前に並べられた自車に向かって走り、エンジンをかけてスタートする)、甲高い排気音を発しながら疾走する、ポルシェ・カレラ、トヨタS2000、スカイライン2000GTBなどのレーシングカーを初めて目にしたのも此処である。本格的なカーレースの迫力に酔いしれた一日だった。
 熊野街道・十津川街道を走破したのは、昭和43年春の職場(建設部設計2課)レクリエーションの時である。秋のスタートアップを控えてプラント建設真っ盛り、特に実質的には日本初といっていいDDC(Direct Digital Control;コンピューターで直接プラント操作機器を制御する)を採用し、このシステム導入の担当者として多忙な毎日を過ごしていた。ビジネスマンとして、エンジニアとして、当に竹の一節とも言える年であった。
 この時のレクリエーションは、モータリゼーションもかなり進み車がベース。ルートは、初島をスタートして、42号線を串本まで下り潮岬で一休み、宿泊目的地は海中露天風呂で有名な紀伊勝浦の「浦島」である。天気もよく全線舗装で快適なグループ走行を楽しんだ。翌朝は来た道を戻るグループと新宮から熊野川を逆行、熊野本宮を詣でて十津川村を経由して五条から紀ノ川沿いに和歌山へ向かうグループに分かれた。
 新宮から本宮手前までは昭和36年の夏休み学友MNとバスで旅した道である。7年前未舗装だったところも経済成長のお陰で良い道に変じている。本宮参りはこの時が初めて。有名な割には極めて質素で、いかにも古さ(崇神天皇;紀元前29年)を偲ばせている(無論こんな紀元前のものとは思っていなかったが、実は今回出かけて知ったのだが、この神社は明治22年までは熊野川の中洲に在ったものが、大水(明治以降の森林乱伐が因らしい)で流され、それ以降ここに再建されたことを知った。)。この権現のお使いは日本サッカー協会のマークになっている八咫烏(やたがらす)である。
 ここからしばらくは舗装されていたが、十津川村の前後かなりの範囲は橋を除けばほとんど未舗装、いかにも貧しい山奥の佇まいが続く。都落ちした公家・武人が再起を期して身を隠すには格好の場所とも言える。維新に一足早すぎた攘夷派「天誅組」が逃げ込んだのもこの地である。

 三桁の国道を走る楽しみを存分に教えてくれた、この貴婦人とのお付き合いもその年の秋終わる。

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